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Title <論説>薩長同盟の展開 : 六ヶ条盟約の成立 Author(s) 高橋, 秀直 Citation 史林 (2005), 88(4): 511-545 Issue Date 2005-07-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_88_511 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title 薩長同盟の展開 : 六ヶ条盟約の成立 Citation 88(4 ......①同論文は、「薩長盟約」を「島津家盟約」と呼びかえるなどの改稿

Title <論説>薩長同盟の展開 : 六ヶ条盟約の成立

Author(s) 高橋, 秀直

Citation 史林 (2005), 88(4): 511-545

Issue Date 2005-07-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_88_511

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 薩長同盟の展開 : 六ヶ条盟約の成立 Citation 88(4 ......①同論文は、「薩長盟約」を「島津家盟約」と呼びかえるなどの改稿

薩長同盟の展開

一六ヶ条盟約の成立一i

【要約】慶応二年}月に薩長が結んだ六ヶ条の盟約は通常「薩長同盟」と呼ばれ、武力倒幕を目指す政治・軍事的提携の「成立」

とみられてきた。だが同盟は、既に慶応元年九月に成立していた。本稿では六ヶ条盟約を同盟関係の「展開」の一段階と位置づけ、

その成立過程を以下のように論証した。同年九月に長州再征勅許が出されたのをうけ、薩摩は再征阻止に向け軍事力行使を決意し

た。しかし幕府は進軍せず情勢不透明となり、戦略を相談し直すべく、慶応二年一月に木戸孝允・西郷隆盛らの京都会談が実現し

た。会談で西郷は、事実上の再征撤回を含んだ幕府側の処罰令受諾を勧めたが、木戸は処罰を頑なに拒否した。藩主の方針に矛盾

し、他藩も納得し難いこの強引な村応は、木芦が社稜存続を第一義におく藩官僚から、藩を道具としてでも国家的構想に立つ政治

家へと脱皮していたためであった。この平行線の状況下に坂本龍馬が到着、その周旋により西郷らは譲歩し、盟約は成立する。六

ヶ条盟約とは、薩摩が長州の処罰一切拒否論を承認し、その結果可能性が高まる幕長戦争についても全徳川勢力との決戦を約束す

る、というものであった。つまり薩長の政治的提携関係は、成立当初より一貫して軍事同盟という性格を帯びていたのである。

                                          史林 八八巻四号 一一〇〇五年七月

薩長同盟の展開(高橋)

は じ め に

慶応二年(天六六二尺薩の西饗盛・小松帯召と長州の木戸孝允が京都の薩藩邸で会談そ・で六・条の御

盟約を結んだ。この六ヶ条盟約とはいかなるものであったのか、そしてそれはどのような歴史的意義を持つのか、本稿は 35

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これを明らかにしょうとするものである。

 この六ヶ条盟約は、通常、薩長同盟もしくは薩長盟約と呼ばれるものであり、幕末政治史上の重大事件である。この盟

約をいかに位置づけるかは、以後の幕府崩壊にいたる政治過程を理解する上で不可欠のものなのである。研究史を見れば、

これを、武力倒幕を目指した薩長間の政治的・軍事的提携関係の成立とみる見解が長く通説の位置をしめてきた。しかし、

                                                    ①

一九八六年、これと大きく異なる新説が青山忠正氏により出された(「薩長盟約の成立とその背景」、麓史学研究』五五七号)。

氏の半々は第一に京都藩邸会議の実態認識にかかわる。京都藩邸での薩長両者の会談の模様については、これまで木戸自

身の手記(『坂本龍馬関係文書隔〈史〉二、一一一六~二一胃筋、以下、「木戸手記」)により、薩摩側は木戸を歓待したが、何も実

質的な話はしておらず、そこに坂本龍馬が来て一気に話が進んだとされてきた。しかし、青山氏はこの問題について従来

注目されてこなかった『吉川経幹周旋記』〈史〉四の中の記事に光をあて、この会談で薩摩側は木戸に、今回はまず忍べ

(幕府が出すであろう長州処罰令を請けろ)と言い、木戸は処罰を撞嫁すると答えて押し問答の状態となっていたことを明ら

かにした。歓待のみして実質的な話はなかったという通説は、事実ではなかったのである。

 そしてこの事実への着目は薪たな重大問題を生む。西郷らはなぜ木戸に幕府の処罰を請けうと勧めたのだろうか。すで

に薩摩は幕府の長州再征に反対する立場を明らかにしていた。それなのになぜ幕府の処罰を講けうと勧めるのか。この謎

への青山論文の五聖は、内乱回避説である。すなわち、氏は、六ヶ条盟約を長州処分問題と関連させた上で、盟約は通説

のように討幕を狙ったものではなく、逆に、内乱回避が目的であったとした。長州という有力な藩を朝敵として政治の世

界から排除している現状は、政界を不安定にし内乱を招きかねないものである、そこで薩摩が長州の朝敵処分を早く解除

して、政治の舞台に復帰させるべく、尽力することを約束したのがこの同盟であったというのである。第二の新説である。

通説と根本的に異なる青山説の登場以後、研究史は新たな段階にはいった。

 もっとも青山新説のうち内乱回避説には当初より大きな難点がふくまれていた。すなわち、盟約の第五条で薩摩は、長

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薩長同盟の展開(高橋)

州復権がうまくいかないときは「決戦」に出ることを、長州に約束しているのである。これは内乱の約束であり、内乱回

避説と矛盾する。先の青山『歴程』論文は、これについて「吋乱の危機を圓避させるために武力行使を予想せざるをえな

いという、ジレンマを含んだ冒険主義的性格を内包していた」と苦しい説明を行った(八頁)。この難点に一つの解決法

を呈示したのが家近良樹『「一会桑」と孝明天皇』(文芸春秋、二〇〇二年)で、同書はこの「決戦」の対象は 左室勢力

(徳川慶喜・松平容保・松平定敬)のみであり、家茂以下の徳川本体ではないとの解釈をしめした(一三八~一四〇頁)。つま

り対徳川全面戦争11討幕ではなく限定的な局地戦だという説であり、からくも内乱回避とは両立させることができること

                                      ②

になる。この解決法は青由氏の著書においても採用されることになった(一一〇九~ 一一〇頁)。

 しかしその後、宮地正人「中津川国学者と薩長同盟」(『街道の歴史と文化』五号、二〇〇中年、申山道歴史資料保存会、中津

川歴史資料館で入手可能)が発表された。宮地氏はこの時の西郷の意向をうかがわせる新史料を紹介し、薩摩側が…会桑の

                                               ③

みでなく家茂をも攻撃対象と考えていたことを明らかにし、盟約は討幕同盟であるとの通説を改めて主張した。

 新史料の登場で問題は振り出しに戻ったように見える。しかしそうではない。宮地論文は青山新説の第二の部分、内乱

回避説を否定したが、第一の新説が生み出す問題点、なぜ西郷は木戸に処罰の受け入れをもとめたのかという点について

は答えていないからである。「決戦」を決意しつつも長州に処罰受諾を勧める、この矛盾した行動の論理は何かという謎

が、さらにいっそう大きな問題として立ち現れるのである。

 薩長盟約の研究史の現状は以上の通りであり、本稿はこれをさらに進めることを目指す。そのさい、 つの手がかりと

なると思われるのは、先行研究に共通する問題点である。それは、薩長間の政治的提携関係、すなわち「薩長同盟」の成

立の画期をこの六ヶ条盟約に置いた上で、この盟約を分析していることである。しかし、実際はそうではない。薩長間の

政治的提携関係を「薩長同盟」と定義するならば、それが成立したのはこの時ではなく、その前年の慶応元年(一八六

                        ④

五)であったのである。このことは別稿で述べているが、本稿と密接な関係があるので必要な範囲で述べておくことにす

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る。 

慶応元年七月、薩摩の家老小松帯刀は長崎に訪れてきた長州の井上馨と伊藤博文に、「固より於今日は、唯吾藩之寸益

                                                   ⑤

にも相成慰事に候へば、幕府への嫌疑等之事に更に目を注ぎ候訳に無之故、いか様の事にても尽力可仕」、と語った。薩

摩は長州のためにあらゆる手段で尽力すると、家老という責任ある立場の人物が述べたのである。つまり薩長提携の申し

入れである。これを受けて九月八日、長州藩の藩主と世子、毛利敬親・定広父子は薩摩の島津久光・茂久父子に親書を送

り、「〔薩摩の近情は〕皇国之御為無比上、乍蔭〔長州は〕欣躍致御依頼候、弊腰上処ハ前段之趣二付、日夜朝廷之御様子懸

                ⑥

念罷居候而已、心事何も御憐察是祈候」と申し送った。つまり長州は、小松の申し入れに応じて薩摩に尽力を依頼したの

である。近世社会において藩の意思表示のもっとも重い形式は、藩主の名によるそれである。そうしたものとして薩摩へ

の提携依頼がここで述べられているのであり、「薩長同盟」が成立したのはこの時とすべきであろう。そしてこの同盟関

係は、すぐに効力をもつ。九月二二日、長州再征が勅許される。京都にいた西郷は武力を使ってでもこれを阻止すること

を決意、兵力動員のために帰国するが、そのさい坂本龍馬を通して長州に、「帰国病兵て登坂、丘バカを以再度押止め度」

        ⑦                                                ⑧

との意向を伝言した。そして~○月六日、久光父子率兵上京のための準備命令を獄内に布告したのである。

 慶膳元年九月以後、このような政治的・軍事的同盟関係が薩長間に生まれていたのである。したがって慶応二年一月の

六ヶ条盟約は、これまでのように同盟関係の成立としてではなく、すでに成立している同盟関係がどのように農醸したの

か、その展開過程の一段階として検討されねばならないのである。本稿があらためて六ヶ条盟約を検討する所以である。

このような視角にたつことによってこそ、六ヶ条盟約の実態と歴史的意義を正確に明らかにすることができるだろう。

 ①同論文は、「薩長盟約」を「島津家盟約」と呼びかえるなどの改稿  

「決戦」を「直接的な武力衝突を意味するものではなく、不退転の決

  の上、青山『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、二〇〇〇年)の阻     意で対決することを表現するものであったであろう」(一一=一六頁)と

  章二となっている。                         しているが、史料解釈としてやや飛躍があると思われる。

                                         ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

 ②なお佐々木克『幕宋政治と薩摩藩』(吉川弘文館、二〇〇四年)は 

③「薩摩の建的は内戦回避とか長州に幕府の条件を承諾させるといっ

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O

 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 たものではない。【会桑を目標とした明白な攻守同盟・軍事同盟なの

 である」(宮地論文、八頁)。傍点部の轡きぶりよりすれば、宮地氏は

 西郷が処分受け入れを求めたことをも否定しているように見えるが、

 それは史詩的に無理のある読み込みであろう。

④さしあたりは、拙稿「幕末史のなかの薩長同盟」(同志杜大学人文

 科学研究所編噸幕末から明治へ1時代を読み解く隔、同所、二〇〇四

 年)、参照。

⑤末松謙澄『防長回天史㎞五上、マツノ書店復刻、皿九九一年、二六

 四頁。

⑥『大久保利通文轡㎞~、東京大学出版会復刻、一九八三年、三五七

 ~三五九頁。

  これまで看過されてきたこの蝋管の重要性に気づいた研究として、

 佐々木前掲書がある。同等は、これを薩摩に薩長提携を決意させたも

 のと位置づけている。だがすでに述べたように、薩摩は提携の申し入

 れをこれ以前に行っており、妥当な説明ではない。

⑦『防長回天史』五上、四五三頁。

1

木戸の上京…1盟約前史

⑧鹿児島県史料刊行委員会編『鹿児島県史料集二一小松帯刀伝臨、

 鹿児島県立図書館、一九八○年、二一二頁。

〈付記〉 典拠については以下の通りに略記する。正続の日本史籍協会叢

 書は書名のあとにく史〉と記す。立教大学日本史研究会辞義大久保利

 逓関係文書』(吉川弘文館、~九六五一一九七三年)は『大久保関係

 文書』、鹿児島県維新史料編さん所編噛鹿児島県史料 忠義公史料』

 三、四(鹿児島県、~九七五、六年)は糊忠義史料』三・四、『改訂

 肥後藩国事史料』(国書刊行会復刻、一九七三年)は『肥後国事史料㎞、

 同書編集委員会編噸西郷隆盛全集』(大和轡房、}九七七年)は『西

 郷全集』、㎎孝明天皇濃紺(吉川弘文館、 一九六七年)は噸孝明紀』と

 略記する。また人名については、桂小五郎を木戸孝允とするなど、一

 般に使われている呼び方で統一した。史料引屠では、句読点を適宜付

 すとともに、旧字体を新字体に、変体仮名・片仮名を原鋼として平仮

 名にし、6は「より」、而は門て」、者は「は」とした。またカッコ・

 傍線・傍点は断らない限りすべて高橋による。

薩長同盟の展開(高橋)

 慶応二年(一八六六)一月の京都薩摩藩邸会談は、なぜ行われたのだろうか。慶応元年=月下旬、薩摩の京都藩邸は、

長州の事実上の最高指導者である木戸の上京を求めることを決定した。そして二月二四日、大坂を出港し、二六日に上

                         ①

関着、そして=一月三日には下関に着いている。ほかに黒田清隆も同様の使命を帯びて一二月、下関におもむいている

(「

リ戸手記」、二二五頁)。ではなぜ西郷らは木芦の上京を求めたのだろうか。これを理解するには、当時の薩摩の政治路

線、対長政策の流れを見る必要がある。

 文久二年(一八六二)、久光の率兵上京により中央政界に登場した薩摩の政治戦略は、幕府を改革して改造された新幕府

39 (515)

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を中心に挙国一致で富国強兵政策を進めようというものであった。その幕府改革とは、幕府の譜代独裁的な性格を払拭し、

外様、親藩の雄藩も参画できるものに改造することであった。この目標の実現をめざして薩摩は進み、元治元年(~八六

四)一月には、参予会議が設置され、いったんその目標が達成されそうになる。しかし、会議ははやくも三月には解体し

てしまった。参予会議解体の要因は、幕府側の非協力にあった。薩摩は、幕府否定の意図はなく、むしろ改造された幕府

が中心となって挙国一致で積極的に改革を進めることを望んでいた。しかし、これまでの譜代独裁的な幕政を維持しよう

とするものにとっては、こうした改造は支持できるものではなく、これに反発、その足をひっぱることになる。参予会議

の解体によって薩摩のこれまでの路線は行き詰まり、薩摩と幕府の関係は冷却化した。

 元治元年七月、長州軍は御所を攻撃、すでに幕府と冷却化していた薩摩であったが、会津を助け長州を打ち破った。禁

門の変以後の薩摩の政治路線は、豊野による共和政治の樹立をめざすものとなる。外様、親藩の有力大名が集まる一種の

国会のようなものを朝廷に開いて、それを中心に政治をやろうというのである。今までの薩摩は、雄藩の政治的縞集の場

                                                ②

を幕府のなかにつくろうとしてきたが、もはや幕府を見限り、朝廷の場にそれを作ることに転換したわけである。

 薩摩が新路線を進めるには雄藩の結集が課題となる。薩摩とならぶ雄藩は長州である。しかし薩摩は禁門の変直後にお

いては、長州をその一員とは考えておらず、藩自体は取りつぶさないまでも雄藩としての長州は抹殺しようと望んでいた。

そうしてそうした考えをもちつつ、第一次長州征伐においては総督尾張慶勝のもと西郷が実質的中心となって、長州を屈

服させたのである。しかし藩政府屈服後、長州内で内訂が起きるようになると、西郷の考えは変わり、雄藩としての長州

の存続を認め、それと提携することを望むようになる。そして幕府が慶応元年四月、長州再征令を出すと、薩摩は当初よ

りそれに批判的な姿勢をしめすとともに、里長接近政策を本格化するのである。その結果、「はじめに」で述べた経過を

                    ③

たどり九月八日、薩長同盟が成立したのである。

 慶応元年閾五月二二日、将軍家茂は上京、参内、二五日には大坂城に入った。六月二三日、幕府は徳山・岩国両支藩藩

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薩長同盟の展開(高橋)

主への上坂命令を出したが、長州はこれに応じない。そこで八月 八日、幕府は徳山・岩国に代わり長府・清宋両支藩藩

主と本藩家老に九月二七日までに上坂せよとの命を出し、さらに二三日、期限内に上坂しないときはただちに進撃すると

の旨を諸藩に達した。しかし九月になっても長州は上坂の動きを見せない。そこで幕府は前もって征長の勅許を得ておく

ことにし、二〇日これを奏請した。こうした幕府の動きに薩摩は猛然と反発する。その中心となったのは大久保利通であ

り、この時、彼が言い放った「非義之 勅命は 勅命に非す」との言葉はあまりに有名である。だが結局、薩摩は敗北、

一二日、征長奏請は勅許された。しかし、薩摩はこれであきらめたわけではなかった。武力を使ってでもあくまで再征を

阻止すると決意し、この旨を長州に伝えるとともに、兵力動員のために西郷が国許にもどったことは「はじめに」で述べ

たところである。

                         ④

 再征勅許当時、西郷らは幕府の進撃間近と予想していた。実際にこのとき幕府側には進発の意図はあったと思われる。

しかし、その直後、局面は急変する。

 九月二三日、兵庫沖に英仏米蘭の連合艦隊が登場、条約勅許の獲得と兵庫開港を幕府に求めた。これ以後、中央政局は

大混乱となり、~○月三日、家茂は将軍辞表を提出し、江戸に帰ろうとして必死に慶喜に慰留されるまでになる。この大

騒動は、~○月五日の条約勅許、外国艦隊の退去により…○月上旬でいちおう終息するが、その影響は大きく、幕府の権

                        ⑤

威を大きく低下させ、征長軍の即時進発は困難となった。

 朝廷の側の家茂や幕府への信用も大きく低下した。八日、関白は幕府に長州問題の処置の見込みを奏上するように指示

していたが、なかなか奏上は出来ない。このため二二日、関白は肥後の上田久兵衛に対し幕府を督促するよう求めるとと

もに、御字が出来ないなら、諸藩を召して長州問題をその評議にかけることにする、と述べた。諸侯会議による長州問題

の解決は薩摩の主張であり、薩摩はこれを政体変革のきっかけにしようと考えていた。窮地にたった幕府は、老中永井尚

                                                 ⑥

志が広島に行き審問を行い、その次第により将軍が進発するという方針を決定、一八日、これを上奏、裁可を得た。

41 (517)

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 こうした混乱のなか幕府軍の進攻が困難になったことは、一〇月二二日までに在京薩摩幹部に草聖されるようになって

  ⑦

いった。そしていったん帰国後、再上京してきた西郷も=月一二日遅でには危機感を消失、それにともない久光の率兵

            ⑧

上京は中止されるにいたった。情勢は流動的になってきた。これ以後、情勢はどう展開するのか、それについて西郷らは

           ⑨

見通しを持っていなかった。長州処分問題の行方など今後の政治情勢は、同盟関係にある長州の最高指導者と直接話し合

い、今後の方針、戦略を決定する必要がある。西郷ら在京の薩摩最高幹部はこのように考えたものと思われる。

 「方、長州側でも、薩摩側の申し入れが来る前の=月末の段階で、京都に幹部を派遣して西郷らと会談させることを

考えていた。一二月一日以前に、木戸は藩政府幹部の山田宇右衛門に以下のように言い送っている(『防長回天史臨五三、

四七四頁)。「小松其垂下て尽力之面々滞京之儀に付、聞多(井上)可被差越」、つまり、小松以下、兼ねてから薩長提携に

尽力した薩摩藩幹部がいま京都にいるので、井上を京都に派遣すべきである、である。そしてこの京都派遣は結局、井上

ではなく木戸が行くことになる。木戸の上京については、しぶる木戸を坂本らが説得したという話がよく知られているが、

木戸は自らが上京するのは嫌がったが、長州有力者を派遣し、西郷らと会談させることは彼自身、望んでいたことであっ

たのである。

 ではなぜ木戸は幹部の京都派遣を考えたのだろうか。それには、薩摩の名義で長州が購入した蒸気船乙墨筆の管理とい

う実務的な問題もあったが、最大の理由は、今後の情勢にいかに対応するかについての西郷らとの交渉にあったと思われ

る。そしてとくにこの時期、それを望んだのは、永井尚志の審問という情勢の緊迫があるだろう。一〇月二七日、幕府は

長州に命を潔し、永井を派遣するので、支藩藩主と本藩家老および奇兵隊首脳は広島に出頭するようにと求めた(『防長回

天史冊塁上、三二〇~三一=頁)。}一月六日、永井は大坂をたち、一六日に広島に着いた。そして二〇日より広島審問が始

まった。

                                       ⑩

 長州側では審問への方針は固まっており、戦争を覚悟し徹底して抗論するつもりであった。問題はその後である。その

42 (518)

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躍長同盟の展開(高橋)

ように返答すれば審問後、幕府は進攻してくる可能性が高いが、そのさい薩摩はどう動くのか、それを薩摩側から闘き出

す必要が長州にとって大きかったろう。そしてさらに、このとき長州側ではこれからの薩摩の尽力への懸念が存在してい

たのである。一二(カ)月二二日付の前原一誠宛の書簡で木戸は言う(『杢月孝允文書』〈史〉二、~二八頁)。「東行(高杉)・

春輔(伊藤)より申越候儀も有之、薩之処も一入手を付置不歴ては、往々手之伸ひかたきことも有之候歎を深く懸念仕

候」。すなわち、高杉晋作や伊藤博文が言うように、薩摩との間の関係をもう一段深めておかねば(「手を付置」)、薩摩の

尽力が不十分になることがこの先(「往々」)あるのではないか、と自分は深く懸念している、というのである。後で述べ

るようにこのときの長州の立場はかなり極端なものであり、それに本当に薩摩が同意してくれるのか、木戸に不安があっ

たのだろう。

 こうして一二月二七日、木戸ら一行は黒田とともに三田尻を発ったのである。

① 宮地佐一郎『龍馬の手紙暁(PHP研究所、一九九五年)、一三七頁。

②以上の薩摩の政治路線については、拙稿「文久二年の政治過程」上

 (門京都大学文学部研究紀要㎞四二号、二〇〇三年)・「明治維新と天

 皇」(伊藤之雄・川田稔編糊二〇世紀日本の天皇と君主制輪、吉川弘文

 館、二〇〇四年)、参照。

③前掲拙稿「幕末史のなかの薩長同盟」参照。

④「〔再征勅許は〕国家大乱之緒、抑紀綱今日に尽果、保元・平治之古

 に彷彿たる世体」(慶応元年一〇月一四日付大久保宛折田要蔵書簡、

 『忠義史料睡四、二二頁)。折田は当時、帰国した西郷の話を聞いた

 入物であり、ここに西郷の意見を見ることができる。また西郷の伝醤

 をもって長州におもむいた坂本龍馬は、}○月一〇日頃出軍という噂

 を長州側に伝えている(噸防長回天史軌五上、四五三頁)。

⑤宮地正入籍『幕宋京都の政局と朝廷臨(名著刊行会、二〇〇二年)

 解説、 =エハ五頁。

⑥以上の事実経過については、同右害、三六九~三七〇頁。

⑦慶応元年へ○月二二日付伊地知壮之丞・市来六左衛門宛大久保(在

 京)書簡(噸大久保利通文書臨〈史〉一、三四一頁)。

⑧「〔幕府は〕長州諸所攻口更に於浪花御薗相成候得共、名計の事には

 相違有之問敷候間、決て御国許御動揺有之間不落存候。同等之次第に

 て御上京之処いつれ結周之上ならては難評決訳に二間、暫時御猶予、

 当地の形勢を以進退之処、篤と評議に疑り可申候扁(慶応元年二月一

 一日付語久武(鹿児島)宛島津伊勢(在京)書簡、「桂久武所蔵書

 類」四五-一~、『眉室秘書』、国立国会図書館憲政資料室蔵)。

⑨慶応光年=月二一日付境金一郎宛西郷轡簡(『西郷全集魅二、八

 五頁)。

⑩「我においては兼て決議之通、条理と決戦を以て応之可也耳」(慶応

 元年=月~一目付在陣広沢真臣・前原一誠宛藩政府書簡、『防長回

 天史㎞五上、三八一頁)。

43 (519)

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豆薩摩の論理

 慶応二年(~八六六)一月七日、木戸一行は大坂に着きすぐ上京、薩摩藩邸にかくまわれ、西郷や小松ら薩摩幹部との

会談が行われる。「はじめに」で述べたように、京都藩邸会談について青山前掲論文が、従来注目されてこなかった『吉

川経幹周旋記』〈史〉四の申の記事に光をあてることで、通説と異なる実相を明らかにした。その記事とは、二月に上坂

した岩国藩士への薩摩の吉井友実と税三才の談話を記したものである三二〇~二一=頁)。

 「先達て木戸寛治上坂、小松・西郷面会之節、木戸申分に最早昨年之首級にて何も相済候と云て、御所置遵奉之口気無

之候に付、西郷より今日先之忍べ、他日雲霧重て御上京之節共に歎願灘浜事と申候へ共、同意葉色不見候由也」。

 つまり、西郷が今圓はまず忍べ(幕府が出すであろう長州処罰令を請けろ)と言うのに対して、木戸は処罰など講けないと

いって対立しているのである。歓待のみして実質的な話はなかったというのは事実ではないことが、これによって明らか

となった。

 西郷らがこのとき木戸に幕府の処罰を請けうと勧めたのはなぜだろうか。再征に反対してきた薩摩のこれまでの行動、

また長州の同盟者という薩摩の立場よりすれば、これは一見奇妙な事態に見える。なぜ薩摩はこのような行動に出たのだ

ろうか。この謎をいかに解釈するのか、この玉将が「はじめに」で述べたように薩長盟約研究を一段と進めることになっ

たのである。

 その一つの解釈は、「はじめに」でふれた内乱圓避説である。つまり西郷らは、処罰を受け入れさせることにより、再

征の理由を消し、それにより幕長開戦を回避しようとしたというのである。しかしこの説は成り立たない。広島で永井の

審問が行われていた慶応元年の=一月一二日、西郷は黒田清綱への書簡(岡西郷全集撫二、九九頁)のなかで、「長州も義を

以て立ち、理を尽して進むの勢は相見得ず、安全を計り候事かと案外の仕合に御座候」、と述べている。西郷は、広島審

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薩長同盟の展開(高橋)

                            ①

問において長州側の譲歩ではなく強硬姿勢を望んでいるのである。さらにそもそも長州再征が勅許された九月末の段階で

は、西郷は再征阻止のために軍事力の行使を覚悟していたことは「はじめに」で述べたとおりである。薩摩は内乱回避を

第一に目指しているわけではないのである。

 すでに軍事力行使の覚悟ができている西郷、そして直前の一二月には長州の強硬姿勢を望んでいた西郷が、一月の京都

藩邸会談では木戸に処罰受諾を勧めたのはなぜだろうか。

 処罰受諾を勧めたといま記したが、正確に言えば、藩邸会議段階において、西郷らも木戸も幕府の処罰令の内容を知っ

                                     ②

てはいなかった。処罰令が幕府より上奏され即日裁可されたのは、一月二二日半あり(『孝明紀』四、七一八~七二七頁)、

                ③

二一日に盟約が締結された後であった。そして幕府は処罰令の決定にあたって秘密主義をとっており、上奏文は二二日ま

で外部にもれていなかった。薩摩は処罰令の内容を知らずに、木戸にその受諾を勧めたことになる。しかし、このとき西

郷は、いかなる内容の処罰令であろうととにかくそれを請けよと木戸に勧めたとは考えにくいだろう。西郷らは処罰令に

ついてある程度の見通しを持っており、それをふまえて勧告をおこなったと見るべきだろう。

  月二二日の上奏にいたるまで処罰令をいかなるものにするかについては、幕府内部で激しい対立があった。対立点は

    ④

二点であり、一つは糾問使の面懸の如何であった。広島での審問において永井は、幕府の再征令は不当で我々はきちんと

                                          ⑤

謹慎しているとの長州側の主張に反論せず、それを認めるという大幅な譲歩を長州側に行っていた。一二月一七日、永井

は帰坂するが、小笠原長行・板倉勝静の二閣老は永井の対応を承認し、服罪を認めた上でただちに処罰の言い渡しを行う

べしと主張した。一方、いわゆる一会桑勢力(徳川慶喜・松平回章・松平定敬)は、服罪は虚偽で、これを認めた永井の審

問は不十分であり、再度、糾問使を派遣すべしと主張していた。

 この糾問使再燃の如何は重要な意味を持っていた。その意味を理解するには、長州処分が二つの段階に分かれているこ

とを知っておく必要がある。第一段階は長州の服罪である。長州側に罪を認めさせ、謹慎して処罰を待ちますと言わせる

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ことである。そして第二段階は処罰の言い渡しである。そしてこの両段階という点より言えば、第一次長州征伐は第一段

階の服罪にあたる。そして、その服罪が至公ではなく、真実のものであることを示す証拠として、三家老四参謀の処刑や、

敬親父子の謝罪状である自判書の提出が行われたのである。そしてこの服罪をふまえて、第二段階の処罰が幕府より言い

渡されるはずであった。しかし、現実にはこの処罰の言い渡しはいつこうに行われず、四月には再征令が出されることに

なったのである。再征についての幕府の論理は、第一次征討で長州は服罪・謹慎していると雷っているがそれは虚偽であ

                                              ⑥

る、第一段階の処分が済んでいない以上、あらためて再征しそれを行わねばならない、というものであった。

 こうした背景の上に先の対立点を置けば、小笠原・板倉の二閣老および永井の主張は、服罪処分はたしかに行われてい

るとした上で、処罰を言い渡そうというものであり、再征令以前の段階に立ち戻った処罰言い渡し論ということになる。

そしてそれは再征令の撤回を事実上、認めたものということになる。一方、一会桑は再征令をあくまで妥当としたものと

いうことになる。

 もう一つは処罰内容に関してであった。二閣老と永井は、敬親は退隠させるが定訳の梢続は認める、削地は十万石と主

張、対する一会桑は、敬親父子ともに蟄居、防長の半ばを没収すべしと主張した。

 この対立において結局、前者の意向が勝利をしめる。幕府は糾問使の再派を行わず、ただちに処罰の言い渡しを行うこ

とにするとともに、その内容を、敬親父子退隠、十万石削減としたのである。幕府はこの問題について秘密主義をとって

いるので、徳川勢力内の対立は公然たるものではなかった。しかし、長州処罰は重要問題であり、広島での審問を終えた

永井が帰坂した一二月一七日以後、薩摩など諸藩はこれについて必死の情報活動を行い、正確なものはともかく、徳川勢

                                        ⑦

力内で強硬論・穏健論の対立についてその大まかな内容はつかめるようになっていたのである。

 一月の京都藩邸会談のさいには西郷らは処罰令についてこのよヶな情報を持っていた。では薩摩側はこれにいかに対応

しようとしただろうか。

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薩長同盟の農開(高橋)

 徳川勢力内で二つの対立点があったが、両者のうち薩摩が重視したのは、前者、再征令の正当性の問題であった。一月

二二日、帰国するため京都から大坂に下った大久保は、翌;二日、長州処分問題について越前の中根雪江と会談したが、

そこで大久保は言う。「長防の件は御所置の寛猛に出品らす、一昨年〔長州が〕伏罪陳謝せし時に立ち戻りたる御所置にな

らされは、〔薩摩は〕矢張異議あるへし」(『続再適言事』〈史〉五、三七頁)。すなわち、長州へ言い渡される処罰は、それが

寛大なものであろうが厳しいものであろうが、第一次長州征伐終了時にもどった上での処置でなければ、つまり、再征令

以前に立ち戻ったものでなければ、薩摩は承伏出来ない、というのである。

 この薩摩の主張は、幕府が再征令を出して以来、一貫したものであった。再征令に対して薩摩は公然と反対したが、そ

の反対の論理を再征勅許阻止運動のさいの大久保の反対論(『忠義史料幅四、二~七頁)について見れば、その中心論点の一

つは、再征詞蒸し返し論である。つまり、ムフ回の再征は第一段階の服罪処分をふまえたものではなく、それの蒸し返しで

あり、筋違いであり不当というものであった(「〔再征は〕昨冬征伐之末に無御座候得は、筋も違候儀、重富之迄討に候」同書、五

頁)。そして一月二三日置大久保はこの議論を先に見たように中根に繰り返したのである。薩摩にとり問題はあくまで言

渡しの論理にあり、それが違うなら、薩摩は「唯条理のある処如何により異議を立さるへからす」、と大久保は語るので

ある(同書、三七頁)。

 薩摩のこの議論は、㏄会桑の主張への厳しい批判となっている。しかし二閣老の主張への批判とはならないのは明らか

だろう(そのような再征令を出し無用な混乱を招いたことへの批判は可能であるが)。

 では第二の対立点である処罰内容についての薩摩の考えはどうだろうか。これについて先の中根との会談で大久保は、

以下のように語る。「此節の幕議は量地廃立の事あるよしなるか、是は薩も同議なり」、と(同書、三七頁)。すなわち、廃

削には薩摩も賛成だとの意外な発言を大久保はしているのである。なぜ、このような発送をするのか、それには歴史的経

緯があるのである。

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 第一次長州征伐終了時、総督尾張慶勝は幕府に処罰について建雷している(㎎幕府征長記録』〈史〉、五二四~五二七頁)。そ

してこの建言には薩摩も同論であったと思われる。建言の内容は、一、敬親父子隠居出家・親族相続、二、十万石削減、

であり、廃削がふくまれていた。しかし廃削をふくんでいたが、その内容は当時の文脈においては寛大なものであった。

一の敬親父子退隠は後述するがこのときには長州側も認めているものであった。そして相続者として、吉川家のような傍

系ではなく、親族があげられており、長州に配慮したものであった。また、十万石の削地だが、それは、長州の預け地と

するとしており、名義はともかく実際の支配権はなお長州が握ることになる。三七万石の雄藩という長州は処罰後も存在

できるのである。慶勝建言は、処罰を寛大にという薩摩の意向がもりこまれたものであったのである。こうした慶勝建一醤

から徳川勢力内の対立を見れば、一会桑の主張はともかく、二閣老・永井の処罰内容は慶勝建言を一応踏襲したものと位

置づけることができよ狗。

 一月の京都藩邸会談の段階において右のような幕府内対立の情報が薩摩藩邸に入っている。当然、そこでの木戸との議

論は、一会桑が勝つ場合、二閣老勝利の場合、それぞれを想定してなされたことだろう。その場合、一会桑の主張は薩摩

にとっても受け入れば問題外であろうが、二閣老の主張はこれまでの薩購の議論と親和性をもつものであった。こちらの

線で処罰令が決定された場合は、それを受け入れるべきと西郷らが木戸に勧めたとしても、それは意外なことではなかっ

    ⑨

たのである。

 しかし、木戸の立場はこれと異なり、廃削をふくむ処罰はいっさいこれを受けないという強硬な処罰拒絶論であった。

当然、議論は平行線となる。

                                            ⑩

 もっとも、長州が聖地を拒んでいることは木戸上京以前に西郷らはある程度、知っていたはずである。そして前年の第

一次征伐終了段階では寛大であった案も、その後軍備強化など国力を強化した長州にとって寛大とうつらないことは、西

郷らも理解していたことだろう。終結をふくむ処罰受け入れを勧めれば、議論が平行線となることは、西郷らにとり事前

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薩長同盟の展開(高橋)

に十分に予想できることであったろう。

 平行線になるのを防ぐにはどうするか。そのためには、強硬な木戸の主張にあえてのることが必要となるが、実は、こ

の選択は、薩摩にとってかならずしも不都合なものではなかったのである。

 この時期の薩摩の政治戦略は、王で述べたように、賢侯による共和政治の実現である。すなわち、朝廷のもとに諸侯会

議を置き、これを中央政府とし、政権の実を幕府より奪うことであった。こうした薩摩にとって長州再征はいかなる意味

を持ったか。幕府が再征令を卜した直後、西郷は名義を欠く幕府の私戦であり薩摩はこれに協力しないという姿勢をすぐ

    ⑪                                               ⑫

打ち出した。しかし注目すべきことに、西郷は同時に再征を「天下のため雀躍」と喜んでいるのである。一方で批判する

再征をなぜ他方では歓迎するのか。その理由は、再征が薩摩の目標である政治改革の機会になりうると西郷が判断したこ

とであろう。

 =一月初め、西郷は、外国艦隊がふたたび摂海に進入し幕府に強硬な要求を突きつけることを期待していた。これに見

                                                  ⑬

られるように、西郷の政治判断には、危機を政治目的実現のために利用しようという危機待望論的なところがあった。そ

して長州再征もそうした危機であった。再征を宣言しながらも失敗すれば、それは幕府権威の決定的失墜につながるし、

また、幕府がこの問題を処理できなくなれば、薩摩の主張である諸侯会議召集論が事態の収拾策として現実味を帯びてく

るだろう。

 再征は薩摩にとり利用すべき政治的機会でもあった。これを利用して徹底的に幕府を追いつめるという戦術も薩摩には

あったろう。たしかに一会桑ではなく、二閣老の議論は、再征令の事実上の撤回であり、薩摩の批判点である蒸し返し不

当論はその根拠をなくす。しかしそうではあっても、このような不始末をなした幕府に問題を任せておけない。このよう

な信用できない幕府が処罰を行うこと自体、不当であるとの論を立てることも可能だろう。そしてそうであれば、同盟藩

長州に譲歩を求めなくとも、薩摩は処罰令に反対することができるのである。そしてこうした対応をとった方がむしろ有

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利な側面もあった。長州が処罰を受け入れれば、幕府の面目は立ちその権威は守られることになるが、長州が拒めば、幕

府の面子は完全につぶれる。危機待望論の観点からすれば、その方が薩摩にとり望ましいだろう。木戸の処罰拒否論は西

郷らにとって都合が良いはずであった。しかし、それにもかかわらず、西郷は木戸の嫌がる受け入れを勧めた。なぜか。

 一つには、第一次長州征伐の中心的存在であった薩摩にとって、自らの面子という点でも何らかの処罰を行うことが望

ましいということがあったろう。

 しかしさらに重要な理由として、長州側の処罰拒否の論理が強引なものであったことがあったと思われる。長州は御所

への攻撃という明白な違法行為を行ってしまっている。筋道論にたてば、やはりなんらかの処罰はなすべきという議論が

    ⑭

自然だろう。処罰令が決定されて以後、西国の有力藩、芸州・備州・因州・国庫は再征を限止すべく処罰の寛大化を求め

                                         ⑮

て動き出すが、その彼らも、筆削をふくむなんらかの処罰はなすべきであるという考えであった。処罰論は徳川勢力のみ

                                  ⑯

が唱えているものではなく、処罰拒否はかなり無理のある強引な議論なのである。薩摩は諸侯会議の設立を目指している。

もちろん、設立されたそれで主導権を握ることを望んでいるのである。そのためにも諸藩の支持を得る必要があり、長州

の強引な議論についていくのに薩摩は躇躇せざるをえない。西郷が木戸に受け入れを勧めたのはこの点への配慮があった

ものと思われる。

 長州は処罰を望まない。薩摩はそれをあえて勧めなければならない。しかしこれを勧めるにあたって薩摩には有力な説

得材料があった。それは処罰令の実効性についての見通しである。その見通しとは、「今日先之忍べ、他日雲霧霧て御上

京之節減二歎願致度」という木戸への西郷の言葉(『吉川経幹周旋記』〈史〉四、三~○頁)に示される。ここで西郷が「歎

                      ⑰

願」しょうというのは、もちろん処罰の停止である。つまり長州がいったん処罰への請書を出した後、その中止を求める

嘆願をともに出そうと雷うのである。では嘆願の結果はどうなるのか。薩摩側へのこれへの判断は、嘆願は認められ処罰

                     ⑱

は実際に行われることはないというものであった。つまり西郷は、幕府は長州処分を形式に留めるつもりで実際に行う気

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はないと判断していたのであり、その趣旨で木戸を説得したのである。

 処罰令が、 高卑が主張するような強硬論となるなら、これを認めず幕府と対決する。しかし、二閣老が説くような穏

健論でおれてくるなら、それは幕府の権威低下を示すものであり、長州はそれを請けて速やかに政治的復権を実現し、薩

長提携して京都政界で幕府と対抗する。これが西郷らの考えであったろう。しかし木戸はこれに応じないのである。

薩長同盟の展開(高橋)

①なお広島審問での実際に長州が行った議論は強硬なものであり、こ

 の西郷の批評は実態にそぐわない。それにもかかわらず、このような

 批判を西郷が書くのは寄妙に見えるが、その理由は、広島審問の実態

 が彼のもとにこの段階で正確に伝わっていなかったことにあると思わ

 れる。

  永井は=月一六日に広島に着いたが、出頭命令を出していたにも

 かかわらず、本藩家老井原主計は帰国し、支藩藩主や本堤家老も来て

 いなかった。この情報を知った西郷は、一二月旦日付蓑田伝兵衛宛書

 簡でこのまま長州側が出てこなかったらどうするつもりかと永井を冷

 笑している(『西郷全集高楼、九五~九六頁)。しかし実際には一一月

 二〇日には長州側は永井の要求に応じて、宍戸備後助が審問場所の国

 泰寺に出頭し、広島審問ははじまっていた。この宍戸の出頭は、一二

 月六日、薩摩藩士の土持佐平太により国許に報じられているが(『忠

 義史料歴三、八四二頁)、この情報は京都藩邸にも送られるはずであ

 ろう。おそらくこれにより、西郷は、結局、長州側が出頭したことを

 知り、これを妥協と見て、本文の評価を下したのではないだろうか。

②なお佐々木前掲轡は幕府の処分案上奏の日時を二〇日としているが

 (三二五頁)、根拠をあげていないので、考証をふまえた新説提起と

 はいいがたい。

③盟約成立の日付について、これまで諸説あったが、三宅紹宣「薩長

 盟約の歴史的意義」(『日本歴史』六四七号、二〇〇二年)の考証によ

 り一=日章でほぼ固まったと思われる。

④対立点については、紅舌栄一魍徳島慶喜公設睡3(平凡杜復刻、【

 九六七年)、二一八~二二二頁、参照。

⑤広島審問の経過については『防長回天史駄五上、第十五章参照。

⑥ 久住真也門慶応元年将軍進発態勢の創出」(『史学雑誌㎞一〇九編六

 号、二〇〇〇年)参照。なお長州処分が二つの段階に分かれているこ

 とを指摘したのは、井上勲『王政復古瞼(中央公論杜、一九九一年)

 である(二八頁)。ただ氏は再征を第二段階実行のための必要な行為

 であると解した(同)が、すでに指摘されているようにこれは誤りで

 あり(久住同右論文、八○頁)、再征令は第}段階を来完とし、その

 達成をめざしたものなのである。

⑦当時の諸藩の情報活動は、『肥後国事史料隔六や鳥取県立博物館編

 『池田慶徳公御伝記輪三、上馬、一九八八年、収録の報告書より見る

 ことができる。

⑧「幕府にて極寛大之御所置と見込候様子鳳、暴寛尾鷲侯御建議之跡

 をふまへ町筋かと申事に御座候偏(二月六日付蓑田伝兵衛宛桂久武書

 簡、『忠義史料匝四、五七頁)。桂は瞬時在京していた薩摩の家老であ

 る。もっとも上奏には、慶勝建言にはあった削地の長州預けの部分が

 なく、建言をふまえたものであったが、より強硬なものではあった。

⑨  一会桑と二閣老の対立で優位をしめるのは後者の可能性が高いと西

 郷らは判断していたのではないかと思われる。 二月二六日(?)付

51 (527)

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 蓑田宛嘗簡(凹西郷全集隔二、 〇六頁)で西郷は、募府の出方につ

 いて、再征は一会の主張である(つまり彼らの責任であり幕府のせい

 ではない)、と「長へ説き込み、却って長を懐け込み候趣」と闘いて

 いる、と述べている。つまり幕府は一会を悪者にして対長譲歩を図っ

 ているというのである。この西郷の書簡の背景には、一二月下旬、幕

 府側が薩摩に接近し、彼らに厳しい慶喜批判を述べていることがあっ

 たろうが、他にも幕府側の処罰令が寛大なものとなるとの情報が入っ

 ていたこともあると思われる。一二月下旬と思われる、薩摩大坂藩邸

 書簡(「長石事件」、剛大日本維新史料稿本翫六百一冊、東京大学史料

 編纂所蔵、慶応元年=一月二五日差)は以下のような悟報を述べてい

 る。長州処罰以下のように決定された模様、敬親父子隠居、興丸(定

 広の子)相続、十万石は吉川預け、近日の山陵修復大赦のさいに父子

 も大赦。

⑩岩国藩の大草終吉は慶応元年四月一二日に薩摩伏見藩邸にのぼり、

 西郷らと会談しているが、そこで諸隊のみならず本藩政府も削地には

 反対の意向であると語っている(『吉川経幹周旋記』〈史〉三、七九

 頁)。

⑪慶応元年四月二五日付月形洗蔵宛西郷書簡(噸西郷全集㎞二、四〇

 ~四一頁)。

⑫同年閏五月五日付与雲鳥西郷書簡(同右書、五〇頁)。

⑬「兵庫開港一条六け敷成立、〔外国艦隊〕再思海え廻契丹説紛々と相

 起候…摂海え柏廻候は・又一機会も相生し、此節は〔幕府の〕意之儘

 には参兼可申事鰍奉存候」(慶応元年一二月六日付蓑田宛西郷轡簡、

 凹大久保関係文書』三、三六八頁)。そして外国艦隊の進入がないと

 判明したときは以下のように落胆している。

  「異艦も再来致さざる由、頓と力を落し申し候。方祭にも得合わざ

 る事かと、誠に慰しき事に罷り成り申し候」(同年一二月=一日付黒

 田清網羅西郷轡簡、『西郷全集』二、九九~一〇〇頁)。

⑭もっとも、その政治的効果の点よりこの問題を不問にすべしとの意

 見もないではなかったが。たとえば一月段階の肥後の意見は以下のよ

 うなものであった。処罰令を出しても幕府の思い通りにならなければ

 幕府権威は決定的に衰退してしまう、幕府は、むしろ長州の罪は自分

 にも責任があるとの自己批判を幕府が行い、その上で特別に寛大な処

 遣に出ることで幕引きをはかるべしというものであった(『肥後国事

 史料㎞⊥ハ、四四四頁)。

⑮久住真也「長州戦争期の政治運動と『公論㎞」(咽日本史研究輪四四

 三号、一九九九年)、二入~三〇頁。

⑯臨調のなかでは伊達宗城は強硬処分論であり、朝廷の対応を軟弱と

 批判する(噸肥後国事史料隔六、四四二頁、『続再夢紀事㎞〈史〉五、

 九七~九八頁)。越前では春嶽の側近・中根雪江が、処罰令の内容を

 知った直後には、これなら長州も異議はあるまいと判断していた

 (『続再夢無事㎞〈史〉五、四一頁)。また、幕臣ながら再征令に批判

 的で諸藩に信望のある大久保一翁も廃削をふくめた処罰を考えていた

 (同右書、~八頁)。さらに薩摩自身も内心は何らかの処罰は当然と

 思っていたことは註⑱の傍点部に見ることが出来る。また、幕府の罪

 を数え上げ、幕府に処罰の資格はないという議論に対しては、御所攻

 撃を行った長州の罪を幕府の罪で軽重してしまっては「朝憲」が立た

 ない、いかに役入の心得が悪くとも、犯人の罪を軽くするのは不可で

 ある、との筋道論にたった批判が出てくるのが当時の状況であった

 (久住註⑮論文、三七頁)。

⑰青由前掲書、二〇〇頁。

⑱黒田清隆は、二月に岩国藩士に京都会談の内容について以下のよう

 に話している(『倉出経幹周旋記』〈史〉四、四三九頁)。

  「先達て木戸貫治上坂之節、西郷杯申分にては、先此度は一応御承

52 (528)

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薩長同盟の展開(高橋)

服有之度、左候得は、追々御上京にも重爆成、其上にて、又如何様共

         ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

手段可有之と申気味にて、薩にも此度之御沙汰は当然習事と見込候

愚      皿 長州の論理

この「如何様共手段可有之」

ると見ていいだろう。

が指しているものが、形式処罰論であ

 こうした薩摩の説得に木戸は断固として応じない。西郷のシナリオでは、請ければ、幕府の進攻はなくなるし、しかも

実質的な処罰を蒙るわけではない。長州にとり悪い話ではないはずである。それにもかかわらず、なぜ木戸は頑なに拒む

のだろうか。

 それは}つには西郷が描くシナリオの現実性への不信があっただろう。形式処罰論にしても本当に幕府がそのような対

応に出るかは分からない。また、幕府が寛大策を述べたとしてもそれで終わりになる保証はなく、安心させたところで急

                                   ①

に進攻するのではないかとまで疑うほど長州の幕府への不信感は強かったのである。

                                ②

 そしてもっとも重要な要因は、処罰問題についての長州側の論理であった。撰夷期限の勅命・幕命にしたがって長州は

穰夷行動を行い、それを朝幕がともにいったん賞賛したのにもかかわらず、文久三年(一八六三)八・~八クーデターで

京都より追放される、これに憤って血気の輩が藩主の意向を無視して突出してしまったのが禁門の変である。御所を攻撃

したのは悪いが、それは枝葉末節であり、根本的理由は撰夷命令を翻した幕府にある。そして枝葉末節についても三家老

の処刑、敬親父子の官位称号剥奪、三都の藩邸取り上げで処罰は済んでおり、これ以上、処罰を受ける筋合いはない。こ

れが長州の論理であった。しかしすでに述べたようにこれは強引な議論であり、そのことは長州側も自覚していた。何し

ろ元治元年(一八六四)の~二月、懸軍軍に提出した自判書で、「全私共父子平常之緩せ罪科難遁、依託寺院蟄居恐催罷在、

何分之御沙汰盤面待候」、と謹慎して処罰を待つと敬親父子は述べてしまっていたからである(『防長回天史』四脚、三七七

頁)。結局、藩主自らの自判書を反古にするため、慶応二年二月以後の開戦過程において長州側は、藩主はともかく国内

53 (529)

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                                         ③

士民が治まらないので廃削をふくむ処罰は受けられないという論理を持ち出すことになるのである。

 長州は、禁門の変以後、一貫してこのような強硬な主張をしていたわけではなかった。元治元年の率兵上京は藩をあげ

た事業で、先遣部隊が御所を攻撃していた元治元年七月一九日、世子の率いる後続部隊は船で大坂に向かっていた。二一

日、変報が多度津にいる世子軍に届くと、彼らは帰国を決定、上関に戻った。御所攻撃と敗北にどのように対応するか。

七月二八日、岩国藩の吉川経幹は意見書(『防長回天史撫脚下、三~頁)を提出、変は出先の三家老と参謀が君命を取り違え

たことで起こったものであり、首謀者を取り締まってそれで天朝へ申し開くべきであると論じた。攻撃の非を認めた上で

その責任を出先に帰しこれをスケープゴートとしょうという議論である。以後、この線で長州本夕の藩政府は動いていく。

八月二日、帰国してきていた三家老は罷免され徳山藩に預けとなる。参謀も二九日には、中村九郎・佐久間佐兵衛が罷免、

                                                 ⑧

中村は禁固、佐久間は謹慎処分となった。八月二日には、宍戸左馬之介・竹内正兵衛が罷免され、親戚預けとなった。彼

らの将来の処刑はこの段階で確定したと雷えよう。

 しかし御所攻撃は大事件であり、三家老以下に責任をおしつけて事を済ませられるかはあやしいだろう。そこで藩政府

は、敬親を退隠させることも覚悟した。八月三日、藩政府は、周布政之助と家老の清水清太郎を岩国藩に派遣した。吉川

家に上方への周旋を依頼するためである。そしてそのさい周布らは、敬親の申告書を持参していた。それは、すでに見た

出先暴走論を述べ彼らを処罰するとしていたが、最後に、「私儀辞官退隠仕度」と自己の退隠も語っていた(咽防長回天

史騙四下、六一二頁)。吉川家側はこれに意見するに、変の処分は朝幕が出すものであり、長州側が敬親退隠や家老処罰を述

べるのはおかしく、謹慎し自らと家臣の処罰を待つとの趣旨に書き換えるべきであると主張した。この結果、申告書はそ

のように修正された(同書、六四~六五頁)。そしてこの方針で、以後、吉川家は芸備など諸藩を頼りに周旋活動を開始す

    ⑤

るのである。

 「俗論党」が決起し、激しい藩内抗争が始まるのは九月以後で、八月までは「正義感」が藩政府を握っていた。「正義

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薩長同盟の展開(高橋)

党」政権の禁門の変への対応は、長州の「正義」をあくまで主張することではなく、その非を認めた上で、出先の三家老

四参謀に責任をおしつけ、彼らの処刑と敬親退隠により藩の存続をはかろうというものであり、この点においては一〇月

以後の「俗論党」政権のそれと同一であった。実際に三家老四参謀が処刑されたのは、「俗論党」政権期であったが、彼

らを犠牲にすることは「正義党」政権段階からの既定方針であった。「正義党」の藩官僚は藩の存続のために同志を切り

捨てるとともに藩主をも引退させることにしたのである。「正義党」と「俗論党」は対立する勢力であるが、彼らは奇兵

隊などの諸隊と違い藩官僚であり、藩が存亡の危機に立ったときにはともにその存続を優先するのである。

 藩官僚は恭順により藩の存続をはかる方針で一致した。しかし藩内のすべてがこのような方針をとっていたわけではな

                              ⑥

かった。奇兵隊以下の諸隊の主張はこれに反対する強硬なものであった。彼らは禁門の変についてもその原因は幕府にあ

るとする、そして謹慎しているのに征討しようする幕府の動きに対しては「大割拠」で抵抗すべきと主張、削地降伏に反

対のみならず、三家老の処刑にも反対であった。諸隊は「正義党」政権の強固な支持勢力であったが、この問題について

は「正義党」藩官僚と差違があった。=月段階まで「正義党」政権が続いていれば、征長軍の命にしたがって三家老を

処刑するのは彼らの役圓りになっていたはずである。そのときは、彼らと諸隊の関係は微妙なものとなっていたかもしれ

ない。しかし、死刑執行人役は「正義党」ではなく、「俗論党」となり、諸隊と「俗論党」政権の対立にさらに火種を加

えることになるのである。

 両者の対立は結局、元治の内乱となって爆発した。そして慶応元年二月半ばまでに「俗論党」政権は崩壊し、亡命しよ

うとした「俗論党」幹部は拘束された。三月;二日、敬親はいわゆる「武備恭順」方針を藩内に表明した。これは通常、

幕府への対決姿勢を示すものとして評価されるが、そうではない。この時期の長州藩政府の対幕府姿勢が慎重なものであ

                 ⑦

つたことは、青山氏が明らかにしている。

 内乱で勝利したにもかかわらず諸隊の主張である強硬な対幕姿勢が藩の方針とならなかったのは、内乱直後の藩政府と

55 (531)

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諸隊の距離の大きさに理由があった。

                                           ⑧

 元治の内乱での「俗論党」政権の敗北は、諸隊の奮戦と萩における中立派藩宮僚の決起によっている。そしてこの諸隊

と圭諸藩官僚の関係は微妙なものとなる。二月の「俗論党」政権崩壊後、藩政府を握ったのは中立派であったが、なお

「俗論党」の勢力はあり情勢は予断を許さない。そうしたなか、二月一四日、諸隊は萩のすぐ側の東光寺に着陣、翌日は

                                                 ⑨

萩を包囲下に置き、~六日から市中を奇兵隊が「尊見」するようになった。諸隊の影響力は巨大なものとなっていた。し

かし、そうであっても有志集団である諸隊が直接、藩政を握るごとはできない。諸隊がその主張を藩政に反映するには、

彼らが支持する藩官僚が藩政を指導することが必要となる。諸隊の指導者・高杉は、藩官僚という側面をも持つ人物であ

ったが、日常的に政務を運営し藩政を指導できる人間ではない。それに熟達した前田孫右衛門以下かつての「正義党」の

                    ⑩

中枢は、内乱勃発の段階で処刑され潰滅していた。その結果、二月以後、藩政府の中心となったのは山田宇右衛門のよう

                                                 ⑪

な中立派の藩官僚となった。諸隊は外部からそれに圧力をかけ主張の貫徹をはかるが、なかなか思い通りにならない。そ

れは三月二三日の「武備恭順」方針の宣言でも変わらなかったのである。

 こうした慎重な愚老方針から強硬な処罰拒否方針へ転換したことが確認できるのは、五月下旬であった。岩国藩の森脇

~郎と今田靭負は五月二二日に山口におもむき、処罰問題についての本藩の意向を問うたが、家老の毛利筑前の返答は、

三家老切腹などこれまでの処置ですべて済んでおり、これ以上の処罰は請けないというものであったゆこれを聞いた今田

は禁門の変直後、周布らによって示された藩主退隠を認めた方針と異なっていると指摘したが、面面側は、藩主父子の気

持ちは変わらないが臣下が処罰に応じないとの薯情を述べた。これに対し岩国側は、第一次征長のさい退隠を請けるとの

趣旨で西郷とも交渉したのに、今になって「下地沸騰」という理由で変更されては吉川家は進退窮まることになる、と抗

議したが無駄であった(以上、『吉川経幹周旋記』〈史〉三、~七九~一八二頁)。広島審問、京都藩邸会談へとつながる長州の

強硬方針はここに確定しているのである。

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薩長同盟の展開(高橋)

 なぜ長州は強硬論に転換したのだろうか。処罰を拒否すれば幕府と戦争となる危険性は大きく高まる。処罰拒否は旧幕

対決方針への転換をも意味する。その大きな理由の つに幕府の長州再征令があるだろう。幕府が征討を蒸し返したこと

が幕府への春宮心を高めたのは確実だろう。しかし、幕府の再征令が長州を追いつめて対決方針にいたらしめたわけでは

ない。処罰拒否は何よりも長州の側の主体的な決断という側面が強いのである。

 幕府の再征令は当初より不評であり、再征に批判的な藩が多かった。そしてそのことを長州側も知っていた。再征への

対抗のみを目標にするなら、批判派の諸藩との協調を優先することが長州のとるべき道ということになろう。そして、そ

うした協調のためには、処罰拒否という極端な方針ではなく、寛大な処分なら受諾するという方針をとった方が合理的で

あったろう。しかし長州の方針はそうではなかったのである。

 慶応元年閏五月五日、藩政府に木戸は書簡(隅木戸孝允文書駈〈史〉二、六五頁)を送っている。この書簡は、京都から来

た土方久元より上方の最新情勢を聞いた上で書かれたものであるが、そのなかで木戸は、長州再征批判派の諸藩の意見を

                            ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

以下のようにまとめる。「今日征長と申事にては条理不相立、一応従 朝廷至当の御処致被仰出、其上〔長州が〕心服不致

節は、罪をならし天下へ公然と号令を下し〔長州を〕征討有之度」。傍点部の「従朝廷至当の御処士」とは、朝廷による長

州への処罰の言い渡しである。つまり、木戸が理解する再征反対派の主張とは、第一次長州征伐の帰結を尊重し、降伏処

置が済んだとした上でただちに処罰を言い渡すべきというものであったということになる。つまり、諸藩の再征反対論を、

降伏処分蒸し返し反対論と木戸は理解したのである。

 こうした立場の再征反対派の講藩と協調し幕府に対抗するにはどうするか。それは、朝廷が出す条理にたった処罰なら

それを受けるという立場を長州がとることであろう。しかし木戸の考えはそうではなかった。「其処致と申説も、どの口

より伝承致し候ても、いつれも〔長州には〕決て不被折合事再再」。つまり、現在噂されている処罰内容はいずれも長州に

とり受け入れがたいとの趣旨である。これは先の処罰拒否論の立場である。長州がこの立場をとれば、再征令のように服

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罪不十分という理由ではなくとも、処罰令拒否という理由で幕府は長州を征討せざるをえなくなるだろう。そのときの蒸

し返し反対論の諸藩はどのような対応をとるかは微妙だろう。

 処罰拒否論は、場合によっては再征批判派の諸藩をも敵に脱しての戦争につながるものであった。しかし戦争は木戸に

とり覚悟の上であった。「どの道、行詰は進か守るかの二つに有之候……兎に角今一応屹度大難は来り候覚悟に無之ては

不相叶、いつれ一大変動には兎の道可立」、と。

 このように処罰拒否11対決方針は、幕府の再征令という外部の状況にせまられたのではなく、長州の主体的決断として

           ⑫

まず存在するものであった。したがって、なぜ長州がこのような方針をとったかについての答えは、長州の内部に求めね

ばならないことになる。その内部の事情とは、木戸政権の成立である。

 四月末、禁門の変以後、亡命していた木戸が下関にもどり藩政の中心となった。木戸は「正義党」藩官僚のまさに直系

であるとともに中立派にも信望があり、さらに有志との交わりが深く、藩官僚から諸隊まで広く支持を集めうる人物であ

                      ⑬

つた。彼が中枢をしめるのは自然な流れといえよう。木戸復帰以後の藩政府を木戸政権と呼べば、その人材面における特

徴は以下のようになる。一、藩政府の入員においては中立派がなお多く存在し、中立派との連立政権という性格をもつこ

と、二、木戸復帰前の広沢真臣に加えて、井上馨のようなかっての「正義党」藩官僚の中堅・若手が昇進すること、三、

木戸復帰前の前原一誠に加えて、太田市之進(御酌耕助)や石川小五郎(河瀬真孝)のように諸隊の幹部が抜擢されて藩政

                   ⑭

機構内に位置をしめるようになっていくこと、四、一月の京都行きに木戸が品川弥二郎・三好重臣(軍太郎)・早川渡のよ

うな諸隊の幹部を同行したように、諸隊の幹部が諸隊幹部のまま直接、藩政に関わる場合がふえてくることである。特に

                                 ⑮

三・四に見られる諸隊の藩政への直接的進出が木戸政権の大きな特徴であった。木戸政権において嘉隊と藩政府-藩官僚

                  ヘ  へ

が一体化したわけはないが、両者は諸隊幹部が藩政に前進する形で接近したのである。そして木戸ら中枢の藩官僚は、こ

うした諸隊の主張を強く意識しながら藩政を運営していくことになる。処罰問題についての諸隊の強硬論はここに藩政府

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薩長同盟の展開(高橋)

の主張となるのである。藩主側近の直目付が処罰問題について、敬親父子は依然として処罰を受けるつもりなのだが、

「士民一統憤愚」ゆえ受け入れられないと吉川家側に説明したことは先に述べたが、それは実態をふまえたものであった

と言えよう。

 もっとも木戸は諸隊の処罰拒否論を受動的に受け入れたわけではなかった。尊撰論者の撰夷論には、機夷戦争により国

                               ⑯

家を「死地」におきその危機感をバネに改革を進めるという論理があった。そして尊属論に転換して以後の「正義党」藩

官僚もかかる論理をとった。危機を改革のバネにするという戦略は、木戸もふくむ「正義党」藩官僚の戦略であったので

ある。そして、撲夷戦争に敗北し外国と講和をせざるえなくなった長州藩藩官僚にどって唱えうる危機とは、八月一八日

政変で決定的となる幕府との対立だったのである。幕府の再征への危機感があってこそ、長州を「粛然深夜之如き懇情」

(『

h長回天史』五上、}五四頁)とすることをめざす改革を木戸は強力に推し進めることができるのである。

 木戸は再征の危機感を如何に利用しただろうか。「俗論党」の処刑は、内乱直後より諸隊の主張するものであったが、

藩主や中立派政権はそれを行わなかった。そして復帰した木戸は処分断行を主張する(「木戸手記」)、そして吉川家の反対

にもかかわらず、閏五月置〇日までには椋梨藤太ら三人の中心人物を近く処刑することが確定したが、彼らを遠やかに処

刑する理由には、「再討差迫候節は御手障二相成も難計」、という再征を理由とする考慮が存在していた(『吉川経幹周旋記』

〈史V三、二八二~二△二頁)。また、椋梨の斬罪宣皆にはその理由の一つとして、三家老に不適当な罪名を負わせたことが

あげられていた(『防長圓天爵嘱五上、一七三頁)。三家老処刑をも不当とする論理がなければこの判決はなしえないのであ

る。 

また、臨戦体制構築の鍵は軍備の強化であり、木戸はそれを積極的に進めようとする。しかし、軍備強化には経費がか

かり財政的観点では冒険となるので、藩政府のかなりのメンバーは積極的な支出に跨心するが、そこで木戸が訴えるのは

再征への危機感である。当局者が無用の経費を~銭でも厭うのは当然だが、それでは十分な軍備はできず、〔負ければ〕貯

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蓄した金は終に敵のものとなるだけだ(『防長回天史嘱五上、~五五頁)。また、幕府はこちらが如何に正義をもって応接し

ても承知はしないゆえに、「心中必決戦と覚悟」すべきで、そうなると「御手当事(軍備強化)は今日挙り不申ては不相

済」(『木戸孝允文書臨〈史〉二、七四頁)、と。こうした論理のもと木戸は、蒸気船の購入、七千挺の銃の発注という大胆な

軍傭投資を推し進め、それを藩政府に追認させていくのである。

 このように危機をバネに木戸は、臨戦体制を築き上げていく。しかしこれは幕府との軍事的対決につながる危険な路線

であった。危機を改革のバネにするこの戦略をとっていても、周布・前田らは禁門の変後、幕府軍進攻の危機という真の

「死地」に、藩が直面すると浪幕に恭順することで、社稜の存続をはかる道を選んでいた。しかし、木戸政権期の木戸は

社穫の存続を絶対視していない。この背後には、「今日之長州も 皇国之病を治し候にはよき道具」という有名な木戸の

文(『木戸孝允文書臨〈史〉二、九~頁)にあるような、藩よりも国家を優先し、藩をそのための道具と見る考えがあったと

言えよう。結局のところは藩のために存在する藩官僚から、藩を業曝目視する政治家へと、この時の木戸は脱皮していたと

言えよう。

 では、藩を道具としてまで追求しようとした国家次元の目標とは何か。それは六ヶ条盟約の第六条が述べるような、

「皇威相暉き、御回復」の実現、朝廷を中心とする新政体の樹立であり、そのもとでの富国強兵政策の推進ということに

                                        ⑰

なろう。朝廷中心の政治体制とは、諸藩が幕府ではなく朝廷に直接結合する政体と考えられるが、それは大大名としての

徳川氏の存在とはかならずしも矛盾しないものの、現在の幕府政治とは矛盾するものである。

 木戸の処罰拒否論の背後にはこうした事情があった。西郷らと木戸のやりとりは平行線をたどらざるをえない。会談は

暗礁に乗り上げた。

 こうした長州の処罰問題への対応からすると、前年九月に成立していた薩長同盟はどのような意味をもっていたのだろ

うか。~月の京都藩邸会談でこの問題が議論されているところより、これ以前に薩摩がこうした長州の論理を承認してい

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薩長同盟の展開(高橋)

たわけではないのは明らかである。ではこの問題について、薩長は互いに相手をどのように見ていたのだろうか。

 先に言及した閏五月五日付子政府筋書簡(噛木戸孝允文書』〈史〉二、六六頁)で木戸は、再征反対派諸侯の議論には同調

しない旨を述べ、決戦の決意を述べているが、すぐその後で以下のように薩摩に言及する。「いつれ一大変動には兎の引

写立至模様に付、薩上国詰のものも其毒念の趣に付」、西郷と自分との会談を提案してきたのでそれを受け、西郷が下関

に来たら「漏精之箇条を挙、屹度督責仕三度」、と。再征反対派諸藩に期待できないという文に続いて西郷との交渉が述

べられている。処罰は当然、という他の批判派諸藩とは違う主張を、薩摩が持っているのではないか一そうした期待を

もって木戸が薩摩を見ていたことを、このことは示唆している。なぜこのような期待を木戸がもてるのか。

 これ以前、上坂してきた岩国藩の大草終吉と薩摩の高崎五六が四月~一日、会談している。大草が、この上は野地を受

けないというのが諸隊のみならず藩政府の方針である、と述べたのに対し、高崎は「御尤之御事二候、誠二此上削土之儀

ハ御引受被成問敷御情相之」、しかし幕府は多分、削地には出ないだろう、もし糞土を言ってきても長州に「御覚悟も可

有之」、それでも威力をもって臨むようなことは幕府にはできまい、と話している(『吉川経幹周旋記嘱〈史〉三、七九~八○

頁)。処罰拒否方針への好意的な対応と雷えよう。岩国藩への建言であるが、これは本尊に報告されているだろう。木戸

が西郷の「督責」したがった「吾々之箇条」にこの問題への薩摩の対応があったかもしれない。

 しかし周知のようにこの西郷・木戸会談は流れる。そして七月の井上・伊藤の長崎派遣、九月八日付の久光父子宛の敬

親父子書簡による同盟の締結と薩長関係は展開するが、この問題が議論された形跡はない。そもそもこの時、幕府は服罪

不十分という論理にもとつく再征の動きを進めており、幕府がこの論理を撤回した上での対応を議論する必然性は両者の

聞になかったろう。しかし永井の広島審問後、幕府側がこの論理を撤回する可能性が出てきた。いままで間われてこなか

った問題が浮上する。そして、その結果が、京都藩邸会談での議論の平行線であった。歩み寄りがないまま木戸は帰国す

ることになり、一月二〇日、その別宴が行われることになった。

61 (537)

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① 長州の幕府への不信感の強さは、広島審問における永井の譲歩姿勢

 に対する、藩政府の以下の評価に見ることができる。

  「永井杯は矢張表に温言巧辞を以て有手相候得共、素より引当には

 不相成……我士気之怠惰を生ぜしめ突然乱入之姦計と推察仕り……

 〔我は〕只管決戦之心得に罷在候」(一二月八日付広沢真臣等宛藩政

 府書簡、『防長回天史睡五上、四四四頁)

②以下、二月長防士民合議書(『防長回天史』五韻、二}~二八頁)・

 二月芸州宛長州藩演説省(同書、七三~七六頁)。

③「乍恐 昨冬御自判之御書被差出候。此を反古に仕候手段は士民之

 口を借り不申ては難打消、此に甚困窮仕候」(慶応二年二月九日付藩

 政府宛小田村素太郎・赤川又太郎書簡、『防長回天史』宵暁、六七頁)。

 なおこの士民の論理は、開戦以後も残る。芸州口開戦にあたり長州側

 は、閣老・芸州侯・井伊、榊原二侯に戦轡を送ったが、その差し出し

 人は藩主でも家老でもなく、「防長士民中」であった(『防長園天史』

 五中、四一二二~四一二六頁)。幕長戦争の長州側主体は形式論的に言え

 ば、毛利家ではなく防長士民なのであった。

④以上、『防長回天三野四下、三二~四五頁。

⑤敬親は「正義党扁にとってありがたい藩主であったが、何としても

 守るべき絶志向存在であったわけではなく、二瀬の存続の前では切り

 捨てうる存在であったのである。

⑥この時期の諸隊の意見轡は青山前掲書、六〇頁が整理している。

⑦青山前掲書、八一一八二頁、参照。

⑧元治の内乱の過程については岸本覚門長州藩元治内乱における鎮静

 会議員と干城隊」(咽人文学報』七三号、一九九四年)参照。

⑨青山前掲書、七七~八○頁。

⑩ただし「正義党」の中堅官僚の広沢真臣が拘留から解かれ藩政府に

 復帰するとともに、奇兵隊の前原~誠が藩政府に登用されていたが、

 その政治的比重は大きなものではなかった。

  なお両人の登用は、『防長回天史㎞によれば五月六日であるが、両

 名が用所役の~員として署名している三月八日付の文書(隅山口県史

 史料篇』幕宋維新6、二〇〇一年、三七}頁)があり、これまでに登

 用されていたことが明らかとなる。

⑪ 元治内乱後も長州藩政において諸隊の意向が貫徹していなかったこ

 とは、青山前掲書、八一~八二頁参照。

⑫処罰拒否は幕府の再征令以前より長州において唱えられていたもの

 であった。高杉が二月目書いた政策論「回復私議」(『高杉史料』二、

 三八九頁)は、幕府が処罰の沙汰書を出しても長州は断固これを請け

 るべきではない、そうなれば幕府は再征してくることになるが、長州

 は大割拠しこれを破るべし、と論じている。ここで高杉の展開してい

 る論理は、再征↓処罰拒否ではなく、処罰拒否↓再征である。さらに

 高杉は、幕府は因循萄且であり、「少罪少罰」という寛大策で事を治

 めようとするかもしれないが、長州は断乎として処罰拒否の対応をと

 るべき、と論じていた。

⑬なお木戸の政治的資源には他に藩主、あるいは藩主側近の直目付グ

 ループの信任があったが、これについては別に述べることにする。

⑭もっとも御堀・前原・河瀬は諸隊に加わっていても身分は八組士で

 あり、八組士中心という藩官僚の意識はまだ残っていたようである。

 なお高杉の身分意識の強さ、彼の八組中心主義については、梅渓昇

 『高杉晋作臨(吉川弘文館、二〇〇二年)、二五一二~二五四・三一〇~

 三コ頁、参照。

⑮この木戸政権の人材構成は、鳥羽伏見戦争以後の維新官僚の生成に

 つながっている。これ以後、木戸とともに維新官僚に転身するのは、

 二・三・四のグループである。三・四のグループに関して言えば、既

 存の序列を根本的に覆すことが困難な国許を捨て、中央に出て天皇に

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薩長同盟の展開(高橋)

  直結することでその地位の上昇をはかったということができるだろう。 ⑯拙稿「文久二年の政治過程」下、二三~二四頁。

  彼らが長州における維新官僚の起源なのである。なお中立派の藩官僚 

⑰前註⑫でふれた高杉の門回復私議」は将来の長州の政治行動に関わ

  は、維新以後も中央にはでず、国許に残り藩政に関わり続ける(岸本     って、江戸への参勤は拒否し、毎年一度、上京すべしと述べている

  前掲論文、八三頁)。                        (三九四頁)。

         y薩長六ヶ条盟約

 木戸の別宴が予定されていた一月二〇日、龍馬が京都の薩摩藩邸に到着する。会談が進捗していないことを知った龍馬

は周旋に動き、ふたたび会談が始まることになり、翌日、六ヶ条の薩長間の合意である以下の六ヶ条盟約が成立するので

ある。

  1 一戦と相成候時は、直様二千余甲兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京・坂両処を相固め旧事

  2 一戦自然も我勝利と相成候気長有之候とき、其節 朝廷へ申上、屹度尽力之次第有之候との事

  3 一万一戦負色に有之候とも、一年や半年に決て潰滅致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度有之候との事

                              ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   へ

  4 一義なりにて幕肺野帰せしときは、屹度 朝廷へ申上、直様冤罪は従 朝廷御免に相成書都合に、屹度尽力との事

  5 一兵士をも上国之上、橋・会・桑等も如只今次第にて、勿体なくも 朝廷を擁し奉り、正義を警み、周旋尽力之道を相遮り候と

  きは、終に及決戦候外は無之との事

  6 一冤罪も御免之上は、双方誠心活相合し、皇国之御為に砕身尽力仕候事は不及申、いつれ講書にしても、今日より双方皇国之御

  為 皇威相暉き、御回復に立至り候を目途に誠心を尽し、屹度尽力湯器との事

                                  (『忠義史料』四、三七頁、アラビア数字は高橋による)

 ではこの六ヶ条盟約はいかなる性格のものなのだろうか。それはまず何よりも、龍馬到着以前における薩長の主張の対

立という文脈のなかで位置づけなければならない。そしてその点から見るならば、盟約は長州の主張への薩摩の了承を意

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味する。そのことは、「冤罪は従朝廷御免に相成鳥都合に、屹度尽力」という4条の文に明らかだろう。長州の罪は

「冤罪」となり、処罰ではなく名誉回復が課題となるのである。こうなると処罰受け入ればありえず、開戦となる可能性

が高くなる。その場合、薩摩はどうするのかが問われることになる。そしてそれを規定したのが、1から5条である。

 1・2・3条は幕長開戦の場合の薩摩の対応を規定する。すなわち、開戦の場合はただちに兵力二千を上京させ京都・

大坂を固め、その兵力を背景に長州の復権を朝廷に工作する、である。開戦の場合、幕府軍は長州に向かうことが予想さ

れ、上方はその丘ハ靖の本拠地となる。そこに精鋭な薩摩軍が駐留するのである。幕府軍は、長州と在京薩摩兵とに挟撃さ

れる危険性が出てくる。徳川勢力にとっては巨大な圧力となろう。

 つぎに4条であるが、これは、家茂以下幕府軍がこのまま帰東する場合についてである。弱腰すぎる対応のように見え

るが、幕府に戦意はないと判断する薩摩守の視点からすればあり得る想定であろう。この場合、上方の徳川勢力は一会桑

のみとなるが、薩摩は一会桑に対抗してすぐさま長州の復権工作を行うとする。

 以上、開戦・非開戦のいずれにしろ、長州復権のために薩摩側が「尽力」11朝廷工作をなすことが約束される。しかし

この約束で当然問題となるのは、徳川勢力の妨害により朝廷工作がうまくいかない場合である。それを規定したのが、5

条である。つまり、周旋尽力の道が遮られた場合の対応であるが、そのときは、「決戦」H武力行使に及ぶほかないとし

たのである。

 ではこの「決戦」で薩摩が闘う相手は誰だろうか。具体的に名を挙げられている一会桑は当然であるが、家茂以下の幕

府本体はどうだろうか。上方に家茂以下幕府軍が駐屯している状態で、~尊墨に限定して「決戦」を行えるなどというこ

とはあまりに楽観的な想定であり、「決戦」を行う以上は、幕府軍と戦う覚悟が必要であろう。そして4条の幕府軍の玉

東はありえないことではないが、可能性はけっして高くない。「決戦」の相手として薩摩が覚悟しなければならないのは、

一会桑・幕府軍をもふくめた全体としての徳川勢力となるのである。そのことは、条文中の「兵士をも上国之上」との記

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薩長同盟の展開(高橋)

述よりも明らかとなる。決戦の相手を…減算に限定していたとするならこれは一会桑の兵士を指すと解さねばならなくな

るが、一会桑は職務上の理由で在京しているのであり、その家臣陪兵士が上方にいることは改めて記すまでもなく、これ

は、現在、上方に駐屯している幕府軍とせねばならない。そしてこの解釈は、「はじめに」で述べたように新史料に裏付

けられるものである。つまり、5条は、「兵士(家茂鷹下の幕無)をも上国之上、橋・会・桑等も如只今次第にて、〔徳川勢

力が〕勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を食み、周旋尽力之道を相遮り候ときは、〔薩摩は〕終に及決戦候外は無之」、と

いうことなのである。

 盟約はここまでで、処罰を拒否する長州の政治的復権のための戦略を規定した。そして復権達成後、薩長は何をなすべ

きか。これを規定したのが、6条である。「皇国之御為 皇威相難き、御回復」というのがその目標である。つまり朝廷

を中心とする新政体の樹立であり、前年九月八日の久光父子宛の敬親父子書簡で述べられたものと同一の政治目標である。

そしてここで「御回復」というとき、回復以前の不当な状態と考えられているのは、幕府政治であり、これは倒幕に向け

た薩長の共闘をあらためて確認したものであったのである。ただし、倒幕といっても、これにより両藩が積極的に武力倒

                                           ①

幕を決意したというわけではない。現在の藩政治の否定を倒幕とするなら、そのありかたは多様であり、大大名としての

徳川氏の存在、さらには行政機構としての幕府の存在を容認するものもありえたからである。倒幕が積極的な武力倒幕路

線となるか否かは、徳川勢力の出方をふくめ、なお様々な条件によって決まってくる問題なのである。

 つまり六ヶ条盟約は、すでに存在する薩長の同盟関係を前提に、この時、緊急の政治課題となっていた長州再征問題に

ついての両懸の戦略を規定したものであった。そしてその戦略とは、一、処罰拒否論を長州がとることを薩摩が承認し、

それのもとに長州の政治的復権工作を行う、二、その場合、幕長開戦の可能性が高まるが、戦争となれば薩摩は二千の兵

力を上方に派兵する、三、復権工作が進展しない場合、薩摩は全徳川勢力との「決戦」を行う、である。

 二〇日まで西郷らと木戸は対立していたが、結局、西郷側が折れ、この盟約となった。なぜ薩摩側は折れたのだろうか。

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 それは、何よりも薩長提携関係維持の配慮であっただろう。議論が平行線である以上、何れかが譲歩せざるをえない。

本来なら同盟関係維持の必要は、薩摩より侵攻を受ける危機にある長州の方が強いはずである。それよりすれば譲歩すべ

きは長州であったろう。しかし、そうした弱い立場ゆえに木戸は逆に譲歩を拒んだと思われる。「木戸手記」の京都藩邸

会談の記述は、すでに述べたように完全には信用できるものではない。しかし、そこで木戸が龍馬に語ったという、長州

は天下楽劇、施旗四境に迫るという立場にいる、それゆえにこちらから薩摩に提携を申し入れればそれは援助を求めるこ

とであり、長州人の心としてそれはできない、というくだりは、この時の木戸の心境を正しく反映していると思われる。

木戸はあくまで薩摩と対等な立場を望み、下手に立ちたくはなかったのである。しかも現実には、同盟締結の段階におい

                          ②

て長州は若干、下手の立場に立つことになってしまっていた。ここで譲歩し、さらに下手に立つことは心情的に木戸に出

来なかったのであろう。この木戸の気持ちは「木戸手記」にあるように木戸は龍馬に述べ、龍馬はこれを西郷に伝えたで

あろう。薩長同盟は、近代国家間の条約に基づく同盟と違い、制度的枠組みを持つものではなく両藩指導部間の合意にす

ぎず、実践でその意義をつねに弁証していかねば消滅するものである。ここで薩摩か長州の主張を拒めば、両者の関係は

冷却化し、提携関係は空洞化する。長州が固執する以上、今度は薩摩が譲歩する番だったのである。

 処罰拒否という立場を長州がとれば、幕長開戦の可能性が高まる。そのとき薩摩は全徳川勢力との決戦をなさねばなら

なくなる。しかしこの危険に西郷らは動じなかった。その理由は、第一に、西郷が幕府の戦意を極めて低く見ており、開

戦の可能性を一貫して低く評価していたことである。京都会談以前の評価はすでに述べた。そして、五月一日、広島にお

いて老中小笠原長行が長州側に処罰令を交付し、長州側の拒否は不可避で、開戦が決定的となった段階においても西郷は、

                            ③

幕府に戦意はなく、何か寛大策を打ち出すだろうと判断していた。そして第二に、徳川勢力との決戦をもともと薩摩は恐

れていなかったことである。前年九月の再征勅許の段階で薩摩がいったん武力行使を決意したことはすでに述べたところ

である。薩長同盟は当初より軍事同盟だったのである。

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 六ヶ条盟約で、長州の処罰拒否論を承認するという譲歩を行い、場合によっては全徳川勢力との決戦を行うことを約束

した。そしてこの譲歩は、戦争の危機にある木戸以下の長州人、そして木戸に随行した田中光顕など他藩人にとり大きな

安堵と感激をもたらすものであった。京都会談と龍馬の尽力は、鮮烈な記憶として彼らの脳裏に焼き付けられ、明治以後

も語られ続けることになるのである。

①倒幕のあり方の多様性については、拙稿「『公議政体派㎞と薩摩倒

 熊鷹」(馴京都大学文学部研究紀要臨四一号、二〇〇二年)、一〇~一

 }買、参照。

②拙稿「幕末史のなかの薩長同盟」、参照。

③慶応二年五月一〇日付大久保宛西郷書簡

躍=一晶ハ頁)。

(『

蜍v保関係文書』三、

お わ り に

薩長同盟の展開(高橋)

 慶応元年(一八六五)九月八日、薩長同盟が成立した。二二日、長州再征が勅許されると薩摩は再征阻止のために軍事

力行使をも決意した。このまま幕府軍が進撃すればこの段階で幕府薄薩長の戦争となっていただろう。しかし幕府は進軍

せず、永井の広島審問となり、情勢は流動的となる。こうした状況をふまえ両藩の戦略を相談する必要性を薩長双方の指

導部は認め、慶応二年(~八六六)一月の木戸と西郷らの京都会談となった。

 このとき徳川勢力内部では長州にいかなる処罰令を出すかについて対立があった。二閣老は、再征令を事実上撤回し、

前年に尾張慶勝が薩摩の意をうけて建言した内容をふまえた処罰を行うべきと主張していた。この議論は、薩摩のこれま

で主張と合致するものであり、西郷らは木戸にこれが決定されたら請けるよう勧めた。

  方、木戸は三家老四参謀の処刑で処罰はすでにすんでおり、これ以上は請けないという強硬な立場をとった。この長

州の主張は、元治元年(一八六四)=一月に提出した敬親の自判書に矛盾するとともに、諸藩の納得を得にくい強引なも

のであり、薩摩はこれの受け入れを躊躇した。こうした対応を木戸がとったのは、当時の長州藩政府(木戸政権)の性格

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に要因があった。処罰拒否は幕府軍の侵攻につながる方針であったが、木戸政権はあえてこれをとったのである。木戸は

社稜の存続を第一とする藩官僚から、藩を道具とする政治家に脱皮していたのである。

 処罰令受諾の如何をめぐって会談は平行線となつだ。そこに龍馬が到着し、その周旋により西郷らは譲歩し、六ヶ条盟

約の成立となったのである。六ヶ条盟約とは、薩長間の政治的同盟関係の成立を示すものではなく、その存在を前提に、

長州処分問題が政局の焦点となった慶応二年初頭という段階で両藩はいかなる戦略をとるか約束したものであったが、そ

の戦略は、薩摩が長州の処罰「切撞否論を承認し、またその結果可能性が高まる幕長戦争にさいしては、全徳川勢力との

決戦を約束する、というものであったのである。別稿「幕末史のなかの薩長同盟」でもふれたが、薩長問の政治的提携関

係は、成立当初より軍事同盟という性格のものであり、それはこのときも変わらなかったのである。

 この慶応二年初頭となると幕府側も開戦意欲は乏しく、面子さえたてば妥協により問題の平和的解決をはかろうという

意向が存在していた(これについては別稿で明らかにする)。しかし、非妥協的な長州の強硬論を薩摩が承認したことで、そ

の余地はなくなり事態は開戦にむけて進んでいくのである。

 では本稿を閉じるにあたって、盟約成立より六月七日の幕長開戦にいたるまでの盟約のはたした役割について、瞥見し

ておくことにする。

 盟約成立以後の薩摩は、長州の処罰令拒否により可能性が高まりつつある再征を阻止することに向けて動いた。長州が

妥協しない以上、それは幕府の譲歩を求めるものとなる。四月一四日の幕府への出兵拒否上申はその頂点といえるもので

あった。薩摩は長州支援を公然化した。しかし長州の行動は正義であり、それゆえ処罰は受けられないという長州の強引

な論理とは距離をおき、出丘ハ拒否上申でもこの論理を持ち出しはしなかった。そして長州に対しては自重を求めた。二月

上旬、幕府は小笠原老中を処罰令言い渡しのために広島に派遣し、ここで幕長交渉が始まることになる。薩摩は、黒田清

隆や土持佐平太などの藩土を広島や山口に派遣し、急いで交渉を決裂させたり、こちらから攻撃したりするような暴発は

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薩長同盟の展開(高橋)

けっしてなさず、従容として条理をふみ、どこまでもこらえるように、と長州に勧告していた。つまり、開戦するにして

も、諸藩の同情や支持を集めることができるよう、また幕府に責任がいくように、決して長州側から仕掛けないことを求

めたのである。

 いっぽう長州側は、慶応元年~二月段階では、処罰着艦い渡しの段取りになればただちに交渉を決裂させるつもりであ

ったが、次第に態度を穏健化させ、交渉をこちらから決裂させることはせず、最初の一発が幕府側より打たれるまでひた

すら自重する対応をとるようになった。また処罰令拒否の論理においても幕府を一方的に批判するのではなく、国内士民

がこれでは納得しないという国情論を表にだすようにした。このとき諸隊は速やかな開戦を望んでおり、藩政府に対して

強い圧力をかけていたが、木戸を中心とする政府は、これを抑え、戦闘開始の責任を幕府に負わせることになんとか成功

したのである(もう少し幕府の攻撃がのびていたら長州側が暴発する可能性があったと思われるが)。言い換えればこれは、木芦

が単なる諸隊の利害代表ではなく、大局的判断にたって政治指導を行う政治家として陶冶されていく過程なのである。

 こうした自重的対応を木戸政権がとった理由には、元治元年の敬親の自判書の拘束、過激な行動から孤立してしまった

過去の長州の行動への反省、穏健論をとる岩国藩への配慮などがあったが、薩摩の勧告もその一つとして存在していた。

六ヶ条盟約の成立においては、薩摩が長州に譲歩したが、盟約以後、その実施においては、長州側が薩摩の意向を尊重し

たといえよう。

                                         (京都大学大学院文学研究科助教授)

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The Development of Satsuma-Choshu Alliance:

   The Conclusion of the Six-Article Pledge

by

TAKAHASHI Hidenao

  The six-article pledge which Choshu contracted with Satsuma in the first rr}onth

of the second year of the Keio era (1866) is usually called tlte “Satsuma-Choshu

Mance.” lt has been regarded as the starting point of tke political and military

廿e-up that a㎞ed to“overthrow the bakufu”倒幕}lowever, the ailiance had

akeady been concluded in the first year of Keio (1865). Therefore, the six-article

pledge was only one step in the development of the ahiance.

  In Septernber of 1865, a second punitive expedition against Choshu was giveR

imperial sanction. Satsuma opted to buildup its military strength in order to pre-

vent it. However, the bakufU幕府did not attack. The situation was opaque and

Kido Takayoshi and Saigo Takamori and others met in Kyoto in the ilrst month of

the next year to consult about revising their strategy. Since it appeat’ed to include

a hak to military opera50ns, Saigo reconmended acceptance of a punkive order

from the bakufu. But, Kido stubbomly refused to do so. This forcefu1 response

was contrad童ctory to the poKcy of the lord of the domain, the hanshu藩主, and

was not acceptable to other domalns, han藩, e圭ther. It was due to the fact that

Kido had transformed hirnseif from a local bureaucrat concerned ptmarily with his

own domain into a politician who stood for a nation in which the domains might

play the part of mere pawns.

  In the end, the pledge was concluded through the good othces of Sakamoto

Ryoma. As a part of the pledge, Satsuma recognized the Choshu’s stance of total

rejection and vowed to participate in the decisive battle against all Tokugawa milit-

ary forces if, as it appeared increasingly likely, war was to begin over the refusal

of Choshu. The political akiaRce between Satsuma and Choshu was thus imbued

with a military character from the tirne of its formation.

(62ユ)