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Title 冰廠 Author(s) 佐伯, 富 Citation 東洋史研究 (1942), 7(4): 219-228 Issue Date 1942-08-31 URL https://doi.org/10.14989/145770 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 冰廠 東洋史研究 (1942), 7(4): 219-228 Issue Date URL https ...€¦ · 民の統計を示して一集、計書調査三六頁同)主なる漁港の盾在地並にづいては、鄭鄙通志食貨志漁業の條に、(鄭籐建設第雨江0漁船とは寧波0いかな泰地亘のも0とある記事によっても知ることが出来る。こ之八東郷。梅墟江檀。必購冰貯鯉下-。(蘇麻通志)コ1。を指すかに漁’

Title 冰廠

Author(s) 佐伯, 富

Citation 東洋史研究 (1942), 7(4): 219-228

Issue Date 1942-08-31

URL https://doi.org/10.14989/145770

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 冰廠 東洋史研究 (1942), 7(4): 219-228 Issue Date URL https ...€¦ · 民の統計を示して一集、計書調査三六頁同)主なる漁港の盾在地並にづいては、鄭鄙通志食貨志漁業の條に、(鄭籐建設第雨江0漁船とは寧波0いかな泰地亘のも0とある記事によっても知ることが出来る。こ之八東郷。梅墟江檀。必購冰貯鯉下-。(蘇麻通志)コ1。を指すかに漁’

j四

へ 〃 、 二 ' ゛ 1

      

 

雨江を遡航して銀海に至ると、雨岸には

錐形草蓋の建築物が楊柳の間に多数建って

見える。これが冰廠と稀せられる冰の貯蔵

所である。往時ある武将が兵を率ゐて此處

に来びヽ之を遠望・してそ0如何歓るも0で

あざかを土民に問うたととろ、土民は答ふ

るに氷廠を以てした。、武将驚きて何ぞ兵廠

の多きやとて、旗を捲いて逃れ去ったとい

   

ふ話が画る。蓋1 、真と冰とは支那昔が相

   

。通するからであ

。こ1でぽかxる話の員

   

儒は問題tはたい。それほど銀海から寧波

   

に至泰雨江0洽岸にぱ冰廠が無数に立ち並

   

んでゐる。そめ正確なる統計は不明であ4=\、

 

 

時代によって増減もするが、鄭瓢通志食貨

志0傅ふる所によれば、民國二十年頃の概

数と思は。れるが、「寧波の和豊紗廠より以

東、鎮海0江北方面に至るまでの欄に、鼎

盛の時には千数百廠を敷へた」と噂ふ。殊

に梅墟銀一帯の沿・江。十支里の地に櫛比する

有様ば瞳かに」奇観たるを失はね。

 

塵らばかχゐ多数の冰の貯蔵所が特に優

阪0地に設けられたのはいかなる事情によ。

るも0であらうか。これについては鄙籐志

(乾降)巻二八、物産の條F

 

雨凍涜心居民。多頑冰錫業。加之冰章。

 

夏初聴取以佐海魚行遠。。

とあり、叉

 

雨江漁船。ご葛漁訊期。至歯奉化江。揚帆

23-

贈賄対聯端端6幽圖ll……1゛綴Jt.'* i……゛|,゛巍自゛゛,

Page 3: Title 冰廠 東洋史研究 (1942), 7(4): 219-228 Issue Date URL https ...€¦ · 民の統計を示して一集、計書調査三六頁同)主なる漁港の盾在地並にづいては、鄭鄙通志食貨志漁業の條に、(鄭籐建設第雨江0漁船とは寧波0いかな泰地亘のも0とある記事によっても知ることが出来る。こ之八東郷。梅墟江檀。必購冰貯鯉下-。(蘇麻通志)コ1。を指すかに漁’

22∂

 

而来。経過凍郷、梅墟江催。、必購冰貯舘下。便船載

 

重。始可浮海。及在定海洋面じ

 

上之魚行也。(郵駆廷志食貨4’

と見えてゐるやうに、雨江沿岸の冰廠の設ぶは支那o

一大漁場たる舟山群島の漁業と重要なる開係があるこ

とが自ら明らかであらう。

こ0冰廠は鄭鄙通志食貨志に

 

冰廠多篤壇江農民之副業。

といへる如く、元来農民の副業として起ったも0であ

る。最初は寧波地方に限られてゐたやうであるが、次

第に雨江を下って銀海にも及び更に穿山の地方にも傅

播したやダである。銀海部志皿巻四二物産0條には

 

銀邑向無冰廠。近則澄江多搭蓋矣。饌海備志‐

 

近時穿山後所一帯。亦頗獲冰廠之利。`采訪船。

八東郷。梅墟江檀。必購冰貯鯉下-。(蘇麻通志)コ・

とある記事によっても知ることが出来る。こ之

雨江0漁船とは寧波0いかな泰地亘のも01を指すかに

づいては、鄭鄙通志食貨志漁業の條に、(鄭籐建設第

一集、計書調査三六頁同)主なる漁港の盾在地並に。漁’

民の統計を示して

  

大崇港

  

一〇〇〇人(奉化江と闘係なし)

  

 

  

二〇〇〇人

  

東銭湖

  

五○○○人

        

と言ってゐることによって、大服、姜山、東銭湖の漁

船が絡對的に多かったとい、ふことが判明する。

 

寧波に疲生した冰廠は、。先にも述べた如く、次第に

雨江を下って鎮海鄙地方にも設立を見るが、それは冰

廠による利盆が甚だ大であったために、かXる流行を

と言つてゐるのは冰廠建設の傅播o逃を示すものと考―したものと考へられる。

へられる。

                       

鄭鄙通志o示すところによれば、普通、冰廠一所を

 

然らば何故に冰廠は最初に寧彼に登生したか。それ

  

所有してゐると、一年に五百元乃至一千元の利益を獲

は雨江o漁民が主として寧彼人であつだからである。

 

ることが出来る。こo地方に於ける冰廠の利益は年額

このことは先にも引用したが、

 

『’

   

  

ゾ百萬元以上にも達するといふ。冰東の大・なるものはm

 

llI

 

  

I一一~

  

III

 

 

‐`

    

     

                      

。。。

 

甫江漁船。常漁根期。至由奉化江J揚帆而来。経過

  

十五六畝、、、最も小なるも0も五六畝を必要とする 0こ

-24-

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22j

o肌地は各は水を1 いで結冰させる≒↓その他0 時に

は、農作にI利用するこ■\)が出来る。寧波に於ける田地

一畝の價格

十元で.ある

””/

は六十元乃至百二。

冰廠のあざ雨

江沿岸の田價は

`百元以上に達す

畝につき五

いはれて

利益が大

’であるかゞこれによっても窺

ひ知ることが出来るであらう。

     

 

遠く亀ら冰齢を望むと、草

葺の屋根がちやうどすり鉢を

倒立した如く、暮れゆく江南

の平野、。或ぽそぽふゐ春雨に

陣ぶる楊柳の間に散見する有

様は仲々趣0あるものである。

 

その贋造については銀海斬

志(光緒)省三八物産0條に

盆畜a具中w1暫(誌詔詔詣J)1

‘瞼肱・不至積雨浪漏・地£t・之・。以草通蔓溥。・各片

必冰1 良・必使封彫周密・4不暴風・下可流水・庶

無溶化之患。

A}見え、

叉。部邸通志。食貨志の條

圖略附岸治江甫

  

冰廠…………支木建廠。茨草其

  

上。掘地篤窪。用以貯冰。

 

と&りヽ更に支那省肘全誌第十

 

三春(大正八年刊)五四七頁には

  

冰廠は土を以て深く氷を覆ひ

  

其上を藁を以て三角形に葺き

  

日光を遮れり。其大さ大抵方

  

四、五間あり。

   

 

と述べてゐることによって大観

 

その二斑を察知することが出来

 

るであらう。

     

’`

  

十月以後ヽ賑候がぎ冷に赴きヽ

へ結冰の時節になると、収穫後O

田に水を濯ぎ結冰させる。早晨二三時頃、月光に乗I

て田中の冰を移して冰廠の中忙。貯蔵する。この仕事に

25

丿慾

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ひ蚕’藍、ぶ9

 

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錘冰,す廠

 

るの`と

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従事する者を擾冰と稀するが、多くは近隣0農民を雇

。傭する。気候蔽塞で工作が顛苦である開係上、努賃は

普通の悟働者より高く、毎一時間、約二角位で0 。

春夏の間、漁紙期に至ると、漁船が雨江を下って、冰

廠のある地方に来る。冰廠から漁船に冰を運搬するが、

これを挑冰といふ。挑冰も亦農家0子弟0従事する所’

である。毎指、途0遠近を計って價を定めるが、壮健

なぞ者は日に能く銀一元以上を獲るといふ。かやうに

冰業による利釜が福富大きい関係上、浪江一帯は人口

伺密で、農耳は噸惰の風を生じてゐる。。この地方一帯

に賭博が盛に行はれるのも一に冰業による収入から、

金廻りが割合に多いからだとせられてゐる。

 

この冰廠を形成する者に、貰廠と伶擾と0二種があ

る。前者は業主であり、冰廠を徨戸に租具する。廠崖

          

      

の材木は貰廠心脊椎r声るがヽ竹草ヽ゛雇傭勢働者その

他の費用は一切、擾戸持ちである。但し大抵の場合、

多くは擾戸は租價を出さすして冰0費上高を業主と均

            

分する。そこで、糞年(冬寒冷にして冰多き年をいふ。

従って原則的に檀生産費は多く要するが、費冰價は低‘

下するわけである)に遜へば、捺戸の損失。は甚だ大き

い。之に反して業主は損失を蒙ることなく、只利盆を

受けることが僅少なるに過ぎない。近年冰廠が次第に

衰落し始めたのは、舟山群島に於ける漁業0衰微とも

開係するが亦冰廠のかxる機構0うぢにも原因が潜ん

でゐると考へられる。

 

’冰價は漁業の盛衰、及び冬夏雨季の寒暑、従って又

冰量0多少に依って決定せられる。そこでこ0地方の

冰業者は漁業0腿展を希ふと共に寒暑の気候に對して

は重大なる開心を寄せてゐる‘。この地方の諺に「露天

喫飯」といふ0があるが、全くこの間の微妙なる心理

舷態を穿ってゐる。又この地方には天年、(冰少き年を

いふ。従って冰價は高騰するわけである)糞年といふ

成語があるが、亦かxる間の事情を最も端的にあらは

した表現法であらう。

 

普通、天年に逢へば冰價毎檜三四角であるが、糞年

には僅かに三四分、天年の十分10一にしか過ぎない。

これを以てしても、冰業者がいかに天候には敏感であ

『るかJ^窺はれよう・。民國二十三年の調査によると、和

豊紗廠から楊木喫まで二百締の冰廠の生産額は、巌寒

のた曲、百二4 冪薔にも達べ總價格轜十八萬元に過

26-

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ぎたかつたといはれる。卯ちI、備の價は一角五分とか

      

るわけである。

 

- j

 

冰業の衰退が以上述べた如く、諸種の原因によるも

の。であることが、明らかとなって来たが、更に原始的

なこの冰業自身についても反省が加へられねば左らな。

い。支那省別仝誌第十三春五四七頁には

 

茲だ注意すべきは、営地方に於て魚類貯蔵に用ゆる

 

氷にして、這は冬季水面に凍れるものを凍るに従っ

 

てヽ之を掻き集め、氷廠0中に貯ふるなり。………

 

是等0氷は既述の如く、不完全なる方法に由り、得

 

たるものなるを以て、其不純たる事到底我國に於け

 

るも0泡比すべくもあらす。且大塊なく、悉くザタ

 

くせる小粒なり。

    

と述べてゐるやうに、近代工業0狸建した今日、原始

的な方法にょりて生産せる冰、而も「天」に制約せら

れ。る所の冰を以て、果して近代吐會0生産部門に互入

してぃっまで競争をなしうるや否や。ヽ併し今倚かゝる

冰廠が巌存してゐる事賓は否むことは出来ない。

-

-

-

        

    

 

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。≒Z-

 

`前二節に於t冰廠の最近の大盤0概況を述べた揖り

であるが、吾々にはむしろ冰廠騒生の原因、冰廠の歴

史に興味が感ぜられる。

 

冰廠が浙東に於ける漁業心騒迪と開1 して騒生した

ものIであるとすれば、。冰廠の起原をたづねんとすれば、

営然研東に於ける漁業の歴史をもふりかへつて見る必

要がある。漁業が原始産業の一である以上、漁業の歴

史は人と共に古いといふことはい・ふまでもたい0で、

かXる酷吐姑く論外に措くとしても、史記巻一二九貨

殖傅に‘

 

楚勘之地。‐地膚人希J飯稽着魚。

と見えてゐるから、春秋時代に已に偉業が浙東に於て◇

行はれてゐたととは事資である。。

 

併し、浙東0漁業が重要なる一産業部門として、赦

會に。出現して来た0は支那の歴史0大勢から考へ名と、

江南が開硬せられてから後の事に’屡するやうに考へら

へ⑧

れる。隋書巻三一地理志に

      

ヽj

 

江南之俗t火耕水野食魚真稽。以漁賦鴉業。雌無

 

蓄積之置。然而亦無償叙。

と見える事債から考へると、’隋代に於ても浙東の地域’

27-

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I1

        

                          

~-

゛は恂未だ充分文明開化の域には達してゐな。いやうであ

   

元来この地方は、賓慶四。明志巻四斂産に‘’

 

聡明州が國際貿易場とし゛登場する゜は唐代から゛

  

明之穀有早禾゜有中禾゜有晩禾ク’`゛’一歳む入゜球

  

あるがヽ浙束の漁業も亦明州o輦

  

やうに推測せられる。元和郡謳志泰二ぺ明州貢賦元和

   

市匝斗篤銭数百。

  

貢の條陀は

        

’ヽ‐’

          

とあり、大徳四明志巻四五穀0條に

    

海肘子

 

橘子

 

紅蝦米

 

鯖子

 

紅蝦

 

齢烏蝿骨『

    

田之近山者多年乾。近海曹多斥嘸粳臭樗咸不宜焉。

  

とある如く、多敷の魚類の名が示されてゐるが、‐この

   

則子土能有幾何。故歳得上熟。僅可供州民数月之食。

  

頃忙至っ了

  

ばしめる。

    

--

      

        

と見えるやうに、米穀の自給自足が出来ない。かうい

    

明州を中心とする浙東地匝は宋0南波と共に大いに

  

ふ勤にもこ0に地の漁業が周囮の地理的條件―‐‐主とし

  

翔疲せられるが、それと共に漁業t未曾有の妾展を燧

  

て舟山群島の漁場の存在等―と結兪して妾達すべき

  

げたやうである。南宋時代から元代にかけて編纂せら

 

t情勢下におかれてゐる。至正四明鏡志巻五土産の條に。

  

れた寧彼の地誌が現在多数に残っ。てがるが、そこに記

   

五穀之生。。隨地所宜。。’郡居海瞰。’民趨漁業。‐況山僥

                   

             

     

            

 

  

されだ魚類め種類0豊富芯は全く漁業の盛大さを反映

 

’‘

 

地硝。種蔀辛苦。民無終歳え蓄。計之戸口。籍販頼

  

してゐるものと考へられる・賓慶四明志巷四敵産の條

   

者牛之。政不可不備其名数務本之義也。土産庶物惟

  

      

    

。-。

            

海錯居多。然亦録所常見者。非有所略也。

    

石首魚……一名鰻j:拙中者曰石筒。三四月業海人。ヽと言ってゐるのは、かざる間の事情を傅へて祐る。

  

毎以潮8 覧往探之。曰洋山魚。舟人連七警出洋取之

   

かやうに漁業が登達しながら、一方に於て米穀がそ

  

者多。至百萬鰹。と見えるのもいかに漁業が盛大であ

  

の住民の需用を充たすに足6 ぬとすれば、漁獲せる魚

  

ったかを物語る」盈左こ

28-

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225

     

  

  

 

J―一―yI

  

         

  

 

 

  

    

』―・

 

                

々≒J・

なならぬ。一八置廠類は腐敗し。易く、生魚?

蓮ぶことは困難である。そこで之を永く腐敗させぬ方

法が考へられる。賓慶西明志巻四斂産(至正側明績志

春五土産同)の條忙

 

紫魚子多。而肥。夏初曝乾。可以致遠。

とあ;Q。、至正四明鏡志春五土産の條に

 

舟人春時得之(比目魚)則曝乾篤瞳。可致遠。

と見えるやうに’乾魚にする方法がおる。或ぱ又賓慶西

明志春四斂産石首魚の條に。

 

盛之可経年。謂之郎君餐。

と見え、至正四明鏡志春五。土産の條にも

 

石首魚・……皮軟而肉薄。用磯酸之。破脊而枯者日餐。

 

仝其魚而醵曝之。謂之郎君徴。f皆可紘年不壊。通商

 

販於外方云。’

と見えるやうに’、盛魚にする仕方もある。これらの方

法は宋元に至って始めて考へられたものではなく、已

に古くからかゝる方法が用ひられてゐる。史記貨殖傅

に「鮑千釣トと見える鮑、渡記内則に’「夏宜諾鎗」と

ある雛等皆乾魚に外ならぬ。周憩天官家宰の條に醒人、’

が魚醵を掌ると杏るガパこれは已に古く‘から盛魚のあ

つたことを示してゐ名○-i

  

    

  

。’`

 

  

 

 

・こ9外、采元時代に至ると、

 

’詫魚・…。・・肉白皮赤。腹下有赤血。如芝。謂之頭然。・‐

 

常認海水。則有蝦立其上。土人以姜酷食之。其白肉

に腰切。用轍浸。謂之水母線。可茸遠。(本草圖経。・

 

至正四明後志巻五土産。)

     

‐i.

と見えるやうに、明捺を以て魚の腐敗を防ぎ、以て遠

くへ販費する方法も考へられてゐる。

。然らばこと

のまx販費する方法は一腰いかなる起原を有するもの’

であらうか。-

 

北支那に於tは、古ぐより冬季結冰を探りて之を冰

室、冰井忌

れ。てゐる。江南地方に於ても越王勾読0冰室があった

AJA)を越鱈書外傅記地傅に傅へてゐる。仲しこれなの

       

″‘

      

 

          

J’

冰室、冰井は多くは王侯貴族0所有物であり、一般庶

民0生’活とは殆んど関係のなS-^Q-であったらしい。

冰が庶民の生活と密接なる開聯をもっのはどうも近世

に入ってからのやうである。費冰、買冰等といふ成1 。

が多ぺ見られるのも唐代以後であり、夏にの冰に瀾すI

29

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2弱

詩が多く讃まれるやうになったのも近世に入ってから

後のことである。例へば南宋の楊萬里の詩の一節に

(誠斎集巻十八賜枝歌)

 

帝城六月日卓午。市人如玖汗如雨。

 

費冰一聾隔水米。行人未喫心眼開。

とある如き、冰が庶民の生活に深く喰入って、そ0生

活内容をいかに豊富ならし葡てゐたかゞ彷彿とするで

はないか。

                 

 

かやうに、冰が已に民衆の生活と密接なる開係をも

って来ると、冰を管業用として貯截する方法が考へら

れるのは自然の勢であらう。冰廠が生魚の運迭に利用

せられるために疲生したとて怪しむに足らね。‐管見の

及ぶところでは、先にも引用したが、乾隆鄭謳志巻二

八物産の條に

      

 

III

    

 

販至省城貿之。

とある如く、已に明代に於て生魚の運搬に冰を利用し

てゐるから、雨江沿岸の冰廠の起原も、少くとも明代

に湖るととが可能であらうと考へられる。’

 

かやうに近世に於ては漁業0腿建に件って冰廠が晨

生する。それは庶民殊に郡會人の生活内容を更に豊富

にする。中世までは主として特権階級の奢侈品であっ

た冰も、近世に至るともはや奢侈品でたくな’り、普く

庶民0間にゆ漣わたゐ。乾魚や盛魚が海の幸として重

賓がられた時代は已に過ぎて生々しい生魚の料理を膳

に盛ることが出来るやうになった。山海0珍味を一膳

の上に蒐めて味0殿堂に享楽の生活を恣にする都人士

の生活は支那人の羨望の的である。郷鍾0地主は金が

出来ると、新城に住まんことを欲し、新城0地主は更

雨東浪江居民。多截冰篤業。謂之冰廠。夏初慾取以

  

に省城に住まはんことを希ひ、爾後は上海0租界内に

    

佐海魚行遠。

                   

住居することを以て最大の理想としてゐたといふこと

とあるのが、冰廠の交歓に見える最初の記載である。

竹こ急診府言混紡冊知鉱賢兄餌)

 

石首魚一名黄魚。産於海。個五月中。杭人載冰出洋。

であるが、これは生活0安4 を得るためでもあるが、

更に豊富たる奢侈生活を享楽するためでもある。宜た

る哉丿舟山群島の魚類は現在殆んど上海にて舎館し轟

されてゐる。併し用ふる所の冰轜もはや原始的な冰廠

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Page 10: Title 冰廠 東洋史研究 (1942), 7(4): 219-228 Issue Date URL https ...€¦ · 民の統計を示して一集、計書調査三六頁同)主なる漁港の盾在地並にづいては、鄭鄙通志食貨志漁業の條に、(鄭籐建設第雨江0漁船とは寧波0いかな泰地亘のも0とある記事によっても知ることが出来る。こ之八東郷。梅墟江檀。必購冰貯鯉下-。(蘇麻通志)コ1。を指すかに漁’

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ぶ冰ではたい。雨江、の冰廠巣し。て匯くばく・の蓮命?i8i-=>

や。

 

{補註}

                  

’‘

  

①ご支那省別全誌第言。一巻五四七頁參優一

  

 

J躯極志第五食貨志甲編農業

    

・。

    

全躯田價信計表(民國二十年頃)

 

 

一一一一ブ

二]

 

同書

               

   

   

〔鄭嶺〕‐梅墟之冰田。毎畝在五百元左右。惟此皆因

   

貝母奥冰業之利。有以致之。’

  

同書食貨志乙編魚甕の條

 

          

’‐

   

浪江〔雨江〕一帯農田。4 畝價値。。在五百元以上。皆

   

因冰業之利也。

        

 

捺冰の努賃】時間二角(民國二十年頃)が他の等賃よ、h’

 

。高い七とは次の統計表と比較すれば容易に理解せられ

  

るであらう。f

  

J耶駆通志食貨志庚編生計、゛各業工匠毎日’エ安統計表

(依採民國十九年t軋列入)

搬米屠船鞍桟理榛五寥石裁凛木名

       

人工夫夫匠司髪匠夫匠縫匠匠

 

ヤ・一一二一、一二一一〇一`一一

 

最゛●

 

 

 

 

 

 

 

 

’●

 

 

 

 

●○一〇〇三〇〇〇五九二・〇〇

〇〇〇〇○○○○○○○○○

元元元元元元元元元元元元元

 

              

-○○○○・○○○○○○○○○

 

 

●I

 

●;●!●

 

 

 

 

 

 

 

 

●四三三四三二五四四四三三三

〇〇〇9五八〇〇〇〇七〇〇

元元元尤元元元・元、元元元元元

 

低.

一一○○○○○○○○○○○○○

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●五五四六五五八七八七七七七

口○五〇五〇〇〇〇〇五五五卜仙元元元元元元元元元元元元元

 

 

浙東地方を族行して先づ感することは(浙東のみに限

  

らす、特殊の地方を除く支那全饅といふ方か適切かも

  

しれぬが)樹木と稽すぺ/≪i*aのは’殆んどすべて伐採せ

  

られて、山とにいふ山は皆禿山になつてゐるf`とてあるo

  

かういふ現象は家那に於ては翰程古が時代から変生七`

  

てゐると’見えて、孟子等も牛山をその引きあひに出し

  

てゐる・宋代に於ては側封府の貴族をめぐつて屡々材

  

木の疑獄が蔓生してゐるが、これは材木が鴬時の支那

  

に於て大いに櫛底りてゐた鮎から起つてゐる。又鼎革

  

`の際、或は朝廷が新しい宮殿を造築する時には、腕酉、

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四川奪の奥地から材木を都まで運搬してゐるが、その

  

結果その價格は非常に高價なぎのになる。南宋等では

  

盛か日本から檎杉等の材木を輪逞して、宮殿の用材に

  

充ててゐる。現在でも寧波の輸入品の内には材木があ

  

り、重嬰な輸入品の一項になってゐる。そこで、浙東

  

に於ては材木は随分高價を呼ぶ・浙東に於ける製甕法

  

の改革、印ち煎甕法から晒甕法に改めようとしても仲

  

々責行が出来ないのも甕板印ち杉板製の晒板が非常に

  

高價な結果である。

   

冰廠用の材木が貰廠の負据になって。ゐるのもかsる

  

鮎に理由があるやうである。

 

以上冰業に闘する況明は鄭螺通志食貨志乙編魚甕の條

  

によるものである。

 

國語巻二〇越語上に

   

勾賤之地。南至于句無。北至千禦見。東至于鄭。西

   

至于姑蔑。廣運百里。

  

とゐれば、越は今の郵願を合む所の浙東地方をも領有

  

してゐたことが知られる。

  

 

乾逍四明圖纒倦四定海願の條には

   

梁開平三年。鏡氏嫁呉越。以其地有魚姪之利。始開

   

邑omw.海。旋改日定海。皇朝閃之。煕寧十年o割

   

郵麻之海晏・霊像・太丘三郷。隷本願。元豊元年。

   

復割本麻金塘郷。腸昌國。……九域志淫上、願。。

  

と見えるやうに、定海瞬の変生を魚甕の利に基くものI

  

乏してゐるのは註目に値する。之を逆に言へぱこの地

 

 

方の漁業は五代の頃から大いに襲注したものと考へる

  

にとが出来るであらう。

 

乾隆鄭聡志巻二八物産、石首魚の條には

   

春末夏初。佐以蔵冰。日冰鮮。同志

  

といへる如く、聞氏の康煕部懸志を引いて、冰詰にし

  

た生魚を冰鮮といふと見えてゐる。

〔附記〕

 

本稿は筆者が本年四月一日から十六日にかけて浙

 

東地方を旅行した時、船上から冰廠を逍望して、その多

 

きに驚き、且つは興味を畳えたので、蹄國の後、冰廠に

 

関する資料を渉猟してものしたものである。冰廠につい

 

て直接調査をしたわけでないか、ら細部にわ仁つては不明

 

の鮎が多い。又起原についでも鳶に古い資料がある加も

 

しれぬ。編輯子の請はるsまsに、。旅行のおぼえがきと

 

してこの稿を草した。大方の叱正を希ふ次第である。

               

{昭和十七年七月十日稿了}

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