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Title 東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(3) : ハン セン病と性病について Author(s) 帆刈, 浩之 Citation 沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(38): 1-11 Issue Date 2015-03-27 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/18764 Rights 沖縄県教育委員会

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Title 東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(3) : ハンセン病と性病について

Author(s) 帆刈, 浩之

Citation 沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THEHISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(38): 1-11

Issue Date 2015-03-27

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/18764

Rights 沖縄県教育委員会

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沖縄史料編集紀要 第 38号(2015)

東アジア医療史より見たベッテルハイム史料(3)―ハンセン病と性病について-

帆刈 浩之

はじめに

人の移動と交易の発展は病原菌の伝播をともなうため、ある種の病原菌に対して免疫を

持たない人々に感染し、パンデミック化して甚大な被害を与えることがあった。東アジア・

東南アジアをつなぐ中継交易で繁栄した琉球には古来、繰り返し病原菌が流入し、断続的

に流行を繰り返し、多くの感染症に対して免疫が形成されてきたと考えられる(1)

。 近代以

前の琉球における医療・病気の実態に関しては史料上の制約から不明な点が多い。天然痘

や麻疹など特徴的な症状をもち、死亡率の高い急性感染症については、歴史記録に残され

ることが多いため、比較的多く研究がなされてきた(2)

。他方、症状が激烈ではない慢性感染

症については史料も少なく、研究もほとんどなされていない。

慢性感染症として、東アジアに広く流行した病気としてはハンセン病と性病が挙げられ

る。ハンセン病は世界各地の古代文明においてすでに存在していたと考えられるが、他の

皮膚疾患との類似や社会的・宗教的なバイアスが混在するなど、精度の高い実証的歴史研

究を難しいものとしている。他方、梅毒など性病のグローバル化は 15 世紀末のヨーロッ

パ人による海外進出の副産物であり、東アジアへの到来も 16 世紀初頭と言われている。

天然痘や麻疹などの急性感染症のように社会を壊滅するほどの破壊力はないとはいえ、慢

性感染症もハンセン病のように重度の皮膚病変や身体障害から、社会的差別を生んだこと

は広く知られている。

本稿では、19 世紀中期に琉球を訪れたプロテスタント宣教師であるベッテルハイムが

残した史料の中からハンセン病および性病に関する記事を紹介したい。19 世紀中頃の琉

HOKARI Hiroyuki: On the Potential Uses of Sources Created by Bernard Bettelheim from the Viewpoint of East Asian Medical History III: Leprosy and venereal disease(1) 稲福盛輝『沖縄疾病史』(第一書房、1995 年)は、琉球の近世以降の急性感染症流入の可能性を指摘

しているが、史料的制約から近代以降の叙述が中心となっている。(2) 近年の研究として、小林茂「疾病にみる近世琉球列島」『沖縄県史 各論編 第四巻 近世』第 5 章、沖

縄県教育委員会、2005 年。

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沖縄史料編集紀要 第 38号(2015)

球でハンセン病患者が置かれていた具体的な状況の一端を示すとともに、西洋人医師であ

るベッテルハイムの患者に対する視点についても着目したい。また、琉球社会におけるハ

ンセン病患者のあり方を考える手がかりとして、中国におけるハンセン病の歴史および患

者が置かれた状況にも触れ、若干の考察を試みる。

1.中国におけるハンセン病

古代中国における疾病の命名法には、大きく①症状から、②病気を引き起こす原因から、

という 2 つのタイプがあった。このパターンとして、宇宙論としての陰陽・五行という中

国思想、そして風・寒・熱・湿・燥・火の六気の影響を受けて引き起こされると考えられ

ていた。ハンセン病は、「大風」「厲風」、または「癘」「癩」と呼ばれたが、前者は「風」

の侵入によって起こされる病気として命名されたもので、後者は皮膚の傷という症状を表

したものと言える。11 世紀になると、道教の影響を受け、病気に関する新しい説明として、

皮膚の知覚麻痺という考え方が広まる。そして、新しく症状に関する「麻」、および病因

論としての「風」とが結びつき、「麻風」(痲瘋)という用語が使われるようになる(3)

。また

宋代以降の南方中国の開発とともに、ハンセン病が南方に特有の病気として認識されるよ

うになる。古くから福建、広東、広西など嶺南地域は有害な瘴気による病気が蔓延する地

として北方の人々から考えられてきた。16 世紀以降の医学書では、ハンセン病は亜熱帯

気候の南中国特有の風土病として認識されるようになった(4)

また、世界の他の文化にも見られたように中国でもハンセン病は前世の罪や悪行の報い

だと考えられることがあった。そして、祖先を祀ってある墓の「悪い風水」によってハン

セン病が発生するとも考えられた。これは子孫への悪い影響という意味で宗族内での伝染

を意味したが、後には宗族外からも伝染すると考えられるに至る。すでに南宋期の医師、

陳言はハンセン病の原因の一つに伝染があることを述べていたが、人から人への伝染とい

う考え方が広がったのは、16 世紀に新しく登場する「広東瘡」(梅毒の一種と考えられる)

の影響が大きい。明清期中国では、ハンセン病と梅毒はしばしば混同された。それはとも

に南方に特有の病であったこと、さらに症状が類似していることにある。こうして、ハン

セン病は、軽率な性交渉で感染するという不道徳性、そして温暖湿潤気候で未開発な南方

の後進性という 2 つの性格を付与されたのである。

明清期、中国のとくに南方ではハンセン病患者は地域共同体から排除された。少なくと

(3) Angela Ki Che Leung, Leprosy in China: A History, Columbia University Press, 2009, p.18.(4) Leprosy in China, pp.32-33.

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も福建には 15 か所、広東には 19 か所、江西に 4 か所のハンセン病患者の収容施設があっ

たという(5)

。その施設はもともと宋代からあった養済院という慈善組織として城内に設けら

れていたが、ハンセン病患者の入所が忌避された結果、城外、とくに僻地や島などに設け

られ、癩子営、癩民所、瘋子院、痲瘋院などと呼ばれた。

こうした施設は地方政府の資金で運営され、患者の中から一人が監督者として任命され、

地方官への定期的報告が課されていたという。興味深い点は、ヨーロッパや日本のように

キリスト教や仏教などの宗教的な儀式がなかったということである。「浄化」という名目

での宗教的な偏見による苦しみからは自由であった。しかし、ハンセン病は不治の病と見

なされていたため、中国の収容施設に病気治療の目的があったわけではなかった(6)

。都市に

住む住民への感染を防ぐとともに、患者を敵視する者の攻撃から守るため、ハンセン病患

者は都市から遠く離れた地区に隔離され、政府の資金援助のもと、彼らの「自治」に任せ

るという中国的な対応(民間社会による秩序維持)がとられていたのだ。

中国における西洋人によるハンセン病患者救済活動は、16 世紀にマカオでポルトガル

人宣教師によって開始された。しかし、カトリックによる活動は規模も小さく、宗教色も

強く、期間も短いものが多かった。その後、19 世紀にはプロテスタント宣教師による救

済活動が本格的に展開されるに至るが、19 世紀末にはハンセン病の病原菌が見つかると

ともに、各国で強制的な隔離政策が本格化し、さらに国際的な「包囲網」が形成されていった。

2.琉球におけるハンセン病

さて、琉球にハンセン病が伝わった経緯は不明であるが、交易が盛んであった東南アジ

ア、もしくは南中国からもたらされたと推測される(7)

。次の史料は 18 世紀後半、琉球に漂

着した中国船の乗組員が幾つかの病気に罹っていたことを示している。

(乾隆)五十一年、…五月、江南蘇州府の船戸蒋隆順等二十五名の内、十余名病に染り、其内四名は重病に染る。倪君華は「血痰」し、曹聖栄は「血痢」(赤痢)、蒋隆順は「疥癩」(ハンセン病か?)で、游華利は「青盲」(緑内障)を患う。再た令を奉じ、五月二十六日より翌年四月に至るまで心を込めて療治したところ皆全快した。

(8)

(5) Leprosy in China, p.97.(6) Leprosy in China, pp.99-100.(7) 稲福はハンセン病の病型を調べた犀川に依拠して東南アジアからの侵入を有力視している(『沖縄疾病

史』p.334)が、今後発掘された人骨から DNA を検出し分析する古病理学研究によって新たな知見が得られることが期待される。

(8)「新参松姓家譜(金城家)」那覇市企画部市史編集室編『那覇市史』資料篇第1巻8、那覇泊系家譜、1983 年、p.631。

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ここにいう「疥癩」がハンセン病ではない可能性もあるが、琉球と中国との間の頻繁な

人の往来は多くの感染症を琉球に伝えたであろうことは確認できる。先に中国におけるハ

ンセン病の流行状況を見たように、中国の南方、とくに福建においてハンセン病の患者が

多かったということは、福州を窓口に朝貢を行っていた琉球に、進貢や交易を通してハン

セン病をはじめ多くの感染症が入ってきたことは間違いない。

前近代の琉球におけるハンセン病の状況は、19 世紀後期の史料から多少なりとも窺い

知ることができる。次の史料は、1875 年首里王府から八重山に布達された命令であるが、

ハンセン病患者を一般の村人から離し、辺鄙な地域に住まわせようとしていた。そして、

それに従わない親族には罰を科していたことがわかる。

癩病人が村内で生活しているというが、この病気は病人個人の問題だけでなく、他の人びとにも伝染し、村の迷惑も軽くない。だから、村はずれの差し障りのない所に別居させ、取り締まりを厳重にしなければならないのに、取り締まりが緩いため、村内にも同居させている。そのため、次第に癩病を患う者も多くなっているというのはどういうことであろうか。石垣島の四ヵ村の士族は所管の役人ならびに惣下知人、百姓は各所管の役人が詳しく調べて、癩病の者は、必ず村はずれに住まわせ、生活ができるように各々の親や兄、または村で良い程度に取り計らうこと。そして、村内にまったく立ち寄らないことを守るようにそれぞれの親や兄、ならびに所管の役人・惣下知人へ証文を提出させた上に、所管の役人・惣下知人と各村の小横目は月に二度ずつ見回ること。なお、在番、頭・惣横目も巡見して、これを守らない者がおれば、士族の親兄は 10 日の寺入りの刑、百姓の親兄は 3 日の牢舎の刑にし、所管の役人と惣下知人は科米を 3 升ずつ課す。

(9)

また、ハンセン病患者は居住地域を限定されただけでなく、戸籍帳からも除外されるな

ど社会的に存在が抹消されていた。次の史料は、十九世紀末の石垣島での戸籍の扱いに関

する記録である。

一、癩病になった者は念入りにこれを見届け、死人と同様に扱い、別紙面付帳を調べ差し出す事。一、癩病人を一カ所に集めず村内に入り乱れることがあった場合、噯役人には科米一斗を申しつける。一、癩病者がいて、その本人または戸主より死亡者の扱いをしたいとの番所への申し出があったときは、村吏及び惣代理人が立ち会い確認し、間違いないときは、本人の届け書に死亡の証明書を係へ届け出、蔵元番所の戸籍簿もその扱いをし、従って正男女及び人員取立帳からも死亡の手続きをする。

(10)

(9) 一八七五年「諸事取締之事」より(訳文)、沖縄県ハンセン病証言集編集総務局編『沖縄県ハンセン病証言集 資料編』2006 年、沖縄愛楽園自治会、宮古南静園入園者自治会、p.265。

(10) 一八九四年九月「癩病者取扱調」(訳文)、『沖縄県ハンセン病証言集 資料編』p.266。

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沖縄のハンセン病患者の生活状況について、最初に記録を残したのは 1893 年に本島北

部を踏査した笹森議助である。彼は、「沿道各所絶壁ノ間、人跡絶ツノ所」で「一戸二戸

ト矮陋」な小屋に居住し、伝染の可能性があるため、人家から遠い土地に移したと、現地

の巡査からの話を聞いている。(11)

このように、前近代の琉球において、すでにハンセン病患者は社会的・行政的に差別さ

れていたため、村内に留まることができず放浪し、僻地で集住することが多かった。その

場合、集落による「隔離所」や患者の自然発生的な「集団所」が形成されていたという。

それは浜辺の洞窟や掘立小屋の類いで、那覇波之上あたりには「バクチャヤー」などと呼

ばれた三十数人もの患者や貧者が集まる集団所があったという。(12)

次に 19 世紀中期の琉球に滞在したベッテルハイムが見た慢性感染症患者の様子を見て

みよう。

3.ベッテルハイムが見たハンセン病患者

ベッテルハイムがロンドン伝道協会宛に作成した医学報告書によると、琉球人の健康状

態について、まず配慮すべき点として厳しい自然環境が挙げられている。「彼らはこの畝

のように細長い島で、望ましいシェルターとしての住居や衣服がなく、船上にいるかの如

く、つねに体が潮風に晒されている」と述べ、外気の影響に注目している。そして、報告

書では、まず皮膚疾患について言及がなされている。鱗状の皮膚のハンセン病、皮疹、乾癬、

腫瘍などが挙げられ、それらはみな悪い食べ物、劣悪な住環境、粗悪な衣服(とくに裸足)

が原因だと言う。つねに皮膚を雨風に晒している諸民族の中には皮膚病が広く見られるの

だと述べている。(13)

ベッテルハイムは暇さえあれば、宣教活動のために外出し、貧窮者に食料などを与え、

説教の機会を求めていた。その際にハンセン病患者に遭遇する機会が多かった。

食事後、私は門番に食事一皿と飲み物を与え、うちの子供に親切にしてくれる貧しい隣人にも食事を与えた。またもっと遠くの貧しい人のところにも幾つかの包みを持って行った。うち一

(11) 笹森儀助『南嶋探験Ⅰ』東洋文庫、平凡社、1982 年、p.60。(12) 森川恭剛『ハンセン病差別被害の法的研究』法律文化社、2005 年、pp.128-130。(13) Medical Report(1851-52), ref. A 2/3, Loochoo Naval Papers ref. A 2/3, the Church Missionary

Society Archive, Special Collections at Birmingham University Library. (英国バーミンガム大学図書館所蔵、英国聖公会聖教協会文書、イギリス海軍琉球伝道会文書)以下、Medical Report. と略す。史料をご教示いただいた A.P. ジェンキンズ氏に謝意を表す。

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つをハンセン病患者の家に持っていったが、家族はみな物乞いに出ていて誰もいなかった。(14)

宣教の対象は貧窮者が中心であったが、ハンセン病患者も主な対象として意識的に訪問

していたようである。また患者の中には物乞いに出る者が多かったこともわかる。

前述の慈善施設で、11 人のハンセン病患者と 1 人の女性が参加した注目すべき集会があった。彼らはとても熱心に聴き、そして驚くべきことに彼らのうち何人かは漢字を幾つか知っていたことだ。彼らはみな地面に布を敷いて座り、別の布を広げて被り、日差しを避けていた。私は正直に言うと、彼らの腫れ物、ただれ、切断された手足など、不快で忌まわしい風貌に耐えられず、彼らの布には座らなかった。そこで、私は日よけの布の下に 30 分強も中腰で座らねばならず、その姿勢による痛みで額から汗が落ちた。彼らの中で新約聖書を繰り返し聴いていた一人に、他の話を理解できない者に後で説明するよう指示した。私たちは彼らに十分なお金とお菓子を与えた。

(15)

この記載からは、前近代の琉球にハンセン病患者を収容する施設が存在したことが確認

できる。また、患者の中には教養ある人物もいたことが窺える。そして、ベッテルハイム

が患者たちの外観や衛生状態に対して嫌悪の感情を懐いていた様子がわかる。それでも彼

は各家庭を訪問し、薬を与えるなど積極的に医療宣教活動を行った。

近所の路地でちょうどドアが開いていたので、ある家に入った。女性 2 人と男性 1 人が熱心に話を聞いてくれた。その内、一番年配で病持ちらしき女が最も注意深く聞いていた。話が終わった後、私は彼女の病気について尋ねた。彼女が見せた手足には、2 年以上前からのハンセン病の症状が見られた。私は彼女が喜んで受け取ってくれる薬と軟膏を与えることを約束した。

(16)

ハンセン病患者のための施設もしくは居留区において、私たちは、しばしば慈善活動の対象を見出す。子供たちはまだ種痘を受けていない。この居留区の中の女性の一人を見ると、惨めなさまで、徐々に悪くなる病気のために身体のほぼ半分は蝕まれ、畑に囲まれた真ん中に座っており、その後ろから子が彼女の背中を元気に掻いていた。私は彼女に硫黄をたっぷり使うようにアドバイスして、銀を置いて行った。

(17)

当時ハンセン病の治療法はまだ確立しておらず、ベッテルハイムが用いた処方には鉱物(14) A. P. Jenkins 編『沖縄県史 資料編 21 The Journal and Official Correspondence of Bernard Jean

Bettelheim 1845-54 Part I(1845-1851)近世2』(沖縄県教育委員会、2005 年)。以下では、『県史21』と略す。1851 年 2 月 15 日、p.469。

(15)『県史 21』1851 年 4 月 13 日、p.501。(16)『県史 21』1851 年 4 月 20 日、p.504。(17)『県史 21』1851 年 9 月 21 日、p.586。

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系の薬が多かった。もちろん、硫黄や銀は現在では有毒とされているが、前近代社会にお

いては皮膚疾患に多く用いられていた。さらにベッテルハイムは、ひどい外傷を抑えるの

に手軽な薬として、「ラピスラズリ」(瑠璃)を渡していた。彼は「ハンセン病の土地では、

画期的な役割を果たすに違いない」などと述べている。(18)

私は近所の浮腫を持った男の状態が良くなったと聞いて大いに驚いた。読者も知っているように、この男は 5 年もの間、ハンセン病を患い、やつれ、全身がただれていたのだ。今回、彼は硫黄とアンチモニアル(アンチモンから作製される催吐剤)、軟膏によって回復することができた。前回の疫病流行で彼の妻は感染したが、私たちが与えた薬で治ったのだ。約 5、6 週間前にこの近辺を通った時、彼らは私に声をかける勇気はなかったが、それとなく懇願されて、再び同じ家に入った。そこには症状が進んだ腹水に侵され、全身に浮腫がある男がいた。その人物に見られる病気は治る見込みがなく、しかも浮腫が 2 ヵ月以上も続いているという。私は、酒石英、ジギタリス(強心作用がある)とカンタリス(ハンミョウ)を足したもの、3 種の粉末を私自身の手で処方した。彼が薬を飲んで3日後、相当量の尿の排泄が認められた。正直言うと、私は全く望みを持っていなかった。ただ置いていった薬を飲むように指示するしかなかった。読者は、今日この男が治ったという話を聞いて私がとても驚いたと思うだろう。さらに私が患者の家を訪ねた時、その妻から感謝や恩義の言葉はなく、彼は元気になって仕事に出ているとだけ言ったという話をしたら、読者はこの国の怖さか、恩知らずさを示す生きた例だと思うかもしれない。

(19)

ここでも硫黄などの薬が用いられているが、ベッテルハイム自身、予想すらしなかった

治療効果に驚いており、病原菌発見の時代以前の医療が試行錯誤に近かったことが窺える。

ハンセン病患者は各家で暮らすこともあれば、療養施設で暮らすこともあった。そして、

注目すべきは施設にはリーダーがいたということである。

ハンセン病患者の療養所でただ一人グループのリーダーだと思われる人物に出会った。周りを監視に囲まれていたため、彼からは一言も聞き出すことができなかった。私は彼の病状に合ったアドバイスを残して立ち去った。

(20)

ハンセン病患者の居留区に行った。彼らがわざと低いドアを開けたので、私はその前で立ち話をしている間、ずっと背中を曲げていなければならなかった。私は中に入ろうとすればできた

(18) A. P. Jenkins 編『沖縄県史 資料編 22 The Journal and Official Correspondence of Bernard Jean Bettelheim 1845-54 Part II(1852-1854)近世3』(沖縄県教育委員会、2012 年)。以下では、『県史22』と略す。1952 年 1 月 7 日、p.2。

(19)『県史 22』1853 年1月 16 日、p.292。(20)『県史 21』1851 年 5 月 25 日、p.510。

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かも知れないが、衛生の理由から止めた。私がためらうことなく座ることのできる居留区内でもっとも上等な小屋は、その主であるハンセン病患者のリーダーが今日は地方へ物乞いに出ているため閉まっていた。しかし、3 人の患者が私の話を注意深く聞いてくれた。私は彼らに助言と援助を行い立ち去った。

(21)

以上の記述から、ハンセン病患者の居留区には、患者の家族たちが集住していたらしい

ことがわかる。そして、リーダーとされる人物は「上等な小屋」に住んでおり、頻繁に物

乞いのために遠出をしていたようだ。当時の琉球では、ハンセン病患者が施しを受ける存

在として認識されていたことが窺える。そうした中、ベッテルハイムは、1 人の患者が施

しを取り上げられる場面に出くわしている。

私は次の話に触れるのを忘れていた。ある家からハンセン病患者がこっちに出てきたので私たちは施しを与えた。その後、男が去った方向で監視員が男の得た金を奪うかも知れないと思案し、私たちは引き返し、ちょうど家に入った監視員に追いつき、彼に続いて家に入った。私は家の女になぜこの男のためにドアを開けたのか尋ねた。彼女は私に、この男は親戚です、と言った。私は女に以前、嘘をつくことは最大の罪であると繰り返し言わなかったか、また女と監視員ともに天におわす偉大な神によって審判が下されることを知らないのかと尋ねながら、女をじっと見つめた。私はこの調子で何回か話し続けた。その男(監視人)は明らかに動揺したようで元気がなくなり、私に向かって神は恐ろしいと言った。そしてハンセン病患者から盗むつもりはなかったと言った。女にも後悔の様子が見て取れた。

(22)

王府の方針として、異国人からの支給品や金銭はすべて「追行人」(監視員)が回収す

ることになっており、(23)

ベッテルハイムもそれを知っていたことがわかる。梅毒に感染して

いたと思われる比嘉という人物の家を訪れた際に、ベッテルハイムは粉薬・膏薬・茶・唐

銭を与えたが、すぐに王府の監視人によって取り上げられていた。(24)

19 世紀中期の琉球社会におけるハンセン病患者は療養所や居留区など、一般人とは隔

離された地域に居住していた。そして、明清期中国の施設と同様、その共同生活の中には

リーダーらしき人物がおり、頻繁に物乞いに出ていたらしいことがわかった。ただ、隔離

された理由は必ずしも明確ではない。1870 年代に出された首里王府の布達はハンセン病

の伝染の危険性を述べていたが、こうした命令を出さざるを得ないほど、患者の往来は自

由であったとも考えられる。まして、1840 年代から 50 年代に活動したベッテルハイム

(21)『県史 22』1852 年 1 月 11 日、p.6。(22)『県史 22』1852 年 10 月 28 日、p.212。(23) 小野まさ子氏のご教示による。(24)「 人逗留日記Ⅱ」『琉球王国評定所文書』第 4 巻、浦添市教育委員会、1990 年、p.310。

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も患者と接触する際、感染の恐怖については全く触れておらず、衛生面での嫌悪だけを述

べている。また、ハンセン病患者に対する宗教的・道徳的な価値判断が下されていないこ

とも興味深い点である。

4.ベッテルハイムが見た性病患者

沖縄では、性病はナバンガサ(南蛮瘡)、ナーバル、フルッチュなどと呼ばれた。しかし、

ここでいう「南蛮」が日本史で普通意味するポルトガルを指すのかについては不明瞭であ

り、中国から見ると「南蛮」は広く南方の未開地を意味する。1505 年には広東で梅毒が

流行しており、そこから交易を通して琉球に侵入した可能性が高いと思われる。(25)

琉球史の史料である『球陽』や『歴代宝案』には「瘟疫」「瘴疫」「疫癘」「痘疫」「疱瘡」「麻

疹」など、マラリア、天然痘、麻疹と思われる感染症の記事は散見されるが、梅毒と思わ

れる記事はほとんど見られない。

1853 年、中国浙江省定海庁に漂着した琉球船に乗った山里子など 7 人のうち 1 人が「瘡

毒」に感染しており、治療を受けたという記録がある。(26)

この「瘡毒」は梅毒の可能性が高い。

史料には記録されないが、琉球社会において、梅毒は相当普遍的に存在していたものと考

えられる。ベッテルハイムも街中で重症化した梅毒患者をよく見かけたと記している。(27)

ベッテルハイムの診療所にも性病に罹患した人が来訪していた。ある男の症状は鼠蹊部

リンパ節の炎症性腫大であったが、すでに取り除かれていたという。ベッテルハイムは以

前、首里王府からの手紙でこの国の女性は純潔であると言われたが、実際に街を歩いてみ

ると現実は異なっており、王府は私を騙そうとしていると述べている。また、琉球の人は

この病気が感染する性質を知っており、この男からの感染を防ごうと距離を置いているこ

とを観察している。さらに人々はこの悪徳の根源である、「悪い女性」について隠すこと

をしていないとして、性病に関して大らかであることが指摘されている。(28)

それは、次の記事からも窺える。

今日、若い男(親雲上という士族階級に属し、既婚で聞いた話では子が数人いるという)が最近罹った性病を訴えてきた。彼は、「若者の間ではよく見られる」と笑って言う人たちの中で話

(25) 董科・王亦錚「16 至 19 世紀琉球地区梅毒流行初歩研究」『海交史研究』2014 年第一期。稲福『沖縄疾病史』pp.372-375。

(26) 中国第一歴史檔案館編『清代中琉関係檔案続編』(中華書局、1994 年)「浙江巡撫黄宗漢為琉球国遭風難民照例撫恤事題本(缺首)」咸豊四年三月初十日、p.1389。

(27)『県史 21』1846 年 12 月 16 日、p.188。(28)『県史 22』1852 年 1 月 11 日、p.5。

Page 11: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(38): 1-11 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500... · ア、もしくは南中国からもたらされたと推測される (7) 。次の史料は18世紀後半、琉球に漂

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沖縄史料編集紀要 第 38号(2015)

すことを羞じることがなかった。ずる賢い役人たちが自らを自慢している中、琉球人の道徳の退廃のさらなる証拠を示す必要がある。私はイタリアで頻繁に処方した芳香性軟膏の乳剤を彼に与えた。ただ、ここでは相当量の薬が手元にあり、よく故郷で注文するよりも香りの好いものを使うことができる点が異なる。

(29)

ベッテルハイムがハンセン病患者と接した時には言及しなかった「道徳の退廃」である

が、性病の患者に対しては厳しく指弾している。しかも、患者は庶民階層ではなく、支配

者側の人間である点もモラルが問題視された一因であろう。通事の間にも性病は広がって

いたことは次の史料からわかる。

二人の首里通事が病気を口実に休んだので、三人目の通事が一人でしかも遅れてやってきた。私はその病気はここに来た男のもので、他の二人にも病気を罹らせたのではないかと思う。それは彼が訪問中に、その症状が古くからの性病であるとこっそり教えてくれたからだ。彼が言うには、中国から病気をもらってきた友人の家で罹ったという。

(30)

ここでは、中国を訪問した人との関わりの中で性病に感染したことがわかる。次の史料

は牛痘の知識をベッテルハイムから教授された板良敷朝忠が、性病の治療についても興味

を持っていたことを示している。

昼頃、板良敷が「医者」だと称する数人の友人とともに上船し、最悪の種類のいくつかの性病の治療について質問してきた。彼らは私に、明日家に戻って自分たちと会うよう要請してきたので、私は彼らが「医者」ではなく、患者であるということは疑う余地がないと思った。そうしているうちに、私はシュライバー博士と相談し、船の薬局の薬でお勧めの薬を彼らに与えた。

(31)

おわりに

琉球医療史における慢性感染症に関する研究が少ない中、本稿ではベッテルハイム史料

に見られるハンセン病および性病に関する記述を紹介した。人類の移動に伴うグローバル

化とともに感染症も世界に広まり、それぞれの社会に少なからぬ影響を与えてきた。近代

以前の琉球において、ハンセン病患者は人里離れた療養施設や居留区に住むことを余儀な

くされたが、実際には自由に移動し物乞いなどを行っていた。しかし、ヨーロッパや日本

(29)『県史 22』1852 年 1 月 11 日、p.5。(30)『県史 22』1852 年 8 月 20 日、p.157。(31)『県史 22』1854 年 6 月 15 日、pp.675-676。

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とは異なり、宗教的な意味で迫害されたわけではなかった。むしろ、共同体からの差別を

予防し、リーダーの管理のもと共同生活が営まれていたと考えられ、明清期中国の様態と

の類似が認められる。

実は東アジアにおいてハンセン病が社会問題としてクローズアップされるのは近代以降

である。その背景には欧州や中国などからの海外移民の急増に伴うハンセン病の流行拡大、

そして 1873 年病原菌の発見による感染への恐怖があった。1870 年代、ハンセン病が地

球規模で流行する中、中国は病原菌の主要な輸出国と考えられた。例えば、オーストラリア、

ハワイ、カリフォルニアにおいては華南からの中国人移民によってハンセン病が持ち込ま

れたと考えられ、チャイニーズ・ディアスポラとハンセン病との密接な関係が指摘された。

そして、1880 年代、カナダやニュージーランド、アメリカなどで中国人移民の入国を制

限する法律が制定された。(32)

その後、地域を問わず近代国家建設を進めた国では、国内の患

者に対して近代ナショナリズムによって国や地域などの共同体の「公共の福祉」を乱す「恥

ずべき」存在として強制的な排除・隔離が行われた。ここに至り、東アジアの多様性は「近

代」の文法によって失われていったのだ。

(32) 実際には中国人移民が流入する前、欧州系移民によって持ち込まれていた可能性が高いが、アジア系移民に対する人種差別として言説化された。Leprosy in China, pp.141-143。