starring pierre cardin jean-paul gaultier philippe starck

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THE EBERSOLE HUGHES COMPANY presents a CORI COPPOLA PRODUCTION of a P. DAVID EBERSOLE & TODD HUGHES film “HOUSE OF CARDIN” starring pierre CARDIN jean-paul GAULTIER philippe STARCK naomi CAMPBELL sharon STONE jean-michel JARRE alice COOPER dionne WARWICK kenzo TAKADA hanae MORI guo PEI jenny SHIMIZU trina TURK yumi KATSURA amy FINE COLLINS and featuring rodrigo BASILICATI CARDIN maryse GASPARD jean-pascal HESSE renée TAPONIER score JAMES PETER MOFFATT editors MEL MEL SUKEKAWA-MOORING BRAD COMFORT director of photography LAURENT KING co-producers T. BANKOLÉ ALISON MARTINO CAROL ANN SHINE MARC SMOLOWITZ DANIEL THOM BEN WILKINS executive producers MATTHEW GONDER MARGRET RAVEN International Sales THE PARTY FILM SALES producer CORI COPPOLA produced and directed by P. DAVID EBERSOLE & TODD HUGHES colorful-cardin.com

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THE EBERSOLE HUGHES COMPANY presents a CORI COPPOLA PRODUCTION of a P. DAVID EBERSOLE & TODD HUGHES film “HOUSE OF CARDIN”

starring pierre CARDIN jean-paul GAULTIER philippe STARCK naomi CAMPBELL sharon STONE jean-michel JARRE alice COOPER dionne WARWICK kenzo TAKADA

hanae MORI guo PEI jenny SHIMIZU trina TURK yumi KATSURA amy FINE COLLINS and featuring rodrigo BASILICATI CARDIN maryse GASPARD

jean-pascal HESSE renée TAPONIER score JAMES PETER MOFFATT editors MEL MEL SUKEKAWA-MOORING BRAD COMFORT director of photography LAURENT KING

co-producers T. BANKOLÉ ALISON MARTINO CAROL ANN SHINE MARC SMOLOWITZ DANIEL THOM BEN WILKINS

executive producers MATTHEW GONDER MARGRET RAVEN International Sales THE PARTY FILM SALES producer CORI COPPOLA

produced and directed by P. DAVID EBERSOLE & TODD HUGHES

colorful-cardin.com

2020年に70周年を迎える、フランスのファッションブランド、ピエール・カルダン。巨大コングロマリットとは距離を置き、新

陳代謝の激しいファッション界で創立者のカルダンが今も采配を振るう、伝説のブランドだ。本作は「私の目標は一般の人

の服を作ることだ」と宣言し、ブルジョワだけを相手にしていたオートクチュール(高級仕立服)から脱却。デパートで気軽に

買えるプレタポルテ(既製服)に業界で初本格参入し、斬新な素材選びと未来的なコスモコール・ルックで若者を熱狂させ

たモード界の革命児ピエール・カルダンに初密着。これまでドキュメンタリー作品や伝記のオファーを断り続けてきたレ

ジェンドが語るのは、ファシズムが台頭する祖国イタリアからフランスへ一家で逃れた幼い頃の記憶に始まり、風雲児とし

て高く評価されながら、先鋭的すぎてファッション業界から敬遠された苦悩と反撃、女優のジャンヌ・モローとの運命的な

恋、演劇支援のために情熱を注いだ劇場「エスパス・ピエール・カルダン」、門前払いされた老舗レストラン「マキシム・ド・パ

リ」のリベンジ買収など、波乱万丈でカラフルな97年間だ。

「カルダン帝国」は現在、世界110カ国でライセンスビジネスを展開している。カルダンのロゴが世界中で認知されているの

は、ファッション後進国だった日本や冷戦時代のソビエト連邦、中南米に先陣を切って乗り込み、おしゃれの楽しさを伝えた

からだ。まだ人民服を着ていた中国に初参入し、万里の長城でファッションショーも行った。日本ではカルダンの指導が脈々

と受け継がれていると、デザイナーの森英恵、高田賢三、桂由美が証言する。他にも彼の功績を語るゲストは豪華な顔ぶれ

だ。親交のあるナオミ・キャンベルとシャロン・ストーンは仕立てと着心地の良さを語り、カルダンに才能を見出されたフラン

スの至宝、ジャン=ポール・ゴルチエとフィリップ・スタルクは採用時のエピソードを明かす。音楽界からは歌姫ディオンヌ・

ワーウィックとアリス・クーパーが、劇場「エスパス・ピエール・カルダン」でのハプニングを笑顔で振り返る。

 今も多忙を極める彼の初密着を許されたのは、私生活でもパートナーであるP.デビッド・エバーソールとトッド・ヒューズ

の監督コンビ。部屋の模様替えをきっかけにカルダンの芸術家具「エヴォリューション」のコレクターとなり、その後、カル

ダンがファッション界の大御所だと知ったのだというから驚きだ。

 本邦初公開の記録映像や衝撃の告白から浮かび上がるのは、スキャンダラスな天才デザイナーのチャーミングな素顔と

輝かしいレガシー。ファッション好きだけでなく、ポジティブに、クリエイティブに生きたい全ての人に贈る傑作だ。

1.2.4.5.

3.「ファッションの民主化」大衆向けプレタポルテを発売

世界初!メンズコレクションを開拓。ビートルズも襟なしジャケットを愛用

国籍も肌の色も関係ナシ!日本人や黒人をモデルに起用

ライセンス契約を導入!飛行機からタオルまで、その数800点

社会主義国の中国やソ連で、初のファッションショーを敢行

Introduction

モードを民主化した天才デザイナーのカラフルな97年に初密着!

ファッションの伝道師が世界に伝えた“装う”楽しさ

初めてずくめの革命児

ピエール・カルダン

偉業TOP5

知るほどに、もっと彼を好きになる。 激動の時代を駆け抜けたファッション革命児 チャーミング&スキャンダラスな愛すべき人生

パリの中心部を東から西へ延びるパリ随一のファッションストリートで、カルダンのブティックを始め、シャネルやイヴ・サンローランなどが軒を連ねる。1945年10月、初めてパリを訪れたカルダンは、占い師のお告げに従ってサン=トノレ通り82番地のマダム・パカンのアトリエを目指すが、2km近く離れたフォーブール・サン=トノレ通り24番地のエルメスに辿り着く。そこで道を尋ねようと声をかけたのが偶然にも、目的の人、ワルトネール氏だったというから、カルダンの強運に驚かされる。53年に開いたカルダン初のブティック「イヴ」はサントノレ通り118番地にあり、ここから始まったピエール・カルダンのクリエイションの数々は、カルダン美術館で見ることができる。https://pierrecardin.com/museum

富裕層向けのオートクチュール全盛期だった1960年代前半、カルダンは「私の目標は一般の人の服を作ること」と宣言し、59年にフランス オートクチュール組合会員として初めて、プレタポルテ市場に参入した。百貨店プランタンで憧れの新作が手ごろな価格で手に入る“モードの民主化”を庶民は大歓迎。翌年にはクラシックなスーツ一辺倒だった紳士服に、モダンなプレタポルテ・コレクションを投入。250人のモデルを起用したメンズのショーを初開催してカルダン旋風を起こす。ビートルズもカルダンの襟なしジャケットを着るなど、アーティスト注目のブランドとなった。白人女性が主流だったファッションモデルにアジアン・ビューティの松本弘子や黒人モデルを起用するなど、既成概念を破壊する先進的な姿勢はモード界の逆鱗に触れ、カルダンは組合から除名されてしまう。その後、カルダンの世界観をファッション以外に広めるために、デザイナーとして経営基盤を支えるライセンスビジネスに初参入。航空会社のユニフォームや自動車、飛行機、家具、香水、タオルなどのデザインを手掛け、ピエール・カルダンのロゴを世界中に広めた。また、共産圏のソビエト連邦や文化大革命終了直後の中国にチャンスを嗅ぎ取り、ファッションショーを初開催。万里の長城で開催されたカラフルなファッションショーは中国人の憧れを掘り起こし、どのブランドも眼中になかった中国市場をいち早く獲得した。

布の魔術師とも呼ばれるカルダン。テーラーでの修業時代に磨かれた立体裁断は、人体やボディに直接布地を当てて形をとり、裁断する手法で、平面上で作図した型紙を使うより曲線的なシルエットを作りやすい。カルダンは1958年に初来日し、1ヶ月にわたり東京で立体裁断講座を開講。桂由美、森英恵や高田賢三なども受講し、平面裁断が主流だった日本に新風をもたらした。その技術は文化学園大学で今も伝えられている。

1922年7月2日イタリアのヴェニス近郊生まれ。2歳の時にファシズムが台頭する祖国

イタリアからフランスへ一家で移住し、第二次世界大戦下には赤十字社に勤めた。45

年、憧れだったパリに移りマダム・パカンのアトリエにて、ジャン・コクトーの映画『美女

と野獣』の衣装や仮面の制作を担当する。その後、コレクション・デビュー時のクリス

チャン・ディオールのもとで働き、50年に独立。自身のアトリエを構え、バレエ、演劇、映

画のコスチュームなどを多く手がけ、53年に初めてのオートクチュール(高級仕立服)・

コレクションを発表し一躍注目を浴びる。59年、フランス オートクチュール協会のメン

バーとして、最初に婦人プレタポルテ(既製服)・コレクションを発表、男性モード界に

も進出する。ファッション後進国だった日本や、社会主義国の中国やソビエト連邦などに

積極的に進出し、活躍の場を広げる。ライセンス契約をファッション業界で初導入し、

飛行機や自動車からタオルまであらゆるライフスタイルに関わる商品をデザインし、

現在も110カ国で展開されている。14年、その輝かしい功績を知ることができるカルダン

美術館がパリにオープンした。

デザインの他に70年に、演劇やライブを行う「エスパス・ピエール・カルダン」を開設

し、新人アーティストや伝統芸術の支援に精力的に取り組む。01年には南仏ラコスト

城のオーナーとなり、毎年夏に芸術フェスティバルを開催。81年、パリの老舗高級レス

トラン「マキシム・ド・パリ」を完全買収し、自身のアールヌーボー・コレクションをレ

ストラン内に展示するなど、芸術文化と深い関わりを持ち続けている。ユネスコ名誉大

使やフランス学士院芸術アカデミー会員に選出されるなど多岐にわたり活躍中。

ピエール・カルダン 

イタリアのヴェニス近郊に生まれる。

2歳で家族と共にフランスへ移住。

フランス、ヴィシーの仕立て屋で、職業指導を受ける。

パリに移りマダム・パカンのアトリエに入り、ジャン・コクトーの『美女と野獣』の衣装や仮面を担当。後にエルザ・スキャパレリのメゾンに勤務する。

コレクション・デビュー時のクリスチャン・ディオールのアトリエで働く。

独立してバレエ、演劇、映画のコスチュームなどを手掛ける。

初のオートクチュール・コレクションを発表。ダイアナ・ヴリーランド、Harper’s BAZAAR編集長カーメル・スノウ、ELLE創刊者エレーヌ・ラザレフらに実力を認められる。「プリーツコート」はアメリカで20万着を売る大ヒットとなる。

「バブルドレス」が世界的に高い評価を受け、最初のブティック 「イヴ」 をオープン。

1922192419391945

194619501953

1954

Pierre Cardin. Keywordsフォーブール・サン=トノレ通りとサン=トノレ通り

ファッション革命

立体裁断

カルダンのデザインの源である円。終わりがないことから永遠のシンボルとなり、地球や宇宙を象徴するモチーフとして登場することが多い。彼が注目されるきっかけになった54年のバブルドレスに始まり、一世を風靡したスペースエイジ・ファッションやコスモコール・ルック、オリガミシリーズにも円がシンボリックに多用されている。

カルダンに愛された、日本人パリコレモデル。1954年に雑誌「アサヒグラフ」の表紙を飾りモデルデビュー。58年に初来日したカルダンの招きで、60年、渡仏。黒いショートボブとキリッとした顔立ちは“東洋のヒロコ”とパリのモード界で新鮮に受け止められた。フランソワ・トリュフォー監督作『家庭』(70)で主人公の不倫相手役に抜擢され、ミステリアスな容姿で映画に華を添えた。75年からはフランスの一流ファッション誌「VOGUE」で編集、広報、広告の日本担当責任者を務め、日仏のファッションの架け橋となった。03年没。

ゴダール、トリュフォー、ルイ・マル、ドゥミなどヌーベルバーグの監督たちに愛されたフランスの名女優。48年に映画デビューし、ヌーベルバーグの先駆け的作品、『死刑台のエレベーター』(57)で注目される。カルダンとの出会いは、『天使の入江』(63)。衣装を担当したカルダンを見初めたモローが猛アタックし、その後数年間、カルダンと公私に渡るパートナーとして交際した。他に2人が組んだ作品は『バナナの皮』(63)『マタ・ハリ』(64)、『愛すべき女・女たち』(67)。17年、89歳で死去。

アルジェリア戦争から帰還後、10代でカルダンのメゾンに入る。ブルジョア出身で、猛烈に働くがプライベートは静かに過ごす保守的な生活スタイルはカルダンと正反対だったが、逆に意気投合。カルダンの公私に渡るパートナーとなる。モローの登場で関係が壊れかけるが、ビジネスパートナーとして復縁。存命中はショーの最後でカルダンがオリヴィエを紹介するのが習わしだった。93年、エイズで死去。

かつて舞台俳優を目指していたカルダンは、1970年に劇場を買収して、エスパス・ピエール・カルダンを開設。フランス国内外の才能ある新人にデビューの場を提供すると同時に、各国の伝統芸術を紹介して国際文化交流に貢献した。フランスの名優ジェラール・ドパルデューはカルダンに見出された1人。12年に手放したが、現在、場所を移して映画館を併設した新エスパス・カルダンを建設中。また、01年にラコストに購入した城で、毎夏に野外フェスティバルを開催している。

1893年創業、アールヌーボー・スタイルの老舗高級レストランは、常にパリの社交場だった。60年、カルダンは新作のスモーキング姿で店を訪れたところ、ドレスコードに引っ掛かり門前払いされてしまう。81年に経営権を全面的に獲得してオーナーとなったカルダンは、 上階に自身が長年かけて収集したアールヌーボーの名品約750点を展示する美術館を開設し、理想のマキシムに作りかえていった。

紳士ブティック「アダム」をオープン。男性モード界に進出。初来日を果たし、日本ではまだ知られていなかった立体裁断を紹介する。

婦人プレタポルテ・コレクションを発表しモードの民主化を実現。翌年に紳士プレタポルテ・コレクションを発表する。

ブランドのミューズとなる日本人モデル松本弘子が渡仏。

子供服を発表。三つ子を起用したショーを開催。

子供服のブティックをオープン。 食器のライセンス契約を結び、ライフスタイル全体のデザインを始める。

オリンピックエアラインの客室乗務員のユニフォームをデザイン。

アンバサドゥール劇場を買い取り「エスパス・ピエール・カルダン」を開設。

自動車「ピエール・カルダン スバッロ」のデザインを発表。 TBSドラマ「赤い疑惑」の衣裳に全面協力。

芸術家具「エヴォリューション」を発表。

1958

1959

196019661968

196919701975

1976

フランス・オートクチュール組合より「金の指貫き賞」(デ・ドール賞)を受賞。その後79年、82年と同賞を合計3回受賞する。

中国でファッションショーを開催。

アトランティック航空のビジネスジェット機「ウェスト・ウィンド」の内外装をデザイン。

老舗高級レストラン「マキシム・ド・パリ」を完全買収。

草月会館にて「ピエール・カルダン 三十年の軌跡“独創の世界”」回顧展を開催。

フランス政府から国家栄誉賞「シュヴァリエ・ド・ラ・レジオン ドヌール」を贈られる。91年に「ロフィシエ・ド・ラ・レジオン ドヌール」を、97年には「コマンドール・ド・ラ・レジオン ドヌール」勲章を受勲。

モスクワ「赤の広場」にて史上初のファッションショーを開催。 ユネスコの名誉大使に選出され、チェルノブイリ救済プログラムに関わる。

ファッションデザイナーとして初めて、フランス学士院芸術アカデミー会員に選出される。

南仏カンヌ近郊に円形劇場「パレ・ビュル」(泡の城)をオープン。

マルキ・ド・サド侯爵ゆかりのラコスト城のオーナーとなり、毎夏フェスティバルを開催している。

パリにカルダン美術館をオープン。

日本上陸60周年を記念し、1年をかけて髙島屋各店にてフェアを展開。本作がヴェネチア国際映画祭にてワールドプレミア上映。

1977

19791980

1981

1982

1983

1991

1992

1993

2001

20142019

エスパス・ピエール・カルダン

アンドレ・オリヴィエ

マキシム・ド・パリ松本弘子

ジャンヌ・モロー

入りたかったからだ。

 「パリで占い師がパキャンのメゾンにいくといい、というから、

サントノレ街を歩いていた。その時そこを歩いていた人に偶々

道をきいた」

 本人によると、その通りすがりの男性が「それはうちです」と

いったというから、どうやらスタート時点から、幸運の女神に導

かれていたようだ。

 「当時そのメゾンにはジャン・コクトーやジャン・マレーが出入

りしていて、みんな僕と付き合いたがっていたよ」と映画の中で

述懐しているように、イタリアからやってきた美男の若きデザイ

ナー志望は、忽ちコクトーに気に入られ「美女と野獣」の舞台衣

装を手がけるようになる。スリムなダンディで、身のこなしがエ

レガントな彼に、当時多くの同性愛のアーティストたちが群がっ

たという。

 ところがそんな彼が恋に落ちたのは、同性愛者だけではな

く、フランスを代表する演技派女優ジャンヌ・モローだった。60

年代初めのことだ。一時は同棲を考えていたが、結局どうしても

男性の恋人と別れられず、結実しなかったという。

 実は1985年から20年間、日本の雑誌社のパリ特派員をして

いた私は、数多くの芸能人のインタヴューをしていて、特にジャ

ンヌ・モローは、何度も彼女の自宅で撮影や取材をしている。あ

る時ロング・インタヴューの途中で、

 「あの人は素敵なアマンだった」と彼女が話し出したことがあ

る。カルダンのことだった。てっきりメディア向けの広告塔だと

思って半信半疑だった私だが、どうやらそれは真実らしかった。

1962年の「エヴァの匂い」で、カルダン・ファッションを身にま

とったジャンヌ・モローは、当時恋する女だったのだ。

 カルダンは日本にも何度も来日して、日本との縁も深い。

 「あの人の立体裁断は素晴らしかったよ。当時の日本ではと

ても斬新に思えた」

 高田賢三さんと一緒にその頃渡仏した「ニコル」の松田光弘

さんから、直にそうきいたことがある。当時の日本では平面裁断

が主流だったからだという。

 60年代には、ビートルズのメンバーたちもカルダンの襟なし

のスーツを着ていたし、時代感覚に鋭い日本の若いデザイナー

たちにも、多大な刺激を与えていたのだろう。

 実は若い頃一度だけカルダンに会ったことがある。1970年

の大阪万博の時で、カルダン一行の万博案内の通訳をすること

になったのだが、残念ながら、その好奇心旺盛な質問に振り回

され、すっかり閉口したことしか覚えていない。

 「アジアン・ビューティー」に最初に目をつけたのも彼で、ジェ

ンダーレスだった日本人モデル松本弘子を、パリのトップモデ

ルに仕立てている。

 情熱的で、ファッションの枠を越え、カルチャーにも興味を持

ち始めた彼は、70年に大統領官邸エリゼ宮近くに、「エスパス・

カルダン」というギャラリー兼劇場を創設して、国際的な文化交

流の場を開き、現在も若いアーティストたちの溜まり場になって

いる。

 「リスクは素晴らしく刺激的だ。常にもっと遠く、遠くへいくこ

と。それが大事だ」

 どんな時代になっても変わらないその信念こそが、カルダン

の創造の炎なのだろう。

世界を巻き込んだピエール・カルダンの情熱村上香住子(エッセイスト)

 革新は、創造のための破壊というけれど、それには並外れた

感性と構成力、そして現実への厳しい洞察力が伴わなければ、

ただの空回りで終わってしまう。

 パリのクチュール界の風雲児で、60年代には宇宙を夢見た

コスモコール・ルックで世界を驚かせたピエール・カルダンは、

激しい革新と破壊のファッション界で70年もの間、モードへの

熱情を失わず、98歳の現在も、ナオミ・キャンベルのような世界

のセレブからも慕われている。

 その偉業を讃えて作られた本作『ライフ・イズ・カラフル! 未来

をデザインする男 ピエール・カルダン』を見直してみて、改めて彼

の並外れた才能というだけでなく、カルダン帝国を築き上げたそ

の政治的センスにも舌を巻く。まだグローバル化とは程遠い時

代に、日本だけでなく、ソ連(当時)や中国にも進出していたのだ。

 国際的なライセンス・ビジネスでも、驚異的な成功を収め、

110ヵ国で800ものライセンスを持っていたという。

 カルダンのメゾンがスタートした60年代初頭は、当時ココ・

シャネルもクチュールに返り咲いていたし、ディオールだけでな

く、イヴ・サンローランも頭角を現していた時期だった。それでも

アシンメトリーなデザインを披露して、個性的なカッティングで

注目された彼は、その後も既成概念を超えたコレクションを

次々に発表していく。

 キャリアだけでなく、彼の人生もまた型破りにドラマティック

で、現実離れのする逸話やエピソードに彩られている。1922年7

月2日、ヴェネチアの近く、カッラルタで生まれ、子供の頃から美

しいものに憧れていた彼は、戦争が終わると同時に、住んでい

たヴィシーからパリへと向かった。オートクチュールのメゾンに

Essay

Directors

Witnesses

プライベートでもカップルであるふたりは、映画やTV番組の制

作会社「ザ・エバーソール・ヒューズ・カンパニー」を設立してい

る。本作の他に50年代を代表する女優ジェーン・マンスフィー

ルドの死後50年を記念して製作された「MANSFIELD 66/67」

(18)などをふたりで監督。ニルヴァーナのカート・コバーンの妻

コートニー・ラブが所属しているグランジ・バンド「ホール」の

パッティー・シュメルについてのドキュメンタリー「HIT SO

HARD」(12)では、エバーソールが監督・脚本、ヒューズがプロ

デュースと脚本を担当。また日本でも公開されたスタンリー・

キューブリック監督作品『シャイニング』を検証するドキュメンタ

リー『ルーム237』(12)では、ふたりはエグゼクティブプロデュー

サーを務めた。監督、プロデューサー、脚本家として活躍中。

1952年生まれ。学生だったゴルチエのスケッチ画を見たカルダンが、その才能を見抜きデザインチームに採用する。76年にプレタポルテ・コレクションを発表しデビュー。80年代マドンナのステージ衣装を手がけ、ボンデージファッションなどで話題となる。04年秋冬からエルメスのレディース・プレタポルテのデザインも兼任。20年春夏のオートクチュール・コレクションを最後にランウェイからの引退を表明。新プロジェクトとして、20年秋冬コレクションにsacaiの阿部千登勢をゲストデザイナーとして迎え入れ、オートクチュール・コレクションを発表する。

1958生まれ。モデルとして活躍後、80年にウディ・アレン監督『スターダスト・メモリー』にて映画デビュー。85年に『ロマンシング・アドベンチャー/キング・ソロモンの秘宝』に出演して注目され、『トータル・リコール』(90年)、『氷の微笑』(92年)でトップ・スターとなる。95年の『カジノ』ではゴールデングローブ賞最優秀女優賞を獲得。『マイ・フレンド・メモリー』(99年)『ハリウッド・ミューズ』(00年)でもゴールデン・グローブ賞にノミネートされている。

1949年生まれ。68年にカルダンに入社し、アートディレクターを務めインテリアデザイン及びプロダクトデザインを担当する。退社後、80年にスタルク・プロダクト社を設立。ミッテラン大統領からの指名で、大統領公邸の内装を担当し注目を集める。建築家としても活躍し、日用品から建築まであらゆる分野のデザインを精力的に行い、日本ではアサヒビール吾妻橋ホールなどで知られる。

1970年生まれ。15歳のときにスカウトされモデルとしてのキャリアをスタートさせる。88年8月、黒人モデルとして初めて仏版『ヴォーグ』の表紙を飾るなど、黒人モデルの先駆者的存在として知られる。90年代には「スーパーモデル」として「ヴォーグ」や「エル」などの一流ファッション誌の表紙を飾り、数々のファッションショーに登場した。

1967年生まれ、中国出身。89年にアパレル会社で働き始め、97年には自身の「ローズ・スタジオ」を設立する。15年にニューヨークで開催されたメットガラに、彼女のデザインした鮮やかな黄色のケープガウンをまとったリアーナが登場し、一夜にしてその名を世界中に轟かせた。16年、パリでオートクチュール・コレクションを発表。

1939年生まれ。文化服装学院で服飾デザインを学び、64年に渡仏。70年、パリにブティックを開き初コレクションを発表する。73年には「KENZO」の名でプレタポルテ・コレクションのデビューを果たす。93年、ブランドをLVMHに売却し、自身はデザイナーとしてクリエーション活動を継続。99年に KENZO のデザイナーを引退する。04年にはアテネオリンピック日本選手団公式服装をデザインした。

1926年生まれ。51年スタジオを設立し、日本映画全盛期に数多くの衣裳デザインを担当する。65年ニューヨークで初の海外コレクションを発表。77年パリにメゾンをオープンし、オートクチュール組合に属する唯一の東洋人として、国際的な活動を展開する。現在は、衣裳展の開催や若手の育成など、「手で創る」をテーマに活動中。58年にカルダンが初来日したときに、後に彼のミューズとなるモデル松本弘子を紹介した。

大学卒業後、パリに留学しブライダルデザイナーになることを決意。65年には日本初のブライダル専門店をオープン。69年、全日本ブライダル協会を設立、99年に東洋人として初めてイタリアファッション協会の正会員となる。03年パリでオートクチュール・コレクションを発表し、05年にパリ店をオープンさせた。日本のブライダルファッション界の第一人者として業界を牽引しつつ、世界各国30ヵ所以上の都市でショーを開催した。

監督/プロデューサー

P.デビッド・エバーソール&トッド・ヒューズP.DAVID EBERSOLE & TODD HUGHES

数年前に僕たちは家の装飾を始めたとき、ピエール・カルダンが美しくて洗練された現代家具のメーカーでもあることを大発見しました。また彼の素晴らしい家具を集めているうちに、家具だけにとどまらず新しいライフスタイルの世界をそこに見つけたのです。本作の製作は僕たちにとって生涯最高の冒険になりました。僕たちは彼の足跡をたどって、世界中を旅して回りました。そして、その国々で彼が多様な文化の人 を々、ファッションのラインと裁断のスタイルで結びつけてきた先駆者であったということに気づきました。カルダンから、本作を初めて観たあとに「すべて真実だ!」と、映画を認めるメッセージをいただき、アカデミー賞を受賞するよりも嬉しかったです!

ジャン=ポール・ゴルチエJean-Paul GAULTIER

森英恵hanae MORI

グオ・ペイguo PEI

ナオミ・キャンベルnaomi CAMPBELL

シャロン・ストーンsharon STONE

高田賢三kenzo TAKADA

桂由美yumi KATSURA

1948年生まれ。前衛的なパフォーマンス知られるロック・ミュージシャン。69年にデビューし、70年代シアトリカルな奇抜さが話題となりカリスマ的な人気を集める。72年『スクールズ・アウト』が大ヒットを記録し、一躍有名となる。11年にはロックの殿堂入りを果たした。

フィリップ・スタルクphilippe STARCK

アリス・クーパーalice COOPER

ピエール・カルダンがデザインした「希望という名の未来」

野宮真貴(歌手、エッセイスト)

 1960年代、母のよそゆきの中に一着の憧れのワンピースがあった。子供の私にとっても十分にイン

パクトのあるデザインだったのでよく覚えている。当時はデザイナーが誰なのか知る由もなかったけれ

ど、嬉しそうに着ている母を見て私も幸せな気持ちになったものだ。

 そのワンピースを譲り受けたのは1990年代ピチカート・ファイヴのヴォーカルだった頃。幾度の

引っ越しにも手放すことなく大切に残されていたのだから、母にとって特別な一着だったのだろう。そ

して30年という時を超えて、娘の私がステージ衣装として着ることになるとは、不思議な縁を感じて

しまう。

 実は、ピチカート・ファイヴの衣装は、カルダンのデザインにインスパイアされて作られたものが少

なくない。人類が初めて月に行くことになった60年代の自由や解放といったエネルギーを、「フュー

チャリズム=未来派」のファッションとして表現していたカルダン。ピチカートは彼の精神性とスタイ

リッシュなデザインをリスペクトし共感していた。ファッションは30年周期で巡るというけれど、私はカ

ルダンのコスモコール・ルックを90年代に着ることで、来るべき未来の自由で新しい女性像を演じた

いと思っていた。

 そして2020年。誰も予想をしなかったコロナ禍に見舞われた。自分や自分の大切な人の身を守ら

なければならない状況で、ファッションは本当に必要なのか?そんな疑問を持ちながら毎日を過ごす中

で、本作『ライフ・イズ・カラフル! 未来をデザインする男 ピエール・カルダン』を観た。

「女性は花。固有の美しさを持った花である。」

 そこには女性が持つ美しさを追求したピエール・カルダンの姿があった。自由であること、表現する

こと、そしてそれぞれの美を開花させること。ファッションの存在価値と私たちが生きる意味をこの映

画は教えてくれる。私は心の底から沸き起こるような勇気をもらった気がした。

 母のワンピースを今でも大事に保管している。そしてあの頃夢見ていた未来に、今私は立っている

のかと考える。いや、ピエール・カルダンが描いた自由で美しい未来は、私たちの頭上で旋回し、私た

ちが到達するのを待っている。それはピエール・カルダンがデザインした「希望という名の未来」だ。

ピチカート・ファイヴ3 代目ヴォーカリストとして、90年代に一世を風靡した「渋谷系」ムーブメントを国内外で巻き起こし、 音楽・ファッションアイコンとなる。 2010 年に「AMPP 認定メディカル・フィトテラピスト(植物療法士)」の資格を取得。2020年は還暦イヤーを迎え、音楽、ファッションやヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど多方面で活躍している。ベストセラーとなった「赤い口紅があればいい」「おしゃれはほどほどでいい。」(幻冬舎刊)ソロベストアルバム「野宮真貴 渋谷系ソングブック」、ピチカート・ファイヴベストアルバム「THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001」が好評発売中。

www.missmakinomiya.com/  www.instagram.com/missmakinomiya/

Essay

野宮真貴 MAKI NOMIYA

CAST

ピエール・カルダン

ロゴリゴ・バシリカ―タ・カルダン:ピエール・カルダン社長

マリーズ・ガスパール:ピエール・カルダン オートクチュール担当ディレクター

マシュー・ゴンダー:ピエール・カルダン アメリカン・ブランド・アンバサダー

ジャン=パスカル・エス:ピエール・カルダン プレス担当ディレクター

ルネ・タポニエ:カルダン美術館キュレーター

ジャン=ポール・ゴルチエ

シャロン・ストーン

ナオミ・キャンベル

森英恵

高田賢三

桂由美

グオ・ペイ

アリス・クーパー

フィリップ・スタルク

ディオンヌ・ワーウィック

ジェニー・シミズ

ジャン・ミッシェル・ジャール

STAFF

監督/プロデューサー:P.デビッド・エバーソール&トッド・ヒューズ

プロデューサー:コリ・コッポラ

エグゼクティブプロデューサー:マーグレット・レイヴン

             マシュー・ゴンダー

撮影監督:ローレント・キング

音楽:ジェームズ・ピーター・モファット

編集:メル・メル・スケカワ=ムーアリング&ブラッド・コンフォート

10/2(金)より Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開!

2019年/アメリカ・フランス/101分/ビスタ/5.1ch/原題:HOUSE OF CARDIN /

日本語字幕:古田由紀子/後援:在日フランス大使館 アンスティチュ・フランセ日本   /

提供:ニューセレクト/配給:アルバトロス・フィルム

テキスト協力:落合有紀

【パブリシティ】

本谷智子 090-2739-5209([email protected]

平井直子 090-2670-5866([email protected]

アルバトロス・フィルム坂井 03-3549-2700([email protected]

【配給】

アルバトロス・フィルム(営業:吉原・隅原) 

〒103-0015 中央区日本橋箱崎町18-10東成ビルディング 03-3549-2700

colorful-cardin.com

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