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Title 近代中國ムスリムのイスラーム法解釋 --非ムスリムとの 共生をめぐって-- Author(s) 中西, 竜也 Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal of Oriental Researches (2016), 74(4): 858-824 Issue Date 2016-03-31 URL https://doi.org/10.14989/240778 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 近代中國ムスリムのイスラーム法解釋 --非ムスリムとの共生をめぐって--

    Author(s) 中西, 竜也

    Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal ofOriental Researches (2016), 74(4): 858-824

    Issue Date 2016-03-31

    URL https://doi.org/10.14989/240778

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • �代中國ムスリムのイスラーム法解釋――非ムスリムとの共生をめぐって――

    中 西 竜 也

    はじめに

    第 1違 馬聯元

    第 1� 『ムスリム綱�』「信仰の條件」――不信者との�際の

    合法�

    第 2� 『信仰の分析』「信仰の命令」―― 不信者の殺および

    その財の奪取の禁止

    第 2違 馬安義

    第 1� 『信仰の確定』「信仰の命令」―― 「背信」の禁止

    第 2� もう一つの「背信」の禁止

    第 3違 浦生

    第 1� 『伊斯蘭六書』「�居之責」―― 非ムスリムの�人への

    優恤

    第 2� 非ムスリムの�人への優恤に關する典據

    おわりに

    は じ め に

    漢語を日常語とする中國ムスリム (囘) と,非ムスリム中國人 (漢) との對

    立 (囘漢對立) は,19 世紀の初めごろから�第に顯著となり,19 世紀後�に雲

    ― 1 ―

    858

  • 南 (1856-74) と西北 (1862-78) で相續いた中國ムスリムの反亂においてピーク

    にした。ただし,いずれのケースでも,彼らの蜂�は,自衞のための止むに

    やまれぬ行動であった。おそらく彼らの大部分は,本來,いたずらに淸�政府

    や非ムスリム中國人社會と衝突することを,決して�んではいなかった。とく

    にムスリム學者の多くは,その衝突をむしろ,�小な中國ムスリム社會の�滅

    にさえつながりかねない,極めて危機�な事態だと�識していたと思われる

    [中西 2013 : 61-67]。したがって,二つのムスリム反亂の後,中國ムスリム知

    識人たちが,非ムスリムの荏�者や�人との關係の再�築に,本格�に向き合

    うようになったのは,至極當然であったと考えられる。

    本稿の目�は,そのような中國ムスリム知識人たちによる,非ムスリムとの

    共生の努力,とくに神學敎條ないしイスラーム法 (シャリーア) 解釋の方面に

    おけるそれを跡附けることである�1

    。それによって,彼らが,いかに囘漢の衝

    突を囘�して中國ムスリム社會�滅の危機を乘り越えたか,加えてその結果と

    して形成された「中國�」イスラームとは具體�にどのようなものであったか

    の一端を!らかにすることを目指す。以下では,馬聯元 (ca. 1841-1903),馬安

    義 (1867-1943),浦生 (1874-1965) といった著名な中國ムスリム學者たちが,

    神學敎條やイスラーム法解釋の場において,ムスリムと不信者の�涉のあり方

    を再措定することで,囘漢の關係改善を圖っていたその具體�樣相を,順に見

    ていくことにする。

    第 1違 馬 聯 元

    第 1� 『ムスリム綱�』「信仰の條件」――不信者との�際の合法�

    馬聯元�2

    ,字は致本,ムスリム名 (經名) は,ムハンマド・ヌール・アル=

    ハック・イブン・ルクマーン (Muḣammad Nūr al-H

    ̇aqq b. Luqmān)。雲南省玉溪

    �1 この作業の若干を,筆者は中西[2013 : 181-202]で行った。本稿はその續%に

    なる。

    �2 以下,馬聯元の生涯や敎育改革,著作については,Lin[1990]や何・穆

    [2012]を參照。

    ― 2 ―

    857

  • (怨興州) の生まれである。中國ムスリムの代表�な學者の一人,馬德怨

    (1794-1874) に師事してイスラーム諸學を修めた後,1869年にマッカ(禮へ旅

    立ち,歸)にカイロやインドで現地のムスリム學者からも敎えを*けた。1872

    年に故+に歸,すると,玉溪郊外の大營にイスラーム敎育の學堂を開き,晚年

    までそこで活動した。�晚年にインドのカーンプルに移り,そこで歿した。

    馬聯元は,雲南ムスリム反亂で荒廢したムスリム社會の復興を企圖し,その

    學堂で多くの弟子を育てるかたわら,イスラーム敎育の再生と改革にも取り組

    んだ。彼は,その一.として,多くの敎科書を%纂したが,その一部には,囘

    漢關係を/停する議論も含まれていた。彼の敎育改革は,囘漢關係の再�築を

    もその射0に收めていたことになる。本�では,そのような敎科書の一つ,

    『ムスリム綱� (Muhimmāt al-muslimīn)』(成立年代不!) を取り上げる。

    『ムスリム綱�』は,つとに濱田正美氏によって指摘されているように,同

    名のペルシア語作品がおそらくは 14 世紀ごろに中央アジアで製作され,その

    後も改作を繰り>された結果,樣々な版が,中央アジアや南アジア,中國など,

    ペルシア語��圈の影?下にあって宗@�にはスンナ@が荏��な地帶のA域

    において,廣く液布してきた。それらは,いずれも類似の內容や體裁を持ち,

    イスラームの敎理と實踐に關する初等D蒙書というべき性格を共Eするが,そ

    れぞれは,その製作者の關心に從って樣々な增補改訂を加えられている。中國

    では,漢語版やアラビア語版も作られた。まず 1678年には,山東濟寧の馬伯

    良が『ムスリム綱�』を漢語にH譯して『敎欵捷�』という書物を著している。

    また,1793-1795年頃�3

    に,蘇州の余浩洲が『敎欵捷�』を補訂した『眞功發

    K』という漢語作品を出版した。そして,このような傳瓜の上に,馬聯元もま

    た『ムスリム綱�』の再%を手がけたのである。彼の場合は,漢譯ではなく,

    ペルシア語で改作版を著した[濱田 2010]。

    さらに,馬聯元の後にも,怨疆で活Lした馬良駿 (1867-1957) が,『敎欵捷

    �』の副讀本として[典藏 : XLIII : 478],『淸眞��志』を著した。同書は,

    初版が 1928 年,第二版が 1929 年,第三版が 1949 年に出た[虎・馬 2007 :

    �3 『眞功發K』の初刊年代については,中西[2013 : 109-110 (n. 12)]參照。

    ― 3 ―

    856

  • 123]。第三版は,アラビア語テクストと漢語のH譯をM記し,『イスラームの

    諸問題のうち�も重�なものの書 (Kitāb ahamm muhimmāt al-masā’ il al-

    Islāmiyya)』というアラビア語のタイトルもEする。『淸眞��志』もまた,紛

    れもなく『ムスリム綱�』の類であった。

    中國で再%された,これらの『ムスリム綱�』の改作版は,いずれも信仰

    (īmān) やイスラームとは何であるか�4

    についての敎條や,禮拜と沐浴のT作に

    ついての解說を,基本�內容として共Eしている。ただし,著者の關心を反映

    した增補改訂が,それぞれを衣なる作品に仕立て上げている。そして,馬聯元

    の『ムスリム綱�』は,まさしく彼の關心を反映して,非ムスリムとの友好關

    係をめぐる特別の敎說を增補し,それが他版とのVいの一つとなっている。そ

    れは,�に見る「イスラームの條件」についての記営から確�できる。

    馬聯元の『ムスリム綱�』[Ma Muhimmāt : 23]には,「イスラームの條件」

    (sharāʼiṫ-i Islām) として,�の八箇條が列擧・解說されている。

    1.アッラーの唯一性〔の�識〕 (tawḣīd-i Khudāy shinākhtan)

    �5

    ;2.アッ

    ラーの正義の�識 (ʻadl-i Allāh shinākhtan)�6

    ;3.預言者の預言者性の�識

    (nubuwwat-i payghambar shinākhtan);4.四人の洩大な敎友の指W者性の�

    識 (imāmat-i chahār ṡaḣābat-i buzrug shinākhtan);5.善を命じること (amr-i

    maʻrūf);6.惡を禁じること (nahy-i munkar);7.不信心や不信者と無關係

    であること (tabarruʼ az kufr wa kāfirān);8.信徒との親� (tawallī bā

    muʼminān)

    この八箇條は,同じものが『ムスリム綱�』のオリジナルに�いと目される,

    いわゆるラホール版[Muhimmāt : 18]にも見える。また,ほぼ同じものが

    �4 一般に,信仰は內面の信心をいい,イスラームは行爲 (五行など) をいう。中

    國ムスリムは,兩者を同義とする說 (Izutsu[2006 : 71-103]參照) をXった。

    たとえば,それは馬安義『信仰の確定』[Taḣqīq : 20-21]に表!されている。

    �5 信仰と�識 (maʻrifa) の關係については,Izutsu [2006 : 128-181]參照。

    �6 「アッラーの正義の�識」は,ムルジア@の Abū Shimr によっても唱えられた

    [Izutsu 2006 : 108]。「アッラーの正義」は,ムウタズィラ@の敎義としてもE名

    である[Ibid. : 250]。

    ― 4 ―

    855

  • 『敎欵捷�』[淸眞,XV : 208-209]や『淸眞��志』第三版[典藏:XLIII :

    427]にも見える (ただし,『眞功發K』には見えない)。加えて,『ムスリム綱�』

    の類ではないが,馬良駿のアラビア語の神學著作『大�Y (Talkhīṡkabīr)』

    [Talḣīṡ: 19]でも,それは言^されている

    �7

    。ただ,各作品の當該八箇條の解

    說を比�すると,馬聯元の『ムスリム綱�』にのみ,「不信者」�8

    との親�の

    合法性を謳う�言が附されていることに氣づく。すなわち,同書のみは,第七

    條に�のような_釋を附しているのである[Ma Muhimmāt : 31, 32]。

    無關係たること (tabarruʼ) とは,信徒 (muʼmin) が,神の敵や彼 (神) の

    `徒〈彼の上にa安あれ〉の敵,すなわち不信者 (kāfir) たちを敵とする

    ことである。というのも,至高なる彼の言葉に「おお汝ら信ずる者たちよ,

    我が敵であり,汝らの敵である者を,友としてはならない」[Qurʼān, LX :

    1]とあるからである。また,別の� (āya) に「信徒の者は,信徒たちを

    差し置いて,不信者たちを親しい友としてはならない」[Qurʼān, III : 28]

    とあるからである。これは,イスラームが優勢な地域のためにある。しか

    しながら,イスラームが劣勢な地域,たとえば我らが地,中國 (zamīn-i

    mā Chīn) においては,我々が,商賣や�涉において,舌 (言葉) の上で,

    彼らと親しくすることが許されている。ただし,我々は,心において,彼

    らの宗敎やそれがその內にEする以下のような事柄と無關係でなければ

    ならない。すなわち,偶宴崇拜,占卜 (tīr giriftan),豫知 (kāhana),命

    數占い (shumār-i jān) や,風水 (āb-i bād)・地b (mizāj-i zamīn)・輪廽

    (tanāsukh) を信じること,などである。というのもこれらの事柄は,すべ

    て不信心だからである。�9

    �7 『淸眞��志』と『大�Y』では,第七條が「�くあること,すなわち至高の神

    のために喜ぶこと (al-tawallā ay al-riḋāʼu li-ajli Allāhi taʻālā)」,第八條が「無關係

    であること,すなわち至高の神のために怒ること (al-tabarruʼu ay al-ghaḋabu li-

    ajli Allāhi taʻālā)」となっている。

    �8 「不信者 (kāfir)」と「多神敎徒 (mushriq)」を區別する立場もあった[Izutsu

    2006 : 15, 19]が,少なくとも中國ムスリムはそのような區別を設けていないよう

    である。

    ↗�9 このペルシア語テクストは,光緖甲午 (1894) 年刊本 (18a-b) によっても確

    ― 5 ―

    854

  • ムスリムに非ムスリムとの敵對を命じる!�がクルアーンに存在することを一

    度は�めておきながら,すぐさまその規定は中國にe用されないとの解釋を示

    しているのは,やや强辯にも映るが,その背後にある馬聯元のg圖は!白であ

    る。中國ムスリムと非ムスリムの荏�者や�人たちとのあいだに友好關係を築

    くために,その目�とは矛盾するクルアーンの命令に敢えて觸れ,その機械�

    e用を防ぐ豫防線を張っておくことが,そのg圖に他ならなかった。「イス

    ラームの條件」第七條は,必ずしもムスリムに非ムスリムとの敵對を命じるも

    のではないが,そのように解釋される危險性も十分にあったのだろう。

    なお,「イスラームの條件」八箇條が,『敎欵捷�』に收錄されているにもか

    かわらず,その改%版である『眞功發K』ではi除されている理由も,ムスリ

    ムに非ムスリムとの敵對を命じているという解釋を許容する第七條の存在が忌

    �されたからかもしれない�10

    。その可能性は,『眞功發K』刊行の直lに,い

    わゆる海富潤事件 (1782年)[余振贵 1996 : 229]が�きていたことから十分に

    想定される。同事件でイスラーム�獻が「n敎」との關聯の�疑から當局の檢

    閱を*けた結果,中國ムスリムたちがイスラームの表現に愼重になったことは,

    想宴に難くない。『眞功發K』の著者余浩洲が「イスラームの條件」八箇條を

    割愛したのも,非ムスリムの荏�者や�人への敵對�な解釋が引き出されかね

    ない第七條に,當局の疑惑・彈壓を招く危險性を敏感に嗅ぎ取ったからだろう。

    だとすると,馬聯元が,余浩洲とはあるg味正反對に,問題の第七條に言^

    し,あまつさえ非ムスリムに敵對�な讀み方があり得ることを示したのは,大

    變_目に値する。たとえその讀み方が中國では不e切であるとr張せんがため

    であったとしても,その行爲は,當局の疑惑を惹�する危險性をある0度はら

    んでいた。しかし馬聯元がそれを敢行したのは,囘漢對立の囘�に極めて眞劍

    だったからであろう。また,『ムスリム綱�』の�言をいたずらに無視するこ

    �した。當該刊本は,雲南省巍山縣小圍埂淸眞寺のイマーム,朱衛勇氏のごT藏

    のものを閱覽しえた (2015年 9t)。氏のご厚uに謝gを表したい。

    �10 問題の第七條について,『ムスリム綱�』のオリジナルに�いラホール版では,

    ただ「無關係であること (tabarruʼ)」とのみある。『敎欵捷�』では,「神と預言

    者の仇敵に怒る (惱rw之仇敵)」という婉曲�な譯を付している。

    ― 6 ―

    853

  • と,それによってイスラームの信仰と實踐に缺損が生じることを極力�けよう

    とする眞摯なx勢も,そこには看取される。馬聯元は,イスラームと中國�.

    境との矛盾から眼を背けず,その解�に眞正面から取り組んだのである�11

    。彼

    がそのような態度をXったのは,余浩洲の時代をはるかに凌ぐ囘漢不和のu況

    が,生�可な對應を許さないほど差しyったものだったからにVいない。

    ともあれ馬聯元は,クルアーンや『ムスリム綱�』という「古典」に依據し

    ながら,旣存の權威ある敎條に_釋を足すというやり方で,囘漢關係の再�築

    を圖ろうとしていたのであるが,同じ戰略は,彼の他の著作においても窺える。

    第 2� 『信仰の分析』「信仰の命令」

    ――不信者の殺およびその財の奪取の禁止

    馬聯元のアラビア語作品『信仰の分析 (Tafṡīl al-īmān)』(成立年代不!)

    �12

    は,「信仰の} (arkān al-īmān)」�13

    と「信仰の命令 (aḣkām al-īmān)」それぞれ六

    箇條を列擧して解說する。このうち,ここで問題になるのは,後者である。そ

    れは,馬聯元の『ムスリム綱�』[Ma Muhimmāt : 14, 16]にも見出される。

    また,『ムスリム綱�』のその他の諸版――『敎欵捷�』[淸眞,XV : 198-

    199]『眞功發K』[淸眞,XV : 318]『淸眞��志』第三版[典藏,XLIII : 387-

    388]でも,確�できる�14

    『信仰の分析』[Tafṡīl : 17-18, 20]に列擧された,「信仰の命令」六箇條それ

    �11 同樣のx勢は,馬聯元の師,馬德怨にも見られた[中西 2013 : 189-191]。

    �12 本稿`用の『信仰の分析』の刊本[Tafṡīl]は,馬聯元のペルシア語作品『四

    � (Kitāb al-faṡl)』を合册する。當該刊本の表紙には「波斯�中�對照」と

    の表示があるが,それは『四�』に關するものである。『信仰の分析』自體は,

    アラビア語作品であり,當該刊本でもそのテクストはアラビア語である。

    �13 アッラー,天`,D示の經典,`徒,來世,定め,のいわゆる六信。『ムスリム

    綱�』ラホール版[Muhimmāt : 16],『敎欵捷�』[淸眞,XV : 197-198]にも見

    える。『眞功發K』[淸眞,XV : 318],『淸眞��志』第三版[典藏,XLIII : 389-

    390]は,六信に「死後復活」を加え「以媽七事」とする。この「七信」につい

    ては,濱田[2007]を參照。

    �14 ただし,先にも觸れた,『ムスリム綱�』のオリジナルに�いと目されるラホー

    ル版には,「信仰の命令」六箇條のほうは,見當たらない。

    ― 7 ―

    852

  • ぞれの�點を拔粹して示せば,�のりである。

    1.「自らが信徒 (muʼmin) であると承�した者は誰であれ,彼を,正當性

    (ḣaqq) なしに殺したりyしたりすることは,我々に許されていない。

    我々と和している不信者 (kāfir),さらには動物についても同樣であ

    る。」;2.「信徒の財を取り去ったり,彼の品物を盜んだり,彼の不動產を

    强奪したり,彼の〔借金の〕利息を貪ったり,彼の私Eしている何かを奪

    取したりすることは,いずれも我々に禁じられている。我々と和してい

    る不信者の財についても,同樣である。ただし彼が同gすれば話は別であ

    る。たとえ詐取であっても。」;3.「信徒たちのうちの自由人の男女を賣っ

    て奴隸とすることは,我々に禁じられている。」;4.「イスラーム法上の必

    然性なくして信徒を毆打・折檻することや,彼を不當にったり,彼を卑

    下したりすることは,許されない。」;5.「貞な女と男を中傷したり,彼

    らの名譽を無にしたり,彼らを罵ったり,彼らの陰口をたたいたり,彼ら

    を妬んだり,彼らの閒に不和の種を撒いたりすることは,禁じられてい

    る。」;6.「信徒は,信仰に從いつつ死んだならば,樂園の仲閒である。一

    生のあいだ逸脫者 (fāsiq) であったとしても,である。恕のない罪で火

    獄に入れられても,永に火獄にあるわけではなく,末には樂園に入り,

    永に樂園にある。……不信に從って死んだ者は,火獄に永にあって,

    ラクダが針の穴をするまで樂園にむことはない。」�15

    _目すべきは,第一條と第二條において,「信徒」による殺や奪取が禁止さ

    れる對象として「不信者」が言^されている點である。「信仰の命令」六箇條

    に觸れるその他の諸作品では,そのような言^がない�16

    。つまり馬聯元は,殺

    ・奪取の禁止對象に,わざわざ「不信者」を加えたのである。この措置は,

    �15 このアラビア語テクストは,民國三年 (1914) 年刊本 (9a-10b) によっても確

    �した。當該刊本は,雲南省巍山縣小圍埂淸眞寺のイマーム,朱衛勇氏のごT藏

    のものを閱覽することができた (2015年 9t)。氏のご厚uに謝gを表したい。

    �16 ただし,馬良駿の『淸眞��志』の漢語テクストでは,殺や奪取の禁止の對

    象とされる muʼmin (信徒) を「良民」と譯して,そこに「不信者」をも含めよ

    うとした形跡がある。「良民」は,必ずしも「不信者」を排さない譯語であろう。

    ― 8 ―

    851

  • やはり囘漢の融和を圖ろうとするg圖に出たものと考えてよいだろう。だとす

    れば,ここでも彼は,旣存の權威ある敎條を再解釋,增補することで,そのg

    圖を實現しようとしていたことになる。

    ただし,彼のやり方は,まだまだ荒iりであった。彼は,みずからの再解釋

    の必然性,正當性を說得�に示さなかったからである。しかしその仕事は,彼

    の息子によって引き繼がれることになる。�違では,その模樣を見ることにし

    よう。

    第 2違 馬 安 義

    第 1� 『信仰の確定』「信仰の命令」――「背信」の禁止

    馬安義�17

    ,字は宜之,ムスリム名はムハンマド・ハサン・ディヤーウッ

    ディーン (Muḣammad H

    ̇asan D

    ̇iyāʼ al-Dīn)。馬聯元の�男である。20 世紀初頭に

    マッカ(禮を行い,歸,後,海南島,廣州,上海で宗敎敎育に從事し,1936

    年以影は,昆!や玉溪で引き續き敎鞭を執った。彼もまた父に似て囘漢の和解

    に多大な關心を拂っていた。そのことは,ヒジュラ曆 1322年 12t (1905年)

    に完成した,彼のアラビア語著作『信仰の確定 (Taḣqīq al-īmān)』(『!德實語』

    という漢語タイトルでも知られる) によって確�される。

    同書は,信仰の內實を,「信仰の} (arkān al-īmān)」六箇條�18

    [Taḣqīq :

    24-69],「信仰の條件 (sharāʼiṫal-īmān)」六箇條

    �19

    [ibid. : 69-142],「信仰の命令

    �17 馬安義の生涯と著作については,姚繼德ほか[2005 : 230]參照。

    �18 馬聯元『信仰の分析』の「信仰の}」と同じ,いわゆる六信。

    �19 第一,不可視なものを信じること。第二,不可視なものの知識をアッラーの特

    Eとすること。第三,合法なものを合法と信じ,非合法なものを非合法と信じる

    こと。第四,兩世でのアッラーの罰にたいし,そこから安Aでないと畏れるこ

    と。第五,兩世でのアッラーの慈悲に�みをき,アッラーによる再生に絕�せ

    ぬこと。第六,信仰吿白,禮拜,喜,斷食,(禮や兩親の重などの絕對義務

    (farāʼiḋ) をアッラーの絕對義務と信じること。この六箇條に類似するものは,

    『ムスリム綱�』ラホール版[Muhimmāt : 16],馬聯元版[Ma Muhimmāt : 11,

    13],『敎欵捷�』[淸眞,XV : 198],『眞功發K』[淸眞,XV : 318-319]にも見

    られる。ただし,これらの六箇條では,第三が,合法なものを合法と信じること,

    ― 9 ―

    850

  • (aḣkām al-īmān)」六箇條[ibid. : 142ff.]によって說!することをrな內容とす

    る。このうち,「信仰の命令」の第一條と第二條の解說部分に,囘漢關係の/

    停に關する知�營爲が見られる。

    馬安義『信仰の確定』の「信仰の命令」六箇條は,先に見た馬聯元『信仰の

    分析』のそれと比べると,第四條と第五條の順序がひっくり>っていることを

    除けば,內容をほぼ同じくする。馬聯元が,信徒による殺や奪取が禁止され

    る對象に,信徒のみならず,「我々と和している不信者」をも含めたことは

    先に見たが,馬安義もこの措置を踏襲している。すなわち『信仰の確定』では,

    「戰爭の家たる我らが國 (bilād-nā dār al-ḣarb)」,つまり中國において,不信者を

    正當性 (ḣaqq) なしに殺したり,その財を權利 (h

    ̇aqq) や同g (rid

    ̇ā) なし

    に奪ったりすることは,信徒に禁じられている,と営べる[Taḣqīq : 142-143]。

    しかも同書では,さらにんで,その根據までもが論じられている。そしてこ

    の點こそが,『信仰の分析』に比べた場合のオリジナリティ,つまりは囘漢和

    aを目指した馬安義の獨自の解釋努力として_目される。以下,そのT論を

    っていきたい。

    なお,「戰爭の家 (dār al-ḣarb)」とは,「イスラームの家 (dār al-Islām)」の對

    槪念で,l者はイスラーム法が實施されていない領域,後者は實施されている

    領域をg味する[ハッドゥーリー 2013 : 11-18]。馬安義によれば,當時,「中

    國の一部のウラマー」が,中國は「戰爭の家」ではなく「安A保障の家 (dār

    al-amān)」�20

    に屬すとか,中國の非ムスリムは「庇護民 (dhimmī)」である,な

    第四が,非合法なものを非合法と信じること,第五が,アッラーの罰への畏れ,

    第六が,アッラーの慈悲への�み,となっている。

    �20 「安A保障の家」は,南アジアのイスラーム�代�r義者 Sayyid Aḣmad Khān

    (d. 1898) の語で,ムスリムが安A保障 求者 (mustaʼmin) として¡む領域の

    こと。彼によると,この領域では,ムスリムの安A (amān) が保障される限り,

    その保障者たる荏�者へのジハードは許されず,英領インドがまさにこの領域に

    相當し,そこでのムスリムの反亂は非合法,とされた[Verskin 2013 : 80 ; Jalal

    2010 : 135]。インドの¢民地�の�b中で胚胎されたこの思想に感�されて,「中

    國の一部のウラマー」は中國を「安A保障の家」と呼んだのだろう。その影?は

    馬安義にまで^んでいたかもしれない。以下で見るように,彼は「安A保障の家」

    という領域の設定に反對しながら,實はほとんど同じ理屈で淸�への反抗を禁じ

    ― 10 ―

    849

  • どとr張していたという[Taḣqīq : 150-151]が,彼自身は三つの理由からそ

    れを£ける。すなわち,第一に,中國ではムスリムが人頭稅 (jizya) を¥收し

    ていない[Taḣqīq : 151-154]。第二に,同國では多神敎徒 (mushrik) の諸命令

    (aḣkām) が實施されており,ムスリムがイスラーム法の一部を¦守し得てい

    るのは,それを許されているにぎず,決してイスラーム法の實施をg味しな

    い[Taḣqīq : 157]。第三に,中國ムスリムが絕對�に信奉するハナフィー@に

    よれば,世界には「戰爭の家」か「イスラームの家」かのいずれかしかなく,

    「安A保障の家」のような第三の領域は�められない[Taḣqīq : 155-158]

    �21

    かくして馬安義は,中國を「戰爭の家」とみなすのであった�22

    また,馬安義は,中國を「戰爭の家」とみなすがゆえに,そこで暮らす中國

    ムスリムの法�身分を「安A保障 求者 (mustaʼmin)」に同定する[Taḣqīq :

    146, 154]。「安A保障 求者」とは,「戰爭の家」の荏�者に安A保障 (amān)

    を與えられてそこに滯在している「イスラームの家」の人々 (あるいは「イス

    ラームの家」の荏�者から安A保障を得てそこに滯在する「戰爭の家」の人々)

    [Taḣqīq : 146 ; Shāmī, III : 341 ; ハッドゥーリー 2013 : 17, 48-49]をいう。

    さて,「戰爭の家」たる中國において信徒が不信者を殺したりその財を奪

    取したりすることの禁止の根據として,馬安義が擧げるのは,「背信 (ghadr)」

    の禁止である[Taḣqīq : 142-143]。「背信」の禁止それじたいの根據は,彼に

    よれば,「同g (riḋā)」のない商取引を禁じる,クルアーンの 4 違 29�などに

    た。なお,馬聯元がカーンプルを§生の地としたように,淸末にはすでに,中國

    と南アジアのムスリムのあいだに何らかのネットワークが存在したと見られる。

    �21 シャーフィイー@は,「條Yの家 (dār al-ahd)」や「和解の家 (dār al-ṡulḣ)」の

    ような第三の領域を�める[ハッドゥーリー 2013 : 12]。

    �22 王靜齋 (1879-1949) は,その漢語クルアーン_釋『古蘭經譯解』の第二版

    (1937-42作成,『白話譯解古蘭天經』) と第三版 (1938-1946作成) で,クルアー

    ン 4 違 95�に_して,中國を「イスラームの家 (囘敎國)」とし,ヒジュラ (中

    國からの脫出) の不�を說く[淸眞, IX : 254-255 ; XI : 139]。ただし,日中戰爭

    (1937-1945) 以lに作られた初版 (1932 年刊行) は,この_釋を缺く[淸眞,

    VIII : 115]。當該_釋は,抗日戰爭を「防衞ジハード」とする言說[Matsumoto

    2003 ; 松本 2003;矢久保 2013]に呼應したものと推察される。

    ― 11 ―

    848

  • 求められる[Taḣqīq : 143]。したがって,彼のいう「背信」とは,第一に,

    「同g」のない商取引を指す。そして,その種の「背信」のうちには,「戰爭の

    家」において信徒が不信者の財をその「同g」なしに取得することも數えられ

    るのである。このことは,『信仰の確定』において,たとえば�のように說!

    されている[Taḣqīq : 144-146]。

    『¨良の眞珠 (Durr al-mukhtār)』にいう。戰爭の家の¡民 (ḣarbī) と,〔戰

    爭の家に滯在中の〕安A保障 求者たるムスリム (Muslim mustaʼmin) と

    のあいだにおける利息〔契Y〕は,〔イスラーム法において〕不正な契Y

    であるが,そこでは――すなわち戰爭の家では,〔その不正が〕證!され

    ない。というのも,彼 (戰爭の家の者) の財は,そこでは〔ムスリムによ

    る取得が〕許されたもの (mubāḣ) だからである。ゆえにそれ (利息) は,

    彼の同gによって,あらゆる點において背信がないことを條件に許される。

    それで,もしそこに奪取や竊盜の如き背信があったならば,非合法である。

    ……ハーキム (al-Ḣākim) の『十A (Kāfī)』にいう。彼 (安A保障 求者た

    るムスリム) が,彼ら――すなわち戰爭の家の人々に,現金もしくは信用

    貸しによって 1ディルハムを 2ディルハムで賣ったり,酒や豚肉,正しい

    手續きで殺されていない動物の肉を賣ったりしても,問題はない。という

    のも,彼は,彼らの同gのもとで,背信がないのならば,彼らの財を*け

    取ることができるからである。というのも彼は,安A保障とともに彼らの

    領域 (dār-hum) に入ったとき,彼らに背信しないことを義務としたから

    である。そして,彼らの同gのもとに彼らから*け取ったものは,そこに

    背信がないので,それは取得が許される (mubāḣ)。

    ここでは,「戰爭の家」では,たとえイスラーム法で禁じられた取引であって

    も,信徒が不信者 (「戰爭の家の¡民」) とのあいだに同gのもとに行うのであれ

    ば許される,と論じられている。つまり,「戰爭の家」で信徒と不信者が商取

    引を行う場合,「背信」のE無を決めるポイントは,取引じたいの內容ではな

    く當事者の「同g」のE無にこそあることが强/されているのである�23

    ↗�23 ただし馬安義は,「戰爭の家における二人のムスリム商人は,イスラームの家に

    ― 12 ―

    847

  • そして,この議論を荏えていたのは,中國ムスリムのあいだで威信のあった

    ハナフィー@の法學說であった。ここに言^される『¨良の眞珠』が,ハスカ

    フィー (ʻAlāʼ al-Dīn Muḣammad al-H

    ̇aṡkafī, d. 1677) のハナフィー@法學著作であ

    ることは閒Vいない。引用されているその�言は,同書への_釋たる,シリア

    のハナフィー法學者,イブン・アービディーン (d. 1836)�24

    の『«える者への

    反駁 (Radd al-muḣtār)』にも見える[Radd, IV : 260]。また,「ハーキムの『十

    A』」�25

    の引用�も,『«える者への反駁』[Radd, III : 341]に,「ハーキムの

    『十A』によれば」との書き出しで揭載されている。

    『«える者への反駁』は,中國では『シャーミー (Shāmī)』の名で知られ,

    遲くとも馬聯元以來,中國ムスリムのあいだで,ハナフィー@法學の「正典」

    として重視されてきた[中西 2013 : 72-73, 172-175 (n. 50, 58), 195-200]。『信

    仰の確定』においてもr�な典據としてしばしば參照されている。『«える者

    への反駁』にも引かれる『¨良の眞珠』と『十A』の當該�言は,馬安義に

    とって,紛れもなくハナフィー@の正瓜學說にほかならなかった。

    �するに彼は,「戰爭の家」で信徒が不信者の財を同gなく取得することを,

    クルアーンに禁じられた「背信」とみなし,權威あるハナフィー@法學說に

    よってこれを根據づけたのであった。これによって,彼が,商取引の場におけ

    る囘漢の°擦を囘�しようとしたことは疑いない。『信仰の確定』[Taḣqīq :

    146]でも言^されているように,『シャーミー』[Radd, III : 343]に「戰爭

    の家の人 (ḣarbī) が安A保障なしに我々の領域 (dār) に入ったならば,彼

    は彼とともにあるものとともに,ムスリムの財產 (faiʼ) となる」と規定され

    おいて許されること以外のことが許されない」[Taḣqīq : 145]とも営べている。

    イスラーム法で禁じられている取引は,イスラーム法の實施される「イスラーム

    の家」で禁じられるほか,「戰爭の家」でもムスリム同士のあいだでは禁じられる,

    ということである。

    �24 イブン・アービディーンは,イスラーム法の再解釋を訴え,その際に時代や社

    會の� や慣±を考慮すべきことを說いた法學者として知られる[Hallaq 2002]。

    �25 Muḣammad b. Muh

    ̇ammad b. Ah

    ̇mad al-Marwazī al-H

    ̇ākim (d. H. 334/ 945)の

    al-Kāfī fī al-fiqh[GAL, GI : 174]か。

    ― 13 ―

    846

  • る�26

    。これを²解して,非ムスリムの財を同gのない不正取引によって取得し

    てもよいと考えるムスリムが現れないようにすることを,馬安義は考えていた

    のではなかろうか。また,囘漢關係の圓滑�という�bでは,上引�において,

    「戰爭の家」の「安A保障 求者」である中國ムスリムが,利息契Yや酒・豚

    肉の販賣など非ムスリムの商慣行に關與することが合法�されていることも,

    見³せない�27

    では,「戰爭の家」での信徒による不信者殺の禁止は,どのように根據づ

    けられたか。ここで_目すべきは,上引�の「彼は,安A保障とともに彼らに

    背信しないことを義務とした」という一�である。すなわち,「戰爭の家」に

    滯在するムスリムは,安A保障の�奄條件として,その¡民たる不信者に「背

    信」しないという義務を課せられている,というのである。結論から言えば馬

    安義は,そのような�奄條件を反故にすることもまた「背信」と見なした。つ

    まり彼によると,中國ムスリムが中國の非ムスリムたちの財を,同gなしに取

    得するという「背信」は,安A保障の�奄條件を反故にするという「背信」を

    犯している點からも,非合法なのであった。加えて『信仰の確定』では,「戰

    爭の家」での信徒による不信者の殺や,さらには中國ムスリムの淸�皇´に

    たいする不µ從も,後者の「背信」に相當するものとして禁じられた。この議

    論の詳細は,�を改めて見たい。

    第 2� もう一つの「背信」の禁止

    馬安義は,上引�に續けて,�のように記している[Taḣqīq : 146]。

    我々こと中國の〔領域に暮らす〕イスラームの人々には,�のことが許さ

    れない。すなわち,中國のスルターン (al-sulṫān al-s

    ̇īnī) へのµ從から脫出

    したり,彼に壓yを加えたりすることは,たとえ彼が不正な不信者であっ

    たとしても,許されない。というのも,我々は,彼の瓜治と政治と安A保

    �26 faiʼについては,ハッドゥーリー[2013 : 50, 207]を參照。

    �27 Shāh ʻAbd al-ʻAzīz (d. 1824) も,インドが「戰爭の家」となったがゆえに利子

    の取得が合法となったと論じた[Gaborieau 2010 : 44 ; Jalal 2010 : 68]。

    ― 14 ―

    845

  • 障のもとに,安A保障 求者としてあるからである。もし我らの誰かが彼

    (スルターン) を壓yしたら,彼は〔スルターンにたいする〕背信者であり,

    背信は禁じられている (ḣarām)。

    『信仰の確定』が完成した 1905年という年代からすると,ここでいう「中國の

    スルターン」が淸�の皇´を指すことは疑いない。�するに,安A保障の�奄

    條件を反故にすることの禁止にもとづき,中國ムスリムが淸�皇´に從順でな

    ければならない,というのがこの一�の趣旨に他ならない。

    同樣に,馬安義は�のようにも論じている[Taḣqīq : 148]。

    ……�のことが!らかである。ムスリムがイスラームの家から中國の領域

    (dār) に入ったならば,彼は彼ら (非ムスリム中國人) にたいして安A保障

     求者となる。疑いなく,以lの中國のイスラームの人々は,我々の領域

    (dār) から彼らの領域へ入った者であり,我らの父祖たちのうちに屬した

    が,彼らは彼ら (非ムスリム中國人) にたいして安A保障 求者であった。

    我々,すなわち今いる者たちは,戰爭の家のムスリムに屬し,安A保障 

    求者には屬さない。否むしろ,彼ら (非ムスリム中國人) の國王の臣民に屬

    する。というのも,彼は公正なスルターンであり,彼ら (ムスリム) と彼

    ら (非ムスリム中國人) を分け·てしないからである。しかし,我々にe用

    される法規は,安A保障 求者のそれである。我らが父祖たちにe用され

    た法規の如くである。我々の領域で,安A保障 求者が,庇護民

    (dhimmī) の法規をe用される庇護民になるlの狀態にあるが如きである。

    『シャーミー (Shāmī)』[Radd, III : 341]では,このため,彼ら (戰爭の家

    の人々) の財や血,女の何れにも,干涉すること (taʻarruḋ) が我々に禁じ

    られているのである。

    ここでは,現在の中國ムスリムは,父祖たちのように安A保障 求者ではもは

    やなく,むしろ淸�皇´の臣民となっているが,しかしe用される法は安A保

    障 求者のそれである,と位置づけられている。加えて,それゆえに中國ムス

    リムは,安A保障の�奄條件として,非ムスリム中國人の財產,生命,女性に

    手を出してはならない,とも営べられている。

    ただし馬安義は,�のような例外にも觸れている[Taḣqīq : 146-147]。

    ― 15 ―

    844

  • 〔『¨良の眞珠 (Durr al-mukhtār)』もしくはその_釋『シャーミー』[Radd,

    III : 341](本稿l�參照) にいう:〕ムスリムが戰爭の家に入ったとき,

    彼ら (戰爭の家の人々) の血と財や女の何れかに干涉することは,禁じら

    れている。というのも彼は彼らの諸規定 (shurūṫ) のもとにあるからであ

    る。『恩寵 (Minaḣ)』�28

    にいう:というのも,安A保障 求者は,彼らに反

    抗しない〔かわりに安A保障を求める〕という安A保障 求 (istìʼmān) に

    責任があるからである。ゆえにそののちに反抗するのは,背信である。背

    信は禁じられている。ただし,彼らの王が彼 (安A保障 求者) に背信し

    て,彼の財を取ったり,彼を禁固したり,あるいは〔それらのことを〕彼

    (王) とは別の者が彼の印 (ʻalam) で〔代わりに〕行って彼がそれを止め

    なかったりしたときは,別である。というのも,彼らは,Y束を破った者

    だからである�29

    �するに,「背信」の禁止は雙務�であって,安A保障が反故にされたならば,

    その�奄條件であったµ從の義務も守る必�はない,ということである。この

    點については『信仰の確定』に�のような記営も見*けられる (以下は,一つ

    lの引用�の直後の一�である。すなわち「『シャーミー (Shāmī)』では,このため,

    彼ら (戰爭の家の人々) の財や血,女の何れかに干涉することが,我々に禁じられてい

    るのである」に續く�違である)[Taḣqīq : 148-149]。

    ただし,彼らの王が我々に背信したときは別である。大理府 (buzrug li fu)

    の地域における杜�秀 (Du wun su) の時代において〔そうであった〕如

    く。というのも,不信者たちは,雲南 (al-Yunnānī) の地域にいるムスリ

    ムたちを根絕することを決gしたからである。そのとき,我々には,彼ら

    の女以外のものに干涉することが許された。

    �28 Shams al-Dīn Muḣammad b. ʻAlī b. Shihāb al-Dīn Ah

    ̇mad al-Timirtāshī al-Ghazzī

    al-Ḣanafī Abū S

    ̇ālih

    ̇(d. 1004/ 1595)による,Tanwīr al-abs

    ̇ār wa jāmi‘ al-bih

    ̇ārへ

    の_釋,Minaḣal-Ghaffār[GAL, GII : 311 ; SII : 428]か。なお,『¨良の眞珠』

    も,Tanwīr al-abṡārの_釋である[ibid.]。

    �29 『恩寵』の引用�に類似の內容は,『«える者への反駁』[Radd, III : 341]にも

    見える。

    ― 16 ―

    843

  • 杜�秀は,雲南ムスリム反亂の領袖の一人で,雲南の大理に據った人物である。

    雲南ムスリム反亂の發端は,非ムスリム中國人による中國ムスリムの½殺を淸

    �の地方官僚が默�したことにあった。馬安義は,その½殺と默�をまさしく

    安A保障の一方�破棄と解したのであろう。ここで彼は,そのような「背信」

    があったがゆえに,杜�秀の反亂は合法であった,と斷じているのである�30

    もちろん,このr張は但し書きにぎず,あくまで馬安義の議論A體のr眼

    は,中國ムスリムが淸�皇´に反抗したり,非ムスリム中國人に危を加えた

    りすることの非合法性を!らかにすることにあった。彼は,杜�秀の反亂を正

    當�した後,すぐさまそれが例外�事態であること,現在は淸�皇´への反抗

    が非合法であることを,�のように重ねて强/している[Taḣqīq : 149-150]。

    しかし,安Aが保障されている¾閒であるこの時代の我々は,彼ら (非ム

    スリム中國人) の安A保障の下に入った者たちである。というのも我々は,

    彼らの諸規定のもとにあり,彼らの王の瓜治,政治,强制の下にあるから

    である。疑いなく,我々は彼らに安A保障 求する者に屬する。このゆえ

    に,地租,十分の一稅,Y束の履行など,彼が命令・�求することや,强

    奪,竊盜,ひったくり,姦,殺人など,彼が禁じることについて,彼へ

    のµ從が,たとえ彼が不信者であっても,我々にとっての義務であった

    (wājibatan)。ただ,不信となることや,信仰の墮落を含む命令のすべてに

    ついてはその限りでない。というのも我々には,永Aな心をもって,それ

    (信仰の墮落) から自由であることが義務だからである。『シャーミー』「w

    戰の書 (kitāb al-jihād)」�31

    に�のようにあるが如くである。「彼ら,すなわ

    ち不信者たちに,必�性にyられて從う諸王や諸將は,ムスリムである。

    �30 馬安義は,自身の學問�源液に當たる馬德怨と袂を分かって反亂を繼續した杜

    �秀の行動を擁護していたことになる。反亂の�§局面まで淸軍に抵抗した杜�

    秀にたいして,雲南ムスリム反亂のもう一人のE力な指W者であった馬德怨は,

    早々に淸�に影伏し,兩者は少なくとも形の上では敵對することとなった。馬德

    怨は,馬安義の父,馬聯元の師であり,馬安義は,馬德怨の『天方曆源』に_釋

    を施してもいる[東長・中西 2010 : 331]。

    �31 正しくは『«える者への反駁』の「¿決の書 (kitāb al-qaḋāʼ)」[Radd, IV : 427]。

    ― 17 ―

    842

  • ただし,彼ら,すなわち諸王が,必�性にyられたわけでもないのに從う

    ことがあったならば,彼らは逸脫者である」と。このゆえに,父祖なる我

    らがウラマーは,`徒〈彼の上にa安あれ〉のスンナに從って,ズフルの

    禮拜のときに,我らの辮髮 (dhawāʼib) を,髮が出無いように,ターバン

    の下に隱すことをX用した。というのも,彼〈彼の上にa安あれ〉は,別

    離の(禮の後,頭を完Aに剃ったからである。我々は,スルターンの命令

    に從って,禮拜以外では,我々の背にそれを垂らした。スルターンは,彼

    (ウラマー) にそれを衣µと同樣に强制した。衣µもまた,彼が着ていた外

    套のかたちとは衣なっていた。

    ここでも馬安義は,「戰爭の家」の瓜治者の命令がイスラーム法に抵觸するな

    らば從ってはならない,との但し書きを附している。一見,中國ムスリムによ

    る淸�皇´へのµ從を制限しようとしているかのようだが,同時に,ある種の

    工夫をもってすれば,そのµ從が決して信仰の墮落に繫がるものでないことを

    示唆してもいる。その但し書きの趣旨も,不信者の王へのµ從と信仰を/停す

    るような工夫を推奬しつつ,中國ムスリムによる淸�皇´へのµ從を合法�す

    ることにあったと見られる。

    以上,馬安義が,「信仰の命令」の第一條と第二條として,中國ムスリムが

    非ムスリム中國人を殺したり,その財を奪ったりすることの非合法性を,い

    かにして根據づけたかを見てきた。そのポイントは,中國を「戰爭の家」とみ

    なし,その上で中國ムスリムの法�身分を安A保障 求者としたことにあった。

    中國を「戰爭の家」とすることは,一定の條件下で「イスラームの家」のム

    スリムによる中國への攻擊を合法�することをg味した。これ自體は,囘漢對

    立を助長しかねない危險な措置であった。馬安義によれば「中國の一部のウラ

    マー」が中國を「安A保障の家」と呼んだというが,それもそのような危險性

    が危惧されたからであろう。しかし馬安義は,中國ムスリムを安A保障 求者

    とすることで,この問題を囘�したのであった。それどころか,中國ムスリム

    による淸�皇´へのµ從を積極�に肯定することも可能となった。

    このような巧みな法學議論は,中國ムスリムのあいだで,馬安義よりlには

    見られなかった。それは,彼の父,馬聯元のT論の基礎上に�築されながら,

    ― 18 ―

    841

  • !らかに洗練の度を加えられていた。囘漢融和をめぐる神學敎條ないしイス

    ラーム法の解釋努力は,少なくとも雲南ムスリムのあいだで,ある0度の繼

    承・蓄積・展を見た,と言えるだろう。

    第 3違 浦 生

    第 1� 『伊斯蘭六書』「�居之責」――非ムスリムの�人への優恤

    雲南ムスリム反亂を契機として本格�した,中國ムスリム學者たちによる囘

    漢共生のためのイスラーム法再解釋は,その後,どのような展開を見せたか。

    馬聯元や馬安義とのあいだの繼承關係は不!であるが,類似の知�營爲は,�

    代中國の四大ウラマーの一人として知られる,浦生の漢語著作『伊斯蘭六

    書』においても確�される。

    浦生�32

    は,江蘇の生まれである。のちに北京で王に師事し,その創設に

    かかる囘�師範學堂の校長を務めたり,1928年には,みずから上海伊斯蘭師

    範學校を創設したりするなど,�代イスラーム敎育改革に盡力した。日中戰爭

    がはじまると,愛國抗日活動に積極�に從事した。人民共和國のもとでは,中

    國伊斯蘭敎協會の設立などの件で政府に協力し,各種�職を歷任した。そのr

    著『伊斯蘭六書』は,抗日戰爭の�中の 1940年頃から西北の地で執筆が開始

    された。自序は西安において民國 34年 4t 8 日 (1945) の日附で書かれてい

    るが,浦生は,その後も改訂增補に盡力したという。その作業は,彼が

    1945年に南京,そして上海へ戾ってから,1950年に北京へ移るまでの閒に行

    われたらしい。

    『伊斯蘭六書』における囘漢和解の取り組みは,とくに同書の第二違第七�

    「�居之責」に顯著である。そこでは,�のように,クルアーンやハディース

    を根據に,非ムスリムを含む�人への親切 (善待) が,義務 (應當) であると

    說かれている[六書:217]。

    『古蘭經』云“善待��,�與同Ä”。��者,親而�也。�者,無親

    �32 浦生の生涯については,杰[2003]を參照。

    ― 19 ―

    840

  • 之�。同Ä者,同事,同狄,同僚,同禮拜者。均應互相敬愛。對困乏者,

    且應加以協助。穆w云“�居E三。E一箇責任之�,E兩箇責任之�,E

    三箇責任之�。凡屬親戚,印同敎印居�,斯乃三箇責任之�也。Y同敎居

    �,斯乃兩箇責任之�也。YY居�,是一箇責任之�也”。穆w此論,對

    �居特別重視。卽非同敎,尙E�居之責,應當善待之,必�時協助之。故

    穆w云“爾其善待爾�,方是穆斯林也”。善待�居,已成爲穆斯林先決之

    條件,足見重視�居,爲人中至重�者。

    『クルアーン』にいう。「��,�,同Äには,善い取りいをなせ」と。

    「��」とは,親戚關係があって�り合う者のこと。「�」とは,親戚關

    係のない�人のこと。「同Ä」とは,仕事仲閒,相棒,同僚,ともに禮拜

    する者たちのこと。均しく互いに敬愛すべきである。困窮者には,協力Ç

    助してやるべきである。預言者ムハンマドは言われた。「�人に三つある。

    〔彼に關してムスリムに〕一つの責任がある�人。二つの責任がある�人。

    三つの責任がある�人。親戚關係にあり,かつ宗敎を同じくし,�り合っ

    て¡むのは,三つの責任がある�人である。敎えを同じくし,かつ�り

    合って¡むだけであれば,二つの責任がある�人である。�り合って¡む

    だけだと,一つの責任がある�人である」と。ムハンマドのこのT論は,

    �り合って¡むことを特段に重視している。たとえ宗敎を同じくしていな

    くても,�居の責任があり,〔�人を〕善く取りうことが義務であり,

    必�ならば協力Ç助せねばならない。故にムハンマドは言われた。「汝は,

    その�の者に善い取りいをなせ。そうしてはじめてムスリムとなる」と。

    �人に善い取りいをなすことは,ムスリムかどうかを決する第一條件と

    されているのだから,〔ムハンマドが〕�人〔關係〕を重視して,人の

    �重�事項としているのは,!らかである。

    なお,ここに引かれているクルアーンの�言は,4 違 36�,「親切であれ,

    兩親に。また,�親,孤兒,貧民,關係のある�人,血緣のない�人,連れ

    の仲閒,旅行者,汝らの右手がTEする者にも (wa biʼl-wālidayni iḣsānan wa bi-

    dhī al-qurbā wa al-yatāmā wa al-masākīni wa al-jāri dhī al-qurbā wa al-jāri al-junubi wa al-

    ṡāḣibi biʼl-janbi wa ibni al-sabīli wa mā malakat aymānu-kum)」に他ならない。また,

    ― 20 ―

    839

  • 「�人に三つある。……」というハディースは,たとえば,サマルカンディー

    (d. 983) の『不_g者への喚� (Tanbīh al-ghāfilīn)』でも,�のように,クル

    アーン 4違 36�への_釋のかたちで引用されている[Tanbīh : 50]。

    また,〔親切であれ〕血緣のない�人に (wa al-jāri al-junubi)。すなわち,

    外部の者 (ajnabī) であって汝と彼とのあいだに親族關係 (qarāba) が無い

    �人に。神の`徒〈神が彼に祝福とa安をお與えになりますように〉は言

    われた。「�人に三つある。〔彼に關してムスリムに〕三つの責任 (ḣaqq)

    がある�人。二つの責任がある�人。一つの責任がある�人。三つの責任

    のある�人であれば,汝の�人は,ムスリムにして親族である。二つの責

    任のある�人であれば,汝の�人はムスリムである。一つの責任がある�

    人であれば,汝の�人は庇護民 (dhimmī) である」と。すなわち,�人が

    親族であってムスリムであるとき,彼に關して〔ムスリムには〕親族の責

    任とイスラームの責任と�居の責任 (ḣaqq al-jiwār) がある。〔ムスリムに〕

    二つの責任がある者は,ムスリムの�人であって,彼に關して〔ムスリム

    には〕イスラームの責任と�居の責任がある。〔ムスリムに〕一つの責任

    がある者であれば,汝の�人は庇護民であって,彼に關して〔ムスリムに

    は〕�居の責任がある。たとえ庇護民でも〔ムスリムに〕�居の責任があ

    ると�めることが必�である (yanbaghī)。

    『不_g者への喚�』は,中國ムスリムの�も著名な學者の一人,劉智 (1724

    年以影歿) の漢語作品『天方典禮』の參考�獻リストで「探祕合」として擧げ

    られている[Leslie&Wassel 1982 : 100]。實際,劉智の別の漢語作品『天方至

    w實錄』には,ここに引いた『不_g者への喚�』の一�を踏まえたと思しき,

    �の一�がある[淸眞,XIV : 314]。

    ○�里雖衣敎必敬愛如當。○�E三重。比居者,比居而同敎者,同敎而復

    E親者。三重之責甚于二重,二重之責甚于一重。

    ○同+の人々は,たとえ宗敎を衣にしていても,必ず相應に敬愛せねばな

    らない。○�であるということには三重のg味がある。竝んで¡むこと。

    竝んで¡みかつ宗敎を同じくすること。宗敎を同じくし,さらに親族であ

    ること。三つのg味で�であることにÄう責任は,二つのg味で�である

    ― 21 ―

    838

  • ことにÄう責任よりも重く,二つのg味で�であることにÄう責任は一つ

    のg味で�であることにÄう責任よりも重い。

    ところで,以上に引いた三つの�違を比�すると,浦生と,サマルカン

    ディーおよび劉智とは,同じクルアーンとハディースの�言に,衣なる解釋を

    施していたことが¿!する。すなわち,サマルカンディーは,ムスリムが「庇

    護民 (ズィンミー)」にたいしても�人への親切の責任をEしていると�めるこ

    とを「必�である (yanbaghī)」とし,劉智もそのニュアンスを汲んで,非ムス

    リムを「必ず相應に敬愛 (必敬愛如當)」(あるいは「必ず義務に準じるかたちで敬

    愛」) せよ,と譯している。しかし浦生は,非ムスリムの�人への親切を

    「義務である (應當)」とする。

    「應當」は,アラビア語で「義務」をg味する wājibないしその@生形 (た

    とえば,「それは義務である」をg味する yajibu など) の譯語だろう�33

    。ハナフィー

    @において wājibは,クルアーンに!�はないが預言者自身が命じたと傳えら

    れる義務を表す�34

    。實際,浦生は,非ムスリムへの親切が「應當」であるこ

    とを,預言者の命令に關聯づけて說!している。いっぽう「必�である

    (yanbaghī)」は,「義務である (yajibu)」を意味する場合もあるが,預言者が常

    に行っていたスンナのゆえに「當然やるべきである」というg味や,クルアー

    ン・預言者の命令でもスンナでもないが「推奬される」というg味で,しばし

    ば用いられる�35

    �33 例えば,馬伯良『敎款捷�』[淸眞,XV : 209]の一�「一是 farīḋa,乃r在天

    經中T論之命,如五時拜,欽t齋,散天課,Í天Î,小淨大淨等事。Ï信此爲天

    命應當」を,その原�らしき一�[Muhimmāt : 20 (l. 4-7)]と比べると,「應當」

    が wājibの譯語と分かる。

    �34 クルアーンに!�のある絕對義務は,farīḋa という。絕對義務,義務,スンナ,

    推奬,許可,忌�,禁止という,當爲・禁止の區分については,『ムスリム綱�』

    ラホール版[Muhimmāt : 20-22],『敎款捷�』[淸眞,XV : 209-210],『眞功發

    K』[淸眞, XV : 314-315],馬聯元の『ムスリム綱�』[Ma Muhimmāt : 38-57]

    にも說!がある。

    �35 馬聯元『ムスリム綱�』のアラビア語譯 (馬聯元の曾孫,馬雲從アホン (d.

    2012) の手になるものにVいない[楊惠雲 1993 : p. 81]) では,例えば�のように,

    スンナについては yanbaghī を用いる。「スンナの一つは以下である。絕對義務

    ― 22 ―

    837

  • �するに浦生は,サマルカンディーや劉智に比べると,非ムスリムの�人

    に厚uを示すことの必�性を,より高いレベルの當爲として說いていた,もし

    くはより!確に,預言者の命じた「義務」として位置づけていたのである。ま

    た,「�人に三つ」を解して,劉智が,單なる�人よりも同宗の�人に對して

    のほうがムスリムの責任は重い,と言うのに對し,浦生は,「�り合って¡

    むこと」そのものの重�性を强/している。この比�からも,浦生は劉智よ

    りも非ムスリムの�人に好g�な解釋をなしていたと言える。そして,中國ム

    スリムのあいだに液布していた『不_g者への喚�』�36

    や『天方至w實錄』を,

    浦生が參照していた可能性は高い。だとすれば,彼は,サマルカンディーや

    劉智とは衣なる解釋をg圖�にXったことになる。

    いずれにせよ,結論から言えば,『伊斯蘭六書』の著者は,非ムスリムの�

    人への親切をめぐる諸說の中から,それを「義務」とする解釋を,敢えて¨擇

    していたようである。さらに言えば,彼は,そのようにムスリムと非ムスリム

    の關係をめぐるクルアーンやハディースの�言を再解釋することによって,圓

    滿な囘漢關係を�築しようとしていた,と考えられる。このように結論づけら

    れるのは,浦生が參照していた可能性のあるアラビア語・ペルシア語の諸�

    獻の中に,クルアーン 4 違 36�,もしくは「�人に三つ」云々のハディース

    を解釋して,非ムスリムの�人への親切を「義務」にしているものと,そうで

    (farīḋa) の禮拜のいずれも,その後にスンナ〔の禮拜〕がある。それ (絕對義務

    の禮拜) を§えたら,すぐに�立してそのスンナ〔の禮拜〕をÐ行せねばならな

    い (yanbaghī)」[Ma Muhimmāt A : 158]。これに對し,同書では,預言者の命じ

    た義務 (wājib) については yajibu を用いる[ibid. : 128]。また,『«える者への

    反駁』[Radd, III : 309]によれば,“yanbaghī”はもともと,“yandūbu” (推奬さ

    れる,やったほうがよい) や“yajibu”をも含む,樣々なレベルの當爲を示すの

    に用いられたが,後代になって“yandūbu”のg味で用いられるようになった,

    という。

    �36 『不_g者への喚�』は,20 世紀初頭に,北京三里河の淸眞寺にT藏されてい

    た[Bouvat 1908 : 521]。また,20 世紀初頭北京の敎子胡同にあった淸眞寺のアホ

    ンの藏書目錄にも載る[Vissière et al. 1911 : 377]。加えて,民國 10 (1921) 年に

    開封東淸眞寺 (東大寺) の洪寶泉が漢語とアラビア語で著した『!眞釋疑

    (Munīr al-Dīn)』の參考�獻リストにも「灘比護禮阿非立乃」として見出される。

    ― 23 ―

    836

  • ないものとがあるからである。��に,この點を確�したい。

    第 2� 非ムスリムの�人への優恤に關する典據

    浦生が確實に參照していたクルアーン_釋として,ラーズィー (d. 1209)

    の稱『大タフスィール (al-Tafsīr al-kabīr)』こと『玄祕の鍵 (Mafātīḣal-

    ghayb)』と,ブルセヴィー (d. 1728) の『!證の靈魂 (Rūḣal-bayān)』とがある。

    それぞれ,『伊斯蘭六書』において「羅機氏『經_』」,「魯哈白Ò尼」として言

    ^されている[六書:280, 292]。このうち『玄祕の鍵』は,4 違 36�の_釋

    部分で,優しく接すべき�人の中に,非ムスリムを!示�には含めていない

    [Tafsīr kabīr, III : 322-323]�37

    。いっぽう『!證の靈魂』は,「�人に三つ」の

    ハディースを引いており,「庇護民」を「多神敎徒 (mushriq)」と言い奄えて,

    非ムスリムの�人にたいする親切の必�性を示唆してはいる。しかし,それを

    !確に「義務」であると表!しているわけではない[Rūḣal-bayān, I : 440]。

    なお,中國ムスリムのあいだで傳瓜�に廣く讀まれ,したがって浦生も讀

    んでいたことがほぼ確實な,バイダーウィーのクルアーン_釋『D示の諸光と

    解釋の諸神祕 (Anwār al-tanzīl wa asrār al-ta’wīl)』にも,『!證の靈魂』とほぼ同

    じ釋�が載る[Bayḋāwī, II : 55]。もちろん,バイダーウィーの記営からも,

    「多神敎徒」の�人への親切が「義務」である,との解釋をW出することは困

    難である。

    結局,ラーズィー,ブルセヴィー,およびバイダーウィーによるクルアーン

    4 違 36�の解釋は,『伊斯蘭六書』「�居之責」にX用されなかった,と言わ

    ねばならない。すなわち,非ムスリムの�人への親切に�極�な,彼らのx勢

    は,踏襲されなかったのである。

    これにたいして,浦生が「�居之責」に取り入れた可能性のあるクルアー

    ン_釋としては,まず,西北の中國ムスリムのあいだで重視されてきた,カー

    シフィー (d. 1504) によるペルシア語のクルアーン_釋,稱『フサイニー

    �37 王靜齋『古蘭經譯解』の參考�獻として擧げられている,ハーズィンやイブ

    ン・ハティーブのクルアーン_釋も,同樣である[Lubāb, I : 378 ; Awḋaḣ: 99]。

    ― 24 ―

    835

  • (Ḣusaynī)』こと『高貴な贈り物 (Mawāhib-i ʻāliyya)』が擧げられるかもしれな

    い�38

    。その 4 違 36 �の_釋部分[Ḣusaynī : 135]では,「�人に三つ」のハ

    ディースこそ引かれないが,クルアーンで親切にうべきとされる�人 (「血

    緣のない�人」) のうちには「不信者の�人」をも含むとの解釋が,!示されて

    いる。ただ,『フサイニー』は「�人に三つ」のハディースに觸れていないの

    で,これだけが『伊斯蘭六書』「�居之責」の典據であったわけではなかろう。

    そういうg味では,アールースィー (d. 1854) のクルアーン_釋『g味の靈

    魂 (Rūḣal-maʻānī)』が,その典據のE力な候補かもしれない。同書は,浦

    生が參照していた確證はないが,彼と同じく�代中國の四大ウラマーの一人に

    數えられる王靜齋 (1871-1949) の『古蘭經譯解』の參考�獻リストに擧げられ

    ており,當時,確實に中國に傳來していた。

    『g味の靈魂』では,クルアーン 4違 36�にいう親切にすべき�人のうちに

    「多神敎徒」も數えられる旨が!言されている。加えて,おそらくはその根據

    を提示するg味においてであると思われるが,「�人に三つ」のハディースも

    引用されている。すなわち,�のとおりである[Rūḣal-maʻānī, V : 41]

    �39

    �38 『フサイニー』は,嘉慶年閒 (1796-1820) に書かれた,ジャフリーヤ@のw者

    傳『ラシュフ』でも言^されている[熱什哈爾 : 40]。また同書は,例えば,�代

    中國の�も洩大なムスリム學者の一人で寧夏に活Lした,虎嵩山 (1880-1950) に

    よって重視された。彼が關與した�代�イスラーム敎育機關では,『フサイニー』

    の學±が課0に組みØまれた[虎希柏 2002 : 110, 112]。同じ頃,『伊斯蘭六書』

    の執筆に先立つ 1939年に,浦生も,a涼隴東伊斯蘭師範學校を設立し,自ら校

    長となっていた[达杰 2003 : 379]。加えて『フサイニー』は,王靜齋の『古蘭經

    譯解』の參考�獻リストにも擧げられている。

    �39 アールースィーの『g味の靈魂』は,ラーズィーの『玄祕の鍵』からの引用が

    多いといわれる[Commins 1990 : 24]が,この箇Tは,例えば,サナーウッラー

    (d. 1810) の『マズハリーのクルアーン_釋 (Tafsīr Mażharī)』の對應箇T

    [Mażharī, II : 316-317]とÙ似する。果たしてサナーウッラーは,ムジャッディ

    ディーヤ@のジャーネ・ジャーナーン (Mażhar Jān-i Jānān, d. 1781) の弟子

    [Rizvi 2002, II : 247]であり,ジャーネ・ジャーナーンのもう一人の弟子であるグ

    ラーム・アリー (Ghulām ʻAlī, d. 1824) のそのまた弟子であるハーリド・バグ

    ダーディー (Khālid Baghdādī, d. 1827)[Abu-Manneh 1982 : 3-4]は,アールー

    スィーの師の一人であった[Nafi 2002a : 472-474]。ゆえに,アールースィーが,

    ― 25 ―

    834

  • また,〔親切であれ〕血緣のない�人に。すなわち,親族たること

    (qarāba) の對義語である,非親族たること (janāba) に屬する,き者

    (baʻīd) に。〔“い”とは〕空閒�にそうだということ。おそらく「關係

    のある�人に」は,�人たること (jiwār) に加えて,血緣もしくは宗敎に

    よる�さや繫がり (qurb wa ittiṡāl bi-nasab aw dīn) のある者をg味するだろ

    う。また「血緣のない�人に」は,親族關係がない者,もしくは多神敎徒

    (mushriq) 〔をg味するだろう〕。アブー・ナイーム (Abū Naʻīm) は�の

    ように営べている。バザール (al-Bazār) は,ジャービル・ブン・アブ

    ドゥッラー (Jābir b. ʻAbdullāh) のハディース ――そこには〔ハディース

    の眞正性に關する〕�さ (ḋaʻf) がある―― を傳えて,�のように言っ

    た。“神の`徒〈彼の上に神の祝福とa安あれ〉は言われた。ʻ �人

    (jīrān) に三つある。〔彼に關してムスリムに〕��たること (jiwār) の責

    任 (ḣaqq),親族たること (qarāba) の責任,イスラームの責任という,三

    つの責任がある�人。��たることの責任とイスラームの責任という,二

    つの責任がある�人。��たることという,一つの責任がある�人。彼は,

    D典の民に屬す多神敎徒である ʼと”。……

    また,同樣の記Úは,リダー (d, 1935) の『燈臺のクルアーン_釋 (Tafsīr

    al-manār)』にも見える[Manār, V : 75-76]。同書も王靜齋の『古蘭經譯解』の參

    考�獻に数えられており,『伊斯蘭六書』「隣居之責」の典據となった可能性が

    ある。

    もう一つ,問題の典據としてE力な候補がある。ガザーリー (d. 1111) の

    『宗敎諸學の再生 (Iḣyā’ ulūm al-dīn)』がそれである。同書も,浦生が參照し

    クルアーン 4違 36�の解釋をサナーウッラーから繼承した可能性は高い。ところ

    で,ハーリド・バグダーディーは,非ムスリムを呪い[Abū-Manneh 1982 : 15],

    ムジャッディディーヤ@の祖師スィルヒンディー (Aḣmad Sirhindī, d. 1624) は,

    自身の屬する社會階層 (ashrāfī) の特權や社會秩序を守るべく,ヒンドゥーの�

    人に敵對�態度をとった[Buehler 2011 : 5, 9, 15-17]。しかしジャーネ・ジャー

    ナーンはヒンドゥーに融和�であった[Weismann 2007 : 65-66]。アールー

    スィーやサナーウッラーが,「多神敎徒」の�人への親切を說いたことは,ジャー

    ネ・ジャーナーンの路線を引き繼ぐものであった。

    ― 26 ―

    833

  • ていたことを示す確證はないが,これまた王靜齋の『古蘭經譯解』の參考�獻

    としてリストアップされている。また,馬德怨 (1794-1874) のアラビア語著作

    でヒジュラ曆 1282 年 11 tに出版された『イスラームの忠言 (al-Naṡā’iḣal-

    Islāmiyya)』の奧書には「この書のうちの多くは『宗敎諸學の再生』に由來し,

    わずかな部分が他の諸書に由來する」[Naṡāʼīh

    ̇: 250]とある。これは,中國で

    ガザーリーの當該著作が參照されていた�も早い事例である。

    『宗敎諸學の再生』は,�のように「�人に三つ」のハディース解釋をじ

    て,「多神敎徒」の�人への親切がまさしく預言者の命令であったことを示し

    ている。[Iḣyāʼ, II : 267]

    預言者〈神が彼に祝福とa安をお與えになりますように〉が「�人には三

    つある。彼に關して〔ムスリムに〕一つの責任 (ḣaqq) がある�人,二つ

    の責任がある�人,三つの責任がある�人。三つの責任がある�人は,親

    族關係をEするムスリムの�人であり,彼に關して〔ムスリムには〕�居

    の責任,イスラームの責任,親族の責任がある。二つの責任がある者は,

    ムスリムの�人で,彼に關して〔ムスリムには〕�居の責任とイスラーム

    の責任がある。一つの責任がある者は,多神敎徒 (mushrik) の�人であ

    る」と言われたとき,_視せよ,彼が,�人であるということだけで多神

    敎徒に權利を,いかにお�めになったかを。預言者〈神が彼に祝福とa安

    をお與えになりますように〉は言っておられる。「汝の�に¡む者に,�

    居において親切をなせ。〔さすれば〕汝はムスリムである」と。

    この一�は,『伊斯蘭六書』「�居之責」の後�部分とÙ似しており,その典

    據のひとつであった可能性が非常に高いように思われる。

    なお,『宗敎諸學の再生』の唯一のA_釋[Reichmuth 1999 : 85]として知

    られる,ザビーディー (d. 1791) の『《宗敎諸學の再生》の_釋を確かに知る

    長たちの贈Ý (Itḣāf al-sāda al-muttaqīn bi-sharh

    ̇Iḣyā’ ʻulūm al-dīn))』は,「汝の�

    に¡む者に,�居において親切をなせ。〔さすれば〕汝はムスリムである」に

    _して,�のようにいう。すなわち,「それは,ムスリムの�に¡むとか,多

    神敎徒の�に¡むとか,ということよりももっとÞ�である。あらゆる狀態

    において,�人への親切が命じられている (maʼmūr) のである」と[Itḣāf,

    ― 27 ―

    832

  • VI : 305]。少なくともザビーディーは,『宗敎諸學の再生』の上引�を讀んで,

    預言者が「多神敎徒」を含む�人への親切を預言者が命じている,と解釋した

    のである。

    以上,『伊斯蘭六書』「�居之責」の典據の候補をいくらか見てきた。そのう

    ち,浦生が確實に見ていた,ラーズィー,ブルセウィー,バイダーウィーの

    クルアーン_釋は,非ムスリムの�人への親切を積極�に表!するものではな

    かった。ゆえに,浦生がそれを「義務」とするまでには,ある種の再解釋な

    いし解釋の¨擇が介在していたことになる。では,その再解釋は,浦生の獨

    創によっていたのか,それとも典據をEしたものだったのか。これについては

    現在のところ決定�な¿斷材料がないが,カーシフィーやアールースィー,リ

    ダーのクルアーン_釋,およびガザーリーの『宗敎諸學の再生』など,典據の

    E力な候補は存在する。

    お わ り に

    浦生が,イスラーム法を再解釋して非ムスリムの�人への親切を「義務」

    としたのは,馬聯元や馬安義と同樣に,囘漢の共生にßすることをg圖した營

    爲であったにVいない。ただし,民國時代のムスリム知識人と,淸代雲南のム

    スリム學者の父子とのあいだには,囘漢融和への向き合い方に溫度差があった

    かもしれない。

    少なくとも,馬聯元や馬安義が,非ムスリムとの�液を合法�し,非ムスリ

    ムの殺やその財の奪取を禁じたのに比べると,浦生が非ムスリムの�人へ

    の親切を「義務」としたのは,囘漢共存へのx勢としてより積極�であったと

    á價できる。l者の合法�や禁止は,非ムスリムとの沒�涉を妨げないが,後

    者の「義務」はむしろ非ムスリムとより緊密な關係の�築を命じるものだから

    である。

    民國時代を生きた浦生が,淸代のムスリム學者たちに比べ,囘漢和aの推

    により踏みØんだ態度で臨んでいた可能性は髙い。民國時代は,中國ナショ

    ナリズムのã激な隆盛をみた時代であった。孫�や蔣介石は,e者生存の世界

    ― 28 ―

    831

  • における「中華民族」�滅の危機感に突き動かされて,その團結を訴えた。そ

    の一.として彼らは,「五族共和」の美名のもと,中國のマイノリティにたい

    しても,「漢族」を核とする「中華民族」への歸屬,忠Ï,さらには同�さえ

    をも�求した[王柯 2006 : 95-100]。また,日本の中國å略は,「中華民族」

    一體�の必�性をæ緊のものとし,中國社會の均一�に拍車をかけた。そのよ

    うな壓力の中,當時の中國ムスリムたちは,勢い「漢族」との�涉の度合いを

    增さねばならなかった。とくに知識人は,漢語を日常語とするムスリムたちの

    信仰の特殊性を擁護しつつも,彼らを「中華民族」の缺くべからざる一員とし

    て位置づけることに腐心せねばならなかった[安ç 1996 ; 松本 2000 ;

    Matsumoto 2003 ; 松本 2003 ; 山崎 2014]。浦生のイスラーム法再解釋も,こ

    の�bの中で理解することができるであろう。

    加えて,浦生の背景として民國時代には,馬聯元が活Lした時代,あるい

    は馬安義が『信仰の確定』を著した淸代末年に比べると,より多くのアラビア

    語・ペルシア語イスラーム�獻が中國に液入するようになっていたということ

    も,考慮に値する。その結果,中國にかつてなかった�獻や,旣存ではあった

    が入手困難であった�獻へのアクセスが容易になったことで,イスラーム法解

    釋の幅が增え,囘漢友好をめぐるより積極�な措置が鼓舞された可能性は,十

    分ある。

    ところで,中國に液入するイスラーム�獻の增大は,印刷技や�・輸é

    手段の發という「�代�」現象の賜物であった[中西 2013 : 60 (n. 35)]。ま

    た,液入した�獻の中には,「�代�」なイスラーム改革思想を傳えるものも

    含まれていた。これらの�獻の影?下に中國ムスリムがイスラーム法を再解釋

    したとすると,それは二重のg味で“�代�”だったと言えるかもしれない�40

    そのような觀點からすると,アールースィーの『g味の靈魂』やリダーの

    『燈臺のクルアーン_釋』,ガザーリーの『宗敎諸學の再生』が『伊斯蘭六書』

    「�居之責」の典據となっていたかもしれないということは,とりわけ_目に

    �40 民國¾には,中國ムスリムたちが,中東や南アジアのイスラーム改革r義者と

    の直接�液で,怨たな思想に觸れる機會も增えただろう。本稿à�20 �41も參照。

    ― 29 ―

    830

  • 値する。『g味の靈魂』は,まさしく「�代�」なイスラーム改革思想,サラ

    フィーr義の色合いを帶びた作品として知られる[Nafi 2002a : 482-486]。リ

    ダーは,代表�なサラフィーr義者である。『宗敎諸學の再生』は,西南アジ

    アにおいて,17,18 世紀ごろから,ザビーディーのようなイスラーム改革r

    義者たちの特別な關心を惹�するようになり[Voll 1994 : 47, 52 ; Nafi 2002b :

    349],以影もスーフィー改革r義者やサラフィーr義者たちを魅了し續けた

    [Weismann 2001 : 149, 280, 311]�41

    。非ムスリムの�人の待êをめぐる浦生の

    イスラーム法再解釋は,�代中國ムスリムの囘漢融和の取り組みと「�代�」

    イスラーム改革の潮流との閒の何らかの關係を示唆する。

    もちろん,非ムスリムの�人への優恤を「義務」とする發想が「近代�」イ

    スラーム改革の潮流の中でどのような位置にあるか,そもそも浦生が『g味

    の靈魂』や『燈臺のクルアーン_釋』,『宗敎諸學の再生』を確實に參照してい

    たかどうかは,さらなる精査を�する。これは今後の課題としたい。

    參考�獻

    一�

    アラビア語・ペルシア語 (アルファベット順)

    Awḋaḣ: Ibn Khat

    ̇īb. Awd

    ̇aḣal-tafāsīr. Al-Mans

    ̇ūra : Maktaba al-Īmān, n. d.

    Bayḋāwī : Nās

    ̇ir al-Dīn ʻAbdullāh b. ʻUmar al-Bayd

    ̇āwī. Anwār al-tanzīl wa asrār

    al-ta’wīl al-maʻrūf bi’l-tafsīr al-Bayḋāwī. 3 vols., Dehlī : al-Mat

    ̇baʻ al-Mujtabāʼī, H.

    1343.

    Ḣusaynī : H

    ̇usayn Wāʻiz

    ̇Kāshifī. Qur’ān-i majīd-i mutarjam (az Shāh Walī Allāh)

    maʻa-hu Naskhi-hi Tafsīr-i Ḣusaynī (Tafsīr-i Mawāhib-i ʻāliyya). Mumbai

    (Bombay) : Maṫbaʻ-i Muh

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    Iḣyāʼ : Abū H

    ̇āmid Muh

    ̇ammad b. Muh

    ̇ammad al-Ghazālī. Ih

    ̇yā’ ʻulūm al-dīn wa bi-

    dhayli-hi Kitāb al-mughnī ʻan al-isfār fī al-asfār fī takhrīj mā fī al-Iḣyā’ min akhbār

    li-Zayn al-Dīn Abī al-Faḋl ʻAbd al-Rah

    ̇īm b. H

    ̇usayn al-ʻIrāqī. 5vols., Cairo : Dār al-

    �41 先営の如く,『宗敎諸學の再生』が馬德怨の頃にようやく中國で言^されはじめ

    るということも,中東におけるイスラーム改革r義の隆盛と關係があろう。馬德

    怨がマッカ(禮でイスラーム改革r義に觸れていた可能性については,中西

    [2013 : 69-73]を參照。

    ― 30 ―

    829

  • Ḣadīth, H. 1425/2004.

    Itḣāf : Muh

    ̇ammad b. Muh

    ̇ammad al-H

    ̇usaynī al-Zabīdī al-shahīr bi-Murtad

    ̇ā. Itḣāf al-

    sāda al-muttaqīn bi-sharḣIḣyā’ ʻulūm al-dīn (hāmish : Kitāb taʻrīf al-ih

    ̇yā’ bi-

    faḋā’il al-ih

    ̇yā’ li-ʻAbd al-Qādir b. Shaykh ʻAbdullāh b. Shaykh b. ʻAbdullāh al-

    ʻAydarūs ; Kitāb al-imlā ʻan ishkālāt al-iḣyā’ tas

    ̇nīf al-Imām al-Ghazālī). 10 vols.,

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    Lubāb : ʻAlāʼ al-Dīn ʻAlī b. Muḣammad b. Ibrāhīm al-Baghdādī al-S

    ̇ūfī al-maʻrūf biʼl-

    Khāzin. Lubāb al-ta’wīl fī maʻānī al-tanzīl wa qad ḣuliya hāmishu hādhā al-kitābi

    bi’l-tafsīr al-musammā bi-Madārik al-tanzīl wa ḣaqā’iq al-ta’wīl ta’līf al-imām al-

    jalīl al-ʻallāma Abī al-Barakāt ʻAbdullāh b. Aḣmad b. Mah

    ̇mūd al-Nasafī. 4 vols.

    Miṡr : Mat

    ̇baʻa Dār al-Kutub al-ʻArabiyya al-Kubrā, n. d.

    Ma Muhimmāt : Muhimmāt : Muḣammad Nūr al-H

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    Ma Muhimmāt A : Muḣammad Nūr al-H

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    Muslimīn 中阿對照・�