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Title <文献紹介> 経済学者の追悼文集 Author(s) 杉原, 四郎 Citation 経済資料研究 (1997), 27: 40-54 Issue Date 1997-05-20 URL http://hdl.handle.net/2433/79815 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title <文献紹介> 経済学者の追悼文集

Author(s) 杉原, 四郎

Citation 経済資料研究 (1997), 27: 40-54

Issue Date 1997-05-20

URL http://hdl.handle.net/2433/79815

Right

Type Departmental Bulletin Paper

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Kyoto University

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〈文献紹介〉

経済学者の追悼文集

杉原四郎

はしがき

私は約20年まえからわが国の経済学者の追悼文集を蒐集してきた。

単行本で出たものや雑誌の特輯号として出たもの,あるいは遺稿と追

悼文をあわせたものなど,さまざまの体裁がある。明治にも福沢諭吉

や田口卯吉のものなどが出ているが,私は拙著『思想家の書誌J(日

外アソシエーツ, 1990年)で約100点の追悼文集を紹介した。その後も

蒐集を続け,関西大学の『経済論集』に紹介してきたが,本稿は,最

近私の手元に集められた追悼文集から11点を紹介するものである。専

門的な経済学者に限定せず,社会運動家や歴史家・評論家で経済学に

関する業績の持主,あるいは哲学者であって社会科学経済学にもかか

わりのある著書のある人などもとりあげている。近代日本の社会経済

思想史をたどるうえに有益な情報源となると思い,経済資料協議会の

会員の方々などの御支援を得て,この資料紹介をつづけてきたわけで

ある。

ここでは19世紀の後半に生まれた6人の経済学者の追悼文集をとり

あげる。そのうち山路愛山のみは在野の歴史家でありかっジャーナリ

スト,社会運動家でもあるという異色の存在である。

新滋戸稲造(1862-1933)

新渡戸には前田多門・高木八尺編『新渡戸博士追憶集J,故新渡戸

博士記念事業実行委員会, 1936年があるが未見。ここではつぎの三つ

の資料を紹介する。

矢作条蔵会員の筆になると推測される英文追悼文がProceedings01 the

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lmperial Academy, 9, 10, 1936に掲載,日本学士院『学問の山なみ』

第一, 1979年に所収。

鈴木英雄「新渡戸稲造博士と東大経済学部J. r経友J101号, 1985

年2月,新渡戸が明治14年札幌農学校を卒業し,開拓使庁につとめた

が,同16年農政学を研究するために帝国大学文学部に入学した。だが

大学の講義に失望し,翌17年アメリカにゆき,ジョンズ・ホプキンス

大学に学び,更に札幌農学校からドイツ留学を命じられ,ボン,ベル

リン,ハレの諸大学で学んだ後帰国,明治31年『農業本論J, r日本

農業発達史jを発表する, 36年彼は台湾総督府技師を兼任のまま京都

帝大教授になり農業経済学を担当した。ところが新渡戸は39年,第一

高等学校校長兼東京帝大農科大学教授となり,さらに42年東大法科大

学に植民政策の講座ができると法科大学教授に就任し,植民政策や経

済史を大正 9年まで講義した(矢内原忠雄編 f新渡戸博士植民政策講

義及論文集J,岩波書庖, 1943年を参照)。

こうした新渡戸の経歴を『東大百年史』ゃ『東大経済学部五十年史』

などによって鈴木は書色新渡戸から「植民政策jをひきついだ矢内

原忠雄の諸著作や松隈俊子『新渡戸稲造J(みすず書房, 1981年)を

参考文献にあげている。

三番目は雑誌『新渡戸稲造研究』である。本誌は新渡戸の生誕130年

を記念して新渡戸稲造会(盛岡市)が1992年 9月に創刊したもの(現

在は年に一回刊行)である。創刊号・第 2号の日次(一部省略)はつ

ぎの通り。

第 1号

高橋富雄 rr武士道jにおける『日本的』と『普遍的JJ 切替辰哉「新渡戸稲造と内村鑑三と宮部金吾ーーそのアンピション

.仁愛と道義一一J鳥居清治「新渡戸稲造と協同組合運動一一洞察の明,先見性に学ぶ

佐藤みき子「偉大な国際人を育てた新渡戸勢喜一ーその生涯を顧み

て一一」

第2号 (1993年9月,没後60年)

コプリー,佐藤全弘訳「有明月に古書を読む一一一ヴァンクーヴァの

- 41ー

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新渡戸記念庭園一一J米沢和一郎「新渡戸稲造と賀川豊彦一一国際連盟と協同組合の精神

一一」

エルキントン,加藤武子訳「新渡戸稲造博士とメリー, P. E. ニト

ベJ(下)

(上)は第 1号にのった。(下)は第 3章ドイツ留学以降第五章学問

の成果と実践まで。加藤武子は稲造の孫。

第二号には1992年9月東京でひらかれた生誕130年祭の記録がおさめ

られている。小島悦吉(北大),川田侃(東大),松隈俊子(東京女

子大)のスピーチもふくまれている。また第 2号の末尾に「資料jの

欄があり,そこで,田辺定義は東京・多摩霊園に建った銅像について

の経緯をのべ,また藤井隆至は新渡戸の柳田国男あて書簡 2通を紹介

している。

第3号(1994年9月)には,巻頭に新渡戸の「平民道(デモクラシ

ー)Jをおき,内川永一郎(岩手日報常務) r平民道に通ずる平民宰相

一一原敬と新渡戸稲造の大正時代」など11編の論文をおさめる。

『新渡戸稲造研究』については,杉原「経済思想家の研究雑誌J(関

西大学『経済論集』第45巻第4号, 1995年11月)を参照。

山路霊山(1864-1917)

大久保利謙編『山路愛山集1.明治文学全集35,筑摩書房,巻頭に

遺影など写真 6葉。

本書は大部分が愛山の著書と論説を収録したものだが,巻末に徳富

蘇峰はじめ愛山の追悼文をあつめ,巻末に解題・年譜(著作目録をふ

くむ)・参考文献(大久保利謙)をつけているので,全体を広義の追

悼文集としても読むことができょう。本集の月報には平林広人「愛山

と信慢J,西団長寿「愛山・華山・蕨村Jの2篇がふくまれている。

徳富の「愛山山路禰吉君J(r国民新聞J1917年3月20日,愛山は

3月15日に没)は, r君が明治20年,静岡より始めて書翰を東京なる

予に投じてより以来・H ・予の手を握りて,最後の息を引き取る際迄,

予を以て共に議す可き一人となせり」といい, r其の死に瀕するや日

く, r此より明治天皇の御国に赴かむ』と。生時元気溌刺たる好男児

は,其の死期に際して,一層見上げたる好男児として逝けり」とのべ

42一

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ている。

服部之縛、は「史家としての愛山J(r唯物論研究J. 1935年 6月)

で. r蘇峰山人は日清戦争を縛機として『記者』的史家に転じ,愛山

は日露戦争とともに国家社会主義史学を創出し,三叉(竹越与三郎)

は大正期護憲運動の当時までプルジョア民主主義史学の正系をまもり

とおしたH ・H ・それぞれの道をたと守って『民友社時代』としての明治20

年代をいま一度ふりかえれば,果敢な実践の10年代のとばりが夕闇と

なって拡がる大空を. r史学jとしてのミネルパのふくろが,鷲のご

とく雄大に舞うているのだjと書いている。また愛山の三男平四郎は

「父・山路愛山のことJ(r早稲田公論J1965年6月)の中で. 12才で

死別した父の思い出を語り,最後にこうのべている。

fせめては畢生の業とした『日本人民史』を完成させたかった。けれ

ども,それにも増した喜びは,その死際の立派だったことだ。死の30このしゃば

分前. r這裟婆はとても去られぬ世なれども生れぬさきの国に行かな

んJの辞世を遣して世を去った。従容せまらずとは正にこのことだ。

それは,わたくし等子供の心に深い感銘を与え,今なお昨日のように

目に浮ふのである。」

私は本書におさめられている愛山の『現代金権史J(1908年)や大

久保によるその解説や『豊太閤J(1908-9年)の岩波文庫版と朝尾直

弘のその解説などをよみ,山路の諸著作はわが国の民間史学の伝統を

きずいて現代の司馬遼太郎に及んでいる一一朝尾は rr日本人民の中に

潜める可能性』を問う所に本著『豊太閤』を著作した農の動機があっ

たjとのべているーーと思った。別稿でとりあげた司馬遼太郎の追悼

文集とともに本書を採録した所以である。

塩沢昌貞(1871-1945)

『早稲田大学史紀要1.第 5号. 1972年3月. r塩沢昌貞博士を偲ん

で一一生誕百年記念祭講演録一一」

塩沢昌貞名誉教授は,敗戦直前の1945年7月8日に病没したので,

その追悼の行事は当時見送られて来た。やっと生誕百年にあたる1971

年6月21-23日にその記念祭が早稲田大学で行われ 6月22日に小野

記念講堂で講演会が聞かれた。つぎの 5人が壇上に立った。

開会の辞 小松芳喬

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塩沢昌貞先生を偲んで 北沢新次郎

恩師塩沢昌貞先生 小汀利得

日本経済学史上の塩沢昌貞博士 本位田祥男

塩沢昌貞博士の経済学 高垣寅次郎

前掲の『紀要jには 5人の講演要旨を掲戴している。小松・北沢

両氏は早稲田大学教授,小汀利得氏は早稲田出身のジャーナリスト,

他の 2人は他大学の教授であり,塩沢と学問的交流のあった人である。

ここでは本位田祥男(元東大教授・独協大学教授)と高垣寅次郎(元

東京商大教授・成城学園名誉学園長)の講演を紹介する。

本位田は塩沢学説はドイツの新歴史学派を承継し,それを日本の実

際問題に適用したものであるとする久保田明光の所説を紹介し,この

特色は塩沢をそだてた水戸の学風,大日本史を生み出したその学問的

風土に根ざすものだという。そして塩沢がアメリカでイリーフ, ドイ

ツでコンラッド,ワグナー・シュモラーに学んで歴史学派の研究を積

んだとのべている。塩沢の業績では,大正11年に『国民経済雑誌』に

発表された「経済と倫理との関係についてJという論文や,日本社会

政策学会での報告「工場法と労働問題」や,大日本文明協会から出版

されたトートミアンツの『消費組合論jの塩沢の序文(本位田はこれ

が塩沢の手になるものと推定している)に注目している。また高垣寅

次郎は塩沢が大正12年のスミス生誕200年記念講演会で行った「アダム

・スミスの想源jと,塩沢述『経済学原論J(文興堂, 1940年)という

講義ノートに注目している。

『早稲田大学史紀要jには,塩沢についての文章が多く見られる。主

なものをあげておこう。

久保田明光「恩師のノートー一一塩沢昌貞博士一一-J.第4巻, 1971

年 3月。

藤原洋二「塩沢昌貞博士と金融論J,第20,21, 23巻, 1985-91年。

小松芳喬「追慕塩沢昌貞先生J.第21巻, 1985年3月。

塩沢弘雄「父塩沢昌貞の学問と思想に対する評価に関する私見J,

第22巻, 1990年 3月。

贋部周助(1875-1907)

康部周助は東京帝国大学政治学科を明治33年7月に卒業,農商務省

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で調査事務を担当,かたわら専修学校などの講師をしていたが,明治

35年 5月京都帝国大学法科大学助教授となった。明治38年 8月欧米留

学の途に上り, ドイツの諸大学に学ぶとともに,東欧も旅して統計調

査に従事したが,不幸病を得て明治40年 8月 1日ミュンヘンで没した。

f京都法学会雑誌j第2巻第 9号(明治40年11月)の雑録・会報欄に

庚部に関する記事が二つのっている。一つは彼の葬儀が9月17日洛東

智積院で行われ,井上学長と学生清瀬とが弔詞を読んだとある。もう

一つは同僚友人の神戸正雄の[法学士庚部周助君小停jで,故人が千

葉県君津村の出身,千葉中学第一高等学校を経て東大に入ったこと,

ドイツではミュンヘンでブレンターノとマイアの両教授に師事したこ

と. r経済学ハ其ノ専攻スル所ニシテ就中統計学,工業経済論ニ於テ

造詣最深jいことなどを記している。

丸谷喜市(1887-1974)

『凌霜J.神戸大学凌霜会,第243号. 1974年 9月O

はじめに故人の門下生でその「経済原論」講義の後継者である林治

ーが「故丸谷喜市先生御葬儀jを書いている。 1974年 7月10日に86才

で急逝した故人の葬儀が徳光院で同12日に行われたことや 7月 8日

阪急電車岡本駅で転倒・骨折して入院,肺炎で 2日後に逝去したこと

をのべている。以下同窓生,同僚,門下生の弔辞や追悼文が12篇と略

歴・主要著作リストがのっている。主著は『経済学原論J(1928年,

42年改訂14版)で,歌集 (r務古山麓より J. r星に泉にJ) 2冊があ

る。また遺影一葉と葬儀式場の写真一葉が掲載されている。

福田敬太郎は故人の神戸経済大学学長時代にその幕僚の 1人だった

時の思い出をのべている o 1945年 3月17日の空襲で催災した同僚のた

めの職員寮の開設を学長に相談して承諾を得,そこに10名前後の教職

員が起居を共にした時,故人が「事細かにわれわれの日常生活の上に

配慮されたことは忘れることができないJ0

また家本秀太郎は. r丸谷先生の中には,一つは大きいスケールの

人間性,二つは学究者としての丸谷博士,三つは歌人としての八十島

元(以前は「緑雨J)の三つの人間像が……一個の丸谷喜市先生とい

う全人格を形成していた」といい,故人が林治一助手のためにボェー

ム・パヴェルクの主著を「毎週一回講讃され,経済計画学へ逸脱のわ

- 45-

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たくしも参加を許された」ことをのべている。

故人は函館の出身で,一歳下の石川啄木とそこで友人となり,東京

高商時代に東京朝日新聞につとめていた啄木とまた親しくなった。 2

人の学友関係は, r啄木と経済学者NJという朝日新聞1996年11月21

日(r風景ゆめうつつJ18)にくわしい。丸谷には前掲の歌集の外没

後に出た『茅淳の海J (1975年)もある。神戸大学退官後,甲南大学

や大阪産業大学の教授としても活躍した。

本庄栄治郎 (1888-1973)

『経済論叢J,京都大学経済学会,第112巻第 6号, 1973年12月。

巻頭に故人の遺影と略歴をかかげ,つぎに京都大学経済学会の「哀

辞」をのせる。それには11月18日に永眠した故人(京大名誉教授)の

京大における経歴,日本経済史学界における功績, 1965年に文化功労

者になったことなどをしるしている。

f社会経済史学J,第39巻第4号, 1974年。

堀江保蔵「本庄栄治郎先生を憶うJ堀江は本庄の門下生で京大経済学部での経済史・日本経済史の後継

者。恩師の学問的業績を語るとともに, r先生は教育行政的手腕の持

主でもあったJとして,とくに故人のすぐれた行政的手腕の産物とし

て日本経済研究所の創立と運営をあげ,最後に故人が「研究文献を大

事にすることjの例として文献目録の編集事業の発行すなわち『日本

経済史第一 第六文献jや『経済史文献解題jの年々発行をあげ,

「学界のこの『縁の下の力持ちj的な仕事を,先生が世を去られた今後,

どのようにするか,門下生たちに与えられた大きな課題であるJとの

べている。

この最後の『日本経済史文献jについて藤井定義は,大阪府立大学

附属図書館の『図書館だより J,第七号(1980年9月)に書いている。

それによれば, r第六文献jのあとも『第 7文献』が1977年に黒羽兵

治郎によって編集公刊された。日本史・東洋史・西洋史をふくむ I経済史文献解題j (ともに大阪・清文堂)も引きつづき刊行されている O

本庄の功績としては, r経済史研究.1 (経済史研究会→日本経済史

研究所,月刊)を1929年11月から1945年 1月まで存続したこと(この

雑誌については杉原『日本の経済雑誌J, 日本経済評論社, 91-94頁

-46ー

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参照)もつけ加えるべきであろう。

故人の年譜は, r本庄栄治郎著作集』第10冊(大阪・清文堂)1973

年)の巻末にあるものが最もくわしい。故人は京大を退官してから大

阪商科大学,上智大学,大阪府立大学,龍谷大学につとめ,龍大を

1969年にやめて長年の教壇生活を終えた。私は1939年京都経済学部に

入学,先生の経済史や日本経済思想史の講義をきいたのだった。その

頃先生は京大の図書館長の職にあった。私が日本経済思想史関係の論

文抜刷をお送りしたら,御返事とともに『先学遺文J (自費出版物)

を送っていただいた。

E

ここでは19世紀末から今世紀初頭にかけて生まれた 5人をとりあげ

る。島恭彦と広松満以外は大学人だが,他の 3人は政治の世界にふか

いかかわりをもちながら,その生涯は経済学の動向にもつながるもの

であった。

三木清(1897-1945)

三一書房編集部編 f回想の三木清J, 1948年, B6版, 226頁,はし

がき,あとがき等は全然ない。巻末に析田啓三郎編の年譜及著作目録

がある。

本文に13人の追悼文をおさめる。

波多野精一「三木清君について」は,三木清記念講演会で代読され

たメッセージ,谷川徹三「哲学者としての三木清Jも,その時の講演

で,ともに京大の学生だった頃の三木から,卒業してやがて上京し,

その後迂余曲折した人生をたどりながらも哲学の研究者として歩みつ

づけた三木の一生を語っている。

大内兵衛「三木清君の死に方」は, r哲学者三木君の死は日本にお

ける思想家一般の死に方として特殊であろうか。軍人東燦の死なない

方は日本武士の死に方として普遍的でないであろうかJとのべ,高倉

テル「知識の良心Jは,三木の遺児洋子にあてた手紙のかたちで,

「昭和19年の私の事件のために,当局のやばんなだんあつをうけ,つい

にひきんな死をとげた三木清くんJが,どうして「私の事件Jにまき

こまれたかという直接の事情や,二人が京大で知り合ったそもそもの

出会いの頃や,三木が外国から帰って東京でくらすようになりまた新

47 -

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しく近づいたことなどを語っている。三木洋子「疎開していた頃jは,

父と二人で埼玉の農家に疎開していた時の思い出をのべている。 1944

年3月12日,そこで高倉テルがたづねてきて,一泊して帰ったこと,

そして r3月27日(岩波茂雄の貴族院議員選挙の日)に上京したきり

父はもう帰って来なかった」と書いている。

豊島輿志雄「三木清を憶ふJ.中島健蔵「三木さんの死J,清水幾

太郎「三木清J.佐藤信衛「三木清氏の憶ひ出J,小林勇「孤独のひ

とJ.中井正一「三木君と個性J.羽仁五郎「わが兄・わが師三木清Jの文章は,中島の場合のように,三木の死の直後, 1946年10月26日に

書いたものもあれば,小林勇の場合のように,その一周忌に書かれた

ものもある(羽仁五郎のは1946年10月5日京大での追悼講演)が,友

人や後輩として故人の追憶を語っている。清水幾太郎は,戦争が始ま

ってわれわれは日に日に徴用され, r三木清はフイリッピン,中島健

蔵はマライ,私はピルマと方面は違ったが南海を渡っていった。彼が

フィリッピンで何をしたか。何を考えたか。彼は書かなかった。語ら

なかった。彼ばかりではない。吾々は一様に黙っていた」と書いてい

る。私は三木がフィリッピンから帰って間もなく,京大で高山岩男の

紹介で講演したのをきいたが,遅しく日焼けした風貌が印象にのこっ

ているだけで何を語ったか全く覚えていない。羽仁五郎はハイデルベ

ルクで三木清とはじめて会った時の思い出をかき, r三木さんはその

ころから非常に思想的に大きな飛躍を始めたように思いますjとのべ

ている。

最後の文章は久野牧の「足跡」で,これには「肢にかえてjという

副題がついている。久野はそこで三木清が31才で書いた『唯物史観と

現代の意識J(岩波書店, 1928年)が当時の思想界に与えた大きな影

響を力説してつぎのようにのべている。

「社会主義を出来るだけ経済学や政治学の領域に閉じこめることによ

って,社会主義との哲学的対決を回避しそのことによって,時代の

激流の中での態度決定を免れようとしていたアカデミィの哲学に対し

て,福本イズムは,ブルジョア哲学という,激しい攻撃をあぴせなが

ら,力強い挑戦状を投げかけたのである。アカデミィの専門哲学者た

ちは,あくまで無視と冷笑の態度で,福本イズムをあしらおうとした

- 48一

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が,青年学生の純真性は,当然かかる態度を不徹底なものと感ぜざる

を得ない。今や従来の哲学と,この新しい世界観とが,いかなる関係

を結ぶべきかを問い,それに大胆に答える仕事を果す人の出現が,ま

すます痛切に切望されるという段階に到達したのであった。その時三

木さんがH ・H ・社会主義が現代哲学の生産性と健康性を快復する重要な

源泉である事情を説明した。その記録が『唯物史観と現代の意識jで

あった。哲学と社会主義とを,どう結合するかに,幼稚ながらも,真

剣に悩んでいたわれわれ後輩の若い学生たちを,この書が,いかにゆ

り動かしたかは,恐らく他の時代からは想像のつかないほどであっ

た」。

木村逸雄 f碑の町散歩J,ヒガシマル醤油株式会社, 72頁, 1978年,

龍野観光協会発売, 200円。

龍野公園を中心に市内に点在する数十の文学碑・頒徳碑を地図入札

写真入りで解説したもの, 50-51頁に,三木清(揖西町小神の三木清

助の長男に生れ,龍野中学を卒業。一高,京大に進んだ)の,龍野公

園白鷺山中腹にある彼のレリーフと歌碑が紹介されている。 rしんじ

つの秋の日てればせんねんに心をこめて歩まざらめや」。阿部知二,

東畑精一,谷川徹三,大内兵衛ら多くの友人の寄附金で, 1964年11月

3日に建てられた。

佐藤一郎・筆名寺島一夫 (1905-1990)

『燭光一一佐藤一郎遺稿集一一J,編集・発行者佐藤義郎(清水市元

神1-3-12)01996年4月発行。 A5版672頁,非売品。巻頭に遺影六葉。

「あとがきJによれば本書は遺族が父一郎(寺島一夫はその筆名)の

遺稿をまとめ,私家版として発行したものである。第一 六章は遺稿

であるが,序章のー.弔辞(波多野完治),二.発刊にさいして(佐

藤義郎),三.寺島一夫とその時代(横本宏)との三つは,実質的に

は追悼文ともいえるもので,巻末におさめられた年譜,著作目録とあ

わせて,本書全体を追悼文集としてよむこともできょう。

波多野完治は東大文学部心理学科で共に学んだ交友60年にわたる親

友で, 1990年 5月10日づけのこの弔辞で, r氏は大学卒業後公的には,

寺島一夫として活動し,その名声は一世に高くなりました。……1935

年の頃には寺島一夫も運動の中枢部に入っていたらしく,生活の大部

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分は水面下にあって見えませんでした H ・H ・-郎さんが捕われの身とな

ったのは,昭和 7年のことではなかったかと思います。結婚してから

間もなくの佐藤一郎さんおよび奥さんには,大へんつらい期間であっ

たことと思います。しかし御夫婦はその試練をたえぬきましたJとの

べている。

「発刊にさいしてJを書いた長男の佐藤義郎は,本書の構成について

説明している。 1976年に71才を迎えた故人がかいた自伝「回顧と展望」

を第一章に,人高時代に旧姓波多野一郎で発表された若き日の文芸作

品を第二章に,戦後に静岡県社会問題研究所の機関誌に発表された文

章四篇を第六章に,そして寺島一夫の名で主として fプロレタリア科

学』に発表された論文についての解説は自分の友人横本宏(明海大学

経済学部)に選定を依頼して,第三章哲学,第四章経済評論,第五章

国際情勢の三章にそれぞれ数篇の関係論文を採録し,序章に横本の解

説を収録したとのべている。そして, r父の著作で触れられていない

私的な事柄と,環境や家庭についてなど,私の目にしてきた戦後の清

水での父の姿」を書いている。強調されているのは,日中友好協会の

仕事をはじめ, rいかに夫婦の聞の協力関係がうまく機能していたか」

ということである。 r父の生涯にとっての最大の誤算は……母に先立

たれた事ではなかったろうか」。

横本は晩年の佐藤一郎を訪ねた時のこと,その後たぴたぴ書状をも

らったことをのべ,その害状の一部を紹介し,晩年の佐藤の心境をっ

たえている。

佐藤一郎・寺島一夫の著作目録をみると,三木清や猪俣津南雄に対

する批判の論文が目のとまるし, 1965年に rrプロ科時代の回顧』一一

野呂栄太郎・大塚金之助のことなど一一J(r経済』第14号)を書いて

いることがわかる。本書を三木・野目・大塚の追悼文集などと読みく

らべると,故人が講座渡として健筆をふるった1920年代の末から1930

年代初頭にかけてのわが国の思想動向を理解する参考となるだろう。

島恭彦(191かー1995)

『経済論叢』第157巻第3号, 1996年3月。

巻頭に名誉教授島恭彦の遺影,略歴と,京都大学経済学会の哀辞を

かかげ,巻末につぎの三つの追悼文をおさめる。

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宮本憲一「鳥恭彦先生の業績を偲ぶJ(立命館大学教授)

広田司郎「弔辞J(関西大学教授)

横田茂「烏ゼミナールの思い出J(関西大学教授)

三人の門下生のうち,宮本は故人の学問的業績を概観しているのに

対し,広田と横田とは故人の人柄・人間性を語りつつ,研究者・教育

者としての基本姿勢についてのべている。広田は. r微醸を帯びられ

て,八高時代のボート部の部歌やハイドンのセレナードなどを口ずさ

まれたお姿,幼少の頃のお嬢さんの手をひかれて農学部近くのグラウ

ンドを散歩されたお姿は,今もはっきりと私の記憶の中にございますJと,横田茂は故人が演習教室でいつも「あらかじめ議論の枠を作るの

はよくない。大切なのは現実がどのようになっているのかということ

なのです」といっていたとのべている。

宮本憲ーは,故人の財政学は,マルクス主義を中心とする政治経済

学と,フランス啓蒙主義以来の西欧民主主義論という二つの,矛盾す

るかのように見える二つの理論が見事に綜合されて,その土台となっ

ており,マルクス・エンゲルス・レーニンからの引用にかためられた

硬直的な理論でなく,フランスやイギリスの啓蒙思想や自由主義経済

学を包含する独自な理論だという。この学風は. r近世租税思想史j

(1938) と『東洋社会と西欧思想J (1941)の二著によって定礎された

とし,その特色を解説する。故人の最大の業績『財政学概論J(1963)

については『島恭彦・著作集J(全6巻,有斐閣)第 2巻の解説にゆ

ずり,最後に『現代地方財政論J (1951) をとりあげて,つぎのよう

に結んで、いる。

「島教授はこの『現代地方財政論jの最終章において,民主的地方自

治は制度ではなく,自由民権以来の民主主義運動にあることを明らか

にされました。そして,すすんで自治労の自治研運動に参加され,さ

らにその先進者グループと一緒に 1963年自治体問題研究所を創立さ

れ……ました。……この研究所を中心とする地方自治運動への寄与が,

戦後史にのこる社会的業績にあったといえるでしょう。」

島自身. r自叙伝忘れえぬ日々J(自治体研究所. 1986年)の第

12章「民主的自治体をめざしてjの中でこの研究所のことについて書

いている O

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なお. r経済J (月刊,新日本出版社,第4号. 1996年 1月号)に

池上淳の,また f住民と自治J(自治体問題研究所,第392号. 1995年

12月)に小沢辰男ら 6名の追悼文がのっている。

大平正芳(1910-ー1980)

I大平正芳一一附追悼文一一J.企画構成稲本博,財政と経済を語る

会発行. 1981年。大版413頁 3万円。巻頭に遺影10葉。

はしがき(無署名)で. r本稿は,大平首相の人となりから政治活

動に至る公人,私人としての生涯を年代順に記述したものであるが,

特に外務,大蔵大臣から総理大臣在職中の業績については,なるべく

詳記することにしたJとする通り. r大平の人となり」から「雨煙り

の合同葬儀」までの26項目で故人の70年間の生涯をたどっている。巻

末に国家予算の歩み,年表,大平語録,哀悼を捧げる人々,硯滴一遺

稿,自民党役員一覧の六つが附録についている。その中の「哀悼を捧

げる人々Jには. 12人の文章が収録されている。加水会相談役茂木啓

三郎,如水会理事長川又克二,前一ツ橋大学長蓉沼謙一,一ツ橋大学

名誉教授吉永栄助,相川泰吉(1936年東京商大卒の同期).渡辺美智

雄(一ツ橋の同窓).嶋村久夫(如水会報編集委員)など一ツ橋の関

係者が多い。崎村はその中で故人が杉村広戴『経済倫理の構造』を火

災の際失ったといったので送ったところ. rあたかも昔の恋人に出会

ったようなJ気持ちがするという礼状がきたことをのべている。

「硯滴」の中におさめられている遺稿は,故人が高松高商・東京商大

出身であったためにその同窓会誌『又信会会報』ゃ『如水会会報jに

寄稿したものばかりである。 r山水を楽しむjの中で学生時代愛読し

た大西猪之助『囚はれたる経済学』のことを書き,その中で「大西氏

の愛弟子大泉行雄先生も必ずや何度も読まれたにちがいなかろうJと

のべている。また「保守の哲学」の中で国立の母校の「図書館にある

わが国商業英語の鼻祖プロックホイス先生の胸像の下に刻まれてい

るJ. rゼミナールの恩師上田辰之助先生の碑文を確めにいったJこ

とを書いている。こうして大平は,大西,大泉,上田,杉村という福

田徳三の学統につらなる学者の影響をつよくうけていることがわかる。

本書には,総理大臣としておこなった第87通常国会における施政方

針演説(1979年 1月)一一そこで「文化の重視,人間性の回復,家庭

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基盤の充実,田園都市構想」をのべて「公正で品格のある日本型福祉

社会の建設jを強調しているーーが収録されている。又「年表jの中

には, r財界つれづれ草J(1953年), r素顔の代議士j (1956年),

f春風秋雨J(1966年), r且暮芥考J(1970年)などの著書が出版さ

れていることも指摘されている。

故人は城山三郎との対談の中で「一橋大と東大とのちがいJについ

て,母校という意識が一橋は東大とくらべて非常に強烈だと語り,

「ぽくは,東大出ておったのでは,今日ないですよ。つまり一橋に助け

られたわけですJとのべている(r如水会報J, 1965年12月,本書22

頁)。前述のような福田山脈との結ぴつきもあって,歴代の蔵相,総

理大臣の中でエコノミストとしての風格が強く感じられるのも「一橋

に助けられたJたまものかもしれない。

広松渉(1934-1994)

広松については「続経済学者の追悼文集J(7) (関西大学『経済論集145巻第 1号)で,とりあげたが,ここでは他の 2種の雑誌にのったも

のを紹介する。

『科学史・科学哲学1.東大科学史・科学哲学研究室,第12号,広松

先生追悼, 1995年。

「広松先生スピーチJ, 1994年 3月5日に聞かれた広松の定年退官記

念の科哲の同窓会での発言をビデオをもとに松本展明が原稿化したも

の。 r物的世界像から事的世界観へjという持論が「大きな20世紀哲

学の流れに梓さすものである」とのべている。

直村清隆「資料・駒場での広松渉先生の授業」は故人が1973年度か

ら1993年度まで毎年学部・大学院でどんな講義・演習をどんなテキス

トを使ってしたかを「授業案内jや「科目紹介Jをもとにまとめたも

の。

村田純一「広松伝説J,広松の最後の 2年間を共同で授業した村田

が,故人の身近にあって「少なくとも現代の哲学者の中でこれだけの

『開かれた柔軟さ』を持った哲学者を見つけることは容易ではないであ

ろう」ことを実感したとのべている。

佐々木力「類い稀なる哲学者逝く一一広松渉名誉教授を偲ぶ一一J.

I教養学部報1.第386号, 1994号, 1994年7月6目。

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佐々木はいう,広松は現代物理学に親しむにつれ,基本的にマッハ

の立場を支持するようになったが,と同時に,マルクス・エンゲルス

の哲学的立場は,レーニンのそれと異なり,彼のライヴァルの立場と

かなり近いものであることも確かめた。広松の原点は,正統的マルク

ス主義の教義への懐疑と反逆にあったと。

後配資料蒐集上多くの方々に御世話になった。記して深謝する。

上宮正一郎,笠原昌一郎,桜田忠衛,佐藤義郎,深井人詩,藤井定義,

藤井隆至,長崎暢子。

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