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"Devil’s Dye" : The Indigo that changed the world Akira SHIMOYAMA (Osaka University of Commerce) [email protected] Indigo is the major dye that made the world history and culture. It was called "Devil’s Dye" by the rival woad dyers of the Middle Ages. In the modern world, the indigo cultivation was related to slavery in the European colonies of the West Indies and North & South America, and to the forced-labour cultivation system in Asia. Therefore, it is possible to say that it actually became "Devil’s Dye" in history. In this thesis, we glance at the history, with the cultural and social meaning, of the manufacturing process of purple (Phoenician Blue) and woad dye. And the relations between indigo and slavery in the modern ages are analyzed. In addition, we prove the compulsion- cultivation system of indigo in India under the British rule, and we point out the fact that the shift of the policy of British Empire, from Americas to East India, was caused by American Revolution, and that the system played the main role with opium trade in the structure of industrializing British Empire. The huge exportation of the indigo dye from India reached Japan after 1880's. German synthetic dye brought serious damage upon the traditional indigo industry of the world and Japan, but it seems that enormous distribution of natural Indian indigo played a major role for a while in Japanese market even after the beginning of importation of the artificial blue dye.

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"Devil’s Dye" : The Indigo that changed the world

   Akira SHIMOYAMA (Osaka University of Commerce)

   [email protected]

Indigo is the major dye that made the world history and culture. It was called "Devil’s Dye" by the rival woad dyers of the Middle Ages. In the modern world, the indigo cultivation was related to slavery in the European colonies of the West Indies and North & South America, and to the forced-labour cultivation system in Asia. Therefore, it is possible to say that it actually became "Devil’s Dye" in history. In this thesis, we glance at the history, with the cultural and social meaning, of the manufacturing process of purple (Phoenician Blue) and woad dye. And the relations between indigo and slavery in the modern ages are analyzed. In addition, we prove the compulsion- cultivation system of indigo in India under the British rule, and we point out the fact that the shift of the policy of British Empire, from Americas to East India,  was caused by American Revolution, and that the system played the main role with opium trade in the structure of industrializing British Empire. The huge exportation of the indigo dye from India reached Japan after 1880's. German synthetic dye brought serious damage upon the traditional indigo industry of the world and Japan, but it seems that enormous distribution of natural Indian indigo played a major role for a while in Japanese market even after the beginning of importation of the artificial blue dye.

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「悪魔の染料」:インディゴが変えた世界 下山 晃 (大阪商業大学)

  インディゴは世界の歴史と文化を変えた最も重要な染料である。中世にはそれは藍作業者のライバルであった大青業者から「悪魔の染料」と呼ばれていた。 近代では藍の栽培やインディゴ染料の製造は西インド諸島や南北アメリカのヨーロッパ人植民地において奴隷制度と結びつき、またアジアでは強制栽培制度と結びついた。歴史の中で、実際、それは「悪魔の染料」となった訳である。  本稿では、まず紫染料と大青の染料製造過程を一瞥し、その文化的・社会的な意味を押さえておく。その上で、近代における藍作と奴隷制度の相関が分析される。加えて検討されるのは、イギリス支配下のインドにおける藍の強制栽培の実体であり、南北アメリカからインドへと大英帝国の政策の比重が転換したのは、アメリカ独立革命によってであったことが指摘される。更に、産業化をすすめる英帝国体制の中で藍の強制栽培・貿易がアヘン貿易と並んで第一義的に重要な役割を果たした点が明らかにされる。インドから輸出されたインディゴは1880年代以後に日本へも入ることになるが、ドイツで人造染料が開発され日本や世界の伝統的な藍産業を壊滅させていった時期にも、インド藍の莫大な量の輸出は、一時期ながら日本の市場できわめて大きな役割を果たしたように思える。

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以下、日本農業史学会シンポジウム発表用レジュメと質疑応答

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日本農業史学会シンポジウム「歴史の転換期における藍」                  2006.03.29 明治大学

欧米における近代インディゴ農業の成立と展開下山 晃(大阪商業大学)

はじめに1 Phoenician Blue と Woad と Indigo2 植民期アメリカの奴隷制藍作プランテーション3 世界商品としての藍と強制栽培:アジアへの展開おわりに

はじめに

 報告の要点は以下の三点。

  *「1 Phoenician Blue と Woad と Indigo」では、ヨーロッパの古来の青色系統   の代表的な三種の染料をヨーロッパの紡織史、染織史の流れの中で手短に概観   する。近代の藍栽培の時代的・社会史的な画期性を照射する予備的考察としたい。

  *「2 植民期アメリカの奴隷制藍作プランテーション」では、ヨーロッパ向けの   商品作物栽培のための植民地となった北アメリカ・西インドでの藍栽培・イン   ディゴ染料製造の具体的事例を紹介。 その藍作が産業革命の進展と近代人種   奴隷制の展開とに同時に結びついたことが、もっとも留意すべき要点。

 *「3 世界商品としての藍と強制栽培:アジアへの展開」では、アメリカ独立革命   によって新大陸植民地をうしなったイギリスや西半球での植民地経営が芳しく   なかったオランダなどがインド、東南アジアに定着させた藍の強制栽培の特徴に   目を向ける。

1 Phoenician Blue と Woad と Indigo

    (1)皇帝と典礼の色:紫と赤がと金が主役=原初・古代の物質観を反映    (2)13世紀以後、青の社会的認知がすすむ:woad の広まり    (3)宗教改革期の「道徳的色彩」としての青の認知:Woad と Indigo の広まり    (4)17世紀初頭:「インド狂い」と「インディゴ狂い」の時代の到来

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             =「悪魔の染料」Indigo によるWoad の駆逐

2 植民期アメリカの奴隷制藍作プランテーション

  (1)英領カロライナの女傑:エリザベス・ルーカス・ピンクニー       → 1740年代~80年代:藍作革命の時代  (2)大規模奴隷制による近代的藍栽培の実相     12月:未開地の整地 → 3月~4月:播種、作付け → 雑草処理、掘り起こし、     害虫駆除 → (7月半ば、8月末・刈り取り)→ 8月下旬~9月半ば:収穫    (10月に3度目の刈り取り:1日2エーカー、米作の合間の早朝の作業)  (3)プロセシング:インディゴ染料の製造(図版参照)  (4)藍貿易の激増(表参照)  (5)産業革命・生活革命・政治革命とインディゴ+プルシアン・ブルーの発明     と普及(1709年)     * 綿花・鉄・建設資材 etc. との国際的商品連鎖     * 国民的・軍事的・政治的色彩としての青+ロマン主義による夢幻のシンボル        =濃紺の軍服、革命帽と青いフロックコート(ウェルテル)の大流行         3 世界商品としての藍と強制栽培:アジアへの展開

  (1)1765年、イギリス東インド会社がムガル皇帝から徴税権を獲得  (2)18世紀末~19世紀10年代のうちにベンガルでの藍作プランテーションを確立       → 1810’s~1850まで:インドからの貿易の20ないし25%を藍が占める       (綿花、アヘンと並ぶ最重要物産)=「送金問題」対策の一環  (3)製藍所を備えたプランテーション周辺の農民を組織的に前貸し制の耕作体系の    中に再編成 → 周辺農民の債務奴隷化(ナタール、南ア、太平洋諸島等さまざま    な英領植民地でシステム的に展開)  (4)1859~60年:青色一揆(The Blue Mutiny)     → D.ミトラの劇『Nil Darpan (The Mirror of Indigo』の上演などもあって      貧農保護の地租不払い運動広まる

おわりに  人造藍の輸入による日本の国内藍産業の壊滅的打撃の問題、地方ごとの伝統産業の   紹介の枠内での藍染の考察、阿波以外の地域の染色産業史の研究......そうした   研究蓄積や研究課題を、以上のような近代 Indigo 産業の世界史的展開の中で   どう考えてゆくのか・・・

【質疑応答】

田代正一(鹿児島大学:司会)  では、コメントに対するリプライを各報告者にお願いします。

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天野  坂根先生、伊丹先生コメントありがとうございました。今回の報告では各家にそれぞれ残された史料に従って経営の実情に迫る試みを行ったわけですが、奥村家と木内家の史料はほぼ同じ種類のデータですけれども、高橋家のデータはやや性格が異なっています。したがって、事業収支比率や経常収支比率の数字がどの段階で採用されているのか、という点については若干問題があるのではないかと思います。奥村家や木内家の所得税調査資料から売上高と藍商所得の額から収益率にあたるものを計算する場合がそうですし、高橋家の事業外支出の方では、会計上の処理では金融上の支出や家計費は事業外支出として処理されており、婚姻に関する費用や、家の修繕などは臨時費として支出されています。これは会計上の処理でこうなるわけですが、いずれにせよ、どういう段階で比較すればいいのかは一つの問題となります。ただ、当期純収支くらいの段階で見ると、事業収支比率で見られる高橋家の収支比率の大きさというのはかなり是正されてきて、大体両者は近い数字になっているのではないかと思います。それでも、たとえば表5で粗利益率のところを見ていただきますと、明治20年代初めまでとそれ以降では明らかな差がある。それは木内家の表7でも明治20年、21年くらいの段階を見ると藍玉蒅売上金に対する藍商所得というのは10%弱の水準にあり、1割くらいの利益率は確保しているわけですね。それが20年代に入ると、二桁の利益率は確保できなくなってきている。利益率そのものの水準が違ってきているということは言えると思います。そういう中で明治20年代後半から奥村家は諸商業に展開し、木内家では酒造業に活路を見出そうとする。高橋家にしても藍蒅と藍玉の価格の動向がかなり違うことをどう捉えるのか、という問題がありますが、この場合も懸命な経営努力が行われていると考えてよいのだろうと思います。それは表10を見ますと、高橋家の藍蒅販売先が分散的で、出来るだけよい販売先を求めて懸命な努力が行われていることがわかります。結果、徳島で形成される市中価格よりはやや高いところで維持されている。しかし、それにしても米価であるとか、要素価格である肥料価格と同じようなレベルで藍蒅の販売額を維持できるという段階ではなくなってきています。このあたりは高橋家の藍業における有利な販売先を求めて苦悩する姿が描けたのではないかと私は思っています。しかし、藍業以外の他の業種に転換するには経営資源が限られていて、他の業種に転換することは出来ず、明治30年には高橋家は休業してしまいます。                                                                                 次に、地主的な蓄積をどう考えるかということですが、ここで取り上げたのは明治20年代ですからすでに徳島は転換期に深く入り込んでいる。したがって、地主的な蓄積が大きくなっておりますけれども、たとえば三木與一郎家のケースを坂根先生の史料で見ますと、三木家は280町歩の徳島県ナンバー1の地主であり、これで貴族院議員になるわけですが、こうした土地集積というのはやはり明治期に入ってからであろうと思います。三木家の場合、文政6年に所有地は20町歩くらい、それからだんだんと増えてはいきますが、慶応年間で6、70町歩くらいです。それが明治9年になりますと140町歩で、これ以降に大きく土地所有を拡大していくわけですね。したがってこの場合には、三木家にとっては土地が一つの有利な資産として選択され、大々的に投資が行われていく。そこに資金の大きなシフトがあるのだと思います。それは奥村家にしても同様で、明治10年くらいで10町歩くらい、ところが奥村家の場合には松方デフレ期に農民層分解がおきる中で利貸し活動が居村の範囲を越えて拡大し、低い価格で土地を集積していきます。ですから、明治17年には倍くらいの22町歩、明治29年には42町歩に増えていくということになっています。奥村家にしても、松方デフレが間に挟まりますけれども、地主的な蓄積にシフトしていくのは明治に入ってからにな

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る。ですから、明治10年代の終わり頃からちょうど起業勃興期を迎えて近代的な産業組織が出てくるときには、まだ近世的な蓄積が大きな意味を持っているのではないかと思います。

佐藤  今回の私の報告では、特に「人的ネットワーク」という言葉の使用について議論になると思います。最近、経営学の方でも「人的ネットワーク」という概念を使った研究が盛んになっているようで、例えば益田孝をベースにした人的ネットワーク論を論文にされている若い研究者の方がいらっしゃいます。私の場合はたまたま日誌を書き写しながらたくさんの人名が出てくるということで、日付と人名だけを並べたノートを作ってみたわけです。すると、これはある意味で当たり前のことかもしれませんが、明治10年前後の企業家になろうという人たちが、情報・資金などの限られている中で人脈を活かしながら企業家的活動に乗り出そうとする、かなり具体的な動きがわかってきた。もちろん同郷のネットワークに依存するという常識的な結果が出てくるわけですが、同郷者ということでは、近藤との密接なつながりがうかがい知れますし、また蜂須賀に会ったということ、北海道に進出していた様々な改進社のような開拓事業者とのつながり、そういったネットワークがこの時期かなり形成されたということが分かります。さらに、同郷ということだけでなく、慶応という出身大学の人脈にもきちんと目配せしながら動いているというあたりは、この時期企業家になっていこうという人々の特質が明らかになるのではないかと思っています。ただ、坂根先生の最後のご質問で、函館をベースにすると徳島とのネットワークが切れている中ではむしろ北海道の企業家といえるのではないか、ということがありました。これは確かにその通りだと思います。というのは、人的ネットワークが機能するのはいわば明治の初期的な段階であって、金融制度などが整備されてきたときには、機能的には後退していく。明治20年代考案から30年代にかけて、函館で彼が企業家として活動するとき、徳島との関係は切れながら、近藤・蜂須賀・三菱を通して企業家活動に乗り出していく。これは、藍が終わった段階でもその藍と結びついている範囲内において地域性・独自性のようなものが資本にはあったけれども、それが薄れていって中央の資本家の一員になっていっていくのであろうという印象を受けます。それから、興産社の評価で、これは並の企業ではないかとのことですが、私はそうは考えていません。大きな財閥の関わった近代的な企業で、畑作開発を進める初期の北海道庁から補助や利子補給を受けたという意味では、やはり特別な企業であったと思います。藍作という一種の在来産業そのものとして考えれば、かなり大規模にやっていると評価できるのではないでしょうか。そして、士族的な移住をしていた段階で早期に企業的な進出をみせるという意味でも、特異で先駆的な存在として興産社の分析は意味があるのではないかと思っています。

下山  三点ご質問をいただきました。まず、一点目の若い女性がなぜ活躍できたかということですが、カロライナとバージニアというのは大変な貴族制社会でした。日本語のアメリカ経済史の教科書を読むと、「アメリカには封建主義がなかったので純然とした近代化・民主化が進んだ」と書かれていることもありますが、今のブッシュを見ても世襲の大統領ですし、完全な貴族制といっても過言ではないと思います。もちろんイギリス本国の門閥が大変な影響力を持っています。ただ、植民地時代のカロライナでこれといった人物を挙げようとすると、若くて人望と才知もあってカロライナに富をもたらした、イライザということになるのだろうと思います。ただし、カロラ

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イナの中だけの人脈ばかりでなく、当時大きかったのはイギリス本国の政治家なり商人との結びつきであって、そこを詳しく論じた研究はありません。これと類似の研究をジェントルマン資本論のケインさんが五年ほどまえに始めたといっていましたが、まだアメリカでも盛んではないようです。また、カロライナで問題なのはユグノーとの関わりです。ユグノー自身が15%の議席を得るために、金融と染色の技術をバックにカロライナに入ってきた。フランス系ではありますけれども、イギリス系の植民地であるカロライナに相当入り込んでいたこのユグノーの勢力もまた無視できません。あと一つは、カロライナは「ユダヤ人の土地」と呼ばれたくらいで、インディゴ産業にもユダヤ人の資本が大きく関わった、という研究を読んだことがあります。ただ、「あんなところはユダヤの連中の土地だ」という差別的な意味なのか、本当にたくさん入り込んでいたのか、どちらなのかという実態はまだわかりません。当時他の地域でもユダヤ人はかなり早い段階で入り込んでいるので、探っていくと何か出てくるかもしれません。それから、最後にインディゴの普及と文化的意義という点。実はこれが私の一番やりたいことなのですが、今回は農業史の学会ということであまり詳しくは触れませんでした。パストローの『青の歴史』が先行研究としては面白いでしょう。私としては歴史学、民俗学と図像学もあわせた経済史的研究も深めていければと日ごろ考えています。ただ、こうした試みへの批判も強いようで、私の著書に対する書評でも「学問的ではない」といわれてしまいました。特に経済史の先生方からの風当たりは強いようです。ただ、藍と人、藍と社会との関係について、先行研究の整理にとどまらず、藍そのものからグローバルな文化比較ができれば、これは素晴らしい研究なのではないかと思っています。それから藍作からの転換について。これは言い換えれば人造染料のインパクトがそれだけ大きかったということで、報告でも述べたとおり、時代のトレンドや人造物に対する人々の考え方や産業行政があって、インドの場合は転換するどころか転換を迎える前にヨーロッパの人造インディゴにやられてしまったようです。私はインドについては青色反乱についてまでしかまだ見ておりませんので、それ以上のことはわかりません。

司会 ありがとうございました。それでは総合討論に移りたいと思います。

野田公夫(京都大学)  2点おうかがいしたい。まずは事実確認、次に今日のシンポジウムのテーマについてです。主にコーディネーターの佐藤さんに対する質問になろうかと思います。事実確認というのは、今日のご報告を聞いて、私は大きく認識を改めさせられました。私は日本の藍作が壊滅したのは、主には人造藍の登場によるものだと理解していたのですが、今日のご報告を聞く限り、その前にインド藍との競争があって、そこで基本的に勝負はついたという印象を私は受けました。すると、人造藍とインド藍の日本藍にとっての意味の違いはどうなるのか。インド藍の競争力という点から見ると、一方で下山先生のレジュメでは19世紀初頭の頃に輸出量の中でインド藍が非常に大きなウエイトを占めているというご報告がある。もう一方でこれは北海道のデータでしょうが、藍作のピークは20世紀の初頭にある。するとここには相当大きなラグがあるわけですが、インド藍の競争力といったときに、どうしてこうしたラグの存在が許されたのでしょうか。事実認識として、人造藍とインド藍それぞれの脅威のあり方についておうかがいしたい。それから2点目は、今日のテーマは「転換期」ということですが、これはどういう意味での「転換期」なのか。もし「転換期に

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おける工芸作物」ということで共通項を立てるとすれば、綿、養蚕、そして今日の藍があって、それぞれずいぶん性格が違うわけですよね。これらとの比較の中で、藍をどうとらえようとされているのでしょうか。たとえば綿で言いますと、日本の綿作は壊滅しますが、綿そのものに関する産業は三段階に分割されますから、綿紡績業としてむしろ日本の資本主義化の主軸を担う、そういう転換期における綿との関係があるわけです。次に養蚕でいきますと、養蚕は壊滅するどころか逆に桑園面積はどんどん増えて、製糸業は日本の大輸出産業になっていく、こういう転換期との関わり方がある。それに対して藍をどう位置づけるのかと考えながらご報告を聞いていましたが、強いていうと先ほどのラグがあるということ、つまり最終的には負けるのだけれども負け方がずいぶんと遅いものだから、その分産業革命期まで藍は日本資本主義化の十分力になりえたのだ、という風に私は転換期の意味を咀嚼しました。そういう理解が妥当なのかどうか。妥当でなければどういう意味で転換期の藍を考えられたのか。お教えいただきたいと思います。

司会 もし関連するご質問があれば、まとめてうかがいします。

庄司俊作(同志社大学)  天野さんへの質問ですが、分析対象は藍商であると同時に地主でもあるわけですよね。地主経営については農業史研究の分野で20数年前に流行しまして、私も手を染めたことがありますが、ご報告では藍商としての分析に基本的には限定されていました。地主としての経営分析は不可能なのかどうか、これが一点目の質問です。次に、野田さんの質問ともかかわる点ですが、坂根さんも触れられたように、最近、商人資本や商業資本は以前と違って積極的な評価を与えられるようになっておりまして、天野さんも徳島地域経済の資本主義化の担い手として分析対象を位置づけることが可能である、と主張されているように受け止めました。従来は、「地代の資本転化」という形で地主と資本主義化との関わりが議論されたこともあり、私はこうした議論は成り立たないと思ってはいるのですが、敢えて藍商を兼ねた地主が資本主義の担い手になったと仮定しましょう。すると、藍商であることに由来する何らかの特殊な個性があるのか、教えていただきたい。銀行とか交通業などに単純に投資をすることだけではなくて、用水の整備や土地改良をすることについても触れられていますが、これは一般的な地主もやることですよね。藍商を兼ねた地主の特殊な性格はどのようなものであったのか、お伺いしたいと思います。

津谷好人  細かい話になりますが、先ほど木ノ内家は藍商ということで、葉藍蒅を仕入れて藍玉を売っているわけですが、高橋家を見ると種苗代や肥料代なども計上されていて、藍そのものを生産しているように見えます。両者の経営の違いがちょっと分からなかったので、もう一度お教えいただきたい。それから、奥村家の「正味金」というのは、木内家でいう葉藍蒅仕入れ金と考えてよいのか。取立金というのが売上金とみていいのか、取立金の中には売掛金ははいっているのかどうかも教えていただきたい。奥村家では明治25から30年にかけて正味金も取立金も急激に高まっていますが、これがどうして増えたのか。何かこの後の営業利益率が悪くなっていることと関係があるように見えます。たとえば表7を見ますと販売費、在阪費が増えていて、これによって経営が傾斜してくるのだとすれば、どうしてこういうことがおきたのでしょうか。

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神立春樹 今のことと関連しますが、奥村家の所有規模は29年に42町歩だとおききしましたが、藍商の全体的に土地所有規模はどれくらいで、奥村家は藍商としてどのあたりの階層に位置づけられるのでしょうか。また、所得構成を見ると土地所得が大変大きく、これは多少意外で徳島の特殊性かもしれませんが、20年代とはいえ貸金の金利が占める比率が非常に低くなっています。しかも、同時に有価証券の利回りも低い。すると、この後の明治20年代から30年代にかけて高橋家の経営はどのように展開していくのか。お伺いしたいと思います。

田代 では、佐藤先生、天野先生の順番でお願いします。

佐藤  野田先生のご質問は、インド藍との競争に負けたのかどうかということと、転換期の他の商品作物との違い、ということかと思います。一つ目についてですが、まず、全般的にインド藍に対する危機感というものがありました。そこで、阿波の業者や興産社にいった滝本たちは、短縮化されコストの安い生産工程を持つインド製藍法を精力的に学び取ろうとします。これは官民上げての運動で、徳島県も坂峯譲吉を招聘しますし、徳島県出身の長井永吉といった薬学者を呼んで「長井精藍法」というのを開発し、これはなかなか効果があったようでした。そうした危機感のある中で、20年代に入って日本の紡績業が発展し、インドから綿花と並んで藍が怒涛のごとく入ってくるようになるわけです。ただ、天野先生のご報告の中にあったように、武州の織物屋などでは初め地元の地藍を使っていたわけですが、それでは足りなくなって阿波やインドの藍を使うようになったということが出てくるように、藍の生産高や輸入高を越える全体の需要がありました。この時点ではもちろんコスト面では負けているのですが、紡績業や綿織物の発展による需要が拡大する中で競争は激しく続いていたのではないかと思います。ですから、基本的には危機感があって私も負けているイメージで考えていたのですが、様々な統計や資料などを見ますと、むしろ全般的には染料が足りないということが化学染料を入れる日本国内での一番大きな要因になっていました。そういう意味では、インド藍に負けたというより、日印の激しい競争がある中で化学染料に両者が負けた、ということになろうかと理解しています。それから、なぜ「転換期における商品作物」の中から藍を敢えて選んだのかという問題ですが、綿についての理解は私も野田さんと同じで、むしろこちらが近代化・工業化の大きな流れの中では主流であったのだろうと思います。そうした綿業に付随する形で染色業は存立していた。先ほど述べた大きな需要の広がりの中で、在来産業的な技術を基盤にして明治30年代がピークになるということは、そこまで十分発展していたといえると考えます。下山さんの報告とも重なりますが、インドとの関係や世界的なシステムの中で消えていった商品作物として、大きな近代化・工業化の流れの中に藍を位置づけることができるのはないか。これを今回のシンポジウムの趣旨として考えておりました。お答えになっているかはわかりませんが、以上です。

天野  奥村家の位置づけについては、板野郡の所得税調査資料というのが残っておりまして、これを明治24年から30年くらいまで整理すると、最大の所得を記録しているのは、三木與吉郎家ということで、この頃には、5000円から7000円くらいの所得を挙げています。これに対して奥村家になりますと、規模としては3分の1くらいで、木内家はさらに小さくなっています。したがって、奥村、木ノ内、高橋の三家は資産クラスとしては階層がかなり差別化されています。そこで、藍の生産過程についてどう

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捉えるかということですが、大体三つくらいに分けてこの産業の従事者を考えることが出来ます。一つは、藍作農民という葉藍を生産している人々、それから高橋家のように肥料を多投して葉藍を作り小作地も経営しながら蒅まで生産する藍商の人々、最後に奥村家や木内家のような藍商から蒅を購入して、あるいは藍玉まで出来ているものを買い上げて両替商に販売する人々です。それから、奥村家の「正味金」について。奥村家の場合、関東に進出して以降は江戸店を持っておりますので、徳島の本店から江戸店に藍玉を出すときに、かなり会計上のシステムが整ってきていますから、内部利益を課して支店の業績基準を設定する、ということをします。ですからこの正味金には15%くらいの内部利益が加算されている可能性が高いんですね。その上に江戸店の経費を上げて小計を出して、これが江戸店の業績基準になります。ところが内部利益がのっておりますから、それを実現するのがなかなか難しくて、本店には毎年どれだけ取り立てたかを報告する、という帳簿の形式になっております。したがって、売掛金は出てきません。ただ、単年度では売上高とか売掛金などを類推することは難しいのですが、長期の時系列で整理すると取立金は売上高をどれだけ捕捉しているのかが分かってきて、内部利益が乗ってはいますが正味金をそのまま取り立てることは難しくなってきている、ということはいえるのではないかと考えています。ですから、帳簿のあり方自体で現代の本支店会計のようなものができているところが、厄介なわけですね。それから、徳島というのは貨幣経済が相当浸透していますので、これに対して個々の商人は非常に敏感に反応していて、藍よりも土地が有利になればそこへ資金をシフトしていくということを積極的に進めいきていきます。したがって、地主といっても旧来の貸金を軸にして土地を集積するという形ではもうないのではない。ですから、産業・企業に投資する際にも、経営にとってそれが見合うものかということが考えられています。ただ、徳島の場合には関東売藍商の代表的な人物が久次米銀行というのを作って、これが明治23年恐慌以降は潰れてしまいますので、それが地域にとってはかなりブレーキになっている。その久次米銀行に対しては関東売り藍商が総動員に近い形でてこ入れをし、それが阿波商業銀行につながり、現在の阿波銀行につながってきている。だから、久次米銀行が躓いたことで、藍商たちが次の投資に慎重になっていたという側面はあろうかと思います。それから紡績などにはなかなか進出できず、非常に限られた企業を藍商たちは立ち上げていった。それから問題になるとすれば、企業を立ち上げたあと、一方では藍商たちは松方デフレ以降土地に資金をシフトしていきますので、そういった地主的蓄積がどの程度影響しているのかはもう一度検討する必要があろうかと思います。私は近世阿波の藍商の分析から研究に入り、これが明治の徳島をどのように作り上げていったのかについて問題を設定してきましたので、三木文庫に入っている大量の土地関係資料についてはまだ整理できていません。三木家は大きな藍商だったという点にまずは注目せざるを得ないわけです。しかし、関東市場では外国染料の影響を受けるようになりますと、いち早く経営が悪化しますから、資金を土地にシフトしていくということが起こるわけです。

戸石七生(東京大学大学院) 伊丹先生の3つ目のコメントに関連して、藍の普及に関し2つおうかがいしたいのですが、一つ目は藍の発色、染料としての役割についてです。染める素材が毛織物や麻、絹、などと綿は、やはり違うと思います。ちょうど近代移行期というのは日本においても欧米においても綿が普及していく過程で、染める対象である素材が変わっていく時代でした。この時代に対する先生方のお考えを聞き

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たいと思います。それから、青の定義ですが、青と紺ではだいぶ用途が違って、紺色は黒っぽい色で汚れが目立ちにくいこともあり、青との違いが普及に際して何等かの影響があったのではないでしょうか。二つ目は、伊丹先生や天野先生がおっしゃったような上部権力の影響についてですが、江戸の庶民の実態を考えても、藍の普及に際してそこまで強いものであったとは考えにくいと思います。先生方のご意見をお教えください。

井川克彦(日本女子大学)  佐藤先生が取り上げておられた北海道の興産社というのは、短期的であれ成功しているといえるのでしょうか。たとえば徳島の藍商による流通支配の問題などもありますが、薩摩の援助を期待していたけれどもうまくいかなくて、結局は潰れてしまった、と理解する方が妥当なのではないかと考えます。また、薩摩系の実業家人脈ということで、五代友厚との関連を教えていただけると非常に助かります。

佐藤  興産社の評価については、やはりある程度成功した存在であると思います。もちろん衰退というのはさまざまな競争や内的な生産の質の低下があったことも事実です。また、ここの経営者であった滝本五郎が蜂須賀農場の方へいってしまったというのは気になるところで、ここをどう見るかは確かに問題であろうと思います。それから五代友厚に関してですが、彼は朝陽館の第二藍工場を徳島に設立したときに、周辺の600町歩の葉藍を買い占めて価格を暴騰させるという事件を起こしています。徳島の阿部興人が藍精製社を作ったのは、朝陽館への対抗意識があったということで、この辺りが五代との関わりであろうかと思います。

下山  素材によって染料が違うというのはある意味では当然で、麻をインディゴで染めたのかどうかは知りません。綿の生産が伸びたときにこれを縛るロープとして麻の生産が伸びますが、アメリカでは基本的には奴隷の素材だったものですから、飾るといったメンタリティには繋がらなかったのだと思います。これが日本ではどうなったのか、ということはわかりません。それから、人造藍との関連で、これは一様に染まるわけですよね。我々から見れば江戸時代の発色の方が見事だと思いますが、当時の人々にとっては人造藍の一様な発色がすばらしいと思われたのだろうと考えています。絹を透明感のある藍で染めるというのはフランスの、特にユダヤ系の人々が特に17世紀以降はぴか一であったようです。青の定義については、軍服の意義は大きかったということですが、具体的にどう紺と結びついているのかは詳しく調べてことはないのでわかりません。いずれにせよ重要な問題ではあると思います。毛皮については軍服との関わりが非常に大きくて、明治以降は公式の服の需要のあり方を根本的に変えるくらいの影響力がありました。

天野  いまコメントいただきました素材については、日本の場合には江戸時代に麻から綿へという服飾革命が起こりまして、綿織物の普及というのが藍作の普及と対応していたのだろうと思います。それから、享保の改革についてのお話が出ましたが、流通史の本を読むとそういう風に書いてあるのですが、おっしゃるように上部権力によってこうなったといえるのかというのがうまく論証できるのかというのはまだ分かりません。しかし、徳川時代の初期と後期の着物には大きな違いがあるということは言ってよいかと思います。近世に入ってだんだんと江戸地廻り経済圏が発展してきま

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して、江戸の周辺で実際に産業的基盤が形成され、関東木綿も広がっていく。阿波藍も江戸へ出店を構えて関東売り藍商として進出していきますから、この間で関西のいわゆる「はんなり」とした文化へのカウンターパートとして、江戸周辺に新しい文化が形成されていくことは間違いない。そういう新しい日本の文化は、藍染めなどに見られるようなすきっとした「粋」の文化になっていく。こういう大きな流れは私も認めてよいと考えるわけです。そして、明治期に外国人たちが日本に入ってきたときに、たとえばラフカディオ・ハーンなどが日本は藍色が充満している国だと言うことになる。ですから、外国から入ってきた人々にとって、その当時の日本の色彩は新しいものに写り、それが印象派たちなどにも大きな影響を与えたということなのだと考えております。このように大きな流れは把握しておりますが、享保の改革と藍の普及については、確かに歴史的にはもう少し検証してみなくてはいけないでしょう。

司会  いよいよ既定の時間になりました。最後に私の感想を述べると、私は藍のことは全く知りませんで、非常に勉強になりました。実は、私は今年の3月中旬にバングラデシュへ行ったのですが、インドの農産物の原産地はほとんどがベンガル地方、今でいうバングラデシュだったそうです。そこでインディゴとジュートが盛んに輸出されたのだけれども、ジュートはナイロンの紐になり、インディゴは化学染料になってしまった、という話をこのとき初めて知って、それとの関連で今日は非常に興味深く聞かせていただきました。今日は報告者のお三方を含め、本当にありがとうございました。

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