江戸時代利根川の水害と復旧工事の 復元的研究...

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河川整備基金助成事業 助成番号 18-1216-6 号 江戸時代利根川の水害と復旧工事の 復元的研究 報告書 葛飾区郷土と天文の博物館 橋本直子 1

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Page 1: 江戸時代利根川の水害と復旧工事の 復元的研究 報告書public-report.kasen.or.jp/181216006.pdf2.2寛保の水害 保の水害は江戸中期の著名な水害であるが、史料に基づいた当該地の被災状況を総

河川整備基金助成事業

助成番号 18-1216-6 号

江戸時代利根川の水害と復旧工事の

復元的研究 報告書

葛飾区郷土と天文の博物館 橋本直子

1

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目次

1.研究の目的と手法

1.1 目的

1.2 資料と方法

2.寛保の水害

2.1 江戸・東京の水害

2.2 寛保の水害

(1)江戸の被害

(2)葛西領上小合村絵図にみる被害

2.3 大名御手伝普請

(1)細川藩

(2)萩藩家臣吉川家

3.利根川上流部にみる伝統的河川工法

3.1 地方書にみる伝統的河川工法

3.2 絵図にみる伝統的河川工法

(1)地域概況

(2)史料

(3)絵図にみる伝統的河川工法

3.3 水害絵図とハザードマップ

4.まとめ

(1)結果

(2)現在の河川行政のかかわりと現代的意義

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1.研究の目的と方法

1.1 目的

坂東太郎の名をもつ利根川は、上越国境の大水上山を水源とし、長さは信濃川に次ぐ

全長 322 ㎞、流域面積は日本最大の 16,840 ㎢を有す大河である。利根川の流路は、過去

から現在に至るまで複雑な変遷を遂げてきた。

特に16世紀から17世紀前半約 100 年間の河道変遷はめまぐるしく、会の川・浅間

川・新川通と次々に幹川が移された。1621(元和7)年、新川通と赤堀川の一番堀

が開削される。その後数次にわたる拡幅工事により、まったくの別水系であった利根川

と常陸川が結ばれ、太平洋に注ぐ現在の利根川の流路が定まった。この複雑な河川改修

工事をいわゆる「利根川東遷事業」という。同時期、1629(寛永6)年元荒川から

荒川への瀬替、さらに1635-1641 (寛永12-18)年の江戸川開削など大規

模な河川改修が行われた。

利根川上流域の水害は、現在進行しているスーパー堤防の建設や首都圏外郭放水路の

完成に象徴されるように、首都圏防災上の重要課題のひとつである。これは17世紀初

頭、江戸に幕府が開かれて以降、明治・大正・昭和、さらに現在に継承されている。従

って利根川上流域の水害の実態の解明は、東京都はじめ現在の利根川・江戸川流域にお

ける水害の想定上もきわめて有益である。

明治時代以降の水害は、1910(明治43)年や、1947(昭和22)年カスリ

ーン台風など記録や写真があるが、江戸時代の水害は対象となる全地域に古文書や絵図

が残されているわけではない。また、近代技術による治水工事が実施される以前、河川

の制御や災害復旧に用いられた伝統的河川工法の事例研究は、歴史学や河川工学の分野

でもあまり行われていない。

そこで本研究は、18世紀半ば寛保年間の水害の際、江戸幕府の命により災害復旧に

あたった大名家の御手伝普請の史料から、被災状況、当該地での復旧工事に用いられた

伝統的河川工法を解明することを目的とした。

1.2 資料と方法

江戸時代の利根川の水害に関する資料に、大名御手伝普請史料がある。大名御手伝普

請とは、江戸幕府が城郭・河川・寺社・御所の普請に対して特定の大名に工事を命じた

もので、材料は幕府が、その資材運搬や労働力を大名が負担した。これらの史料は御手

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伝普請に携わった諸藩の史料のなかに残されている。

1742(寛保2)年の水害による利根川流域の災害復旧には、西国大名10藩が御

手伝普請にあたった。なかでも萩藩家臣岩国吉川家には、担当した地域の災害復旧にか

かわる良好な絵図が残された。

本研究の分析の視点および手法は、以下の4点である。

(1)1742(寛保2)年「寛保の水害」の利根川流域について、萩藩家臣岩国

吉川家文書(山口県岩国徴古所蔵)のうち、絵図を分析し、堤防決壊や河道締

切箇所に用いられた伝統的河川工法を特定する。

(2)上記水害の古利根川流域については、細川藩文書(財団法人永青文庫熊本大

学附属図書館寄託分)から普請経緯を解明する。

(3)その他の水害に関わる絵図・瓦版などの絵図資料、及び伝統的河川工法の実

施例及び模型等の所在確認調査を行う。

(4)絵図を史料として解読するため、絵図に描かれたすべての情報を写し取るト

レース図は、4×5・6×7サイズで撮影したカラーポジフイルムをデジタル

化し、IIIustratorCS2 で作図した。

2.寛保の水害

2.1 江戸・東京の水害

16世紀、江戸時代以前に利根川本流が流れ込んでいた現在の東京低地には、江戸川・

中川・荒川とその放水路、綾瀬川の諸河川が流入している。

沿岸部は17世紀(江戸時代)以降、今なお継続している埋立・干拓に伴う造成地と、

その間に開かれた人工水路(運河)が縦横に存在する。この地形的な特性から、東京低

地は河川による氾濫や高潮などの水害に見舞われてきた(表1)。

江戸時代の災害を列挙した瓦版「火災・地震・洪水番付」(千葉県立関宿城博物館)の

「洪水部」には12件の水害が挙げられている。内訳は、諸国1・中国1・関東7・江

戸2・長崎 1 である(史料1)。

寛保の大洪水は前頭五番目に位置し、弘化の大洪水ともに年次が一年ずれて記載され

ている。これは瓦版という史料が即製の印刷物で厳密性を欠いているためである。

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表1 江戸・東京に達した利根川の洪水

×…破綻 ○…氾濫

西暦 年号 旧暦(新暦) 中條堤 権現堂堤 東京低地 備考

1 1631 寛永8 9月 ×破堤

2 1723 享保8 8月(9月) ×破堤

3 1736 元文1 8月 ×破堤

4 1742 寛保2 8月(9月) ×破堤

5 1757 宝暦7 4~5月 ○氾濫 ×破堤 幕府による宝暦治水調査

6 1786 天明6 7月(8月) ×破堤 ×破堤向島、本所、深川、千住、牛込、小石川

洪水により浅間山噴火物が全川に及び利根川河状大変化する

7 1791 寛政3 8月(9月) ×破堤 権現堂川堤防の補強工事

8 1802 享和2 6~7月 ○中条堤越水 ×二ヶ所 葛西一帯、深川 翌年権現堂堤の復旧成る

9 1823 文政6 6月 ○(上川上) 権現堂川、江戸川流頭の堤防補強

10 1845 弘化2 7月(8月) ○

11 1846 弘化3 6月(8月) ×破堤向島、本所、深川、葛飾、浅草

12 1859 安政6 7月(8月) ×破堤 葛飾

13 1868 明治1 7月(9月) ×破堤

14 1890 明治238~9月 ×破堤 ×破堤

15 1907 明治408月 ×破堤 利根川第二期改修工事

16 1910 明治438月 ×破堤 被害あり 利根川第三期改修工事

『利根川治水の変遷と水害』(1981 大熊)から作成

されたことによる。一方権現堂

多く起こっている。

江戸・東京にとって水防の要は、利根川上流部右岸の埼玉県熊谷市にある中条堤と埼玉

幸手市の権現堂堤である。この二つの堤が同時に決壊したのは、1786(天明6)

年と1890(明治23)年であった。

中条堤の方に決壊や越水が多く見られ

るのは、治水上この付近一帯が遊水地と

して設定

の決壊は5回であった(3章参照)。

1947(昭和22)年9月のカスリ

ーン台風の決壊場所は、中条堤でも権現

堂堤でもなく、1621(元和2)年に

削された現在の利根川の幹線である新

川通りであった。

東京低地では、このほか隅田川・江戸

川・中川・綾瀬川からの洪水のほか、近

代以降は内水被害も

【史料1】「火災・地震・洪水番附

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2.2 寛保の水害

保の水害は江戸中期の著名な水害であるが、史料に基づいた当該地の被災状況を総

体的に分析した研究は少ない。

区や深川の運河に沿った地域は、拡大した江戸の市街

激な都市化の進行とともに残存率は

寛保の水害は、1742(寛保2) 年7月末から8月初旬にかけて、近畿・関東・北

陸を襲い、甚大な被害をもたらした(図1・2、表2)。

約 54.5m)の隅田川の堤、

区)方面へ救助船による救援を開始

壊し、再び葛西領は浸水した。この葛西領の窮状をうけて、関東郡代伊奈半左

人収容小屋、炊出小屋を設置し、罹災民の救助にあたった。

寛保の水害の江戸における被災地は、葛西領といわれる隅田川以東の低平な地である。

葛西領の西部にあたる現在の江東

として江戸の町場となっていた。寛保の水害で記される「江戸」とはこの地域で、武

士の居住地でもあったため比較的史料も残る。

一方、葛西領の大部分は農村部で、江戸幕府による支配の単位である村には当時の行

政文書にあたる「古文書」が残されたが、水害や急

わめて低い。

本章では江戸における被害状況を考察する。

(1)江戸の被害

関東では、7月27日から降り出した雨が、8月1日から2日にかけて暴風雨となっ

た。これにより、寺嶋村(現墨田区)白鬚神社南方 30 間(

谷野村内(現葛飾区)および千住三丁目(現足立区)内の綾瀬川の堤が決壊し、葛西

領や本所(現墨田区)付近は一円満水となった。

8月2日夕方、風雨は一旦終息した。

8月4日、幕府は本所(現墨田区)・深川(現江東

する。

8月5日、利根川通りの八甫堤(現埼玉県北葛飾郡鷲宮町)・権現堂堤(現埼玉県幸手

市)が決

門は、6日救助船 60 艘を派遣し、約 7000 人分の粥を炊いて配給した。

8月8日、一旦終息したかにみえた暴風雨が再度関東を襲い、更なる被害をもたらし

た。

幕府は、隅田川に架かる新大橋・両国橋(現墨田区・中央区)の付近に救助者収容小

屋や飢

8月12日、排水が開始され、施行小屋等も撤去された。この水害による江戸市中の

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死者は7日時点で約 4000 人にのぼり、葛西領の百姓 2000 人が行方不明になったといわ

1 寛保2年8月15日時点の葛西領の被災状況

る。

7 7

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① 榛名山麓 吾

② 妙義山・荒船

③ 伊勢崎周辺

④ 太田・館林周

⑤ 忍(行田周辺

⑥ 秩父・熊谷周

⑦ 東松山・川越

⑧ 栗橋周辺~日

⑨ 関宿 利根川

⑩ 足利・佐野・

図2 寛保洪水の進路図

妻皮流域→利根川

→神流川→利根川

川中流域→隅田川→江戸湾

川→中川→江戸湾

根川→銚子→太平洋

川 鏑川流域→烏川

利根川

辺 利根川左岸

) 利根川右岸

辺 荒川上流

周辺~江戸 荒

光街道沿い~江戸湾 利根川中流域→古利根

中流域・江戸川流頭

古河・渡良瀬川 下利

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表2に示された被災状況を分析すると、寛保の洪水の江戸における水害は4期にわけ

月27日から8月 1 日 隅田川の破堤による浸水

戸固有の水害であった1期と、利根川・荒川・古利根

寛月

表2 江戸・葛西領の被害状況

保2年洪水被害状況日 天気 天候状況 江 戸 被 害 葛西領の被害 対策・救済27雨

午後4時頃より雨、6時頃より雷、大雨。夜中雨。

28 雨 雨降り続く。29 晴時々雨 時々雨降る。1

大雨正午ころから4時頃まで東南烈風、その後大風雨。

*隅田川土手切れる武家屋敷や町家が風で壊れ、築地・品川に碇泊の船が破損。  大川通の水勢激化。

猿ヶ俣土手押切小菅御殿・江戸表洪水。

葛西・本所筋の洪水を防ぐため、川上破損以前に猿ヶ俣土手の川下を切る。

2 雨、夕方晴 午前5時頃より風雨静まる。 *今戸橋流失3

*利根川上流増水*浅草川出水両国橋・新大橋・永代橋破損。下谷・浅草・本所辺出水。

*寺島村白鬚社南方の隅田川の堤決壊*小谷野村内綾瀬川の堤決壊*千住三町目内綾瀬川の堤決壊小菅村から本所付近浸水。柳島村辺りより亀戸村の間と下平井・上平井辺りの水の高さが壱丈二三尺。

新大橋・永代橋等の通行を禁止。新大橋・両国橋東西に各2艘、合計8艘の渡船を置き、橋の仮修復をなす。

4晴

上州筋利根川切口より水押し来る。

両国橋東西1艘ずつ増加。本所・深川方面の避難者救助船を38艘出す。

本所辺り一円満水。 *利根川通り八甫堤・権現堂堤決壊葛西領へ浸水。旅所橋続亀戸通拾間川端の水位六七尺。

船手の救助船も出て、水戸侯等の船でも救助。新大橋の仮修復が終り、すぐに避難者の通行を許す。

晴時々雨 昼過ぎ、午後4時頃夕立。

両町奉行が本所・竪川辺り見分。伊奈半左衛門から葛西筋に助船60艘。7000人分程の粥を炊き配給。町々の茶屋に焚出しを命じ

7晴

7日までに溺死者およそ3914人(男1314人・女2000人・子供600人)。

葛西の百姓を調査したところ、およそ2000人が行方不明。

前日同様施行焚出し。先手久松定郷を盗賊改めに補し、罹災地の警戒にあたらせる。

大雨朝から小雨、昼時より大雨。北風激しい。夜中2時頃風雨やむ。

*神田川漲溢目白・駒井町埋樋崩壊。*大洗堰土手潰れ牛込領に浸水。*音羽町九町目上水堤決壊小日向筋浸水、床上5尺。

*江戸川出水 川船役所が江戸町々の船の出動を命じる。

9晴後雨

新大橋西方橋詰辻番所前の空地に救助者収容小屋設置。

10 雨 両国橋空地に飢人収容小屋完成

11 雨 新大橋際空地に焚出し小屋設置

12晴後雨 夕方より夜中雨。

排水に着手。施行小屋撤去、施行終了通達。

『東京市史稿變災篇第二』より作成

れる。

1期 7

2期 8月4日 利根川の中条堤・荒川の破堤による浸水

3期 8月5日 古利根川八甫の破堤による洪水流による

4期 8月8日 神田川による江戸市中の浸水

江戸川出水

江戸における寛保の水害は、江

川・江戸川すべての影響をうけた2~4期の、ふたつのピークがあった。

9

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(2)葛西領上小合村

水害を検証する古文書類は、葛西領のように幾度も水害に見舞われ、都市化が進んだ

設けられた小合溜井(現水元公園)の南岸

料1】1742(寛保2)年10月 上小合村切所絵図(葛飾区登録文化財)

破堤の場所は、 る。

宗七」

この絵図の中央部に黒々と描かれたものは堤防であるが、その南端部の堤の両方にふ

地域には現在ではほとんど残っていない。

そのなかで古利根川の旧河道を締め切って

位置する葛西領上小合村(現葛飾区)には、破堤場所が明示された絵図類が残ってい

た。

【史

「切所 長弐拾五間 内 拾間 下小合村分 拾五間 上小合村分」

三年後に作成された、1745(寛延2)年の村絵図から特定でき

【史料2】1745(延享2)年 上小合村絵図(葛飾区登録文化財)

「亥春御普請土取場ニ相成候趣 中下畑合五反七畝拾歩 畑主

くらんでみえる池が、寛保の水害の破堤によってできた切所(池)である。破堤した長

さは、25 間(約 45m)であった。さらに池の東に桃色で彩色された部分は、宗七の畑地

であったが、水害の翌年(亥春)堤防普請の「土取り場」となったことがわかった。

史料2

史料3

×破堤場所 ×

×

10

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2.3 大名御手伝普請

保2)年10月6日、同年7・8月の洪水による被害場所の

特定の大名に手伝いを

域の災害復

ては3章で考察をする。

(1)細川藩

細川藩は、御手伝普請を命じられた大名のうち最大の領有高を有した。

庄内古川・

うな絵図面はまだ所在が確認されていない。史料も

人の到

全家臣

八分通り完成した。

であること

、4月12日に終了している(2章参照)。

全員高久

江戸幕府は1742(寛

請を肥後熊本藩主細川越中守ほか9名の西国大名に命じた。

大名御手伝普請とは、城郭・河川・寺社・御所の普請に対して

じたもので、材料は幕府が、その資材運搬や労働力を大名が負担した。

本節では、江戸の災害地を担当した細川藩と、利根川右岸、現在の熊谷市

を担当した萩藩家臣吉川家の災害復旧系経緯を明らかにする。とくに吉川家には、該

当地域の村々で行った災害復旧の絵図面が多数残されている。古文書を主とする史料は、

國學院大學大谷貞夫氏が早くから着目したが 1)、近年はこの絵図を用いて河川

工学の分野からの分析が進められている。2)

なお、絵図に描かれた伝統的河川工法につい

担当した普請場所は、関東郡代伊奈半左衛門の支配地で江戸川・古利根川・

川・綾瀬川と葛西用水である。

細川藩史料には、萩藩吉川家のよ

大なため、ここでは「関東御出水ニ付川除御普請御手伝」(財団法人永青文庫所蔵 熊

本大学附属図書館寄託分)から、災害復旧の経過を考察した(表3・図3)。

幕府は、藩に11月21日に普請を開始するように指示したが、国元からの役

を待って、12月7日に着手された。年内の作業は同月20日で終了した。

翌寛保3年は、1月13日に高久村(現埼玉県吉川市)に設けられた元小屋に

集合した後、同月15日から普請が再開された。

普請は、3月4日時点で五分通り、同月21日には

4月23日に普請成就の届出を幕府に提出したが、圦樋43か所が未完成

理由に受理されなかった。

上小合村の破堤場所の普請は

4月29日に普請は残らず終了、翌30日に老中へ届け出て、閏4月6日に

の元小屋を引払い、約半年間にわたる御手伝普請が完了した。

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表3 細川藩の御手伝普請の経緯

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図3 細川藩の担当河川

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(2)萩藩家臣吉川家

寛保2年の御手伝普請は、萩藩主毛利大膳太夫宗広にも命じられたが、先例によって

家臣である周防岩国(現山口県岩国市)の吉川左京経永も特命を受けた。

萩藩の普請場所は、上野国が一部含まれたが、ほとんどが上利根川右(南)側の武蔵

国榛沢・幡羅・埼玉郡下の利根川沿線と、内陸部の島川・備前堀・見沼代用水地域であ

った。

このうち吉川家は幡羅郡妻沼附近(現埼玉県熊谷市域)を担当した。元小屋は、妻沼

村、出張小屋は葛和田村と出来島村に設置された。

吉川家の普請は、国元からの役人の到着を待ち、寛保2年11月29日から開始され

た。普請に従事した人員は、中間・足軽を含めると約 1700 人にもなった。細川藩と同様

に年内の作業は12月20日まで行なわれ、翌寛保3年正月15日から再開された。全

工事の完了は、細川藩よりも 1 ヶ月以上早い3月28日であった。

山口県岩国市の岩国徴古館には、担当した村々の災害復旧に関わる絵図や元小屋・出

張小屋の絵図が残っている。

岩国徴古館の絵図群のなかに御手伝普請で関東に赴いた際、入手した「関東八州一枚

之図」がある。このなかに、この絵図の用途が推察できる文言が記されていた。

【史料4】関東八州図(目録番号 V-3 303)

「関東八州一枚之図

寛保三癸亥春利根川御普請御手伝之時

公儀御普請役猪俣儀左衛門所持之図也」

この図は本来、治水担当役人である御普請役猪股氏が所持していたもので、御手伝普

請の際に吉川家の手に渡ったものと考えられる。

江戸時代の利根川の治水基本図は「関東川々絵図」である。これは、江戸を中心に据

えて、関東平野、いわゆる関八州と称された地域内の諸河川・用排水路、享保期の湖沼

干拓によって開かれた新田の位置などを描いた大型の絵図である。

「関東川々絵図」の初見は18世紀中期以降であり、「関八州図」の成立年代にやや遅

れて成立する。「関八州図」から河川情報を抽出したものが「関東川々絵図」である。現

時点では約20点の所在が確認されている。3)

江戸幕府は、江戸を守るため利根川諸河川の治水に並々ならない労力を投じた。関東

八州図は「御手伝普請」に徴用された諸大名家の現地におけるガイド的役割を果たした。

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【史料4】 関東八州図

3.利根川上流部にみる伝統的河川工法

「治水」とは、水の害を防ぎ、その利用目的に適合するように水を統制することをい

う。日本の川は、地形上急流の多いこと、台風・梅雨末期の集中豪雨や雪融け洪水を起

こしやすいこと、国土の大部分が崩壊しやすい第三紀層や花崗岩山地であるため大量の

土砂を押し流すこと、河床が土砂によって天井川となり堤防を破壊しやすいことなどの

特徴を持っている。洪水対策としては、堤防の構築、護岸水制、下流部の放水路、上流

部の砂防、中・下流域の遊水池、ダムの建設がある(地理学辞典)。

「伝統的河川工法」とは、日本各地において、それぞれの川の特性・特徴にあわせて

独自に発達してきた護岸・水制などの土木構造物をいう。これに対し近代以降、明治政

15

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府はヨーロッパの治水先進国であるオランダから技術者を招き、近代的な治水技術を導

入した。

この両者の河川工法は共存しながらも継承されたが、1950~60年代以降次第に

コンクリートブロックに代表される「近代的河川工法」にとってかわられた。

しかし1980年代頃から洪水防止に傾倒しすぎた河川づくりや自然環境に影響を及

ぼすダム建設へ批判的な意見が出され始めた。また都市水害の増加が新たな治水の課題

となった。こうした反省に立ち1990年代以降は、環境にやさしい河川工法が導入さ

れ、各地で「伝統的河川工法」を再評価する動きが継続している。4)

本節では地方書にみる伝統的河川工法を、吉川家史料の絵図で確認し、利根川上流域

での特色を考察する。

3.1 地方書にみる伝統的河川工法

「地方凡例録」は上野国高崎藩郡奉行を勤めた大石久敬が、1791(寛政3)年藩

主の命によって書き上げた地方実務の手引書である。当初は 16 巻が予定されたが、病気

のため未刊のまま 11 巻が残された。このうち9巻が治水にあてられている。

「地方凡例録」から関東関連の記載を抜粋してみる。

○川除には、大河・小河・石川・砂川・泥川・谷川の別があり、川幅の広狭・川瀬の

遅速・水制の強弱・川上の山沢・険阻によって工法に差があった。

○石川 上州上利根川・烏川と甲州・駿州・遠州とは水刎・岸囲・地留に差がある。

○泥川 関東 土出し萱出し等で水刎岸囲い

越後信濃川 土出し・萱出しはなく、杭出し・根杭

○江戸川・中川辺の立竹は大竹を葉付で切尖らせ、一坪に三本程泥中へ五の目に挿し

込み、藪のようにして岸囲いにする。尤も是は海口の汐除に用いることで、上川に

はない。

○上州烏川では、結倉といって笈牛に似たものがある。

○結倉は枠を省略したものであるという。烏川の村々では、結倉の外に笈牛・棚牛の

普請があることを知らない。また同川の取上口に、土俵で川を瀬切り、浮水あれば

莚・菰などを多く用い、水路に水を引く月の輪という普請がある。

地方凡例録にみる工法は以下のとおりである。

1. 石出/石川の荒川 沈枠

16

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2. 蛇籠出/石川・砂川

3.笈牛

4.大籠出/駿州富士川・阿部川、遠州大井川

5.棚牛/砂石川(甲州釜無川・笛吹川・駿州富士川・安部川・由井川・沖津川・

薬利川・朝比奈川・瀬戸川・遠州天竜川・谷川、相州酒匂川、上州利根川)

6.大聖牛/荒川で大石が流れる程の石川(富士川・大井川・天竜川、甲州釜無

の流れ・富士川の上、信玄時代からもとは甲州、享保の頃より大井川・天竜

川の川上)

7.枠出/甲州

8.尺木牛/甲州、谷川・小川

9.尺木垣/甲州

10. 棚木牛/谷・沢口

11. 菱牛

12. 杭出並びに杭柵/泥川 杭出 乱杭 杭柵

13. 根杭並びに置杭

14. 土出並びに羽口/関東第一の水制

下利根川・戸田川・中川・小

15.立竹

明治期に入ると、1871(明治4)年「堤防橋梁積方

1875(明治8)年「堤防溝恤志」、1881(明治1

7(明治30)年「水利真宝」が出されるが、基本は江戸時

ほとんど同じ図柄が用いられている。

【史料7】 1836(天保7)年 「算法地方指南

捨石・杭・蒔石

石出し・根かご・小石出

捨かご・捨杭・捨石

【史料6】 大聖牛之図「堤防溝恤志」

見川・絹川の泥川

大概」・「堤防橋梁組立之図」、

4)年「土木工要録」、189

代の工法を踏襲したもので、

」(千葉県立関宿城博物館)

17

萱出し・杭出し・柵出し・籠出し・石出

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【史料8】 1876(明治9)年 「堤防溝恤図」(埼玉県立川の博物館)

地形籠之図

籠出之図 沈枠之図

【史料9】1890(明治23)年「堤川除普請心得」

(埼玉県立川の博物館)

杭出之図

18

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【史料10】1871(明治4)年「堤防橋梁組立之図」(埼玉県立川の博物館)

萱羽口・土出

弁慶枠

腹籠

立籠

棚木枠

尺木牛 中聖牛 大聖牛

及牛 菱牛 川倉

合掌枠 尺木垣 棚牛

1881(明治14)年の「土木工要録」は、近世で用いられた伝統的河川工法の集

大成であるが、10年前の「堤防橋梁組立之図」の各図と図柄は同一である。近代以降

もかなりの期間、伝統的河川工法は継承されたことが、埼玉県の資料や1897(明治

30)年「水利真宝」からもわかる。

19

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【史料11】明治9年「埼玉県御布達書」(千葉県立関宿城博物館)

「甲第百六号

利根川・荒川、其余川々於テ、川除普請所ニ取設有之牛枠・杭木等ヲ乱ニ抜取、

又ハ水除ヲ破却シ、或ハ堤塘ヲ崩壊スル者有之哉ニ相聞ヘ、甚以不相済事ニ候以

来、右様ノ所業致候者有之ニ於テハ、相当ノ可及処分候条、必ス心得違致間敷、

此旨布達候事

明治九年十二月十三日 埼玉県令白根多助」

【史料12】河倉・牛枠「堤川除普請心得」

3.2 絵図にみる伝統的河川工法

(1)地域概況

吉川家が担当した地域は、利根川上流部、福川が利根川に合流する現在の埼玉県熊谷

市(旧妻沼町域)であった(図4)。葛和田から俵瀬の利根川右岸には堤防はなく、対岸

の利根川左岸邑楽郡古戸・下五箇間には1595(文禄4)年延長 1 万 8339 間・総計 8

里余の文禄堤が築かれている。上流部では1604(慶長9)年備前堀が開削されてい

る。

北河原の下流の利根川には、酒巻・瀬戸井狭窄部があるが、以北の利根川右岸には連

続堤はないため、氾濫遊水した水流は無堤地帯から妻沼低地に流入し、熊谷扇状地との

扇端と狭窄部の間を流下した。

また上流部利根川からの洪水流は備前堀-小山川-福川から容易に星川へ達する。中条

堤は、この流下を支えるため17世紀初頭に築造されたという。

中条堤は、北河原・上中条・四方寺の3か村にまたがる堤の総称である。初期は、北

河原・上中条村の堤を中条堤(古堤)といった。1731(享保16)年の見沼代用水

の開削に伴い、上中条堤の西にさらに四方寺堤 (新堤)が増強された(図5)。

20

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中条堤の整備は近世における利根川の治水・利水事業と深く関わっている。1457

(長禄2)年、江戸城を築いた太田道灌が葛和田から東南に向かう星川・綾瀬川に入る

流路を締め切ったという説(根岸門蔵『利根川治水考』)は、中条堤の有無で可能性が出

てくる。

星川は利根川・荒川両方の影響を受ける河川であるが、上星川によって荒川の用水と

なるのは17世紀半ば(万治年間)以降である。中条堤は利根川上流域の河道変遷の確

定とともに総体的な視点からの考察が必要である。5)

1880年迅速測図より作成

図5 中条堤の耕造

図4 吉川家担当地域

21

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(2)史料

伝統的河川工法の検討に用いた岩国徴古館所蔵の御手伝普請に関する史料は、「武州上

利根川御普請手伝所絵図」(目録番号・十七-89)38点である。6)

表4は、古文書も含む38点の史料中、元小屋の図面などを除く24点の絵図にみら

れる伝統的河川工法を出したものである。

これらの絵図にみられる伝統的河川工法を、絵図別に表4に示した。

表4 絵図にみられる伝統的治水工法

みられる工法

1 寛保3年4月 武州旙羅郡勘清寺堰絵図 萱羽口・洗竹杭・杭

2 勘清寺堰図 萱羽口堰枠・懸樋・竹洗流・杭籠・洗堰

3 武州埼玉郡北河原村御普請所絵図 築建・上置腹附・定杭

4 武州埼玉郡忍領北河原地内関枠御普請出来立平差図 萱端口・堰枠

5 寛保3年4月 武州埼玉郡北河原村絵図 築立・内外腹付・関枠

6 無題(北河原村押堀埋立図) 川表腹付・堤内腹付・川表羽口・水際羽口・杭打

7 寛保3年4月 武州埼玉郡四方寺村上中条村北河原村地内関枠絵図 腹付・萱羽口・并杭・?・竹洗

8 中条村御普請所図 築立・腹付

9 四方寺村御普請所図 築立

10 上利根川通葛和田村絵図 築立・腹付・杭?・?杭

11 善ヶ嶋図 御普請所ニ而□し平図 片腹付

12 善ヶ嶋村御普請所図 築立・片腹付

13 上利根川通善ヶ嶋村絵図 上置腹付

14 寛保3年4月 上利根川通俵瀬村絵図 萱出・杭出

15 俵瀬村御普請所図 通萱羽口・萱出・大萱出・杭出

16 武州旙羅郡出来嶋村御普請所絵図 築建・萱端口

17 寛保3年4月 上利根川通出来嶋村絵図 上置両腹付・羽口・並杭・杭出・棚牛・竪篭・敷籠乱杭・杭〆

18 出来嶋村御普請所図 築立・上置両腹付・并杭・乱杭?・棚牛・竪籠・根堅・鞍掛

19 照岩寺村押堀埋立図 腹付・川表羽口・水際羽口・杭打

20 照岩寺村押堀埋立図 腹付

21 妻沼村御普請所図 築立・腹附・羽口・并杭・杭出

22 寛保3年4月 上利根川通妻沼村絵図 築立・并杭・杭出

23 武州旙羅郡間々田村御普請所絵図 築立・上置腹付・棚牛・五通乱杭

24 武州旙羅郡間々田村(御普請所絵図) 築立・腹付・棚牛・敷籠

絵  図  名 

22

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(3)絵図にみる伝統的河川工法

本節では吉川家絵図をデジタル化し、IIIustratorCS2 で作図したトレース図を用いて

各村毎の災害復旧に用いられた伝統的河川工法を検討した。

絵図のトレース図を作成する技術は高度なため、全体図のトレース図の作業が終了し

ないものが多く、部分図で対応した。

① 妻沼村(部分)

利根川右岸には、赤く描かれた部分は萱羽口が用いられている。

それ以外には杭出・柵杭が使われている。

絵図をみると、利根川と集落は黒く描かれた二本の堤防で守られているが、黄色が

破堤した部分である。

破堤したところには切所の池がある。

【絵図1】上利根川通妻沼村絵図 寛保3年4月

23

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② 葛和田村(部分)

利根川右岸の無堤地帯に位置する。

利根川右岸には、杭出がある。

砂地と思われ部分に赤く描かれた工法は

不明である。

利根川の南側の河道右岸には、笧杭が

330 間(約 594m)にわたって施された。

笧杭

【絵図2】上利根川通葛和田村絵図

1880 年迅速測図

24

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③ 俵瀬村(部分) 1880 年迅速測図

北接する葛和田村とともに無

堤地帯に位置する。

村の南で福川が利根川に流入

する。その背後に中条堤が控え

る。

絵図には、萱出しと杭出がみ

られる。

杭出は、川中の出洲付近に平

行して4列ある。

【絵図3】上利根川通俵瀬村絵図 寛保3年4月

25

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④ 出来島村(部分) 1880 年迅速測図

妻沼村の上流に位置する。

川上の間々田村とともに、利根川はこの付

近でしばしば流路を変えていた。

1880(明治13)年の迅速測図でも、

間々田村の北に旧河道があり、出来島村から

川下では本流が二股に分かれているのがわかる。

出来島村の伝統的治

水工法は、棚牛・土籠・

である。

絵図の上流部、小山

川が利根川に入る部分

には、敷籠・乱杭が、

堤の切所には杭出がみ

【絵図4】

られる。

上利根川通出島村絵図 寛保3年4月

26

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⑤ 間々田村(部分)

間々田村は出来島村のさらに上流に位置する。

は16組の棚牛が用いられた。

で分断され、切所の池である押堀ができている。

絵図5】武州旛羅郡間々田村御普請新所絵図

絵図6】武州旛羅郡間々田村(御普請新所絵図)

同一場所を描いた二つの絵図から、古川の締切に

原部分には敷籠の列がある。

小山川に沿う部分の堤防は各所

27

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⑥ 勘清寺堰

勘清寺堰は、妻沼村の南、弥藤五村を取り巻く

萱羽口・敷籠。使われた蛇籠は、

(約 21.6m)・幅1尺(約 33cm)の蛇籠が敷籠に18本、

は、棚牛のような構造物で補強されている

【絵図7】勘清寺堰図 寛保3年4月

以上、絵図の考察から、1742年の寛保の水害では、妻沼村を境にして災害復旧に

る、萱出し・杭出しである。

る。

河川

1880 年迅速測図

水である。

洗堰には小口

長さ10間(約 18m)・幅1尺(約 33cm)が敷籠

に18本、重籠に2本。

竹洗堰には、長さ12間

重籠に4本使われた。

勘清寺の東の裏門付近

いられた工法に違いがみられることがわかる。

妻沼・葛和田・俵瀬村の工法は、泥川に用いられ

これに対し、上流の間々田・出来島村では、砂石川に用いられる棚牛・土籠であ

妻沼を境に、洪水流で運ばれた石や砂の堆積の状況が異なることが判明した。

なお、これらの絵図に大聖牛や中聖牛がみられないことも、利根川上流の伝統的

法の特色である。

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18

ードマップ

は、利根川・渡良瀬川・

がしやすいように、

で描いた部分は

生領悪水路に

3.3 水害絵図とハザ

岩国徴古館にある「関東川々御普

手伝場所図面」は、寛保水害時の島

中川辺領13か村(現埼玉県北葛飾郡

栗橋町域)の災害復旧場所が描かれた

図である。

島中川辺領

現堂川の新旧河道に囲まれた極めて

低い地勢である。

トレース図と対比

図の河川名を1880(明治13)

年の迅速測図上に示した。

トレース図において薄緑色

権現堂川の西(左)岸にあたる小右衛門堤

水しているようすがわかる。破堤は636

(約 5.28m)であった。70軒あった家の

佐兵衛堤はかつての利根川河道であった浅

(約 3.63m)であった。

なお、領内最大の水深は、羽

【史料13】関東川々御普請御手伝場所

「 武州葛飾郡嶋中川辺量十三ヶ

堤廻り三里程

石高四千四百

広サハ壱

内江切レルハ小右衛門堤と佐兵衛

其余ハ悉く内より外江押切り候由

河川からの洪水による破堤箇所が2か所で

て外への破堤であったという指摘は重要で

に多くの「渕」と記された池が点在すること

に沿って分布することも、土地が北に向かっ

赤堀川

権現堂川

羽生領悪水落

利根川

古利根川

80 年迅速測図と絵図の河川の対照図

、破堤によって堤が切れた場所である。

深さは 1 丈2

沿う狐塚村の3丈6尺(約 10.9m)である。

石程

領内から川へ向か

の破堤は大きく、堤を押し破った水が広く

間(約 1124.8m)に及び、深さは1丈6尺

うち36軒が流失している。

間川にあたる部分に位置し、

図面(目録番号・十七-95)

村之図

万五千

堤斗也

、ほかはすべて嶋中川辺

ある。トレース図をみると、嶋中川辺領内

からもわかる。また「渕」は、「古利根川」

て低くなっていることを示している。

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権現堂川については、「利根川東遷事業」のなかで、1641(寛永18)年の開削が

ば、今後想定できる水

【絵図7】 関東川々御普請御手伝場所図面

説化しているが、細部にあたってはなお考察が必要である。

絵図に示された破堤場所が、河川のたどった過去の履歴であれ

を予測する手段になりうる可能性を示しているといえる。

30

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(山口県岩国徴古所蔵)の絵図に基づき、1742(寛保2)

、やや上

付川除御普請御手伝」(財団法人永青文庫所蔵

た。

は、高度な作

1 現在の河川行政とのかかわりと現代的意義

防の建設や首都圏外郭放水路の完

の水害は、対象となる全

た伝統的治水工法は、近代以降西洋の治水技術導入後も共存して、

代以降は、洪水防止に傾倒しすぎた河川づくりや自然環境に影響を

.まとめ

4.1 結果

① 萩藩家臣吉川家文書

の水害について考察を行った。利根川上流部の妻沼・葛和田・俵瀬・間々田・出来島

村の災害復旧に用いられた伝統的河川工法をみると、次の特色が判明した。

妻沼・葛和田・俵瀬村の工法は、泥川に用いられる、萱出し・杭出しであり

流の間々田・出来島村では、砂石川に用いられる棚牛・土籠であった。大聖牛や中聖牛

はみられなかった。この工法の差は妻沼を境にして、利根川に水害で運ばれた石や砂の

堆積の状況が異なることが判明した。

② 細川藩については「関東御出水ニ

本大学附属図書館寄託分)を解読した結果、担当した江戸川・古利根川・庄内古川・

中川・綾瀬川と葛西用水の流路の確定と、普請経過が判明した。

③ 「寛保の水害」以外の史料・絵画資料については、別表にし

④ 絵図を史料として解読する IIIustratorCS2 によるトレース図の作成

であるが、解読することによって河川周辺の微地形にもかかわる情報が得られた。今

後迅速測図や空中写真との照合により、精度の高い水害状況の復元が可能である。

4.

利根川流域の水害は、現在進行しているスーパー堤

に象徴されるように、首都圏防災上の重要課題のひとつである。これは17世紀初頭、

江戸に幕府が開かれて以降、近代・現代に継承されてきた。

近代以降の水害は、記録や写真が残されてくるが、江戸時代

域に古文書や絵図が残っているわけではない。しかし、1980年代以降の自治体史

編纂の成果や、博物館・資料館などでの情報公開が進み、空白だった地域の史料が確認

されてきている。

江戸時代に確立し

良を加えながら有効な手段として継承されていたが、1970年代前後にコンクリー

トブロックに代表される「近代的治水工法」にとってかわられ、その技術の継承も途絶

えたかにみえた。

しかし1980年

31

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井川、また関

なってしまった

1

3

4

6

ぼすダム建設へ批判的な意見が出され始め、また都市水害の増加が新たな治水の課題

となってきた。こうした反省に立ち1990年代以降は、環境にやさしい治水工法とし

て各地で「伝統的河川工法」を再評価し復活する動きが継続している。

本報告のための調査で実際に現地に赴いた富士川・釜無川・笛吹川、大

圏では多摩川支流の秋川・成木川、栃木県の那珂川に伝統的河川工法が復活されてい

る。さらに全国多くの河川にその事例をみることができる。また、黒部川では伝統技術

の継承のため竹蛇籠と川倉の制作を実際の水防訓練で実施している。

昨今の急激な環境変化のなかで、私たちは日々の生活のなかで疎遠に

川と人間の関わりを、再考する時期を迎えている。

2

5

平成19年度黒部川水防訓練における伝統的河川工法の実演

) 大谷貞夫『近世日本本治水史の研究』雄山閣出版 1986 年 9 月、『江戸幕府治水政

史の研究』雄山閣出版 1996 年 10 月。

埼玉県妻沼地先に着いて)では絵図と文書

)

) イテック 2002 年 1 月、『日本の伝統

の変貌について」の口頭発表があ

)

州上利根御普請手伝所絵図」について、1 点ごとの確定番号を決定する作業を

の引用による。

・朝日町の各消防団による 竹蛇籠は黒部川竹蛇籠保存会、川倉は富山県黒部市・入善町

利根川歴史研究会 平成 14 年度河川整備基金助成事業『利根川歴史研究(その5)報

告書』寛保三年(1743)当時の利根川右岸堤(

から堤防の状況について詳細な考察がある。

橋本直子 平成 16 年度河川整備基金助成事業「江戸時代における河川絵図の研究」

富野章『日本の伝統的河川工法[Ⅰ]信山社サ

的河川工法[2]信山社サイテック 2002 年 2 月、

) 最新の報告では、平成19年7月20日第 50 回歴史地理学会において、松尾宏・小

林寿朗による「明治43年洪水と中条堤及びその後

る。

今回の調査にあたり、目録上一括で 38 点とされて個別の枝番がなかった「十七-89

武州上

岩国徴古館学芸員松岡智訓氏と行った。

本報告書の図表は、平成18年度葛飾区郷土と天文の博物館特別展図録『諸国洪水・

川々満水-カスリーン台風の教訓-』から

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付表 水害及び伝統的河川工法関連資料一覧

NO. 資  料  名 時  代 形態・法量(cm) 所    蔵

1 火災地震洪水番付 51.0×31.0 千葉県立関宿城博物館

2 権現堂堤切レ絵図 享和2年(1802)  39.1×55.8 個人蔵

3 関東洪水絵図 享和2年(1802)  55.4×46.1 個人蔵

4 茨城県下総国猿島郡五霞村全図 明治18年(1885)   128.0×86.0 五霞町

5 近郷近在江戸大風雨出水場所分 安政3年(1856)   36.0×48.0 千葉県立関宿城博物館

6 瓦版(利根川戸田川筋土手切) 弘化3年(1846)  25.0×34.0 千葉県立関宿城博物館

7 瓦版(栗橋幸手杉戸近郊洪水之図) 弘化3年(1846)   31.0×42.0 船橋市西図書館

8 摂河洪水之図 享和2年(1802)   38.2×52.9 個人蔵

9 摂河水損村ニ改正図 享和2年(1802)   54.4×75.4 個人蔵

10 大出水ニ付飢人御救急夫食頂戴仕帳 個人蔵

11 各国洪水飛報 52.9×37.7 埼玉県立川の博物館

12 埼玉県水害略史 明治23年(1890)  47.3×40.4 埼玉県立川の博物館

13 洪水被害録 明治版 明治29年(1896)   冊3 埼玉県立川の博物館

14 向島及ビ本所区水害一覧 明治29年(1896)   36.0×51.0 千葉県立関宿城博物館

15 治水3号権現堂号 明治39年(1906)  38.0×27.0 千葉県立関宿城博物館

16 洪水記録の木札[複製] 大正2年(1913)9月  13.7×4.0×0.1 埼玉県立川の博物館

17 「風俗画報」増刊370号  各地水害図絵 明治41年(1908)   26.0×19.0 千葉県立関宿城博物館

18 上小合村切所絵図 寛保2年(1742)  26.0×35.0 当館

19 上小合村絵図 延享2年(1745) 94.0×80.0 当館

20 関東川々御普請御手伝所図面 98.0×98.0 岩国徴古館

21 河川工事特に地方河川工事に就いて 大正11年(1922)  19.0×17.0 千葉県立関宿城博物館

22 萬年蛇籠説明書 24.2×16.1 埼玉県立川の博物館

23 奥州阿武隈川之絵図 巻子 個人蔵

24 粗朶歩合表 16.4×21.2 埼玉県立川の博物館

25 埼玉県御布達書  川除普請関係 明治9年(1876)  23.0×32.0 千葉県立関宿城博物館

26 土木工要録(天・地) 明治14年(1881) 18.5×26.0 千葉県立関宿城博物館

27 算法地方指南 天保7年(1836)   23.0×16.0 千葉県立関宿城博物館

28 堤川除普請心得 明治23年(1990) 26.9×19.0 埼玉県立川の博物館

29 堤防溝洫誌 明治9年(1876)   22.6×15.3 埼玉県立川の博物館

30 堤防橋梁積方大概 明治23年(1990) 25.8×18.0 埼玉県立川の博物館

31 堤防橋梁組立之図 明治4年(1871)  18.7×26.8 埼玉県立川の博物館

32 図解  水理真宝 明治30年(1897) 22.6×15.0 埼玉県立川の博物館

33 (御普請掟書) 寛保2年(1742) 30.8×42.5 個人蔵

34 駿州安倍川絵図 寛保2年(1742)  42.1×289.2 個人蔵

35 御普請願図上下岩沢村 天明6年(1786) 10月 33.0×109.0 飯能市郷土館

36 岩沢村阿須村普請絵図下書 32.0×105.0 飯能市郷土館

37 笠縫村御普請所願奉上候 寛政3年(1743) 9月  33.0×92.5 飯能市郷土館

38 武州高麗郡矢颪村川絵図 享保15年(1730)   26.0×62.0 飯能市郷土館

39 武蔵国高麗郡前ヶ貫村八郎衛門分矢颪両村川除図 正徳5年(1715)  31.0×97.0 飯能市郷土館

40 武州高麗郡矢颪村亥川除御普請目論見帳 享保16年(1731) 2月 冊1 飯能市郷土館

41 入間川通川除御普請宮責出来形帳 明治6年(1873)9月  冊1 飯能市郷土館

42 粗朶沈床模型(制作過程模型) 120.0×45.0×15.0 国土交通省利根川上流河川事務所

43 大聖牛模型 100.0×70.0×60.0 国土交通省利根川上流河川事務所

44 大聖牛模型 58.0×40.0×21.0 富野章氏所蔵

45 木工沈床模型 54.0×37.0×10.0 富野章氏所蔵

46 川倉模型 75.0×60.0×92.0 国土交通省黒部河川事務所

47 鋼製川倉模型 40.0×40.0×40.0 国土交通省北陸技術事務所

48 竹蛇籠 φ40.0×200.0 黒部川竹蛇籠保存会

49 竹蛇籠 φ20.0×65.0 黒部川竹蛇籠保存会

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橋本直子。

現職:葛飾区郷土と天文の博物館 学芸員

[著書]『葛飾区史跡散歩』共著、平成 5 年 3 月、学生社

[論文]

「近世葛西領における環境と開発」平成 11 年 9 月、『日本近世国家の諸相』東京堂出版

「近世葛西用水体系の成立」平成 14 年 3 月、『三郷市史研究 葦のみち』14 号。

「開発の地域史-享保期新田開発と関東-」平成 14 年 10 月、『日本近世国家の諸相Ⅱ』

東京堂出版

[展示図録]

・『金町松戸関所-将軍御成と船橋-』平成 15 年 3 月、葛飾区郷土と天文の博物館平成

14 年度特別展図録(平成 14 年度河川整備基金助成 14-1-⑥-2 の調査成果による)。

・『諸国洪水・川々満水-カスリーン台風の教訓-』平成 19 年 3 月、葛飾区郷土と天文

の博物館平成 18 年度特別展図録(平成 18 年度河川整備基金助成 18-1216-6 号の調査

成果による)。