o°mw -h 8ibu)bqqfofeupuif#pzt(pjoh)pnf

20
65 もう一つの戦後計画 ──米陸海軍の動員解除を中心に── What Happened to the Boys Going Home?: Planning for the Postwar Japan and Demobilization of the Occupation Forces コンペル・ラドミール Abstract The generally perceived success of reforms by the U.S. General Headquarters during the period of the occupation of Japan has stimulated a number of studies in policy planning which draw on the Japanese experience. This article argues that such studies have tended to focus on political developments and emphasize the role of the State Department over other agencies in postwar planning. On the other hand, military planning related to the actual execution of the occupation, including the demobilization of the occupation forces, has received much less attention. Unexpected turns in military developments pose a question about the success of planning, usually attributed to the occupation of Japan. 論 

Upload: others

Post on 14-May-2022

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

65

もう一つの戦後計画──米陸海軍の動員解除を中心に──

What Happened to the Boys Going Home?: Planning for the Postwar Japan and Demobilization

of the Occupation Forces

コンペル・ラドミール

Abstract The generally perceived success of reforms by the U.S. General Headquarters during the period of the occupation of Japan has stimulated a number of studies in policy planning which draw on the Japanese experience. This article argues that such studies have tended to focus on political developments and emphasize the role of the State Department over other agencies in postwar planning. On the other hand, military planning related to the actual execution of the occupation, including the demobilization of the occupation forces, has received much less attention. Unexpected turns in military developments pose a question about the success of planning, usually attributed to the occupation of Japan.

論  説

Page 2: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

66

1.はじめに 

 政策学において政策計画を取り上げる際、米国の第二次世界大戦後の世界秩

序に関する計画作業が紹介されることが多い 1)。その理由は、戦時中の早い段

階であったにもかかわらず、米国政府は政治および行政界を越えて様々な科学

的な知見を集め、将来の構想はもとより、綿密な戦後計画を試みたことにある。

これらの計画作業の一環として戦後日本の青写真も描かれ、日本政治史および

日本現代史の分野において研究されてきた。多くの研究の中で特に強調される

のは、国務省が発揮した主導的な役割である。国務省は戦時中の反日的な世論

を押し切って、日本専門家の知見を動員し、冷静に日本の戦後処理を計画でき

たことが、占領政策の原点として評価されている 2)。

 しかし、この政策計画の作成に深く関わったボーンスティールの回想にある

              

1) 薬師寺安蔵『公共政策』東京大学出版会、1988 年、44 頁;Lerner, Daniel and Harold D. Laswell, eds. The Policy Sciences. Stanford University Press, 1951, vii-x.

2) Barnes, Dayna Leigh. “Armchair Occupation: American Wartime Planning for Postwar Japan, 1937-1945.” Ph.D. Dissertation. London School of Economics, 2013, 214; Janssens, Rudolf V. A. “What Future for Japan?”: U.S. Wartime Planning for the Postwar Era, 1942-1945. Amsterdam: Rodopi, 1995, 445; Swensson, Eric H. F. “The Military Occupation of Japan: The First Years Planning Policy Formulation, and Reform.” Ph.D. Dissertation. University of Denver, August 1966, 28; Ward, Robert E. “Presurrender Planning: Treatment of the Emperor and Constitutional Changes” in Ward, Robert E. and Yoshikazu Sakamoto, eds. Democratizing Japan: The Allied Occupation. Honolulu: University of Hawaii Press, 1987, 2; Schonberger, Howard B. Aftermath of War: Americans and the Remaking of Japan, 1945-1952. Kent State University Press, 1989, 25; 五百旗頭真「「僥倖」 と し て の 日本占領」『環』22号、2005 年、113 頁 ; Iriye, Akira. Power and Culture: The Japanese-American War, 1941-1945. Cambridge, MA: Harvard University Press, 1981, 150; 横手逸男「日本占領計画 : 米国国務省における天皇論議」『浦和論叢』46 号、2012 年、119 頁;楠綾子「対日占領政策の変遷と知日派」『環』22 号、2005 年、139 頁;藤田宏郎「ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言」『甲南法学』51 巻 3 号、2011 年、18 頁。

Page 3: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

67

ように、「政策計画は常に未完であり、そのまま円滑に政策の実施に結びつい

たことはほとんどない」3)といえる。綿密に準備された計画がそのまま破棄さ

れたこと、状況の変化により大幅に書き直されたこと、部局間に軋轢が深く一

向に進まない計画作業もしばしばあった 4)。また、戦後に現れた重要な問題で

も、政策計画の段階でほとんど取上げられないこともあった。

 本論文では、これらの指摘を踏まえ、戦時動員の解除をめぐる政策を中心

として、戦後計画について再検討する。第二章では、戦後計画をめぐる研究

を整理し計画作業にあたって省間調整および決定メカニズムの一元化はどの

ように進められたのかについて検討を加える。その後第三章では、国務省が

ほとんど携らなかった「もう一つの戦後計画」を紹介し、戦時動員解除を例

に議論する。最後に、戦時動員解除の問題が日本の戦後史に与えた影響を考

えてみる。

2.戦後計画の実像

a)米国の戦後計画に関する組織の再編 米国の対日占領の諸計画は戦争が開始してから間もない時期に始まってい

る。対日政策の根幹にあったのは、戦争をどのように終了し、終戦後に日本に

対して何を求めるかの問いであった。これらの問いに答えるように最初の計画

作業がはじまり、開戦後半年の 1942 年 5 月 27 日に最初の政策案ができている

(SD-18)5)。だが、早期の案はできていたからといって、そのまま一直線的に

              

3) Bonesteel, Gen. Charles H. Oral history interview, 14 Oct. 1975, off-tape comments. Dale M. Hellegers Papers. Truman Library.

4) Hellegers, Dale. We the Japanese People, Vol. 1. Stanford University Press, 2003, xi.

5) Iokibe, Makoto, ed. Occupation of Japan U.S. Planning Documents, 1942-45. Part 1. Bethesda, MD, USA: Congressional Information Service, 1987, 1-A-15 ( 以下 OJUSPD1).

Page 4: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

68

日本占領期に結びついているわけではない。そのため、対日戦後計画作業はど

のような環境で行われたかを見る必要があり、また、この戦後計画作業は世界

経済秩序や国際連合などを目的としており、決して日本だけを対象にしていた

わけではないことを理解する必要がある。

 重要な対外政策の研究は、戦争に先立って外交問題評議会(CFR)などの民

間シンクタンクを中心に行われていた。CFR の活動や報告書を参考にしなが

ら、米政府では国務省が中心となって戦時下および戦後の重要な政策の検討が

進められていた 6)。当初は南米およびヨーロッパ問題が中心であったが、太平

洋戦争の開始と同時に国務省の関心は太平洋にも向けられるようになった 7)。

ルーズベルト大統領の意向は、戦争の遂行に集中しながら、戦争が終わったら

「欲しいものがカゴの中で見つけられる」ことであり 8)、国務長官サマー・ウ

エルズに新世界秩序、戦後復興など多種多様な政策のオプションを準備するよ

うに着手した。

 戦況の進展と大統領の意向は、計画作業に大きな影響を与えた。1942 年 10

月のロンドン米英首脳会議で欧州第一主義の方針が決まった。また、1943 年 1

月のモロッコカサブランカ会談では欧州及び地中海方面の作戦計画を中心に協

議されたが、枢軸国に対する「無条件降伏」の要求の声明が出され、国務省の

計画立案者を動揺させた。また、1945 年 1 月に開催されたヤルタ会談では対

日要求が協議され、ソ連の参戦を引替えにルーズベルト大統領はスターリン書

記長から秘密協定を取付けたことも国務省の計画立案者を驚かせた。

 対日占領の準備はこのような会談外交の中で進められた。日米開戦まもない

              

6) Notter, Harley A. Postwar Foreign Policy Preparation, 1939-1945. Westport/Conn.: Greenwood Press, 1975, 19.

7) Notter, Harley A. Post WW II Foreign Policy Planning State Department Records of Harley A. Notter, 1939-1945. Washington, DC: Congressional Information Service, 1987, 111-3 ( 以下NOTTER FILE).

8) OJUSPD1, 1-A-5.

Page 5: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

69

1942 年 2 月に国務省内に第二次諮問委員会(AC)が発足し、特別調査部(SD)

が計画作業に着手し、上述の 5 月 27 日の対日終戦条件案もその一環としてで

きている。同年 8 月に特別調査部、領土問題班(T)内に極東班ができ、日本

専門家のブレイクスリー、ボートン、フィーリー、マスランドなどを中心に天

皇制、領土問題、戦後賠償、政治・経済改革、国際信託統治など戦後の基本政

策に関する諸項目が検討された 9)。

 1943 年に入ってから国務省の戦後計画組織は何度か再編される。1 月に特別

調査部は停止され、極東班はノッターが率いる新設の政治調査部(PS)に移

り活動を継続するが、夏までに主要な論点を整理し検討作業をほぼ終えていた。

同年 10 月からはハル国務長官の意向で、これまで重ねられた検討は、新設の

各地域の「部局間地域委員会」のもとで調整され、ハル国務長官へ各国の政策

提言書(CAC 文書)及び提言書集の政策ハンドブック(H 文書)としてまと

められていく 10)。日本専門家はブレイクスリーを議長とする「部局間極東地

域委員会」(IDACFE)のメンバーとなる。1944 年 1 月に国務省全体は大幅な

組織改革を行い、活動を停止していた第二次諮問委員会にかわり高レベルの戦

後計画委員会(PWC)が設置され、政治調査部は特別政治局となり、日本専

門家はいったん領域調査課所属となるが、極東班専属の計画スタッフは次第に

本来所属すべき極東局に異動する。言い換えると、戦後計画の作業のために国

務省内に特別な部局ができ、対日計画の大半は日本専門家からなる極東班で起

草され、部局間地域委員会(CAC 文書)として調整を受け、国務省の幹部か

らなる戦後計画委員会(PWC 文書)として検討され、承認されれば正式の国

務省の政策文書となる。

 一方、1943 年からは陸軍省および海軍省も戦後計画に関わっていく。1943

年 1 月に海軍省に占領地域課(OAS)が、同年 3 月には陸軍省に民事課(CAD)

              

9) 五百旗頭真『米国の日本占領政策─戦後日本の設計図 上』中央公論社、1985 年、223 頁。

10) [Research Staff Memorandum], 25 October 1943, in Notter, Postwar Preparation, 534.

Page 6: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

70

がそれぞれ設置され、占領政策を軍部の視点から研究することとなった。この

ように 1943 年から 44 年にかけて、対日戦後計画に政治と軍事の双方からの見

解が明らかになり、省庁の組織を超える調整が必要となった。そのため、1944

年 11 月末に国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)が設置され、米国の戦

後政策の一元化の役割を担った。対日戦後政策は主に極東小委員会(SFE)に

おいて立案されたが、その際は特に国務省文書(CAC、PWC など)が基となっ

た。SFE 文書は SWNCC および統合参謀本部(JCS)で更に検討され、承認さ

れれば SWNCC 文書および JCS 文書として正式の米国の政策となった。また、

特に重要な文書は大統領の承認を受けることもしばしばあった。

b)初期対日方針の決定過程 次に、初期対日方針を例にして、国務省の日本専門家を中心に具体的にど

のような戦後計画が作成されていたか検討していく。まず、国務省の初期の

検討作業は 1941 年の大西洋憲章と 1943 年のカサブランカ会談に大きく左右さ

れた。特にカサブランカ会談で打ち出された「無条件降伏」の方針は、以前の

国務省の準備作業の方向性を変え、占領政策において徹底した非軍事化と民主

化を求めるようになった。このように、対日の占領計画は部局間地域委員会

(CAC)および戦後計画委員会(PWC)で見直され、無条件降伏、占領軍の構

成、政治改革、天皇の処遇、領土問題、戦犯の取り扱い、武装解除、非軍事化、

教育改革など、様々な問題は個別に検討され政策文書が準備された 11)。

 これらの一連の文書の中で特に重要なのは基本政策を形成した 1943 年 7 月

28 日に日本専門家のブレイクスリーによって起草された T-357 文書(「対日戦

後処理の一般原則」)である。文書は対日の基本要求を(1)領土的、(2)軍事的、

(3)経済・金融的、(4)政治的なものに分類し、(5)では究極的な目的とし

              

11) 皆村武一『戦後日本の形成と発展』日本経済評論社、1995 年、20 頁。

Page 7: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

71

て日本を国際機構と有効な安全保障制度の一員に迎え、こうして国際社会に

復帰させることであると明記した 12)。このような分類は約 1 年後、1944 年 3

月 14 日の CAC-116 文書「米国の対日戦後目的」でも堅持されたが、その後、

戦後計画員会(PWC)ではハル国務長官に酷評され 13)、PWC-108b(1944 年

5 月 4 日)文書として様変わりした。米国の対日基本目的の検討はまず、1942

年の第二諮問委員会発足時の初期方針に立ち返り 14)、占領期を三期に区分し、

それぞれの時期の政策目的を個別に掲げた 15)。第一期は、占領直後の時期で、

降伏条件を仮借無く履行し、軍事的侵略に対する報いとして厳格な占領統治

下に置かれる。第二期は、緊密な監視の時期であるが、日本は内政的に変革し、

他国と平和的に共存できることを意思と行動で示していくにつれて、占領統

制の条件は緩和される。日本を監視する目的で基地は建設され、軍国主義は

根絶され、「民主主義的な傾向」が促進される時期である。第三期は、米国の

究極的な目的が達成される時期であり、日本は適切に責任を果たせる時期に

国際復帰することが約されている。このように、計画初期の段階で日本専門

家たちによる計画作業は自由主義者の立場から開始され、伝統的な戦争論に

基づく戦後処理を想定し、日本に対して穏健な態度を見せていた。これは上

層部に報告されるにつれ、様々に調整され、無条件降伏論がより鮮明になっ

ていった。PWC-108b はその後しばらく審議が中断されていたが、1945 年に

なって再び議題に上った。戦局が日本本土に近づくにつれ、陸軍省および海

軍省は統合参謀本部の統合戦後委員会で、独自の検討作業を進め、国務省と

の調整を申し入れる。

              

12) OJUSPD1, 1-B-21.

13) Hellegers, We the Japanese People, Vol. 1, 182, 372 n134; 五百旗頭真『米国 の 日本占領政策─戦後日本の設計図 下』中央公論社、1985 年、56 頁。

14) 1942 年 3 月 21 日、AC-2 文書 , OJUSPD1, 1-A-2.

15) OJUSPD1, 2-A-36.

Page 8: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

72

 「政治統合参謀本部」16)とも呼ばれた国務省・陸軍省・海軍省の三省調整

委員会(SWNCC)は、1944 年末に作業を開始し、国務省の戦後計画を中

心に政策の取りまとめの作業に入った。なかでは主要な役割を果たす政策

はポツダム宣言、降伏文書、および「初期対日方針」(SWNCC-150)などで

ある。五十旗頭真は、この文書に次のような解説を加えている。すなわち、

「こ の 文書 こ そ、知日派 の 立案→国務省原案[PWC-108b な ど、筆者加筆]

→ SWNCC による総合→米国政府の政策の連続性を象徴するもの」17)であっ

た。SWNCC の下部組織極東小委員会 SFE が 1945 年 4 月に計画の準備を依

頼され、2 ヶ月後の 6 月 12 日に完成した SWNCC-150 文書を提出しているが、

領土・軍事・政治・経済の四分類(特に政治と経済;領土と軍事は合わせら

れ「一般条項」となった)および三期区分は PWC-108b に多く類似している。

大きな特徴の一つは、連合国の占領はドイツのように分割占領でなく、米国

の最高司令官の主導の下で実施されることであった。もう一つの特徴は、占

領軍の統治方式である。当初は「直接軍政」による統治が想定されていたが、

日本降伏の直後に行われた第三の改訂(1945 年 8 月 22 日)では米軍による「間

接統治」に書き直され、占領軍は天皇を含める日本政府の統治組織を利用す

ることにより、占領を実施することが提案された。このような方針にはその

後も修正が加えられ、さらに詳しい「降伏後基本政策」も作成されるが、終

戦と同時に完成した「初期対日方針」は日本の占領において重要な役割を果

たしたことは間違いない 18)。

 このような経過をへて、国務省で作成された様々な戦後対日政策が、戦後に

              

16) Hellegers, We the Japanese People, Vol. 1, 194.

17) 五百旗頭真『米国の日本占領政策─戦後日本の設計図 下』中央公論社、1985 年、118 頁。

18) Claussen, Martin P. State-War-Navy Coordinating Committee Policy Files, 1944-1947: selected, edited and indexed from microfilm publication. Washington: Scholarly Resources Inc., 1977. Microfilm roll 14, SWNCC Case File no. 150.

Page 9: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

73

具体化されたのである。戦後計画は第二次世界大戦が勃発した当初から一貫し

た形で進められていたわけではないが、主要省庁が計画をめぐって対立してい

るうちに三省調整委員会 SWNCC という組織を作り出し、部局間調整をしな

がら戦後の主要な計画を進めていったことがわかる 19)。

 本章で挙げた例では、国務省や SWNCC は対日占領の基本方針、政治改革、

戦時犯罪の取り扱い、教育改革など、いわば「ソフト面」の計画が多い。日本

の戦後の姿が詳細にわたって語られるだけあり、多くの研究で注目を浴びたの

は当然のことである。だが、占領期のすべては「ソフト面」の政策であったと

は、必ずしも言い切れない。戦時中の戦争計画や戦後の占領計画には「ハード

面」の政策もあった。検討の対象は占領軍の具体的な配備に関するものが多く、

米軍内部をめぐる問題から、日本国の戦後の姿はそこから伺えるわけではない

が、だからといって検討不要であるわけではない。例えば、上記の PWC-108b

で紹介される占領期の時期区分に政策を裏付ける軍事力が伴わなければ、いく

ら時期区分を作っても、政策を適切に実施することは難しいこともでてくる。

次章では、「ソフト面」の計画の枠組みを明らかにするために、「ハード面」の

計画に検討を加えていく。

3.もう一つの戦後計画

a)米国軍の動員解除をめぐる戦後計画 第二次世界大戦の歴史は、戦闘の歴史であるように描かれていることは多い

が、戦闘以前に、戦時動員の歴史でもある。太平洋戦争は国民全体を動員した

総力戦であり、国民総動員という側面こそ、社会的な変革をもたらした。太平

洋戦争は日本政府によるポツダム宣言の受諾により、終結を迎え、これによっ

              

19) Marcella, Gabriel, ed. Affairs of State the Interagency and National Security. Carlisle, Pa.: [Strategic Studies Institute, U.S. Army War College], 2008, 5.

Page 10: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

74

て戦時動員の解除が行われる。しかし、開戦に伴う戦時動員の紆余曲折的な進

展が指し示すかのように、動員の解除にも紆余曲折が伴う。そして、占領軍を

めぐる計画も同じ渦に巻き込まれる。

 これまで対日の戦後計画について検討したが、最後までこの計画の検討に含

まれない重要な案件があった。その案件とは、占領軍の規模である。例えば、

上記の SWNCC-150 における占領軍による統治方式を考えるにあたって、占領

軍の規模がどれだけ大きいかで、統治の形式も大きく変わってくる。直接軍政

という方式であれば、ドイツあるいは沖縄のように、日本政府の本来の機能を

すべて占領軍が担うことになる。であれば、占領軍の規模も当然大きくなる。

また、間接統治であっても、具体的にどれだけの規模であるかは分かっていな

ければ、数値など掲げられず計画は曖昧になる。

 ここでもう一つの極秘の戦後計画に注目する。占領軍の兵力水準を大きく左

右したのは米国の戦時動員解除の計画だった。この計画の検討は SWNCC には

ほとんど紹介されず、また統合参謀本部(JCS)でもほとんど検討されること

はなかった。その理由は動員解除の特殊性にあるとされていた。

 戦時動員をどのように解除するかを検討する部局は、陸軍と海軍が独自に設

置した特別計画局である。本論文では陸軍の特別計画局(SPD)を中心に扱う

が、これは陸軍参謀組織に以前存在しなかった新しい部局だった。陸軍省にお

ける新たな組織の創設は 1942 年に伴う省内刷新に起源を持つ。この省内刷新

の結果として先んじて表れたのは作戦計画局(OPD)である。OPD は従来の

参謀部から独立して、一貫して戦争指導の遂行を担った。OPD に期待されて

いた役割は、戦争計画を立案することだけではなく、戦闘の展開を戦域司令官

と情報交換しながらこまめにフォローし、常に戦闘の状況を把握しながら戦争

計画を変更することだった 20)。特別計画局(SPD)はその翌年 1943 年に創設

              

20) Cline, Ray S. Washington Command Post: The Operations Division. Washington, D.C.: Center of Military History, U.S. Army, 1990, 113.

Page 11: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

75

されたが、SPD には OPD のような役割よりも、終戦後の時期に備えて検討を

重ねることだった。秘密保持に留保すること、戦時体制の解除に集中して取り

組む体制を整えること、これらは特別計画局の設置の理由とされている。任務

の特殊性は戦時体制解除のプロセスにあるといえる。戦時体制の解除は大きく

分けて、動員した生産体制の民間経済への移行と、戦時に動員した兵士の復員

という二つの側面から成り立っている。いずれも前線での戦争の遂行と大きく

異なっており、輸送・兵站・医療・福利厚生など、戦争を支援する後方支援軍

が主役である。このため特別計画局の前身組織はもともと「後方支援軍」の計

画企画局にあった 21)。

 特別計画局 SPD において、戦後動員の解除は具体的にどのように検討され

ていたのか。1943 年 7 月の設置後に特別計画局は各部ごとに動員解除関連の

問題を調査し、130 件前後の政策案件として累計化し、案件ごとに政策の立案

作業を開始した。案件の中では、物資動員や生産の契約はどのように打ち切る

か、戦時中の連合国への軍事支援はどう終結させるか、余剰物資はどう処分す

るか、軍事物資や人員はどのように移送し、給与はどのように計算しどう支払

うか、復員収容センターはどう運営するかなどがある。第一次世界大戦に参戦

              

21) 太平洋戦争の開戦後に陸軍省改革の目玉として、米陸軍は陸軍前方軍(GHQ 後に AGF [Army Ground Forces])および陸軍後方支援軍(SOS 後に ASF [Army Service Forces])そして陸軍航空軍(AAF [Army Air Forces])が独立した司令組織として誕生し、陸軍参謀マーシャル将軍および縮小された参謀本部の傘下に入った。戦時動員の負担が陸軍後方支援軍に重くのしかかり、動員の解除に関する検討も 1943 年 4 月以降に後方支援軍に期待されるようになった。後方支援軍司令官サマーウエルは 1943 年 5 月にトムプキンズ准将の下で少人数の計画企画局を設置し、動員解除に関する企画に従事させ、初期成果として 6 月に「動員解除計画に関する調査」の報告書がまとめられた。結論としては、動員解除計画は陸軍後方支援軍ではなく陸軍省全体のレベルで行うべきであることを勧告している。よって、7 月には陸軍省参謀本部で「作戦計画局」の隣に「特殊計画局」が誕生し、後方支援軍のスタッフを吸収した。(“History of Special Planning Division, War Department Special Staff, March 15, 1946,” in 2-3.12 AA V.1, RG319, NARAII)

Page 12: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

76

したパーマー将軍の助言もあり、特別計画局 SPD はまず、第一次世界大戦に

おける動員解除に関連する問題を分析して、その教訓を踏み台にした 22)。こ

れらの細部にわたる計画を大きく左右するのは、動員解除の基本的な三つの原

則の把握だった。三原則はすなわち、戦後の平和時の陸軍の任務と水準をどう

決めるか、占領軍の役割や規模をどのように推測するか、そして、終戦後の「将

来的な脅威」はどうやって把握するかであった。

 第一に、特別計画局は平時の陸軍の役割について検討した上で、すべての平

和条約の締結までの時期を移行期と認識し、これを「緊急事態状況」と名付け、

急激な動員解除を和らげる「緊急臨時軍(Emergency Interim Forces)」構想

を練り上げた。緊急臨時軍の想定においては、(1)米国の軍隊は敗戦国の武装

解除および占領の実行において主要な役割が期待されること、(2)米国の内政

と外交をバックアップする役割を担うこと、(3)世界各地で展開するため動員

解除のペースが遅いこと、(4)国際警察軍への米国の貢献は空軍に限定し、地

上軍の派遣は他の連合国に求めることなどあった。特別計画局は当初の想定で

は日本占領 4 師団を含むアジア全体の駐留軍を最大 20 師団、欧州の駐留軍も

20 師団前後とし、戦後緊急臨時軍の規模を陸空軍で 307 万人と定めた 23)。こ

の数字はマクロイ陸軍補佐官やマーシャル陸軍参謀長などの修正を経て、一旦

157 万人にまで絞られたが、諸計画を作成するための基礎ベースとしては最終

的には 245 万人の水準が採用された。

 第二の基本的な原則は占領軍の役割、水準および維持期間をどのように見積

もるかであり、以上の特別臨時軍の想定と密接に関わっていた。特別計画局は、

              

22) Office of the Chief, Military History (OCMH) Acc. No. 522, cited in Sparrow, John C. History of Personnel Demobilization in the United States Army, Washington D.C.: Center for Military History, 1951, 33.

23) Memo, Handy to Tompkins, subject: Demobilization, 3 July 1943, OPD 370.9, Case 2, DRB, TAG, cited in Sparrow, History of Personnel Demobilization, 40-41.

Page 13: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

77

占領の時期を欧州と太平洋の二つに分け、欧州における占領安定期を第一期(欧

州戦闘終結 1 年後)、対日の占領安定期を第二期(対日終戦 6 ヶ月後)と定め、

緊急臨時軍の第一期の兵力水準は 561 (当初 421) 万人、第二期の兵力水準は

245 (当初 157) 万人に削減されると 1943 年 10 月に確定した。軍隊水準の大枠

が決まった後、配備部隊の具体的な構成や「第一期基本計画」などの綿密な準

備作業が始まった。言うまでもなく、この時期の基本的なテーマは戦時体制の

解除よりも、太平洋戦線への再配備だったので、動員の解除はごく限定的にな

ると想定された 24)。

 第三の基本的な原則は「将来的な脅威」をどのように把握し・平時にこれに

どう対応するかだった。むろん、これは共産主義に警鐘を鳴らすものだが、戦

時中にはソ連が連合国の一つであり米国はソ連を脅威として名指しはしなかっ

た。しかし、大戦の開始に伴う遅すぎる戦時動員の苦い経験から、特別計画局

が平時でも迅速に動員体制を整える研究に身を入れた。結果として提案され

たのは一般軍事訓練徴兵制(Universal Military Training)、予備役将校訓練課

程(Reserve Officers’ Training Corps)、空軍の独立化、陸海空軍の一体化構想

(Unification of the Armed Services)などだった 25)。

 それでは、この三原則は動員解除の計画作業にどう練り込まれたか。特別

計画局 SPD が特に留意したのは柔軟性、効率性と公正性の間にバランスをど

う図るかの検討だった。柔軟性は、小部隊単位で動員の解除を意味していた

ので、戦後管理に不要な地域や軍務だけを解除することや状況に応じて軍事

的な必要性を見直すことができるため、現地軍の司令官にとって理想的な概

念だった。効率性は、戦後の任務を見据えて、大部隊の組織にあまり手を入

              

24) Sparrow, History of Personnel Demobilization, 43-44, 140.

25) Hogan, Michael J. A Cross of Iron. Cambridge: Cambridge University Press, 122; Cornell, Cecilia Stilles. “James V. Forrestal and American National Security Policy 1940-1947” PhD. Dissertation, Vanderbilt University, 1987, ch. 3-4.

Page 14: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

78

れない形で最精鋭の部隊だけを残し動員解除を実行できるので、複雑な手続

きを必要とせずワシントン司令部にとっても現地の司令官にとってもメリッ

トは大きかった。他方、柔軟性や効率性重視の解除方法は一般兵にとって

聞き入れられないものだった。同じ条件で兵役に動員されたのに、解除にお

いて不当な差をつけられてしまうのではないかと、将兵は懸念している様子

だった。特別計画局は将兵を精神的に落ち着かせるために、年齢や軍役期間

などを考慮した客観的で公正公平な解除のルールを検討することにした 26)。

そして、様々な分析を重ねた結果、特別計画局は柔軟性と効率性の前に、公

正性を優先して、動員解除計画を進めることに力を注ぐようになった。これ

らの検討の心臓部をなしたのは「軍役補正定格システム(Adjusted Service

Rating System)」、すなわち平易の言葉では「ポイント・システム(Point

System)」だった。

b)ポイント・システムの検討 ポイント・システムは部隊ではなく、個々の兵士を解除の対象にして作り

上げられたシステムだった。具体的な設計次第、公正性も柔軟性も担保さ

れるものだった。客観的な点数の付与は誰にも一目瞭然で兵士に安堵感を

与えると予想されていた。また、当局は解除対象者の点数水準を自由に上下

できたので、緊急事態の発生・輸送手段や収容センターの定員状況など様々

な軍事上の考慮を織り込むことができ柔軟性に長けていた。しかし、効率

性の面では、決して優れた制度ではなかった。兵士個人のポイントを計算

する煩雑な業務や、経験豊富な精鋭人員の補充の複雑な手続きを要してい

たためである。欧州戦線の終戦後に第一期の開始を迎えるが、所定の限界

              

26) 特別計画局が準備した資料はその後統合参謀本部で審議されたうえ、政策の決定が行われた。統合参謀本部の主要な政策文書は JCS 431, JCS 521, JPS 193 である。例えば CCS 381 (2-8-43) Sec. 10, Central Decimal File, Joint Chiefs of Staff, RG 218, NARAII を参照。

Page 15: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

79

点は高くシステムは動員解除よりも人員および軍事物資の太平洋戦線への

迅速な配置転換に傾斜していた。太平洋戦線の終結とともに第二期がスター

トするが、この時はすでにポイント ・ システムが導入されていたため、限界

点を引き下げるだけで、あらかじめ設定した軍事目的に沿って動員解除の操

作が可能だった。

 ポイント ・ システムによる動員解除の具体的なメカニズムは、二つの仕組み

から成り立っていた。一つは下からの仕組みであり兵士個人の業績に関連する

変数の確定と比重の計算だった。もう一つは上からの仕組みで、解除定員の全

体図を推定し限界点を設定することだった。

 まず下からの仕組みを検討してみよう。陸軍省特別計画局は、1943 年に動

員解除計画の全体図が定まってからすぐに計算方法の分析に着手し、アンケー

ト調査やインタビュー調査など様々な統計手法を駆使して 1944 年 9 月に暫定

的な変数の計算を次のようにまとめている:

 (1) 兵役単位: 動員されてから 1 ヶ月 1 点

 (2)海外単位: 海外任務期間中 1 ヶ月 1 点の追加

 (3)戦闘単位: 戦闘への参加・勲章の授与などによる追加点数

 (4)扶養家族単位: 配偶者をのぞく子供の人数の追加点数

 さらに、年齢も重要視される傾向にあり、変数の個別の数値はその後も変

動し、1945 年 5 月にシステムが公表された後でもいくつかの調整が行われた。

しかし、一般的な例では 3 年間の兵役は 36 点、1 年半の海外任務は 18 点、三

回の戦闘参加と二つの勲章の授与はいずれも 5 点で併せて 25 点、扶養子供は

一人で 12 点であったとすると、蓄積点数は合計 91 点に登る。この計算のシス

テムは第一期でも、第二期でも動員解除の基準となった。

 第二の仕組みは上からの限界点を定めることにあった。欧州戦線の終結間

もない、陸軍は限界点を 85 点に確定し、これにより復員対象者となる兵士の

73% は子持ちで長期にわたって海外の戦闘に従事しており、世間では復員は正

当だと受け止められた。5 月には 3 万人も欧州戦線から立ち退き、また 130 万

Page 16: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

80

人は復員の対象者と噂され期待感は一気に高まった 27)。指揮官たちは占領軍

業務や太平洋配置指定の戦闘部隊の組織的な維持に苦慮したが、客観的なルー

ルに基づいた段階的な動員解除のシステムは世間を静めたかのように見えた。

戦闘は終了するやいなや、軍幹部はまず実感したのは「軍事的な要件」に基づ

く説得力のなさであり、ポイント・システムは「軍事的な要件」への言及を回

避させた。

 詰まるところ、終戦後のポイント ・ システムによる動員解除の体制は「下か

らの要求」に十分に答えるかのように見えたが、実は「上からの要請」を正当

化するシステムでしかなかった。マーシャル陸軍参謀長が指摘したように 28):

    停戦合意の後、さらにその後の一・二年間は、…海外の部隊を十分早急

に引揚げることはできない事情や…海外地域における現地条件により部隊

を暫定的に想定よりも長く配置しなければ行けない事情により…やや大き

な兵力水準を保つ必要があるかもしれない。

 特別計画局を中心に陸海軍の幹部が主に警戒していたのは、停戦後に訪れる

無限の平和への一般世間の期待感であり、急激的な動員解除や軍事縮小への世

論の旋風だった。軍幹部は戦後軍隊のあり方への逆風を少しでも和らげるため

にポイント ・ システムを導入し、その中には軍事施設の保持、平時動員兵力の

維持、陸海空軍の一体化、一般軍事訓練徴兵制の創設、海外軍事基地の維持な

ど、様々な軍事的な要求を目に見えない形で織り込んだ。

              

27) Ballard, Jack Stokes. The Shock of Peace. Washington D.C.: UAP, 1993, 78.

28) “Following an Armistice, and over a period of a year or two … we probably of necessity will be maintaining a rather large force … [because] we cannot either evacuate the troops from overseas theaters … rapidly … or the local conditions in the overseas theaters for the time being make it necessary to hold the troops longer than would otherwise be necessary.”Memo, Marshall for Actg. Dir., SPD, 13 November 1944, no subj., SPD Study 33, Section 11, DRB, TAG; also in Sparrow, History of Personnel Demobilization, 61.

Page 17: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

81

c)動員解除の実態 しかし、いざ動員解除の過程に入ると、必ずしも軍幹部が期待していた方向

で物事は進んだわけではない。政府は多くの兵士の謗りを受け、連邦議会では

計画の物足りなさ、実施の遅れを指摘され厳しい非難を浴びた。以下は、兵士

からの苦情と議会からの非難について考える。

 まず、なぜ兵士から苦情が寄せられたかその背景について検討する。戦闘で

は、兵士は部隊の一構成員であり、上意下達の組織では司令官の命令に従う義

務がある。個々の兵士の要望や事情は考慮されることはない。なぜなら戦闘で

の勝敗は、兵士の個性如何ではなく、部隊の一体性、組織の効率性および部隊

間連携の円滑性に起因するからである。部隊に重きを置く「軍事的な論理」は、

戦時の原理を動員体制の解除(つまり平時)にもあてはめようとしている。軍

隊は平時において規模を縮小して維持されることが多い。効率的な縮減には戦

闘の論理と同じ、部隊ごとの解除が理に叶う。個々の兵士の公平感や期待感に

は目が向けられない。兵士は多くの戦闘を経験した老練兵であろうと、最近補

充されてきた初心兵であろうと、部隊は解除されれば兵士も解除されるのが軍

事論理上の常識である。ここでポイント ・ システムの決定的な矛盾に行き着く。

というのも政府は、ポイント ・ システムを設計した理由は、軍事的な論理を重

視したからではなく、政治的な論理との折合わせに目を向けていたからであ

る。ポイント・システムの一つの目標は、第一期において欧州での順調な占領

体制の展開と、軍隊の太平洋への円滑な移転にあり、もう一つの目標は第二期、

つまり太平洋戦争終了後において国内の反戦的な世論をいかに封じ込めるか

であった。特別計画局(SPD)の例にあるように、軍幹部はこれらの目標を意

識して周到な計画を練り上げたが 29)、両方の目標を十分に達成できなかった。

              

29) Sanders, Chauncey E., “Redeployment and Demobilization” in Wesley Frank Craven and James Lea Cate, The Army Air Forces in World War II, vol. VII. Chicago: University of Chicago Press, 546-548; Sparrow, History of Personnel Demobilization, 18.

Page 18: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

横浜法学第 24 巻第 2・3 号(2016 年 3 月)

82

第一期の期間は一年間と見込まれていたが、中途半端な段階で太平洋戦争の終

結を迎え、動員解除体制の急激な見直しを迫られた 30)。また、国内世論を封

じ込めようとするあまり、「軍事的な必要性」を過分に強調したことが、不満

や批判の引き金となった。世界各地に残された米兵は孤立感を深め、軍指導部

への不満が紙面をにぎわせるようになった 31)。

 第二に、議会からの非難である。兵士および家族の不満は行政だけではなく、

連邦議会にも向けられた。米国の世論は、戦争が終わっても親族の兵士が戻ら

ないことに疑問を投げかけたため、この世論に迎合して、議会内の議論は早期

の復員へと傾いていくこととなった。上院議員は 1946 年に改選を迎え、不満

を募らせる有権者の憤りを競って代弁した。「引き揚げ船の欠如のため」との

陸海軍の説明に対して、世論も議会も納得しなかった。軍に対する不信と批判

は、1945 年末に頂点に達し、民主・共和の党派を問わず軍部に対する風当た

りが強くなった。議会では復員政策のコントロールを行政から直接議会に移す

法案まで検討されていたのである 32)。

 このように、陸軍は世論および議会からの厳しい批判にさらされ、動員解

除の計画を大幅に修正せざるを得なかった。本論文では、ポイント・システ

ムに注目して分析を試みたが、一般徴兵制のように、陸軍が全面的に断念し

た計画もある。ポイント・システムについては、日本に関する具体的な言及

は少ない。そのため一見すると、日本の占領政策との関連を看取することは

難しいが、このシステムは第一段階と第二段階に分けられたことから、軍部

は日本そして対日終戦後の青写真も検討していたことがわかる。具体的な検

討は戦後に必要最小限の兵力を計算する上で、戦後の軍事的な脅威はどこか

              

30) Sparrow, History of Personnel Demobilization, 34.

31) “Copies of Telegrams sent the Press in Jan. 1946 taken from TAG Files” in “BKGD Files- “Hist. of Personnel Dem. US Army” 1946-52,” Box 5, Folder 5, OCMH, RG 319, NARAII.

32) Congressional Record, Vol. 91, 9476-9477.

Page 19: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

もう一つの戦後計画

83

らくるか、どこの海外基地を維持するか、占領にどれだけの兵力水準は妥当か、

連合国の軍隊にどこまで占領に参加を要求すべきかなどであった 33)。これら

個々の政策は必要性と緊急性に応じて、OPD、JCS や SWNCC で検討された

こともあるが、「ハード面」の政策の全体図は特別計画局 (SPD) なくして描く

ことはできない。

4.おわりに

 以上の議論から、二つの結論を導き出すことができる。第一に、戦時中の米

国では政策計画が一元的に行われていたことは、日本の戦後史ではほぼ通説と

なり、それを前提として議論がなされているが、政策によって必ずしもその限

りではなかったことである。計画に着目した先行研究では、国務省の日本専門

家グループが深く関与していた一連の「ソフト面」での計画が念頭に置かれて

いる。しかし、「ハード面」の枠組みも看過できない。例えばポイント・シス

テムそのものは、日本の戦後計画とは無縁であったかのようにみえるが、占領

期に入れば軍は実戦の部隊を配備しなければならないことを考えると、その部

隊の動員解除は対日占領の実施にまで影響を及ぼしていたことが分かる。

 第二に、綿密に計画された政策は、計画された通りにスムーズに実施される

とは限らないことである 34)。ポイント・システムは、綿密に計画されたこと

              

33) OPD Memo for G-3, 5 Aug 45, ABC 370.01 (7-25-42), sec. 4; also in Sparrow, History of Personnel Demobilization, 100 n269.

34) 井口治夫「終戦 ─無条件降伏 を め ぐ る 論争」筒井清忠編『解明・昭和史 ─東京裁判ま で の 道』朝日新聞出版、2010 年、254 頁;油井大三郎『未完 の 占領改革』東京大学出版会、1989 年、292 頁;Ward, Robert E. “Presurrender Planning: Treatment of the Emperor and Constitutional Changes” in Ward, Robert E. and Yoshikazu Sakamoto, eds. Democratizing Japan: The Allied Occupation. Honolulu: University of Hawaii Press, 1987, 37; Schaller, Michael. The American Occupation of Japan: The Origins of the Cold War in Asia. New

Page 20: O°mw -h 8IBU)BQQFOFEUPUIF#PZT(PJOH)PNF

84

だけあって、様々な「軍事的」な要求だけが織り込まれ、終戦後の「政治的」

な要求に関する検討はおろそかになった。冒頭で取上げたボーンスティールの

回想にあるように、占領の計画は円滑に実施されることは少ない。動員解除の

旋風にさらされたマッカーサー司令官の占領軍はその後も規模を大幅に縮小さ

れ、第二章で取上げた様々な占領政策を練り直すことを迫られたのである。

 本稿では計画策定作業に限定して論じたため、第三章で指摘した動員解除計

画と日本戦後史との関わりは、まだ十分に明らかになっていない。動員解除の

問題は終戦後の計画の実施段階に移行した後、表面化したのであり、その詳細

は稿を改めて論じることとしたい 35)。

              

   York: Oxford University Press, 1985, 49; Schaller, Michael. Douglas MacArthur. New York: Oxford University Press, 1989, 131; 山極晃「ポツダム宣言の草案について」『横浜市立大学論叢 人文科学系列』37 巻 2・3 号、1986 年、35-71 頁;ユハ・サウナワーラ、原谷友香・黒川賢吉訳『GHQ/SCAP と 戦後 の 政治再建』大学教育出版、2015 年、43 頁;Wright, Thomas. “Learning the Right Lessons from the 1940s” in Drezner, Daniel W, ed. Avoiding Trivia: The Role of Strategic Planning in American Foreign Policy. Washington, D.C.: Brookings Institution Press, 2009, 126.

35) 拙稿 “Territoriality and Governance in the Early Postwar Japan and Okinawa, 1945 – 1946”『法政大学国際交流基金 に よ る 招聘研究員紀要』第 12 号、2006 年 プ ロ グ ラ ム、2008 年、179 頁を参照。

〔付記〕本研究は、科学研究費補助金(研究課題番号 26780087)による成果の一部である。