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法律論叢第 90 巻第 1 号(2017.7【論 説】 フーコー法社会学への試み 西  迫  大  祐 目 次 1.はじめに 2.処罰、統治、真理 3.「フーコーの」法社会学 1はじめに この論文の主題はミシェル・フーコーの法社会学について考察することである。 フーコーと法社会学という組み合わせは意外に思われるかもしれない。しかしな がら、とくに英語圏において、フーコーの影響を受けた法社会学者たちは多く存在 している。主なところでは、カールトン大学のアラン・ハント、マードック大学の ゲイリー・ウィッカム、トロント大学のマリアナ・バルベルデ、アルバータ大学の ジョージ・パブリッチ、ニューサウスウェールズ大学のベン・ゴールダー、ロンド ン大学のピーター・フィッツパトリック、ニューヨーク大学のデービッド・ガーラ ンドなどの名前を挙げることができる。 彼らはフーコーの思想そのものの分析ではなく、フーコーが作り出した「統治 性」や「権力」といった概念を使って、現代の法を社会学的に分析しようとしてい る。数年前にケンダールとウィッカムによる『フーコーを使う』 (1) という本が翻訳 されたが、まさにフーコーを使って法社会学を実践している学者たちだと言える。 例えばパブリッチは『修復的司法のパラドクスを統治する』という著作において、 (1) ギャビン・ケンダール、ゲイリー・ウィッカム『フーコーを使う』山家歩、長坂和彦訳、 論創社、二〇〇九年。 127

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法律論叢第 90巻第 1号(2017.7)

【論 説】

フーコー法社会学への試み

西  迫  大  祐

目 次1.はじめに2.処罰、統治、真理3.「フーコーの」法社会学

1.はじめに

この論文の主題はミシェル・フーコーの法社会学について考察することである。

フーコーと法社会学という組み合わせは意外に思われるかもしれない。しかしな

がら、とくに英語圏において、フーコーの影響を受けた法社会学者たちは多く存在

している。主なところでは、カールトン大学のアラン・ハント、マードック大学の

ゲイリー・ウィッカム、トロント大学のマリアナ・バルベルデ、アルバータ大学の

ジョージ・パブリッチ、ニューサウスウェールズ大学のベン・ゴールダー、ロンド

ン大学のピーター・フィッツパトリック、ニューヨーク大学のデービッド・ガーラ

ンドなどの名前を挙げることができる。

彼らはフーコーの思想そのものの分析ではなく、フーコーが作り出した「統治

性」や「権力」といった概念を使って、現代の法を社会学的に分析しようとしてい

る。数年前にケンダールとウィッカムによる『フーコーを使う』(1)という本が翻訳

されたが、まさにフーコーを使って法社会学を実践している学者たちだと言える。

例えばパブリッチは『修復的司法のパラドクスを統治する』という著作において、(1)ギャビン・ケンダール、ゲイリー・ウィッカム『フーコーを使う』山家歩、長坂和彦訳、論創社、二〇〇九年。

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法律論叢 90巻 1号

修復的司法をフーコーの「統治性」という観点から分析している(2)。アラン・ハ

ントの『道徳の統治』は、道徳規制の社会史をやはり「統治性」の観点から描いて

いる(3)。ウェンディ・ラーナーとウィリアム・ウォルタースが編集した『グロー

バル・ガバメンタリティ』には、国際空間がどのように統治されているのかを分析

した論文集になっている(4)。

こうしたフーコー理論を用いた法社会学研究の発端となったのは、1994年に出

版されたハントとウィッカムによる『フーコーと法』(5)によるところが大きいであ

ろう。この本のサブタイトルは「統治としての法の社会学に向けて」となっている

が、この言葉が示すように、フーコーの「統治性」という概念を法社会学に応用す

るために書かれた理論書である。たしかに、1994年に書かれたということもあっ

て、今となっては解釈としておかしな部分も多い。とくにフーコーが法を排除して

いるという前提において全体が構成されている点は致命的な誤読であるし、このこ

とはゴールダーとフィッツパトリックによって明確に論じられている(6)。しかし

ながら、当時は手に入れることのできる文献も限られていたし、何よりもフーコー

を法社会学に応用することを提唱し、またその先鞭をつけた点で一定の評価をすべ

きであろう。

ところで本論文で行いたいのは、彼ら法社会学者の仕事を紹介したり、整理する

ことではない。というのも近年、フーコー派の法社会学者のなかに、「統治性」と

いう概念を使ってさまざまな領域を分析しようとする傾向がみられるが、私自身は

そのような手法の有効性に疑問をもっているからである。2015年にはフーコーが

コレージュ・ド・フランスで行っていた講義録の最後の巻が出版され、その多くが

日本語に翻訳され誰でも読むことができる状態にある。またルーヴァンで行われ

(2) George Pavlich, Governing Paradoxes of Restorative Justice, London: GlasshousePress, 2013.

(3) Alan Hunt, Governing Morals. A Social History of Moral Regulation, CambridgeUniversity Press, 1999.

(4) Wendy Larner and William Walters, (eds.), Global Governmentality. GoverningInternal Spaces, London and NY: Routledge, 2004.

(5)アラン・ハント、ゲイリー・ウィッカム『フーコーと法:統治としての法の社会学に向けて』久塚純一監訳、永井順子訳、早稲田大学出版局、二〇〇七年。

(6)ベン・ゴールダー、ピーター・フィッツパトリック『フーコーの法』関良徳他訳、勁草書房、二〇一四年。

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フーコー法社会学への試み(西迫)

た講義録なども翻訳されており(7)、今こそフーコーを法社会学に応用することの

意味を問い直す好機にあるのではないだろうか。もちろんそのような仕事を厳密

にするならば、一冊の本になるだろう。したがって、ここではそのすべてを論じ

ることはできないから、「フーコーの法社会学」の可能性を考える出発点として、

フーコーの方法論を整理しながら、基本となる方向性について考えてみたい。

2.処罰、統治、真理

ここでは、フーコーの法社会学の可能性を考えるためにも、いったんフーコーの

仕事を再確認しておきたい。これから扱うのは「規律権力」や「統治性」といった

フーコーの概念についてである。これらについてはすでに数多くの研究書が出版

されているから、私がしたいのはそれらを精緻に分析することではない。また本

稿の目的は、フーコーの思想における「法」や「社会」を定義することはないし、

「規律権力」や「統治性」という用語を明確化して、分析手法として使えるよう整

理することでもない。本稿で行うのは、フーコーの仕事を再確認することで、彼

がどのような意図をもってこれらの用語を生み出したのかということを明らかに

することである。なぜそのような造語をつくりだす必要があったのか。そこには

フーコーのどのような意図があったのだろうか。そのことを考えることで、フー

コーを法社会学で使うための基本となる視点を確認したい。

2-1.フーコーにおける規律権力と処罰

一九七二年度の講義には「懲罰社会」というタイトルがつけられている。その講

義の最後で、一九世紀に生まれた新しい権力について述べながら、フーコーは自身

の仕事とデュルケムを結びつけている。少し長くなるが引用しよう。

権力は、規範の狡猾で、日常的で、習慣的な形式をとるようになる。それ

は権力としては隠れているが、社会という形で表面化している。十七世

(7)ミシェル・フーコー『悪をなし真実を言う:ルーヴァン講義 1981』市田良彦監訳、河出書房新社、二〇一五年。

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法律論叢 90巻 1号

紀における権力の儀式の役割は、今やいわゆる社会意識によって手直し

される。それこそまさにデュルケムが社会学の対象と呼んでいたもので

ある。彼がアノミーについて『自殺論』で語っていたことを再読しなけ

ればならない。社会的なものを特徴づけるのは、選択の水準である政治

的なものや、決定の水準である経済的なものとは異なる、規律や制限の

システム以外の何ものでもない。権力を媒介する規律システムは、それ

によって権力が作動するものである。しかし権力としては隠されており、

社会学の対象としての社会と言われる一つの現実として描写され、知覚

される。デュルケムは言った、社会は規律のシステムであると。しかし

彼が言わなかったことは、そのシステムは、権力のシステムに特有の戦略

の内部において分析されなければならないということである(8)。

デュルケムがアノミーという概念によって、社会に自殺が増加する原因を示そうと

したことはよく知られているから、説明は手短にしておこう(9)。アノミーとは規

範がない状態のことである。かつては法も宗教も個人の自由を強く制限していた。

しかし一九世紀になると、人権と自由の保障が手厚くなり、宗教が個人をコント

ロールする力も弱くなった。その結果個人は自由になったのだが、そのことが自殺

を増加させた。なぜならば、人間の欲求というものは果てしなく、何か外部からそ

の欲求を抑える力がない限り、欲求は苦悩の源泉でしかないからである。つまり個

人を規律する社会の力が弱いために、苦悩を抱える人間が増加し、自殺も増加傾向

にあるのである。

フーコーも言っているように、デュルケムは自殺が経済的要因とは無関係である

ことを強調している。たしかに統計を見ると経済的な破綻のときに自殺が増加し

ていることが分かる。しかしながら、貧困な国で自殺が多いかというと違う。すな

わち人は貧困によって自殺するのではない。経済的な破綻が自殺を増加させるこ

とがあるのは、経済的な破綻が社会的な無秩序、すなわちアノミーを引き起こすか

らである。したがって経済的な要因でも政治的要因でもなく、「社会の行使する規

制作用の様式と、社会的自殺率のあいだに」関係性が認められることになる。

(8) Michel Foucault, La Societe Punitive, Paris: Seuil/Gallimard, 2013, p.243.(9)エミール・デュルケム『自殺論』宮島喬訳、中央公論社、一九八五年、第二編第五章。

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フーコー法社会学への試み(西迫)

先ほどの引用は、デュルケムが経済学とも政治学とも異なる社会学の領域を切

り出したということ、そしてその社会が、規制作用の様式だと分析したというこ

と、この二点についてフーコーがデュルケムを評価しているということだろう。自

由の増加によって自殺が増えるように、規律のシステムが変化することによって、

人々の行動も変化させられる。したがって、そのシステムがどのように作用してい

るのかを分析することが必要である。しかし引用の最後に述べているように、フー

コーはデュルケムの方法論については批判を加えている。というのも規律のシス

テムとしての社会は、「権力のシステムに特有の戦略の内部において分析されなけ

ればならない」からである。しかしこれはどのような意味だろうか。

この講義の後で出版された『監獄の誕生』を見てみよう(10)。この本の冒頭で、

フーコーは再びデュルケムの方法論を批判している。そこでフーコーが批判して

いるのは、デュルケムが社会形態のみを分析、研究していることである。引用しよ

う。「デュルケムがしたように社会の一般的な形態だけを研究するなら、刑罰が個別

化する過程を、罰の緩和という原則に則ったものだととらえてしまう危険がある。

実際には刑罰の個別化とは、新しい権力の戦術がもたらした結果であり、とりわけ

処罰の新しいメカニズムの帰結に他ならない」(11)。社会形態のみを分析したデュ

ルケムはこのような結論に達している。社会の分業が進み人間が個別化した結果、

処罰が緩和されていった。しかしフーコーによれば、身体刑から監禁刑への変化を

処罰が緩和したと捉えるのは間違っている。おそらくそのように思考してしまう

理由は、身体刑を苛酷で野蛮だと捉え、監禁刑を穏当で人道的な措置であると考え

てしまう一つの思い込みにある(12)。そしてこのような思い込みは社会が未開から

文明化していくという素朴な進歩主義的視点をデュルケムがもっていたことにあ

るだろう。

『監獄の誕生』でデュルケムを批判したすぐ後に、フーコーはルーシェとキルヒ

ハイマーによる『刑罰と社会構造』に若干賛同できると述べている。というのも

ルーシェとキルヒハイマーは、刑罰制度が違法行為を取り締まる一つの手段であ

るという幻想を捨て去ることに成功しているからである。フーコーは述べている。

(10)ミシェル・フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』田村俶訳、新潮社、一九七七年。(11)同書、二七頁。(12)重田園江『ミシェル・フーコー:近代を裏から読む』筑摩書房、二〇一一年、四九―五〇

頁。

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法律論叢 90巻 1号

「社会の単に法律上の骨組だけによっても、社会の倫理上の基本的な選択によっ

ても説明がつきかねる社会的現象として、この刑罰制度を研究しなければならな

い」(13)。処罰が単に禁止や拒否などの消極的規制だけにとどまらず、有用で積極

的な結果を産み出しているという視点から見なければならない。しかしながら、重

田園江が指摘しているように、フーコーはやはりルーシェとキルヒハイマーの方法

論を批判することになる。というのもルーシェとキルヒハイマーは刑罰の生産性

をもっぱら経済的側面からしか分析していないからである。すなわち社会がもつ

富と金銭への欲求という点からしか分析しない彼らの手法も、デュルケムの社会進

歩が誤りであったように、やはり実際の社会現象を分析することには失敗している

と考えなければならない。

先ほど述べたように、フーコーがデュルケムを支持していたのはこの点にある。

すなわちデュルケムは規律システムとして社会を捉えることで、経済的決定という

水準から分析対象を切り離していたということである。しかしデュルケムが誤って

いたのは、社会形態の変化のみを考察したことで、個別化のプロセスと刑罰機構の

変化にある意味を見逃してしまったという点にある。ではどのようにすればそのよ

うな過ちを犯すことなく、社会現象としての刑罰制度を描くことができるだろうか。

よく知られているように、フーコーがここで作り出すのが「権力」と呼ぶ新しい

視点である。権力という言葉でフーコーが意味しているのは、人間のあいだにある

力の関係である。誰から誰に対してどのような力が使われているのかという視点

によって、刑罰制度を見てみようというのがフーコーの出発点である。ところで、

先ほどの引用でフーコーは次のように述べていた。規律システムとしての社会は、

「権力のシステムに特有の戦略の内部において分析されなければならない」。では

権力や戦略という言葉でフーコーは何を意味しているのだろうか。

晩年の論文「主体と権力」(14)において、フーコーは権力と戦略の関係について

詳細に語っている。フーコーは、戦略という言葉で意味されるのは通常次の三つだ

ろうと述べている。

① ある目的に達するために用いられる手段の選択を意味する。この場合、目

(13)フーコー、前掲書、二八頁。(14)ミシェル・フーコー「主体と権力」渥海和久訳『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ』筑摩書

房、二〇〇一年、一〇―三二頁。

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フーコー法社会学への試み(西迫)

標を達成するために使われる合理性が問題となる。

② あるゲームにおいて、一人の参加者がとる行動を意味する。ゲームの参加

者は、他の参加者たちがとるであろう行動を予測し、また自分の行動が読ま

れているかもしれないと考えながら、自分の行動を決定する。この場合、相

手に対して優位にたつための手段を意味している。

③ 対決状況において用いられる手続きのすべてを意味している。手続きによっ

て、敵対者から闘争手段を奪い、闘争を放棄するように仕向けること。この

場合、勝利を獲得するための手段が問題となる。

フーコーは権力という観点に戦略という視点を付随させることで、一般的に考えら

れている「権力」という概念を壊そうとしている。つまり権力とは支配者がもって

おり、被支配者に対して一方的に用いられる力ではないということである。それは

むしろ一種のゲームや戦争であり、当然反抗され抵抗される可能性をつねに孕んで

いる。

このような戦略としての権力という視点を採用することで、例えば「支配階級が

権力を握っている」というような、素朴な誤りを避けることができる。刑罰機構に

置き換えるならば、看守は国家から権力を与えられており、それを行使して囚人た

ちを支配していると見るならば、現実を捉え損ねていることになる。よく知られて

いるように、フーコーはベンサムの『パノプティコン』を例に出して監獄における

権力を説明している。多くの研究者が強調するのは、監視塔のもつ機能であるが、

フーコーが言いたいのはその部分だけではない。『パノプティコン』は二部に分か

れており、一部は監獄の建築について、二部は囚人たちの規則が書かれている。建

築は、中央に監視塔があり、それを取り囲む各部屋に囚人たちが別々に収容されて

いる。囚人たちへの規則は、食事の内容や時間、散歩の時間や方法、シャワーの回

数、衣服の洗濯の注意など細かく規定されている。フーコーが権力ということで言

いたいのは、この建築様式も囚人たちへの規則も、すべてが戦術としての権力だと

いうことである。つまり脱獄や暴動という反抗の可能性があり、それをいかに効率

的に抑えるかという戦略が繰り広げられている。監視塔が優れた装置なのは、少な

いコストによって、目的を達成できるからである。つまり監視塔から見張られてい

るという意識を囚人たちがもつだけでよいから、究極的には監視塔には影が見えて

いるだけでもかまわない。それによって看守がいるかもしれないと思う囚人たち

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法律論叢 90巻 1号

は、規則に従うようになる。

このような考察によって得られた、「ある人間を従順にするための規律的な権力」

という視点は、逆説的に思えるが、フーコーの研究対象を刑罰機構や監獄という制

度から解放することになる。なぜならば、そのような戦略が繰り広げられていたの

は、身体刑ではなかったし、例えば修道院での監禁という実践でもなかった。フー

コーが同様の権力関係を見いだすのは、中世のペスト規則や、軍隊の規則、工場の

規則、学校の規則などである。そこには反抗の可能性があり、それを「規律」とい

う権力メカニズムによって、人間の身体を従順にする手続きの総体が見られるので

ある。

このような観察によって次のような問いをたてることが可能になる。すなわち、

ペストに襲われた都市や、軍隊といった一部の特殊な場合にしか用いられていな

かった「規律」や「規格化」といったタイプの権力が、学校、工場、監獄で用いられ

るように、近代のフランス社会で一般化していくのは一体なぜだろうかという問い

である。

そこで「社会現象としての刑罰制度を描く」ためにフーコーが採用した方法は、

刑罰機構を社会のなかで作用している、より大きな権力システムの内部に置き直し

て考えるということである。では一九世紀の社会では何が行われていただろうか。

まず新しい犯罪の規定が置かれている。例えば労働手帳所持の義務、アルコール

の販売規制、宝くじの禁止などがある。そして貯金や婚姻を奨励する運動があり、

労働者へ向けた大規模な道徳化キャンペーンが行われている。これらはすべてノ

マドになりやすい労働者を「生産機構に固定する」ためのものである。強制や罰、

徒弟や懲罰といった働きによって習慣を植え付けることによって彼らを固定する。

監禁機構は、一連の慣習の連続体、ノルム(規格)のようなものを生産する。すな

わち一九世紀の社会にあった規律システムは、都市から都市へと移り歩き、結婚も

せず、アルコール中毒になり、無断欠勤し、暴力事件を起こすと目されていた労働

者階級を、規律し従順にするというものである。フーコーの分析によれば、社会の

なかには、彼らを従順にするための規律メカニズムが数多く実践されていたが、刑

罰機構もその一つだったということである。

したがって、監獄という一見奇妙に思える空間は、実は社会の特殊な領域という

わけではない。規律し訓練するという監獄内部にしか存在しないように見える実

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フーコー法社会学への試み(西迫)

践は、よく見れば社会一般に見られる実践なのである。朝決まった時間に起き、夜

ふかしをせず、身だしなみは清潔に、部屋を片づけ、勤勉に働き、貯蓄をし、幸せ

な家庭を築くといったような、人間の規格化を推進するさまざまな装置が社会には

存在し、刑罰機構はその装置の一つにすぎない。したがって、監禁装置のもつ戦略

は、矯正の役割を果たしているかという観点から測ることはできない。というのも

矯正を行う装置は監獄に限られないからである。フーコーは述べている。「むしろ

今日その問題のありかは規格化推進の諸装置の大がかりな増強のなかに、しかも新

しい客体化の創設をとおしてその諸装置がになう権力上の影響の規模のなかに存

する」(15)。規格化は心理学、教育、救済援護、社会事業なども担っており、それ

らが規律権力の役割を担うことが多くなれば、刑罰装置は医学的になったり心理学

的になったり教育学的になったりするであろう。

ここまでフーコーの刑罰機構と監禁についての考察を見てきた。この独特の方法

から、われわれがフーコーの法社会学の方法論を取り出すとすれば、それは規律権

力という視点を応用できるかどうかということではなく、むしろ権力関係という視

点をもちだした理由に注目すべきではないだろうか。ではその理由とは何か。フー

コーは『監獄の誕生』の冒頭で意図を説明している。この本のテーマは、「裁判を行

う近代精神」の歴史をつくりあげることである。しかし、そのために「刑事訴訟手

続きの進展だけに限定して」分析をしてしまうと、「集団的な感受性における変化」

や「ヒューマニズムの発展」、そして「人間科学の発展」が、一枚岩の単純な外面

的印象としてのみ浮かび上がることになる。デュルケムの失敗はこの点にあるが、

しかし社会の内部にはより複層的な権力関係があり、これを捉える必要がある。

そこでフーコーは 4つの視点を提示している(16)。

① 処罰機構を制裁という抑圧的な側面だけに注目しないこと。処罰機構を、そ

の機構が生み出している積極的な効果のなかに起き直して考えてみること。

② 処罰の手段を考察するとき、法規則の帰結として考察しないこと。他の権

力方式が含まれるより一般的な場に起き直して考えてみること。

③ 刑法と人間科学を別の二系列のものとして考察しないこと。両者が同じ起

源をもっていないか考察すること。すなわち権力の技術論を、処罰制度の

(15)フーコー『監獄の誕生』、三〇六頁。(16)同書、二七―二八頁。

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法律論叢 90巻 1号

人間化と人間認識の原理に位置づけること。

④ 刑事司法という舞台への近代精神が、司法への科学的な知の組み込みによる

として、それが権力関係による身体を掌握する手段の変化の結果かどうかを

考察すること。

ここでフーコーが拒否しているのは何だろうか。それは処罰や監禁の意味を刑法

の理論のなかに見出そうとすることである。もしそのように思考してしまうと、過

酷な身体刑から監禁刑への変化は、より人権に配慮した人道的な措置であるという

だけに終わってしまうだろう。したがって、処罰や監禁の意味を考察するために、

社会が人間をどのように認識し、その社会の内部で権力がどのように作用している

か、人間の身体がどのように掌握されているかという視点から見なければならな

い。そして、そのような社会において、刑罰機構がどのような役割を担っている

か、刑罰機構が積極的な効果を生み出しているとすれば何かということを考察しな

ければならないのである。

このようにフーコーの思想を整理するならば、われわれがフーコーの法社会学と

いうものを始めるためには、権力という視点だけではなく、それが含意する戦略や

戦術という視点を考慮に入れておく必要がある。たしかに権力という視点は、刑罰

機構以外のテーマを分析するときにも応用することが可能である。しかし万能な

わけではない。とくに規律権力という視点を使って分析するためには、その適用可

能な対象が限られているということを想定しておく必要がある。

2-2.フーコーにおける統治性と国家

一年間のサバティカルを経て、フーコーは一九七八年から新しい試みを始める。

それまでフーコーの研究対象は、人間を中心としていたが、この年は国家に焦点を

当てて考察している。その理由を説明するために、これまでの仕事を総括した上

で、なぜ国家が問題になるのかを説明している。これはわれわれの方法論とも関わ

る部分なので、少し詳しく見ていこう。

フーコーはそれまでの数年間、軍・病院・学校・監獄に関する規律権力について

分析してきた。フーコーによれば、その共通点は次の 3つの方法によって、外に出

ようとすることだった(17)。

(17)ミシェル・フーコー『安全・領土・人口』高桑和巳訳、筑摩書房、二〇〇七年、一四四―

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フーコー法社会学への試み(西迫)

① 個々の制度の外へ出ること。制度という問題設定を拒否し、その制度の外

部から考察すること。例えば、精神病院とは何かということを出発点とす

ることもできる。しかし、その制度内部の分析では精神病院とは何かとい

うことは分からない。そこで精神病院をその社会の精神医学的秩序のなか

に位置づけることで、精神病院という制度が、精神医学的秩序を具体化し強

化することを記述することができる。

② 機能の外へ出ること。例えば監獄をあらかじめ定められた機能を出発点とし

て分析することもできる。監獄の理想的な機能と、実際の監獄を比較して機

能のプラスとマイナスを比較することである。しかしながら、やはり監獄

とは何かを考察するためには、この機能の外部に出る必要がある。そこで

監獄を、社会における権力関係のなかに置き直すことで、監獄が機能上のマ

イナスさえも支えとするさまざまな戦略のなかにあるということが分かる。

③ 対象の外へ出ること。規律という視点を採用することは、「非行」や「セク

シャリティー」などのできあいの対象を拒否することを意味している。す

でに所与となっている対象を規準にして、制度を分析することを拒否するこ

と。むしろ権力の働きによって、特定の対象をもつ真理の領域が作り出さ

れる運動を検証しなければならない。

簡単に言えば、「制度」「機能」「対象」のように、すでに構成された概念や領域を

出発点として分析してはならないということである。それらの概念や領域の外へ

でて、より広い領域のなかで、権力がどのように作用しているのかを把握すること

がフーコーの方法論だった。監獄や病院、学校や軍などの制度の外へ出て考察する

ことで発見したのは、社会一般に見られる権力テクノロジーだった。つまり社会の

一般的な権力テクノロジーがまずあり、個々の制度はそれを強化したり具体化する

ために作用しているということである。例えば、精神病院は精神医学的秩序を具体

化し、監獄は規律権力の戦略の一部として作用していた。

しかしここで提起されるのは、その規律という権力テクノロジーは国家という包

括的で全般的な制度に属するのではないか、という問いである。すなわち個々の制

度の外に出た分析は、国家という制度の内部にすぎないのではないか。そこでフー

コーはさらに分析を進めるためにこのような問いを立てている。では国家という

一四七頁。

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法律論叢 90巻 1号

制度の外に出て、国家というものを分析することはできないだろうか。イデオロ

ギーのようなできあいの概念ではなく、国家という制度の内部的な機能の分析でも

なく、国家の外へ出て分析することは可能だろうか。もちろん、国家という領域を

所与のものとして、その概念や制度の歴史を調べることでは、外へ出る思考とはい

えない。国家を分析するためには、別な視点と領域を設定する必要がある。そこで

フーコーがつくりだした視点が「統治性(Gouvernementalite)」と呼ばれるもの

である。

フーコーは統治性という言葉によって 3つのことを表すことを説明している(18)。

① 十八世紀以降の統治。すなわち人口を主要な標的とし、政治経済学を主要

な形式とし、安全装置を主要な技術的道具とする制度、手続き、戦略などの

総体。

② 統治と呼べるタイプの権力を、主権や規律といった別の権力よりも上位にお

く傾向

③ 中世における司法国家が、統治性化されたプロセス

よくフーコー研究者のなかで、「統治性」という言葉が何を意味しているかという

ことが議論されるが、そもそもかなり広範な領域をカバーする視点としてつくりだ

されている(19)。フーコーはこの講義のなかで、統治する者と統治される集団のあ

いだにあるメカニズムが歴史的に変化することを辿っている。ヘブライにおける

羊飼いと羊、中世における君主論、国家理性、都市行政、そして近代における自由

主義的な統治術。すなわち国家を分析するために国家にこだわるのではなく、統治

という関係に注目することで国家の外へ出た国家分析を試みたということである。

これは刑罰機構を分析するために、刑罰機構の歴史を辿らなかったそれまでのフー

コーの方法論と同じだと言えるだろう。

この講義以降、フーコーは統治という用語を国家という分析対象を離れて用いる

(18)同書、一三二―一三三頁。(19)ウィリアム・ウォルタースによる『統治性』(阿部潔他訳、月曜社、2016年)は、この言

葉の含意することをわかりやすく整理している。ところでフーコーの講義録の編集者によれば、統治性は「統治・政府(Gouvernement)」と「心性(Mentalite)」を組み合わせたものではないと述べている。「音楽的(Musical)」が「音楽性(Musicalite)」と変化するように、「統治的(Gouvernmental)」が変化した言葉であると考えるべきだという。その意味は、場合に応じて、さまざまな権力関係からなる戦略的領域や、統治という活動に特有のさまざまな特徴を示す。フーコー『安全・領土・人口』、四九四頁。

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フーコー法社会学への試み(西迫)

ようになる。これはフーコーの関心が国家を離れて、真理の産出と統治という問題

に移ることがある。このことは後述することにして、統治性についてまとめておき

たい。統治性についても規律権力と同じことが言えると思われる。たしかに統治

性という概念を使って分析することが適当な研究領域も存在しているだろう。し

かし権力と同様に統治性もまた万能ではない。フーコーがなぜ統治性という概念

をつくらなければならなかったかに着目しよう。それは国家という問いの外に出

ることができるかという問題設定があったからだった。国家を考えるとき、その制

度や、機能や、所与の概念を用いることでは何も問いに答えたことにはならない。

そのような内部観測ではなく、国家の外に出て、そのメカニズムを分析すること。

そのために「統治性」という視点を必要としていたということである。したがっ

て、近年の英語圏の学者たちがするように、統治という関係性がなりたたないよう

な領域までも、統治性という視点によって分析することがフーコーの法社会学とい

うことにはならないように思われる。

2-3.フーコーにおける裁判と真理の問題

1979年度の講義『生者たちの統治』の冒頭で、フーコーは新しく「アレテュル

ジー(真理術)」という造語をつくりだしている。アレテュルジーによって意味す

るのは、真として措定されるものを出現させるような手続きの総体である。この問

題関心をわかりやすく説明するため、フーコーはセプティミウス・セウェルスとい

うローマ皇帝の例をあげている。セプティミウス・セウェルスは宮殿を建てさせ、

そこに謁見のための大きな部屋を設けた。その部屋では、彼が謁見をし、布告を言

い渡し、裁きを下していた。ところでその部屋の上部には、天空を表す絵が描かれ

ていた。その天空の絵は、彼が生まれたときの星座が描かれていた。すなわち、そ

の絵が示していたのは、彼の生誕を支配し、運命を支配する星々の結晶だった(20)。

フーコーがこの逸話で示そうとしているのは、裁きを言い渡す前提として、何ら

かの真なるものが存在している必要があるということである。セプティミウス・セ

ウェルスが統治した時代は、ウルピアヌスのような偉大な法学者たちが活躍した時

代でもあった。にも関わらずそのような法的な知を越えて、運命の支配のような真

なるものが現出化している必要があった。それはなぜかということである。

(20)ミシェル・フーコー『生者たちの統治』廣瀬浩司訳、筑摩書房、二〇一五年、三―五頁。

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法律論叢 90巻 1号

ニーチェから大きな影響を受けていたフーコーは、研究者として初めから真理の

問題に関心をもっていた。例えば『狂気の歴史』では、狂人とはいかなる者である

かを規定する真理が歴史的に変化する様子が描かれていたし、『言葉と物』では、

特定の時代には特定の真理が結びついていることを分析していた。1970–1971年

度の講義『知への意志』においては、真理の認識の系譜が詳細に展開されていた。

しかしながら、権力の分析に取り組んでいた時代には、真理の問題はどちらかと言

えばその背景にあった。権力に対応する知が存在しているということ、そしてその

知は権力によって作られ、権力を補強するために働くことなどが語られていたに過

ぎない。

しかしながら、『生者たちの統治』以降、フーコーのなかで真理の問題が中心を

占めるようになり、それは最後の講義『真理の勇気』まで続いていく。なぜこのよ

うな変化が起きたのか。このことは詳しく研究する必要があるところであるが、少

なくとも二つの影響があったと思われる。

一つは統治性研究の結果である。統治性研究は、権力の前提として統治性を考え

ていた。権力を作動させている場が国家というものであれば、その国家とは何だろ

うかという問いがあり、国家の外へ出た分析をするために統治性という視点をつく

りだしたのだった。フーコーがここで述べているアレテュルジーも権力の前提と

なっている。フーコーは述べている(21)。アレテュルジーなしには権力行使はあり

えない。アレテュルジーがあって始めてヘゲモニーがある。ヘゲモニーは今日的

な意味ではなく、「他の人々の先頭に位置していること、彼らを導き、彼らの振る

舞いを導くこと(conduire de conduite)である」。アレテュルジーなしにはいか

なるヘゲモニーもありえない。

アレテュルジーと統治性の関係はどうなっているだろうか。フーコーは述べてい

る。国家理性というのは、ある意味ではアレテュルジーを功利的に焼き直したもの

である。というのも国家理性というのは、宮廷から占星術師を追放する代わりに、

有用な知を君主に授ける大臣を据えることを必要としていた。したがって、国家理

性は君主の権力行使に結びついていた真理の現出をすべて修正することだった。

しかしながら、このような議論から、フーコーが「アレテュルジーから統治性

へ」移行していく歴史観をもっていたと捉えるのは誤りであろう。確かにフーコー

(21)同書、九頁。

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フーコー法社会学への試み(西迫)

は講義のなかでアレテュルジーは一七世紀まで続いたこと、今の私たちは合理的な

統治術の時代にいて、アレテュルジーはアウラの残存物でしかないということは認

めている。しかしながら、フーコーはアレテュルジーを現代的な問題を視野に入れ

て語っていたように思われる。

その理由は、フーコーが真理の現出を主題として考察した二つ目の影響として、

パトリック・アンリの裁判があったと思われるからである。フーコーは 1977年、

トロントで行われた、「法・精神医学」シンポジウムでこの裁判を取り上げてい

る(22)。1976年、パトリック・アンリは身代金目的で、一人の男の子を誘拐し、監

禁、殺害した。世論はパトリック・アンリの死刑を要求していた。誰も彼を弁護し

ようとしなかったが、死刑廃止論者のロベール・バダンテールはアンリの弁護を

かって出た。裁判でアンリの素性はよく分からなかった。尋問においても、精神

医学鑑定においてもアンリがどのような人物かということは鮮明にならなかった。

アンリは死刑になっても構わないと公言していた。しかしバダンテールが弁護し

たのはまさにこの点にかかっていた。人は知らない誰かを死刑にすることができ

るのか(23)。

フーコーは同じ講演でパリ重罪院で行われていた裁判も取り上げている。五件

の婦女暴行事件と六件の婦女暴行未遂を起こした男の裁判で、その男は沈黙を守り

通した。自分の事件について考えたことがあるか。なぜ暴力的な衝動が起きてし

まうのか。なぜ衝動を抑えられないのか。なぜ繰り返してしまうのか。沈黙を守

る男に対して、陪審員が声高に叫んだ。「とにかく自分を弁護しなさい」。

これらの裁判において問題になっているのは、刑法の機能だけではない。という

のも犯人が「私がそれを犯した、有罪判決にしてほしい」と述べたところで、この

法廷には何かが欠けていると思われてしまうからである。フーコーは述べている。

「自白以上に、告解が、良心の糾明が、自己についての解釈が、自分が何ものであ

るかを明るみに出すことが必要とされている。刑罰機構は、法と違反と犯行の責を

追う犯人だけでは、もはや機能することができない。別のもの、補助的な構成要

(22)ミシェル・フーコー「十九世紀司法精神医学における「危険人物」という概念の進展」『ミシェル・フーコー思考集成Ⅶ』、筑摩書房、二〇〇〇年、二〇―四五頁。

(23)詳細は次を参照。ロベール・バダンテール『そして、死刑は廃止された』藤田真利子訳、作品社、二〇〇二年。

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法律論叢 90巻 1号

素が必要とされている」(24)。この補助的な構成要素、例えば彼自身や彼の周囲の

者たちによる回想や打ち明け話によって可能となる言説が求められることになる。

それが欠けているとき、裁くことが難しくなる。すなわち、裁くために真理が現出

していることが必要とされているのである。

『生者たちの統治』の講義でも、フーコーは『オイディプス王』を題材として、

いかにして真理の現出が裁くことに必要な条件となっているのかを詳細に読解し

ている。『オイディプス王』には真理が現出するための複雑な手続きが絡み合って

おり、神託という宗教的アレテュルジーと、証言という法的アレテュルジーが補完

しあいながら、オイディプスの犯した罪を明るみに出していく。罪を犯したという

真理が現出すると、都市の疫病がなくなる。すなわち、オイディプス王において問

題になっていたのは、オイディプスという罪人の追放などではなく、真理が現出す

ることなのである。

フーコーはこのような読解から、次のように問題設定をしている。西洋社会にお

いて権力が行使されるとき、真理が現出しなければならない。そしてその真理は主

体性の形式で現出しなければならない。この現出化から万人の救済という効果を

期待しなければならない。このような関係性は歴史のうちでどのように構成され

てきたのか(25)。

フーコーがパトリック・アンリの裁判とバダンテールの弁護を念頭において、『オ

イディプス王』の読解をしていたかどうかは分からない。しかしもしそうだと仮定

すると、今までのフーコーの方法論と同じ構図を見いだすことができるだろう。刑

罰機構について分析するために「規律権力」という視点をつくったように、国家に

ついて分析するために「統治性」という視点をつくったように、人が人を裁くこと

を分析するために「真理の現出」という視点が必要なのである。自己が真を語ると

いう義務がどこから出てきたのか、それを知るためには、裁判の歴史をたどるので

はなく、『オイディプス王』の読解や、キリスト教における悔い改めや指導や告白

といった実践の分析が有効なのである。

(24)フーコー、前掲書、二一―二二頁。(25)フーコー『生者たちの統治』、八六頁。

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フーコー法社会学への試み(西迫)

3.「フーコーの」法社会学

ここまでフーコーの方法論に注目しながら、彼の研究を整理してきた。その研究

方法を一言でまとめるならば、外へ出るということである。それは所与の理論、概

念、制度、機能、研究対象を拒否するという態度である。なぜならばそのような研

究方法は内部分析にすぎず、研究しようとしている領域が社会の中でどのような作

用を起こしているかということを実際に分析することができないとフーコーが考

えていたためである。

先に、私は昨今の英語圏の法社会学者たちがフーコーの概念を使ってさまざまな

領域を分析するそのやり方に疑問があると述べた。その理由は今まで見てきたよ

うなフーコーの研究態度との関連にある。つまり、フーコーがなぜ「権力」や「統

治性」や「アレテュルジー」などの造語を作る必要があったのかという点を見過ご

しているのではないかということである。

再び『生者たちの統治』の講義をとりあげよう(26)。フーコーはこの講義で今ま

で使ってきた「知―権力」という主題を捨てることを宣言している。というのも

「知―権力」という主題は、今では「使い古され、安っぽくなってしまったから」だ

と述べている。そもそもフーコーが権力という概念をつくりだしたのは、「支配的

イデオロギー」のような概念に対抗するためだった。支配的イデオロギーの概念を

拒否する必要があったのは、その理論が「支配的」と言い切ってしまうことによっ

て、現実の世界にある従属化のメカニズムを分析しなかったからである。そのため

「知―権力」という新しい分析領域をつくって、実際の社会において権力関係が行

使される手続きや技法を切り開いた。しかし、「支配的」という言葉が現実の権力

関係の分析を覆い隠してしまうように、「知―権力」という言葉もいまや現実の人

間関係と真理の分析を覆い隠してしまう可能性がある。そこで、新しく「知と権

力」のかわりとして、「真理と統治」という分析領域を切り開こうと言うのである。

私にとってフーコーの特徴はこの外の思考にある。分析のためにできあいの概

念や理論を否定し、分析のためにふさわしい造語をつくりあげ、既存の制度の枠組

みや歴史区分を飛び越えて思考すること。できあいの概念や理論を否定するのは、

それが概念や理論にこだわりすぎるあまり、現実の分析から離れていき、結局は現

(26)同書、八六―九一頁。

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法律論叢 90巻 1号

実とはほど遠い学問内部の真理をつくりあげることしかできないからである。分

析のためであれば、自己のつくりあげた概念さえ放棄すること。これこそがフー

コー特有の方法論であるように思われる。

だとすれば、「権力」や「統治性」という視点にとらわれることが重要だとは思え

ない。もちろん、「権力」や「統治性」や「アレテュルジー」は、いまでも有効な

視点であるし、それによって分析することで新たな学問上の貢献をすることは大い

にありえるだろう。しかしながら、フーコーがこのような造語をつくることによっ

て分析しようとした意図や方法論を理解せず、ただ「権力」や「統治性」を当ては

めて使うことにあまり意味があるとは思えない。例えばパブリッチは修復的司法

を統治性から分析している。パブリッチはこのように問題設定をしている(27)。修

復的司法において何が統治されるのか。誰が統治されるのか。誰が統治するのか。

何が適切な統治なのか。だがフーコーが一六世紀の君主論に特徴的だと述べてい

る問題意識(28)を、そのまま現代の修復的司法に応用することで何が明らかになる

のだろうか。フーコーの法社会学であるためには、たんに権力や統治という言葉を

使うだけでは不十分である。

マリアナ・バルベルデは同じような視点から現代のフーコー派と呼ばれる法社会

学者たちを批判している(29)。1990年以前、フーコーを研究することはキャリア

を考えると危険な選択だった。しかし近年では、フーコーのアイデアを使う学者が

増えたことで、そのような危険はなくなってきた。たしかにフーコーの権力論など

の影響によって、国家、社会、人間などの概念が社会科学分析のなかで問い直され

ることは評価できる。だがこれらのフーコー派の試みは本質を欠いている。とい

うのもより深くフーコーを読むならば、彼が「革新的な研究戦略」をもっており、

「何を理論とし、何を学問上のテクストとするかについて、われわれのもつ基礎的

な想定に対して、よりラディカルな批判をしていた」ということが分かるはずだか

らである(30)。

バルベルデの言うように、フーコー派と呼ばれる学者たちのなかには、「権力」

(27) Pavlich, op. cit., pp.11–14.(28)フーコー『安全・領土・人口』、一一〇頁。(29) Mariana Valverde, “Specters of Foucault in Law and Society Scholarship,” in

Annual Review of Law and Social Science, 2010, Vol.6, pp.45–59.(30) Ibid., pp.46–47.

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フーコー法社会学への試み(西迫)

や「統治性」という概念をつかって、現代を批判することに満足している者たちが

いる。しかし彼らは、現実の分析を「権力」や「統治性」という概念に押し込むこ

とで、本来しなければならない分析を怠っている可能性がある。それはなぜフー

コーが支配的イデオロギーという言葉の代わりに、権力という造語をつくる必要が

あったのかという点を理解していない。ただ「権力」や「統治性」という言葉で分

析することに満足せず、フーコーならばどのような視点から考察するだろうかとい

う地点を出発点にすべきではないだろうか。

フーコーの難しさは、まさにそれが「外の思考」であるという点にある。彼は既

存のカテゴリーや分類を疑問に付してきた(31)。彼は社会を分析するために、既存

の制度や対象に縛られることなく、既存の分析概念を使うこともなかった。重田園

江が言うように、フーコーは「他に適切な言葉がないからこそ、彼独特のレトリッ

クを動員して、まだ誰も見たことがない世界を表現しようと特異な用語を駆使し

た」(32)。しかし、その用語がどのような内容であるかを正確に知るためには、講

義録や論文集にあたらなければならないことが、多くの誤解を招いてきたというの

は事実だろう。

ハントとウィッカムが、フーコーが法を排除していると誤読してしまったのもこ

のような理由によると思われる。たしかにフーコーは権利や主権といった観点で

法を語ることを拒否してきた。しかしそれは法や権力を分析する上で、法理論がふ

さわしくないというだけであり、法そのものの役割が低くなるとか、法が消え去る

と言いたかったわけではない(33)。むしろフーコーにとって、法の占める役割はか

なり大きなものだったのではないだろうか。例えば、初期の論文に「外の思考」と

いう文学批評がある。この批評はモーリス・ブランショの文学作品に向けられてお

り、ブランショの文学が「外の体験」をもたらすものとして高く評価している。そ

してブランショの『アミナダブ』と『至高者』に触れながら、法の外に出ることが

いかに難しいかということが述べられている。フーコーは述べている。「実は法の

現前とは、その隠蔽であるのだ。法は、至高の権威として、市民社会や、諸制度

や、行動や、仕種などに影を落す、人が何をしようが、無秩序や乱雑さがどれほど

(31)重田、前掲書、五三―五四頁。(32)同書、五四頁。(33)ゴールダー、フィッツパトリック、前掲書、二五―四六頁。

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法律論叢 90巻 1号

厳しかろうが、法はすでにその力を繰り広げてしまっているのだ」。だから「法は

諸行動の原理ないし内的な指令であるよりも、それら行動を包み、そしてそのこと

によってそれらをあらゆる内面性から脱却させてしまう「外」であるのだ」(34)。

ゴールダーとフィッツパトリックも述べているように、「外の思考」がそれ以降

のフーコーの仕事のなかで法がどのように考察されていたかを読み解く一つの鍵

になるかもしれない(35)。だが今はフーコーが、到達不可能な外としての法をどの

ように捉えていたのかを考察する余裕もないため、このことは別の機会に考察する

ことにしたい。だが明らかなのは社会のなかで実際に作用している法を捉えよう

とするとき、法の外へ出る分析をしようと試みるならば、法理論に頼るべきではな

いということである。フーコーが社会における現象を分析するために、戦略として

の権力や、その源泉としての統治性やアレテュルジーという視点をつくりだしたよ

うに、フーコーの法社会学は既知の対象や概念、制度、理論を一旦保留することか

ら始めるべきだろう。そして分析の対象とする規則や制度において、どのような戦

略があるのか検討することになるだろう。そこに見いだすのは権力や、統治性やア

レテュルジーかもしれない。しかしそれらすべてが分析の道具としてふさわしく

ないならば、フーコーが行ったように新しい地平を切り開くような言葉をつくると

ころから始めなければならないのである。

(明治大学法学部助教)

(34)ミシェル・フーコー「外の思考」豊崎光一訳『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ』三四九―三五〇頁。

(35)ゴールダー、フィッツパトリック、前掲書、九〇―九一頁;Peter Fitzpatrick, “Foucault’sOther Law,” in Ben Golder (ed.,) Re-Reading Foucault: On Law, Power, Rights,New York: Routledge, 2013, pp.53–57.

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