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Title イギリスにおける「大不況」(1873年~1896年)と諸資本の対応 (1)

Author(s) 藤田, 暁男

Citation 経営と経済, 51(1), pp.169-195; 1971

Issue Date 1971-04-30

URL http://hdl.handle.net/10069/27826

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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イギリスにおける「大不況」(1873年-1896年)と諸資本の対応 169

イギリスにおける「大不況」(1873年~1896年)

と諸資本の対応(1)

藤田暁男

1 は し が き

2 「大不況」の問題点

1.「大不況」の主な指標

2.「大不況」の原因にかんする諸見解

3.「大不況」の原因………(以上本号)

3 「大不況」に対する諸資本家の対策構想

-「商工業不況調査委員会報告書」(1886年)を中心に-

4 「大不況」対策の現実過程

5 「大不況」分析の提起する経済学の方法および理論上の問題点

6 む す び

1 は し が き

19世紀末の「大不況Great Depression」の研究は、既に1930年代より散

見されるが、国内国外で活瀞な展開をみせ始めるのは、いわゆる「成長史(1)

学」の盛況をみる1950年前後からである。

その多くは、長期不況の目立っていたイギリスに関するもので占められて

おり、そのかなり部分は、この「大不況」をイギリス経済の特殊性から説く観

点に立ち、例えば、「大不況」はイギリス経済の「早期出発early start」

に起因する「更年期climacteric」であるといった見方をしている。確か

に「大不況」はイギリスにおいて目立っていたが、程度の違いはあったにせ

 

0

よほた

他の主要資本主義諸国にもあらわれた世界的ひろがりを持つ現象であっ

「大不況」を多かれ少かれ世界的現象とみる人々の中から、イギリスにお

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170 経営と経済

ける「大不況」も、諸国のそれと関連する原因が考えられるとする視角があ

らわれ、その原因を資本主義経済の発展に内在するものとして分析し、 「大

不況」という現象を古典的産業資本主義の独占資本主義、帝国主義への移行

期に特有の停滞の表現として分析する努力も行われ始めたのである口このよ

うな視角からの分析にとって、資本主義の源流、 「世界の工場」であったイ

ギリスの「大不況」の研究が特に重要な志味を持つ乙とは云うまでもない。

本稿の展開も基本的にはこのような立場からのものである。

そのような基本的な視角のもとに、本稿では次の三つの課題を論じたいと

思う。第 1は、イギリスの「大不況」を、資本主義的生産力の発展と共に進

行する重工業の基軸産業化の過程に必然的にあらわれる困難として把握する

ことを試みる o 第 2は、 「大不況」に対する諸資本(家)の対応策は、 「大

不況」過程で胎動する独占資本主義、帝国主義の社会構造形成においてどの

ような役割と意味を持ったかを考察する。第3に、第 1、第 2の論点が、

「資本論J(Marx)以後の理論構成に対しどのような問題を提起するかを概

括的に検討し、 20世紀の資本主義社会への歴史的・論理的接近の在り方につ

いて考えてみたい口

(1) 国内、国外の主.要な文献は、

関口尚志「恐慌史Jrr経済史学入門』井上幸治、入交好修編(広文社1966)246 '"'-'

247頁。

更に最近の外国文献を含み、簡単な紹介もついて便利なのは、

S .B. Saul, The Myth of the Great Depression 1873'"'-'1896.

(Macmillan, 1969) . Select bibliorgaphy.

(2) Iわれわれがイギリスにおいてその推移を跡づけてきた大不況は、決してイギリス

だけに起ったものではなかった。それに併って起った状況は、ドイツ、ロシア、そ

してアメリカ合衆国においても同様に激しいものであった。 JM.Dobb, Studies

in the Development of Capitalism, 7th impression (London, 1959)

. P .312. 京大近代史研究会訳(岩波書居)139頁。

ドイツについては、戸原四郎『ドイツ金融資本の成立過程~ (京大出版会1963年)

第 2 章。鈴木鴻一郎編『帝国主義研究~ (日本評論社1964年)節四部(塚本健)。

アメリカについては、石崎昭彦『アメリカ金融資本の成立~ (京大出版会1962年)

第2章。鈴木鴻一郎編、前掲二苫、第三部(浜田好通)。

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年〉と諸資本の対応 171

「大不況」の世界的なひろがりを否定する見解としては、末永隆甫『近代経済学の

形成j] (ミネ Jレヴァ書房1969年)増補再版34頁。

2 i大不況」の問題点

1. r大不況」の主な指標

1873年'""1896年が果して「大不況Jであったかどうかに疑問を投げる論者

は少くないo 従って、まずはじめに、この時期を「大不況」という一つのま

とまった継続的な不況の時期として把握することが可能かどうかを検討しな

ければならない o

この時期を、最初にまとまった時期としてそれ自体を問題の対象にしたの(1)

は、 「大不況」論議の提起者 H.L. Bealesの1934年の論文であるo 彼は、

それまでの教科書に類するものが1873年'""1886年を「大不況」としていたこ(2)

とを批判し、 「価格がついに再び、上昇し始めた時期、 1896年まで」それをひ

きのばしたのであった。もっとも、それより以前1920年代に、長期波動(或

は循環)の存在を主張していた、 N.D. Kondratieffや S.deWolff、 A. (3)

Spietohoffなどは、既にこの時期を長期波動の下降期ととらえていた。

このl時期区分については其の後多少の論議がなされたが、比較的最近で

は、 S.B.Saulが① 1873年----1896年を lつのまとまった時期として、統計

的にも、不況の原因の追求においても、取扱うことはできない。 ②その時

期をまとまった時期として取扱う傾向がひろまったのは、長期波動論の影響

によるものであり、このフィクションに属する考え方は棄でなければならな(4)

い、と主張した O 確かに、長期波動仮説には大いに疑問がある。計測的な見(5)

地からの疑問に加え、論理的にも、 50年もの資本主義発展過程を l周期とし

て資本主義社会の自動調整をも意味する規則性を持った循環ととらえるの

は、歴史的、政治的要因を多分に持つ諸現象を「経済学的」に封じこめ、論

理の虚構性を強めるという疑問がある口しかし、長期波動論への疑問は、そ

のまま1873年----1896年を「大不況」とすることを否定することにはならな

い。だが、 Saulは、さらに、次のような主要な指標について考察し、 「大

不況J説を否定しようとする口この期の「大不況」の最も顕著な指標とみな

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172 経営と経済

されている価格の長期低下にかんし、それは19世紀初期より展開される不断

の innovationの継続であり、 1886年以降は、貨幣的要因(貨幣量の供給不

足)および商品別に違った原因による低下であって、この時期を統一的に説

明する乙とは困難であると主張する o また、生産の低成長率の継続について

も、それは1870年以前からの傾向であり、 1900年以降にも決して逆転しなか

ったと主張し、利潤率の低下傾向についても、 1901年以降もそれは支配的で

あったと述べ、 1873年,......1896年を「大不況」とするのは事実認識を誤ってお(6)

り、 rw大不況』を学術文献から放遂するのは早ければ早いほど良いのだ。」

とまで断言している o ここで、 Saulを検討する余裕はないが、乙のような

「大不況」否定論の登場が、われわれに「大不況」であることの慎重な確認

を要請していることに留意し、以下の行論もそれへの批判を合志しうるよう

努めたいo

多くの論者がとりあげる次のような主要な指標について、 1873年,......1896年

が継続的な不況状況であったかどうかを検討しよう o

a 価格 h 鉱工業生産価額とその増減率

E 利潤(率)、利子率 d 破産、失業

これらを第1図、第2図、第3図に図表化しているので、それを観察しな

がら、各指標について検討していこう D

a 価格。価格の長期低下は、この「大不況」の最も顕著な特徴である o

第1図にかかげた P.Rousseaux の指数によると、当該期の長期低下は明

らかである o Saulのように19世紀全体を一つの下降傾向とみるよりは、

1820年後半から1870年頃まではほぼ横ばい状態であると見なす方が適切であ

る。また、1890年代半ばを底として上昇に転じているととも確認できる。とれ

らの点は、 Saul自身がかかげている wholesaleprice indicesのダイヤグ

ラムにおいても、 1816年,......1822年の約7096もの具常な高低を除き、資本主義(7)

社会の確立期以降をみれば、全く同じことが云える o たY当該期の長期の価(8)

格指数として信頼度が高いと云われる A.Sauerbeckの指数によると、 1890

年代半ばからの価格上昇はそれほど顕著ではない。これはこの指数の構成品

目に農産物が相対的に多いためと考えられ、事実、食糧項目の指数と同じパ

ターンを示しており、 「大不況」以後も続いた農業の相対的不振の問題にか

かわるものと思われる o

b 鉱工業生産価額とその増減率。 r大不況」期に鉱工業生産物量は、若

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173

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(1873年一1896年〉と諸資本の対応

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イギリスにおける「大不況」

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1955) . Table

CCH

く第 1図、第 2図、第 3図の出所〉a B.R. Mitchell, Phyllis Deane, Abstract of British Historical

Statistics, (Cam bridge, 1962) . pp. 471"-"473. b1 W.G. Hoffmann, British Industry, 1700,,-,,1950,

W .0. Henderson, W. H. Chaloner, (N ew York,

54. Part B.2. h 出所はa、b1に同じ。但し、 Rousseaux 価格指数の主要工業生産物系列

と Hoffmann工業生産指数(建設をのぞく〉系列とにより算出。

b3 b2のq:々 の増減率の 5年移動幾何平均。

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174 経営と経済

第 2 HE 件数

11,000

9,000

7,000

5,000

百万ポンド

20

10

1870 1880 1890 1900

第 3 図 労働組合員の失業率

;f I I I ,1 I I I L-lι-土手技術関係10

全産業。1880 1885 1890 1895 1900 1905

C1 W.G. Hoffmann, op. cit. Table 54. Part B, 66.

C2 Statistical Abstract for the United Kingdom, No.24'""-'No.48. J.C.

Stamp, British Incomes and Prosperity, (London, 1916) . pp.

218"'219.

Ca Commerce and Tndusty, 骨骨, Statistical Tables, ed. by W

Page, (London,1919) .pp.224---225.

d1,d2 Statistical Abstract for the United Kingdom,No.32'""-'No.48.

第3図 Statistical Tables and Charts Relating to British and

Foreign Trade and Industry (1854"'1908) . (London, 1909)

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 175

干の成長率の減退をみせながらも、趨勢として明らかに上昇を続けた(第 1

図bt) 。生産物量が上昇を続けたにもかかわらず「大不況」であったのは何

故かという問題は重要である。 r大不況」を否定する論者にこの疑問を発す

る人が少くない。この問題についてはのちに述べるが、生産価額とその増減

率をとってみると明らかに停滞的であるという点に、その問題の性格が端的

に示されている O つまり、生産物の価値実現の停滞の問題がある。乙こに

は、云うまでもなく価格低下が重要な要因として介在している O

実際、 b2 の(鉱)工業生産価額指数は、 W.G.Hoffmannの方法になら

って、 Hoffmannの(鉱)工業生産指数(建設を除く)に Rousseaux の(9)

価格指数を乗じて作ったものである O むろん基礎の違う二つの指数を合成す

ることに問題はあるが、両者に採用された諸品目の大部分は共通しているの

で、趨勢は判定できるであろう o

baは、 b2の増減率を 5年移動幾何平均法 (five-yearly moving geo-

metric average)によって算出したものである D これも、 HoffmannIこなら(10)

ったものであるが、彼は10年(2主)移動を採用している D これでは、 「大

不況」の時期区分が充分にあらわれないので、 5年移動にしたものである o

このようにしてえがいた二つの指標は、かなりはっきりと「大不況」を示し

ている。

E 利潤(率)、利子率。 r大不況」期の利潤率を適確に示す統計資料は、

多少の手を加えることを前提しても、得ることが極めて困難である o しか

し、利潤(率)が目立って下っていたことは次の資料でまずとらえることが

できる O それは後節でとりあげる「商工業不況調査委員会報告書」の作製に

際し、委員会が商工会議所と同業者協会 (theCham bers of Commerce

and Trade Associations)へ出したアンケートに回答を寄せた89団体のう

ち、 41団体が純利潤または利潤率の低下を報告しており、その上昇を報告し(11)

たのは僅か3団体、あとはその点の記述がないものである。

統計は、甚だ不充分であるが、次の二つを採用した D 一つは、所得税統計

から、 ScheduleD の項ー専門職や産業からえられる全ての収益 (gains)一

(12) である。 1866年以降より鉄辺、鉱業、 Jm河等の諸産業が乙の項目 l乙加えられ

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176 経営と経済

(13) ている o h はこれの増減率である口二つは、 Hoffmann指数の付表から、

工業株価指数の1862年会社法成立以降を採用した (C2)。イギリスにおける

国内資本市場の確立以前では、利潤率の動向をかなり反映しているものと考

えられる。とれらの点に注意すれば、この両者共に、 「大不況」期の停滞を

よみとるととができる o

利子率は W.Page編集の統計より bankdiscount の平均の項をとった

のであるが (C3)、やはり「大不況」期には停滞的であり、変動巾も減少し

ている O

d 破産、失業。破産については、商務省の年々の統計 StatisticalAb-

stract for United Kingdomから、それに掲載され始めた時(1869年破産法

の成立)より、破産件数と破産負債総額(第2図 h、 d2) を図表にした。

破産件数は、破産宣告を受けた負債者の数、治算のために登録された協定の

数、債権者の和解のために登録された協定者の数そして1883年以降はその年

の破産法 (Chamberlain提出)による負債者の遺産管理のための指令の数、

などによって構成されている o 負債総額の方は、申告負{立の合計、清算にお

ける粗負債合計、和解における粗負債合計、および前述の遺産の負債合計に

よって構成されている o

「大不況」期中、 1880年中ばの 4年を除いて、 7000件を継続的に乙えてい

るo また、 1880年半ば以降、破産負債額の減少にか〉わらず件数は減少して

いなし1点は、中小資本の整理を伺わせて興味深い。

失業については、原資料の図表を第3図としてかかげたのであるが、この労

働組合の失業率は次の点に注意しておく必要がある o 1922年以前において失

業にかんする総括的な統計はなく、労働組合の失業手当の労働省への申告の(14)

ノマーセンテージが一般に失業の指標として用いられて来たのである O しか

し、 「これは失業率が労働者大衆よりもはるかに少ない組織労働者に関する

ものであって、える大な未組織労働者の失業率はより大きかったとみてよ(1日

い。」従って、 「大不況」期の失業率は、 「大不況」と呼びうるほどに大き

く、またそれが継続的であったと云えよう口

これまでみてきたように、価格、生産価額とその増減率、利ir~ (率)、利

子率、破産、失業等の1873年.......1896年における趨勢的動向は、その前後の時

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イギリスにおける「大不況J (1873年一1896年)と諸資本の対応 177

期に比して、継続的な停滞を示し、この期の不況状況の支配を確認すること

ができる。た Y、これらの諸指標は、いずれも、 1880年初めと1890年初めに

短く弱い好況の山を持つ中期循環の軌跡を示しており、この点の考察を必要

とするが、本稿では、古典的産業資本主義経済の構造的変化との関連でそれ

らの趨勢的動向に関心が集中されている。産業循環と構造的変化ー趨勢との

関係については別の機会に論じることにしたい。

(1) H. L. Beales, "The Great Depression" in Industry and Trade"

Economic History Review, V, 1934. Essays in Economic History

L ed. by. E. M. Carus-W i1son (1954) . pp. 406~415

(2) ibid. p. 408.

(3) N.D. Kondratieff, "Die langen Wellen der Konjuntur." Archiv fur

Sozialwissencshaft und Sozialpo[itk, 56, 3, 1926. SS.573~609

S. de. WoIff, "Prosperitats and Depressionsperioden" Der leben-

dige Marxismus, Festgabe zum 70 Geburtsage von Karl Kautsky.

hg. von O.Jenssen, (Jena, 1924) .S.30.

A. Spietohoff, "Krisen" Handwarterbuch der Staatswisssnschaf.

ten, 4, Au日.Bd. 6, (Jena, 1925) .S. 53. ここでは、 1874年--189Mj三

を「停滞j回目 StockungsspanneJとしている O

(4) S.B. Saul. op. cit. pp. 1O~13. p. 54.

(5) 湖巴芙己子『資本主義克民の研コピー長JDl趨勢と伯環の;ihJtU的接近一Jl (日本評論

社、 1964年)201~237瓦。

(6) S.B. Saul. op. cit. pp.13~17.pp.53~55

(7) ibid. P .14

また、 W.G.Hoffmannが、 BritishIndustry 1700--1950, translated

by W. Henderson, W.Chaloner, (New York, 1955) p. 49. にかか

げる和々の価格指数もほ Y同じ形を示している。 Hoffmannも云っている。

I J evons-Sauerbeck 指数の一般的越弥が、 Si1berlingの卸売物価指数、

Silbcrling 1: Woodおよび Bowleyの生J十時折枚、そして Rousseaux の

--i0;Z1d!i f引i3放のいずれとも相応してい乙ということは、 ì l:目 l こ ft~(する τr~柄だυ 」

ibid.p.49.

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178 経営と経済

(8) B: R. Mitchell, Abstract of British Historical Statisties, with the

collaboration of Phyllis Deane, (Cambridge, 1962).p. 466.

(9) Hoffmann は、 Silbering,Wood, Bowley の生計費指数を使っている。

op. cit. pp.48""'51.

(10) ibid. P .117.

(11) Final Report of the Royal Commission Appointed to Inquire into

the Depression of Trade and Industry. (1886) pp. 123"-'125.

(12) 所得税統計のScheduleD による利潤の計測的分析として次のものがある。

G.D. N. Worswick, D.G. Tipping, Profits in the British Economy

1909-1938. (Oxford, 1967)

(13) B.R. Mitchell, op. cit. p.430.

似) ibid. p. 57.

(1日 前川嘉一『イギリス労働組合主義の発展』改訂版(ミネルゲァ者扇、1967年)19頁。

2. I大不況」の原因にかんする諸見解

「大不況Jにかんする代表的な諸見解を、その原因についての考え方の相

違によっていくつかのタイプに分けて考察しよう。もっとも、それぞれの見

解は、豊かな内容を持ち、単純な分類を許さないに違いない。しかし、乙こ

では、それぞれの見解そのものの検討よりも、自らの基本的視角を確定する

ために、先達の桁いたいくつかの研究方向を概括的につかむことを主眼とし

ている。

諸見解がそれぞれ強調していると思われる諸原因を列挙すると次のように

なる G

① 貨幣供給量の不足による全般的価格低下。(1930年代以前の論者に多(1)

いD 最近では、「大不況」と切離してだが、 S.B.Saul)

② イギリスにおける企業家活動の停滞。(中川敬一郎、 D.H. Aldcroft, (2)

A. L. Levine,など)

③ イギリスにおける技術革新の停滞。(②の論者、および荒井政治、竹(3)

内幹敏、など)

④ ドイツ、アメリカを中心とする諸外国経済力の台以、 (C.D.H. Cole, (4)

H. L. Beales, W. G. Hoffmann、など)(5)

⑤ イギリスの輸出の減少口 (M. Dobb, A. W. Lewis、など)

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 179

⑥ イキリスからの海外投資の国内への旋回。 (W.W. Rostow, D. J. (6)

Coppock、など)

⑦ 信用恐慌の不発による過剰な固定資本の継続的残存。(伊藤誠、佐美(7)

光彦、など)

③ 生産力の高度化に伴う重工業を基軸とする産業構造への変化。(森恒(8)

夫、高橋哲雄、入江節次郎、など)

これらの中には、後節でとりあげられるものもあるが、それぞれのタイプ

を簡単に論評し、自らの視角を確定していきたい。

①の貨幣供給量の不足について、 Saulは、貨幣数量説の再評価と共に、

bank money の成長率の減退をあげているが、これは、当H寺急速に進んだ(9)

金融形態の変化(特に当座貸借j¥jlJl支の普及)を考慮していない点で、また、

貨幣数量説への疑問と共に、説得性を持ちえていないと云ってよい。

②、③、④、⑤は、イギリス経済史家の多くがとっている見解である o

②、③が、イギリス資本主義の「早期出発 earlystartJからくる不利の議論

を内包し、イギリスの特殊性にねざす国内要因から長期停滞を説こうとする

のに対し、④は、後発資本主義国ω有不Ijさを柱としており、いわばその哀返

しの形である O ⑤は、その両者を輸出の減少に結びつけるもので、同じ系列

の見方と云ってよい。それらは共に、 「大不況」の原因を、各国の特殊要因

に分解するか、各国の相対的力関係、そのものに解消してしまう傾向を持って

いる O しかしこれらのタイプは、歴史的事実を豊富に吸収する歴史家の着実

な見方を示していると云えるかもしれない D それは、われわれの性急な理論

化の志向を調認する D だが、こ〉では次のような観点を出してみたい。各国

の特殊要因の基底に、資本主義発展に内在するより普遍的な「大不況Jの原

因があるのではないか。 I大不況」は多かれ少かれ世界的現象であり、また

資本主義社会の普泌性をおびた現象としての独占資本主義への移行期と一致

するとすれば、それは資本主義社会の内在的要因からおこる普遍性をおび

た一連の現象であるという見方が出てきうるであろう O イギリス企業家

活動の作目i?や、 II行外rl?1経済力ω台頭は、より持活rrJな原因の上にr11lmねら

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180 経営と経済

れ、 「大不況」の強弱の有様を形作る原因と考えうるのではないだろうか。

⑥、⑦は、イギリスの海外投資を媒介としてイギリスを中心とする世界経

済の共通基盤が前提となっており、諸国の経済的述環のなかで原因を考えよ

うとする。 Rostowは、海外投資の国内への旋回がイギリス工業の生産力を

急速に成長させ、生産費を低下させると共に激しい競争戦をまきおこし、

鉄、石炭、繊維といった基軸産業に過度な生産力拡大を生み、価格低下を持

続させ、利潤率の長期停滞をまねく原因となったと云う。こうした彼の展開

が、 1930年代「大不況」とKeynes理論の問題性の歴史的起点を探ろうとす

る志向のあることに注意したい口しかし、いくつかの Rostow批判が指摘

するように、必ずしも「大不況」期全体にわたって国内への投資の旋回とい(10)

うパターンが支配的であったわけでなく、房長に1880年代はむしろ逆でさえあUl)

った。こうした事実問題に加えて、何故にその投資が国内産業へ向ったのか、

また国内投資の急増が何故に投資財ブームを作り出す乙ともなく、価格低下

の方向にのみ作用したのかという問題を残している D

⑦は、はるかに周到な視角を持っている D 伊藤氏は、イギリスを中軸とす

る国際金融市場の独自の発展に特に注目し、それは、周辺諸民!の恐慌がイギ

リス資本の国内旋回をうながし、イギリスの信用恐慌の発生を阻止する作用

をした点を強調する D そして、その展開が生み出した過剰な回定資本の形成

に大きな力点を置く。即ち、信用恐慌の不発によって整理されない具常な生

産資本の過剰が発生し、また、それに続く資本輸出の停滞に伴う海外雨要の

停滞によって多量の過剰生産(特に固定)資本が発生したと説く。それ以長!と

続く価格低下による利潤率の低下、苔杭力の停滞、加えて1880年代から進行

する株式会社による新設備の追加が競争を激化させ、価格低下を加mする O

こうした状況から旧固定資本の更新は進まず、不況時には遊休した形で、

「大不況」全体の圧力となっていったと説いている O イギリスを ~~ll心とする

世界資本主義の動態が、国際的金融市場の独自の把担をベースlこ、イギリス

産業構造(生産構造)の動向に関連ずけられて説かれている点に注目したい。

沫に独占形成期の歴史事実を一定の論理によって出招しようとする点他ω

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イギリスにおける「大不況J(1873年-1896年)と諸資本の対応 181

見解にみられない特色を持つと云えよう。

こ〉でさしあたり注目したい問題は過剰な生産資本の発生と存在をとらえ

る視角である O ⑦が、その発生と存在を金融機構という流通組織の動向を主

導因とし、それによって与えられる形をとっているのに対し、③は、生産力

の段階を画す新たな発展を基礎にし、これと市場動向との関係が軌をなして

いる点でより重要な視角と考える D 入江氏は端的に次のように云う。 Iそれ

は(I大不況」…藤田)、世界資本主義の生産力の新たな発達段階の到来と

いう条件の内部から規制され産業と市場との構造の世界的な再編成の過渡的(12)

な所産にほかならなかったのである o Jそして、この見方は、次のような帝

国主義論への問題提起から発せられたものであることに注目したい o Iこの

世界資本主義の生産力発達の新たな段階が、一定の世界的な産業構造の再編

成を必然化し、これに規制されて、さらに、一定の市場構造の世界的な再編

成を促進する。しかし、それは、流通過程を媒介とすることなしには現実化

しえない口この生産力発達の新たな段階一→産業構造と市場構造との再編成

を現実化していく脈管となるのが、資本輸出であると把握されるべきではな(13)

いだろうかヮ」

諸見解を原因によって分けたタイプにおいて考察してきたが、その中で、

⑦の一定の論理による状況把握のやり方と、③における新たな生産力段階の

形成を基相!とする視角の、二つのタイプが、視角lこかんする示唆を与えうる

よう{(.思われる o (これらの問題点などは後方:でふれる。)

(1) 5.B. 5aul, op. cit. pp.16'"'-'18

(2) 中川敬一郎 i19ilt紀イギリス経営史の京本間四J W社会経済史大系~ VlI (弘文堂、

1961年)151"-'174110

D. H. Aldcroft, "The Entrepreneur and the British Economy, 18

70'"'-'1914." The Econmic History Review, Vol. XVII, No.1. 1964.

pp .133'"'-'134.

A. L. Revine, Industrial Retardation in Britain, 1880 ----1914,

(London,1967) p 145, P 150.

(3) 荒井政治「イギリス『大不況期~ (1873----96)における工業の停滞Jrr経済論

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182 出 'j:?と f壬済

集~ (関西大)第15巻第 l号1965年、 43頁。

竹内幹敏 r19世紀イギリス工業の停i':l}ー研究史の批判的概観ーJ W経済と経済

学~ (東京都立大)第13号、 1963年、 63'"'-'64頁。

(4) C. D. H. Cole, British Trade and fndustry, Past and Future.,

(London,1932) p .97.

H. L. Beales, op. cit. pp. 413'"'-'414.

W. G. Hoffmann, op cit. pp.214'"'-'215.

(5) M. Dobb, op. cit. PP .300'""'309.

A. W. Lewis は、輸出減退を産業構造高度化の遅れと結びつけるのを特徴

とする。 1870年以前、イギリスの先進性による世界貿易に占める大きなシェア、

またそれが消費財生産、殊に繊維工業の圧倒的な輸出依存の形であったことに注

目し、その態勢が1870年以後の主工業に有利なー|止界市場条件のもとで遅れをとる

乙とになり、輸出停滞ー産業停滞を招いたと説く。 EconomicSurvey, 1919'"'"

1935. (London, 1949) pp. 75'""'76.喫 [nternationalCompetition in Manu-

facture." American Economic Review . xrv II ; 2 ,1951. pp. 578'""'587.

(6) W. W .Rostow, British Economy of the Nineteenth Century,(Oxford,

1948.) pp. 58---89.

D. J. Coppock, "Climacteric of 1890s. : a critical note." Manchester

とと斗 xx町, 1956. pp.1----31.

(7)伊藤誠 rw大不況』ーイギリスを中心とするJW帝国主義研究』鈴木鴻一郎編

前掲書、 1-----81頁。

f七美光彦「金融資本の形成とイギリス資本市場J向上、 159-----200頁。

(8) 森恒夫「大不況以後のイギリス資本主義JW帝国主義論下』遠藤湘吉編(東大出

版会、 1965年)173-208頁。

入江節次郎『独占資本イギリスへの道~ (ミネ Jレヴァ書房、 1962年)第2章。

および、 「重工業資本主義と資本輸出一世界資本主義の第E段階 (1870年-----1914

年〉ーJr世界資本主義の歴史構造』河野健二、飯沼二郎編(岩波書居、 1970年〉

162-168頁。

(9) 西村閑也「ロンドン割引市場における手形の供給と利子率1855年----1914年 (4、

完)J W金融経済JJ121、1970年、 43'"'-'44頁、 70頁。および、三輪悌三「イギリ

スの貨幣、金融制度の史的考察JE ・ヤッフェ『イギリスの銀行制度』三輪訳に

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183 (1873年一1896年〕と諸資本の対応イギリス!とおける「大不況」

収録。 58頁。

cit. . PP .19""21. S. B. Saul, op 。日

1873""1896 a A. E. M usson, ttThe Great Depression in Britain, )

4EEA

t-A (

1959. VoI. XIX. Reappraisa1. "T~Journal Qf E_cQ!lomic_ History,

この論文には詳しい紹介がある。南克己 r1873----96年のイギリス

における『大不況~ J 1、2 W商経法論叢~ (神奈川大)XIー 2、3。

入江節次郎「重工業資本主義と資本論出一世界資本主義の第E段階 (1870年----19

pp. 215""216.

(12)

14年)ー」、前掲書、 168頁。

入江節次郎、向上、 168頁。(13)

「大不況Jの原因

以上のような諸説の検討をふまえ、私の原因についての見方を述べよう D

まず、 1870年代以降、主要資本主義国共通の傾向として、イギリスにおい

ても重工業を基軸とする産業構造へ推移していった点に注目しよう o

3.

しばし

ば用いられている Hoffmannの付加価値ウエイトによる産業構造の変化で

は、第 1表にみられるように、 1880年代末頃に生産財産業と消費財産業のウ

エイトはクロスし、前者が大きくなる Dこのウエイトは固定資産等が算入され

ていない、いわゆる flowbasisである点を考慮すれば、重工業部門のウェ

ィトはそこに示された以上の可能性がある o とは云え、他の主要諸国に比し

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184 経常と経済

て rlr大不況』の影響下の産業構造の転換のおくれ」がみられ、 「資本財生

産発展の起動的ダイナミズムを失った鉱工業生産全体の伸び率は、悶際的に(1)

低位」にとどまったことも確かであろう D しかし、そのような「おくれJ

「低位」の基底に、新たな生産力の発展段階の形成過程一軍工業における大

量生産方式の形成-産業構造の重工業基軸化過程の進行があり、 「大不況」

は、イギリスにおいても新たな生産力段階の形成に起因する、或はその重圧

に起因する現象であったと考えられる口

この新たな生産力段階の形成を基礎に考案を進める場合、それに特有の次

のような問題があることに注なしなければならない O 一つは、恐慌論におい

て、好況期における生産手段部門の起動的ダイナミズムと同時に、その部門(2)

の恐慌期、不況期における打撃の度合の激しさが論じられているが、 「大不

況」は後者に表現されている重工業部門のより大きい度合の主圧に関迎し、

宝工業化過程下のill工業部門における起動力の難行或は離陸の難行に起因す

るものではないか、という問題である。二つは、主工業部門それ自体に合む

矛盾累積の圧力に加え、 1870年以前既に「世界の工場」として、「工場制度の(3)

超大で飛躍的な拡大可能性とその世界市場への依存性」を実現していたイギ

リス産業が、 1870年以降、さらに新たな生産力の発展を加え、一層内外の市

場問題を深刻なものにして行ったという点である口三つは、以上の一連の問

題は、イギリスばかりでなく、主要資本主義諸国にも同じようにあらわれ、

さらに次のことによって加速されていったという乙と。即ち、主工業は、そ

れらの諸国の軍備拡大競争を支え、 「国内市場および杭民地市場拡大のため

の交通、運輸手段、鉱業採掘設備を供給する産業としても、その発展がもと(4)

められた」のである口つまり世界的競争戦場裡での帝国主義の力を支える

基軸産業とならざるをえなかったという点である D

イギリスにおける新しい生産力の形成を担った新しい産業技術の発達は、(5)

いわゆる「第 2次産業革命Jの到来といえるほどのものではなかったかもし

れない。多くの史家が指摘するように、 「イギリスの産業優越の長い時期に

発達してきた諸工程と諸産業の複雑な分業 (the complex division of

labour)のために、このタイプの変化(新たな時代の商品が要請する新たな

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 185

産業技術改良の波及…藤田)が19世紀後期に進むのは極めて困難であっ(6) (7) た。」従って、イギリスのそれは収silentrevolution"といったものであっ

たかもしれない。しかし、相対的に緩慢な形であったとはいえ、 「大不況」

期に新たな生産力段階の形成と云えないほどの「低位」であったのかどうか

が問題である D

具体的様相を、重工業の代表としての鉄鋼業について簡単にみよう。高橋哲

雄氏の画期的労作が周到な検証で析出するように、イギリス独占形成期のこ

の産業の生産構造の特色は、最も生産力効果の大きい大量生産方式ー銑銅ー(8)

貫経営が普及せず、酸性平炉型ー多積迎応性を持つ中小型製鋼であった。従

って、その生産力水準はドイツ、アメリカに比して「低位」であった。とは

いえ、この特色は、第2表に示されているように、 1890年代以降支配的にな

っていったものであり、高橋氏も指摘するように、これに先立つ銅による錬

鉄のドラスチックな駆逐過程があったことは周知のことである o 国際的比較

において漸進的であったにしろ、イギリスも錬鉄から溶鋼へといういわゆる

「製鋼草命」の波の中にあり、その波の中で先きの特色も形成されていった

点は、 「大不況」分析においては充分配慮されねばならない。

「製鋼草命」の初期、ベッセマ一法のn!j代に、既にパドノレ訟に比して、品(9)

質、生産性共に四期的な上昇を示したことは云うまでもない。乙の時のパド

jレ法煉鉄とベッセッマー鋼の激烈な超過利潤追求(コスト切下げ)、市場獲

得のための価格引下げという競争戦乙そ、 「大不況」への導入を象徴的に物

語るものである。 r圧迫は、鉄鋼産業における異常な国内競争、銅と鍛鉄の

問の、そして、乙の結果として鍛鉄生産者自身の聞の異常な競争によってあ

からさまになった。乙の国内競争は、通常の不況ではないと一般にみなされ

た、あの長い圧迫の継続に対し、ある点でその理由を与えるものであっum un たo Jそして、 1870年末の不況の最も思い時期にも続いた生産力の拡大は、

一層それに拍車をかけたと思われる D さらに、圧延部門においても、確かに

アメリカに劣っていたとはいえ、ミノレの導入と改良はこれを加速したと考えU2)

られる。熔鉱炉の生産性が飛躍的に高まるのも、第3表のごとく、 1880年前

後であり、同じ頃、レーjレ生産において鋼が鉄を追い越し、パド jレ法企業

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186 経営と経済

(13) はベッセマー企業に圧倒され、多くのパドノレ、法企業が倒産するc

第 2 表 鉄鋼生産の製法別割合

(steel ingotsと castings)

(100%) 酸性炉 l転 炉 … ー )

塩基性 酸性 塩基性

1,000トン| 〆。Qノ il 96 1871 329 100

1873 573 13.4 86.6

1875 708 12.4 87.6

1877 887 15.4 84.6

1879 1,009 17.3 82.7 1881 1,778 19.0 81.0

1883 2,008 22.7 77.3 1885 1,887 30.9 69.1 1887 3,044 32.2 67.8 1889 3,571 38.0 2.1 48.1 11.8 1891 3,157 44.8 3.2 41.4 10.6 1893 2,950 46.7 2.7 41. 7 8.9 1895 3,260 48.0 4.8 33.6 13.6 1897 4,486 53.3 4.7 30.6 11.4 1899 4,855 56.3 6.2 26.9 10.6 1901 4,904 60.1 7.1 22.8 10.0 1903 5,034 51.9 10.2 26.2 11. 7 1905 5,812 52.4 13.7 24.0 9.9 1907 6,523 51.9 19.6 19.6 8.9 1909 5,882 47.0 23.5 18.9 10.6 1911 6,462 48.5 28.9 13.7 8.9 1913 7,664 49.7 29.4 13.7 7.2 1914 7,835 47.0 36.7 10.2 6.1

B. R. MitcheII, op. cit. pp. 136---137より作成。

その後、鉄道市場に主として向っていたベッセマー鋼は、鉄道市場の鈍化

と共に、 1880年後半より徐々に産出が低下し始め、造船市場に主として向っ

ていた酸性平炉鋼は、造船の好調の故に、また機械や半完成品の需要拡大の

第 3 表熔 鉱 炉 の 生 産 性

(炉当りj担当り平均生産量、単位トン)

1880

263

1884

261

Second Report of the Royal Commission on Depression of

Trade and Industry. p. 320より。

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 187

(1司故に、生産をのばし始める D 多くの掠鉄業からの漸進的転換を合みつ〉酸性

平炉鋼は「大不況」後期以後の鉄鋼業の支配的形態になっていった。ここで

もやはり、酸性平炉鋼が中小企業型とは云え、その新しい生産力の拡大の度~ (1日

合は極めて著しいものであった点、およびベッセマー法との角逐による重圧

に注意しなければならない。このタイプが拡っていくなかに、株式会社形態

での大規模メーカーが、新しい生産力形態への転換をはかりつ〉徐々に登場(1司

してきたことは、一層競争戦を激化させ、鉄鋼業全体に困難を加重していっ

たと思われる D

イギリス鉄鋼業における酸性平炉法は、多様な機械製造への対応性を持つ

という特色を持ち、その点でイギリス機械工業も新たな時期を迎えていった。

機械製造発展の技術的基礎である規格化 (standardization)と互換性

(in terchangea bili ty)の拡がりと、居の厚い熟練労働者を支えとして、

「繊維機械、蒸気機関、縫製機械などは、経済的にも技術的にも非常な発展

をとげた。良業機械、機関車、さらに問題の多い工作機械などは成功の度合(1日

がいろいろあったが、それは多少とも市場の性質によって左右された。」そ

して、注意を要することは、上記の諸産業において大量生産方式ではアメリ

カに及ばなかったが、庖の厚い熟練労働者を必要とする造船や丞機械工業で(19)

は、 1900年まではイギリスが発展の先端を切っていたということである O ま

た、農業や繊維などにみられるように、機械工業の発展は消費財産業の生産

力の発展の基礎であったことにも注志しておかねばならない。

イギリスの新しい生産力段階の形成過程を、その基礎をなす鉄鋼業を中心

に概観した D しかし、生産力の飛躍的発展と競争の激化を強調するのみで

「大不況Jを説明できないことはいうまでもない。次の問題は内外市湯の動

向である。

まず、海外市場をみると、第4図l乙示されているように、趨勢は横ばいを

示しているo そ乙から輸出停滞とイギリス経済の停滞を短絡する見解も出て

くる。海外市場の停滞を「大不況」の原因として過大評価することはできな間)

いが、 「確実な増大傾向」と云うのはやはり事態の方向を見誤るように思わ

れるo このような主張の殆んどが物量指標でものを云い、第4図における18

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188 経営と経済

第 4 表生産物の輸出額推移

百万ポンド

450

400

350

300

250

200

150

100

50

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一一総輸出額 ・…・・製造品輸出額

1

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戸d-v " -1

ぷ向、: /ー「ノ, ¥〉 、",If'"、、、/次:デ:v 、・・、-' .' 、,

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1854 1860 1865 1870 1875 1880 1885 1890 1895 1900 1905

450

400

350

300

250

200

150

100

50

Statistical Tables and Charts Relating to British and Foreign

Trade and [ndustry (1854----1908) , (London, 1909) .

80年代半ばと1890年の二つの山の部分の数字をあげ、イギリスの競争力がな

お健在であったことを主張するロしかし、「大不況」分析にとっては、「それは

輸出数i量の増加を追いこす価格の大巾な引き下げによって達成できたもの」(21)

であり、 「このような価格曲線は利潤率の低下をもたらした」ことの方がよ

り重要な観点と云わざるをえない。 1890年のピークにイギリス工業輸出は、

全世界の35.8労を示め、 1883年のピークからの低下は1.396にすぎなかった

が、谷の部分を考慮すれば趨勢として少くとも横ばい状態であった乙とは否

めない。

ここで、「大不況」期の資本輸出の商品輸出への影響に若干ふれておこう。

資本輸出動向の概観は、 r [f大不況」の全期間をとれば、それに先立つ時期(羽

よりかなり高いレベノレにあり」、 r70年代前半の大きな伸びと後半の縮少、(231

80年代の拡大、 90年代および今世紀初頭の沈滞」であった。資本輸出が19世

紀半ばより商品輸出を促進せしめてきたことは周知のことであるが、その反

面で、後進諸国の資本主義の発展を加速させることによって、また、安い食

糧輸入増大が国内農業の不況を深めることによって、そして、国内産業の資

本蓄積を加速しないことによって(いわゆるレントナー化)、それと逆の作

用をしたこともあったのである o 従って、この却]の資本輸出は、必ずしも商

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 189

品輸出を拡大し、 「大不況」を弱める作用のみをもたらしたわけではなく、

むしろ、資本輸出の累積はその運動態様を変化させ、諸国の重工業の基軸産

業化に伴う世界資本主義の新たな段階において、新たな機能を持っていった仰

のである o 但し、イギリスの新、旧植民地に対する資本輸出は商品輸出の増(2日

大lこ大きく寄与し、 「大不況」末期よりその脱出の一つの足場を準備さえし

たのであった。

ところで、海外市場が好調とは云えなかったからといって、先にもふれた

ように、それを直ちに「大不況」の原因に短絡することはできないであろ

うo 国内市場がそれを補ったかもしれないのであり、また、 1873年恐慌の場

合のように、その前のブームの輸出激増による価格騰貴から設備投資を手控

えさせられていた繊維部門やそれに類する部門が、輸出激減による価格の急(261

落によって投資を展開し始めるような事態がありうるからでるo

そこで、国内市場の状況を考察しなければならない。実質賃金はかなり上

昇し、国民所得の分配は賃金取得者に有利に勤き、食物、ビーノレ、タバコなど

の消費者 l人当りの消費は上昇したが、同時に、農業を含む主要生産業で、(27)

個人所得、貨幣賃金の低下と失業の増大が進行し、最終消費の面からの市場

拡大は、目立ったものとはならなかった。

重工業の基軸産業化の過程での市場問題の中心は、生産財市場であり、こ

れはまた同時に、 「資本財生産発展の起動力のダイナミズム」の問題に外な

らない。この問題の困難は、既に述べたような新しい生産力の形成の進行が

あったにもかかわらず、それと相関的である筈の重工業ブームを起動させる

ダイナミズムがあらわれなかったことを説明しなければならない点にある。

私はほ Y次のように考えている口

海外市場の飛躍的な拡大が制約されている条件のもとで、新しい生産力の

形成過程において、それと旧い生産力との聞に激しい競争戦が展開され、価格

低下一利潤率低下をひきおこし、さらにそれは競争戦を一回アキュートな形

lこしていくであろう。この過程が、資本の蓄積力を低下させていくことは云

うまでもな ~'o むろん、新しい生産力への転換に伴う更新投資が生産財市場

を拡大し、相互に投資を誘発していく皮肉が全くなかったわけではない。第

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190 経営と経済

5図lとみられるように、投資は趨勢としてほ三横ばい状態であり、必ずしも

目立った低下を続けたわけではない。しかし、重工業の基軸産業化が進行し

ながら、生産財部門の目立った継続的好調はみられなかった。それは何故

か。一般的に云って、恐慌とそれに続く不況からの脱出は、底入れ期の消賀

水準に規定された単純再生産の産業構成での更新投資(主として消費財部門

での始動-消費財部門の更新投資)から始まり、好況は、 「一つの社会的規邸)

模」において生ずる「一大新投資」によって起動せしめられる o しかし、重

工業の基軸産業化の過程では、そのような起動に、いくつかの困難な要因が

百万ポンド500

300

100

1870

第 5 図 投資の推移

(設備+建設)

1880 1890 1900 1910

J. Tinbergen, Business Cycles in the United Kingdom

1870'"'-'1914. (Amsterdam, 1951) Appendix. Table Ic. 12

ある o その要因とは次のようなものである。 (1)、重工業のー基軸産業化の過程

と共に進行する「体制的利潤率」の傾向的低下のもとで、その現実過程たる凶 (301

「循環的利潤率」の低下は、重工業部門でより激しく、継続的である D

(2)、それは、既述の新しい生産力の形成ー飛躍的生産性の向上および新、

旧の激しい競争戦でー居加主される。 (3)、新しい生産力段階の形成過程で

は、その革新が述続性を持っていたため、いわゆる「道徳的摩損 morali-(31)

scher Verschleiβ」が継続的に生じ、コスト上昇を加速する o (4)、いまだ、

新たな資本蓄積様式(株式会社形態)の普及をみない場-合、新投資の多132)

くは「留保利潤 undistributedprofitJによってなされねばならない O

(5)、以上のような過程は、当然資本家階級と労働者階級との闘争を激化さ(3d)

せるが、それは労働運動の本格的展開をひきおこす口 (6)、京工業の基軸ilF.

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 191

業化の進行に伴って、諸資本における、新しい生産力導入のための生産資本(34)

投資額の最低必要量が継続的に大きくなっていく D

(3日(1)、(2)、(3)、(4)、(5)は、資本の蓄積力の制約をものがたるものであるが、その制

約された資本蓄積力と(6)の生産資本投資必要額との聞の新投資の障害となる

ギ、ヤツプこそ、 「一つの社会的規模」で「一大新投資」が展開せず、新しい

生産力形成のための投資が漸進的、断続的にならざるをえない原因と云える

ので、はなかろうか。今や対外競争を含む競争戦は、この新投資障害のギャッ

プの束縛を脱する新しい方策を獲得するまで上述の過程を継起的にくりかえ

させる q このような一連の過程は、重工業の基軸産業化の過程で必然的に生

起する、この過程特有の、かつ全産業を規制する基底的な過程であり、資本

主義発展に内在する衰退の過程といってよい口 「大不況」はこのような重工

業の基軸産業化の過程に伴う困難一一ー生産財部門のダイナミズムの喪失とそ

の過程特有の利潤率の継続的低下一ーに起因すものとして理解すべきではな

かろうか。

もっとも、先きにふれたように、更新投資の展開が、若干の市場を作り困

難を軽減するであろうが、市場拡大の動因をなす投資の漸進性は、誘発投資

を波及していく力を持たないであろう。また、資本と生産の集積、集中が進

行するであろうが、先きにのべた新投資障害のギャップ-投資の漸進性は、

容易に上位資本の独走をゆるさないであろう。イギリスのように、各個別企

業が長い間築いてきた強固な流通組織を持つところでは尚更である o 従っ

て、基軸産業資本が独占資本としての地歩を確保するまでには、 「大不況」

という長い苦闘の過程を経なければならなかったのである O

「大不況」の現実、殊にその後期過程は、こうした基底における衰退の過

112からの脱出の諸条件の形成と諸資本の対応をも含んでいた。これは同時に

独占資本の社会構造の形成過程であり、それを支え助成する諸条件の形成で

もあった。それらの動向には次の二つのタイプがあると思われる D 一つは、(3日

過剰な貨幣資本(この期以前のものと区別されるべきである)が、国内的経

済機構を介して、先述の新投資障害のギャップを蓄積様式の変化において

埋める方向へ動くか、或は、国際的機椛を介して海外投資に向い、それを

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192 経営と経済

通して市場回復がはかられ、このギャップが埋められる条件が作られていく

ような場合。これらは、先述の資本主義発展に内在する衰退過程で生起した

諸要因が、一定の機構のもとで、不況対応的に展開したという点で、内生的な

「大不況」脱出の条件の形成と諸資本の対応の問題と云えるだろう o 代表

的な例は、株式会社であるが、その他には、伝統的な流通組織(のれん)や鉄(37)

鋼業における分業的協調的市場行動などの、市場的対応も乙の部類l乙入るだ

ろう O 二つは、関税政策や植民地政策などの、より積極的な対応策である。

これは、諸資本がある程度の困難の認識の上に立って、目的意識的に対策を

展開していったという点で、意図的な「大不況」脱出の諸条件の形成と諸資

本の対応の問題と云いうるだろう D 複雑な構造を持つ一諸資本の対応の全てを

二つに分割できるものではなく、 tradeassociationのように、この両方の

性質を持って登場したものも少くない O

これらの「大不況」脱出の諸条件の形成と諸資本の対応の様々なあらわれ

方、および「大不況」分析の提起する理論的諸問題など、さらに次辛以下で

考察していくことにしたい。

(1) 高橋哲雄、前掲書、 67頁。

(2) 富塚良三『恐慌論研究~ (未来社、 1962年)208瓦。

(3) K.Marx, Das Kapital, Bd. I. (Dietz,) S. 476. rマルクス・エンゲルス全

~tu 23a、岡崎次郎訳、 592頁。機械制大工業の昨立と展開の志I床については、 I~;J

木辛二郎『恐慌論体系序説~ (大月書目、 1956年)116"-' 128JI。

(4) 入江節次郎『帝国主義論序説.n (ミネノレヴァ苫民、 1967年)187J-{。

(5) 星野芳郎『技術革新の根本問題』郊2版(勤平:jij:民、 1969年)18~33以。

(6) H. J. Habakkuk, American & British Technology in the 19th

Century. (Cambridge,1962) p.218.

(7) A. Birch, The Economic History of the British lron & Stccl

Industry 1784"-'1879, (London, 1967) .p.356.

(8) 高橋哲雄、前掲書、 49~50頁。

(9) A. Birchは、 Dowlaisの例を引きつ L述べてl、る。 1それらの技術的諸問題

(ベッセマ-iよーによる鋼生産についてのー・必[11)は、やがて仰決された。従って

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イギリズにおける「大不況J (1873年一1896年)と諸資本の対応 193

諸コストは継続的に引き下げられていった。だが続いて、以下にみるように、

Dawlais経営者の直面した問題は、生産物の販売についての抵抗を克服する商

業上の問題であった。 1866'"'-'7年に産出高で 4倍の生産力に達し、そこには販売

の増大によってこそ開かれる豊かな潜在能力が存在していたのである。 J

op. cit. p.359.

UO) D. Burn, The Economic History of Steelmaking 1867 '"'-' 1939,

(Cambridge, 1961) .p.33.

錬鉄とベッセーマー鋼のコスト引下げ競争については、 A.Birch, op. cit.

pp. 353'"'-'363.

(11) D.Burn, op. cit.p.29.

(12) 1""そこには(ハンマーに代るローノレの導入…藤田)、品質の悪化が生じたと思う

人々の反対があったが、しかしその導入は進行した。 Brown,Bayley, Dixon

が Sheffieldに持ち込み、 JohnBrownは1874年の価格低下によって、導入

にかりたてられた。 JD.Burn,op. cit. p56.

(13) A.Birch, op cit. PP.355"-'357.P.363.

(14) ]. C. Carr, W Taplin, History of the British Steel Industry,

(Harvard U.P.1962) p.127.

日目 「熔鉱炉1基当りの産出高は熔鉱炉の;規模の増大と技術の改良と共に増大してい

った。平均値は活動の不規則性をかくしてしまうが、 1880年に比べて 1890年は

(両方とも高い生産の年)イギリスにおける 11!;当平均産出高は、 3,114トンか

ら5,964トンへ上昇した。近代的熔鉱炉の一大部分を展開している the North

East Coastで、その平均は、 7,500トンに述した。 Jibid.p.127.

U日 A.Birch,op. cit. p.377.

(17) fち美光彦、前掲書、 181"-'188頁。

産業株式会社の漸進的普及については、森恒夫、前掲書、 188,.....194頁。

(1日 S.B.Saul."The Market and the Developmcnt of the Mechanical

Engineering Industries in Britain .1860,-...., 1914." .Ihe Economic HistorJ;::

Review . Vo1. XX, N,札1.1967. p .128.

(19) ibid. p.122.

(抑 花美光彦、前f白書、 167頁。l'と美氏はこの点を強調する;む味の註で、 S.B.Saul,

Studies in British Overseas Trade; 1870"" 1914, p .18.をあげておられ

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194 経営と経済

るが、 Saulはそこでは物量で論じていること、また、指示された統計付表も物

量単位であることに注意したい。

白1) エリ・ア・メンデリソン『恐慌の理論と歴史.!J3、飯田、平館、山本、平田訳、

(青木書居、 1960年)280頁。

ωA.E. Musson,op. cit. p.216.

仰 山田秀雄『イギリス植民地経済史研究.!J (岩波書底、 1971年) 1頁。

凶)入江節次郎、前掲書、 149.........220頁。

(25) 向上、 211頁。

(26) エリ・ア・メンデリソン、前掲書、 112頁。

位7) A.E. Musson, op. cit. pp.200.........202.

(28) この点についてはなお理論的に充分検討を要するが、とりあえず、富塚良三、前

掲書、 213"'-'214頁の指摘、および次の展開を参考としたい。 r既存固定設備の廃

棄と新鋭機械設備の設置を内容とする更新が、主要生産諸部門においてーの社会

的規模において生ずるならば、それは、労働手段生産諸部門とその関連産業諸部

門の生産に新たな活気をよび、起し、これらの部門における生産の回復、増加にと

もなう雇用増大につれて、消賀需要も次第に回復し、消費財部門とその原材料部

門も徐々に活気を呈してくる。いまや、追加資本の投下が、延期されていた固定

資本更新と合体して新鋭機械設備をもってお乙なわれ、かくして、 w(生産技術の

草新をともなう〉一大新投資Jの発足(W資本論』第2巻、 180頁〉となり、

それと同時に循環局面は好況局面へと転換する。ひとたび起動せしめられた投

資は、有効需要の増大を通じてやがて漸次に市場価格と市場利潤率とを回復・上

昇せしめ、それによってなおいっそう投資が誘発されてゆくこととなるのであ

る。」前掲書、 182頁。

(2日高木幸二郎、前掲書、 338頁。

仰向上、 355頁。富塚良三、前掲書、 208頁0

(31) K.Marx.a.a.O.Bd. n .S.180.

(32) A. K. Cairncross; Home and Foreign lnvestment. 1870-----1913,

(Cambridge, I953) .p.98.

(33) r w大不況』期は、イギリス資本主義にとって極めて苦悩に充ちたものではあっ

たが、その苦悩をもっとも現実生活にうけとめたのは、労働者であり、さらに労

働者のなかでも他ならぬ不熟練労働者、いわゆる労倒者下回のものであった。」

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イギリスにおける「大不況J(1873年一1896年)と諸資本の対応 195

「不熟練労働者lとみられた貧困の蓄積、その貧困からの彼らの自己防衛、乙 ~IC

新組合主義が運動として生れてきた。」前川嘉一、前掲書、 12頁、 20頁。また、

栗田健『イギリス労働組合史論Jl (未来社、 1963年)67頁。

(34) 例えば、 「ベッセマー法は、出発のときから、転炉に熔銑を装入し、叩き、送風

し、取出すため、その一連の非常に手の込んだ、費用のかかる機械設備を必要と

した。従って、産出が多くなければ、資本コストは極めて大きなものとなっ

fこ。 JD.Burn, p.238.

出 rDouglas は次のように云っている。『資本の増加していく率が継続的に下

っていった 0 ・H ・H ・..資本の増加は、 1865年から1875年までに50%近くにも上昇し

たのに対し、或は、年率4.8必以上は間違いなくあったのに対し、次の10年は、

この半分の率にすぎなかった。 1885年から1895年まで(16年間の〉成長率は1596

!と低下した。JlJ A.E. Musson, pp21OC"'-'211.

(3日 「大不況Jj自には、過剰資本が、商品資本の過剰、生産資本の過剰、貨幣資本の

過剰、という三形態において、同時に、かつ継続的に発生する点は注意されねば

ならない。過剰資本の三形態についての示唆的な論稿としては、有国辰男「過剰

資本の諸形態と中小資本一中小企業の過当競争に関連してーJr経営と経済』第

49号第1冊、 1969年、 147---164頁。

。7) 高橋哲雄、前掲書、 71頁。

(未完〕