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Instructions for use Title 資本主義確立期のフランス綿業 Author(s) 栖原, 彌生 Citation 北海道大學文學部紀要, 17(2), 81-171 Issue Date 1969-11-28 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33333 Type bulletin (article) File Information 17(2)_P81-171.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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Instructions for use

Title 資本主義確立期のフランス綿業

Author(s) 栖原, 彌生

Citation 北海道大學文學部紀要, 17(2), 81-171

Issue Date 1969-11-28

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33333

Type bulletin (article)

File Information 17(2)_P81-171.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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資本主義確立期のフランス綿業

5爾

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4じ四二一、、、

大結構1旦 一時 資文 ぴ 八 期ナ品立,

変 六区

本部 化 O 分紀 の代年 と

王要 諸 綿業要 の

義因 綿業 {の立

の 置 確構l、f旦k

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- 83-

Page 4: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立畑般のフランス線業

八六つ年代のフランス総業の構造変化を具体的に検討することにより、確立期におけるフランス

の機造的特衰を解明するための一つめ手がかりを得るこパどを目指す。

本格は、以下の問順序で、構成される。

まず第一に、ここで問題とされる一八六

0年代が、フランス資本主義の発展過程において、いかなる時制端であった

か、まれ~、当期間の綿業が、フランスの経済構造の中で、どのように位置づけられるかについて、概観しておく。

次いで第ニに、当期間の他開業において、資本の集積・集中がどのように進行したか、同時に、機械体系と労働力の

編成の仕方およびその社会的存夜形態とがどのように変化したかを検討し、かくして、一八六

0年代の綿業め構造変

化がいかなるものでみったかを明らかにすることに努める。

本稿は

その変化がいかなる諸条件の影響を受けて進行したのかを検討するために、園内的条件としては、綿製品

の邸内市場がいかなるもので会めったか、国瞭的条件としては、

度の実施と、アメリカ南北戦争ご・八六一4}

一八六

O年の「英仏通商条約」にはじまる自由貿易制

-84-

第一一一に、

によるヨ!ロヴパへの綿花輸入の杜絶品

「綿花鋭鋒L

とが、ど

のような作用を綿業に及ぼしたか、以上の諸点について検討する。

最後に第臨に、一八六

0年代のフランス綿業の構造変化のあり方が、確立期におけるフランス資本主義ににどのよ

うな構造的特質を賦与寸ることになったかについて、考察を加えたいと思う。

一、時期産分と綿

イ立

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まず、極めて漠然とした表現では

「一九世紀のフランス経済は成長経済であぶ一

フ一フンスの

国民経済の規模は

といわれるごとく

一九世紀を通じて拡大し続けた。このことは、図

1にみられる通りである。吉田『ロ

N2凹Eによると、

一人当り物財生産額

(EH盲目2-3・0pn仲

)2EEEZE)が、一七八一

i九

O年から一八八五

i九四年にかけて一七八

フランから四四四フランへと約二・五倍となったし、司巾吋吋

2Mによると、国民生産(匂

gExztog-)が、一八三五年か

ら一八九八年にかけて九一億フランから二一

O一億八千万フランへと約三・三倍になったのであ

Ur次に、このよ、?な

フランスの国民生産の増大は、とりわけ工業生産においてめざましかった。図

2にみられるように、

一七八一

j九

O85 -

年から一八八五j九四年にかけて、農業産出高が四一億五千五百万フランから八三億二千六百万フランへと約二・

0

倍になったのに対し、工業産出高が六億四百万フランから八七億一千百万フランへと約一四・四倍となったのである。

また、図

3においても

一七八九年から一八九八年にかけて、農業産出高が三

O億フランから一一二億二千万フラン

へと約三・七倍になったのに対して、工業生産は一一億二千万フランから一

O一億二千四百万フランへと九・

O倍に

なった。

(1)

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EbBヨぬ

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九日、

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(2)

222ω玄は、一九O五二一一年の不変価格表示で、物財

産出額(農業産出高と工業連出高の合計)を算出したうえで、

人口変動を考慮に入れて山る(フランスの人口は、当期間に

約一・四倍

)OHV22CMは、時価計算で、国民生産(農業・工

北大文学部紀要

業に加えて、商業・サービス業等の合計)を対象としている。

両者の算出結果の相違は、以上のような方法の違いによると

ころが大きい。

(3)

図2は冨

222ωピが算出した数字によるものであり、図3

は司02.。ZHによるものである。これにも註(2)でのべたのと

同様の、方法上の違いがある。

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資本主義確立期のフランス総業

このような事実が、いわゆる「工業也(ぽ含三吋芝山田呉芯出ごを慕畿とする経済成長官

Z芯帥静岡戸

2

いわれるものである。だが、「工業化」とか「経済成長」とかいう事実だけを以ては、国民経済の編成のあり方・生雄諮問

(4)

孫についてはまだ何事も語られていない

0

フランス資本主義が一九世紀に磯立された遜韓を検…封しようとする場合、産

業革命の終期をどの時点に求めるかといった問題告はじめとして、検討さるべき諸問題が数多く残されてい〈七年それ

らについては諸説があるが、ここでは、一つの手がかりとして、

都合。ロO同制

MEsとと

一九世紀におけるフランス工業の発壌を部門別に思

分して考察すると、ほ詔一八五

0年代以降、一つの質的な変化がみられることに気付く。関委によると、繊維工業原

料輸入額・綿花消費量〈第二部丹H消費材生議部門誌増部率が、一八五

0年代以降、鈍化していることがわかる。特に棉

花泊費畿一は、…八五六年まで急速に増加するが、五

O年品目にはその速震が緩慢になりはじめ、六

0年代前半の「棉花

飢謹」による激減は部として、七

0年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

銑鉄不幸同時〉生産量・燦鉄鱗鉄〈柏市『え

22司)生産量(第一部門担生産財生産部門〉は、一八一二

O年頃から懇

速に押ぴはじめ、五

Oi中ハ0年代の発壊はめざましい。七

0年代に入ると、その速度は緩機化するが、依然として成

長が維持されている。したがって、一九世組前半瀦には、工業発援の推進主体が第二部円であったものが、五

0年代

を闘壌として、それが第一部門へ移托していき、ムハ

0年代に後者が確立冬れるにいだった、と考えてよい。国5は、

織維工業労働者数と鉄工場

(22司併な吋〉労働者数の変動を示したものであるが、能者が一八四七年以詩減少の一

途をたどったに対して、後者は一二

0年代以降増加しはとめ、四七年に一時議少してから、以後再ぴ上昇畠線を維持し

続けた。次に、関6によって第一部門を代表する製鉄業に議する熔鉱炉数の変動をみれば、一八諮

0年代からコ

iク

ス熔鉱炉の増加が務しく、木股等の溶鉱炉が減少し続け、六七年に、前者がわるに変ったο

このように、

- 86

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一九世紀の山中頃を転換点として、その内部品情成に紫的変化を生ぜしめ、はぽ一八六

0年代に

財生産懇門が議立剥ぐれるに及んだこと、したがって、この時期に、フランス

を推溺サしめるのであ一匁

フランスの

lま

〈4A〉このような数縫約機史分析

(S弘司

EAおきな仲

EZ)をも

って、関災後絞め発展過程を検討しようとする研究方法め…

つに、町内CMWS唱の泊料怨のチイク・オフ理論がある。これによ

って、彼はフランスのテイク・オブ期を一八三

Ojaa」ハO年と

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本村、久保、村上訳、「日続済成…いい伐の誇段階』一

昭和三六年、一ニムハヌ以下・また、円、ぬれ閣法

gN他、国民所得

mw年

成長擦が、付-七八八年から一八間五年まで

0・八%明、ふった

ものが、それ以後二・…%に増大した、といういぶから、一八四

五年頃をフランス竺アイク・オフ期〈

Z110号念

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CMF問。…ごと設定した。

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mwmwGa経済成長め側海から、一九世紀フランスの総災発展

のテンポを測体応しようと試みたものは多数ある。例えば、

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H刊の忠まさ話-HtZ2vm河島、史民急時ぬ円。Ew翠~円札めとえoh川崎おぬ切にミ

~円宮崎、。百台同信凡退llNMW片品

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北大文学部紀饗

の終雨期)、

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4

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その中で、玄223ωどは、川山故恨の変動と人口の変動を考慮に

入れた後も総納税衡なやつ方(本営絞〈

2)品夜間開…)で国民総生漆州酬

を物件似し、その結来、一九俊紀フランス経諸問

mw発淡には短期

間の波動的に〈ハソ返すカ

iブの緩偽ゅはあるが、それをならす

と二段級になってしまうことを附明らかにして、

mS仲O耳のいう

コアイク・オフ期んは存政しないことを主張している。

。・玄EanU35一伯仲-R?のめ

?}u-MHmw備え

Z4・

(5)

フランスにおける産裁第命の後間について、古くは‘

ωZ

が次めようにのべている令ご八一一一

OI間八年は、おい経済

から殺しい絞淡への過渡期制」(戸川出雲崎図的HC九三時円。草公定

九州川町民、誌、同町問、件。罫・口JMmwmwmwb-M。。・)であり

4:::一八回八

年頃に、大工業の淡笈的な到来が予知された。しかし、機械

(

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によって現われる《~絞殺厳命(『士。

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が達成されるには校途かった。二添えJ?一戸mwmw)

一八五二

七O布?の第二帝政期が家業務A

怖の完成期で、その指憐始以、

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機械製造業の焚くべき発獲、間生産量の奥惨な機加、出工業

- 87

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のフランス綿業

のほとんど金分野における薬品ての三点である。〈添えよ

?ω串向山〉彼が、議本的には産業革命を機械制の導入(2・

件吋OLままヨ含言。rzm詩。)と日間義とする阪市水の考え方

に立ってねり、とうていこのままぞは受け入れ難いものぞあ

ることはいうまでもない。このような観点に立つ研究は、筑

波でも存在するが(制問えば、判明'0・2a叩Z22FMaZ2音色a

えぬ~古川町内v~民同九。ぉ。協同』一出向。詰町民誌を柑円。。、苦自治同F

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町議会柏町、ht~~向

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ra)、凶器MFY枚々は、

産業革命〈資本主義の確立滋抑制〉を、小生産品鳴が分

解して、大工業のもとに資本と賃労働とが曲燃やされていき、

校会食休が資本の支配下におかれる状態になること全議本内

容として抑制搬する。このような分析視角によった研究は、一

九笈

0年代から行われているが(司副Fog-zcF叫が02訟乱立乞

22尋問口氏。怨古川りごzzue(問。〈没者〉吋飢えぬγEH吟hF両町内VSF

潟ミミ匂n言。適役ぬなな片岡「さ}-MirMmwmM吋・吋40・up-uHY

MWA帥ωiいお酔・は、この立場から翁時めフランスの和漁業務命の務

研究を整期惜している)、我々は、さらに災統的な個別研究によ

って、この方法を追求していくことが肝要だと線、70

この点

について、渡磯崎埠明「産業務命史研究の問題点」(町役会経淡

史学円三七/火、一九六二年)参問問。

フランスにおける潟県本金総摘発展の持鶏区分とそ

6

にいねいげる

被滋京総については、いくつかの研究がある。例えば、ぐぎ

自由。は、一八一二

Ol五O年には、線終がその《附加領緩〈

swazmとzggUにおいて綾大部分を点める融制緩工業が、

余波同級からいっても、成長準(ミデ留め品。220仙匂磁器開伶〉

からいっても、主導部掛け2JZza仲立。言えた2〉小、あったこと、

…九枇紀中田明から治食器滑べ器血友三宮崎聞広)と鉄遂とが、日中山線総儲け

になり、それに淡いて第二端的政燃から指摘沼(銀行)が、第五

挙自の主導部門として現われる、とのべている。トアvv。器EP

ト島句、ぬ誌な守。56RWO同H間宮島氏、。実話守(し向島旬。iLS向。γ尚知加史

的Eょがななマ伶的。門町民同偽札。川島、コsnFNU町門戸田YHω叶置

まぶた、回出品目。宮司間

Zもほぼ向擦の見方で、一八問。!四八年

mw成長は、納付に繊維工業によるものであるのに対して、…八

五0年代mw成授は、初期には鉄道と公骨内務総が、それ以後に

はクレディ・モビワぷによa

る新しい金砧勝手段と毅鉄骨憎がた俸

となった。のMM・附Y窓口《出。r2・関2J。百・ミデw唱唱

αio・相aorrは

によると、の?明,ovunw阿梅。。Z22仲立仲加。出品静岡MmwHJnテ恒三ー

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まえ旬、

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この時期に、大銀行mw例制殺、鉄遂の六大会社への合併、鉱工業

における皆無'中化が進んだことi絞本市場と生産黙ゑ度部門の

確立が爽渓した。したがって、「第二努欧州側は、;:・フランス

経済め念般的な転換期に縦一山ゆする。一三・いにな委柏旬以ぬなえたぬ

88 -

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(第二部門〉が

それを代表十る綿業もまたこれに対応した変先を示している。沼知可

22聞とは、

各部門の階部制値宗主

5え安仏〉が工業全体のそれに占める割合を算告した。その結果、後

ニつの諮問に区分し、第一期三八問。年まで)は、綿業と絹工業が、成長部の高さにおいても、総

(7}

加倒値が全体に占める割合においても、最も寵越しており、「j多くの部分を線設と耕工業に支配されている」持語、第

おめな道

iEKRめ23K陶器刊に員凶器用Y

ヲ印ぬ生産紳約金総務開け

の確立については、ヌ

2急も、「一九社い紀前学には、機械慨の生産

zr江2ccu晶

252zmO切〉は、それを使用する工業に附

隠していた(出向、えば嫡刊州制緩裁の機械

i紡織機〉J

コ九澄紀

後半に、機械のゑ蕊は、それを使浴する工繁から分離し、…

般にんねゑした」とのべている。〈開・還。mmb・。E-n町??川内相WM'

)以上のべたことをまとめれば、フランスめ綾淡構法が、一

九世紀中犠を翻期として質的転換をとげたこと、その内務は

おける械情繁紛ゑ綾部門の発展を前縫とした生

2

綿

罷節で明らかになったごとく

主的半か

る地位は批下していくのであるが、

の部門刑判の

中山。、

rv

二議(

滋川明松山必服部門の確立にある、という点でほぽ一致しているよ

うに思われる。しかし、これまでの諮級交によると、知号、え

た限り、それが一八五

0年代か六

0年代であったのか、とい

うところまでは明らかにされていない。前払は、ゑ緩対生盆部

門が確立さわ仏、肉体吋いい繊維工業等の消後約金底部門における

資本め緩やが促進されたのはでまハ

0年代であり、この叫吋期

にフランスの資本主幾が残立したのではないかと忠、76

後者

について検討することが、十平…問の日約である。

89

かげて

の中で占め

けて

る」 八時間島品昌…J

Jムofz -'rf- ~きは~寸:立

ず主導部円から消滅し、多方、鉄鋼業と石炭業が中位の率言。含

222Z出

よる急速な拡大と:鉄道によ

〈毛出己吋間母〉どの開の遺伎町民第

が年成長率にれねいでも約加価僚がおめる割合において

器落し、これに代って

期北大文学部紀要

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資本主確立郊のフランス綿業

鉄鋼鱗業

石炭業

になった時期とした。このように

Li Lf

0年代までは明確に

の推進、車体としての地位にあったが、後半に移るにつれて、鉄鋼業等の第一部門が綿業に代っ

についたのである。図

7は、め恭幹部門の一つである紡積業について、紡盤数と紡績工数の変動を示したもので

あるが、これによると、紡鍾数は一

から急激に増加ナるが一二

0年代に入って停諾し、五

0年代に入って再

、の綿糸生産

一0年代以前にはわぬよばない。錦繍工は、コ一

O年弐か

ムハ

0年代に入ると再び減少しているどの事実から、我々は三

0年代に蒸気機関が一般化した結果、一

量が増加したことを知計ど海時に紡績業における労瀦カの隣減が可能ならしめられた(したがって結績工数の減少を

、。,uJ

Oi六0年代に、綿業が何らか

ぴ増額するが

慢化させするをえなかったことをも擦知するヤ

工業全体におけるその相対的治泣を母下させていったのである。

)のよ、つに

一八五

0年代からふハ

0年代にかけ

的な矯向を深めていったのであり、それにつれて、

8〉

Q

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0年間同におけるとりわけ重要な戒

め要泌は鉄道一敷設柄、あるJ

V

歩よ唱'HN∞

(日)}十都ミによると、一一紡錘当りの張緩制緩は、

・五キログラム、八三五年で一

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10 7

一八一一永島十で関

口グラムである

O

F円khXMJh添え。町、同時n言。器内均支えぬて九、耐え医師旬、な向。なおおP1

2wぬ諸みなおnapH匂日戸MWJ

唱・∞ω・

しかしながら、間的持に

づまり、その発展速度を緩

90 -

(辺)一総綴ヱあた号の紡録数は次のように減少した。一七八六

年一鏡、一八O六年二

O録、二八年間況鋭、際協年四九鏡、

六二年八五鐙JrζJ?HA広・一八六九年は、一

00!二ハ03

鍾だったと思われる。

尚道《右足同志向えた湾問ミミミ印刷、な忘崎町送時時円。句HO違

S2・な若島

な月二え史的芝町

ZHミapshopM∞J10・の諸倒所。

一九世紀中に

その池仙誌を俄めてしまったのではなく

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しての地位を維持していたこと

のである。剤、えば、同組8

て依然としてかなり重要な

によって、蒸気機関総暴力数と議布・被服製造業ならびに

五分の一を占めて後者、そしのいでおり後者が決定的に優勢になるのは…九

から一九盟六年までの工業就業人口総数と織維工業および被服製造業の

人口一総数の罰 の

馬力数をみれば、一九世紀を通じ

総数のほぽ

。年代に入ってからである。また

八六

じ至っても

口数を表

1れぬよぴ閉山

9でみるならば

t麦

せると一

なるのは

一…年の間関である会繊維工

をと

あで tfあて

毛きも

のょっ

議主張工業は

八六六年に

年代に至るまで、

り、その後検々に減少するがその速度は極めて

フランスの工業全体の中でなおかなりの部分をしめて存夜し統けることになった。そしザ二八六

O

で、重要な構成部分としてその中に綴みこまれることなったと怠われる。

はおろか

一〈)

年代め資本主義確立期

91

〈日)の中で、総数就総務同川、一八九六年に

一六万三百人三七・七%コ丸一一…六年に一五万四千二万人(

二-mm%)

である

oMwzztoロ含

ZMMO唱え三宮ロ

ztz---

唱・

ωα0・

以下、本語では、このように註置づけされる綿業が、

八六む年代を通じてどのような構造変誌をなし遂げたのか

を問うこと、

それによっ

におけるフランス資本主義の

る手がかり

ヲハ》~事」、と

たいと

研究め対象地域としては、

ノルマンディ地方Hセ

iヌ・アンプェリナ1ル察(∞包

51宮内部三

22)を中心に

欄々の問題について、できうる限り、アルザス地方行行オ・ラン県(出露呈i怨

は、第一に、/ルマンデイが、当時のフランス

と比較することにした。その理由

の繰業地帯であったことにもよるが、持よりも、当地方が、アン

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資本主義確立期のフランス線業

のフランスにおける経済発麗の最先進地域であり、の資本主義先

農民勝分解が最も早期かっ機調に袈関することが可能であった地域だからである。第二に、

ィに次ぐ線業地務であったこと

シャンレジ

iム

の発展によって、

アルザスが、ノルマンデ

の盛期とされる

機械製の導入と工場関震の確立において、ノルマンディに先んじた、

階にわ判いて,このような両地方の発展形態の糧還を、その生産構造の

〈日)

の構造的特質を解間判しようとする問問題視角が存在するからである。

に、当地方の

フ一ブンス

とい

よる14八

第五三年に 以研鋒究の念、現連設に

照応させることにより

フランス資本意

(MH)

このいゑについては、遠藤滋柄、「フランス産業率命の悶棋倒滋

総」(『産業箪AWの研究い官前橋幸八郎一線、昭和開問。年、所収

)

C

(日〉渓撒機織岬明「産業革命史ほ閉山丸め附制慾点』服部泰彦吋フランス産業

革命仏語、昭和沼三年、本池立「フランス産業革命の展開問」〈同市民

学雑誌』、七十点/…

0、昭和凶一年)。

92 -

史料について

本稿

基本的な史料は以下のごとくである。

グ〉

う(1)ちの 四

五冨宮市・、HdM1知体mv

仏語

nog同E2aZ窓会wF・〉何回色申仲巾H12一切

usmwojH

∞∞N-

∞叫O山

mv・(切ZH品"aHhNαMwwω同)

繊維工業|綿業二ポ伊豆

ca吋即時鵠芯弘仲間帯pnoぎ同三。

ω岡山忌官公恐喝僻吋阿部祭器

mEZ由ロ吋山部吋郡松岡窓会CロO懸念必

SL言。ゆぬき】少のうちの第一巻、

宮岡田・一戸命汁紋丸信的守山骨臨時帯同仲山骨夕刊

AMen--

以上二史料は、英仏通商条約が工業にる影響をおよび

た委員会のである。ここに出出漁した綿工業家のうち、アルザスの

の長応を

ために、政府によって関鑑きれ

いて、はとんどすべてが条約締結

Page 13: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

対した。したがって、ここにおける供述にはかなりの

(

}

が含まれていることに注意しなければならない。しかし、

ら各部門のが出席しており、当時の綿業の状懇を全体的

に検討するための襲富な素材を議供してくれる。以下、

ωは一八六

O年アンケート(同国霊祭夕日円∞00)、

ωは

各供述(念写芸窓口)は、常阿γ

}

グ〉

叩}斗zo

i; 国内のほとんどすべての

八七

アンケート(関口容公夕日戸∞

J3)と略し

(4) (3)

〉吋《げ叫γ沼知ゲMWMWωC噌

MW∞〆児島℃旬。吋丹羽色合出唱史認倒見合同吋出関含芯一司世田M

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HZな12MMIAW時

MWCH,mw(HmwhwmwlM

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∞。mw・

〈日山〉例えば、同

)5Z自は、「叩小中敢にして、このアンケ;トはフ

ランスの工業のぬ執務を公平に観察するために間開催されたの℃

はなかった。それは、山墨彩〈ナポレオン三世)にイぞリスと

の条約を破棄して条約め裟礎となっている低関税制度全体に

致命的な打数投与、えることを強いるために要求されたの令ゐ

る0

・:病気め子供のように、の指導的な工業家哨泌が、

οQd

約を彼らのふおでの間制緩め根一花であると笈ム秘密した。」(』J

・P・

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LAwa旬。

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凶イ2w仲可。向。。自君主品。

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E-日戸匂UN吋

luwmw場

v

・ω00・〉

の泊料業の

は、何らかの

カf

、具体的にいかなる生産構還をもっていたのであろうか。当期間を通とて、そこに

められるであろうか。変色があったとすれば、それはいかなる性格のものであったのか。

…八六

0年代のフランス

北大文学部紀要

Page 14: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本、十点義確立期のフランス油精業

を関うことが、

の課題であるの

々は

さしあたり

々について、以下の願序で

そまず第一に

工程におけ

の集積・集中が、

に把還する。

世田畑二に

おける機械体系が、

どのように変化したか、

第一……に、偶者の今一つめ

に変化したかについて

能うかぎり開明らかにする。

に、以上の検討によって記握された、

際連をもっているかについて、

こで、綿業の

器開けをとりあ

である紡績・織布の

ることにしたい。

どの程度進行し

どのような特繋をもっていたかについて

について

グ〉

よびその労畿カの編成の仕方が、

どのよう

織布二工税における資本の集積・

と構造変化とが

いかなる

← 94 -

の考察を加、えることにしたい。

第…部

資本の集積・

資本の

はか

として

紡盤数と卒業所数を使用する7

(IV

いうまでもなく、紛糾撚数そのものが企業の資本総額をあら

わすものでは会いが、茨在のところ、これを算出することは

不可能である。紡緋燃は、紡績業の基本的わゆ伶げ然別機ぐある紡績機

にとりつけられ、その大きさと数によって紡録料械が決定きれ

まず、

2によって、セ

iヌ・アンフェリュ|ル態と小4

・ラン県の

るから、これをもって、務情味一般の規模(資本)を比絞しても

きしっかえないと思う。句。ご伶

pp雪アロErag-淡淡轍持続

氏、服部品骨彦氏、本池立氏等も、この方法を用いられている。

の増加率をみると、

れぬよそ次のことがわ

Page 15: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

かる。

ωセlヌ・アンフェリュ

lル県の紡錘数は、一八五九年の約一四O万錘から、一八六八年の約一五O万錘へ

と、僅かに七%増加したにすぎない。

ω次に、岡県の内部構成を知るために、これを郡別に分割すると、河。

5ロ郡の

みが一O四万九千錘から一一八万四千錘へと一三%の増加を示している外は、戸市出回〈『巾郡のほぽ同数を除いて、他は

全て減少している。特に、

Z2同

nE芯-郡と

JP巾件。仲郡は、半減に近い。従って、セ

lヌ・アンフェリュ

lル県全体の

紡錘数の増加(七%)は、問。

5ロ郡の増加(一三%)のみによって実現された!ものであり、むしろ、他の諸地域|特

に、コオ

(nEH)地方中央部の農村地帯の停滞ないしは減少によって、県全体の増加率が弱められている。

ω

一八六八年の一二八万錘へと、一二O%の増加率を示している。

一方、

オ・ラン県では、

セlヌ・アンフェリュ

lル県に比して約四・三倍の増加率である。次に、同じく表2によって当期間におけ

セlヌ・アンフェリュ

lル県が二一%、ォ・ラン県が四%と各々減少している。以上の

一八五七年の九八万錘から

これは、

zu Qd

る事業所数の変化をみると、

二点から、我々は、両県共に六

0年代を通じて綿紡績業における資本の集積・集中をともかくも進行せしめた、とひと

まず判断してよい。

とこで、次にこうした両県における資本の集積・集中の進展の度合いとその特徴が問題となる。これらを検討する

ために、先ず、一事業所当りの紡錘数を算出したところ、次の諸点が明らかになった。(表2)ω

セ|ヌ・アンフ

エリユ|ル県では、一八五九年の一事業所当り六、O一八錘から、一八六八年の八、O九五錘へと、一六%の増加率を

示している。これは、一方で、総紡錘数が増加した(七%)のに対して、他方で、事業所数が減少した(一一一%)こ

とによってもたらされたものであるから、岡県における資本の集積・集中が、同時的に進行したことを認めることが

この期間には、事業所数の減少率の方がかなり

できる。

しかし、我々は、次の事実、

即ち総紡錘数の増加率よりも、

北大文学部紀要

Page 16: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立期のフランス線業

いという事実から、個別資本の集楼よりも、集中が、より強力に進行したということを確認しておきたい。出

!ヌ・アンプヱリュ

iル燥を郡別にわけると、以下の諸点が明らかとなった。まず、問。諸国部では、一事業所当

間関九…錘から、七、八九坦鐘へと、間三先増加している。この商い増加率は、総紡錘一数が一一一一%増加したのに持して

事業所数が・一一路減少したことによるものである。従って、当郡では、資本の集積e

集・出ーが、県全体よりも毅務に滋

行したこと、系金体と同じく、留期資本の集結…よりも、、より強力たが、集全体と比較すれば、集積

十ゅの集積、は、

けうる。これに対して、他の罷訴についてみれば、り即時想定郡・辺

2同与野氏郡

-Pええ

都、の三のみならず、総務錐数も減少しており、後者よりも前者のぞれの減少率が官開いために、一事業所当り

紡録数が増加したのである。残りの宮出

22郡では、経営規護が縮少してきえいる。従って、以上西部では、僚別資

いつつ、して縮少していく方向が一宿されているといえる。結局、出

、専ら同

23郡によって、実現した、というこ

われず、集中めみ

一%一

たセ

iヌ・アンブュリュ1

ル祭における、個別資本の

とができる。∞一方、ォ・ラン燥では、…事業所当り、一八五七年の一

CC鍛へと、一二七%増加した。これは、総紡畿数が一一一O%増加し、事曲

この事実は、当然が、セ

iヌ・アンブぶリュ

iル擦と比較して、次の-

m仰やり、第一に、前者(アルザス)では、当初

l

紡錘一数が議かに多いこと、しかも、

一一ニ鍾から、

思%誠少1いたことによるものである。

八六八年の二四、

0

で、きわだって異なることを示している。

八六

0年代初頭

iから

後者

(ノルマシディ)

より

八六八年には

さらにそれが増加すること

である

φ

第二に、汁・ラン県では、総紡錘一数の増加率が

同時に進行したのみならず、集中よりも集積の方が、

EE 倒・の的'減;こ.少強・率力・ょ;こ.り

も・議・か

た高

巾均一絡では、資本の

集中が

アルザスでは

一八六O年以前

Page 17: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

に資本の集中が相当程震に

れていて、

その後の六

O年弐を通じて、

怒らに集中退翠が

ると共にそれにも

て個別資本の

に進んだ

井}

ることがで

(2)ZZによると、アルザスにおける一挙業所あたっ紡線数

け川、八二八年に九、双ブじ録、四五年に…潟、…一一七五鑑、

五六年に

七、九六七錘であるom-Mbミw

。Pえ

-M吋

0・

以上、我々は、ノルマンディ・アルザス両地域の

たわけだが、更に、

おける資本

-集中について、

その概括を記捜し

4によって、

さらに立ち入

よぴ

の経営規模別構成を示す表

3e(A-nD〉

'コ

めたいと田山仙、っ。

(1)

iヌ・アンブぶリュ

iル県では、所有紡錘数五、

五一・八路で、

でみったものが

000鍾以下の事業所の数が会事業所数に占め

八六八年には、間一

IJミ

七Mmに減少している。

さらに

- 97

O G

i

一O

め事業所については、その占める欝人口の増部は微少であり、

一O、

00一錘一以上空であり、特に、ニ

では減少している。割合

また、各段階の規模川り

する紡鍾数が、

。。一錘以上の

の増加が著しい。

実数共に増加したのは

なった。部ち

000鍾以下の

に罵

ている。これに対して 竺

0・九%から一三・二%へ

の事業所に属す

、五、

00十i一

、かなり減少し

。、

00一

題。

から五九・一見へ

リぷ

iル県の一八

おけ

グ〉

-集中は へ

と、一挙に増加した。以上、我々は、セ

iヌ・アンプュ

000錘の所変軸として、内ぞれ以上mw事業

の、フ+り、

。。一錘以上が、ルハ・一一%から

所の増加、

ぞれ以下の事業所の減少によって遂行された、

-ど判断しうる。

北大文学部紀要

Page 18: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義務立如郊のツランス泊料業

五、000錘以下のめ数がA

食事業所教に占める割合が、五六・0出から四六・0%となり、去、00

、000織の事業所も、説会・実数共に減少している。これに対して、一O、000鐙以上は、二ぺ二%から一一六

七%へと増加した。特に、二O、00…錘以上のものが、一〈0・五%)から七(西・七Mm)

へと大幅に増加し、

五G、09一錘以上の事業所が出現したのは、ここにおいてのみである。また、名競模の事業所に罵する紛錘数につ

。、000錐以下のるものが、六0・0%から三八命題%へと獄惜しく減少した。

セiヌ・アンプェリデ2852

鳴らかとなった。

MNC出品ロ郡では

!一。

いても、

問。悶

-集中は、セ

iヌ・アンヲェリュ

11川県全体におけるそれよりも、強力に遂行された。

これと類保した方向に進んだのが、宝

3宮部で、一O、GOG盤以下が、八七・五%から七八・六%でそれに属す

る紡錘数が七六'一一括から五九・一%に減少した。しかし、ここでは、一一O、00一錘以上のが・出現していな

いし、言郡における綿紡織業の

一〈)、000銀以下の

- 98

なお全体の八割近くを占めているGHXS宮郡における集積・集中は、

MN23郡

と比較すれば、極めて緩慢であった。一方、

zsrz言】諜と

J

町立件。同郡では、五、000錘以下の卒業所は消滅した

が、一(Q00…錘以上のものは、全く設立されなかった。残存するものは、五、00一

l一O、000鍛の事笑所

のみであり、ぞれも、事業所・総結錘数ともに減少したoF母国

22惑については、一O、000鍾以下のものが増加

するという、問22・233商郡とは全く別の方向に、構成比率が変動した。即ち、ゆ

42同

nyh阿仲品目郡と

J『

422郡は、

へと、極めて微弱に集中のみが進行し、F愚

2郡は苅

全体として縞少しつつ、五、。。

i

一O、つ0

0録台

一O、000錘以下品の増加によって、平均経営規模が織少一するという結楽となった。

ゆこれに対し、アルザスでは、すでに一八五六年に、

一O、000録以上の大経営が、約七O%を点め

Page 19: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

000鰻以上の巨大経営が、入・五先存在していたのである。アルザスでは、当該時欝以前から、集中が、進んでい

たことは、ここに明らかマある。そして、すでに検討したように、さらに錨別資本の集壊が遂行きれた。この点にお

一八六

0年

いて

ノル?ンデイはアルザス

に立ち遅れたのであり、

に及ばなかったのである。

め検討から、枝々は、次の

げることが出来る。第一に、

セーヌ・アンフェリュ

iル県

以上

二つの

Hノルマン一、アィの

較から裏づけることができた。また、資本の集積・

進行したこと

緩慢である。これは、総紡錘数め

かであるが、

グ〉

アル、ザスに

て、その発壌の

であり、地の

、停滞ないし

々iヌ・アンフェリ品

!"N県Hノルマンディの集積・集中は、

mzz郡によっ

の方向にム黙っている。同

23およびその窮迫を除いて、

CCM平原の農村地

も後者の方が

である。第二に、

たもの

- 99 -

の綿紡績業は、行きづまりの状態にあったといえる。即ち、ノルマンディの

(253qえ汐出向山富田丘君主そ伴いつつ、

moZE郡へと地理的に集中〈

223同

EZCZ吋

zzsr)していく、

いう現象があらわれたのである。当地域においては、・農村工つ、伝統的な線紡績業地帯の

、全体として、

の集中と

がMNC広告白

の都市の

へと集中していく傾向が強かったことを推測せしめ

第三に、

アルザスであるが、当地域

グ〉

は、ノルマン

のそれに比較して、より急速に発展した。この事実は、

め集積

遂行

り蔀者が

集中が相当程度に進行し、

せしめつつも、

であったことによる。

、当地域では、お一一一政雨明出回に至る弘前に、すでに資本の

して個別資本の

遂行された

れる。

3

セーヌ・アンプェワュ

lル爆におけるこのような地理的然

中を仰けった資本的行集中が、この時期に駁者であったことは、

北大文学部紀要

Page 20: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本γ

乏義緩立鶏のフランス終業

栄光のつは、諸君、殺も能力のある工業家の中に、

その智恵と勤勉で強大になった大衆(唱

21S出身のものが

いることで寸。この光栄ある鶴間続は油消滅していくでしょうJ

E

Z

R

N

恥ぷ宏ヲ品。

rzク唱-MWMmw・「集中め迷皮を

作品るべく還くすべきですα

小紡綴工場(…

c、000鋒以下)

への考慮を払ってはしい

J

S広三

-zrl『可丸山y

-M・

H

∞'

八七

O年アンケートめ諸供述からもうかがうことができる。

「今日、不占禁にして大工携が小規淡な工場を吸収十べきであ

ると信じられているようであります。しかし、これは、殺々

がそれに潟って汲んでいる自由思想〈三宮級以

ZZZとの

絶対的不制定であります。二

O年前には、議笑で勤勉で賢明な

労働者が工場主に'なるのがみられたのだが、一

O年後にもこ

のようなことがゐりうると稜倍、えるだろうか。/ルマンディの

2

フランスの綿紡績業への機械制の導入は、

(司令

5仲)に代ってジェニ

i紛績機〈古田沼崎)、水カ紡績機〈noz仲仲間話)、ミュ!ル紡績機

(Hn己申!なロ'

4}

即時〉が、時期的にほぼ重なりあって採用され、普及していった。この過寝は、一八一二

O

j因。年枝に終了し、紡績業

における機械制工場制度が擁立したといってよい。大

0年代は、ミュ!ル紡績機から・自動紡績機(臨巾苧寸主仲凶器偽

2

5)

znZ号四回吋)への転換が一行われつつある段階であった。したがって、ニこにおける問問題はよ当期間仰を週一じてこの転換が

どれだけ行われたか、という点である。

すでに知られているように、

八世紀未から間開始され

それまで使用さ

れてい

-100

m-V血中〈〕『・。予円九州J

同》同M-MA

酔。iH串uw--M-

∞芯出場トぬ師、島・

世史認知九州川町向ミミ遺品、耐えた。之主同町b~FMmwomYMW附weMwmw吋lMW

O

M

e

H

V

2

三塁E

P

M

刊。定吉F

~内定丸旬、H2zwahHhx。遠島崎町霊

祭、

hvh同町均的wMmwMMwe-v一暗夜

NHMiuw同研・匂

遠藤輝開明、4

…剣勝「フランス凌業革命の展開過程」。開械部泰彦司フ

ランス産裁革命許認、一一一2581……一一

O一災。

へ5)

自動紛綴機は、ミュ

iル紡綴機を改良したものである。

品開あたりの紡録数が、ジェニ

i機八

O鏡、ミュ!ル機二

oo

j一一…

00銭円い対して、これは七

coi八OO銭で、完会な動

力化が可能である。同

LZM可によゐと、ミュ

iルを使用刑した場

4

Page 21: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

ム日は紡鍛つ

000錘につき一

0・akjj

一二人mw絡綴工川町庁総

後であるのに対して、自動紡綴機の場合同同八

l九-XA人です

む。ーかつては二

00人の紡績でふがいた…

0、

000銭入っ

ている校楽部屋が、五

OiLハO人しか必要とせず、しかもと

まずノルマンディについては

八六

O年アンケ

iトで

iル紡績識を・自動紡織機にかえないのか、

と工場の

という考、えがかなり

-101

よって教授されてしまうの

ん紡緯機と比較して、自動紡績機によって得られる〈利益の!引用者〉棉

れる。当時吋のフランス銀仔の調査管〈仲間出宮

22吋雪山伽切言雲市号ヲ・

52〉は、ルウアン

の製造方法

(g立さ凶U

H

・0再三宮内山骨四僻一M

江口己目CHM)

にふまりにもしがみつきすぎたま

{我々は

しかし、

い噌ム》。

しばしば

なぜ復ちに

の設備費

なり

さらにそれはかなり大きい

般的なものであった

対して三:一般に

までいる・:その設備守口忠

Zを)

の工

は、ほとん

惜の生路鳩合するα

しと2p湾、ねた郎会運ミミえぬなミ叉ミ伶

wpHM内WZMweM

∞αω@官

-MWω

∞ωnxhMmM飢え

meMEbd『可

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n凡『

J日

M

e

H

A

掛川w-w炉、め湾入は、ノル

7

ンデイけが一人間

O年、アん

ザスが…八一一一八年でみめる。

ルウアンの

がこの

について次のようにのべで

〉}い、

7二、ζ

れました。

の節約一分金大部分失くしてし

ノルマンディでは、

、、、ユie????

ほとんどな

かかるので

るて更新されなければならないのに、

べた。このように、

の犠性が捜らにとって苦痛なので

、品、lHW紡績機か

ノ¥

グ〉

ぞれは実のとニ

めて費用が

とみる

と治£

妥当て*あのるlOノ。 }v

可P

/

ア4

ゆriま

は、六

ほとんど行われていムなかった、

て、とりわけ六一

l六五年の槙花飢髄の需に白

あるが、一八七

O年アンケ

iトにおけるこのぷに関する諸供述は、一

採用されたことによって変化し

てい

代表的なもの

るならば、

イ、キリス

北ふ人文学部紀婆

…反対に

のような状態

これに反す

っているのである。その

フランスでは、労働力

りも比較的安価で

Page 22: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

めフランス線然

そのために、労働力を機識によってとりかえるたびに

労織力会多く必婆とする古い償却済みの機械をもっ

ない潔舟です。これらの

明、、

以前と比べて、悪条件のもとにおかれるのです。ゆ

のことが、

の方が新しい

とい、つことは

も多くの

入れなくて済むの

しミ

石炭が少なくて演み」

れらの

新しい

l引用着

み」晶、刊行三時間

l亀

Fノ釘利阿

されたばかりの卒業所と伺じ成績をあげることができます。

カを減少させることがそきるが、出向カがより多く吸開札され、利息と跡

事情の結果、綿業の機械化が進めば進むほど、イギリスに対する劣伎が増加していくのこの供延ば、かなりの

誇張を含んでいると息われるが、ノルサンディの紡績業所のかなりの部分が、ミュ

iル紡績機から自動紡績機への転

換によって技術革新をおし進め、資本投下の対象を労賃部分から不変国定資本へ移動させることをしなかった、ある

いはできなかった、ということができる。

5)

瀦経費とは、ここぞは、生産コストから、借地料費と労賃を

淡引いたものをいう。

(7〉尚治会h陪同タ

um

∞G0・払

bMY品

ω凶

VO戸畑一可桃山吋

Cm21Z2JMYMN

(QO)

志氏J

WA山間

ymrwで。ロZH-beamoumMP-v-mぬJ1

9)

〉円。

rz。mw品。

Mmam同MAMM伶《?"司弓陶芸《日夕問権問

w唱。ユ

ω仏

wzm'

HE凸件目。

P同州。

62MWH21めの唱?・一円∞G0・三一芯一回

Mm吋。

aor目。F

町内

whkJ山

M圃

HmwA帥・

へハ山)開械部泰彦氏が引開附されている烈ミ

Zえによると、ノルマン

わねばならないのですσ

この特殊な

ディでは、一ん六二年に、自動2

叫制緩機に所属する紡品総数が会

料開鍾数のふハ・二%であった。閉球部泰彦「フランス産業革命総」

二“八一負。

(円以)同吋絡会h

即時

myH∞J10噂

Lbヲ内刷。

rm削減。一ア問

γ

∞ぬAF

- 102

るものが

男、六

約五五%、

には約八四%

れぞいるよ、ヲに、紡錘総数中自動紡綾機に

オ-一ブン県のみ)となり、ミナi

ル紡績機が自動紡績機によって

方、アルザスでは、

5によって

長句

Page 23: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

ほとん

れるにいたってい

アルザスの山

「イギリス人は、我々よりも安価な識械を持っているし、またより高い

一八六

C年アンケ

iトにおいても.

て積極的であった。

、技術革新に

った方が有利で

るので、

もう少しイキリス人をえ習った

るのに、我々よりも多くの機械を所有し、少ない

ょいと思う二一般に

MH)

々は労働者を多く使いすぎます。

グ〉

私は、我菌の

の有機的構成を高める方向が強く打ち副さ

と主張されているのである。

れ、

への転換が一八

ノル?ンデイと塗(って、

に完了したものと怠われる。

機域新を導入

工場制制度が、この部門を掌彊

カ織機工場と並んで、手議機を使用する家内工業が、広範に散在していた。

一一兆的総営形態が、

における、

アルザスでは、

(

八一で三、一一一一C関カ、一八七一年にで八、忍回二馬

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知食品問、一戸∞吋N-Y吋ω・伶肋仲都宮釦吋

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ω・

第一一節

紡綾部門における工場観度が、

八二一

O年頃

そしめ

こJU旬JLり以ヲ、

4

4

4

4

その発展はきわめて

であって、

するに

八六

0年代を通じて

(お〉

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同町沼町民陪

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後は、紡漉禍事一織十叩・縁部出憎の三工程を総会経営するミュルウズ

muL人体加染仕減数料、、同り

crrmいがいうところの寸織維索後八匂

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吋なんと芯三二三一め代後約人物ぷυ?

明。

rxpaan凡?当

3・

。∞!句吋0・

--103 -

ために対して、議布部門では、

に至つでも、

におけるかかる

いかなる変容会蒙ったかを検討することが、本館の目的でみる。議十作業

業の消裁と機棟制織布工場の全面的成立と

れるならば、フランス

北大文学部紀婆

れたことが

Page 24: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立裁のフランス

綿業の金分野における構造変化が先

7したと断言できるからである。以上の間器を追求するために、我々は、次の順

で検討を進めたい。第一に、織布工器における議械体系

i力織機と手織機!において、いかなる編成がえが遂行され

たか(日機械制の進壌の震合い)を詳かにし、そこから経営形態の変化の有様を推測し、第二に、各々の経営形態におけ

る、の集積・集中が、どの程度進行し、そこにみられる特色がいかなるものであったかについて考察を加え、

一…に、

それに伴って、労働力の社会的存表形態に、

いかなる変化が懇恕されたかについて検討したい。

(1)

ノルサンディにカ織機が移入されたのは…八一一双年で、コ一

間四年十にはセiヌ・アンフェワュ

iル爆に六CO台数遺きれた。

旬・

mW5F8・え叫よヲωHJ吋・問冬、HN

《革命沼郡の六工場がセ!

ヌ河谷にカ織機工場を設立した

oc'F2322命@8・公判J

MWMAW-アルザスでは一八二二年に導入され、一一一O年には、ォ

・ラン際に二、

000ム悶存したやMN-phZア

se門町??一区伊

-104

機械体系と資本め集横・集中

まず、表

6(A、

B、

C)によって、

I

iヌ・アンフェリュ!ル際立ノルマンディ必よぴ+4

・ラン県

Hアルザスの

カ織機数と予織機数を調べると、

およそ次の諸点を指摘することができる。

セーヌ・アンフぷリュ!ル県は(表

6!A)一八

慢であり、一八五九年に、漸く議機数全体の約二六%を占める

留まり、依然として手織機の方が多数を占めてい

一五年以来、徐々にカ織機が増加しているが九

ったが、

そのテンポは緩

八七

O年になっても

なお約四二部に

ワル

構成している五都のうち、

MNcgZ郡のみにおいて

セlヌ・アンツェリュ

iル県の内部を地域剰に

6ig)。間然宏

一八五九年に手機機数がカ識機数の約

2僚をおめていたものが、

だ結果、次の

明らかになった

Page 25: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

ながら上まわり

は、後者

(3)

の五

C-四%そおめるに至った。これに対して、残りの凶

郡はよハ

0年代会通じて手織機の方が多数を占めており、空名古都と下品目向指〈吋巾郡では、手議識が増加し忽えしている。

セ|ヌ・アンフェリュ

11川県の錦織布業において、カ織機が手織機を正倒し、機械制工場が緩柱を確保したのは、地域

0年代米であったこと、これに皮して、手織機が広く拡散して

CCM地方中央部H

特に

JPZZ郡)には、当時期に五つでも、家内制議布業が、

いたこと、を確認できる。

J

f品申A

芸ゴ〕

ふれ

62司

J

存在

i

GIC)一八ニ二年に力議機が導入されて以来、急速に普設し、

め約五五%を占めるに至り、一八笈九年には、四分の

一八六

0年代に入る前に、すでに工場制震の支配的地位が確立し、

きおい、家内観織布業は、消滅寸前にあがr

ォ・ラン燥では〈

機数 (3)争

上まわーョ

(2)

服部緩滋氏の指摘されるように、八五九|六八年に、ゑ

産裁において機械制織物が手織他綿布をはるかにしのいだこと

は事実である。しかし、織機台数においては(したがって織

布工数にわねいではそれ以上に〉、後殺の方が読者よりもはるか

に多く存在した。したがって、一八六

0年代中本に、織布告来に

おけるヱ湯制成が斡開立したとしても、それでもってフランス

総数の綴造変革が完了した、と震うのみでは不寸分であ

ろう。むしろ、子フした工場制度の稼立の校女、「構造変革L

のあ母方にみられる柏村質に注目したい。開棋盤時春彦「フランス

北大文学部紀婆

〈約七六%)

かTAV》¥

一八五一年に、

々が問題とする

、ほほ完全に

-105

一辺

Oi一郎七一氏。

(3〉ただし、ルウアン校伎の筏大な経営務をもっフアブリカン

(TwrユZU仲〉は、ピカルデイ、アルトヮ、パス・ノル?ン

ディにこ

0、八

OO合の手織機会支配下に、いおいているとされ

たから、これを加、えるとこ九、O九O余念となり、カ織機の台

数よ号もはるかに多くなるChr・。。吋円以2-ohy門町

T判了酔いω・

〈4・)「チ織機は、

mUZ昨今沼紛可

21SHay-52の先染〈ヂ織号)

抑制布(号訟のFm含

2氏2吋)と毛線開儲交官叩を除いては、もは

や我地方〈アルザス

i引用者)明、綿織術前後をもたない:聞や織機

Page 26: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義雄糊立黙のフランス

同同、日毎に消滅しつつあるJ

-向指南側h

b

H

F

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∞吋0・島都MW

晶AW

〉・

。。日}同ロω噂MM-MJ吋

れた変色を概括してのべれば、次のごと〈なるであろう。すなわち、ノルマンディの織布部門は、当該期間安通とて

家内観織布業が、徐々に減少しつつあるとはいえ、工場制織布業との併存が維持され続けたが、このような一一一活性は、

セjヌ・アンフェリヂ25552

ル県の地域構成におけるニ元性によって、説明することができる。すなわち、機域総工場の

支艶的地位が確立した地域は、

monZ郡明、あり、家内工業が存続した地域は、郊の盟都

iのさ同地方の農村地帯であ

った、と。しかし、この

momS郡の機械制の発援段階でさえ、アルザス織布業の一八五

0年壌の設階に留っているの

であり、ノルマンディ織布業民おける技街革新と工場部の発展は、明らかに、かなりの五選れを示しているといえる。

きて、以上のごとき、一八六

0年代織布部門の機械能発達およびそれに基づく経営形態の変革(工場制制度の擁立)

の度合いは、そこにおける資本の集横・集中のあり方と、どのように関わり合うのであろうか。我々は、表?によっ

て、この問題を検討したい。

八六

0年代を通して、

-106

(l)

セiヌ・アンブェリュ

iル県では

のカ識機台数が

八五九年に

であったものが

八六八年に

その増加率は、七%にすぎない。この護かな増加率は、カ蟻機の総数が

Oへと二五%増加したことによる。従って、々

iヌ・アンツェリュー

ル擦の機械制織布業における資本の集中は、極めて鑑かに進行したのであり、線別資本の集積と問時に、小規識経営

が符生していることが察知されるのである。

約川町

八台となったが、

自%増加

このような現象は、潟県に存在するカ機機の大部分を占める刻

22郡と

22郡によってもたらされたも

Page 27: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

のである。

一八五六年に一事業所当り一二一三台であったものが、

台へと、四二%の増加率を示している。この高い増加率は、県内の総力織機数が三四%増加したのに対して、事業所

オ・ラン県の機械制織布業における資本の集積・集中は、共に強力に

(3)

これに対して、

ォ・ラン県では、

一八六九年には四四六

数の増加が一二%にどまったことに由来する。

推進せしめられたことを認めうる。

一八六0年代のノルマンディ・アルザス二地域の機械制織布業における資本の集積・集中

のあり方を、大まかに把握したわけだが、ここで、表

8(A、B)によって、事業所およぴ力織機数の経営規模別構

以上によって、我々は

成をみることにより、さらに立入った検討を進めたいと思う。

ωセlヌ・アンフェリユ|ル県では、二

OO台以下の事業所の数が、

あったものが、一八六八年には、五0・0%へと減少し、同じく二

OO台以下の事業所に所属する織機数も、三七・

八%からこ六・三%へと減少しており、二

O一台以上の事業所とこれに所属する織機の数が増加している。従って、

当県では、力織機二

OO台を所有する事業所を軸として、それ以下の規模の事業所の減少、それ以上のものの増加に

よって、経営規模の拡大が実現した。

一八五九年に、総事業所数の六0・五%で

- 107一

ω

一OO台以下の小規模な事業所が、総事業所数に占める割合は変らず、また実数において八から十へ

と増加しており、織機一、000台以上を所有する事業所は、まだ出現していない。従って、当県では、一八六0年

代を通じて、中規模経営が最も増加したが、小規模経営が次々と設立されつつある段階である、といわねばならない。

ωセ|ヌ・アンフェリユ|ル県を地域別に検討すれば、問。

5ロ郡が、右の現象を、さらに明確にあらわしている

しかし

北大文学部紀要

Page 28: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立期のフランス線業

ことがわかる。即ち、

。。台以下の事業訴が、総事業所数の五一・六妬から四五・七%でそれに所属する議機が

総織機数の一一一二・三%から一一一・五

Mmに減少している一方で、一

OO台以下の事業所数が、一

0・七路から一七・二克

へ激増し、織機数も実数で二八三から三

G八へと増加してい

UFまた、織機五

O一台以上を所有する事業所が存在す

るようになるのは、当郡のみ明、ある。協の密都については、問、吊民主吋市部が

mss郡とほぼ関裂の現象を示している

外は、すでにみたごとく、カ織機そのものが、普及していない。

仙川次に、ォ・一フン燥では、一八五六年に、総事業所数五八のうちこ

00ムロ以下の事業所数がニ

Oで、すでに全

体安ご四・五先にすぎず、、

000台以上の卒業所が、実数で一一一、割合で一%存在した。アルザスの機持制約織布

一八五

0年代の半ばに、

めていた、といい得る。

業は

ノルマンディの

八六

0年代末の段潜を準かに凌いで、資本の集積・集中を進行せし

(5〉その内訳は、一八五九年に滋号。器語。に

一八六八年に閉山。zemに三一事業所会一0・穴0・4八一三三、切mz

zaとに一察業所(迎。ム悶)、潔色

25ミに…事業所〈八悶

ム口)玄

20器量めに一事業所(八一一一ムロ)。〉'門リミ品目ミ唱。も場

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MMM・MHO-MMmw

(S〉

m-zz・8・npMM-H吋AH

・?治的関のグラブ。∞郁めによる

最後に、

を通じて、

-108

と、アんザスにわ持げる一

00ム回以下爪叫んや業所数以一一八五六

年の一二から七O年には五へ減少している。閉山‘

ω山VPGhHnhh'w

ynwmw山戸また、引八七O年アンケートには、一八六九年には、

ミユルウズのほとんどの事業所が一一五、

000銭以上である

ことが綴品目されている。防災判需即同市a

H∞吋(Y

-Y

品。岡山ロ閤乙

。。口問zp

制》鑑

H凶J

セ!ヌ・アンフヱリナIH川県立ノルマンディに広く存在する家内側制'織布業については

ファブリ会ン(附与ユ白書Y問問屋献織布業者)が、一二五

O人から一ニ二二人へ八%、チ織機数が

ブァブリカン当り議機数が八割合から七

O合へ一七%と、各々減少した。 九当

該自鶏O 荷

。台から約

七00台へ

9

ノノレ

Page 29: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

マンディの農村家内制織布業は、緩慢に縮少の方向に向っていることを、この限りで認めることができるが、すでに

確認したように、当期間を通じて、少なくとも織機数では、力織機を上まわり、織布部門にがける家内工業が、なお

強固に存続していたことも事実なのである。

ノルマンディ織布業に特徴的な経営形態は、何故存続しえたのであろうか。がかる経営は、

いかなる労働力に依拠したのであろうか。問題は、

それでは、

このような、

この労働力の提供者である農村手織工の存続を可能ならしめた基

盤が、何であったのか

という事である。

我々は

次の項において

この間題の検討に入りたい。

2

労働力の社会的存在形態

一八六

O年

「かれら(紡績業

109

ルウアン控訴院検事長へ官。

2『2『

mE雪印】)の報告書は、次のようにのべている。

者、織布業者、捺染業者引用者)につけ加、えなければならないのは、一つの特殊な階層の工業家達(ロロ巾

n-22

2agr申『巾ヨロ含印仲立己主である。彼らは、織機も工場も持たず、綿糸を買付け、彼らの計算で(伽

-2吋nog-巾)

(7)

準備工程を加、えきせ、次に、それらをもって、賃加工制の家内労働者

(22日巾吋田伽号

En--巾己勘

FZbS)に、

白地綿布やル|アン織り(円。

5ロロ巾江巾)を織らせる。これらの労働者は、の

EH地方に、未だ多数存在する。」以上の

引用文から、我々は、これら手織綿布工は、なお若干の生産手段を所有してはいる(仕事場は自宅、手織機

(9)

は自己のもの)が、

一方で、

フアブリカンから原料を支給され、個数賃金をもらって、製品はフアブリガンに手渡される、

いう点で、基本的には、事実上の賃金労働者であった、ということを確認できる。我々が、本節1で検証した、

六0年代を通じて、農村地帯に数多く存在した織布工ぱ、

と八

このような性格をもつものであった。

そこで

かくのごと

北大文学部紀要

Page 30: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

のフランス線業

き農村争議工が存続し得た基幾は抑制であったか、という疑問問を解く手がかりとして、さしあたりここでは、彼等のも

つこつの特性を指摘したいと思う。まず第一に、彼らのわおそるべき位賃金である。例えば、一八六八年の年間…人当

りの賃金は、工場織布工が、約九……・八フランであったのに対して、家内織布工は約二七九・一フランであると

報告されており、後者は能者の約一一一

0・六%であ(勺さらに、一八七

O年ヂンケ

1トの供述によると、

、工場織布工の場合、二フラン以上なのに、家内織布工の場合、一・

の…汚

五ファンで、

ある12r 八

機七布 O工王子

の特性は、彼らの農民的H土地所有者的性格である。農民的性格については、

八七

O年アンケ

iトの藷供述において、確かめることが出米た。守山科々の地方(ノルマンディ

i引用者)の

(

)

識者は、半農学工的(臨時雲仙

h

喜朗仲

ZM22邑・2内同信三ユユ巾)です。」「フランスでは、特にパス・/ルマンディで一

{何時)

は、機布は、わずかの例外を除いて、農村に拡散している労働者のもと℃行われています己「織機は、半年だけ使用き

ω

(お〉

れます。つまり、織布工は、半年間織布の仕事に誕事し、残りの半年を、土地の耕作や取り入れに用いるのですJ等

々。さらに、後らは、単に、幾業労働に従挙するのみではなく、向時に、小土地所有者ないしは土地所有への強い故

援の所有者iこの意味で、一言、つなれば、土地所有者予備軍iである。「フランスの労動品物の、王な野心は、どんを小池

片(日

215宮CZ32由含

Z吋吋品)であろうとも、土地所有者になり、この地片ら耕作して、例え貧苦に責めら

れようとも、その生産物で、生活の犠考つることでありまち」さて、家山内識布工のもつ、以上つの特性il劣悪な労

のもつ、第一

…八六

O年アンケートお

よび

働条件日

農民的5土地所有者約性格iは、桔互規定的鵠係にあると思われる。郎ち、家府内織布工は、織布

の土地または借地耕作であれば紋穫から、農業労働者であれば労賃として〉に

による収入を、土地からの収入

よって補充せしめることによって、自己の生計をたてることが出米た。

そして、このことが、

における賃金圧

Page 31: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

下を可能ならしめた基本的条件であった。彼らの、このような過渡的存在形態から、完全に専業化した工場労働者へ

の転化H

脱農民化は、織布部門における資本の蓄積が進行し、機械制工業が、その全領域を征覇することによって可

能ならしめられる。しかし、ノルマンデイでは、この過程は、極めて緩慢であり、ファブリカンは、技術革新H力織

機導入による機械制工場の設立によって、生産性を上げるよりも、織布工の賃金を徹底的に可能なかぎりおし下げる

ことによって、自己の延命をはかったのである。これを逆に言えば、

フアブリカンが、低賃金に依拠しようとすれば

する程、家内織布工の土地への固執あるいはっ土地への情熱(吉田回目。ロ・℃

2『

Z丹市円

2)」をかりたて、彼らは過酷で不

(げ)

安定な生活から脱出して、土地所有農あるいは借地農としての安定した収入を得ることを希求する、ということにな

る。結局、家内制織布業の低賃金と、手織工の

「土地への情熱」

は、相互規定的な相関々係にあり、これが、ノルマ

ンディの綿織布業における工場制度の支配的地位の確保を阻げる主要な条件になっている、といえるのである。

-111 -

(7)

フアブリカンが綿糸に加えさせる準備工程とは、この場合

染色業者(芯ZZユ2)による染色である。したがって、で

きあがった綿布を先染綿布

(tzsL22z-22)ともよぷ。

(8)KF2日「口三」切∞ω。・

ω∞寸唱同印刷】唱。ユmLom司司。。EdEammb干

伽円mWCM--oHNω

〈『ニ】戸∞。。・

(9)

寸手織工は、自宅におり、彼が織る織機は、彼のもの

である」。〉・のmw

円含

2・。司・円同月JHU-AFH・

(凶)通常、手織機一台につき二人(織布工一人にその妻か子供

が組んで行う。)〉・。。円

E2・。hu-nhhJ

司・品川山・

北大文学部紀要

(日)〉・。。コ位。FmEK-

唱-HON-

(ロ)同町おqhみな曲川戸∞oo--L皿山田】・門rw⑤

gg口。ァ目)・ωCAF・

(日)同おqNh即芯w

H∞吋。岨《H

S・《目。吋。ロmmmユロア唱-AFHN-

(日)周辺南側hm

芯-

H∞。。・島郡司・【目。心口。ωロ己暗唱・

ω∞。

(日)同町話会止と?Hmw叶

CLb司・《Tw

冨釦目。rApu・串ωN・

(ぱ山)同沼会hmH

ぬ岨同∞00.Lb司・品。斗。Emmtf官-hp

串u.

(げ)手織工の悲惨な生活について、ルウアン控訴院検事が、次

のように描写している。

「私は、

J

『〈丘三郡全体、空名目足郡のいくつかの小郡

(2ロケ

Page 32: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立期のフランス綿業

。E)、同

22郡のいくつかの村

(gBEES)に存在する手織

工(昨日

E22ιω跡

Z

E巴回)についていく度か述べてきた。

見すぼらしい住居や衣服や食事にあまんじ、滋養に富んだ食

物に不足しているので、魚で補わねばならない。その悲惨さ

を忘れるため不自然なカを求めて、悪質なのに高い火酒をあ

おるのである。彼らは、長い間、あやうく飢えで死なない程

度の工貨を稼いできた。彼らは、(彼らが織った!引用者)

我々は、これまで、一八六

0年代フランス綿業の基本二工程について、資本の集積・集中、ならびに、生産構造の

変化を知るための手がかりとして、機械体系と労働力編成およびその社会的存在形態の変化とがいかなるものであっ

たかを追求してきた。それを概括すれば、次の四点が抽出される。

第一に、ノルマンディの綿紡績業においては、

発展は鈍化しているのであって、

経糸の価格に対してさらに工貨を減らされよ、ヲとしている。

彼等のうちで最も熟練したものでも、その工賃の最高額は一

六時開通して働いて一日一フラン以上にはならない。それ故

に、彼らのほとんどにとって、冬に生命を保つことが不可能

なのだ・:」〉『の『・口氏よ∞∞

ω0・ω∞吋唱河mw唱唱。同・2LAwm

円以同.。。.

ロ吋命ロ凶1m偶hvロ伽吋釦gH--oHMW

同郁〈同・-。吋-

H∞印吋・

一八三

0年代に、機械工場制度が確立していたが、それ以後、その山

一八六

0年代には、すでに、個別資本の集積のプロセスが行きづまりの状態にあり、/一

大企業への資本の集中による経営規模の拡大化が、より強力に遂行された。さらに、この事実を、地域別に検討した

ところ、ルウアンおよびその周辺では、資本の集積・集中が、(後者の方が強力であったが)、共に行なわれ、他の四

郡では、全体として停滞ないしは萎縮しつつ、集中のみが行なわれたことが、明らかとなった。すなわち、ノルマン

ヂィの綿紡績業は、当該期間を通じて、資本の集中を推進せしめつつ、伝統的な綿業地帯であるの

EH地方の農村地

ルウアン等の都市周辺へと移行していったとみられる。このような、地域的集中を伴った資本の集中現象は

帯から、

紡績工程におげる機械制の進展(ミュ

lル紡績機・水力紡績機から自動紡績機への転換)と密接に関連している。す

なわち、自己企業の経営規模拡大と自動紡績機の導入を実現し、生産力の増大を可能ならしめた都市の大紡績業者へ

Page 33: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

と資本が集中していった一方で、主として農村の中小規模の紡績業者が、

生産力的劣位によって下降ないし消滅を余

儀なくされたと思われる。

このようなノルマンディ綿紡績業の構造変化の具体的過程をた

我々は、

第三章において、

どるであろう。ノ

ルマンディの綿織布業については、依然として、力融機を導入した機械制工場と、手織機による問屋制

家内工業が併存しており、当期間を通じて、前者が増加し、後者が減少したとはいっても、かかる持色は、基本的に

払拭されていない。また、その内容を、地域的に検討寸ると、機械制工場が優位を確保したのは、河。

5ロ郡のみであ

り、他の諸郡H農村地帯では、問屋制家内工業が圧倒的に優勢である。一八六

0年代ノルマンディの綿織布部門にお

ける資本主義的編成が、全体として未確立であり、

第二に、

ルウアンとその周辺でのみ達成された

ということがで

これら二つの経営形態に均られる資本の集積・集中を検討した結果、機械制工業では、経営

大規模化H

資本の集中はまだ本格化せず、むしろ小規模経営が再生しつつある段階であることがわかった。

多方、問屋制家内工業は、この期間を通じて、経営数においても、規模においても、減少・縮少したが、依

然として農村地帯に広く残存している。ノルマンディ織布業の産業資本は、二つの異った形態をとって存在

一方H

問屋制家内工業から、多方H

機械制工業への移行の過程は、終了していない、

この具体的過程をあとづけることにしたい。

-Cヲ匂。

去」〉りに

しており、

当段階は、

とい、えよう。我々は、第三一章において、

第三に、このようなノルマンディ綿業の生産構造を、アルザス綿業のそれと比較すると、そこに、著しい柏違が

存することに気付く。ノルマンディ綿業の一八六

0年代末は、アルザスのほぼ一八五

0年代前半の段階にある。

ノルマンディの織布部門における問屋制家内工業の存続を可能にしていた基本的条件たる労働力の存在形

第四は、

北大文学部紀要

-113

Page 34: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

のフランス線業

の土地であ

かかる労働力の提供者である農村の手織工は、工「土地からの収入(富己の土地であれ、他人

を語瓦に補填せしめることによって、彼等に対する繋金一社下を可能にし、持には、

の・仲ぶまに一時的にせよ解雇されることさえあった。こうした事態は、手議工の

「土地所有者的性格」は、ぬぐい去られない。鶴屋総家内工業が、

我々は、第三必いてあとづけるぐあろう。

ファブリカンの意

態が

なる。

をかりたて、後らの

一八六

0年代会過とて、

かくも執拘に存綾し、えた

吐いぬ

イ乙グ〉

要因

の構造変化の持つ特色が、どのような要因に競走されて、どのよ

その具体的なプロセスをたどることが、本主阜の課題である。

に、当該期間同における綿製品め国内市場が、どのように変化したか、ぞれが、各綿業地域の寵口開設産のあ

えた

八六

0年代フランス

114

持剛、、

ナ八ふ川吋

まず第

り方に

どのような影響を必よほしだかο

一八六

C年のイギリスを犠矢とする

の通商条約によって開熱された自治貿易制制度が

の生産活動

にどのように作用したか。

第三に

一八六

めアメリカ南北戦争によって惹鵠冬れた緩度の棉花欠乏H

それによって、どのような影響を受けたか。

で追求した講造変化と、どのように関わり合うかという点に関心を払いつ

「綿花飢組織」

は、どのように

護関しだかα

フランスの綿業は、

以上の三点について、これらが、第

Page 35: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

っ、b々M

ていきたいと

1」イギリス以外の庖との鴻満開条約は、以下め順序供、総給され

た。ベルギ

i…八六一卒、関税同照ムハニ和十通イタワ

i六一ニト午、

スイスムハ閉館十、スウェ

i一アン・ノルウヰ$2555;

ハンザ同線・イ

スパニア・オランダ六五年、オーストリア六六年、ポルトガ

ル・口2885537

絞奥村間六七年。かくて会八六

0年代は、自由附旋回材

第一部

ブ一フンス

の薦問問生産には

一つめなC

わだった辞色、すなわち、

グ〉

の質が

く黙っている

とし、

があった。

アルザスでは

「多数の

ノルマンディ・アルザス両綿業地域

見類なく巧みな技術が、

いまれに鮮やかな

のデッサンと

っ、上震で笑しいイン

ていた。

一方、

ノルマン「アィは

かしさの点で、劣る領分に

WNυ 宅eaA

の動図であった。:・ぞれ(アルザ

iま

(1)

追いやられていた。それは、親綿布の生産を続けた。争

(3)

でみった。:〕めような、

の綿布は、

しかし

k-、-

(1)

一九世紀や葉の同時代人の

ている

の綿製品の

7うf

世紀六

0年代には、

どの

ことになったのであろうか。

つω

3

Y品。吋

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町、川辺九段踊旬、同県川

九時~ぬ、可俗、

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い同∞向山内y

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M

M

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l

O

ますご

ノルマンデイについては

すでに

(4)

によって開明らかにされているが、訟統的な

ルウアン

の手

織り綿布(経綿布〉に加えて

G年代中葉の

にともなって

司キャラコ生産

れた。

そして

北大文学部紀婆

Page 36: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義磁立期のフランス

このキャラコにおいても、太番手の厚手綿布が大部分を占めでわおり、

おける綿製品は、が全く顧みられないということはないにしても、

になっても、変化しなかった。当地域に

ドは、丈夫きが身上であった。ノルマン

デイの綿織物業同体、著修を知らず、経済的かっ簡単な生産のみを知ってい目

Jしたがって、その市場も、「:・荷より

も、食しい顧客、撞民地と農郎ぐによって構成されていた。植民地については、ぎミミ

imY3wが、「私は、生産物

のうちの非常に多くの鵠分を、アルジぶリアで取引きする仲介商人〈

25湾政主

zzwとに売り渡しています。この

(7〉

アフリカ織民地は、五・六年前から、ルウアン工業にとって、巨大な販路でありました

Jとのべている。

ると、フランスが、アルジェリアの輸入綿製品を、ほぽ独占していることがわかるが、ノルマンデイ

一六番有)め綿糸が、ルウアンの

おいに利用していたことは開明らかである。

-,

アルジェリア向けのキャラコと大部分のルウアン州織りに用いられ

〕の地方では、細番手綿糸を

れこの地方の

た方が有利であります。そして、この

」という供述に

に応じた綿布のみ

おをみ

がこの市場をお

の大部分を占めています。

」れに加、えて、

「ノル

γンディでは

116

せん。ここで…般につくられている綿布に用いられる綿糸を生産することに採られてい

みられるごとく、農民を主体とする「会しい顧客しに、市場会見出していたのである。

(4〉例えば、krrbzgymmrS町民J

-NE69遂術開燦明「フランス

産業等命り:」ο際情的泰彦「フランス燦祭事会論¥↓五

Oi…

五八賞。

〈5)

〈自)

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相40MW

向。pohpn川町

-HCmw'

(7〉陥円安否ミタ山内∞∞0・円山ry品。汚ouuE時点~gAMM1時一UH--HU'MW

串・

8〉糸が紛いほど悉やの数字が潟くか必る。その分類労法同体国会

たは池波)と時代によって祭るが、均時吋のフランスではほぼ

次めような分穏に基づいていた。太糸(回。刑判可。

ω);一一O番

手以下、抜糸(問。芝公ヨ笹山

Z〉!一一

oi五O番手、や綿糸(出"

時弘岡山

2)l況01…00番手、総糸(ロ

e?と

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一00格骨

子以上。

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同円安定常時ゆい円∞00・円山部制ア品。旬。5議司令lagoge乏なHJH】日

v-Mwi山戸

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Page 37: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

これに

て、アルザスの綿製品と商品市場はいかなるものであった

アルザスの

、当初から、捺染布の

たがって

締緩・

の紡績・織布業は組番手綿糸・薄織綿布を生産し

っているイギリスと異って、

その原料としての半加工品を生産するものとして位霊づけられてい

へ供給したのである。完成口問の接染綿布

ように、持よりも高価な高級品でゐり、市場のかなりの部分が閣外であった。アルザスの捺染綿布に対する「デザイ

ンと色彩の覆秀性が…つめ価値を与、えているので、輪出がなるほど充分な条件で生産することが件、

いった評価は終始変らなかった。ところが、

といわれた

は、このようなアルザス綿業

っているのである。すなわち、後者の一一部門が捺染部門から分離して、軍手の大衆用綿布を独自に

(HH〉

るのである。ミユルウズの

捺さ染れ綿 る布綿が糸消と費はずるの

の綿糸を、議糸

甘さり乙安部川川、次のように供連している。「私の

め生産によって消費します。しかし、この結績工 、

結績によって

、いつでも

-117

の綿糸を生産するわけではありませんο

旅染綿布の生産のための

ずに、最も、最も高い利談会もたらすところの綿糸を生産します。:創刊益は、経番手綿糸よりも、

太番手綿糸の方が大きいので一ちいこのように、緯製品の銘柄が二つに分離したことにより、必然的に、その販路H

二分化することとなる。すなわち、捺染綿布は、

(綿糸の)

国外へ、太養子綿糸と淳手綿布は、圏内へ、各

々士市場を求めることになった。々は、岳地の綿糸〈依田喜朗巴きとが¥箆外へほとん

外への並製品の販売は不可能といっていい。;我々が、綿布・ぞいく分か大量に輸出明、きるのは、捺染布か概製懇のみ

でJhJこのように、アルザスでは、当初、捺染綿布向けの半加工

ていません

0

・:国

るために出発した

織布部門が

北大文学部紀婆

Page 38: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義綴立期めざブンス線数

れとは別個に、自ら生産じ販売するという、捺染部門の

「ふ入隊封鎖は、的判綴業と織十部業の数を悩憎畑出させる結果とな

り、か〈て、やがて捺染殺が、玉として当地産め綿布を始決断刑で

きるようになったLm-F串〈ア《WNW-n同町J

匂J可

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(刊

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0

(は)伽械部泰彦氏の研究によれば、このような分離〈企業的分化〉

は、織布γふ料収における機械化と工場制度への移行が行なわれ

る一八三

0年代に開始された。服部泰彦

1

フランス産業率命

一一六九l二七一

2

O年

一八七

O年アンケートによると、次めような供述が、

薄織綿布が輸入された

アルザスは、これま

議〉を中止し、

より太い番手の綿糸を原料とす

からの離授が

つつあったように悪われる。

(お〉陶芸EFMmwac'品

8・号

h・00ロデMm幡町

M'mwmw・この傾向はも

原絡め種類にも反映している。「茨夜、原料棉花については、

ルイジアナ滋(高級繍抑制批日時間的の

i引用者〉を後出府することは

例外的ぞあ号ます。何故なら、綿糸とや綿糸の消費蚤が現在

減少しているので、こめ種の綿糸の生産を減少せざるをえな

いからや、あ9ますJ旬、同会込町ぬい∞伐(Y応部切ふた

42時。山河内山戸ωも・品交w-

(叫山)~刊誌南里町

HFMmwoタ訟判》一・品。}凶仏cm防止の吋。PMYハ戸市ザ炉後は、

これに統けて、閥均綿布は総売上げ宜向のムハi!七%にすぎない

こと、相手閣はスイスとオランダであ宕ことをめべている。

-118 -

ノルマン

の総業家の多数からだされている。

「外留から

ていた細番手綿糸とジャコナ織り(い

222薄織綿布の

はじめましたο

ノルマンディは、今まで、この手の線

{吋ど

アルザスとも競争しなければならなくなりました。」こうした供述ぞ注尽される点は、彼

糸だ

ていたので、

杓ソ中」郎、

その「間接的影響」を、

へ}ivアル

ス・スイス等外隠からの総番手綿糸・薄織綿布の流入i+アルザスの綿製品の変化(太番チ綿糸・

ザスのノルマンディとの競純一といとり方が、当時のノルマンディの綿紡績・識布業者によってなされていた

が、千ぞリス等外国産地綿製品の流入より

のである。

ぞれが、意味するところは、

ノルマンディの綿業

ていることである。すなわち

「イギリ

Page 39: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

l土

アルザス線業の

よる昌内市場における麓争の激化によるものである、

ということである。

「一八六

O年

ルザスで紡錘数が少し増加したのに対して、

、事実としては

フランスには約六

とい、つのは

その

ノルマン

で荷数だけ減少したからで…竺という

八七

O

アンケ

iトの

であるが〈表

)、ぃノルマンディの

母、、.、‘,E

カレカに

アルザス綿業の

ていたか

とする外国からの綿製品そのものがノ片山?ン

に流入してきたのかどうかということは、きわめて疑わしい。この点について、

ものである。したがって

イギリス

ディ綿業を脅か

々は、次の第

二節でくわしく検討することにしたい。

(げ)』同宣言とはFMMWJ吋

P品品開

M-LOHMO綴可

211必U2-止命『曲目ア一戸、吋

Ha

(お)

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円切同会たにPM∞吋

0・LhVMYRrwFEMMOP-M刷了串O吋|∞・~内定判史認出

一方、アルザスの綿糸・綿布生緩め

定的である。表日によると、

H∞

o

d刊内w品会MM四件。

EWMM-ω印少

(山山)旬、州南関父母¥凶∞吋。噌品事MY内山AW

匂OMM可

21CCZ立op

YMω4P

(捺染山綿布用の上饗綿製品か

へ)は、この

・太糸用の紡錘が、ムハ盟・二%から八閥・八

八七

O年アンケート子記録され

至って、決

-119

かけて、

、。〆

%へ増加し、これに応じて、綿糸・中抑制糸用の紡一錘が減少していがr

た諸供述によって、裏づけることができた。例えば、吋

42mなぞ内吋今言は、一八六

C年に、紡銭七八、

て、一ニ二五、

対して、

八六一年から

また

ーフランスの棉花浪費最め

は明言で

一九O、

八七

O年には

000々

i七八番手)

一、

000錘で、五回

O、

000キログラムの棉花を消費し、並糸

を生産してい

しかし

年来

フランスの綿紛綴業が

た故に生じたものです。綿糸・中綿糸を生産していた

i私の

北大文学部紀要

Page 40: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

より太番手の綿糸に転換せざるをえなくなり、その

「アルザスでは、アメリカ産棉花が三分の一一、インド産棉花が三分一鍍用されています。

エジプト産棉花が、多量に消費されていたが、これは、組糸紡綾から太糸紡積への転換のた

(明前〉

日毎に減少しつつあります。」等の諮供壌が、一八七

C年アンケ

iトの随処に記銭されているのをみる。アルザ

ス綿業の一八六

0年代は、紡綴・織布部門が、捺染部門から決定的に分離し、これとは全く崩個の綿製品を生産し、

臨内市場を、白日のもの、として確保する過程が完成した時懇であった、と結論づけてよい。「東部地方(アルザスが

その、主要部分考一占めるi出用者)の線工業を、その生産物のあらゆる条件のために、完全に別々の二つの部門に分け

ることがぞきます。:・ごつは)賛沢口聞を生産するもの

(g品仙沼含由仲立指向

rz五時的念日原H

具体併には捺染業i引

用者)で、富裕な階漕向浜口の製品をつくります。:この特殊な工業は、一切の保護関税なしですますことができます、お

なぜなら、それは、輸出することができるからです。二つは〉日常用いられる綿布をつくるもの

252含院なぽ仏

Z一

仲仲間言明号

ncE胡OSB脚色。出合。号

22紡績・織布部門

i引用者〉令、保護関税を必要としますよ〕の綿布は、十年部にも、国

という供述が示すように‘このことは、問問時代の綿業家

資本主義確立期のフランス総業

サ特 そる の

とつにザl"なすっカぎ

たの藷で毒事すi:i'j育L O~ ~こ

よって

かつて、

アルザスでは、

めに、

内市場で、アルザスとルウアンで、

消費されてい

によって

はっきりと認識されていたのである。

(お〉また、以下の数字からも、抑制養手綿糸の生産の減少を推定

し得る。

一八六九年の練糸輸入最

ニOim出O番手l三一、九五六畿の紡畿の年間ゑ藤田章に如何点却

する分援

より大量の棉花を消費

四Oj七

O養子i向様に九五、九五五銭分

oi一00醤手

i五五、一一一一二銭分

一004骨子以上j一二問、五七一二鐙分尚喜急京

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Page 41: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

0年代を通じて、ノルマンディとアルザスの綿識における綿製品の磁畿と関内蕗口同市場について簡略

ながら検討した結来、我Mmは次のことを確認することができょう。すなわち、ノルマンディでは、従来大衆用組綿製

こと、これは、

(幻〉

MW滋喝さ叩H

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21寄る・山岳山ω・

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OL8・内山ぬの『

ZV陪口w

Y2'・続けて彼は、

「利払は、…八六二年以前には平均六

Oi六二4

骨子め経糸を年

間七

C、

000キログラム生産していたが、…八六九年には

平均三

O時智子のものを年間一六

O、

000、キログラム生産し

ていますJとのべている。

なお、一務錘当りの番手別一日当り生産緩は次め滋号である。

二八掛骨子

iムハ

0グラム

問問。番手j一一一五グラム

五04骨子二凶グラム

山ハ

O雲!一八・三グラム

七04骨子!……一で八グラム

04骨子

i一0・八グラム

O番手j八・六六グラム

一OO掛智子iEJM・一一一

0グラム

刷、倒舟常時hap

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H∞∞iMmwmw-

121

し、

暑であったが、そこへアルザス

アルザスにおけ

程と結績・織布ヱ

できた

の企業分化

て、捺染布は高級品として専ら国外

いったことによるものであること

へ市場金求め、大衆用郎総綿製品は主に国内市場合対象として従来ノルマンディ綿業の

明らかになったのである。そして、このことは次のような条件によって可能になっ

消滅して統一的盟内市場が確立したこ

あった地域へ

して

こうして統一された器内市場におけ

に、当期間を通とて、間潟地的市場蜜がほ

際して、アルザス綿業が生産力的に穫越していたことの

fこ

れる。まず第

J

L

ついては、第

みたように、一潟地域の綿業がその

い灼山

Aγよめヲhvo

おいて著し

ていたことに照時すると

Page 42: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

の英仏通商条約を契機として、ヨ

iロッパの各工業関と、期次通路条約を締結し、第一帝

(l〉

政以来、維持されてきた探護貿易制制度から自由紫易制成への転換を強行した。フランスの工業は、半世紀以上にわた

って一享受してきた関校保穫を除去され、働関税で輸入される外国産め商品に、悶内市場を開放しでこの自由主義へ

の移行が、フランス線業に対してどのように作用し、第二章守検討された構造上の変北に対してどのような影響を及

ぼしたか、を筒、7ことが、本節の課題である。

のフ日ブンス

ぃ、えトで7。

〈お

)MCnと52開。吋ハは、て八反

0年代mwブ!ムが鉄道敷設によっ

てもたらされ‘その結系として「ローカルマーケットからナ

ショナル

71ケットへの転換」が起り、寸多数の議工業を、

第二部

通商条約

i白磁貿易制度

フランスは

一八

1)

フランスは、一七八六年に英仏通務条約を綴給したが、一、

八O六採用り大波封鎖によって絞棄され、以来一八六

O年ま州、

保護叉易制度をとっていた。その閥め事務については、hF・

v・

-)口氏器開f

凶ヨ恥俗、山潟地~中、定一旬hhwMJ会Hh'qohn。語道俗、町働問。、

同知的。EbkHbぬMM可。町、俗的柄。也、Hbぬな州民総帥むよR

同町、時向、巴~Hhh向。沼町潟

、wd諸問句、同出wmwc'官官・∞・。仲ωAヂ

(2)

フランス資本主義の発援が相対的に緩峨院であったことの原

図のつを、この、かなり長期にわたる係織脱線皮に求める紛が

殺して他の多くのものの絡協慌のための機会をつくった」とい

っている段。-MY欠宮品目。ro司踊伶♂。hyn~hJ

mw-

122

存する。例えば、FZ22aは、それ放に企業家精神(与マ-

xo同

32毛吋

2色が促進されず、ー外霞との競争がないの

ぞ、後らは、防吋代の後移に伴、7変化に意を用いることなしに氾

態依然たる技術に満足していることがしばしばであった。」巧布

。-FZ22E・e-np-若・む品

15・山内縫制皮がフランス資本

主義の発展におよぽした作用については、なお今後の検討を

要する問問題であろう。

Page 43: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

以下本節では

まず第一に

フランス綿業の対外競争力について検討する。これは、国内市場における場合(主と

して対イギリス綿業)と外国市場の場合の二側面から検討される。

第二に、当期間の自由貿易制度が、フランス綿業の構造変化に対して、どのような作用をおよぼしたか。特に、第

一章で明らかにされた、資本の集積・集中をどのようにうながし、技術革新と労働力編成のあり方を、どのように変

化きせたかについて、究明することを、目標としたい。

l

フランス綿業の国際競争力

国内へのイギリス等綿製品の流入によって、フランス綿業はどのような影響を受けることになったのであろうか。当

時の綿業家達は、アルザスの捺染業者を除いて、フランスのイギリスに対する弱体性を指摘し、通商条約の締結に、激し

く反対しがr

したがって、本項では、まず、紡績・織布部門について、次に、アルザスの捺染部門について簡単に、

-123一

検討を加えたいと思う。

(3)

この保護貿易運動は、一八四五年に/|ル

(Z。三)の紡

績業者冨回目

20}によって設立され、その後ノルマンディ、ノ

ール、東部地方のほとんどすべての工業都市にできた全国組

織「国内事業保護協会(円〉

ωS己主Eロ

Z

Uえ

22

ω紡績・織布部門

ルウアン控訴院検事長は、

品何回叶円

mw〈釦ニロ丘町。ロ包)」によって行われた。回・のEppwh?

ぬコリ』ぬ

MEq~。『。培、ヨぬと。泊位向旬、ぬヨな

EMHw・2uミ師向門ぬ百九「同白ご-

MHぬ(川戸∞HUlH∞酔∞).Hcuc.官官

-Hω

∞lH串∞・

一八六二年、「通商条約の実施以来輸入された(綿製品の)量は、我国の市場がイギリス

綿製品に侵食されるだろうと予言した人々の懸念を正当化するほどの性質を持っていない。」とのべ、一八六九年にい

たっても、「:・一八六

O年の協約

(C22zg)によって、我地方の工業家達にもたらされた事態は、彼らにとって不

北大文学部紀要

Page 44: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

のブ日ブンス

イギリスの競争結成ずと太刀打ちすることが可能であると結論づけてもよいのではないだろ、つ

ロによって

九世紀中の英仏貿易の講迭をみると、当世

ほとんどぞロであったものが、通路条約締

利ではない。彼らは、

記初頭から一

と主張し、過密条約の影響に対寸る評舗は極めて低い。

七年まで、イギリスからの綿製品輪入額は議少であり、

二年でさえも、イぞりスからの総輸入額中に

・一二四%にすぎないのであり、その後の増加療も、きわめて鉱い。また、イギリス製綿布犠入

フランスの綿布生産額に対する比率は、…八五七年には、

0・00一六%〈したがってゼロ)、一八六二年には

一i一一一路ど推定され

Ur一八六

O年以前には、高関税に守られて、ぜギリスからの流入がm阻止され、問問題にならなか

ったのは当然として、通高条約締結後も、フランス綿業は、少なくとも屋内では、イギリス

結後の

かけて、著しく増加している。しかし、この一

入六

占める創部A口は、窪か

の、

っており、

対する抵抗力をも

それに迂倒されて、市場を失うほど弱体ではなかったと思われる。そして、こ、7した抵抗力を持ちえたフ

一節で検討したように、同時に、紘一きれた圏内市場で

-124-

に競争し合うことになり、アルザ

ス緯業の優越という結果になった。したがって、イギリス線業と対抗する力を持ちえたのは、特に、アルザスの

であった、ということができる。

ブン

4

K戸『

OY-

開設ご∞切MWCゆ

ω州出J

ア可hw叫VMM。『

Cロロ吋合同ω揖臨問阿部a

g鐙阿川島〕きた伶クハ戸∞

S-伎は、ルウアン関税総出で輸入された

綿製品の援を次のごと〈訴している。

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mm『mgMMAWMM山釦ぐ吟即日帰同州出合ゅ・

(6)

フランスの蛸綿布生淡路は、一八五七年三吋二一一一、六

O万フ

ラン、一八六一年に五一二千万フランである。なに諸島町民ぬ柄拘'

史認。珪宮町ぬ抗、け∞〆

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内山同郡阿川内側円。?問。f}@MMw

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門町同一よ唱-

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Page 45: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

次に

フランス綿業の国外市場における競争力について、考察したい。

「この地方(ノルマンデイ|引用者)

の工

フランス市場のみを勘定にいれる保護制度に慣れているので、現在、新しい経済制度が、全ての生産地の

聞に確立した連帯性(田島

EE串)に、おじけづいている。彼らは、国際関係において、完全に保障されていないの

で、外国との長期間の取り引きに従事することを鵠暗している。彼らは、原料も生産物も、ストックしない。そして、

彼らにとって確実な販路にきっちり釣合わせて、取引きし、生産量を決めぷ「」我々は、この言葉から、長期間にわた

る高関税政策に依存し、国内市場の独占に甘んじ、その結果、国際競争力が弱体にならざるをえなかったフランス(

特にノルマンディ)綿紡績・織布業の特性を、感知することができる。例えば、フランスの総輸出額に占める綿製品

一八四七年の一七・七%をピ

lクにして、以後、減少の一途をたどり、

業家達は

一八六

O年に三・一%、

Rυ n,μ

1i

輸出高の割合は、

八六九年には、二・四%へと、著しく低下している、また、実数においても、

八六九年の七三

OO万フランへと僅かな増加率である(図一こ。したがって、フランス綿業は、一八六

O年以後の

自由貿易時代に、国際市場に進出する機会が与えられたにもかかわらず、それを開拓することができなかった、とい(

9)

うことができる。そして、この事実は、先進国であるイギリスの綿業に対抗し得る競争力を持つことができなかった、

(叩)

ということと同時に、この時期にいたると、他の諸国においても、綿業の資主主義的編成が進行していることを意味

一八五九年の六八二

O万フランから一

するだろう。

(7)

〉円。

r・ロ

ωF切回

ω0・ω∞pm釦25ユω品。ω唱一可。ロロ『O国円ω開・

hvロ血山岡・9CHTWHHF・-釦ロ〈』⑦円4

同∞。。・

(8)

この一七・七%という数字は公式価格

s-22。岳三己

2

によるものである。時価

(Z-2222乙-2)によると

七・五%となり、かなりのずれがある。しかし、いずれにせ

よ、一八四七年がピークであることには変りがない。

(9)

これに対してイギリスでは、綿製品輸出高が総輸出高に占

める割合が一八五O年頃まで四O%台を下らず、そのピlク

北大文学部紀要

Page 46: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立期のフランス一線業

は一八三周年の五0・五%で為る。また、一八六0年代にはいる

と、五九年には実数五二百万ポンドで二一八ムコ髭からよハ九年に

は六七百…万ポンドで三五・一……%とな号、刻合において減少し

たが、実数においてまだかなり機加しているο

この期間闘のイ

ギリスめ綿業輸出慰としての池伎は、依然としてゆるがない。

(ぬ)成品類間の各閣の紡録数の変動は、によって示きれてい

ヲ唱。

この中て特にアメワカとドイツの増加が著しい。

md》rMg

は、潟北戦争後、フランス工業がアメリカの市場で後退し

たこと、その原南側は、アメリカで産業務ん仰が行われたことと、

フランスに代ってイギリスとドイツが進出したことを挙げて

いる。。「句。乞2fF釦の霊山門吋め仏命

ω患の

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MW印。iNU10・

リスのそれに対抗する

一八六

0年代社白期貿易持代のフランス綿紡績・織布業は、国内市場において、

カを充分に持っJ

O年以前の市場を保持することにのみ専

念した、ということがで怒ょう。

126

アルザスの捺染部門

このように、綿紡織・識布業が、市場獲得において停端的であったのに対して、してアルザスの捺染業は、その

め反対に、めざましく発展した。表

Mによると、この搬の捺染綿布輪出高の増加は明瞭である。一八六

O年から六九

年にかけて四九%増加した。また、輪出高の増加に伴って、捺染布の生産が六一…一九

O万メートルから八九六む万メ

i

トルヘ、化学製品(言え巳znr重苦

O万フランから九

O万フランへと増加し一や

(1) 句、“室崎町伶品。同∞。タ同省同吋吋|ハミ∞噌。仲

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『・。。向山内cp句。町立

話氏、円安仏間的』ヤミ魚川、ゑ仲郁喝さ}の

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このように、紡績・機布業と反対の結果となったことは、通商条約が、捺染業に対して、・有利に働いたこと

Page 47: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

/

その原因を、我々は、次の二点に求めたいと思う。

第一に、アルザスの捺染業は、その原料たる薄織綿布(ならびに細番手綿糸)を、国外から輸入する方が有利であ

った。「捺染布は、フランスで創られたのが、最初であります。トルコ赤(同巾『

2哲旨己ユロ毛

r染料の一種)も、

同様に、フランスで生れました。二疋の期間、かなりの分量が、生産されました。しかし、イギリス人、特にスイス

人が、この製品を生産しはじめ、(我々の商品を)ほとんど完全に駆逐してしまったのです。というのは、我国の綿

布が、イギリスとスイスのそれよりも高価だからです。・:もしも我々が、外国産の綿布を、外国人とほぼ同じ価格で

手に入れることができるならば、我々は、この取引きをすることができるでしょう

0

・:もしも、フランスの捺染業者

がおかれている状況を改善し、彼らに、できるだけ安価に捺染させることをのぞむならば、彼らに、できるだけ多く

(ロ)

輸入させる必要があります。」(傍点引用者)通商条約によって、低関税で輸入される綿布を、安価に購入することは、

捺染業者にとって、きわめて有利な条件であったと思われる。そして、それのみならず、通商条約と同時に採用きれ

(日)

た仮輸入制度は、さらに、彼らに有利に働いた。「再輸出するという条件のもとで、関税なしで、外国産綿布を輸入

するという便宜が与えられるならば、捺染業者は、今日生産しているよりも三分の一から二分の一ほど多く生産する

でありましょうJ

する。

ヴ,a

n,μ

ー,

このように、捺染業は、原料を、外国(特にスイス)からの輸入によって調達することによって、国内で自給する

よりも、生産コストを安価ならしめることができたから、通商条約(ならびに仮輸入制度)を、強く支持したのであ

ヲ@。12

旬、同qRhwHぬ喝一戸∞。。・島都唱・品。l

『・ロ。】-同区ω・-M-HMWH-

13

「仮輸入制度」とは、ある外国製品を無税で輸入し、仕上

北大文学部紀要

Page 48: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立織のフランス終業

げヱ綴を加えたのちに一再び輸出するものである。ここの場合

(U)

尚喜込町F

M

∞め0・宏司・品。』・

00同氏側タ唱

-UGH-

には、一八六一年二月一二一自の政令で施行されたものや旬、外(一ぬ)アルザス絞染布南加の綿布の…綴そあるジャコナ織丹につい

国産〈イギリス・ス

4ス・ベルギ

i努)の生綿布を鉱山税で輸て、一八五九年とふハ

O年はフランス産のみで三六、

000反、

入して'捺染工程を加えたのちに湾捻出した。くわしくは、

2・一八六八年にはフランス滋が四六、五四九段、スイス泌総が一一一

句。

rrP8・丘町二切ふ沿い戸参悶問。これは、紡緩・織布業務め凶、

O二八一伐とな号、一八六九年にはフランス品肢が五一、七

反感をかうことになった。何故、絞染業者のみに有利hu制

000反(一反時…

00土

を当時吋のフランスが総行したのかについては、なお検討を姿、ランス品協の綿布より多くなったと綴ι

守されているo

M

切さ怠

F

J

吋タ含予診

Mhzp?SH・

第二に、緑染業の市場が、本章第…儲で述べたごとく、ほとんど専ら、鴎外であった点である。

FZ与によれば、

(日出)

アルザス謹捺染布の九五売が、輸出向けであったc

したがって、外国議綿布が、安憎に器内に流入しても、

にとって、制約の影響もなかったし、むしろ、留外市場をさらに拡大する機会となり、えたのであった。

128

(

Shえよ

'MmwM-

以上挙げた二点から、我々は、アルザスの捺染部門は、半加工品たる朕料綿布を国外から輸入し、完成口問たる捺染

綿布を輸出する、という、本米の加工貿易業に反転して一決り、紡績、織布部門から分離することによって、独吉の発

患をどげた、と考えうる。

2

通路条約と綿葉の構造変叱

英仏通機条約が締結された産後の一八六

O年自月(発効は九丹〉、ルウアン控訴臨検事長は、ノル?ンディの綿紡績

業を、イギリス綿業に対する競争カという観点から、次のごとく分類している。の中には、豊富な資本、

全な設備(宮込

2妥当舎で

ZM静岡高ぬき同時国土、震秀な機械をもち、

(同吋知広間四都

S22)を分

Page 49: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

散させることによって、イギリスとの競争に対して、充分に武装していると見受けられるものがある。次に、中規模

の事業所があって、これらは、古い機械を備、えつけているが、これは、常に増加していくその劣等性によって、生産

物の価格を高め、利益を低めてしまう。輸入禁止のみが、これらの生存を可能にするだろう。最後に残るのは、小仕

事場(宮昨日仲間由窓口市『回)である。例えば、白自己のそれは、平均して二

O人の労働者を使用しており、その半数が、

そこでは、紡績は、腕で(島

rZ回)行われているが、他の工

場では見捨てられている極太番手の綿糸のみを生産する。それは、薄利に甘んじているので、外国との競争をのがれ

(η)

ている。」これによると、当時点におけるノルマンディの綿紡績業は、一二つに分類きれる。第一に、現状のまま、イギ

リスに対抗する競争力(生産コストの低き)をもっ大規模な事業所で、これは、第一章でみたごとく、ごく少数であ

った。第二に、中規模の事業所で、技術革新と経営規模の拡大を、早急に行なわなければならなかった。「一八六一

(出)

年秋に、大量の資本が、イギリスの商品と競争するために、工場の改修と機械制の導入に投下された。」のは、主とし

て、この階層の事業所であったと思われる。第三に、上記二っと区別して、「小仕事場」とさえ呼ばれた、小規模の

事業所で、これは、資本投下の能力はなく、したがって、生産コストを引下げることができず、自己の利潤を引下げ

(印)

ることによって、価格を引下げ、経営を維持しようとしたc

結局、我々は、この期間を通じて、第二に挙げた中規模

の事業所群を軸として、ノルマンディ紡績業の再編成が遂行された内と判断しうる。そして、この中規模の経営は、

第二章第一節で明らかになったごとく、紡錘数一

O、

000錘前後の事業所に相当するものであろう。

(口)

K

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北大文学部紀要

129一

Page 50: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義擁立期のフランス

織布部門では、

しえた事業所が、イギリスに対抗す

{初〉

「機械制約工場(仲仙脱出血岡市密都

2325〉のみが、競争できる状態にお

59

つことができた叩のに対し、

といわれた。カ議機

めは

出比口出品〉を雇用しているファブリカンは、

ブ一ブン、ちらに

J獄中内制畿布工

(gzz吋出勧告'

の常なる謹慣に給って、仕上り綿糸に対する織布工への工賛会、はじ

フラン減少冬そるという、危険な状態を引き起し吋口通鵡条約の締結によって、心理的

(沼〉

その

η危機L

・9¥

労察部分の繍少によるコストダウンによってのり怒ろうとした、

恐慌状態に潟ったファブリカンは、

と思われる。

〈鉛)〉吋応酬・ロ鈴件

J

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〈幻)芯叫札JZUFMW24-YM削wα0・

てとるこの手段を可能にしていたのは、柏村森川町、生産組綴明、あ

る。この点については、次節件、検討する。

結局、我々は、対イギリスーをはじめとする通商条約が、

ごとく総括することができょう。

第一に、通商条約によって、

の生産一活動が鈍色する、とい、

に拡大し、そのことによって、

フランス綿業に及ぼした

ついて検討した結果、次の

-130 -

フランスの盟内市場に、イぞリス等外国産の綿製品が、大量に流入し、

なかった。しかし、

ブ一フンス

条約によって

フランス綿業が悶際市場をさら

増大する

ということもなかった。したがって

ブ}ブンス

(紡綴・織布

部門)は

一八六

0年代会選じて

畑出来の

」とに終始し、この

においては、通海条約め影響を、

プラスにせよマイナスにせよ、

アルザスの

ることはなかった。

第二に、

その中で、

のみは、通商条約(並びに仮輸入制)によって、前述の基本一

工程からの完

Page 51: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

全な分離を可能ならしめ、本来の加工貿易業としての性格を復活せしめることによって、当期間、国際市場に進出す

ることができた。もはや、この部門は、フランスにおける綿業の例外的な部分、その構造を形成している特殊的な部

分にすぎない。

促がされた。

紡績・織布業は、技術革新と経営規模の拡大を実現し、生産力を高めることを

したがって、通商条約は、綿業資本の集積・集中を推進せしめる、

第三に、通商条約の締結によって、

いわば促進剤としての役割を果した

のである。

第四に、通商条約が、右に述べたように、綿業の構造変化を促進せしめる作用を及ぼしたのは、第一章で明らかに

したごとく、資本の集中を遂行せしめたノルマンディにおいて、特に顕著であった。アルザスでは、捺染業は別とし

ても、全体として、侵入してくる外国産の綿製品に対抗する生産力を持ち、資本の集中が、すでにかなり進行しおえ

ていた段階で、個別資本の集積さえ可能であった。

第五に、ノルマンディに存在する問屋制家内工業は、縮少しつも、存続し、えた。このことは、通商条約締結に際す

る、ファブリカンの対処の仕方|賃金圧下を可能ならしめた生産組織と、それを受け入れうる基盤が、手織工

m側に

あったことによるトものである。この点については、第一二節で、再度検討することにしたい。

第三節

アメリカ南北戦争(一八六一六五年)によって惹起された、いわゆる「棉花飢僅L

は、

lロツパ各国の綿業を、棉花の異常な欠乏に悩ませた事件であが「

その名の示すごとく、

グ〉

「棉花飢鐘」が綿業に及ぼした影響について

北大文学部紀要

1i

つd1i

Page 52: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本、主義総立期mwフランス線業

(

綿

!

)

の競争相手とたたかうための準備を完了?る前に、一縄問の綿業川伸、

題ロによると、

前年の約一ニ

C万トンから三八ゐ芳トンへと、四分の

高騰は、図日

lAが示す通り明、あるv

このように、棉花輪入旦患の減少と原棉価格の高騰という内容をもって襲った「

どのよう会影響を与、えることになったかを問うことが、本節の課題である。

棉花飢銭」が、

1)「納得花飢融関」の間開始棚却は、一八六…年十四月にリンカンが綴

花総出港mw封鎖を命じれ~時である。〉・「門

vgZHFみさな・

さsnbHイGasi---唱・Mmwmw-

また、災仏通世間条約が発効し

たのは六一匁一

ORだから、その前に「棉花総経がはじまっ

ていたことになる。

(2)

忍ミよ

MMBMemwω

・ルウアン控訴民検事交の報僚も、このよう

な見終と一致する。「現在、ノル?ンディの総業を終色づけて

いるもの仲間、不機実性〈

222M仲立主である。その療協は

…一つある。一つは、新しい関税制度の爽絡〈通商条約j引用泊

者〉が我地方のヱ業家に慾ぜしぬた激しい懸念そある。:・も

う一つは、爾北戦争による原機輸出港の閉鎖が我泌+々の工業

家から不可欠の燃料を奪いとってしまったことである。'札

フラン

我々は

w

l

}

わ札辛AF

たる関心め対象として据えできたノルマン

アルザスのそれに詑べて、そ

Lミ。

イギリス

y 下

{急落しだまi アめ年メでにリあ 寵 iJる端の。〉に内

こ j成戦れ少勃iこし琵

てにおよりる

グ〉

一八六一

一八六

れた原棉価格の

ら二つの深田闘のうら、約者はふ泣くなくなった。反対に、姐税務

が液状を最もひどく感化させているJ

〉zvzfMWMWω

。噌

MW品山吋・河内WMMMMO時仲間

w品。

MWMM州eooc司。忽円切拘都留bH1告訴回目伶む』岱ロ〈Uww-w一回∞おね'

(3)

六三年からは、アメ月力以外め棉花産出尽からの総入がゑ

増した。

(4)

棉花の価格変動の面からみて、総花鋭径の期限は三期に区

分される。第一期は…八六一年秋l

」パ二年め備絡め急騰潮。

第一一燃は六二年冬1

六三年め拡穫期。鯨m……一期はん八間関;六五年の

下降刻。六二年末に、ナポレオンコ…世の納付絞め試みによって

戦争終結の簿が川流れたために錨絡が…終的に低落したが、そ

の炎飲めのん潟上昇した(図お

ln必〉。

の綿業が

は 見

-132-

Page 53: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

「危機は、最初に、ノルマンディを襲った

0

・:原料の

不足と高値は、・:ルウアン地方の多数の工場をして、閉鎖することを余儀なくさせた。アルザスは、ノルマンディほ

どひどく被害を蒙らなかった。アルザスは、ル・ア

lヴル(棉花輸入港|引用者)から遠く隔っており、原棉の手持

ちが多かった。ノルマンディよりも多くのエジプト産棉花が使用ぎれていたので、アメリカ産棉花に、それほど依存

していなかった。その上、アルザスの紡績業者は、高価な値段を支払うことのできる顧客を対象とする良質の綿糸を

生産していた。ミュルウズの綿製品の生産が、通常の七五%に減少したのは、一八六三年春になってからであった。

(5)

いくつかの工場が操業短縮をしたが、ほとんどが工場閉鎖(乙。回冊号

g)をしないですんだ。」このような両地域の相

違は、上記の出

g島市『由。白の説明によると‘原棉輸入港からの距離H

地理的条件の違いによる原料のストック量の多寡

(6)

の違いが、その原因である。確かに、これらの諸点は、両地域における

の危機の鋭さにおいて、逢かに大きかったことに注目したい。

と、綿製品の銘柄(したがって原料の種類)

qu

nd

唱EL

危機の度合いを左右する要因として作用したであろうが、しかし、両者ともに、決定的なものとはいい難い。より根

本的な原因は、両地域における綿業の発展段階の差、言いかえれば、そこにおける産業資本の存在形態の相違にある、

と思われる。我々は、以下の項において、

まず右の点について、危機が特に鋭い形態をとったノルマンディを中心に

考察し

(1)、次に、危機の具体的経過とその帰結について検討したい

(5)巧・。

-FZO『SF8・2??HOH・

(6)

この点について、宮EZEもほぽ同様の見解である。「概

して、我々はアルザスがノルマンディよりも被害が少なかヴ

たということができる。というのは、アルザスは海岸から遠

距離にあるために倉庫に大量のストックを入れておかなけれ

北大文学部紀要

(2)。

ばならないので、棉花を大量に供給することができたからで

ある

0

・:一八六一年初頭に、フランスは多くの原棉ストック

を持っていたが、多分ノルマンディにはほとんどなかったよ

うに思われる。というのは、通常リパプlルから必要なだけ

の棉花を買いつけることが容易であったからである。」〉・

F-

Page 54: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義雄慨立期のフランス締約業

1

み器地~。,hd泊、伶詩的知湾、由同町時::・ゆ出ア日間むJ1・

「棉花飢銭」の原悶

「棉花鋭鱒L

について記載しているノルマンディの史料をみると、

突に遭遇する。すなわち、

jw-

アiヴルの関係棉ストトツクは、

五万欄であったと報告されているのであり、

}晃、

その「棉花飢鐙」なる名称と矛盾

。¢nV2F

するがごと

ORnに

関万

/1..

われているよりも、

に多いこと

てい

フォ

iランは 「

これらの数字は、各紡績工場のストックが、一般にぎ

「《棉花凱鐘》という表現の仕方が当を

とさえ断言しているの

さらに

--'--ノ、

一月に

えているにもかかわらず、原料は欠乏していなかった。棉花は、少しも不口えしていなかっ

である。原棉ストックの裁量が、

「飢鐘いとよば丸得る抑制結渇していなかったとすれば、情故、このよう

な呼称が一般化したのぞあろうか。それについて、フォ!ランは、次のように説明している。「綿花の務着がまれに

なった結果経った価格の騰索は、急速で安易な利益に熱中している〈ボロ儲け麗〈℃

gEZ吋的)》のしわざでもある。

かぐて、この騰食は部分的には、人工的なものである、すなわち、原料の

附与したのは、綿花の欠乏よりは、むしろ、その銀格の

であっ

MJでは、

斗Am

-134 -

の欠乏に栢忠していな

「怠機に鋭さを

院検事長の報告の

らびに原様ストッ

フォ!?ブンのいうち吋O震活吋缶詰明暗含己主き吋朋は、誌であったか。先に引用したルウアン

における「:確信できる博報によると、大工場には、危機以前に買いつけられた綿花が、まだか

〈傍点出泊者)という記述は、このぷについて示唆的であるか「彼等〈大紡織業者!引用者}は、

今までのところ、利品八品〈回忌ロ都内仲拘柑鵠)のみを集積している。この利裁は、アメリカ内戦以前に買いつけられた原料棉

ついて得られた場合には、莫大である。また、それらが、危機以後に行われ

の投機的取引れき

ZZZF

なりあるら

れなおし(円少抑制ぷ》H

・RZ25ml

Page 55: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

JBS仲)について得られた場合には、上の場合よりは少ないが、しかし充分である。というのは、棉花の値上りが、

(ロ)

ほとんど絶え間なく続くので、・:少なくとも、商業的な利益は、いつでも保障されているからである。」結局、「棉花

飢鐘」t

は、実は、原棉の総ストック量の枯渇というよりは、むしろ、予想され得た棉花輸入の杜絶を前にして、大紡

績業者が、原棉を投企的に大量に買い占めたことによるところが大きかった、と考えられるのである。したがって、

「棉花飢僅」の内容は、実は、原棉ストックの全体量の欠乏ではなく、その存在の仕方、すなわち、ごく少数の大紡

績業者への偏在にある、といわねばならない。彼らは、原棉の価格の騰貴を利用して、それに生産過程を加えること

をせずに投機的取引きを行い、莫一大な利益をうることさえできた。その結果、「いくつかの紡績業が、値上がり以前

に買いつけられた棉花のおかげで莫大な利益を手中にしているにしても、多くの他のものは、厳しい財政困難とたた

(日)

かつて」いたことになる。「棉花飢鐘」という名称は、したがって、ノルマンディで大多数をしめていた中小規模の

綿業に対してのみ用いるべきなのである。ノルマンディとアルザスにおける危機の度合いの相違も、このように、原

棉の総ストック量によるというよりは、むしろ、それの一部の大規模経営者への偏在があったかどうかによって説明

されうる。少数の大綿業家が、大多数の中小規模の綿業家の群の中に輩立して存在する、というノルマンディの綿業

の構造的特色が、棉花の極端な偏在を結果し、前者による投企的買占めによって、ますます事態を深刻化させていった、

(M)

といえるであろう。したがって、我々は、次の項において、「危機の発現が、急速に最もひどくなったノルマンディ」

について、その具体的な経過およぴその帰結を検討することとしたい。

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北大文学部紀要

Page 56: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義緩立期mw

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になったといわれる。この逸機的情況の内替に、も

に操業会中止した工場は、一般に、工場、まが、限られ

た変本と信用しか準備できない小規模ムまたは中農撲の事業所である。原料棉誌の儲格が一ニ倍以上なので、一千時には活

動維持を可能にしていた資本と信用が、全く不充分になった。:・信用と磯械を有荷な条件でみたすことに成功した事

業所のすべてが、一週間関の全臼数について八時間あるいは十二時間さえも機械を稼動させている、という事実は、小規模

L場(ルケが、操業中止の状態にある、という説明が正当であることを証明してい叫J

(傍点引用者)つまり、点

危機と)たたかい、適応するために充分な資本を持たない↑紡静識が問題であっ一UJ(傍ふ…引用者)次に、織布楽で

あるが、一八六二年初頭には、「主としてペ

ZS品叩および円以尋問返都の三つの小郡宏伸三

zaで行われている手織業が、

綾も不利な状態にある。ほとんど全てのフアブリカンが、彼らの雇用している裁布工(削認可問。ロ罫命ゲ〉から、老齢者

と、その仕事議が(ファブリカンにとって〉余り有利でない労働者

(02ュ2出〉を制削除した。残りのものは、月に八

l一0日間、失業の状轄にあぶJと報告され、危機の極期明、ある一八六二一年初頭には、「の

ZM地方い拡散している

織布工の悲惨さは、これ(紡績工iれ用者)と比較にならない

0

・:約四七、

000合の手機磯のうち、二一、

年、ノル?ンディの綿製品生産量は、平常の五分の

う少し立ち入ってみると、次のような事実が判明する。

一八六

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12A

O 五

Page 57: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

の莫大な減少を課してい

一年初頭に、織磯の七五売が、

この危機i原綿鰭轄の高携による綿糸の綾上りーに対する抵抗力が弱かったこと

とは、あらめる定機に際して乎融業がとる

R

特有の対応のせ方を、典型的に示してい

フアブリカンは、問屋総家内工業としての特性をもっ生産組識に依拠し、'これを最大限に利用することによっ

と思われる。この点については、本項ぞ、のちに検討する。

さて、危…壌が極期に透した一八六一一して、一八六四年以降、棉花の価揺が急迷に下降しはじめ

OA-B参勝、

線業の生藤鴻動が、それに伴って、活発化した

omccg郡では、一八六四年六月から九丹にかけて、綿業の労龍者数

〈ね〉

一、

Oニ七人増加した(そのうち、紡績工が五園田入、機械制機布工が一一一七…人)。しかし、この生産の再開は、

と比較すると、その内容において、つめ重大な変化を含んでいた。「自動紡織機(ま江市吋加さぢ思議言

台が、党全に作業を停止し、残りはまだ動いてい

を利用して、織布工に対して、

であった

JP己主郡では、

わち、

て、窓機をきり抜けようとしたのではないか、

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000鐙〉のうち、仕事を全く放棄したものが九(総

カf危機以前の

北大文学部紀婆

1うぎ

「ファブリカンと仲介入は、

という有線であった。特に、手織議が禄強く支都地的

きれたのであ(恰この現象は、

(仲宮田市『静岡岡弘前〉

グ〉

のみではない。より重要なこ

と患われる。すな

にある

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Page 58: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義磁蕊郊のフランス線業

なくしか

22U4正母国吋拍〉が、ほとんど全ての仕事場で、ミュ

iル紛績機に代った。これは、労犠力

(rg〉を、遥かに、より少

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て、ミュ

iル紡績機から自動紡績機への転換が進行せしめられ、その必熱的な結巣として、労働

力の削減が一行なわれたと考、えられる。倒的えば、

msz郡では、寸棉花飢鐘」がはじまる前に、紡績工数が一二、

GO

)

(

O入であったのが、一八六四年には、,六、一二七人となり、約半減している。しかし、かかる資本の有機的講成の高

変化を龍進したのは、当地域の綿紡織業のすべてではなく、その一部にすぎなかった。すなわち、〔結局、この地方

(ノルサンディ

i引用者〉の綿業合構成している異ったグル

iプの状態を検嵩じようとすると、価務の上下振動が、

大量の資本会所有している大工業家

(mZ部品

gr己号即時

2)には、あまり影響を与えていないことを、容易に知る

ことがで桑るJ

彼らは、有利な特に製品を販売するために待つことができるし、悪くいって、下落が彼らに損失を与

えたとしても、次の騰貴によって、彼らは、ぞれをとり返すことができ

μJこの諸に麗する綿業家がいた一方で、「そ

仕入れることは、被らの資本能力を越えさせるこ

らの

7うま

いう事態を間引き起したが、紡績工の数が

}の期間め前半(一八六

-138

の他のものについていえば、棉花不足時の鐸格で、それ

とになる。・:一度下落が襲、っと、ひどい操失を戴け難い。下落が

欝険を試みようとするものは、たちまち、需惑が足りないことを知らね

業では、「近代的な設備をもっ大規模な事業所(時吋僻弱含阻ま忠一広田留さ釘

gc向山市吋出25MM芯S

E銭円喝宮部

通りに稼動し一hrLばかりか、むしろ、「綿花鼠鰻」会利濯しさえした。すなわち、棉花の翼占めと投機的取引きによ

って得た利益を企業に投下し、技術革新と経営規模の拡大を遂行することができた一方で、の不充分な中小規模

なら そ

の損失は、破濠に変ずる。議敢にも、

かくて、ノルマンディの綿紡績

ぴくと、

は、平常

Page 59: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

経営が没落していった。

ノルマンディ紡績業における資本の集中(編成替え)が促進せしめられたと結論づけうるの

である。

(幻)「綿業の危機二同

2-zggE広2)は、一八六三年に

その緊張の極に達した。この時以来、新しい生産国からの棉

花の到着、価格の一定の安定、六一年から起った諸変化によ

って生じた状況への綿業の適応、これらすべてのファクター

が結合して一つの緊張緩和をもたらした

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は、ノルマンディでは例外的である。」とつけ加えられている。

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139 -

次に、織布業についてであるが、「機械制織布業に関していえば、危機以前よりも少し多い数の労働者(。Z4江市

Z)

を雇用していたJと報告されており、織布部門においても、力織機による機械制の導入が推進せしめられ、機械制工

場が増加したと思われる。これに対して、手織業であるが、手織機が最も多く存在していた

JFZE郡では、一八六四

年の失業者数が、前年同期の二ハ、七五一人に対して、一、一二七人へと著しく減少凶v

ルウアン控訴院検事長をして、

「全ての織布工が雇用されてい“一といわしめるほどに復活した。我々は、この事実によって、織布業における問屋

制的経営形態がこの期間を通じて強靭な再生力をもっていたことを見取ることができる。そして、これを可能にじ

た一つの有力な要因は、ここにおいても織布工に対する徹底的な賃金圧下であった。「不充分な賃金は、特に、この

北大文学部紀要

Page 60: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義務立燃のフランス録業

ル!アン織り業〈吋O戸

552芯)

の不適当な組織に起閣する。すなわち、ここでは、議布工

(24円広三)が、不公正で

道館観のないファブリカンと識布講負人守口々さ吋

322内岡市仲仲間曲芸部

ZZ吋滋主Z可申〉の思うままになっている。フ

ァブリカンが仕事量

(FVZ与を増やして工貨を出引下げている…方で、この地方でさ阿国豆

225包2または

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{

M

M

)

同月とよばれる議布議長人が、綿布の不出来を瑠治に、さらに労貨を引き下げている

J〈傍点引用者)それでは、ブァブリ

カン(ならびに彼と織布工どの媒体たる議布議負人〉が依拠していた生産相総識とはどのようなものであったか。ルウアン

控訴院検事長は次のように説明している。「ルウアン織りのブアブリカンは、広い事業所を所有するための諸経費(吟包括

m阿部ロ青島Eろを負担していない。後らは、工場も機械も動力機関も持たない。後らは、織布工〈

84司即時吋ろが彼らの高品

ない。彼らは、必.要な綿糸を買って染色冬そて準備するだけである。それを綿布に仕上

して手織工に渡す。このように、工場の所有者〈出包亘書前〉ならば、操業中止によって

をつくるための織機き

庁るのに必要なだけの

140

も‘外かくすることので冬ない諸経饗と操業を続行しないといたむ機械を維持しなければならないというくぴきから解放

されているので、ルウアン織りのファブリカンは、今一躍しても彼らに科誰がもたらされないかあるいは生産によって

損失を機構る時には、議布工をいちはやく解同殺する

0

・:多くの場合に、ブァブりカンは自分が雇渇している織布工が雑

であるか知らないし、織布工もまた、自分がどんな主人のために布を繰っているのかまったく知らない。彼らの関に

は、対ミ窓口吋または

2g笠間閉山

SSF司令とよばれる仲介入がいる。この使者は、

ファプリカン

ら綿糸を受けとり織

彼らはブアブリカン

(間話待。ロ)

そして出来よった商品を織布工〈

22日

21

、なかったが、

から受けとって設らに

本来

布工(な朗脱出吋同宮内山間〉にわた

の代理人に

ではほとんど蛮る処

の議負人(〈郡司まず阿部部市留守品

M2251出)になった。彼らは、

切の責任を引

て、設分の

だ識布ヱをして、

ブアブリカンから渡された箆

Page 61: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

料を完成させる「」ここでのべられている手織業の特色は、

ωフアブリカンが固定資本を所有せず、織布工が自己の家

の中に織機をもっていること、

ω織布工が分散して労働すること、

ω織布請負人の存在、

ωしたがってフアブリカン

が織布工を直接雇用しないので面識もなく、織布工同志もお互いに顔を知らないことが多いこと、である。したがっ

て、フアブリカンは、操業困難な事態が起れば、工場や機械の維持についての配慮をしないで操業を中止できたし、

その際に、織布工の抵抗を恐れず彼らを解雇したり、綿布の供給を中断したり、賃金を引下げたりすることができた

のである。かくて、手織業はい棉花飢鐘という最大の危機をも、他の場合と閉じ方法できり抜けて、伝統的な農村市

場に根強く定着することによって、かなり縮少はしたものの、その延命を可能ならしめたのである。

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最後に、このように、農村手織業の延命を実現する基盤となった労働力の提供者H手織工が、一時的にせよ恒久的

にせよ、解雇された場合に、何故、農村から流出しなかったのか、という問題について考えたい。「今日、(手織工

のうちの)誰かが、自分の織機を放棄した場合、彼は、直ちに、仕事を道路の木工や農作業に求める。最近、いくつ

かの小郡

(ng吉田国)にかなり大規模に設立されたラシャ上履製造業は、かなり高い賃金を、女工に与えている。他

の多くは、熟練をそれほど要しない針製造業に雇われてい(勺」ここから、我々は、失業した手織工が、その一部は、

他の工業部門へ流入していく方向をたどったが、残る部分は、日雇い的な臨時職について農村に滞留していた、とみ

北大文学部紀要

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Page 62: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

のフランスの綿業

ることができる。そして、後者に属ずる手織工は、一得びフアブリカンに…縫一周されるか、

る機

彼らに土地を借用・獲得することができない場合には、臨時的な農業労働に従事す

(世相)

織布ヱ

75ユ柑

22含〉のうちに、、収護期の補充労働力を見出していたL

のである。

要請でもあったといえる。このような性格をもっ農村の手議工が存在する操り、ノルマン

ディの綿織布業における防護続的家内工業は存立する基盤を持ち続けるだろう。

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と、淡哲惜した予織エは、川w小借地臨胸(室長ω州常損

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C22長。之、MW都市の工場労働者になった。

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同山向。

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J凹

M-hwuN0

以上、我々は、

ることができる。

「棉亮飢健」

その経過および嬉説得について検討じたのであるが、

およそ次のごとく要約す

142 ~

∞「棉花飢銭」は、原棉ストックの総量が

A

絶対的に不足したのではなく、その様在に出米する。少数の大経営

への棉花の集中、その結果としての原棉価格の騰貴にある。したがって、「棉花飢僅」という呼称は、これらの綿業

家には該当せず、その他の大多数のや小規模の綿業家に対して用いられるべきである。

ωその結果、当期間開を通して、一方で、椋花の投機的資占めをした大金業が、技術寧新と経営規模の拡大安行い、

地方で、小金業が没落していく、という資本の集中による、綿業の構造変化話再編成が、工場制度が確立していたが、

アルザスと比較して相対的に集中の程度が低かったノルマンディの紡綴部門において、とりわ

に行われた。

Page 63: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

その製品が、農民を顧客とし、農民の日常生活に深く侵透しているノルマンディの手織業は、問屋制手工業と

しての生産組織の特色に依拠することによって、賃金圧下または生産の一時的中止を可能ならしめ、危機をきりぬけ

ようとした。その結果「棉花飢僅」が終了した時、全体として縮少しつつも、再ぴ生産を開始することができた。

(3) ω

ノルマンディの綿業は、棉花凱鐘によって、構造的に変化せざるをえなかった。紡績部門では少数の大

企業へと資本が集中していき、これに牽引されて織布部門における機械化と工場制度が発展した。しかし、農村に拡

延している家内工業は萎縮しながらも群居し続けることになった。

結局、

四、結

び、

つ-U4

i

一八六

0年代のフランス綿業における資本の集積・集中がどのように遂行されたか、そこにお

ける機械体系と労働力の存在形態とがどのように変化していったかについて分折し(第二章)、次いで、そこで明ら

かにされた変化のあり方が、統一的圏内市場の確立・自由貿易制度(通商条約)の実施・棉花飢僅の勃発によって、

どのような影響を受けたかについて検討を加えてきたつもりである(第三章)。その結果は極めて不充分なものにな

ってしまったが、ここで、とりあえず次の諸点を抽出することによって結ぴにかえたいと思う。

我々はこれまで

械制(1)グ〉

導入

進展

一言でいえば、

一八六

0年代を通じて、基幹二工程の紡績・織布業において、技術革新(機

とそれに伴う資本の有機的構成の高度化を推進し、資本の集積・集中を進行せしめたといい得る。

フランス綿業は、

北大文学部紀要

Page 64: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本主義確立期のフランス綿業

このことを、当時資本主義的編成の途上にあったノルマンディについてみるな必ば、アルザス綿業の攻勢と通商条約

による心理的促迫を受けつつ、実質的には棉花飢謹によって、一種の再編成が行われた。すなわち、紡績業において

は紡錘数一

O、

000錘の事業所を軸とした資本の集中が、織布業においては小規模経営を含めたカ織機工場の増加

が、農村地帯から都市への地理的集中を伴いながら進行したのである。しかし、我々は、織布業における問屋制家内

工業が農村に依然として多数存在しており、機械制工場制度の支配的地位が確保されたと断言できるところまではい

かなかった、という事実に着目すべきであろう。ノルマンデイの綿業は、一八五

0年代にでき上った構造のうち、六

0年代を経てもこの点では改めることなく、むしろその特色を明瞭に体現して固着化することになった、と思われる

のである。

(2)

それでは、

-144 -

かかるノルマンディの問屋制家内工業は何故このように長期間にわたって残存することになったの

であろうか。我々はすでに、この農村手織業が、六

0年代の諸危機に際して、その生産組織の問屋制的な特質に依拠

して工賃の徹底的な切り下げと織布工の一時的な解雇を容易ならしめ、危機が終了した時に再生したことを確かめて

さらに、このような経営形態の存立基盤が低廉な労働力の実在にあり、この労働力の提供者たる手織工は、農

きた。

業からの収入で相E補充するという半農半工的な性格をもっていたとも確認した。逆から見れば、農業からの要請が

あつだからこそ、彼らが存在しえたともいえるのである。このような性格をもっ労働力が存続する限り、問屋制家内

工業は残存し続けること,なる。

ωこれに対して、アルザスにおいては、

分野において工場制度の優位が確保されていた。六

0年代には、

一八五

0年代に、農村手織業が決定的に後退したことにより、綿業の会一

すでに遂行されていた資本の集中をさらに促進しつ

Page 65: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

lま っ、個別資本の集積による経営規模の拡大と技術革新が行なわれたのである。フランス綿業における資本主義的編成

一八五0年代のアルザスにおいてのみ完成した、といえるのではあるまいか。

(1)

一八七三年のフランスには、六二、五三七台の力織機と八

二、八

O四台の手織機が存在した。(前者四三%、後者五七

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ω結局、フランスの資本主義確立期を決定する際に、綿業における問屋制家内工業の消滅(あるいは決定的な衰

退)をメルクマールとするならば、確立の時期は逢かかなたにおし下げられることになってしまうであろう。我々は、一

はじめに、その指標を生産財生産部門の確立に求め、これが六

0年代であろうことを推測した。そうであるとすれば、旧

フランスの資本主義は、綿業における問屋制的な経営形態を内包したまま成立した、と考えざるをえない。むしろ、一

我々は、かかる経営形態の存在そのものがフランス資本主義の構造を特色づけるものであること、換言すれば、確立

(I)

期のフランス資本、言は、小農的手工業者を広い底辺として構築されている、と言えるのではあるまいか。

(l)

遅塚忠弱「フランスの農業と土地所有」(「産業革命の研究』

高橋幸剖八郎編、昭和四

O年、所収。)は、十九世紀フランス資本主

〔附記〕

第一章の末尾で紹介した四つの史料のうち、

ωとωは服部春彦

氏からお借りしたものである。特に

ωは、フランス国立文書館で

北大文学部紀要

したがって、ノルマンディ綿業がフランスの綿業全体を代表

しており、アルザス綿業の圧倒的な機械化(一八六九年にカ

織機九一%)はその中の特異な例であるといえる。

({一克)

義の構造的特質を、主として農業・土地問題との関連で、実証

的・理論的に解明している。

筆写された貴重な史料であった。ここに、氏の御厚意に対して、

心からお礼申上げたいと思う。

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炎本主義確立期のフランス

1.紙調島

19世紀フランスの生産額国 1

1.ωe

ち初

mm{g,単品切

由雄鳴フランV

100

撃事事

目立芦ン】

j型。

A

蝋4立

B 1守容。 1900

A: 1 人当号物財産量出額 (1905-13~ドを基準とした不変織格表示〉

典拠 J. Marczevski, The Take-off. Hypothesis and French Experience,

in: W. W. Rostow( ed.), The Economie$ of Take-off into Sustained Grow

th. 1き63,p.135‘

B:国民総生産量綴(時綴}

典拠 F.Perrou草, Prise de vues sur la croi制組cede l'吾cono誼lie fran-

saise, dans: S. Kuznets(ed.), lncome and Wealth. Series V. 1955, p. 61

146 -

1850 1800 ち。

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19世紀フランスの農業・工業主差出額関 2

北大文学部紀要

A

i∞

叩億フランd

10

mw

竃他

B 1900

A:農業建設出額 B: -工業農協額

(1905-13王子を基準とした不変{泌総表示)

川501600 5

J, Mal'czevski, art. cit勺 p.135

-147 -

典拠

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撚民本主義擁立期のフランス

19世紀フランスの幾業・工業康出額関3

A

部門幽皿金

-処フラン)

100

10

1900 l似国B

A:農業選出綴 B: .工業産出綴(~新聞}

典拠 F. Perroux, art. citi p. 6 1

IsSO

148 -

5

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関4 各工業部門の発展

北大文学部紀駅前

1001

50

10

5

iL↓JiL」rιLLJJJjo A:室主義建材生産設綴 (feret aci貯側vr岳), (場i位10万トン〉

典拠 Annuaire Statistique de la France, 1966, Resumf! retrospectiえ

B:銑鉄主主主主量 (fonte),(長詳佼10万トン)

善寺艇 ibid円 以 240

C:石炭洛撃をま愛(単位100万トン}安{生皇室長量十輸入議)-

典拠 ibid., p. 22哲

D:繊維工業最長料輸入額(単位 l万トン)安学三台生糸・綿花・麻毒事

典拠 Annuaire Statistique de la France, 1951, pp. 197-198

E:綿花消費量(学佼2千トンl*輸入盤一得総出

.!IfI.拠 ibid.,p. Z 6草

-149

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国5 工業部門別労働者数の変動

資本、主義擁立期mwフランス

事。。

50

1"

&一 A2

、川』

¥一同町駒岡山

酬岬........ 嶋崎

圃軸軸醐同町

岡崎・・・・剛削除

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5 t4 ヘ〆VI

言団t νし/L,..,.,.---

軍ι M

BJ

. . ,- -- .-主宰 ゐe“

80 1900 君。

100

繍00

A:繊維工業労動議数

典主義 Al:E. Moss吾.op‘ cit., P.202.

A2:Evolution de l;l. population active en France depuis cent

ans, da拾お:Etude et Con;o持cture,1953. No3, p.256.

B:鉄工場(jusinea fer)労働者数

奥撃さ 1830-33年 :Ann誌aireStat stigue, R(tsum(t r(ttrospectif, 1951, 4・

P. 134. 1834-1913年 ibid.,1告66,p. 24告

-15む一

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臨8 熔鉱炉数の変動

a・駆

10

18師 長o ---eo… 1900 :iO

A:フjc炭潟炉数 B:コークス語気が数

典拠 AnnuaireStatistigue,

R<isum珪 r<itrospectif, 1966, p. 24 0町

151

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資本、五議確立期のフランス終業

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50 /'

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10 / 〆¥ 二/

5 ~ ¥

¥~ ¥~

I ROO 10 2tl 30 110 0;0 bO 70 謹o 51:

発の業緩紡線図7

A:綴主主績工数(単位万人}

多奪拠 E..Moss岳,op. ciι, p. 217

B:絡紡録数(単位10万錘〉

終J拠 1804-12年:Ch. Ballot, L 'introduction du machinisme dans l'indust.

rie Francaise, 1事23,pp. 120-121. 1829-46年, 1875-90年:メンデリソン

r~,慌の護論とま霊史J ,長,抑, 375-376.185む若手:More純 白 Jo往復位,Statis.

tique de l'industrie de la France, 1856, p. 17. 1860・1870正予:Enqu~te,

1870. d岳p.de 1869・1872・18均等:Statistiquede la France. Statistiq.

ue sommaire des industγie principales en 1873, 1874, PP. 104-1告5.

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抑hJV

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北大文学部紀繁

関8 蒸気機欝尽力数

ν i冊

/ 1/ ..

II グ 器

1/ V r 10

1/ ν rゲf f

鐘扇-e. 方舟s d

1 2g2030 割印 70 齢 頭ri京福岡

A:蒸気者菱総尽力総数

B:幾布・被服製造業の主導力委主

C: i合金主主の篤カ数

典拠 隠ぬ-75.>p:メンデリソン r;恐慌の者堅議誌と

綴史J,4,1961, p. 334. 1878-1919.>p : Annuaire

Siatistique, 1951, p. 144.

153

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図書 就業総人口に織綴・被服部門

の占める割合

制岬月挙低忽、倒~

A:繊維工家殺業著者の%

B:被級事長遺業就縁者の%(1殺し,

善寺拠 若造 1iこ号表〈

必UT

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のブ一ブンス

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北大文学部紀要

諮問 Seine-Inferieu同県

毘t1 ~長仏若手国の総総おおにおめる綿製品の製会

100

手専拠 AnnuaireStatisti抑詰,Resu伊 典芸~ B.R MitchelJ, P. Deane,

m e refrospectiえ 1966,p. 350. Absfracf of British Historical Stat

メンデリソン「恐慌の理論と獲量2j・ istics, pp. 2s 2 - 283, 村 304.

4, pp. 347-351.

-155

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資本主義確立期mw

フランス

f設ヌ、翰花棉商12

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S蜜!IO 190争雲寺

PP . 268-

s。

Annuaire Statistique. 1951,

-156

70 毒。事。40

典主建

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図13-A 棉花の価格指数

北大文学部紀要

E

100

内-ハ丞

FI--子息年

g

10 1飽.0 30 40 50 (,() 70 80 90 筑)()

典拠 Annuaire Statistique, Resume retrospectif, 1966, PP. 406-409

内/

「円

υ1ょ

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資本主義確立期のフランス綿業

棉花の月別価格指数図13-8

富岡

CI, Fohlen, op. cit., p. 300.

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Rυ 1よ

典拠

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北大文学部紀要

表 1 工業就業人口

文薮\~ 186 6 1 896 1 9 0 1 1 906

工業就業人口 4,196.4 5,377.0 5,819.9 5,979.2

の総数 ( 100) ( 100) ( 100) ( 100)

繊維工業1,071.8 901.3 891.6 914.0

そ(25.5) (16.8) (15.4) (15.3)

グ〉

761.5 内 被服製造業

1,303.6 1,483.5 1,551.1

(18.2) (24.2) (25.6) (25.9)

天薮------------ごT 192 1 1 926 1 936 1 9 4 6

王業就業人口 6,181.5 6,680.8 5,939.7 5,802.6

の総数 ( 100) ( 100) ( 100) ( 100)

繊維工業 792.9 932.9 719.9 513.7 そ

(12.8) (13.9) (12.1 ) ( 8.9) の

被服製造業1,215.4 1.066.2 767.8 685 .2

内(19.7) (15.9) (12.9) (11.8)

注単位千人 *麦藁製造業を含む

典拠 Evolution de la population active en France depuis cent ans,

dans: Etudes et Conjoncture, 1953. no.3, p. 256 •

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1ょ

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持耳*州時罪捜同窓Qト lト入 K君主純一一

表 2 1860年代の紡績業

口、 紡 錘 数 事業所数 l事業所当り紡錘数

1 8 5 9 1 8 6 8 1 8 5 9 1 8 6 8 1 8 5 9 1 8 6 8

Seine-Inferieuse 1.402.174( 1∞) 1.497.632( 107) 233( 100) 185( 79) 6.018( 100) 8.095( 116) 県全体

同 Ruen 郡 1.048.828( 1∞) 1.184.100 ( 113) 191( 100) 150( 79) 5.491( 1∞) 7.894( 143)

上 Lieppe 郡 1l0.178( 1ω) 104.954( 95) 16( 1∞) 14( 88) 6.886( 1∞) 7.497( 109)

県 Le Iiaure 郡 167.032( 1ω) 167.796( 100) 13( 1∞) 15( 115) 12.849( 1∞) 11.186 ( 88)

郡 Neufchatel 郡 36.6ω( 1∞) 20.436( 56) 6 ( 1ω) 3 ( 50) 6.100( 1∞) 6.812( 112)

~IJ Yretot 郡 39.536( 1∞) 20.336( 51) 7( 1∞) 3( 43) .5.648( 100) 6.779( 120)

982.964( 100) 1.280.0OO*( 130) * *材陣 象 **

Hout-Rhin 県 56( 1∞) 54( 96) 17.5お(100) 24.000( 137)

イギリス(連合王国) お.010.0∞傘ir100) 32.0∞.OOO(*1l4)

• 1857年, 帥 1869年.*" 1856年, 帥帥 1867年

( )内は, 1859年を基準とした指数

Hant" Rhin県にBas-Rhin県を加えると 1859年の総紡錘数が1.092.780錘,事業所数80, 1事業

所当り 13.660錘となる。 A.L. Dunham, Anglo-French Treaty of Commerce・

典拠 Seine-Inf岳rieure県については, A. Cordier, Expost! de la situation des industies de

coton et des produits chimiques dans la Seine-Inft!rieure & 1 'Eure (1859-1869) ,

1869, pp. 88 ・103_Haut-Rhin県については, 1857年は Enquete,1860, p. 1 78, 1869年は

CI. Fohlen, op. cit. p. 452. イギリスについて ii,B. R. Mitchell, P. Deane, Abstracf of

British histosical statistics, 1962, p. 185.

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北大文学部紀要

表3

( A ) Seine-1nf討 ieure!終

ヱミ当Seine-1nf毛ri舵 eP事会体 Ro温en繋 Dieppe綴

1859 11868 1 8 5 9 1 8 6 8 1喜5き

5.000以下の事業所 118(51.8) 79(42.7) 107(56.0) 69(4毛布告} 6(37.5) 5(35.7)

5.001-10.。ωの事業後 7告(30.7) 部(31.2) 53(27.喜) 4J(幻 3) 8(50.0} 6(42.9)

10.001-20.0総 , 37(16,2) 39(21.1) 30(15.7) 33(22.0) 2(12,5) 3 (21.4)

2告.001-50司自∞ H 3( 1.3) 7( 3,7) l( 0.5) 5( 3,3) 。(0 )

50.001 以上 8 告(0 ) 2( 1.1) 金(0 2( 1.4) 告{告}

計 228(100 ) 185(100 ) ぬ1(1ω) 150(1鈴〉 16(100 ) 14(1ω;

Le Havre 111¥詩eufchate!郡 Yvetot務

1 8 5 9 I 8 6 8

5,0∞以下町家遺産湯 2(15.4) 3(20.告} 2(33.3) 。(0 ) 2(28.6) 。(0 )

5.0告l“路.0紛のき襲業所 5 (311.4) ぶ40.告} 4(66.7) 3(1告o) 5(71.4) 3 (100 )

10,001-20.0∞ M ぷ30,8) 4(26,7) 号(0 ) O( 0 } 。(0 ) 号(0

20.001-50.000 第 2(15.4) 2(13.3) 。{む) 。(0 ) 告{号) . o( 0 )

50.告01 以上 R む(0 ) o( 0 ) 。(0 o( 0 告(0)i3(G}

百十 13(10自} 15(100 ) 6(10告) 0(100 ) 7(10号 3(100)

主主 ) J.与は%

典主建 A. Cordier, QP. cit., pp.8 ト103.

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資本主義確立期のフランス綿業

Seine一Inferieuse県経営規模別紡錘数の分布

地 域 年 5.000錘以下の事業所 5.0∞-10.0∞錘の事業所 10.001-20.。ω錘の事業所

Seine-Inferieur 1859 292,974(20.9) 543,606(お.8) 477,694(34.1)

県 全 体 18飽 198,296(幻.7) 414,764(27.7) 532,0お(35.5)

1859 247,406(23.6) 382,252(36.4) 392,170(37.4) Rouen 郡

1868 168,888(14.3) 285,590(24.1) 432,030(お.5)

1859 21,652(19.7) 62,202(56.4) お,324(23.9)Dieppe 君b

1868 16,256(15.5) 45,878(43.7) 42,脚(40.8)

1859 9,076( 5.4) 37,856(22.7) 59,2∞(35.4) Le Haure郡

42,524(お.3)1868 13,152( 7.8) 57,186(34.2)

1859 7,1∞(19.4) 29,5∞(80.6) 。(0 ) Neufchatel 郡

20,4鉛(100) 1868 。(0 ) o( 0 )

1859 7.,740(19.6) 31,796(80.4) 。(0 ) Yvetot 郡

1868 。(0 ) 20,336(100 ) o( 0 )

地 域 年 20.001-50.0∞錘の事業所 50.001錘以上の事業所 計

S eine-Inferi eure 1859 87,9∞( 6.2) 。(0 ) 1,402,174(100 )

県 全 体 1868 206,1お(13.8) 146,4∞( 9.8) 1,4貯,632(100)

1859 幻,0∞(2.6) 。(0 ) 1,048,828(100 ) Rouen 郡

18関 151,20Z(I2.8) 146,4ω(12.3) 1,184,110(100 )

1859 。(0 ) O( 0 ) 110,178(100 ) Dieppe 郡 。(0 ) 1868 。(0 ) lω,954(100 )

1859 ω,9ω(お.5) 。(0 ) 167,032(100 ) Le Haure郡

1868 54,934(32.8) O( 0 ) 167,796(100 )

1859 。(0 ) 。(0 ) お,600(100) Neufchatel 郡

1868 。(0 ) O( 0 ) 20,436(100 )

1859 。(0 ) 。(0 ) 39,5お(100) Yvetot 郡

1868 。(0 ) O( 0 ) 20,336(100 )

(8 )

注単位は錘 内は%

典拠A.Cordier,op. cit, pp.88-103.

qL

nb

唱目ム

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表 4 AIsace (1856年}

大二iじ李寿 銭 数 業 所 数

文0-10.0000系議長所 18(30.5) 学

害見 10.000-20.000 11 24(40.7) 五己

20.000-30.000 要 /1

30.000-“40.000 4( 6.8)112(20.3)

40.000-50 .000 。(o. ) 50.000-60.000 11 2( 3番 4)

60.000-70.000 l( 1. 7)

70.000-80.000 11 ( ~:;; r 5( 8.5) 80.000-90.000 11 l( 1. 7)

5き(10 )

設 内は%

AlsacelムHaut-Rhin県とBas-Rhin燥を含む。事業所数の内訳l丸日

制 t-Rhinl県56,Ba器細Rhiれ県 3である。

典拠 R.L品vy,op. cit., pp. 110 -17l,閉め約差是

表 5 アルザス紡績殺における機械?絞め発展

三子 ミュ Ic紡繍機の紡録数 自動紡綴緩め紡錘皇室 総紡錘数

1828 466.363(100 ) 合 466.363 (10合)

1846 77仏300{100) 告 779.300 (100 )

1851 819.006(100 ) 。 819.006(100 )

1856 き66.122(88.9) 108.179(11.1) 974.298(100 )

1857 715.232 (66.7) 256.956(33.3) 1.072.188(100 )

1859 710.520(65.0) 382.260(35.0) 1.092.780(100)

1861 547.174(44‘6) 680.208(55.4) 1,227.382(100 )

1862 543 .054 ( 43 .9) 694.260(56.1) 1.237.314 (1∞) ※

500.000(33.1) 1.010“000(66.9 ) 1868 1.510.000(100 ) ※諜

233.266 (15 .9) 1870 1.232守264(84.1) 1.465.530 (100 )

等 Haut- Rhin~殺と Vosge\思 料 Haut幡随lIn梁のみ

注単位は銭 ( )内i立総紡録数iこ対する%

典拠 1828-62壬f.:R.Levy,op. cit., p.168. 1868年 :Enq総 te,1870,

おp.de A. Dollfus, pp.41-42. 1870年 :ibid., depositIon ecrite de C

hamhre de Commerce des Vosges, p. 45告.

今時JM

ρハu

aム

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期のフランス

織布業機における械制の発展

Seine-Inf益rienre~繁

年 手織機台数 カ織機台数 言十

182 5 導 入

1 8.4 7 57.535(88.1) 7.800(11.9) 65.335(100 )

185 5 45.660(84.8) 10.000(15.2) 55.660(100 )

185 9 29‘398(74.2) 10.227(25.8) 39.625(100 )

1 8 68 22.670(62.4) 13.669(37.6) 36.369(100 )

1 8 7 0 21.000(57.7) 15.383(42.3) 36.383 (100 )

187 3 24.077(64.5) 13.203(35.4) 37.280(100 )

表6

(A)

注 ( ) I和ま%

典拠 1825年本節注Z参照.1847年. 1855年のカ織機:C. F ohlen, op.

cit., p. 200. 1847司王倫 1855王子の手織機:服部泰彦 rフランス綿業の発達

と関際環境}'世界資本主義の形成』所収, p. 233・1859if., 1868年:A. Cor

dier, Op. cit., PP場 11ト 123et押・13 B→ 1870年:A.Ko総長lin,L'industrie

cotonnitzre en-Alsace,手・ 39.cit岳 parC.Fohlen,op. cit., p. 4寺号・ 18731f.: Statistique de la Franεe. St.αtistigue sommaire des i1ldustries pri毘cipales

t持 1873,1 S 7 4, p. 89 .

Seine-Inf毒凶器ure¥駄の郡別構成(臼)

8 § 8 号5 8 l 相小

8.510

602

4.512

G

45

哲三織機台数

Ro祖e践

Dieppe

Le Havre

Neufchatel

Yvetot

8.290

1.180

5.627

O

7.573

カ織機台数

6.420

483

3.324

O

G

手意義機

13.258

1.182

4.726

37

10ユ95

;;j1J

手P轟 138-139 et pp.116-123.

164 -

A. Cordier, Op. cit., 典拠

Page 85: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

北大文学部(C ) Haut -Rhin線記要さ 王手 一手織機数 カ 織機数 計

182 2 18.000(100 ) 導 入 18.000(100 )

182 6 240

182 8 20.000(ヲ 2.123(号.6) 22.123(100 )

1 830 20喰000(90.9) 2.000(号.1) 22.000(100 )

1 834 21.090(87.5) 3指000(12.5) 24.0部(100)

1 8 3 9 6.000

1 84 4 12.000

184 6 12.000(54.5) 10.000(45.5) 22.000(100 )

1 8 5 1 10.000(45.2) 12.128(54.8) 22.128(100 )

185 6 8.657(36.7) 14.920(63.3) 23.577(100 )

1 858 7.000(26.0) 1き.号32(74.0) 26.932(100 )

1 859 7.000(24.3) 21. 772(75. 7) 28.772(100 )

186 1 5.000(17.1) 24.320(82.9) 29.320(100 )

1 862 ふ000(13.7) 25.153(86.3) 29.153(100 )

1 864 24.000

186 9 3.000( 9.4) 29噂 000(90.6) 32.000(100 )

注 ()内は%

典拠 1822 . 1826・1830-44・1864年のカ織機:R.L毛vy,on. cit., p.

14 5. 1822・1834若手の手織機:メンデリソン恐慌の理論と懸 4,

1961, P. 371 • 18691f.: Cl. F ohlen. Op. cit., p. 406. その他:]ム.Rey

私自t,Le Coton: son !"egime・ses probltmes.so控 inflence en Europe, 1863. p. 41号. cite par A. L. Dunham, AniJlo網FrenchTreaty……,

/

p. 18竪,

側代

υρnV

14

Page 86: Instructions for use · 年代前半の「棉花 飢謹」による激減は部として、七 0 年代に入ると、明らかに停滞的様相を強めてくる。これに対して、石炭消費量、

資本、モ義確立期のフランス総菜

Seine-Inf吾rienr阜県の1860年代の機械制織布議室

:下ミミ方議機会数 挙薬表号室主 1審議所当。力機機会委主

1 8 5 9 1 8重喜 1 8 5事 1 8 6 8 1 8 5 9 1 8 6 8

Sei蹴幽Infをri飢lfe 県会体 10.227(1ぬ) 13.669( 134) 48( 10告} 60( 125) 213( 1∞) 22き(1自7)

肉 Rouen 意sI 6.420(100 ) 8.51号(133) 28( 100) 35( 125) 229( 100) 243( 1附

よ Dieppe 意s 483(100 ) 602( 1怨) ぷ10告} 4( 100) 128( 10号} 15I( 118)

県 Le詰都re 郡 3.324(100) 4.51Z( 136) 16( 1∞) 2il( 125) 208( 100) 226( 1船

郡 Neufcha!el ま5 。 告 き 。 s 告

意IflY時 !ot 部 告 45 B 。 45

Haut-RhilI !襲 14.920傘( 100) 22S*1臨念)( 1事4)ふ阿倍(1お)!31S( 100) 4必(142) ミ l

表 7

主主 象 1856!f., . * 186吉年 ( )内i丸 1859年をま義務としたお委主

史料 Seine・Inf.岳ri側同県については, A. Cordier, op. cit. pp. 116-123, Haut-Rllin

県については‘おお年:Engu邑te,1860,が 189.1869年の織機数 CI.FQhlen, op.明 cit.,

p. 460. 1868年の事業所数、:服務総彦アルザスにおける近代総裁の形成過緩J グ

名省主重大学総務ヲ主義者集JXUV,1967,)

no co

汁l鳴

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北大文ぷゐ寸」

部 表 8 Seine-Inferieure県の織布業経営規模別事業所数・力織機数分布紀要 (A) 各規模の事業所数

Lぉ13Seine-1 nf eri eure県全体 Rouen君1 Dieppe郡

1859 1868 1859 1868 1859 1868

100台以下の事業所 8 (16.7) 10 (16.7) 3(J0.7) 6(J7.2) 1 (25.0) 。101-200台の H 21 (43.8) 20 (33.3) 12(42.9) 10(28.5) 3 (75.0) 4( 1∞)

201-300 H 10 (却.8) 15 (25.0) 7(お 0) 8(22.9) O O

301-500 " 7 (14.6) 11 (18.3) 4(14.3) 7(20.0) O O

501-1.000 " 2 (4.11 4 ( 6.7) 2( 7.1) 4(J1.4) O O

1.001台以上 " O O O O O O

言十 48 (1∞) 60 (1∞) 28( 1∞) 35( 1∞) 4( 1∞) 4( 1∞)

:孟主主 Le Havre君s Yvetot郡 Neufchatel郡

1859 1868 1859 1868 1859 1868

100台以下の事業所 4 (25.0) 3(J5.0) O 1 ( 1ω) O O

101-200台の事業所 6(幻.5) 6(ぬ0) O O O O

201-300 " 3 (J2.3) 7(35.0) O O O O

301-500 H 3(12.3) 4(20.0) O O O O

501-1.000 " O O O O O O

1.001台以上 " O O O O O O

計 16 ( 1ω) 20( 1∞) O 1(1∞) O O

注内は%

史料 ACordier, op.cit.,

pp. 116 _ 123

-167一

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のフランス続裟

1 8 6 8

308( 3.6)

1.521(17.9 )

1.822(21

2.703 (31.8 i

2.156(25.3)

o( 0 )

(B) 各規模の毒事業所に属するカ織機総数

キーカ織機数(会)

:∞台以下の事業所

101-2ω台 s

201-300

301-500

501-1.000 "

1.001台以上の事 H

部会

/1'

1 859

100台以下の楽業所

101-200会め事業所

201-300

301-5鋭3

501 -1.000 • 1.001 t;以上の M

242( 7.3) 1 193( 4.2)

1.076(32.り 915(20 .3)

816(24,め 1 1.8総(40.1)

1.190(35.幻I1.596(35

3.3240DO ) 1 4.512(100 )

Neufchatel苦言

1 8 6 8

602(100 )

5

0

5

5

602(100 )

1 8 5 9

40( 8.3)

443(91.7)

a 会

o a

483(100 )

lf. カ織機数(台)

186 8

AUU

ハHV

《HUVAHVAHV

HV

《れ

υ

185 9

ハHU

ハHv

n

H

V

《川

υ

h

u

u

A

H

U

ハれυ

1 8 6 8 カ織機数{会)

100台以下の事業所

101-200会

201-3∞ 301-500

501-1.00会 8

1.001会以上

123. PP. 116

168 -

( )内は%

A. Cordier, Op. cit., 注

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表 9 Seine-Inf岳rieure燃の手議草食

北大文学部紀姿

手 織 機 数 7アブ1)カン数

it!! 竣 年 1 8 5 9年 1 8 6 8 1 8 5 9年

Sei'情論1鈴f是rieu県re会予告 ! 29,3望号(100) 22.670(77 35告(100) 322( 92) 84( 100) 7告{お)

13.258(100) 8.29合(63 ) 161( 100) 12品 80) 82( 10告〉 65( 79)

上 Dieppe llIl 1.182(100) 1.180(100 ) 49( 10告)i 52( 106) 24( 1ω) 23( 泌}

¥1'< i Le Havre お ι726(1∞j 5,6幻(119) 38(1告0)I 44( 116) 107( 10寺} 128( 110)

務 部担{と主主lel郡 37(100) 会( 0) 2( 1ω) O( 0) 19( Iω) 。( 0)

glJ t Yvetot 慈 100) 7.573(74 ) l00( 10号; 容器( 98) 102( 1∞} 77( 75)

主主 ( ) )勾iム 1859"'1'を基準とした議委主

言ミ宇十 A宥 Cordier, op. cit., pp. 138…139.

表10 アルジェワアの綿布輸入

7ランス

急 務布 ・ j禁白綿布 2.713

染色綿布・捺染綴翁 374

その他〈モスヲン,交織布等 150

計 3.237

校単位はトン

史料。 Enqu控te,1861. p. xi.

l 8 s

2

169 5

3.585 29

9'綿糸・綿糸 j 計

ト (42幾子以上)

600.000(35‘8) I 1.678.000( 100) 325.000(15 I 2.140.000( 100) 1.815,000(84.8)

注単位以綾 は%典拠 Enquete, 1870. 従 p.de A. Dollfus, p. 42.

-169

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資本主義確立湖めフランス線業

19i投棄互の英仏貿易

イギりえから?ランスへの輸出 フランえからイギサスへのき童お

総数出額 綿 事E n口u 総 輸出額 線 製 ロロロ

1887 49,440,500 34,200,500 22ふ告告会(0.6)

1801・2 6,710,225 2.000(0.似 15,553,216 12.0∞(0.08)

1812 26,437,800 76,973,000 319.000(0.41)

1817 47,024,700 告6.0∞(0.18) 41,562,100 52.00号(0.

1821 46,565,400 31,773,600 311.000(0.98)

1827 13,605,014 58,875,537 5お0.000(0.99)

1832 27,726,ヲ82 67,430,482 588.000(0.87)

1837 47,681,109 62,473,7き2 1.269.000(2.03)

1842 112,19ヲ,785 92,411,308 2.277.00会(2.46)

1847 72,361,193 200(0.0002) 116,773,129 2.530.0∞(2.

1852 93,688,177 I 3ω(0.0002) 296,072,305 4.802.0ω62)

1857 321,57 386 ,676 ,381 4.546.000 (I .18)

1862 525,656,642 12,351.000 (2.34) 619,524,540 5.212.0ω(0.84)

1867 568,187,868 12,940.000 907,027,154 7必 3.0∞(0.82)

1872 665,960,038 2ゑ751.0∞(4.02) 935,527,862 4.854.000(0.52)

1877 576,151,723 29,370.00合(5.10) 1.063,034,903 6.345.000 (0.60)

1882 723,640,142 37,436.0ω17} き65,6滋8,504 10.653.000(1.10 )

1887 476,115,715 25,1き4.000(5.29) 822,436,359 7.205.0∞(0.88)

1892 530,655,144 17,688.000(3.33) 1.030,144,870 9.号71.000(0.88)

1897 485,81宮,648 12,434.0∞(2.56) 1.135,573 ,568 13.767.0∞(1.21)

1898 ! 505,630,223 12ぷ会.000(2.42) 1.024,040,079 12.964.000 (1. 27)

13,397.0∞ 1.241,726,720 19.435.000 (1.57)

1900 I 675,230,0ω 15,11き.0ω(2.24) 1.230,172,000 18.495.000 (1. 50)

苦笑12

注 単位i土フラン ( )内i主総輪出額に対する綿製品輸出額の割合(%)

典拠 Ministere du Commerce et de L'i対話strie,Anna[es du Commer田

ce Ext宕rieur,Un siecle de Commerce entre la Franεg詑tle Royanme

構 Uni,pp. 8 14.

170←

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表13 各患の紡錘数の変動

1 850 1 8 5 2

イギザス 17.554.000 18.000.000

フランス 3.263.000 4.500.000

アメりカ 2.500‘000 5.500.000

オーストリア 1.500.000 1.400.000

関税同線 815.000 900.000

ス イ ス 650.000 900.000

ベルギー 353.000 500.000

注単位iま綾

輿機 1850・年:More皐班点 Jon詩的,op. cit.. 苧・ 87

1867年:Enのiete. 1870. dep. de En喜el

Dollfus, p. 1 1 4.

表14 Haut…Rhin爆の捺染布の輸出

車議 t設 室自亙

仮輸入信IJ度によるもの そ グ〉他

1858 2.083,300

1859 2.100.500

1860 1.800.600

1866 639.000 1.917.000

1867 811.000 1.672.000

1868 638.000 1.673.000

1869 715.000 2.000.000

186 7

34.000.000

6.000.000

8.000.000

1.500.000

2.000.000

1禽000.000

625.000

検出商

18,064,000( 100)

15,571,000

22,531,000

16,652,000

23,000,000

27,000,000( 149) I 校単佼輸出援は正子総出高はフラン ( )内は1859年を基準とした指数

典拠 EnQu控te,1870. d岳p.d母Marin.p.200.

皐「仮輸入務IJJ については,本節注品著書照。 rその他j には,通常の輸入

綿布とフランス産め綴耳討を

-171