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63
Instructions for use Title 徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現 : ロドリゲス『日本文典』の自敬表現記述の背景探索 Author(s) 西田, 直敏 Citation 北海道大學文學部紀要, 30(2), 129-191 Issue Date 1982-03-29 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33458 Type bulletin (article) File Information 30-50_P129-191.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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Page 1: Instructions for use...また、豊臣秀吉文書については『大日本古文書』の中の浅野家文書 (世話 2 〉 も秀吉の関白就任〔天正十三年(一五八六)七月十一日〕後のものである。羽柴筑前守時代の文書には、当然のことに十二通、相良家文書に五通、上杉家文書に二十八通、毛利家文書に六十四通の自敬表現を含むものが

Instructions for use

Title 徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現 : ロドリゲス『日本文典』の自敬表現記述の背景探索

Author(s) 西田, 直敏

Citation 北海道大學文學部紀要, 30(2), 129-191

Issue Date 1982-03-29

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33458

Type bulletin (article)

File Information 30-50_P129-191.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬現

iiロドリゲこ日本文興

Z自敬表現記述の

田出

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議川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

ロドリゲス

同玄苦

0)

述の背景探紫

ii

はじめに

山一

イユズスムE

テレン、

ジョアン・門戸、ドリゲス

(MOmMomom山円山間判

CσMW

?11i一六

が、宣教師連の

のために緩めて詳細な『日本文典恥〈〉立。含ピロ

mg含宮聞記自)

倍)のことであった。問書は、日本司教の

したのは、慶長九年三六

O

同年五月以降に長崎学林において印刷を鶏め、四年の

経て、慶長十

ご六

O八)

巻が完成した。

その第二巻に、

よく知られているいわゆる「自敬表現」についての記述がある。

「関白」

(Ccm雪山泌さ〉と「公方」(ハUHMvg

I:l:

書状や渡航免許状において、

JNひMOE霊祭主MHJH

〈的押せ出ださる

自分自

~身己「に

員 数言享f号 令 ?z払

をする。これがその主体だからである。例へ

円七長日CM円凶器2

C

(

聞召す)、

ペOM--08窓口仲〈CぴC氏gmw師以(蕊問、びに患召す〉など。

(「助辞を伴はないでその語の

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

上敬語動詞に属するもの、

また他の謙語動調に属するものに就いて」中の「助辞を伴一はない単純動調に於ける敬

意の度合に就いて、

又、丁寧に言ふ場合の規則に就いて」の「附則一」。原本一六七

T

土井忠生訳『日本大文典』

五九九一頁

三省堂)

この記述をめぐって、先に「自敬表現のゆくえ||ロドリゲス『日本文典』の自敬表現記述から古代的自敬表現の

終鷲まで||」国語と国文学

第五十八巻第八号(昭和五十六年八月)

の拙稿において、

ロドリヂスのいう「関白」と

「公方」の「書状」は、「御教書」と「御内書」を指すものであることを指摘し、中世、近世初期の・「御教書」「御内

ロドリゲスのいう文体としての「自敬表現」、が実際の文書にどのように用いられているかその実態を更に詳細に調査

-132ー

窪田」に見える自敬表現の実際の例について言及した。が、「渡航免許状」については述べる余裕を得なかった。また、

してみる必要があろうと思った。

本稿は、このような立場から、

ロドリゲスの『日本文典』

(註1)

の原稿が完成しつつあった時の将軍徳川家康の文書を中

心に十六位紀末から十七世紀初頭の自敬表現の実態を探ってみようとするものである。

一十三年)、中巻(昭和三十四年)、下巻之

資料としては、家康の生涯にわたる文書を編年体に集成した中村孝也氏の労作『徳川家康文書の研究』上巻(昭和

下巻之二(昭和三十六年)、

(昭和三十五年)、

(日本学術振興会)

そこに収載された将軍秀忠の文書をも対象とすることとした。同時代の資料として、奥野高朕氏の『織

田信長文書の研究』(上一巻昭和田士四年、下巻昭和四十五年、古川弘文館)も調査したが、

るこル]ルアし、

信長文書には、

ロドリゲ

スの示した自敬表現の文体は全く用いられていない。信長は、天正五年十一月に内大臣から右大臣に進んでいるが、

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また、豊臣秀吉文書については『大日本古文書』の中の浅野家文書

(世話

2〉

に十二通、相良家文書に五通、上杉家文書に二十八通、毛利家文書に六十四通の自敬表現を含むものがある。いずれ

も秀吉の関白就任〔天正十三年(一五八六)七月十一日〕後のものである。羽柴筑前守時代の文書には、当然のこと

(補一d)

であるが、自敬表現を含むものはない。関白就任後は自筆書状にも自敬表現を用いたものがある。

秀吉の養子豊臣秀次の関由時代〔天正十九年(一五九一)十二月十八日l文禄四年(一五九五)七月八日〕の文書

意識して白敬表現を用いなかった可能性が強い。

にも自敬表現が用いられていて、浅野家文書に七通、伊達家文書に一通、上杉家文書に二通、毛利家文書に十五通を

(誌

3)

数えることができる。なお、伊達家文書、上杉家文書、毛利家文書等に秀吉の子豊臣秀頼の文書があるが、自敬表現

を用いたものはない。

ロドリゲスが書いているように関白と公方(将軍)が白敬表現の文体を用いたとすれば、足利将軍を追放した実力

者信長の害状には自敬表現が用いられていてもおかしくはないところであるが、用いられていない。が、以下に述べ

-133ー

るように徳川家康は自分の領国内に限ってであるが、権大納言時代に自敬表現の文体によって書状を認めている。そ

こに徳川家康文書に見られる自敬表現の特色がある。

註(1)ロドリゲスの『日本文典』の成立過程については明らかで

はない。一五八四年一月六日(天正十一年十一月十四日)付、

パlドレ・戸レ

γソ・メシヤが、マカオよりコインブラのコ

レジヨの院長パ

lドレ・ミゲル・デ・ソウザに送った書簡に

は、「我等はすでに文法書及びカレピノわ包叩匂宮O

すなはち

辞典を編纂し、またニソリヨ

zuc--oすなはち大辞典、吋巾'

gz吋O

に着手した。」(村上直次郎訳『イヱズス会日本年報下』

九六真新異国叢書昭和四十四年雄松堂書庖)とあるの

で、そうした日本語文法書が既にあって、ロドリゲスがそれ

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

を利用した可能性もあるが、

あったかは不明である。

(2)羽柴秀吉の上杉景勝宛直書に見える自敬表現の例を一不す。

今度上洛事、誠遠路之心指、不浅候、殊重代竹俣兼光進上之

段、別而祝着至候、令抑傷、心静上方名所以下、不相残見物

有之様=、難可申付候、其国端々者共、景勝遅々候者、可待

兼与思召、下国之儀、早々被仰出候き、然而、為礼儀、被差

上吉田川前守候事、悦忠食候、共許被明隙侯者、来年者十騎

廿騎之総にでも被罷上、遊山尤候、乍去、欠隙候て上洛之儀

(

(

)

無用候、委細増田右衛門尉、石間治部少輔可申候也

(

(

)

(

)

2日露骨)

上杉少将とのへ

上杉山家文書之二

その文法書がどのようなもので

(大日本古文書

二O一ーニ

O二頁)

--、

徳川家康文書及び秀忠文書の自敬表現

秀吉は天正十六年(一五八八)に京都楽楽第に後陽成天皇

を迎え、諸大名に関白秀吉への絶対服従と忠誠を誓わせ、絶

対的な権力を掌握した。以後多方面にわたる文書に白敬表現

が用いられている。が秀吉文書の白敬表現については、ひき

つづき、考察する予定である。

(3)豊臣秀次の浅野幸長宛朱印状の自敬表現の例。

大政所他界=付而、遠路早速申越之段、精を入儀与思食候、

誠永々在陣苦労被成察察候也

二文様元年)(秀次朱印)

八月廿二日

浅野左京大夫とのへ

(大日本古文書浅野家文書九六頁)

秀次文書の自敬表現はこの種の内書、感状の類にほぼ限ら

れている。

-134ー

に禁制を最初として、元和一一一年(一六一六・七十五歳)

徳川家康の文書は、弘治二年(一五五六・十五歳)松平次郎コ一郎元信の署名のある三河大仙寺への寺領寄進状並び

四月に死去するまで、家康の花押または印章をもって発した

もの二、三八

O通に上る。その内容は、所領の安堵・宛行・寺社への寄進、書状、誓書、朝廷・武家・社寺に対する

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議法壁、対外的機状、渡海朱印状、米航許可朱印状等にわたる。

その中で、

自敬表衰の見られるものは、「害状」の

お敬表現ーを含む議状の総数は六十

中村泰山尚氏が家康

ることができる。なお、こ

ゅの「内書」「態状いの瀬にほぼ隈られる。

で占める。

古品

して掲出した将箪秀忠文警のやにお敬表現の昆られるものは二十一

こに今、

合む文書の数を示し

みると、次のようになる。

してと

るのは家康の花押や印殺のある蓋接家康名勺出された文議に党られるものに限る。

の研究』によって家康文書の数を年次郎別に示すと

ようになる。〈

〉内に由民敬表現な

の文書に見える自敬表現を誰に対して、どういう表現が行われているかな

つつ、年代順に配列して

なお、

-135-

に見え

〕に入れて一部す。(資料mw〉とか〔秀忠1〕とか

(一五九一一)

祝著被=思お

貌襲被日一恵召候

貌審被ロ思食一候

祝著被ロ思認候一

文棒二年(…

北大文学部紀一安

である。

1侯

資料缶〉

(井伊直政宛

ヨ号

(諏詰頼忠完

〈武蹴玉林龍宛

〈井伊夜数発

d号

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文護数

18

4

19

13

47

184

39( 5)1文禄の役

18C 1

s

11

6 内大臣氏二枚

12

40

ヲ0

297

80(2

104

70

58

30

32

ヲc5

45( 1

83(3

40( 8

23

慶長 17

18

19

ヌじ経iヌむ(AD. 1615)

2

年末総

2,380(64)

136-

徳川山総燦・徳川秀忠文書の自敬山絞殺

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年次別徳川家康文書数

ゴヒ ( )内は自敬表現を含む文書数

|文書数

松平元信時代 天正 14

弘治 2~4 4C通〉 15

松平元康時代 [6

永禄元~6 20 17

松平家康時代 18

永禄 6~9 33 永従禄 9 19 五位下参河守

徳川家康時代 天(禄AD元. 1592)

永(禄AD1.01567) 2

11 11 左京大夫 3

12 39 4

元(亀AD元. 1570) 6 慶(長AD元. 1596)

2 7 侍従従五位上 2

3 3 3

天(正AD元. 1573) 14 4

2 14 慶(長AD.516CO)

3 7 6

4 2 7

日 5 右近衛権少将従四位下 8

6 3 9

7 6 10

8 9 11

9 21 12

10 225 本能寺の変 13

11 116 左近衛権中将正四位上 14

12 78

13 44 (羽柴秀吉関白となる 7月11日〕一 16

-137一

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御祝著被一-思食-候

徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

(二宮社神主宛

慶長六年三六

O一)

誠感思召候

被一仰付-候

慶長十二年三六

O七)

被レ及一間召-候

可レ被-仰付一候

悦思食候

(仁賀保挙誠宛

(相良頼房一宛

(故松平秀康重臣宛

r-、

(有馬豊氏宛

舟役之儀被=仰付一候(角倉了意宿

(亀井慈矩宛

祝著思召候

感悦思食候

〔被~聞食及一候

〔忠節不レ浅思召之間

慶長十一一一年三六

O八)

(加藤嘉明宛

(本多富正宛

如-前々-被ニ仰付-詑(稲葉紀通宛

慶長十四年こ六

O九)

被一一感思食一候

(島津家久宛

⑥ ⑦ ⑧ ⑨

-138-

⑪ ⑫ (f:il ¥J

秀忠1)〕

)

LJ

⑭ d品、、,ノ

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制沼田応召院也

慌一忠食候也

〔欣思認候

慶長十

"..町、

喜患忍候

協患食候

境問閉山食候

祝著被ω

暴食

喜思召持統

撃態菩候

制問患ァ刀口供

門燦…別思忍侯

門学官級知恵召侯

慶長十八年二六二一一)

;万悦事:患頼!召思{段召設

北大文学部紀要 六一

O)

(島津家久宛

ハ島津椎新宛

(翻川忠利宛

〈伊東祐慶宛

(加藤簿正宛

(池田輝政宛

〈企駒正俊宛

〈稲灘蹴ハ通宛

〈黒凶長政宛

〈細川志利宛

〈竹中震門宛

(

A

乗読宛

⑩ '-/

〈。'LJ

Cu昔、、,ノ

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13ヲ…

秀志

3)〕'--'

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徳川家康

万事意思召候

(一六一照〉

悦思召候

悦思食侯

税思食候

橋被ロ仰付-詑

総mwゆ召之処

御満足患認候

鱗感患者候

連高額、

ト一御感思召設

制御盤思召候

達-円高需

の出回数表現

(喜多院完

(伊達致宗宛

(有馬豊氏発

,--、、

(池田忠継宛

(稲悶糸織宛

〈稲悶植次完

れ山田宗登宛

〆{¥

i湾機

〆働、

(森村重宛

⑧)

秀忠

5〉〕

容命む旬、d ノ

-140-

¥-" 命@

、w ノ

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御感思召候

御感思召候

御感想召候

御感思召候

御感思召候

〔大軍を召つれ候

〔大軍を召連候故

元慶〔欣如ー長突思:ょ:二以召元十感候年年思

(召一候ノ、

頼思召候

御感思召候

〔感思召候

〔感思召候

〔感思召候

〔感思召候

〔感思召候

北大文学部紀要

(森氏純宛

(岩田政長宛

(横河次大夫宛

(箕浦勘右衛門尉

(本多正純宛

(藤堂高虎宛

(蜂須賀蓬庵宛

(最上家親宛

(荒尾成房宛

(浅野長政宛

(稲田示植宛

(稲田植次宛

(山田宗登宛

(樋口正長宛

(森村重宛

⑩拘¥ーノ 、ーノ

(i2) 伝記、-'

秀忠

6)〕

秀忠

7)〕

秀忠8)〕

-141ー

(明)

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秀忠

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秀忠叩)〕

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秀忠日)〕

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-徳川秀忠文識のお数表現

〔盛患召候

門機思召候

(森氏終宛

〈務削政長宛

(一戸村議関宛

〔感思召挟

〔惑悪食候

門議悪食候

〔感悪食候

(黒沢道家宛

(大問機資郷宛

(信太勝行宛

〔神妙怒食侠

〈浅野長既成宛

年来詐

脳部怒食候

(多袈谷重軽宛

(多賀谷量級苑

〈多賀谷家経宛

悦患食候

悦態食侠

喜思召候

(多賀谷重経宛

穏思召候

ハ徳山川級官一宛

喜恵召候

(徳川頼宣宛

(徳川頼宣宛

(徳川頼窯宛

悦思苔候

秀忠弘)〕L...J

秀忠時二

秀患げ〉〕

秀忠刊日〉〕

秀忠mw〉〕

秀忠お)〕

秀忠剖〉〕

→ 142ー

場@ '--'

窃9

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警思召候

(毛利村宗瑞〈輝光〉尭

(毛利家犠宛

憐思召候

境問お話候

税思召候

〈小笠原長臣宛

事態召可ν中也

(津軽為信宛

悦思食候

型怒沼候

(橋村孫兵衛宛

視態食候

懐患召侯

間突季宛

(秋田実季宛

(秋宙実本宛

悦患苔侯

感窃重~ (1砂曾⑬ @

-143

期は、

いう視点で区分すれば、大きくさつの時議に分けられる。

の天下取りの

で、自敬表現が見出されない終期勺ある。この時期は、韓関信長、

かった。部ち、自敬表現を文書に汚いる

-関東の大名であってまだ天下に

時代で、家康

ような身分ではなかったので

るには

である。実例の見える文様一元年で緩を引いたが、或いは権大納言近衛

に昇進した

五年に至る

にしてもいいかも知れない。この時期に、家康は前間科家と並んで

の最有力大

期は、文禄一%年か

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名であっ

徳川家康・徳川秀忠文替の出回数表現

に自敬表現が用いられ始めているが、その相手は

白日の家置か自分の領関山れの社寺である。

の戦で勝利し、

支配下

に任ぜられ、

第一一一勝は、慶長五年の問問

に対しても自敬表現を

の実権を握り、

で麗長八年に

ようになる持鶏である。この持期になる

て益々強閣で

用いた出作品一一回が用いられるようになる。この時期の家康の地佼

"での最もはっ

る自敬表現である。家康

て秀忠の方は

ー門秀忠お〕

て車両いていたこと

いられている。

慶長十年四月秀患に将軍職、を譲った後も大講所とし

た絶対的なものとなってい

の障の感状に見え

に至る感状に「制御議思召候」と家康

用いている。これ

の敬意を払つ

ー〔秀忠鉛〕に一品叫んるまで、感状は全て「惑思召候」となっている。

81

門秀忠9〕

のムハ

向一人に

の両方から護状が与えられているのマ、或は、それぞれの祐筆が意識し

-144

のであろう。なお、秀忠の

は。中村孝也氏の掲出されたものでは醐成長十二年か

は室町幕府で見利毅満照明か

に至って

前述したように、織

称してい

為改年之御祝儀、

議長文書の

に至るまで将軍に絞って称されたもので、

司F

今ah

tt

な仕iしてし、 ~I土

る苧な。)カミ

ったÌJ~

の名称を用いるようになり、以後、代々の徳川

には自敬表現が問見出されないが、

L 仏間輸

の家窪たちは、

の警状を

まこと

の菅崖長棋は、天王十年正月二日、能登温井景隆・

々御貌善之越、相見郷市内議候、(一卜略〉

『織田

の爵状に

鰍一ニ御進上、刻披露出中候、

下巻五七二

いている。

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また、

t主

禁制終の書式などに訟統的な様式止を採議し、「伝統に従う

とによって、

の権威を確立したので

ある」とも言われてし

におけ

、家康の

の言語的象徴であり、

また、その表現も伝統に従うことによって

の権威を確立するように働いたものであったと蓄えよう。

但し、

の全てに

いられた訳ではなく、

感状の

においても用いられていないものもある。

そのユレは必ずしも宿意的な差ではない

自敬表現の用いられているものには、家康の地位、機成合明確に示す窓

いていると見ることができよう。ぞれが自敬表現を含む文体の法統的な議議だからである。そ

は、毛科

輝元へ

老の一人マあっ に

おけ

の変化に見ることができる。爵ケ援の

この持制端、玄℃の輝一克宛家康文惑には、

では、簿一万

に豊臣政権の一本大

のことながら自敬表現は

、、ぺJt'L、工、G

3V内

μY4idv

、しVサ/をし

たと

-145ー

::z. iま

見事成構柑くおふ送給、

猶以ν額一予知山中承候条令江省略ふ伏、恐今護一宮口

邦汚燦日

家農(花持)

つがμ

持家文書U

〈中村点字也

『徳川家康文警の研究』

一一七二頁

らの間引用は

巻と貰数々示す)

の郊く

〆今

を用いた鄭滋な礼状を出してレるむが、大坂方の

であった輝元が関ケ原の戦に散れて

),.".. ,'->

大坂裁を開け設し、

その軍門に降り、所領百二十万五

から照誌、長門

ハ万九千おに誠諒されて、

北大文学部紀嬰

Page 18: Instructions for use...また、豊臣秀吉文書については『大日本古文書』の中の浅野家文書 (世話 2 〉 も秀吉の関白就任〔天正十三年(一五八六)七月十一日〕後のものである。羽柴筑前守時代の文書には、当然のことに十二通、相良家文書に五通、上杉家文書に二十八通、毛利家文書に六十四通の自敬表現を含むものが

徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

じて毛利家を存続させることを得、輝一万は入道して幻庵宗瑞となると、家康との地位の隔絶は絶対的なものとなり、

為端午之祝儀、性子五之内単物三到来、喜思召候也

五月五日

家康黒印

出一小一四漏山

〔毛利家文書〕(下之

二七三頁)

の類の自敬表現を用いた礼状が与えられている。

家康、秀忠の文書に用いられた自敬表現は、

ロドリゲスが例示した「聞し召す」「思召す」「喜びに思召す」のほか

「仰せつけらる」「召し連れ」などにわたっている。

るのか、次の書状の如く問題になりそうなものもある。

一見して、

自敬表現であるのか、第三人称者への尊敬表現であ

-146ー

「祝着に思召す」「祝着に思召さる」「感じ思召す」「御感に思召す」「御満足に思召す」「案じ思召す」「頼み思召す」

(

)

(

)

其地之普請一段被ニ相稼-之由、自一一宰相所一申越候、祝著被一↑思食-候、留守中之儀、万端可レ被ν入情事肝要候也。

これは天正二十年九州名護屋へ出陣した家康が江戸城普請に当っている松平康重に送った書状であるが、「祝著被

思食」が秀忠のことのようにも見える。

しかしながら、もし家康が我が子の秀忠(当時十四歳)

に敬意を払って表現

したとすれば、次に一示す、

当時の家康側近の全阿弥が書いているように

「被成御祝着」

と書かれたであろう。

て、「祝著被思食」は家康の自敬表現と解される。

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蟻燭百五十挺州知披露出叩投得者、

日参十挺恭存候、

一段と被ν成時{欝祝藷パ御奥

御状令口拝見向鉄、部遠関長陣為ぷ欝届と一従

聞か}被ν

可ν有=御心開勿

髄隠錨者方へ

,R

謹言

糠月サ九日

金問鱒(程搾)

丹覚寺

(中

文義元年、

添状である。

の家康

の円覚寺から轍織を滋られたことへの

の礼状に添えた寿社取扱の全阿弥の

註〈

1〉

『出稼申ん総支陶

芸務史総覧』

九一良

人…

wA

昭和四十一年

人物往来社

147

、自敬表現を

川家康及び一斉恋文書総覧

第一鶏

〆点、、、

五九二V

以前、

に自敬表現念児いていない時燃別である。家臣の武功に対して与えた感

状にも、鄭重な「恐々

を用いている。

〈精)

昨六日散少々出山山部、父子別一郎被ν入レ情之旨、

候、探詑節走畑地中辱

鏡、連んベ聞及候に無弘和違一候、

ノ今

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

覚尤候、

(天一止十年)

八月七日 恐

々謹言

御名乗御直判

山淵勝左衛門殿

〔譜牒余録後編〕(上

三三一ー一二三二頁)

天正十五年(一五八六)に権大納言になり、

下で、前回利家と並ぶ有力な大名になった家康は、この時期に、文禄の役で、九州名護屋に出陣した。この時期に領

第二期

文禄元年(一五九二)

から慶長五年三六

OO)。

秀吉の

する権威づけとして行われるようになったものであろうが、

その提案者や、最初に文書に自敬表現を用いたのが家康

-148~

内の寺社からの贈物や、家臣からの報告等に対する礼状や返書に自敬表現が用いられるようになる。家康の地位に対

であったか、祐筆であったか、

などは明らかではない。また、同日に発せられた文書でも、自敬表現の用いられてい

るものと用いられていないものとがあり、自敬表現が統一的に用いられたものでないことを示している。

なお、家康はめったに自筆の書状を書かなかったらしく、慶長五年八月に、人質として江戸にいた前田利長の生母

芳春院の侍士村井豊後守長頼宛に芳春院への披露を予想して利長の功労を賞して書いた書状の追而書に「われら、ひ

さ/¥ふみかき申さす候へ共」と自筆書状が特例であることを断っている。従って、以下の家康文書は殆どが祐筆の

手になるものである。

(肥前守前間利長)(加賀)

今度は、ひせん殿、かL之国之内、

(

)

Lゃうしおもてへ、

御はたらき、

御てから之ゃうす申来、

ちうせつと存候、

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( まんそ

々 一中御計

5長J炉、、

て可ν給候、

てたくかしく、

尚んベわれら、

ひざF

〈1

ふみか

天正二十年・文様光年(一五九一一〉

mw其地之普請…

ハ十欠乏ニ十年)

九月十一日

〈療薬)

松平湾訪守とのへ

之由、

松平康震は松平康親(松弁忠次)

に厳重と改名し

議に当っていた。

北大文学部紀前前

〈北国)

はほっこく之議、

やかて上方、ぎりなひけ、

ぎり取に進し候、

(内府)〈倍誕祭〉

へ共、

まん

申越候、

家康印

の家臣。

八年、

(芳

此よしはう

L

へ、よく心得御申候

はうしゅいん鍛櫛むかいまいら

みう

へく候、

以上(中

六一二三i

ムハ

自筆にで

鉄、留守中之儀、万議可ν被レ

はヲー

一万石を与えられ

円光課中市リ文書〕〈中

一年、

の一字を与えられて康次と名乗

文議の役で

/三

六l八二七支〉

の名護屋出陣中、

の韓国

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徳川家康・徳川秀忠文書の白敬表現

②追而北ハ許普請之絵図被ν

入レ念被一一指越一候問、見届祝著候、己上、

〈徳川秀忠

)

l

其地之普請一段被ニ相稼日之由、従ニ宰相一所ニ申越一候、祝著被=思召一候、留守中之儀、万端可v被ν入精事肝要候、謹

(天正二十年〉

九月十一日

(井伊直政)

井侍従とのへ

(家康)

御黒印

〔木俣文書、井伊家覚書〕(中

二一六頁)

右の「祝著被-一思召一」は家康の自敬表現であるが、「追而」書には「祝著候」となっている。家康の名護屋出陣中、

直政は秀忠(十四歳)

の補佐として江戸城に残り、城普請をしていた。

-150ー

なお、同文の書状が諏訪頼忠にも送られている。

③其地之普請一段被ニ相稼一之由、従ニ宰相所一申越候、祝著被一-思召-候、留守中之儀、万端可レ被ν入レ情事肝要候也

)

)

(頼忠)

諏訪安芸守とのへ

〔諏訪家譜所収文書〕(中

一一一六頁)

諏訪頼忠は、信濃諏訪城主で天正十年家康に従属した。

(内山正次)

④遠路為二音信バ飛脚殊陣中祈念之守札到来、祝著被ニ思食一候、猶全阿南可申候也

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玉林撰

公判州文書〕(中

の見舞として武裁足立都中悪品れの五林院から陣中祈念の守礼会贈られたのに対する礼状。金持議

強・石山正次)は

の敬次役で

して寺社の

て〉

なお同日付の次の

には自敬表現は悶与えない。提って、

に除敬表現が用い

訳ではない。

向飛脚殊開中祈意みん守札、並下緒到来、祝著侯問問、全阿弥可申護告一口

不動院

151

(中

武蔵葛飾郡小諮村の不動読から名護屋在揮の

して、祈企の守札‘下績などを贈られたのに対する礼状。

(

)

猶、中納言殿義気候問、万事可ν被レ入ν精候、護告一口

々飛騨祝著被一一思惑

位一一十年〉

一月十八日

〈蕊冊以〉

井伊侍髭とのヘ

査形袋小印

小中村不能斎特集文欝〕

一一一一一貰〉

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の白敬表現

江戸残留の井伊直政からの報告を嘉した書状。

文禄二年(一五九三)

(肥前〉

⑤当国在陣為ν届、遠路罷越候事、御祝著被ニ思食一候也

正月二日

家康黒印

判判川川

』寸

Rn.

,Aリノ二宮神主

〔淘綾郡文書〕(中

二二九頁)

-152ー

家康肥前名護屋在陣中に相模二宮社の神主が使者を遺して見舞ったのに対する礼状。

慶長五年以降、関ケ原の戦で、名実ともに天下の権を手にし、江戸幕府を聞いて将軍となった時期であ

る。直属の家臣以外の、かつての豊臣政権下で一一屑を並べた大名たち、特に豊臣家子飼いの武将たち、福島正則、加藤

清正らや、家康と姑抗する大勢力であった奥羽の伊達政宗、薩摩の島津家久等々、家康の轄下に新たに参じた大名た

第一一一期

ちに対しても、自敬表現を用いた文書を与えている。家康文書の白敬表現の用例の大半はこの時期のものである。

慶長六年ご六

O一)

⑦注進状到来扱見候、伺庄内表江相働、始-一菅野城之三喜朋、敵数多討捕、殊被レ抗、胡ニ粉骨一段、

猶本

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多咽 (

五事丈高月完郎)

仁三~可賀日 -L{呆♀中丘誠 候量以 也

頭蹟

門家康)

御朱印

〔古文書集〕(下之一

ハ一二頁)

仁賀保挙誠は出羽由利郡仁賀保領主。同国飽海郡菅城攻略の戦功を賞したもの。

山畑焼候事、

⑧米良山之儀、如ニ前々J

鷹巣山被=仰付-候、然者彼巣山へ弓鉄焔一切不レ可レ入候、持於ニ巣山之中J

(衛脱)

又可ニ停止一候、以=右之出向一米良小右門尉堅可t

被一一申付一候也

(

(

)

廿

r

(頼房〉

相良左兵衛尉殿

-153-

〔相良家文書〕(下之一

O頁)

肥後人古城主相良頼房に対し米良山を鷹の巣山に指定し、狩猟等を禁ずべきこと命じた下命書。

慶長十二年三六

O七)

(松平秀康)

⑨中納言死去付而、追腹切、可レ令レ伴と申者共有レ之由、被レ及-一聞召一候、致一-其死一易、

へ者脱カ

)11111111it

左様之意J

則手置可レ被一仰付一候、中納言存ν忠輩者、加様之儀有間敷候、

御意回日鉄也

若於v有レ之者、

其主子

孫 難迄 と可 有

有 之

組雲南有

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の白敬表現

(拶一長十二年〉

閣四月廿四日

〈家康)

御黒印

越前年寄中

〔譜牒余録〕(下之

五一一頁)

家康の次男秀康が三十四歳で捜した時に、

その家臣に殉死を禁じたもの、将軍秀忠も特に本多富正に内圭一日を与えて

いる。

〔秀忠

IU

〈中納言秀康)

今度黄門可レ令レ供之由、

遠而存之回目被ニ聞食及一候、

沙汰之限候、

之土間

後零卯手深月三可十吉祥

日其旨

{侯也

(秀忠)

御里山印

-154ー

本多伊豆守とのへ

〔譜牒余録〕(下之

五一一

l五戸二頁)

⑩ 其

六時有月半詰馬(廿三被玄豊日主三蕃bp頭精と 之の故<<

本丸出

御竺来黒喜悦l~p::;; 思|

食|候

炎上之時分、

一入苦労候也

〔譜牒余録〕(下

五一六頁)

駿府城修築の助役を行った丹波福知山城主有馬豊氏の労を稿ったもの。

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⑮自二信州一至=遠弘懸塚-舟路見立候付而、舟役之儀被ニ仰付ム快也

(

)

(

(

)

角倉了意

天龍川の水運を開くために角倉了意に舟役を命じた朱印状。

⑫今度駿府就ニ普請-早々人申什差越出来、

〈慶長十二年)

十月十七日

(同盟矩〉

亀井武蔵守とのへ

祝著思召候也

家康朱印

駿府城竣工の労を嘉賞した家康の内書。

〔大悲閣千光寺文書〕(下之一

〔亀井文書〕((下

家康朱印

⑬今度駿府普請付市、其方入念堅申付、差越候者共入ν精故、早速出来、感悦思食候也

〈慶長十二年〉

十月四日

会長明)

加藤左馬介とのへ

五一九頁)

五二二l五二三一貝)

RJ

駿府築城の助役の大名にその労を謝した内書。

〔東京古典会古典籍展覧出口問〕(下之

北大文学部紀要

二四一頁)

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⑮ 慶稲長

合葉ー十三雲臓造三

稲月竿人翌年葉( 十 主跡(大事?九~職一夫翌日之六と 儀 Oの、八へ 如 )

前々

何]付

徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

(秀忠)

調将軍ぇ可ν抽ニ忠勤-者也

家康公御朱印

伊勢田丸城主稲葉地人道通の弟紀通に家替を相続させた朱印状。

〔別本稲葉家譜〕(下之

慶長十四年(二ハ

O九)

五三五l五三六頁)

-156-

⑮琉球之儀、早速属二平均一之由注進候、手柄之段、被ニ感思食〕候、則彼国進候条、弥仕置等可レ被コ申付一候也

(慶長十四年)

七月七日

ヘ島律家久)

薩摩少将とのへ

家康公御黒印

島津家久の琉球平定の功を賞し、琉球国を与えた内書

〔鰍薩藩旧記雑録〕(下之

⑩琉球国可レ被ニ領知一之旨申遺候処、

悦思召侯也

(慶長十四年)

十二月サ六日

(為脱力)

祝著之段尤候、音信、

仏草花、

盛花、

弁硫鎖千斤、

家康御黒印

唐扉風、

五七八頁)

嬬珍五巻到来、

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(島津家久)

藤摩少将股え

〔搬薩藩旧記雑録〕(下之一

琉球を与えた家康に島津家久が仏草花等の献上品を送ったことへの返書。

@

牛島幸嶋土ぷff3i宰月年)段哲

兵J卜子庫;歴六 1--

入8日端道とのJ¥

象牙、

井南蛮鉄地到来、

悦思食侯也

(家康)

御黒印

〔一同薩藩旧記雑録〕(下之

五九八頁)

五九九頁)

以-一内書一申越候花、依レ之太万一腰、馬一匹、弁椴子拾巻欣思召候、委細

7t

〔秀忠2〕就ご先度琉球一果之旨注進到来J

〈正信)

本多佐渡守可ニ申述一候也

(朱カキ)

慶長十周年

極月十五日

(島津惟新・義弘)

羽柴兵庫入道とのへ

秀忠御判

〔鰍薩摩旧記雑録〕(下之

慶長十五年(一六一

O)

⑩其許普請被レ入レ精候故、本丸早々出来、期間剖候、暑天之時分一入苦労候也

北大文学部紀要

O一頁)

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

ノ、警細月平JII_廿者内:~~日 3記~とのJ ¥

家康公御黒印

〔細川家記〕(下之一

名古屋城築城の手伝をした細川忠利への内書、将軍秀忠も五月十九日に細川忠利の労を稿う内書を与えている。

六二

O頁)

〔秀忠3〕就二其地並日請」

(慶長十五年)

五且十九日

(忠利)

細川内記とのへ

辛労之段、

秀(忠

三警 4竹月芋〕中(廿吾就丹重五こ51後尽日 Z 守 l文

殿 其許普請

名古屋城築城の労を帆った内書。

察思召候、

猶重而可コ申越〕候也

秀忠公御黒印

辛苦察思食候、

猶使者可レ申候也

秀忠黒印

〈精

)

1

1

1

1

1

(

也カ)

⑩其許普請被レ入レ情之故、木丸早々出来、悦思食候、炎天之時分一入苦労候怠〈

〔細川家記〕(下之

〔竹中文書〕(下之一

六二

O頁)

-158ー

六三

O頁)

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(慶長十五年〉

六月廿日(

純度)

伊東修理亮とのへ

家康公御黒印

〔日向記〕(下之一

六一九頁)

名古屋域築城の手伝をした日向飲肥城主伊東祐慶への慰労の内書。次の加藤清正への内書も同じ時のものである。

⑮其許普請被レ入レ精之故、本丸早々出来、悦思食候、炎天之時分一入苦労侯也

(慶長十五年)

六月二十日

家康黒印

加藤肥後守とのへ

円相加藤神社文書〕(下之

六一九l六二

O頁)

-159ー

@其地之普請一段被ニ相稼一之由、従=宰相所一申越候、祝著被コ思食-候、留守中之儀、万端被レ入レ精事肝要候也

)

(威主)

本多豊後守とのへ

〔譜牒余録〕(下之

六一一一一一|六三一二)

名古屋城築城工事に助力した岡崎城主本多康重を慰労した内書。

⑮今度就ニ名護屋普請

J

昼夜被v入レ精之故、早速出来、喜思召候、猶本多上野介可ν申候也

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

〔慶長十五年)

九月晦日

〈池田輝政〉

播磨少将股

神君御黒印

〔士口備温故〕(下之一

六三二頁)

名古屋城築城助役の播磨姫路域主池田輝政を慰労した内書。

@ @

全く同文の内蓄が、同日に叫讃岐高松城主生駒正俊、白神山登後臼杵城主稲葉典通に与えられている。

(下之

六三四頁)

また、

ほぼ同文の内書が筑前福岡城主黒田長政に与えられている。

(精)

@今度就ニ名古屋普請

J

昼夜被レ入ν情候故、

(

)

(

)

(長政)

黒田筑前守とのへ

早速出来、悦思召候、

(正純)

猶本多土野可レ申候也

-160ー

〔別本黒田家譜〕(下之

六三三頁)

中村孝也氏は右の「秀忠」は「家康」の誤としている。従って、家康の自敬表現に加える。

塵長十八年(一六二二)

⑮其・許普請入レ精之故、

(慶長十八年)

六月廿日

本メL早々I-LI

皇室実~jJ:::;; 悦|

思|召|{戻‘

炎暑之時分一入苦労候也

Page 33: Instructions for use...また、豊臣秀吉文書については『大日本古文書』の中の浅野家文書 (世話 2 〉 も秀吉の関白就任〔天正十三年(一五八六)七月十一日〕後のものである。羽柴筑前守時代の文書には、当然のことに十二通、相良家文書に五通、上杉家文書に二十八通、毛利家文書に六十四通の自敬表現を含むものが

(畏泰)

平野遠江守殿

門書上古文書〕((下之一

七七八頁)

二条城普請の功を賞した内書である。将箪秀忠も次の内書を与えている。

〔秀忠

5〕其許長々普請、

(慶長十八年〉

六月七日(

長泰)

平野遠江守殿

炎気之

御巧節黒昔、印3別

市辛

!| 通

岩瀬古左衛尉可レ中候也

@今度為ニ学問J

廓山其地之進候、彼仁取立之僧侯之問、不レ被ν置レ心御伝候而可レ給候、万事頼思召候、恐々謹告一向

(

)

(

)

-161ー

一乗院殿

〔本光国師日記〕(下之一

OOl八

O一一良)

廓山は家康が生母の菩提を弔うために建てた小石川伝通院の僧で、奈良に遺して一乗院門跡尊勢及び喜多院空慶に

就いて修学させた。その時の依頼状である。次は空慶への依頼状である。

⑮今度為=学問J

廓山其地ぇ進候、彼仁取立僧候問、

(

)

)

不レ被レ置レ心被レ伝候而可レ給候、万事懇思召候、謹言

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

喜多院

〔譜牒余録〕(下之

O一一貝)

慶長十九年(一六一四)

⑧其許就日一普浩賢

(慶長十九年)

五月廿七日

(伊達政宗)

大崎少将殴

昼夜被ν入レ精之段、

倒剖剖候也

権現様御黒印

〔伊達政宗記録事蹟考記〕(下之一

八二八頁)

-162ー

慶長十九年三月、家康の第六子松平忠輝が高田に築城した時に助役の大名の一人として政宗が自ら越後に赴き工事

を督した労を稿ったもの、政宗に対する数多くの害状には見られなかった「悦思召」の表現が用いられていることが

注意される。図に忠輝の室は政宗の女で姻戚関係にあった。

@其許普請被レ入ν精之故川本丸早々出来悦思食候、

(

(

)

(由一U

民)

有馬玄蕃頭とのへ

炎天之時分、

一入苦労候也

〔譜牒余録〕(下之

八二九頁)

丹波福知山城主有馬豊氏が江戸城修築助役をした時の本丸竣工に際しての内警である。

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⑥これと全く同文の内書が同日に高橋元種に与えられている。(下之二

二五八頁)

この時期の内書には自敬表現が用いられることが多かったと見られるが、常に用いられたというわけではなかった

ことを、次の毛利氏の一族吉川斑人頭広家への内書が示している。

遠路普請、不レ嫌ニ昼夜一依レ入レ精早々出来之由感悦候、的、性子弁羽折袷遺レ之候也

(

(

古川搬入頭とのへ

〔譜牒余録〕(下之

八二七l八二八貰)

同文の内蓄が翌五月七日に福原越前守広俊にも与えられている。(下之一

八二八頁)

-163-

同年九月、家康は駿府にあったが、江戸域修築工事に助役した藤堂高虎に内書を与えて労を稿ったが、これにも自

敬表現はない。

今度江戸普請付市、

(庭長十九年)

九月一二日

「高虎)

藤堂和泉守股

日夜入

精黒之丞由

誠一将幸軍$

申越

乍ニ恒も一苦労之儀、喜悦候也

〔藤堂文書〕(下之一

八三一四頁)

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の白敬表現

⑮加賀・能登・越中三ヶ国之事、

〈凶嵐長寸九年)

九月十六日

(前回利光)

松平筑前守殿

〔駿府記〕(下之一

八四四頁)

加賀金沢城主前田利長の死にまって、

その後を継いだ利光(利常)

に与えた領国安堵状。

@今度倭人之族、種々就v致-一申事

J

其方事一入案思召之処、無二呉儀一茨木迄被ニ立還一之由、御満足思召候、猶本多上

野(介

十監可

zi注目0'厄

(家康)

-164一

片桐市正とのへ

〔片桐文書〕(下之二

二五二頁)

大坂城中の主戦派と乳繰を生じた片桐且元がその居城茨木城に無事立退いたことを悦んだ内書である。

〔秀忠

6〕早々出馬可レ仕之旨、被-一仰下一候之趣、恭奉レ存候、

路次無ニ由断一可レ参候へとも、大軍を召つれ候者、

そく可レ有ニ御座一と存、迷惑仕候

(下略)

〔武州文書〕(下之一

八六一二|八六四頁)

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慶長十九年十月二十四日大坂冬の陣に加わるべく江戸を進発した将軍秀忠が自分が到着するまで大坂城攻撃を待っ

てほしいと本多正純に言い送った直書の冒頭部である。

〔秀忠

7〕書状今日懸川にて令ニ披見-候、路次中飛立程におもひ候へども、

大軍を召連候故、

はかゆき候はて令ニ迷

惑一候

(下略)

〔藤堂文書〕(下之一

八六七頁)

十月二十八日に藤堂高虎に出した〔秀忠6〕と同趣旨の直書。

@河越候市、大和田致一一責捕一之由、手柄共候、

(

)

)

(池田忠継)

松平左衛門督とのへ

一段御祝著被ニ思食一候也

-165ー

〔譜牒余録〕(下之

八七六頁)

池田忠継は備前岡山城主、大坂冬の陣緒戦の戦功に対して家康が即刻感状を与えたもの。忠継は家康の孫である。

駿府記は家康が「御機嫌快然、御褒美内書被レ遺」と記した。

@於二大坂仙波表J

蜂須賀阿波守手、紛レ夜切出之処、合レ鑓則追ニ崩敵」剰蒙レ庇之条、無二比類一仕合粉骨之至、御感思召

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

{民

十警也

稲二宇田(月在修示廿~

理理四亮日とのJ¥

(家康)

御室同判

大坂冬の陣に戦功のあった武士に家康は多くの感状を出している。

⑮今度於二大坂仙波表J

蜂須賀阿波守手、

(

)

(

)

廿

(植次)

稲田九郎兵衛とのへ

紛レ夜切出之刻、

稲田植次は示植の子で、当年十五歳だった。

11対

粉メ!!.円

伽 之下司'0士~ &..--. 書歪フfミ竪

半卜阿君

事達

I局

@

十戎山 二下 -1-

回(月在企織宝廿さ室部:1/:四 12と日 rの一、J¥

@橋口内蔵助正長にも全く同文の感状が与えられている。

討ニ捕首一之条、

〔寛、氷諸家系図伝〕(下之一

粉骨之至、

御感思召候也

〔寛永諸家系図伝〕(下之一

八八三頁)

-166一

八八四八八五頁)

〔寛、永諸家系図伝〕(下之

(下之

八八五頁)

八八六頁)

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@今度於ニ大坂表械多弁伯楽淵J

(慶長十九年)

十二月廿四日

(村議)

森甚五兵衛どのへ

〈蜂須賀至鎮)

場ニ粉骨一之条、阿波守達二高間」

(家康)

⑩今度於二大坂伯楽淵J

合レ鑓ニ追崩敵J

剰討一-捕頭一之条、

(

)

(

)

廿

(氏純)

森甚太夫とのへ

(歪鎮、}

@今度於コ大坂仙波表J

蜂須賀阿波守手、

(

)

廿

(政長)

岩田七衛門とのへ

紛レ夜切出之処、

⑫ ム、J

十室長

E42 品)表

日 伯H 楽

ムド4

鎚追

花長壁押ぎFミ

乗j

捕首

北大文学部紀要

粉骨之至、

合レ鑓、

粉骨之至、

御感思召候也

御感思召候也

〔森文書〕(下之一

〔寛永諸家系図伝〕(下之一

則追二崩敵一之条、

八七頁)

八八八頁)

-167一

粉骨之至、

御感思召候也

〔寛永諸家系図伝〕(下之一

御感思召候也

八八九頁)

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

横河次大夫とのへ

〔横川文書〕(下之

八九

O頁)

横河次大夫は備前岡山城主池田忠継の弟忠長の家臣。

⑮ メ〉、寸

(度十雲於7ミI矢立証坂百一)表四

機日

粉同

花家会ミ

押き御

感思召{侯也

箕浦勘右衛門尉とのへ

〔箕浦文書〕(下之一

八九

O頁)

-168-

箕浦勘右衛門尉は池田忠長の家臣。

〔秀忠

8U昨十六日之夜、

於二大坂仙波口J

之者共討捕、無コ比類一働、実以感思召候、

(

)

(

)

(蜂須賀宝鎮)

敵為ニ夜懸一雄二差出

J

阿波守番所以下堅申付故、

(正信〉

委曲本多佐渡守可レ申候也

鉱山一真儀一即時出合、

随分

蓬奄

〔寛永諸家系図伝〕(下之一

八七九l八八

O頁)

大坂船場合戦の功をたてた蜂須賀至鎮の父蓬蓄に秀忠が与えた感状である。蓬巷は当時江戸にいた。

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慶長二十年・元和元年(一六一五)

@今度坂上紀伊守被ニ差越J

殊県之馬一匹、白鳥二、弁国元之漬蒙一桶到来、刑制剖候、

付而、江戸留守申付候処、諸事入レ念被-一相勤}令=満足↓候、猶本多上野介可v申候也

(

)

(

)

〈家親)

最上駿河守とのへ

)

(

(

)OIl--

⑩良昭院儀、無二是非J

此上左衛門督事頼思召候問、

(

)

(

)

(成房)

荒尾但馬守とのへ

万事異見尤候、

家康の第二女良昭院死去に際し、荒尾成房に孫の忠継(岡山城主)

⑩於ニ其表一及一二戦一敵数多被ニ討捕-之条、

(

)

(

)

(長良)

浅野但馬守とのへ

無一一比類一仕合、

御感思召候也

北大文学部紀要

其方律儀之心底、

〔譜牒余録後編〕(下之

(泰勝)

委細秋元可レ申候也

〔池田氏家譜集成附録〕(下之

の後見を依頼した内書である。

〔浅野文書〕(下之二

年来心安

四頁)

-169ー

八頁)

一五頁)

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

大坂夏の陣の初戦に大勝した和歌山城主浅野長歳への感状。

〔秀忠9〕今度於一一摂州大坂仙波表」松平阿波守陣所敵入-一夜討一之刻、合レ鎚、

感思召候也

(慶長弐姶年〉

正月十一日

(示植)

稲田修理亮とのへ

御(時

半u~

即時追崩、剰被レ庇之条、無-一比類一働、

大坂冬の陣の戦功に対する感状である。⑩参照。以下〔秀忠却〕まで同じ。

〔譜牒余録〕(下之

(蜂須賀至鎮)

〔秀忠叩〕今度於ニ播州大坂仙波表J

松平阿波守陣所、

(

)

(

)

〈植次)

稲田九良兵衛尉とのへ

〔秀忠日〕今度於-一摂州大坂表械多崎J

臨=懸合之戦場」

(

)

(宗受)

山田織部佑とのへ

敵入=夜討一之刻、

端-一粉骨一之条、

八八四頁)

-170ー

令-一高名一之条、

粉骨之至、感思召候也

〔譜牒余録〕(下之

(蜂須賀至鎮)

松平阿波守令ニ抽出達一之通、

八八五)⑩参照

感思召候也

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〔譜牒余録〕(下之

八八六頁)@参照

〔秀忠ロ〕右と全く同文の感状が樋口正長にも与えられている。⑧参照。

〔秀忠臼〕今度於ニ摂州大坂表磯多崎弁博労淵一防戦之刻、

(

)

(

)

(村返)

森甚五兵衛尉とのへ

(蜂須賀至鎮)

端コ粉骨-之条、松平阿波守令コ洩達一之趣、

感思召候也

〔森文書〕(下之一

八八七

l八八八頁)⑩参照

〔秀忠H〕今度於ニ摂州大坂博労淵J

懸合防戦之刻、合ν鑓追山朋、剰遂-一高名-之条、粉骨之至、劇則剖候也

(

)

(

)

(氏純)

森甚大夫とのへ

-171ー

〔譜牒余録〕(下之

八八八

l八八九頁)⑩参照

〈蜂須賀至鋲)

〔秀忠日〕今度於-一摂州大坂仙波表

J

松平阿波陳所、

(

)

(

)

(政良)

岩田七左衛門尉とのへ

敵入ニ夜討-之刻、

合レ錨即時追崩、

期工粉骨一候条、

感思召候庇

北大文学部紀嬰

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

内秀忠凶〕今度於=摂州大坂今福表一一戦之時、

(

)

(

)

(義国)

戸村十太夫とのへ

合レ鑓被レ庇之条、

〔譜牒余録〕(下之

粉骨之至、

感思食候也

八八九頁)@参照

八九一頁)

〔秀忠げ〕今度於ニ摂州大坂今補表-防戦之刻、合レ鑓、剰数ケ所被レ庇候条、無ニ比類-働、粉骨之至、感思召候也

)

(

)

(

)

(憲忠)

梅津半右衛門とのへ

-172ー

〔秀忠回〕今度於}一摂州大坂今福表一防戦之時、

(

)

(

(

)

(道家)

黒沢甚兵衛尉とのへ

合レ鎚、

端ニ粉骨一之条、

(大)

〔譜牒余録〕(下之

〔羽生文書〕(下之一

感恩食候也

〔黒沢文書〕(下之

八九一頁)

八九二一貝)

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〔秀忠四〕今度於-一摂州大坂今福表一防戦之時、

)

(

(資卿)

大塚九郎兵衛尉とのへ

合レ館、

(之脱力)

端-一粉骨一条、

感乙思食候也

〔秀忠却〕右と全く同文の感状が同日に信太内蔵助勝行に与えられている。

〔秀忠剖〕今度於一一其表J

(慶長弐姶年)

五月朔日(

長成)

浅野但馬とのへ

無一-比類一働、依レ之頚数多到来、

(秀忠)

大坂夏の陣の戦功に対する感状。@参照。

年未詳

@為一一端午之祝儀J

作子一二、

内生絹一到来、悦思食候也

(家康〉

御朱印

五多 月賀 一谷 日左i近華大夫とのJ¥

北大文学部紀要

〔譜牒余録〕(下之一

情可レ励=軍忠-之肝要候也

〔浅野文書〕(下之二

八九二頁)

~173-

一六頁)

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

常陸下妻城主多賀谷重経への礼状。

@為日一重陽之祝儀日

小袖二到来、

九月八日

〈室経)

多賀谷左近将監とのへ

⑩為-一重陽之祝儀バ

位 n 悦|

皇室思l~p '-' t:},'

候也

九月九日

(室経)

多賀谷左近とのへ

重之内

御2宍黒き到印一来

〔譜牒余録〕(下之

二六七l二六八頁)

zm牒余録〕(下之

悦思食候也

〔譜牒余録〕(下之

十二月晦日(

意経)

多賀谷左近とのへ

之内綾

重言語印じみ

喜|思|召1f良也

⑧為二歳暮之祝儀」

〔譜牒余録〕(下之

二六八頁)

二六八頁)

二六九頁)

-174-

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@為ニ歳暮之祝儀J

悦思召候也

(家康)

御黒印

小袖二到来、

十二月廿八日

(徳川頼将(頼宣))

常陸少将股

家康の第十子徳川頼将(頼宣)

元年まで「遠江中将、遠江宰相」であった。

への礼状。

〔権現様台徳院様大猷院様御内書集写〕(下之二

頼宣は、慶長十一年から十四年まで「常陸少将」、

五月五日

(描川頼宣)

遠江中将殿

Illfí~ 子

重之内

御会空黒き到印…来

i| {良也

@為-一端午之祝儀

J

〔権現様台徳院様大猷様御内書写〕(下之二

五月五日

(徳川頼宣)

遠江宰相殿

@為ニ端午之祝儀

J

惟子三之内単物一井袷一到来、割刷剖候也

(家康)

御黒印

北大文学部紀要

〔権現様台徳院様大猷様御内書写〕(下之二

二七

O頁)

慶長十六年から一克和

-175ー

二七

O頁)

二七一頁)

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

⑪為-一歳暮之祝儀J

小袖三到来、

十二月廿八日

(徳川頼宣)

遠江中将殿

悦思召候也

(家宿泊〉

御黒印

〔権現様台徳院様、大猷院様御内書写〕(下之二

五月五日

作子五之内単物三到来、喜思召候也

(家康)

@為】}端午之祝儀J

宗瑞

宗瑞は毛利輝元、関ケ原戦に敗れ、慶長五年十月入道し幻庵宗瑞と号した。

五月五日

@ 為

端午之祝儀

Il'fi; 子五内単物

黒妄詞

印き実

1¥ i侯也

宗瑞

@為コ歳暮之祝儀」小袖一重之内綾一到来、悦思召候也

〔毛利家文書〕(下之

〔毛利家文書〕(下之

二七ニ頁)

二七三頁)

二七四頁)

-176-

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十二月廿八日

宗瑞

(家康)

〔毛利家文書〕(下之

三月十八日(

長距)

小笠原間鴨川とのへ

⑮校柿一箱到来、悦思食候、猶大久保相模守可レ申侯也

(家康〉

小笠原靭負長臣への礼状。

〔書上古文書〕(下之二

十二月廿八日

〈為信)

津軽右京亮とのへ

小袖一重到来、喜思召可レ申也

(源家康)

@為ニ歳暮之祝儀

J

@柄杓五到来、

悦思食候、

卯月十五日

北大文学部紀要

〔津軽文書〕(下之二

(正信)

猶本多佐渡守可ν申候也

(家康)

御黒印

二七五頁)

二八

O頁)

-177ー

二八四頁)

Page 50: Instructions for use...また、豊臣秀吉文書については『大日本古文書』の中の浅野家文書 (世話 2 〉 も秀吉の関白就任〔天正十三年(一五八六)七月十一日〕後のものである。羽柴筑前守時代の文書には、当然のことに十二通、相良家文書に五通、上杉家文書に二十八通、毛利家文書に六十四通の自敬表現を含むものが

徳川家康・徳川秀忠文書の白敬表現

橋村孫兵衛とのへ

〔譜牒余録後編〕(下之

五月五日(

実李)

秋田藤太郎とのへ

@為ニ端午之祝儀一惟子三之内生絹一到来、悦思召候也

(源家康)

中村孝也氏は「源家康」印から、慶長七年頃から同十年或は十四年頃までのものとする。

〔秋田家文書〕(下之二

(燭)

@遠路大鷹二弁蛾蝿三百挺到来、

八月十八日

秋田藤太郎とのへ

@為二重陽之祝儀J

小袖一重到来、

九月九日

〈秋田突季〉

生駒藤太郎とのへ

悦思食候也

(源家康〉

〔秋田家文書〕(下之二

悦思召候

(恕家康)

二八七頁)

二九九頁)

-178-

二九九頁)

Page 51: Instructions for use...また、豊臣秀吉文書については『大日本古文書』の中の浅野家文書 (世話 2 〉 も秀吉の関白就任〔天正十三年(一五八六)七月十一日〕後のものである。羽柴筑前守時代の文書には、当然のことに十二通、相良家文書に五通、上杉家文書に二十八通、毛利家文書に六十四通の自敬表現を含むものが

〔秋田家文書〕(下之二

三OO頁)

「恕家康」印は慶長十四年以後という。

五月五日〈

突季〉

秋田城之介とのへ

開i

之内単物

仁同 r、日川空到

EPE実

ii 候也

@為-一端午之祝儀J

〔秋田家文書〕(下之二

O

一l三

O二頁)

ロドリゲスのいう「渡航免許状」と自敬表現

-179一

ロドリゲスが『日本文典』で自敬表現の用いられる文体で書かれるとした「渡航免許状」がどのような文書を指し

たものであるのか、実は明らかではない。

岩生成一氏の『朱印船貿易史の研究』(主文堂

昭和三十三年)

によれば、

豊臣秀吉の朱印船制度の創設は文禄一克

年(一五九二)頃といわれているが、秀吉の下附した海外渡航船の朱印状の現存するものは絶無で、

その形式を明ら

かにすることが出来ないという(同書四八頁)。なお、秀吉が朱印状を与えたのは京都の茶屋四郎次郎、角倉了意、伏

(注1)

見屋、堺の伊海屋、長崎の末次平臓、荒木宗右衛門、糸屋随右衛門、船本畑平次等の船九鰻であり、豊光寺承見がそ

の事に当った。(村上直次郎『増訂呉国日記抄』序説

異国叢書

昭和四年

昭和四十一年改訂複刻版

雄松堂書店)

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

徳川家康は、関ケ原の戦の後、慶長六年三六

O一)頃から異国渡海朱印状を交附し、

(註

2)

の交易を公認しているが、家康の朱印状の書式は定まっていて、金地院崇伝が「異国御朱印帳」に示した形式による

ルソシ、安南、

シャム等と

もので、自敬表現の用いられる余地などない単純明瞭な文言である。

-180ー

自白木到

西洋舟也

慶長第十三成申年正月十一日

御朱印一

「ゴシュインと称する朱の印の免許状」について、

フロイスは「公方様又は日本の諸王の免許状は文言は極めて筒

短にして意味は深長なり」とその書簡に記している。(村上直次郎訳「耶蘇会土日本通信上」『イエズス会日本年報上』

四五二頁、

四五五頁

新呉国叢書

昭和四十四年

雄松堂書応)

十六位紀から十七世紀にかけての西洋諸国との交渉文書については、異国叢書の

『異国往復書翰集』

(村上直次郎

訳註、雄松堂書筒

昭和四年初版

昭和四十一年改訂復刻版)

に四十七通が集成されている。そこに収載された秀吉

の台湾やフィリピン諸島への入貢を促した文書を含む六通の書状は何れも純粋の漢文、即ち中国語文であって、自敬

表現は全く司用いられていない。これは、外国との正式の外交通商文書は日本語文としては書かれなかったためである。

同じ呉国叢書に収められた『増訂異国日記抄』(村上直次郎訳註)

の附録「異国御朱印帳」には慶長九年正月十

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日から元和二年正月十一日に至る期聞に家康の名で発行された渡海朱印状百七十八通が見出される。これらの外交、

通商文書や、渡海朱印状は、秀吉の時代から外交文書を扱った豊光寺承見が家康の時代にも取扱ったが、慶長十二年

(註

3)

十二月一一十七日に残した。その跡を円光寺一万倍が引きついだが、慶長十七年五月二十一日に裂し、以後、金地院崇伝

が担当した。

ロドリゲスのいう「渡航免許状」は家康の「渡海朱印状」でないことは明らかである。秀吉の朱印状は岩生氏の説

く如く全く不明であるが、

最光寺承見は秀吉の外交文書事務に携っていて、

その経験を家康に買われたのであるか

ら、その文書の形式は、

ほぼ同様のものであったろうと思われる。

外国代の渡航免許状がこの渡海朱印状であるとすれば、

と、家康の発行した来航許可朱印状がそれである。家康は慶長十一年から十八年にかけて、十一通の外国船に対する

外国からの来航許可はどのようなものであったかという

来航許可朱印状を発行しているが、

そのいずれにも自敬表現は用いられていない。家康の外交関係の文書は、

正式の

-181ー

ものは、純粋な漢文即ち中国語文で書かれた。それに携ったのは、前述の豊光寺承見、円光寺元倍、金地院崇伝等の

僧侶であるが、

その文書作成の記録である「異国日記」によって、書状の作成の経緯や体裁、内容等を知ることがで

きる。その中で、書状の文体と表現について、下命のあることが記されていて注目されるが、家康の来航許可朱印状

等に候体が用いられる場合には特に「日本の文体」で書くようにと指示されている。以下に文体・表現について記さ

れている箇所を示す。

一、慶長十四年七月七日、

(本多上野介正純)(後藤庄三郎光次)

駿府御木丸へ国光寺同道して出仕候処ニ、本上州、後庄左被仰渡候ハ、

呂宋ヨリ類主

書札上申候仮名-一平文言ニテ候ヲ御失却候、

大方之心得ハ先年御制札被下恭候、

黒船関東へ可相渡候、

ふら

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

て、伴天連被加御憐態候様ニナト、ノ文言ニ候、呂宋ノ守護、先年一一替、、氷々居住候由申来、其返書調候様一一と被

仰候、則相調候文言如何ニモ平話ニ一斗近様ニと仰ニ候、興問光寺相談、伝書之、

日本国

源家康、報章

目宋国主

醒下

来書披見、折然、抑木邦之人等、於、貴域行非法之己問、就達問、制書相渡之処、被任其趣、平均安静尤可然、車頁

可被相渡由、其節委曲可承知、次居住之伴天連、

国守護相替旧年、永可有逗留段、珍重、如例年、黒船室関東、

柳不可有疎意、猶期後音時者也、

「御朱印い一

-182ー

慶長己酉、孟秋七萱(

右大高ニ書之、上包ハ大高ヲ横折ニシテ包ミ、上下ヲ折返ス、上ニ書付無之、但御朱印ハ、七月廿一日ニ、以下数

通一度ニ被押候也。

(一七l一八頁)

(慶長十四年七月)

一、同十一日頃於

御本丸、本上州被仰候ハ、

ヲランダヨリ御堂日ヲ上候(中略)、此返書認、

下書上可申由也、

光寺御蓄候、此書ハ少文体可然様ニト仰ニ候

日本国主

源家康、復章

阿蘭陀国主

殿下

遠伝

信書披而見之、則近如対高顔殊投贈四種之方物、観悦有余、抑従

且頁邦遣異域兵船、大将禅将許多軍衆之

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市内、到議本邦松浦津、殊興関邦可宥和睦堅議、予所希也、両国間意、則縦難問附千里之海降、年々往来、

於翠閤正加熱議令帰有道也.依之滅海高容安底的必呉、資邦真如材陣数人、遺賢ー本邦一的被立鑓舎之地、議船之湊、

可修鱗交者也、余事付在務主舌一線、惟時紋記入、自議不備、

自今以能、

慶長十回、

孟秋二十

(二一

iea

「少文体好然様司こというのは、

ベき

ようにとの指示である。

て白木関

絞英大将軍秀忠、

五和国劇史机下、

-183-

特異邦之土

兇尤感欣有余、議悉鱈いサ佐譲守

穏令略者也

慶長十七磨、

錦戦j

此将簿様之諦護者、

会選子、

ツニキリノテ半枚

意ノ竪文ホト

架寵ぞ締グ、

そ下絵ノ

鳥子ニテ、上

ツキ自有テ、中小トニ朱印一ツ押テ、

ハ無之也(中略〉

北大文学部紀婆

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徳川家康・相似刈秀忠文書の自敬表凝

お之書ハ江戸

そ一小存候、

ヘノ返事被成間数ト欝謎候へ共、長お山川忠丘二従江戸

一一将軍様御逝議之畿被中上候ニ日付一問、

ヘト被仰出候故御害相認候案紙夜左、

ノ趣一一震と被物上鉄、然ハ品共通ニ御認審議候

一、日本間

報章

五和国刺史

ドタ

ポナ簡披問問殊方物倣之、

不堪折感、

剤上野介正純筆舌表尚治

鐙築壬子、九月

184-

銅!印

ハ一一一一一i

!I)

の地位によって

にふさわし

への配躍があったことがわかるつまた、

への文書には、

康が一・45を議した。慶長十七年六月廿日にで書をした叶機械開始数般間主い

ノビスハンヤ、

新イスパニア、

郎、メキ

シコ)

への返警について金地震崇伝は

d

次のように書き残している。

/

ヅ六月サ三日御域持参、直ニ備上覧、文設叶御気色、刻一内務議出問被仰也、(中路)品川剖日ノ朝、

ルu二行也、

十八字(中路〉

ヲハ

日吋ノや

御朱印ハ

ノ奥一一、

?とお一ア被為押候也

サ四日御城へ

絶叫内調気色、頓司被為押印旨御議弘

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七l六八頁〉

ダ¥

戸〕は、

駿点的城拘で「関光寺ト

制御応数にで即席

〈慶長ふ!間同年十万六日

ということもあれノ、

また、「おらんだへ、

日本ノ文体ニテ御朱印可被灘、

へ可申渡的也、

附則一紙

品仇

月十七日条、

…一回頁)として、次の来航許可状をω

記しているc

(

おらんだ船、

日本へ波海之時、

i

何之津え、

不可有異畿候、

向後均一リ此国際、

一句被控来、

務疎意事問敷候

也、持如件

慶長十洲口年七月什五日

一一岡鼻咽

も‘-

h

寸法たん」

(村上直次郎氏の

によれば

ν相H汁

mwロ日

(Mmwncc

。同102%さmwM判mMMM〉

と、「

やはん一

(Mm宅鈎)

らんす

かとL 、

ひ52ピコ

以下関じ)

「J

ちゃくすくるうんぺいけい

(明叫1h凶同阿

AMOZ

が戸内庁ゆユ守、

「あふらは

-185ー

主y

f主ん

でん

く」(〉釘喜界言語出向凶

gω325、「きらあす

へいけ一

QARCHm凶器汚包守山内〉

の四点併に同文

のものが与えられている。

家厳の出した来航許可状を以下に四通絡げてみるが、

前にも述べた知く、

「日本の文体」

れたものにも自敬

内民、。

中十九をしV

{ωお小中へ商船被ν技候者、

不レ可ν・有一一疎略一鉄、霞

んべ雄二侍之津湊バ

如何様

高売候共、

可ν被ぷ心安

持貿抑

北心人文学部紀繁

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徳川家球・徳川秀忠文書の白敬表現

売違乱在レ之間敷問、舟何程成共渡海可レ然候、委曲従ニ安仁方一可レ申候

慶長十一年丙午拾月十日

(家康)

御印

闇手半ジ古=南.3辺べ土ド果3美ミ伽ノJ 解ヶー羅ヲ留ル那ナ力日ノJ

ハンナンドミゲル

(明

2EEロ門田昌片

EO】印NC。ロ)

〔異国御朱印帳〕(下之一

は大泥のオランダ商館長で選選貿易を管理していた。

四九九l五

OO頁)

ジャコベク

ツカラナカ

(同仰の。σSロ問。nW21ロmHぬの付)

はオランダ船の船長。

一186-

⑨此船来春帰朝之時、雄二何之浦著岸一不ν可レ有-一相違一者也

慶長十二年六月二日

るiE

す|胃i

i同|

(源問問…)

〔本受寺文書〕(下之一

五一四頁)

「西るいす」は本名西宗真、家康の命でキリシタンに入り、

ルソンの国情を探るため渡航したという。慶長十七年

にも家康から来航許可朱印状を与えられている。

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一ゆゑすはんや、

とふけ、

てい、れるま申給へのひすはんやより日本え黒船可ν被レ渡由、前呂宋国主被ニ申越-候、於一一

日本-何之湊へ難ν為-一著岸一少も疎意在レ之間敷候、委細此伴て連、

慶長十四年十二月二十八日

(家康〉

一朱印一

ふらい・るいす・そてろ可レ申候

〔西訓牙国セピlヤ市印度文書館文書〕(下之

O二頁)

「ゑすはんや」はイスパニア、「とふけ、

てい、れるま」はドケH

デ日レルマ

(ロロmco己σHkmw一「凶)

でルソン太守。

「伴て連ふらい・るいす・そてろ」は伴天連明日可

FCUω

。zz。

④一、

いきりすより日本へ、今度初而渡海之船万商売方之儀、無相違可仕候渡海仕付而ハ諸役可令免許事

-187-

一、船中之荷物之儀ハ、用次第目録ニ市可召寄事

一、日本之内何之湊へ成共、着岸不可有相違、若難風逢、帆絹絶、何之浦々へ寄候共、異儀有之間敷事

帰国之義ハ何時に市も、

一、於江戸、望之所ニ屋敷可遺之問、家を立、

致居住、

商売可仕候、

いきりす人可任心

中、付、立置候家ハ、

いきりす人可為佳事

一、日本之内ニ而、

いきりす人病死なと仕候者、其者之荷物、無相違可遣之事

一、荷物おしかい、狼籍仕間数事

一、いきりす人之内、従者於有之者、依罪軽重、

いきりすの大将次第可申付事

右如件

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の自敬表現

慶長十八年八月廿八日

御朱印

いん長=りていら

〔増訂

呉国日記抄〕(一八四ー一八七頁)

「いんきらていら」はイギリスのこと。

イギリス東インド商会派遣のグローブ号司令官ジョン

Hセ

lリスが平戸に来航し、

ジェ

lルズ一世の国書とともに

呈した通商覚書に対する朱印状である。この朱印状によって、平戸にリチャ

lドH

コックスを商館長、

ウィリアムH

アダムスを館員としてイギリス商館が聞かれた。

では、

どのような渡航免許状を見てその文典の記述を行ったのであろうか、現存する家康文書から

ロドリゲスは、

ロドリゲスの記述に当るものを見出すことができないが、

「仰せ出ださるる」

というのは奉書式の文書の書き出

しであるから、

そういう様式の秀吉の渡航免許状があったのであろうか。現存する秀吉のその種の文章がない以上は

推測にとどまるしかないが、参考までに、天正十七年十月、秀吉が肥前松浦鎮信に海賊「てつくわい」の捕縛を命じ

た文書を掲げてみよう。

急度被ニ仰出一候。

日本国々之事者不レ及レ申、海上迄静諮ニ被二仰付一候故、従ニ大唐-令ニ懇望-相渡候進物之船罷出候

処、去春其方自分領号コ商売船-てつくわいと申唐人為コ大将-八幡ニ罷越、彼唐船之荷物、令=海賊-候由、被ニ開召一

-188一

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可γ

被ニ的判付

自然後者共、何角申族有ν之、於レ

一者、

日候条、

早々可

狭間側、右之商売舟之出向申候て、

私明」

っくわい、其外同船之輩、

特も不ν残可=差上ω

候。

み慨。猶小西摂津守可ν山中候也

出附

松浦式部櫛法印

門松浦文書〕(岩生成

吋朱母船鷲易史の

盟七頁)

或は、

の渡航免許状のやに、次に一郡すような北条民政が

の角座七郎次郎

た沿岸航路船の朱印殺のよ

うな奉書体のものがあったのかも知れない。

右在ニ市上司御印韓被レ遺絵、無こ異議ι

可ν令コ出船同旨被コ仰山山

JRHHZ

hγ古M

戸斜判

…189-

ノ¥

主撃

〔角星文書〕

『朱印船貿易史の研究』一一一

〈l〉天文十七年二五回入)必ふれ。ゆナけ山西控一〈、相相用問ムマ仲間蹴概念経

て、文後一一…伴、秀吉に伏克大光明治ザな与えられ、

文書を象った。附都総燃も糸川地に寺社

W鋭機とし、登光寺札ぽ繍脱衣して与えたO

樹庶民対ふi

hFM

〉仙波。

(2)永後十一一年二五六九)ゑれ。闘禅寺金泳践住職職。隊後十

=一年家康にれ、時紙飛で寺校、外治〈文緩や}取扱った。家機脱

O

北大文学部紀要

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徳川家康・徳川秀忠文書の白敬表現

残後、江戸に移って重用されたo

寛永十年(二ハコ一一ニ)攻。

(3)天文十七年生れ。足利学校住持を経て、秀吉、家康に重用

され、承見残後、その後を継いで寺社と外交文書を掌った。

慶長十七年こ六一二年)初日。

おわりに

以上、

ロドリゲス『日本文典』の自敬表現記述の背景となる十六位紀末から十七世紀初頭にかけての支配者の中で

徳川家康、徳川秀忠の文書に見える自敬表現の実態を探り、

また、

ロドリゲス「渡航免許状」に見られる自敬表現に

その結果、自敬表現の文書への現われ方と家康の政治的地位とは密接な関わりがあり、意識的意図的に家康は、伝

-190一

ついての探索を行ってみた。

統的なこの文体をとり入れることによって、自己の権威を言語的にも確立していったと言》えよう。それは、自己の領

国の家臣団から関ケ原の戦以後、自己に臣属する全国の大名にまで及ぼされていったのであった。が、

その文言は、

「思召す」

「思し召さる」

「悦びに思召す」「聞し召さる」から「御感に思し召す」「御満足に思し召す」「祝著に思し

召さる」「感悦に思し召す」「神妙に思し召す」など「おぼしめす」類の表現にかなりヴァラエティに富んだ用い方が

見られる。秀吉や家康にも対面したという戸ドリゲスであるから、

その自敬表現記述は、当時の「関白」や「公方」

の文書の文体をよく把憶した上でのものであったと言えよう。但し、家康文書の自敬表現の実態から見ると、

ロrJHノ

ゲスが、「公方」と言っているのは、足利将軍のことであろう。「関白」は恐らく豊臣秀吉のことを頭に置いていたで

あろう。

しかしながら、渡航免許状の自敬表現については、秀吉の渡航朱印状が現存していないこともあるが、家康、

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秀忠の発行したものの怖からみて、自数表現が用いられていたとは考えにくい。特に貿易宏求めてくる外霞船

なもの

るものには、出口敬表現な用いた文章一日を与えれば、尊大に構えていると受け取られることは必定であるから、そのよう

られるのは、関内山内けの護舷免許設であるが、

の渡航免許状

かったし、発行された警もない。

の朱印状は簡単な文一一一一一仰で自敬表現などの入る一余地のない事務的役ものである。

でき

の朱印状のようなものがあったのマはないかとい

けとすることがぞきょうが、現夜のところ、北条氏政が角麗七郎に

にとどまるほかはない。

たよう

寸udth

it ロドリゲスの記述の確か

機数努土問の岳筆盛岡状に悶結える山田敏表現の捌間交示ナ。友一袋ねねや

側議たちへの幾状には自らを「てんか文句ま」「犬、かうちま」と

称し、奇数表現役用いている。

O

苦笑い。りー

か倹 gし iこくつ。L、

でと文

給料侯tましjさめ|たしiめ後でJ¥ 、f'l:

)

〈組問〉

うらみとも存不ν

取,

七日

てんかさま

(中間間泊察側燦潟門川派際文書〕)

北大文学部紀委

まド

G

かならず

ft、もこうらいのみやことれソ倹て、

lliiiiillit

うさまも御さ鋲はんとおぼしめし飲

〈サ〈悩州一万年五月六日、市刺繍蹴総燃脇陣中から北政所妓〉

-191-

品強悶刷出恥繍統『太問機書信』〈端端人渦樹拙附

昭和十八年〉による。

追認緩俊秀吉文書の由同敬炎端部については、本総桝腕輪欄後、総和五

十六年十一月八円持に北大国文学会秋祭ふ人会において、「文体と

してのお敬表端部」の本線

ei1盤臣秀吉文議・篠山川液凝文書の場

合iiょとして口頭発表彰行った。その文寧化したものは、

明金田一泰彦博公合総総念論文集匂〈………劣後昭和五十八年刊

行予定〉に発表するので参糊刑されたい。