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朝河貫一博士に何を学ぶか 甚野尚志(早稲田大学)

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  • 朝河貫一博士に何を学ぶか

    甚野尚志(早稲田大学)

  • 1.「正澄なくして、貫一なし」幼年・少年時代の早期教育

    正澄は立子山の教育水準を向上させる。校訓の作成。

    正澄は貫一に儒学の基本を教育。二本松少年隊の悲劇,儒学者の

    安積艮斎の業績を教える。

    川俣の高等小学校に転校。二里半の山路を通学。冬は下宿。

    福島市の尋常中学にも1年間、歩いて通う。

    ⇒「知・徳・体」のバランスある教育。立子山で「負けじ魂」を身に付ける。現代の教育でも学ぶ所がある。

    写真(上) 小学校の校長室にある正澄と貫一の写真

    写真(下) 正澄の校訓

  • 2.「西洋文明」への開眼-福島県尋常中学校時代

    1888年(明治21年),福島県尋常中学校(福島市)に入学。

    1889年(明治22年),同中学校が安積郡桑野村(郡山市)

    に移転(安積高校へ)。

    イギリス人ハリファックスから英語を学ぶ。

    「辞書喰い」のあだ名。

    1892年(明治25年),同中学校を首席卒業。

    英語での答辞。

    ⇒朝河の生涯を貫く「両洋への眼」、「東西文明の比較の視点」は、尋常中学の時代に形成された。明治時代の郡山の文化的役割を再認識する必要がある。

  • 3. 一生の恩師との出会い-ダートマスからイェールへ

    ダートマス大学学長ウィリアム・J・タッカーによる学費,

    寄宿舎費の免除の約束。1896年,ダートマス大学に入る。

    イェール大学大学院へ進学し、ジョージ・バートン・アダムズ教授(西洋中世史)と出会う。比較法制史研究を目指す。

    タッカーとアダムズとの出会いがなければ、朝河はイェールの歴史学教授にはなっていない。

    ⇒偉大な学者には必ず、素晴らしい恩師との出会いがある。

    写真(上) ダートマス大学時代、朝河は「サムライ」のあだ名で呼ばれていた(イェール大学スターリング記念図書館蔵)

    写真(下) ダートマス大学卒業時の写真(福島県立図書館蔵)

  • 4.『日本の禍機』(実業之日本社,1909年刊)の出版の意義

    ▹日露戦争後の日本社会の変化を憂慮。

    ▹日露戦争前,日本は二大原則(清国の主権,

    機会均等)を掲げロシアと戦ったが,日露

    戦争後,日本はそれに反した行為を行い,

    国際社会から孤立している。日本は「新

    外交」の理念に立ち返るべき。

    ▹中国やアメリカと戦争になれば世界で

    孤立する。

    ⇒自分の信念に基づき、正しいことを主張できる強い精神。

  • 5. 妻ミリアムの死とアメリカ人女性たちとの恋愛

    1913年2月,妻ミリアムの突然の死。

    1915年2月,ダイアナ・ワッツ(柔術家,体操理論家)と彼女の体操教室で出会う。

    1915年6月から9月,ヨーロッパ調査旅行へ。

    夏の一か月間,ダイアナのカプリ島の別荘に滞在。

    1918年,日本帰国時にベラ・アーウィン(日本の幼児教育に献身)と出会う。交際の後,別離。

    ⇒朝河はアメリカ人の女性たちと「精神性の高い恋愛」をした。また男女の別なく、たくさんのアメリカ人の友人がいた。国際人・朝河の人間的魅力。

    写真 1915年の夏,カプリ島にて。(イェール大学スターリング記念図書館蔵)

  • 6.グレッチェン・ウォレンとの文通

    グレッチェン・ウォレン(Gretchen Warren)は,女優,歌手,詩人で,朝河とは1915年に知り合う。以後,生涯にわたる文通相手。

    ⇒サムライ・朝河の愛の理想ー「騎士道的恋愛」

    写真は, アメリカの画家ジョン・シンガー・サージェントの作品「フィスケ・ウォレン夫人と彼女の娘レイチェル(Mrs.

    Fiske Warren (Gretchen Osgood) and Her Daughter Rachel)」(ボストン美術館蔵)

  • 7.『入来文書』(The Documents of Iriki)の刊行

    ▹1917年,第二回目の帰朝。日本古典籍収集と日本中世史研究のため,東大史料編纂所に留学。

    ▹1919年,「入来文書」に着目。これを日欧封建制比較の素材として選び,6月,鹿児島県薩摩郡入来村に滞在し現本調査。9月,米国に帰る。

    ▹1923年より,中世ヨーロッパ封建制の授業を担当。

    ▹1929年,The Documents of Irikiをイェール大学出版会より出版。

    ⇒朝河の比較封建制研究の独創性。ヨーロッパ中世史家の視点で、

    日本の中世社会の特質を解明した。日欧の比較制度史という新しい

    学問分野を英語圏で打ち立てた。彼が日本語では論文をほとんど書

    かず、主な研究を英語でのみ書いたことには理由がある。

    朝河が欧米の歴史学の概念を巧みに用いたため、当時の日本史の研

    究者には理解不能であった。

  • 8.朝河博士の生涯にわたる精進-規則正しい勉学の意義

    日課(1925年2月頃の日記)

    ▹月曜の欄

    7時30分-8時⇒欧

    8時-8時30分⇒朝食

    8時30分から9時⇒雑多

    9時から11時⇒writing at library

    11時から12時⇒class

    12時から13時⇒休憩

    13時から16時⇒class

    16時から19時⇒休憩

    19時から21時⇒notes

    21時から22時⇒欧法書

    ▹月曜から土曜にまで日々10時間の仕事

    ▹日曜は9時朝食。手紙と雑読の日

  • ⇒朝河は東西の人文学の知識を深く理解した「知の巨人」。ルネサンス期のヒューマニスト(人文主義者)にも似た、人間や社会に関わる問題を総合的に論じた「万能人」。

    写真(左上) スターリング記念図書館の三階。朝河の研究室だった場所。写真(左下) セイブルック・カレッジ内にある朝河貫一記念ガーデン。

    9. 朝河博士の業績

    (1)Historian(歴史家)日本の封建制の研究,日欧比較封建制論の研究で,歴史家として欧米の世界で高く評価。マルク・ブロックなどの評価。

    (2)Curator(東アジア図書部長)イェール大学で日本・中国関係の図書の収集作業を行う。とくに日本研究の基礎資料を集めた。

    (3)Peace Advocate(平和の提唱者)日本やアメリカの知識人に多くの書簡を送り,日本の国際的な孤立に警鐘を鳴らし続け,日米開戦を「天皇宛大統領親書」で阻止しようとした。

  • おわりに-朝河博士の業績から学ぶもの

    (1)朝河は日本の歴史を世界史の中に位置づけ、それを英文で欧米の世界に提示した。とくに

    日欧の封建制の類似性と差異性を的確に分析し、日欧比較制度史という独創的な学問分野を打

    ち立てた。⇒タコツボ化した日本の歴史学への警鐘。

    (2)朝河は日本の大陸侵略を一貫して批判し、軍国主義化する日本政府の対米開戦への道を批判

    し続けた。⇒国際政治のリアリズムを理解しつつ、平和の理想を追求した姿勢を学ぶべき。

    (3)朝河は書簡の中で、戦争の回避や平和実現のためには何より諸国の国民性や習俗を歴史的に

    理解する必要があると説いた。⇒現在の国際紛争やテロ問題も、異宗教・異文化を深く理解し

    ようとする精神があれば解決できるのではないか。

    4)朝河は民主主義の維持のために、何よりも個人の義務感・責任感が重要と述べた。とくに

    日本人の「無私の反省」と「無争の迎合」の体質を批判した。

    ⇒福島の原発問題は、まさに日本人の「無争の迎合」の体質から起こった問題とはいえないか。

    写真(左)イェール大学スターリング記念図書館蔵