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No87 オスマン帝国(1)
1No87 オスマン帝国(1)
13世紀末、建国初期のオスマン帝国
遷都は1326年
領土はたったこれだけ(アナトリア西北部)
最初の首都は
【2: 】
ビザンツ帝国と戦いオスマン帝国の基礎築く
初代オスマン1世(位1299-1326)
1ブルサ
オスマン家はルーム=セルジューク朝に仕えたトルコ語系戦士集団。
1362/63年、【3: 】(エディルネと改称)を占領、1366年、ここに首都を遷した。
マケドニア
ブルガリア
ブルサ
1389年の【4: 】で、ブルガリア、セルビアなどの勢力を破った。
アドリアノープル
現エディルネ
セルビア
第3代ムラト1世(位1362-89)
2
アドリアノープル
コソヴォの戦い
バルカン半島へ進出
1371年、ブルガリア・マケドニアを征服。 「スルタン」を自称
1396年、【5: 】で、西欧諸国・バルカン諸国連合軍を破り、ドナウ川以南の地を確保、バルカン半島の大部分を支配した。
この時敗れた神聖ローマ皇帝は、
【6: 】
ニコポリス
捕虜にはなっていない
コンスタンツ公会議の招集者(1414)
ブルガリア
第4代バヤジット1世(位1389-1402)
3
ニコポリスの戦い
ジギスムント
1402年、【7: 】でティムール軍に敗れ、小アジアは一時、ティムール帝国の領土。
【8: 】はこの敗戦で捕虜となり、翌1403年病死!空位11年間。オスマン朝は滅亡に瀕した。
アンカラ
第4代バヤジット1世(位1389-1402)
4
アンカラの戦い
バヤジット1世
第5代メフメト1世が再統一後、失地を回復。第6代は省略。
【9: 】を攻略、ビザンツ帝国を滅亡させた。1453年5月29日(百年戦争終結年)
コンスタンティノープル
同1453年、首都をここに遷す。
第7代メフメト2世(位1444-46,1451-81)
人々は、ここを【10: 】と呼んだ。5
コンスタンティノープル
イスタンブル
1453年、メフメト2世の
コンスタンティノープル攻略
防御鉄鎖
約70隻の戦艦を本当に陸送
巨大な大砲、10万を超える大兵力。奇策というより経済力の勝利。
6
防御が手薄な部分
金角湾からの砲撃
に次いで、テオド
シウスの大城壁を
撃破した。 BC5世紀創建
メフメト2世の業績はここまで
1475年、クリム=ハン国を服属させた。
15世紀に( )から自立。キプチャク=ハン国
1783年、ロシア帝国に併合された。
第7代メフメト2世(位1444-46,1451-81)
7第8代を省略
第9代スルタン【11: 】は、1514年、[ ]の戦いでサファヴィー朝を破ったが、滅ぼせなかった。一時的にアゼルバイジャンを奪取。チャルディラーン
サファヴィー朝
イスファハーン
チャルディラーン
セリム1世の獲得地
スレイマン1世の獲得地
第7大メフメト2世までの獲得地 タブリーズ
アゼルバイジャン
8
セリム1世
イェニチェリ歩兵
軍団の鉄砲隊が、
サファヴィー朝の
騎馬軍団を破っ
た。
1566年以降の獲得地
第9代セリム1世
サファヴィー朝
セリム1世の獲得地
スレイマン1世の獲得地
スレイマン1世以降(1566年以降)の獲得地
第7代メフメト2世までの獲得地
チャルディラーン
マルジュ=ダービクの戦い(1516)でシリア北部を攻略
カイロを攻略、マムルーク朝を滅ぼ
し(1517)、【12: 】を征服。
第9代セリム1世(位1512-20)
9
エジプト
セリム1世はマムルーク朝を倒した!
メッカ・メディナの支配権を確立。
メッカ
メディナ
No87 オスマン帝国(1)
2No87 オスマン帝国(1)
アルジェを支配(1516)
既に1517年、マムルーク朝を滅ぼし2聖都(メッカ、メディナ)の支配権確立。
地中海の南北にまたがる大帝国築く!
メッカメディナ
アルジェリア支配は1554年。
チュニス
アルジェリア チュニジア
1517
第9代セリム1世(位1512-20)
モロッコを支配したことはない
スンナ派イスラーム教の守護者を自認
10
オスマン帝国の最盛期=16世紀
【13: 】
46年の長期在位。13回もの対外遠征。
の時、オスマン帝国は最盛期。
11
スレイマン1世#10 位1520-66 セリム1世の子
インド洋でポルトガルと戦う。アチェ王国に武器・人員を援助。
第10代スレイマン1世(位1520-66)
シャリーアを補足する法令(カーヌーン)を積極的に制定したので「立法者」(カーヌーニー)」とも呼ばれる。
フランス王フランソワ1世と同盟を結ぶ。共通の敵=[ ]に対抗するため。
第10代スレイマン1世(位1520-66)
1535年? 従来の説では仏王フランソワ1世にキャピチュレーションを与えたとされるが、実際は、1569年。次のセリム2世が与えたとする説が有力である。
12
ハプスブルク家
その2
1526年 【14: 】に勝利。ハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させ、160年間ハンガリーを支配。
モハーチ
ウィーン
ドナウ川中流右岸
フランソワ1世の支援要請に応じて
第10代スレイマン1世
1529年、フランスとの同盟を背景に
【15: 】を実行。神聖ローマ帝国の首都を20日間包囲。
ウィーン
攻略には失敗したが「トルコの脅威」を西欧諸国は強く感じた。13
モハーチの戦い
第一次ウィーン包囲
その3
第一次ウィーン包囲(1529)は突然の寒冷化と食糧不足などで20日間で撤収。以降、ヨーロッパへの侵攻はない。サファヴィー朝と戦い南イラクを奪ったが勝利できず、1536年以降、大規模な領土拡張政策は終わる。
第10代スレイマン1世(位1520-66)
1538年 【16: 】バルバロッサ率いるオスマン海軍が、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊を打破。クレタ島、マルタ島を除く、地中海の東から約4分の3の制海権を確保。
14
プレヴェザの海戦
その4 プレヴェザの海戦
アクティウムの海戦(BC31年)
1538年
15
プレヴェザ
2点間の距離は約1km
アクティウム(プンタ)
アクティウムの海戦海域
プレヴェザの海戦海域
拡大
●レパント
レパント沖海戦(1571年) サラミスの海戦
(BC480年)
1557年 イスタンブルに【17: 】を建立(現存)。その大ドームは聖ソフィア大聖堂と同じ構造である。
1569年 スレイマン1世時代(フランソワ1世時代)に一般
化したキャピチュレーションをセリム2世がシャルル9世に対して公認した。
第11代セリム2世(位1566-74)の業績
第10代スレイマン1世(位1520-66)
16
スレイマンモスク
その5
租税免除、身体財産の安全保障などの通商上の恩恵的特権。領事裁判権の承認や関税自主権の喪失などは後世の拡大解釈。
スレイマンモスク16世紀
ハギア・ソフィア 6世紀アヤ・ソフィア
よく似ている
4本のミナレットが大ドームの外にある
17
オスマン帝国に陰りが・・
1571年 【18: 】キプロス島をめぐる対立から起きた。オスマン海軍がスペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合艦隊にギリシアのコリントス湾口のレパント沖で大敗し、オスマン帝国の地中海覇権は一時的に後退したが、キプロス島は確保、6ヶ月後には艦隊を再建した。
セルバンテスが一兵卒として戦列に加わり左手を失う重傷を負った。(これはよく出題される)
18
レパントの海戦
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