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Instructions for use Title 出発における「恥辱」(「羞恥」)の契機について : 民族的自己批評としての魯迅文学 Author(s) 丸尾, 常喜 Citation 北海道大學文學部紀要, 25(2), 235-270 Issue Date 1977-03-28 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33410 Type bulletin (article) File Information 25(2)_PR235-270.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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Instructions for use

Title 出発における「恥辱」(「羞恥」)の契機について : 民族的自己批評としての魯迅文学

Author(s) 丸尾, 常喜

Citation 北海道大學文學部紀要, 25(2), 235-270

Issue Date 1977-03-28

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33410

Type bulletin (article)

File Information 25(2)_PR235-270.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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出発における「恥辱」(「差恥」)の契機について

||民族的自己批評としての魯迅文学111

戸江.

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出発における

「恥辱」

ハ「差恥」)の契機について

||民族的自己批評としての魯迅文学||

魯迅の文学的努力は、民族的陪習を克服しつくそうとする一つの意志によって終生つらぬかれているo

そこにかれ

の文学の最大の特色があると私一は考える。いま乎心広ならってそのような文学を「民族の自己批評としての文学」と

呼ぶことにしよい也この小論結、主として魯迅の生と文学における「恥」の意識、つまれソかれの作品の申で、「辱」

「漸憾」「差恥」「蓋辱」「恥辱」、時'に「汗流決背」(全身に汗が流れる)、「験上和耳輪同時発熱、背よ濠

(顔と耳たぶが一時にほてって、背中一面に行がにじむ)などの語だ表現されている恥辱感や蓋恥の意識を手が

できるかぎりその動態のままで明らかにしようとする

「悌」

出許多汗」

か今にして、この「民族の自己批評としての文学」の内実を、

試みであるo

周知のようにかつてル

Iス・ベネディクトは、人聞の行動を規制する倫理的な原動力として「罪」と「恥」の二つ

を取り出し、民族の文化を二つの型、つまり道徳の基礎を「内面的な罪の自覚」に置く「罪の文化」と、

「他人の批

北太文学部紀要

-'2s7 .-

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出発における「恥辱」(「差恥」)の契機について

-評」

1「外面的強制力」に置く「恥の文化」との二つの型に分類した。

「恥は日本の倫理において、『良心の潔白』、

『神に義とせられること』、罪を避けることが西欧の倫理において占めているのと同じ権威ある地位を占めている」

「われわれは恥辱にともなう個人的痛恨の情を、

われわれの道徳の基本体系の道具としていない」

〈『菊と刀』、長谷

川松治訳、社会思想社版)と彼女は述べているo

ベネディクトの論はたしかにわれわれの行動様式の一面を鋭くついて

「恥辱」から「含蓋」にいたるま

一口に恥といっても、

でかなり幅のある意識であって、近年その一面化、単純化を批判し、恥意識の再検討を試みる文章も自にするよう

になった。中国における恥意識に体系的な分析を加えた森三樹三郎氏の『「名」と「恥」の文化』

(一九七一年、講談

いたので、敗戦後の日本に一つの衝撃を与えたのであるが、

社刊〉

も、わが国のそのような動きの中で著わされたものである。氏は「恥」、が「名」の裏側の意識であること、恥

を道徳の原動力とするのが、単に儒教だけでなく、諸子百家を含めて中国人一般に共通する思想であることを指摘す

238 -

るとともに、それが学習によって心のうちに定着する場合に内面的な道徳意識となることを明らかにしたo

たとえば

孔子の「これを道くに政をもってし、これを斉うるに刑をもってすれば、民免れて恥なしo

これを道くに徳をもって

ただ

し、これを斉うるに礼をもってすれば、恥あり、かっ格し」(『論語』「為政」)ということばは、外面的強制力とし

ての「刑罰」に対して、恥が「人聞を悪から善に向かわせる内面的な動力」としてとらえられていることを示し、孟

子におよぶと、それは「人間の本能的な道徳感覚」としてさらに内面的なモラルに高められているのである(たとえば

しゅうお

「仰いでは天に憐じず、術しては地に作じざるは、二の楽しみなり」(「尽心」)、「差悪の心は、義の端なり」(「公孫丑))。中国

の伝統的な恥意識はこのようなものであったが、

魯迅の身近の人物を例にとってみても、

(一九O六年〉の中で説いた革命家の徳目は、

清初の学者顧炎武の『日知録』

(巻十三、

ー寸

世風Lー

し、

う「「革矢口、命恥、の」 道

徳Lー

章柄麟が

「重一

「秋介」に、

「必信」を加えた四項であるo

また郷容の『革命軍』

(一九O三年〉を読むと、近代中国において、

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「都」

人間開の「奴隷」

と探く重層的にから

った意識で『もあることが理解だ

て絡もない一九

O

一一歳の時にぺスバルタの魂」

その若々しい「灘昂諜

ものである

そす

ぎ後る年iま

して「ヰた

るの会免れ

J

L

と書かしめたハ

序一一…一同一、

「勝たMdれば死す」というスパルタ式士の

と「恥辱」が何の惑折もな

く直裁に

ている。

一アルモピ三ブイの戦い

アリストデモスは、

ニレイネの

に詩覚めて次なる

プラタイヤの決戦にひそかに身を投じ、

なん

「もしその人恥を知らば、議ぞ裁を解かざる?:

る。そのエレイネの

にミ三子ー

に3

うG

の剣を以て紋人の頚を断たざる?

スパルタの

んし叩

魯迅は、こ

の毘復

いので物、 話主主

我にが付青し年 た?こカミ

始守れら のん序と営すな

O 次

鴇呼

に結問んらでrtJ!ぃi瀦?る』こ。

下り

いC

ずや筆を盤、げ

つ者あらん。

して、

…をも模援する広

港、

カゐ

一239

}v 々-

簿、ずノa」

の文化」に脊まれ

「摩羅詩力説い

ここに見られるのは、中国の文化円以畿の総体的な批判ないし客説化に蕗み出す以前の魯迅が、

立って、スバルタの議市霞家的なそれとの関に直線鈴に

の一一添う「名と恥

ている姿である。

C九G七年)は、

の古文明星に

のあとを示す最も

カのこもづた許議で怠る。

pvパ精神の核心への肉擦として

ー門戸yeハ文明との接触が、この

に「神1

一と

との対立という

31

」とは、

カミ

い意味を持ったかわからないほ

に言及した次のことば

lii「しかし、信抑の異な

思想形成に

どぜある。われわれは、

ミルトシの

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出発における

見る

品デ

γの国に

不知、後端滑走悦Lo

〈「差秘」〉

ついて

アダムは、謹の中の鳥と変わりなく、無畿無知、ただ神

(『大雄』「袋災い〉の「識らず州知らず二帝の則に緩ういの認が念頭にあるだろ告|ls引用者)であり、

頼うのみハ原文は

て来ることもできなかったであろう。故に、この

の人間慨は、

もし悪魔の誘惑がなかったなら、

る」

として悪魔の血を享けていないものはなく、このサタシこそ、

できるG

かれ

の憶に恩恵を及ぼしたものの筆頭であ

ハ傍点は引用者〉という

節などに、その対決の若々しい主体的なあり方を見るこ

の伝統患懇に対峠ナる自らの姿勢から、

「人類の創造は、愉

こし、罪な、持C

鳥、

サタ

γを押し立てたバイロシの愉刊に対する反抗に

ている。

に主なる神

たちまち洪水

よってなされたが、人類、がひとたびそ

に背くと、

木もろともに、人類を滅ぼし

人簡は言った。

ここに罪悪は

神は讃む

る小わっぱどもよ!

24D -

<<

だがヤベテハ判官人と地』の主人公ii引用者〉は一冨ぅ。

波簿より説れたのを、天

亡を

g撃しながら、

し、。

汝は荒れ波う

の故だと患っているのか。汝ら生を倫み、その色・食の

の嘆きをも生じない。また敢然と波浪に立ち舟かい、

の人々、とその

ともにする

ノプとともに箱舟に逃れ、

、〉、

しUJ刀

世界

の上に都邑を建て、

しかもついに

、、ノ匹目

しかし人類はついに恥会感じなかった。ただひたすら地に択して神を讃え、休む

もし皆がこれを却け

なかったなら、特は何の威力も

かった。この放に、主なる神は強大となったの

持ち得なかったであろう」

ノアの子孫の行為が

の行為としてとらえられてい

かりゼなく、無視し添えすれば、何の威力も持ち得

が、自民族の議状に対す

て語られているの

」れは、あえ

のものの前に、すすんで梓癒することの

'の

なし、

ベネディクトの文脈をうち絞ってなされた、恥の意識を嘉義力とす

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を原動力とする

に対するラディカルな批判とも言えるの

る。さらに

の引用は、

玄;ロァパの倫理を

の文化」

でくくろうとすることの一面的であること会も期せずして示している。管見の及ぶところに限っても、

アヲスト四プレスは

『ニコ吋コス倫理学』

一九七一年、

第四巻において

を設け、

に対するいかにもギリシャ人らしい定義を下しているし、

い意味を持つ。

のちに蝕れるように、

lチェの

ツアラトゥ

ストラ』におい

(掛船戸際〉

めて

またサルトルの

一九五六

年、人文書続坊は〉広おいてもきわめて独自な形でではあ

事は詞様である。怒越者の

る恐れを意識し

なL 、

立つ持、洋の

加害者の

に対するヒ品

l吋ンな惑皆として

の意識とともに、この

の持つ意味は決して小さくないの

こもうとすることは私の力の

るQ

むろんこの

の意識についての倫理学的社会学的考察を

ないことである。

の意閣は雪頭に述べたごとく、魯迅の

に現われ

-241

るその時その

の恥の意識を一つの

かりとして、

の自己批評としての文学」の客徐的、主体的な市内突を探

ろう

るところにあり、

たこと

の中のベネディグトのベ

i札げをはがしたいための作業

し、。

さしるたって私は

の小識でとり上げる

ハ「44Amぬ」あるいは「恥戸時」)

について、次のようなル

iス

て、

上に立って考えを進めていきたいと思う。

「恥」

の中に「見られる自己」と

をあわせ持つ

るO

辻、人間出が自分

の品開削に

た襲範ないし兆候であり、

る自己」はその

に照ら

ることによって

かにする

の自己」である。換言すれば、

は模範や兆設からの

の意識であり、人間関はそ

の治離を埋めようとして現在の自己

るか、

の議離の深さの前に

はらん

いられる

ので、ある。

北大文学部紀要

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出発における「恥辱」(「蓋恥」)の契機について

(=)

アリストテレスが述べたように、

様、赤面や発汗を伴うところの肉体的な情念の側面を持った意識であるo

「恥」は倫理的な意識であると同時に、

「恐れ」が顔面の蒼白を伴うのと同

ただ、この「恥」意識はあくまで、

「否定的」なものであるが故に、客体的、主体的条件に相互に規定されつつ、

たえず「回復」あるいは「肯定」を求めて動く運動的な意識でしかあり得ない。のちに述べるように、私は魯迅の文

学がこの「恥」の意識を重要な一契機として出発したと考えるものであるが、

「恥」の意識が魯迅文学の本質である

と規定するつもりはない。

「批評」がトータルな「批評L

としての否定・肯定的立場を獲得しようとするものである

かぎり、

「自己批評」としての文学は、

「恥」の意識を出発の一契機としつつも、あくまでその「回復」の過程をと

おして、あるいはその「回復」のあとに、

その全き姿を明らかにする。したがって、この小論の意図も、

そこまでい

にする。

-242 -

かなければ実現されないのであるが、本稿ではまずその出発の段階である一九一九年までを対象に考えてみること

(

)

魯迅は弘文学院に学んでいたころ、友人の許寿裳とよく次の三つの問題について討論をしたという。

最も理想的な人間性とはどういうものか。

亡主

中国の国民性に最も欠けているものは何か。

日開

その病根はどこにあるのか。

当時のかれらの認識では、

中国民族に最も欠けているものは「誠」と「愛」であり、

その最大の病根は、

中国人

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(漢民族)が二度にわたって異民族の奴隷となったことにあった。奴隷たるものに誠や愛がどうして-語れようか、

済の方法は革命以外にない、というのがかれらの結論であった。愛の欠如が「疑って傷つけ合う」と言い換えられて

(原文「詐偽無恥」、美名と実際の行為の全く異なること)とされているこ 救

いるのと同時に、

誠の欠如が

「偽って恥じず」

とは、

「偽士は去るべし、

迷信は存すベし」

(「破悪声論」、一九O八年)

にはじまって

「無物の陣」

(「このような戦

士」、一九二五年)

などに及ぶ魯迅の息のながいたたかいの核心部分をすでに予告しているといえよう。またこの二者

はのちの「狂人日記」

(一九一八年〉のテlマ||「礼教」と「吃人」にも対応している。

回想というものが、

回想

時点での回想者の意識によって、選択や櫨過を加えられることに対する注意の必要なことは言うまでもないが、許寿

裳のこの証言は、魯迅の医学から文学への志望転換の目標の一つが、これらの問題を解決しようとすることにあった

ところで、

魯迅が「『明賦』自序」

(一九二二年)

の中でこの文学志望への転換を仙台医専での〈幻燈事件〉によ

-243 -

というかれのことばとともに、私が魯迅の作品を読むさいに、自然な説得力をもって想起される。

って説明していることは、

竹内好氏の『魯迅』

(一九四四年、日本評論社刊。引用は一九六一年刊の未来社版を使用)以来い

くつかの論議をよんでいるが、私もここで私なりの見方を提出しておこうo

〈幻燈事件〉とは、

一人の中国人がロシアのスバイをはたらいたかどで見せしめのため日本軍によって首を切られ

ょうとし、

それを頑丈な体格をした中国人たちがぼんやりした表情で見物している幻燈の一場面を、魯迅が日本人同

級生の拍手と喝采の中で見たという事件である。

「藤野先生」

(一九二六年)

ではこの事件の前に、

魯迅が日本人同

級生によってかれの好成績は先生から試験問題を漏らしてもらったためだという嫌疑をかけられ、

いやがらせを受け

る事件が描かれているo

まず竹内好氏は〈幻燈事件〉と文学志望とは直接の関係はないと判断する。その判断の前提となっているのは、魯

北大文学部紀要

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出発における「恥辱」(「差恥」)の契機について

迅の文学を「同胞を憐む傍ら」考えられた文学あるいは人生・民族・愛固などのための文学ではないとする文学観

(それはこの著において戦時下の文学現象に対する「抗議」として発せられている)

なのであるが、

氏はこの事件が魯迅に与え

たものを、

〈いやがらせ事件〉の与えたものと同質の「屈辱感」として認識し、

「屈辱は、何よりも彼自身の屈辱で

あった。同胞を憐むよりも、同胞を憐まねばならぬ彼自身を憐んだのである」と述べている。そうして、この「屈辱

感」を魯迅の文学者としての「回心」を形成する軸の重要な一っとして取り出したのであるo

だが、私はこの小論の

文脈に従って、

まず「『明賦』自序」の中で、魯迅が〈幻燈事件〉だけを選んだことの意味に着目してみたい。

羅詩力説」が示すように、初期魯迅において「屈辱」とその回復としての「復讐己のテlマは重要な意味をもってい

た。

ところがこのテlマはその後一九二二年の「『ロシア歌劇団』のために」

を除けば、

一九二四年十二月に

讐」、

「復讐」

(その二)、翌年に「希望」

(以上は『野草』)、

「雑憶」などが書かれるまで、

伏流となり、

表面に

-244

うかびあがることはなかった。

〈幻燈事件〉が「藤野先生」になってはじめて〈いやがらせ事件〉に並べて描かれる

のは、恐らくこのことと事情を同じくしているのである。

「屈辱」は「恥一陣」ないし「蓋恥」と深いところでつなが

った意識でありながら、両者は混同を許さない別の概念であり、魯迅における「屈辱」特に「復讐」の意味の具体的

な検討は、

一九二四、

五年の時期を取り扱うときに委ねたいと思う。そこでいま〈幻燈事件〉だけを取り出してみる

とどうなるだろう。それは異族に首を切られる同胞の屈辱を、自己の屈辱と感じることのできぬ人々の恥辱的状態に

ついての、同胞たる魯迅の恥辱の意識ではないかと私は考える。

「頑丈な体格」をもちしかも「ぼんやりした表情」

(原文「麻木的神情」)をした民衆の状態(それは「藤野先生」には見られない表現である)が強調されているのは、

単に医

ある。ことわっておくが、

学志望の放棄を説明しているだけでなく、その時魯迅の中に生じたものが恥一障の意識であることを説明しているので

それは日本人に対する恥厚ハ差恥)

の意識ではなかった

ハかれらは、拍手・喝采をしている。

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そのか、ぎりで連帯は断ち切られており、連帯のないものに対する恥意識はありえない)

0

抽象的な表現であるが、

それは人聞の

ある根源的なものからの希離の意識とでも呼ぶべきものかと思う。

「根源は衰弱し、

精神は坊佳している」

(「破悪

声論」)というあの「根源」であるo

「破悪声論」の著者が日本人であったら、拍手する同胞を恥じたであろう。

分をのこしている。第一に、

ただ、魯迅の文学の本質ないし核心にまでわたって文学への転換の意味を語るには、

それは魯迅においてその転換がなぜ「文学へ」でなければならなかったのかということ

〈幻燈事件〉はなお不明な部

であるo

「精神を改革するのに有効なものとなれば、当時の私の考えでは、それは当然文芸でなければならなかっ

何かのための(たとえば「教化のための」)文学を拒否し、

魯迅文学の本質をそうでない

た」という魯迅のことばは、

ところに見る竹内氏の問題意識にとって、

事実を割り切りすぎた

「啓蒙者魯迅」

の説明でしかないのである。

に、これはほとんど第一の問題と同じことであるけれども、

-245 -

「見る」魯迅と「見られる」民衆は、ともに日本人の自

にさらされつつその恥辱を共有しているのであるが、両者の位置関係にはなおすこし定まらぬところがあるo

竹内好

「屈辱を噛むようにして彼は仙

〈いやがらせ事件〉を重視し、

「屈辱は、何よりも彼自身の屈辱であった」、

氏は、

台を後にした」のだと考えることによって、この二つの問題を一気に解こうとしたのである。もとより私は二つの事

件をつなぐことによってうかび上がる「屈辱」の意味を軽視するわけではない。またそれによって魯迅と民衆との距

離もよほどちぢまるであろう。だが、私の立場はそれ以上に「恥厚」の意識を重視するものであり、

のこされたこの

一一つの問題を、転換後に魯迅が選びとった文学と、

いちど選びとられたものがたどる一種運命的な運動の過程の検討

のなかで考えていくことにしたい。

一九

O六年に医専を退学した魯迅は、

おどろくべき刻苦勉励によって、翌年には「文化偏至論」、

「摩羅詩力説」

を生み出した。魯迅が、本格的な文学研究をとおして、世界における自己の位置をどのように自覚するにいたったか

北大文学部紀要

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おける「恥一簿」〈

〉の契機について

次の一節はそれを説間関しているc

あば弘

「中閣は今、除幕すでに発かれ、国隣競って逼り、

ある。そもそも、

に安んじ劣泣に

しかし、

手段を誤り、当を失ずるならば、

足しにもならない。放に、明哲の士は、必ず世界の

をつかまなければならず、その上モこれ'玄関闘再

は自ら相何らかの改変なしにはす

ないところに

囚われていては、思より天下に

ことはできない。

いものな改め、突泣州立すしつづけたとて、護混合}仏怖く街の

を諮療し、比較検討を加えて、その寵向喝な除き、その精神

るならば、議合して関線がない引ょのろう。外は世界の患瀬

に後れず、内はそのまま富有の血脈をふ〈わず、今を取り古を複して、制加に新しい

て人間の思となるであろう」

にするならば、

の自覚が生

個性は広がり、

化一係烹諭」〉

て、

の意義宏、深

国は砂の探りか

/仰、、

一寸

申 246-

全うし得ない

てから半世紀以上のジグザグ

魯迅の臼本留学期は、中間人がお:ロ

yバとの対決を余畿なくされ、中用調自体の荷らかの改革なしにはその生存な

、ようやく「革命派」と呼ばれる耀流が形成されるに

いたり、

る最初の共和制たうち立てることにな

アジアに

r-..

に{向かって激動していく時代と

、鴫ノ

つつ、

一世記半におよぶ呉氏族支挺を温存

し、欧米の文物の輸入

の文学も、基本的に辻そのつ革命派」に

でもって、

その改革にあてようとするぺ改良派」的湘潮流と

そのまま

っている。

の対決として

めて組問性的な

の文明の「人関」のあることを知らぬことにおいて、

名分を批取りて私欲会選げようとしている。中関は古来「物愛」

どり、外力点乞受けるに及んでもはや生存さ

いのに、

であった。物費文明の輸入に狂奔するものたちは、欧米

そればかりか「改革」の大義

改革の手段会一誤っており〆、

「個性」を排斥してをたがために白々

いままた

たちは泣つ

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数」によって「天才」を殺そうと図っている。

「今までは本体の自ら発した半身不随の病気であったが、今は他国と

の交通によって新しい病気を得、

この二つの病気に同時に攻められて、中国の沈論はついにますます速くなったので

ある」0

「物質万能の否定」と「個人の尊重」||当時の魯迅の思想はこの二点に集約される。

「個性」が発展し、国民の自覚が目ざめるには、全く新しい主義がうち立てられねばならず、そのためには「明哲

の士」が立ち、ヨ

1ロッバ文化の批判をとおしてその「精神」を把握し、中国文化の批判をとおして「固有の血脈」

を発見せねばならない。自ら「明哲の士」たらんとすることによって、魯迅の位置は決まったのである。

総論であるとすれば、

」れは各論の第一章にあたり、

「摩羅詩力説」に示されている。

「新しい声を異国に求め」たものである。すべて人の心にし

「文化偏至論」が

魯迅のヨ

Iロッバ精神との格闘のあとは、先に述べたように、

て、詩を持たぬものはない。だが持つてはいるが、それを言語に表現できないから、詩人がその代りに語るのだ。だ

からこそ、携をとって弾ずれば心弦たちまち応じ、その音は魂に撤して、情あるものは暁の太陽を見るがごとくに皆

-247 -

頭を挙げ、

これによってより美しく、

大きく、

強く、

高く、向上・発展していくo

これが「詩力」であるo

しかし

「汚濁の平和」が破れ、

生活の変更を追られるのを恐れた人々は、

協力してその芽をつみ、

鋳型に挟めこもうとす

る。そのため中国の詩には反抗と挑戦の声をついに見出すことができなかった。こうして魯迅は反抗と挑戦とを「詩

力」にかけ、「雄叫びを挙げて、その国民に生気を吹きこん」だ「悪魔派」の詩人たち(パイロンを始祖とし、シエリl、

プiシキン、ミッケピッチ、ベテlフィにいたる)の紹介に精魂を傾けたのである。

ギリシャ独立のために奔走し、陣裂し

たバイロンの事蹟を述べた一節は、中でも最も力のこめられた部分である。

「(パイロンは)胸に抱いた不満が、

突如として爆発すると、倍倣放逸にはしり、

他人の言を顧みず、

破壊復讐

をはかつて、偉るところがなかった。しかし義侠の性もまたこの烈火の中に潜み、独立を重んじ、自由を愛した。

北大文学部紀要

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もし奴識がその お

ける「聡浮」ハ

に立て

その争わざる

かつて文化と自由の

の奴隷」と呼んでい

〉の契機について

悲しむのはその

らであれノ、憎むのは

ツ心からである。これが、詩人がギリシャの

の奴隷」

そして多量の

くども苦汁をなめさせられつつ、

って作つ

魯逃が当待ひそか

している。

く災後怒ら)の

めに書かれたもの

(汎神論〉

「迷信打破」の で

あっ

tま

「汝醤畏た

の批判とし

(村祭り〉

-迷妄ムゲ}衝‘者号、

ッバがいまなお克服できないでい

ついに

ことによって、

ことの

註界の新しい秩序を確立することこ

(!)

に引きつがれて

「酉有の出品欝」であった。

したものは、次のような「朴繁の

る。むし

を譲け、

ついにその陣中に残

あった」

に誇り、

いまトルコの圧制

ギリ

γャ、

の民族の

のために、

って身を投じ、その「箆民性の

にい

ついに死ぬまで戦いをやめなかった戦中山、

芸ゑ

「私の詩は、

と述べた詩人、

る強力

に窮待した人格はこのパイロンに

していたことは「「明賦』

の述懐が一不

tこ

という繁啓超ら改良派の主張と、

248 -

の第

れ」という無政府主義派

して、中醤の「富山符の血紙」を発見す

たものである

ることがで診る。

のつくり出した「宗教」

魯込は

「向上

中詔の

「神話」

よって否定する改良派の

たちの

、かれらを

giロ

ついでかれらの

「獣性」を…崇拝し、さらにイ

γド

J

を侮蔑する

;日ブγドの「

(それは

ですらない最下線のものとされる)

に陥ったものとし、

の「獣性」に対立して、

無事の閣の

はかる

中国人に

の持番込が拠りど

た賞務ではないかというのである。

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「民は農耕の生活に安んじ、その故郷を捨てる者をいやしな、遠征を好む天子があれば、野に在る者はかならず

これに怨睦の声を上げたものであり、

みずから誇ってきたことはといえば、文明の光華壮大で暴力を借らずして四

方の蛮夷に君臨してきたことである。かくのごとく、平和を熱愛するものは、世界にもためしが少ないのであるo

ただ、久しく泰平に慣れて国の護りをおろそかにしたばかりに、突如、虎狼の襲撃を受け、民は塗炭の苦しみに陥

これとてもわが国民の罪ではない。人血をすすることを憎み、人を殺すことを憎み、別離に忍び

ず、労働に安んずる、人聞の本性は本来かくあるものではたいか。もし、全世界が挙げてこの中国と習性を同じく

ったが、

しかし、

したならば、:::大地の上に民族の数は多く国家の別はあろうともそれぞれにその境界を守ってたがいに相侵すこ

となく、万世にわたって永く平和を保つことも可能だったろう」

「人類の発生の由来を考えてみると、微生物にはじまり、虫や姐、虎や豹、猿や釈を経て今日に至ったのであ

-249

」れに対して「獣性」は次のようにとらえられる。

って、

その古き性はなお人の心の内深く潜在し、

ときとしてふたたび表面に現われてくるo

そのため人は殺裁と侵

略を好み、土地・子女・財宝を奪って野心を満たすのである。そして、ときに他人の批判を恐れ、さまざまな美名

を作り出してその本性を蔽ったものが、久しい年月を経るうちに深く人心に浸透し、衆人はしだいにその由来を知

ることがなくなり、性は習いとともに変じて、

ついに哲人・賢者すらもその汚悪に染むに至ったのである」

「人が禽獣・昆虫に留まることを欲しないならば、

かかる思想に憧れてはならぬ」||これが、

「人間」による

「禽獣」の自然掬汰という「進化論」をかかげる侵略者の論理l

「社会ダーウィニズム」に措抗してたてられた、魯

迅の「進化論」である。

「固有の血脈」に流れる「人間」の血の発見によって、

「人間」は「禽獣」に、

「禽獣」は

「人間」に逆転せられ、強者は倫理的進化の低位に位置づけられた。

「おくれた中国」

「すすんだヨ

lロッバ」の重

北大文学部紀要

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出発における「恥辱」(「差恥」)の契機について

い図式は、魯迅の必死の抵抗によってはねのけられ、新と旧コ一つの病気」の治療によって古文明国の歴史的再生を

はかろうとする試みは、

ようやくその全体性を獲得するかに見えたのであるo

魯迅の構想によれば、

にせよ」)の批判に筆をすすめ、中国文化の根抵的・全体的な批判の展開をとおして、

さらにその全貌を明らかにするはずであったが、恐らく翌年の帰国をめぐる諸事情のためであろうか、

未完のままにのこされたo

しかし、以上の三篇の論文に、「狂人日記」以後の魯迅が対決せざるを得なかった基本的

この論文はさらに当時の無政府主義の主張(「文字を同じくせよ」

「祖国を捨てよ」

「世界を斉一

かれの言う「固有の血脈」が

一比屑はここで

な問題はほとんど出つくしていると言えるのである。

ただ付け加えておかなければならないことは、

て、激しい熱情の発露を見せながら、

「詩力」という「ことば」への信仰によっ

その根底につねに消長起伏する「寂実」

」れらの諸篇が「心声」

(あるいは「粛条」〉と呼ばれる基調音

-250 -

のあることであるo

この「寂実」は、

のちに「『明賦』自序」で、

」れらの諸篇の発表誌となるはずであったかれら

の雑誌『新生』の計画の挫折に結びつけて語られることになるのだが、魯迅の一三一口う「固有の血脈」が、人民の積年の

困苦によって日々に薄くなり、すでにわずかに「古人の記録」と「まだ天菓を失っていない農民」

〈魯迅にあってそ

れは、「故郷」「宮芝居」などに描かれた少年時代の体験にもとづくイメージをそれほど超えていないであろうし、

たがって当時何らかの具体的現実勢力としての意味を持っていたとはいえないだろう。またかれらは現実にも「声」

の受け手としての媒体日文字を奪われた沈黙の民であった。この間題は魯迅の究極の関心事としてのちに「芦なき

中国」

ハ一九二七年)、

「門外文談」

(一九三四年)

の諸篇を生み出すことになるo〉

の中にしか見出し得ないもので

あったこと、さらにこれらの評論が、自ら「濁流酒々として流れ、剛建なる者もみな治没を免れない」

「荒野」と呼

んだ場所に身を置いて発せられた「心声」、

ひたすら「偽士」の「晴一騒」を破ろうとする「破悪声」の「戸」であっ

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たことのために、必然的にはら支ざる

「〈叶術部隊」派の詩人たち

イコ

あった。

生涯は甚だよく怒ており、

大抵武器を執って血を蒸した。

か込υ

、剣術

ぞ〉

で技をくり広げ、戦僚と蟻誌とを抱かぜてその死簡を見物さ

のに似ている。故に群衆の

g前で血を流す

の檎である。鼠

のがあるのにそれを晃ず、或いは

鮮で、

マハVふ小池内り

ものがないのは、

救うことはできない」

r--,

、J

「光復会いの革命家徐韻鱗一、

殺害され

この文章がこの事件を背景にし

るのか。文末の

→き

ていることはまちがいないだろう。

たかれらの胞が、どのような運命をた

い予践を読みとろ

るのは↑めるいは

いすごしか

「お十亥革命」の

の予言と

してわれわれの前にのこされてあ

のちの

つゐめ

たい性絡をすでに示、レている

251

ぅ。

(一一一)

「狂人

は「吃人」

L 、

のである。この作品の読者にとって

のイメ

iジは、

人聞が「億人を餌食とし

る状態、

つま

「人誌が

であるこ

ぐ〉

自分たちに

のものではありえない、そのような

つの象徴として

ているのであり、このような

、中国においても同じことである〈「有償先生に漆える」

二九二七年)、

〈一九三六匁〉〉。しかし、

一九

の作品、が雑誌

の誌上に

したときは、

とっても読者にとっても、それは

北大文学部紀要

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出発における「恥辱」(「蓋恥」)の契機について

度と礼教の弊害の暴露」

(「『中国新文学大系』小説二集序」、一九三五年)以外の何ものでもなかった。このような具体的

な意味なしでは、それは生まれようもなかったのである。この作品がいまわれわれに持っている一つの普遍的な意味

も、このような現実を土台にして生まれたものであるが故に、

その普遍性を持つことができたのであって、

その逆で

はない。そこで歴史的にこの作品を理解しようとする場合に、すでに日本の家族制度の重圧の実感さえ乏しいわれわ

れにとって、この作品とわれわれとの間にある歴史的民族的な距離を埋める必要が起こる。すなわち魯迅が一人の家

長候補として生を享けた中国旧地主の大家族制、それがつくり出す空気と人間の病態などを明らかにする作業や、か

れの結婚のようにかれ自身沈黙を守りつづけた問題の検討などもそのために欠くことのできないものとなる。だが一

方、

魯迅の文学の特色は、

ゴlゴリなどと同じく、

かれ自身の作品でこの距離を埋めてくれるところにある。

日内

蛾』、

『訪佳』、

『朝花タ拾』の諸作品は、

それ自体この「吃人」のイメージと重ねられる人間の世界を、

われわれ

-252 -

の前に展開しているのである。

「吃人」とは、

中国旧社会に対する魯迅のトータルなイメージであり、

このことは

「家族制度」と「礼教」というものがこの社会に持っているトータルな意味に対応しているのであるo

につづいて書かれた「私の節烈感」

「狂人日記」

(一九一八年)に次のようなことばがある。

「この社会の、古人がうやむやのうちに伝えてきた道理の多くは、まことに話にもならない不合理なものであっ

て、歴史と数の力で、意に合わない人聞を無理矢理しめ殺してきた。この主謀者のいない無意識の殺人団の手にか

かって、昔からどれだけの人聞が死んだことか。節烈の女子も、この手にかかって死んだのだ」

より冷静な筆づかいで、次のように述べたりするo

やや後年の文章は、

あるいは、

「他人はともかく、

わたし自身は、

いつもわれわれ一人一人の聞に高い土塀があって、それが各人を分離し、

んなの心が通じあわぬようにしていると感じるo

それこそわが古代の聡明な人々、

いわゆる聖賢が、人々を十等級

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tこ

ぞれ同じではないと説いたところのものだ。そ

今日すでに濃いられなくなっ

亡霊はい

さらにはげしさを加え、

一人の人聞の身体にまで

ているばかりか、

な異類とみなしてしまうほどである。

は人間を生み出したとき、すでに

わが聖人と恕人の弟子たちは、

その

めて巧妙に、人間が他人の肉体の

の欠を補ってさらに龍人の

で感じること、ができないようにしてし交った」

(「

P

『阿Q正伝知序ぃ、一九二五年〉今

、あの〈幻

中国社会が魯迅のら中深く刻んだこうした悲漬の、もっとも激しく噴出したイメ

iジが

事件〉の増揺された構闘である。「藤野先生L

によれば、魯込は帰罷後、同機の同

ょうどあのときの日本人たちのように、きまって摺に酔ったように喝采するのだっ

「挫折」に

にぶつかった

見物人はち

ちに妙めて会わ

「辛亥革命」

徐錫鱗は

いこんだのは、民衆と革命家との、

-253 -

のこのような関係ではなかったか。

「狂人

」ういうw

いとになるのか。

である。

のイメージに対ずる悉棉惑から出発する。

「おれをこ

一つの

うとしているような」怪しい諜付である。

でなく、道で出会う人間も、

している。か

の一向穀が教えたのに

いるし、兄の限付もそうだ。狂人

りとら

J

一籍制は、

一人の狂人に託したその研

っているような、

を殺そ

ちまでそのような践を

みんなが

表情をして

いない。いろいろ寸研究」してみると、

っとする。証人は歴史の本をひもといて瀦べてみる。

は年誌がな

く、やたらと「仁義道穣いという字が書いてある。夜中までかかっ

るとその

ょうというんだい。このことがわかる

のようでもあり、

見える。

人間関を食べるの

「おれも人間判だ、かれらは

えって勇気がわいてくる。おれに

からますまずかれらは食いたがるのだ。とこ

北大文学部紀妥

つ吃人」とい

一閣に

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出発における「恥辱」(「差恥」)の契機について

当然のようでもあることだが、狂人は、自分の兄までがぐるになっ

τ自分を食おうとしていることを知る。そして、

このあとすぐつづけて次の語、がはいる。

「人を食うのはおれの兄だ/

ぉ、おれ、れ白、は身、人は、を人、食Iこ、う食、人ゎ、間れ、のて、弟し、なま、のつ、だて、/も、

やはり人を食う人間の弟なんだ/」

(傍点は引用者)

0

この狂人の立場はどういう意味を持っているのだろうか。この立γ

場は「食われる」恐怖のそれではない。狂人の恐

布は、

「研究」の段階からすでに消えている。自分が食われてしまったあとも変更のない関係とは、

「兄弟」という

自然的関係であり、それを自覚的にひき受けようとするのが狂人の立場であるo

私は、こニであの〈幻燈事件〉を想

起する。

「民族」

(同胞)としての自然的関係を、自己の責任存在としての倫理意識において、

わがニととして引き

-254 -

受けたのが、あのときの魯迅の立場だったのではないか。

狂人の前に一つの人間像が結ぶ。

「獅子のような兇悪な心、兎の臆病さ、狐の投猪さ:::」。前二者はあの眼の表

象に対応し、後者は、自分の欲望(「獣性」)を美名で飾り、

他者に「異端」とか「気狂い」

(「痕子」〉とかの名を

かぶせて、排斥や危害を合理化する詐偽心(「礼教」)

のことである。

「自分は人を食いたいし、他人に食われるのはこわい。だからみんな疑い深い限付でたがいに盗み見るo

こんな考えを捨てて、安心して仕事をし、道を歩き、飯を食べ、腫れたらどんなにいい気持だろうo

これはほん

の敷居ひとつ、関所ひとつなのだ。それなのにかれらは矢子・兄弟・夫婦・友人・師弟・仇敵それに見知らぬ人間

この部分は、

たがいに励まし合い、牽制し合って、死んでもこの一歩を踏み出そうとしない」

「歴史と数」のカで人聞が自分たちの人間らしい願いさえわけがわからなくなり、疑心暗鬼に陥つ

までがぐるになって、

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ている状態を、「安心して仕事をし、道を歩き、飯を食べ、睡る」という人間の「兆候」によって照らし出している印

象的な文章である。ただわれわれは、この文章全体が先に「破悪声論」の中で、中国の「固有の血脈」としてとらえ

られ、汎スラブ主義などの「獣性」と対比された「人血をすすることを憎み、人を殺すことを憎み、別離に忍びず、

労働に安んずる;::」のネガティブになっていることに気がつくo

これは「辛亥革命」の「挫折」の過程を境に、魯

迅の民族認識にある重大な転換があったことを示しているが、このことについては次章で述べることにする。

狂人の前に一つの全体的な人間像が結ぶと時を同じくして、狂人は決断する。

まずかれ(兄)からはじめよう。人を食う人聞を改心させるのもかれからはじめよう」0

狂人の説得の論理を見てみ

「おれは人を食う人聞を呪うのを、

よ弓ノ。「..... ,兄さん、

はじめ野蛮だったころの人聞は、

たぶんだれもがすこしは人を食ったことがあったでしょうo

-255 -

とでは考え、がちがってきたために、人を食わなくなったものもでできました。かれらはいっしょうけんめいよくな

ろう(原文「要好」〉とつとめた結果、

人聞になり、

ほんとうの人間になりました。

だがまだ食っているのもいま

すーー虫と同じように、魚、鳥、猿と変っていって、

ついに人聞になりおおせたのがいるなかで、あるものはよく

なろうとつとめず、

いまも虫のままでいます。この人を食う人聞は、人を食わない人聞に対して、どんなに恥ずか

しい(原文「断惚」)ことか。虫が猿に対して恥ずかしいよりも、もっともっと恥ずかしいでしょう」

l烏

l人は「よくなろうとする」

(「要好」)

倫理的努力ないし

「われわれは今日どのようにして父親

となるか」

ハ一九一九年)

に言う

「内的努力」

によって上向していく一本の進化の線でつながれているo

このような

そこではこの論理はむしろ侵略者である白色人種に向けられ

「進化論」は、

(「獣性」〕、強者の社会ダlウィ品ズムをうち破る理論的武器とされたものであったことを想起したい。ここでは、

前章ですでに見たところであるが、

北大文学部紀要

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出発における

〆伯、

Lノ

ついて

ヨーロッバの

の反極に

「固宥の血毅L

は見失われ、

はむし

の歴史

出されるに翠っている。

この狂人の論理の中で、遊先

i自己趨克の契機として見山山されているものは、

の恥……滞的状態を恥擦として感じとること、の恥一爆に

ハ「差欧間」こ

「立意改変LO

である。

三十八ぃ、

11

八年〉ことから、

うなニ14J

品のこ

があるハ「

づ、設

」の部分については、

。ただし一浄に引用mナるのは『

魯迅自身、が下数を認めている次のよ

』内のみ〉。

「人聞は克麗されなければならない成物なのだ。:・:・これまでの存在はすべて議分自身を乗り謡える何物かを鋭

てきた。あなたがたは

の大きな上げ滋にさからう引き識になろうとするのか、人聞を克議するよ

人間関から見れば、議は再だろう?

の種か、あるいは聡俸の痛み

えさせるもの

ら晃たとき、

256 -

動物に

えそうとするのかっ

人間関はまさにそうし

のになる

のだ。娯笑の種か、あるいは恥痔の

wr」

02

たがたは虫から人簡への道をたどっ

かつてあなたがたは猿であっ

いまもなお人間は、

、、A:

BV4μψ

h

りも以上に

L

〈『ツアラト汐ストラは

た加第一部、序説、

岩波文庫版〉

つ供笑の

は、人間判にとって全く無関係な龍者とし

た猿の

であり、

一ト恥一簿の

とは人認が自

の内部に猿と跨じ獣性を発見する立場から見た猿

のことであるc

人間は

のやに

き部分を発見

で引用

についての蓋恥心

されて、肉日を乗り超えていくものとされている〈努迅が「随感録思十

した「大い

もほぼ同様の意味である〉0

このような論理が、魯迅にとってきわめて

いものであること

は、いまま

験グ“

、‘

ところか

に理解できるだろう。しかし狂人はいま吉己の内部に

の恥障を見出す

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ことによって、入念食う人需と路一一締役共有しているのではないひそれは先に

たように兄弟としての

こいP

ハて

t二

l-

貯船戸痔を共有しハ他者的軽蔑や印刷笑ではなく〉、

かれら

の意識を呼び記こそうとしているの

会添い換えれば、

われのみじめざを自覚しようマはないかと呼びかけているのである)

0

での魯迅と

の位霞麗係も、叫がらく

" 、ω

いものであったと私は考える。

この狂人の改卒滋的姿勢に、

以後の魯迅

狂人

にあとなとどめる激しい

の時期を重ね

いと患う。

「文化煽至論」

の閉式に

で急転する。

みんな出ていけ/

いが河でおもしろい

/-L

「れぬまえた

、、。

、し

VBV

本心から改心するんだ/

将来人を食う人間は、

の世に生きていくことは許さ

れなくなるぞ。

てし お

まえたち改心しないと、

猟師が狼をとりつくすようにノiil虫と同じように/」

ちで食い尽して

たくさん

でも、全部ほんとうの人聞に

-257

立てられ

の議恕誌崩れて、

強者と弱者

よる

ついに

よるそうでなし、

人爵のる自もこ然:と淘且に

汰よ

の恐怖感に

って一層深くなり、

ハ「漁師樹、が線合とりつくすように!」〉に

措抗の論理念失って、

れるにいたる。在人は必死に

る。

とこ

日記」のもっともすぐれ

、よく言われるように、最後に

る。

狂人はある沈静の中に

ら、死ん

のことを考える。よく考えて

妹は兄に食われたの

母も

それを知っていたかも知れない。

「考えられなくなった。

泳大文学部紀要

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出発における「恥辱」(「蓋恥」)の契機について

四千年来いつも人を食ってきた社会、今日やっとわかったが、

おれもそこで長年過ごしてきたのだ。兄が家の采

配を振っていたとき、妹がちょうど死んだ。兄が料理に混ぜて、

ひそかにおれに食べさせなかったとはいえない。

おれは知らぬうちに、

おれの妹の肉を食ったかも知れぬ。こんどはおれ広番がまわって:::

四千年の食人の履歴を持つおれ、

はじめはわからなかったが、

いまわかった、

ほんとうの人間にどうして顔向け

できよう/」

知らなかったが狂人とて人を食う人聞には変りなかった。そうとすれば、皆が自分を恐れ信じなかったのも全く当

然ではなかったか。恥辱の直撃弾が狂人を襲うo

狂人は地に倒れるo

真の人聞からの深い希離の意識の中から、狂人

はやがて回復を求めて立ち上がった。

「人聞を食ったことのないこどもは、

まだいるかも知れない?

-258 -

こどもを救え:::」

魯迅の立場と態度は、こうして定まった。

「自分は因襲の重荷を背負い、暗黒の問門を肩で支払えて、

かれらを広びろとした光明の場所へ放してやろう」

(「われわれは今日どのようにして父親となるか」)

「われわれは人類の道徳を自覚したのだから、良心として、いままでの老若が犯した罪をくりかえすことはでき

ないし、異性を責めるわけにもいかない。ただこのまま一緒に過ごして一代を犠牲にし、四千年の古帳簿に始末を

(「随感録四十」、一九一九年コ

つけるほかはない」

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〈間〉

狂人が見出したのは、自分も人食いを免れ得なかっ

の深さを確認させられ、弐族の恥辱はそのまま自己の

文学を、

たらしめる契機はまずこ

て、

い入額」のための

アわれわれは

ようにし

なるか」の

の恐怖か一先天性梅毒に詑し、

イブセンの

、いまはあなたが〈モルヒネの搬用たii引用者〉手伝ってくださらなければなりません。

の…場一密を紹介している。

オスワル

ブルビ

γグ夫人

わたしが?

オスワル

あなたがいちばんの

す。

プルピング夫人

しげかノ・

おまえの

オスワル

らこそですよ/

アルビング夫人

いう逃、汚場のない

ある。かれは繍壌とともに、この

ペ〉

魯迅において、

の「民族的自己批評」の

み出されている。

」の暗黒を自分たち一代でおしとどめ

となること、これが魯迅の

とった態度である。

、魯迅は、民挨の精神的肉体的欠点を次代に引きつぐこと

259 -

ですか/

オスワル

ぼくはあなたに

でほしいとは

おまえを生んだわたしがですか/

さったこ

ぼくはいりません/い

D工ニ

j

‘4φJナJ

の宅ちの

の輩、え」

ハ明腕制緩い、一九二五年〉

心に割削笈れていたようで

」れは、

ねばならない

ハ寸随感録一一

九一八年)、

北ム人文学部紀要

いしませんでし

その上、何?とい

ってください。

ように、

の母子のイメージはよほど深くかれの

からおし出され、

に生存せ

「世界」を失、

なお

の進化に取りのこち

一人間同L

られる新し、

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「恥辱g

一(「蒙恥

〉め初滋殺について

〈「鈍惑裁四十

、…九一九年〉

して、

すものであっ

のよろうにして

一方の

るか」はかつてのつ朴棄の民」のイメ

iジがなお引きつがれていることを

ょうとナる力会失い、魯迅のや隠像はかえって次のよろう

示してはい

それはもはや全体的な詰抗の

なものに収激している〈寸随感録五十六

L一、

「六十、ゑ

n築制何の箆民μ

」、

;}1

われわれ中間人は舶来のどんな主義にも設かさ

ことはないし、またそれを抹殺するカもない。得々

というとき、それ

のよない

、そ

fLが来る

中闘の塵史上、

た烈土た

したことは

確かだ

かれらは「歴史の桜見」において、

コシ

γ

以下でしか

は、或福

という獣性

火」という

つの「物質」に

火が北から来れば南に逃げ、万が

前から来れば後に退く民衆

一z

来たぞ/

の「総勢い

の人賂の関係は、

-260 -

本の契機をはらまない自己完結的な錆澱としてとらえられる。魯迅が「吃人い

「暴君の

と呼ぶところ

のものである。

「暴君治下の

たいてい

っと暴である0

医誌は、暴政が他人の頭上にふる

を賞訴し、態安"とする。

のを欲し、自分はそれを見て喜び、

を娯楽とし、

叫他人

の手腕はただ

いに免れる』ことに

し、O

円安十いに

たものの中から次の生け繋が選ぴ

暴君治下の

の、血に渇い

れる。だが

かはわからない。死んだものが

魯誌の民誤認識はこれほどまで

のこっ

のがうれしがるのだ」

この認識の

十二仁

で占こ

の憐れと予感をはらんでいたとはいえ、

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学期の

のままではな、

に「破悪芦議いと

れら一連の

とを読み誌ベて、その

に転換とも呼ぶベ

き変化を

る読のみで、と

あι らる語ざo 7.J

を得ず

われ

そこに辛亥革命の「控折」の

の精神に駕ん

大きさをつ

の「随惑L

けか、

ロジヤ

「人類覚慢の

した文章〈「新紀沿い、

ゴL

一九年〉

れていることは、向じ陣列

辻、この

れわれはこ

な還を見つけるよ

うに、新しい人生

しているの

」とができる。われわれは、このひ

の光拐に従って、努力して

のために話欝し、人類にとっ

しなければならない」と呼びかけているが、魯一迅の

「‘識を持ち上、げるい{行為がいかに

のであるかとい

にす↓って、

にもかかわら、ず

いはそれ故

-261 -

5主

にある。だが、

たけ

、永遠に物質の

ことしか

い」と結ばれている。

の立場である。

覚的に

に拠る卒新的知識人たちとの共再戦線の

持に自

れたものでありながら、

むしろその

の暗黒を衝こうとするものであつ

また第一次大戦からロジヤ革命へ

いていく新しい散界史的潮流は、むし

ち・自身

ので

の、込の

ちがえる底の

魯迅とは無縁

った。こう

かれのたた

カミL 、

(のちにこのたたかいそのものは「曲削減〕の名で呼ばれる

すでに

日記」

にほとんど尽

くされている

るが、

私は

こで一九一

八見に書か

の文章を取り出すことによって、

期の魯迅をつ

した契機に、

いの小論が手がかりとしてきた「私」の

のあることを、

て確認して

北大文学部紀葵

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おける「恥一爆」ハ豆島恥い〉の契機について

いと患う。それは、後年ハ

の自己意識を反挟した「吋柄城内山岳序」あるいは「

自序い

ハ一九一一一

二年〉とは異った角震から、

一つの魯迅像宏明らかにしてくれるので拭伝いかと私は思う。

九年のおそらく七丹に「小さな

と」““

L 、

関一認の

てみよう。

一勺

しカミ

ら北京へ出て来て、

またたく潤にもう六年になっ

その潟、

tこ

いわゆる間家

その数はずいぶん多かった。だが私の心にそれらはどれほども痕時締役とどめていない。もし強いてそれ

らの影響をさがすならば、それはわたしの懇い

つのらせた

である

of!lつ変り豆夜

私を日を

怒って人間尚宏軽蔑する人間にしたててしまったのであるい

こったことだ

と」があり、それが「私」を入院不信から引き離して

執筆の数か月前のこと

いている。

つまり「狂人

ただその一つだけ、

くれる。それは「

ることのできぬ「小さな

である。といって、

「狂人日記」

の動畿をこ

探ろうとするのではない。

九一九年に、魯迅が一

-262 -

」のできごとを選びとって回想していることの

てみようと患うのである。

この引用した文京は、

-,

とならぶ代表的な由民日解説の

切っ

の次の部分を想起さ

ぜる。

「しかし私はその時、

に対して、

それほど熱情念日招いていなかっ

辛亥革命を見、第二

嚢世議が皇帝を称し、張勲が穣砕を図ったのを見、あれやこれやと箆た結果、懐疑的になってしまい、そこ

でひどく失望し、落胆していた」

」の部分手間関するかぎり、一一つの文章はほとんど閉じこと

ている。ただ

は、そのあとに

に対す

なくて

ったかを説明し、

は大半は

に対する共感のため」

であ

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旧社会の病根を暴露して、人々の注意を促し、どうにかして治療を加えたいという希望

も混じっていた」とその動機を回想しているわけであるが、そのすぐ前の部分で次のように述べているのであるo

「私は自分の失望に疑いを持った。なぜなら、私の見たんわ、事件にはたい九ん限りがあ『かからだ。この考えが

私に筆を執る力を与えてくれた」

「むろん、その中には、

(傍点は引用者)

「小さなできごと」の方の展開を見てみようo

作者自身を思わせる「私」の中に、数年来の見聞と体験がかびのご

とくに生え広がらせた「悪い性癖」は、人力事の梶棒にふれて倒れた老婆の動作に「憎むべき」

老婆を扶け起こして派出所の方へ歩いていく車夫の行為に、最初はた迷惑な「おせっかい」を感じとったのである

「狂言」を見出し、

が、やがて車夫の姿はだんだんと大きくなり、

ついに「私」の皮砲の裡に隠れた「卑小さ」を搾り出さんばかりの「

「私」はいっそう自分の偽善を感じて混乱する。

-263 -

威圧」となるo

思わず巡査に託した金に、

「このことは、

いまでもよく思い出す。私はそのためにまたいつも苦痛を忍んで、努めて自分自身のことを考え

ょうとするo

数年来の文治も武力も、私には、小さい頃読んだ『子日ク、詩-一云ウ』と同様に、

いつも私の限前に浮かんで、時にかえっていっそう鮮明になり、私

一言半句も思い出

せはしないo

ただこの小さなできごとだけは、

を恥じ入らせ(原文「教我慨憐」〉、私の心を新しくし、私の勇気と希望を増してくれる」

この結末は、少くともこの時期、魯迅の仕事が、執拘にまといっく人間不信をこのような「自己批判」によっては

らいのけながらつづけられていることを示している。あるいは魯迅が自らそのように確認していることを示してい

るo

そして「『自選集』自序」の説明と「小さなできごと」の叙述は、相互に似通っていながら、

一つの特徴的な相違

「『自選集』自序」の、あのベテlフィの詩の一句「絶望の虚妄なることあたかも希望に同じ」との

組合わせで語られる「私の見た人勺事体にはたいへん限りがあるから」という一句が、ムがあ・未知のものに賭けか

点を持っている。

北大文学部紀要

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山山発における

信をうち砕き、

発想を訴しているのに対し、

のことはもう

訳者序」〉

のことをよく京し

ところが中罰では、

f崎、

)の契機について

なできごと」で

一人と一事件が、

こさせ、

その人間不

の,心

ぐ〉

のをして罰復のための新しい行欝

できる。

せるのである。

も見るこ

武者小路実篤の戯曲

日本人がっと

孫伏菌が

るにあたって、序文(「

の一周WJ』

v」、

し、

今-i'l, B h雪ら訟は U

ブア:ン公明子、

予李

2A T込it 門人

関の真肢は

に分れて

日々流露している。欧州大戦の戦士たちは

走り撚れば友人だった。

とつやるにしても勝負を争っていつもけんかになる、

、d》、A

Lカ

っている、中田人がもし戦前のドイツの

であ

たもので誌ない、

のが、

この反戦劇

ちょうど排日運動の

paA片4

w

F

fdcT、刃?

ブし

九年〉ため、

つみん。

「昨日

「或る青年の

など恐らくいまい」

ほども強かった

て》

ったことは、

わねばならぬ、という

-264 -

いム日ムつ

の考えである。

〈辺倒訳者序一亡、

に治療を加えるい

の日本からその薬を持ちこもうとい

「可以欽点東西」〉

吋文章は書けないが

ないか』

った。

の翻訳ならやれる。しかしいま

に対して

恐怖を感じ、

は翻訳にとりかかった」

兆候や模範に

ぃ。互い

っているところだし、

で読む表

た。夜電灯をいぷけて、金急の

めているうちに、私は突然自分

しさ(原文

〉を感じた。

はこのようであってはいけないiilそこで私

されて行動にすすむ形は、

なできごとL

と混じである。ただこ

「恥」の意識につ

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い点は、このあと魯込が武者小路の

い村雑感いの

句を引毘し、

議怯ん

ょうかと考えた自分合比して、次のように

は、げしい風雨の

ているところにある。

ているのに、私は

い縫幕で

し、誤っている人々の

川間前で掘を売

のかワ乙

V

'-

「ウ明時刻』

のあの「鉄の

なめぐる金心呉との

思い出さ佼るc

「『しかし何人かが起き主ったら、

まい仰い

をうやこ、

f

肖こまfh

そ574司E239q

しかし希望となる

ることはできない。なぜ

あるものだし、

の絶対ないとい

台、かれらのありうるというの

ること誌

そこでとう

「註入日記」の

りにも有名で

ここにも

なできごと」しし「

自序L

叫 265 叩

~

'-

た」

との

のように解明するのか。魯迅に

つの重要な課題となるのであるが、その考察は今後をまた

る「恥」の意識のその

の動態を見ようとする小論にとっても、それは当然

なければならない。

ともかく、

われわれが「

白山号」や一

にとらわれる

となく、

期の

てみるとき、

「人類」、

という「模範」や

、たえ

の出発点

否定的現在を克服していこ

訳出

ハ「恥一際」

〉の意識なかれの文

ず自己の内務につく

のである。

魯迅は

μ

翠一武M

の中で、そのような

として、

はじめて

という語を用い、

のために、

の一初出を犠牲にして、骨肉をぶつけ

刀を鈍ら

血液をそそいで

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おける「恥辱」〈

〉の契機について

組と騒を消すL

というイメージ

〈それはPジ

に立ちあがった人々に重ねられている〉

をそれに託し

「入繍」

の「兆挟」として多く魯迅に作用したものは、

「狂人日記」

しているよう

ら人組にいたる…すじ

の進化の過程そのものであったG

とその国援を求め

の「進化論」に対する態度はほとんど信仰刊に近いものであって、

に、先の自己完結約な語、

「恥い

の中から、その

にもかかわらず、魯、場合し

へ踏み出させていったのである。

いたものは道をゆずり、

励まし、

かれらを歩いて行かせる。路上に深い溺があったら、自分たちの死

でもって壊めて平らにし、

かれらを歩いて行かせる。

いものはかれらが探瀧を埋めて平らにし、議分たちな歩い

ぜてくれるのに感諜ずる。老いたものも、

ヵ、

れらが底分の埋めて平らにした深謀の上を歩いて行くのに感謝する。

l

l遠くて遠くへG

このことが分れば、幼から壮へ、老へ、死へ、みな喜んいて行く。しかも、

歩、多くが祖先な乗り溜

日 266-

F乙

しい人間として。

w

」れは金物界が合理的に間開いた道である/

銭間十九」、一九一九年)

人類の総先は、

いままでもみなこ

ってきたのである」

(吋随感

「小さなてきごと」と「

訳者序」は、魯巡の「恥」

の場で魯迅の

かれた進化論も、魯迅の青年に対する態援が一示すように、

じているこ

設族と個人との切り離しがたい関係

しているが、この引用文のように民族の方向として描

く日常的な生活態度支で

る深さでかれ

てい

つてのちに魯迅の自記意識が流動化していくに伴って、この「恥」

のではあり得、ず、人間同としての

「議化」論が迫られ

てくる現状変更も、決し

いとして現われるほかなかった

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のである。

「民族的自己批評」としての魯迅の文学は、

しだいにその全体性を獲得していくことになるのである。

そのような全身的なあらがいを刻印しつつ、中国民族の人間

的回復を目指して、

注(1)平心『人民文豪魯迅』

章第三節参照、

(2)

一例を挙げれば、附剛容は次のように述べている。「ι

中国の土

子とは、実は気息奄奄として生気のない人である。・:・:賊・

満州人は、またこれをいろんな手で困しめ、いろんな手で痔

しめ、いろんな手で泡し、いろんな手で縛(官僚)りつけ、

いろんな手で紋めつけ、その老いさらばえて気力もつき、白川

ぬけがら

たえだえな躯殻の身となるを待ち、しかるのち尻を叩いて追

い廻すのである。:::厚しめるとは何か。童試、郷試、会試、

殴試〔殿試の際は腰かけもなく、牛馬同然の待遇である〕で

痔しめ、乞ち同様の行為をさせて、世間に蓋恥というものの

あることを忘れさせるのである」(小野信繭氏の訳による。

島田度次、小野信爾編『辛亥革命の思想』、一九六八年、筑

摩書房刊〉。奴隷的存在(奴隷性)とは、屈辱を受けながら、

「恥辱感」(「差恥心」)を喪失せしめられて、それを屈辱

と感じ得ぬ存在(性)の謂いである。「他人から見れば、一

刻もたえ忍べぬ大恥辱をうけながら、かれ自身は怒りの色も

なく件らう容もなく、恰んでその分に安んじ、ほとんど自分

が人間であることすらも自覚していないかのようである」

(一九五六年、新文芸出版社刊)第

北大文学部紀要

(向上)

(3)魯迅が性格的にもはずかしがり(「愛伯蓑」)であったこと

は、景宋(許広平)「魯迅先生往那些地方探」(鐙敬文編『魯

迅在広東』、一九二七年、北新書局、影印)に見える。

(4)許寿裳『我所認識的魯迅』(一九五一一年、人民文学出版社)、

同『亡友魯迅印象記』(一九五二年、人民文学出版社刊)。

(5)魯迅における「屈辱」体験を決定的に重視する論稿として竹

内芳郎「魯迅ーーーその文学と革命||」(『文化と

EE、

一九六九年、盛田書庖刊)があり、「復讐」について論じた

ものには、高田淳「魯迅の〈復讐〉についてllt『野草』

「復健一一回」論として、併せて魯迅のキリスト教諭について

lJ』」

(『東京女子大学論集』十八巻一号、一九六七年)がある。

(6)増田渉「魯迅伝」(佐藤春夫・増田渉訳『魯迅選集』、一九

三五年、岩波文庫)。

(7)丸山昇『魯迅ーーその文学と革命||』(一九六五年、平凡

社)に詳しい。

(8)

「真の人間」(「ほんとうの人間」、原文「真的人」)につい

て、鴻文痢「魯迅的第一篇小説」(『限青年談魯迅』、一九

五六年、中国青年出版社刊)は、「魯迅は明らかに世界には

一種の『真の人間』が存在すると考えていた。この種の人間

-267 -

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出発における「恥一障」(「差恥」)の契機について

は、魯迅は当時、資本主義国家の人間を指していたと考えら

れる。魯迅はのちにこのような非科学的で反動的なブルジョ

ア思想を払い去り:::」と述べている。私も当時の世界的な

民主主義、ヒューマニズムの潮流の新しいうねりと、辛亥草

命の「挫折」過程を反映した魯迅自身の民族認識の暗さとに

規定されて、魯迅の言う「真的人」が猿文病の言うような側

面を持っていることは否定できないと考える。しかし、鴻の

言い方は単純化に陥っており、この小論では、「『人』の

欠如態」(近藤邦康『辛亥革命』、一九七二年、紀伊国屋書

庖刊)としての「奴隷」や、「牛馬」「獣性」「吃人」など

の反対概念として、「人聞が自分の前に与えられた模範ない

し兆候」としての「根源的な人間」「人間らしい人間」とい

った漠然としたとらえ方をしておきたい。しかし、魯迅は、

「摩羅詩力説」の中で、早く「真人」という語を用いており、

「(バイロンが)英国に容れられず、ついに放浪顛浦して異

国に死んだのは、ただ面具が危害を加えたのである。これこ

そバイロンが反抗し破壊したものであり、今日に至るもなお

真人を殺しつづけているものである。ああ、虚偽の毒は、こ

れほどまでにひどい」(傍点は引用者)と述べる。「真的人」

も『熱風』に言う「世界人」、「人」なども、単に静態的に

とらえられているのではなく、この「真人」の語が示すよう

に、人間の尊厳をめざす(バイロγ的な〉努力とたたかいと

をとおして発現してきたものあるいはいくものととらえられ

ていると、考えるべきであろう。

(9)伊藤虎丸氏は、「魯迅の進化論と終末論||近代リアリズム

の成立||」(『魯迅と終末論

ll近代リアリズムの成立』、

一九七五年、龍渓書舎刊)において、「狂人日記」を「留学

期の西欧近代文芸との出逢いを契機とする最初の文学的自覚

、、

から始まる一種の自伝的告白小説」(傍点は原文〉として見

る観点を述べており、この小論も「恥」の意識を軸にしなが

ら、同氏にならってこの小説の回想的性格に一つの形を与え

てみた。またこの小論も、伊藤氏が氏の論稿の重要な拠りど

ころとしている木山英雄「『野草』的形成の論理ならびに方

法について11i魯迅の詩と

H

哲学μ

の時代111」(『東洋文

化研究所紀要』一二十、一九六三年〉に教えられるところが多

い。また木山氏のこの論稿の前提となった作業の一つである

「『阿

Q正伝』について」(東大中文学会『会報』十二号、

一九五「七年)を読み、示唆を与えられた。

(ω)「『自選集』自序」(後出)参照。魯迅は後年(一九二五年)、

「最初の革命は排満であったので、容易にできました。その

次の改革は国民が自分たちの悪い根性を改革しなければなら

なくなり、そこでしりごみしてしまいました。だからこれか

らの最も重要なことは国民性の改革です。そうしなかったら、

専制であろうと共和であろうと何であろうと、看板は変えて

も品物はもとのままで、すべてだめです」(『両地書』)と

述べている。「辛亥革命」を境とする「転換」は、かれの民

-268 -

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族認識と自己意識との両面から「狂人日記」に刻印されてい

るとおりであるが、一方で、引用した文は魯迅の留学期の評

論が、その課題意識において「五四」期とはほとんど変わり

ないことを示している。留学期の評論が基本的には「革命

派」の潮流の中にありながら、きわめて個性的な位置を占め

ているのは、それが「国民性の改革」という課題意識につら

ぬかれつつ、この課題が抜きさしならぬ形で、民族の文学

(「詩」・「声」)の問題として把握されていることである(「文

事が衰えると、民族の運命もまた尽き、群生は響きをやめ、

栄華は光を収める」|「摩羅詩力説」〉。

(日)本文でこの時期の「欧化」と「国粋」の問題に言及できなか

ったので注記しておきたい。「随感録三十五」(一九一八年)

が示すように、魯迅の基本的立場は、「われわれを保存する

こと、確かにこれが第一義だ。われわれを保存する力を持っ

ているかどうかだけが問題であって、国粋であろうとなかろ

うとかまわない」という点にあったが、「たとえ崇拝するの

が依然として新しい偶像であっても、とにかく中国の古くさ

いものよりはいい。孔丘、関羽を崇拝するより、ダlウィン、

イプセンを崇拝するがいい。痕将軍、五道神の犠牲になるよ

り、〉旬。

=oの犠牲になったがよい」(「随感録四十六」、

一九一九年〉、あるいは「ELPZ025子宮間一ョ」(「随感録

四十八」、向上)という一見「全面洋化論」かと見まちがう

北大文学部紀要

発言をしている。このことについては、木山英雄氏にすぐれ

た指摘があるので、それを引用する。「『五回』の頃の態度

は、胡適などの『全面洋化』論といかにもよく呼応している

ようだが、彼が呼掛けたのは、国粋まったく地に堕ち、した

がって洋化の能力すらもたぬ漢民族の、せめて一切を失った

無惨な身上を正視する勇気とそこから出発する決意の外の何

でもなかった。彼が漢唐の文化を高く買うのは外来のものを

よく受入れ消化しえたその『現力』の故であったように、国

粋と洋化の皮相な争いは、民族の文化の根源的な関かれた活

力という場で決着を済まされていた。」(「荘周韓非の毒」、

『一橋論叢』六十九巻四号、一九七三年、傍点は原文のまま〉。

(股)紀文「魯迅著訳系年目録」上(『中国現代文芸資料叢刊』一

輯、一九六二年、上海文芸出版社刊)による。『柄賊』では、

文末に一九二

O年七月と-記してあるが、作品は一九一九年十

二月一日の『長報創刊記念』増刊に掲載されたものであり、

紀文氏は成立を一九一九年七月と断定している。なお、この

小論で魯迅の作品に付した年は、その成立年であり、すべて

この目録に拠った。

-269 -

〈補注〉一魯迅の「差恥心」に着目したものに、早く太宰治

「惜別」がある。ただこの「差恥心」は、民族の恥辱成を取

出しているとはいえ、多分に太宰自身のそれを投影したもの

であり、その差恥心の起こる場のとらえ方もこの小論とは異

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出発における

(「議聡」〉

ついて

なる。制執は、小仏側の文駁合雑附録するために、「均一別いれな滋野

のM

汗に置いて終漁し吃ふたのであるが、いずれ機会を克てそ

の検討セ試みたい。「楠抑制加いに間関連する諸民の体制総合次に急

げておく。

竹内好コ嫁努先生」〈向

MM

篠迅緩忍』、一九隠九年、役界評論校

刻印〉

縫崎秀樹「吋惜別加前後」(『魯迅との品別総"で一九六二年、

中間北札札制持)

竹内災叶使命感と脱届一滞感i11文時ずにおける民族的支授の視点

ii」(『EM

本人にとってのや思像』、一九六六年、春秋社

務〉

演弁健「二つの後込後||l竹内好と火祭給のばあい111い〈桑

附郎氏本人綴『文学遼論の隣府九e

問、一九六七年、緊淡総研応刊)

〈補注〉二引用文のうち「スパルタの淡」は松枝茂夫氏の訳文

ハ岩波新版言後込選終』第十一巻一次収〉、「的協怒声一議」は伊

藤党丸氏の訳文(平凡社内に中間関務代文学選盤情』

2「袋迅佐木」

一段級)九ずい間対い丸、壮いていただいた。

本務は総務「討級協品災的人ノ』考1i1円犯人間同記』第十二

節米関増の読解をめぐる覚え幾11167一ハ『品開問問』問問風向、一九七

五年)における移鉦をもとにしている。その他紙、先学・関門学

の議氏から後一合一向論にわたる批都政な受ける談会にめぐ支れた

が、「縁日品官識的人/いの解釈について機間間後氏訳「ほんとう

の人聞に綴出向けできないl

〕〈角川文庫『阿

Q正総恥所収〉が

正しいとする立場に立って改めて篠巡の組組作品を検討してみ

允結果をまとめてみたものが本稿でちる。この小論は全体と

しては三部作を予定し、索機はその第一誌にあたる。後続

を予定している部分の後題は、第二郎叶明応出陣』的表夜の掛府

知芝、第一二滋「叫恥一線恥からの日出復」でふる。

なお、その後「献体自民・::・1

…の潟例俊一つ、「山見《小梯寸大Af札》

記」(一九一一一間稼〉に魯泊、が引用した労務机阪の然途中に閉品取

したので、参考までに引いておきたい。

「我当初波紋臨吋、掛田向我一発予滋滋、姿見ム閥単上討錦子、所以

決後昨吋不辞向田荻、続長浅間開ぬ曲問、官血相判山州押了糾純子回開品、一円以誇

錦織。後楽事一よ没有賞品弘、狭間刻家間部、実在党閣内裁判繍紙、蹴州悶川泰

子」

このす〈が訊問のア帰以問時浴室一上銀前一お賞制子、総溌没有崎調

子、毅閉山中以悶品一小樹博妻小」に付対応するものであることから、こ

の文の「難問品:::いが、「問見不担問」〈制閉山川山のぞきない)と同

胡縦であることは開明らかである。

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