title エマソンの『英国人の特性』 : 愛国者エマソソの一面 英...

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Title エマソンの『英国人の特性』 : 愛国者エマソソの一面 Author(s) 小畠, 啓邦 Citation 英文学評論 (1979), 41: 24-53 Issue Date 1979-03 URL https://doi.org/10.14989/RevEL_41_24 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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  • Title エマソンの『英国人の特性』 : 愛国者エマソソの一面

    Author(s) 小畠, 啓邦

    Citation 英文学評論 (1979), 41: 24-53

    Issue Date 1979-03

    URL https://doi.org/10.14989/RevEL_41_24

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • エマソソの『英国人の特性』

    エマソンの『英国人の特性』

    -愛国者エマソソの一面-小

    『英国人の特性(曽隻監叫首長』は、一八五六年八月、エマソソ(Ra-phWa-dOEmer等n--∞〇㌢∽N)が五十三

    歳の時に出版された作品である。『代表的人物論(知尽き宣告まま∴昌芸)』(一八五〇年一月出版)および『処生論(叫酵b

    C宗旨C"亀ト音)』(一八六〇年十二月出版)とともに、エマソソの中期の著作に属し、『代表的人物論』と並んでも

    っとも纏りのある作といわれている。しかし、初期の作品に濃厚である超越主義的債向が稀薄なためか、エマソ

    ソの思想を論ずる際にはとかく無視されがちで、文学史や批評書においてもくわしく論じられることが少く、エ

    マソソ本来の傾向とは異った作品であるという指摘に終始する場合が多いように見受けられる。しかし、『英国

    人の特性』は、アメリカ合衆国の人々に対して「いかに生くべきか」の示唆を与え、自国の人々を鼓舞しようと

    した書物である点を強調すれば、ユマソソの他の作品の思想との類似性を指摘することもできる。この作品には、

    かように相反するともいえる二面性が存在するが、そこに表わされている、英国に対する態度もまた、スティヴ

    ン・スペソダー(StephenSpender)のいう通り、愛憎相半ばする(ambi<巴ent)ものである。本稿では、英国礼讃

    の部分ではなく、英国に対し批判的で、合衆国の人間としての立場を主張した部分に注目し、二度の渡英経験と

  • その時の対英感情などもあわせて考慮しながら、若干の考察を加えてみたいと思うのである。

    0

    ユマソソの英国論は、二度の英国訪問を基礎としている。最初の訪問は、一八三二年夏、まだ無名の三十歳の

    一青年としてすごした、約一ケ月半の短いものであった。それ以前、一八二九年九月三十日にエレソ・クッカー

    (望eロLOuispTucker)と結婚したユマソソは、一年半もたたぬうちに肺病の妻を亡くした(一八三一年二月八日)

    のみならず、結婚の半年前(一八二九年三月十一日)に任命されたポストソの第二教会の副牧師の職を、自らの心中

    で拡大する懐疑のために、辞任さえしたのであった(一八三二年十月二十八日辞職承認さる)。そして同年の十二月二

    十五日、わずか二三六トン、二本マストの貨物運搬用帆船ジャスパー号で、ヨーロッパにむけて出航した。その

    旅行に託された目的のひとつは、弱っていた身体の健康を回復させることにあった。数年前には、エレン・クッ

    カーとおなじ病気のため、南部のチャールストン(南キャロライナ州)およびセント・オーガスティーソ(フロリダ

    州)に、半年ばかり療養にでかけなければならぬ事態もあったのである。しかし、それ以上に重要なもうひとつ

    の目的として、人生のおおきな危機に直面していた自分に対し、その危機をのりこえるための助言と今後の人生

    の指針とをあたえてくれる師にめぐりあうことを期待していた。一八三三年二月初めジャスパー号がマルタ島に

    着いて以来、イタリア各地を四ケ月あまり歴遊したのち、ジュネーヴを経てフラソスにはいりパリに一ケ月逗留、

    七月二十一日(日曜日)の朝、チームズ河畔よりロソドソに上陸したのが、英国における第一歩であった。この時

    の感激は、ひかえめな表現ではあるけれども、『英国人の特性』の冒頭に述べられている。

    ユマソソの『英国人の特性』

  • ロンドソ滞在中には、ウェストミンスター寺院、下院、聖ポール寺院、大法院、大英博物館、、、、ルトンの家な

    どを見物し、八月五日にはハイゲイトにコウルリッジ(Spmue-Tay-。rCO-eridge)を訪ねた。八月九日早朝、ロ

    ンドンを発ってオックスフォードにむかい、その後、バーミンガム(十、十一日)、ケニルワースとウォリック城

    (十二日)、マットロック(十三日)、シェフィールド(十四日)、ヨーク(十五日)と北上し、ニューカッスルからエデ

    ィンバラに到着したのが十六日であった。この旅の眼目は、『エディソバラ評論(3ニ畏夏至告知蔓ぎ)』誌上

    に載った著作に心ひかれるところのあったカーライル(Th。mpSCar-y-e)に会うことだったが、目当てのカーライ

    ルは当地にはいなかった。そこで、十八日(日曜日)にはヤング通りのユニテリアン教会で説教をしたあと、二十

    二日にエディンバラを出立、スターリング、ロヅホ・ロウモンドからグラスゴウにでて(二十二日)、二十四日に

    は、はるばるダソフリーズにいたった。ここのクレイゲソパトヅクにおいて、ユマソソはカーライル夫妻と歴史

    的な対面をおこなった。

    エマソソは、カーライル夫妻の家で一泊したのち、湖水地方に向かい、二十八日にはライダル・マウソトのヮ

    ーズワース(Wi≡amWOrdswOrth)を訪問した。その後はただちにリグァプールにおもむき、船の便さえあればそ

    の日のうちにも英国を去りたい気持らしかった。しかし、結局、実際に出帆したのは九月四日、そして、ニュー

    ・ヨークへ帰り着いたのが十月七日であった。

    エマソソがヨーロッパ旅行でもっとも期待していたのは、イタリアで会うことができたランドー(W巳terSpヂ

    ageL呂d。r)、英国で会えたヮーズワース、コウルリッジ、カーライルのいずれかが自分の師たりうるのではな

    いかということであった。四人との面会の様子は、『英国人の特性』第一章「第一回目の訪英」にくわしい。そ

    こにも明らかなごとく、師をもとめたユマソソの願いは、残念ながら、叶えられなかったといってよいだろう。

  • 四人のなかでもっとも若いカーライルとは肝胆相照し、こののち多少の消長はあっても終生その友情がつづくの

    であるが、このとき、八歳年長のカーライルは、ユマソソの友たりえても師たることは難しかった。

    九月一日リグァプールにて書きしるした日記に、ヨーロッパ旅行全体をふりかえり、無事予定を終えられたこ

    とを神に感謝したあと、次のように続けている箇所がある。

    ロe〔i・e・theg完ptGOd〕hasshOWnmethemeniwishedtOSeelLaロdOr.CO-eridge-Car-y-e-

    WOrdswOrth-hehastherebycOm訂rted紆cOn浮medmeiロmyCOnまctiOnS.ManythiロgSIOWe

    ざthesightO柵thesemen・lsha-二udgemOrejust】yLesstimid-yIOfwisem昌fOre忌rmOre.TO

    besurenOtOneOftheseisamindOftheくery賢stc-ass:‥同specia】マaretheyaEde診Oient巴-

    thesefOur1-indi詳rentde望eeSbutaロde訂ient-ininsightintOre-ig-OuStruth・Theyha忌nO

    ideaOhthatspeciesOfmOra-truthwhichHcauthe許stphi-OSOphy….

    ThesemenmakeyOu訂e-that㌻meisacOnくentiOna】thing紆thatmpnisasad-yこimitary、

    SPirit.

    ここにみられるごとく、師にめぐりあうことこそなかったが、既記の四人に会ったことは、自己の確信を固める

    のに大いに役立ったようである。その確信の一端とおぼしきものは、翌九月二日、出帆を待ちくたびれつつ記し

    た日記の一節に窺えるといっていいのではなかろうか。

    ユマソソの『英国人の特性』

  • G-adIbidadieutOEng-and二heO-d二herich二hestrOngnptiOn二u--○hPrtS紆men紆memOries‥

    nOrCanIfee-anyregretinthepresenceOhthebestOhitssOnSthatIwasロOtbO昌here・Iam

    thankfu-thatIaHnanA-nericanasHamthankfu-thatIama-nan.

    この一節は手紙の下書きらしい文章の一部であるために、多少見得をきったような響きがないとはいいきれない

    が、英国人として生れなかったことを悲しむのではなく、アメリカ人に生れたことを喜ぶくだりには、英国にお

    りながらすでに心は英国を離れている愛国者ユマソソの姿が、はっきりと認められるといえよう。

    第一回目の欧州・英国旅行がエマソソにおよぼした影響はおおきく、かつ多面にわたっていて、簡単には要約

    できない。英国訪問に限れば、スビラ7(RObertE・Spi〓er)の指摘するように、それが失望であったというのは

    正しいであろう。とはいうものの、それが無意味であったというのでは決してない。この時のエマソソの英国に

    対する理解は不完全であり、おそらくは依然として誤解をも捨てえなかったかもしれない。それにもかかわらず、

    すでにのべたように、英国に対する失望からわきでた、アメリカ人としての自覚と自信とが、やがて。Ourage

    isretrOSpeCtiくe・Itbui-dsthesepu-chresO-thefathers㌧、ではじまる『自然論(きき且』(一八三六年)を書

    かせ、また、。OurdayOhdepeロdenceIOur-On的aPprenticeshiptOthe-earningO"Other【ands-drawstO

    ac-OSe㌧、といって、過去を切捨て未来へ眼をむけることをすすめた講演「アメリカの学者(TheAロerican

    SchO-害)」(一八三七年八月三十一日)をおこなわせ、さらには「自己信頼」の思想を開陳させる礎となったとすれ

    ば、英国訪問もそれなりに有意義であったといえるのである。二十余年後に出版した『英国人の特性』の巻頭の

    章に、そのときの記録がもちいられていることに、その証があると同時に、そこに、エマソソの英国に対する態

  • 度が明示されている、ということはできないだろうか。

    ユマソソの第二回目の英国訪問は、一八四七年秋から四八年夏にかけて、九ケ月にもおよんだ。このたびの訪

    英は、前回にくらベて期間が長いばかりでなく、内容も充実しており、その記録として、前回のわずかな手紙・

    日記とはくらベものにならぬほど多量の覚え書き、書簡嬢が残されている。一八四七年までにエマソソが公にし

    た書物には、『自然論』のほかに、『エッセイ集第一(内患害迦星的鼠且』(一八四一年)、『エッセイ集第二(内払旨軍

    的ミ監S鼠且』(一八四四年)、『詩集(き箋エ』(一八四六年)があり、そのため、イギリスでは名士としての待遇を

    うけ、会った有名人の数もおびただしいものであった。今回の英国滞在も、簡単には語りつくせない問題をふく

    んでいるが、順序として、まず、事実を略述しておこう。

    ラソカスターとマンチェスター両都市のMechanics.Hnstitutesという、アメリカのLyceumに相当する成

    人教育の講演会に招待されたユマソソは、一八四七年十月五日、ワシソトソ・アーヴィソグ号なる約一五〇〇ト

    ンの定期船にてポストソを出帆した。航海の様子は『英国人の特性』第二章「英国への船旅」に記されている。

    十月二十二日リグァプールに上陸すると、講演の義務がはじまる前のわずかな暇を利用して、カーライルとの

    旧交を暖めるベく、ロソドンへおもむいた。間もなく、十一月二日の「偉人の効用」を第一回として、四ケ月に

    わたる講演旅行がはじめられたが、十一月にはマンチェスターとリグァプールの両都市を頻繁に往復しながら、

    前者においてはAtheロaeumで火・木曜日に六回、Mechanics言nstitutiOロで月曜日に四回、後者においては

    で水・土曜日に六回、他の一回をあわせて一ケ月中に十七回も演壇に立った。そのうち十二回は、のちに『代表

    ユマソンの『英国人の特性』

  • 的偉人論』におさめられた「偉人の効用」、「スウェーデンボルグ」、「モンテーニュ」、「シェイクスピア」、「ナポ

    レオン」、「ゲーテ」の二度の連続講演であり、他は、『社会と孤独(曽C訂ギ芸軋治、ぎ艮』(一八七〇年)におさめ

    られている「家庭生活」、「雄弁」、「読書」(のちに「書物」と改題)、および、ユマソソの死後に編纂された『講演

    及び伝記的小品(卜毘ざま白鼠こ浮雲息女旨〓罫きき)』所収の「最上級」であった。

    つづいて十二月にはいると、前半にはノティソガム(講演回数四)、ダービー(三)、プレストソ(二)の三都市、後

    半にはバーミンガム(二)、ハダズフィールド(二)、レスター(二)、チェスタフィールド(一)、ウスター(二)の五都

    市を訪問した。一月には中部地方の北寄りの諸市、リーズ(四)、ハリファックス(一)、リボン(一)、シェフィー

    ルド(四)、ペグァリー、ブリドリントソ、ドリィフィールド(各一)をまわり、二月には再びハリファックス(一)

    に立寄ると、イングランド北部のバーナード・カースル(一)、ニューキャッスル(二)からスコットラソドへ至り、

    エディンバラ(四)、グラスゴウ(二)、ペイズリー(一)、ダンディー、パース(各二)にまで足をのばした。

    この間、合計二四日、講演回数六八回、講演題目は十五種類であった。ほとんどが、十一月におこなった講

    演題目の繰返しであったが、なかには、エディンバラの講演「生来の貴族」(『講演及び伝記的小品』に「貴族」と題

    して収められている)のように、旅の途中であらたに原稿を書いたものもあった。新聞があまりにも詳細に講演内

    容を報道するので、おなじ内容を繰返しにくくなったと、故国の妻に書きおくっている。

    このように、最初の四ケ月はもっぱら講演に追われて各地を巡回したエマソソであったが、スコットランドで

    それを終えたあと、ロソドソへむかう途中、湖水地方アソブルサイドのバリエツト・マーティノー(HP且etMarl

    tineau)を訪ね、二月二十八日にふたたびヮーズワースに面会する機会がえられた。このときの模様は『英国人

    の特性』第十七草後半につまびらかにされている。この時点で、すなわち、イングランドの中部から北部、スコ

  • ヅトランドをまわってきた時に、三月二日付のマーガレット・フラー(MargpretFuu且に宛てた手紙でこ[訂己Cy

    IknOW同ng【and紆ScOt-andprettywe--ロOWthOughLOndOnr①m巴ns・、といっているのは、何らかの収穫

    がすでに得られたということであろうか。

    三月二日以降は、エマソソはロンドンの書津ジョソ・チャップマン(lOhnChぢm呂)の家に寄寓し、二月革命

    後のパリを見物に五月六日から六月二日まででかけた以外は、七月十一日に出立するまでの約三ケ月半をロソド

    ンおよびその近郊ですごした。このあいだは、エマソソにとって比較的自由な期間ではあったが、知名人からの

    招待などもおおく、いろいろな施設の見学に便宜をはかってもらえる人にもめぐりあえたようである。また、講

    演の要請もあって、LiteraryandScieロti許HnstitutiOn主催による「十九世紀の精神と風俗」と題する六回の

    講演を、六月六日から十七日のあいだにおこなった。さらには、一回五シリングの高い入場料で「中産階級を無

    視したと非難された」ため、その償いの講演をユクセター・ホールで三回(六月二十三、二十七、三十日)おこなわ

    ざるをえなくなった。ロソドンを離れる直前、七月七日から九日にかけて、カーライルとともにソールズベリー

    とストウソへソジを見にでかけ、その中旅行中の対話が、『英国人の特性』第十六章に報ぜられている。七月十

    五日リグァプールから帰国の途についたユマソソは、七月二十七日、出発後九ケ月半ぶりに、無事ボストンへか

    えりついた。

    エマソソが英国滞在中に体験したことは、大体すべて故国の妻リディアン(Lidi巴-同mersOn)に手紙で報告して

    いる。そのなかで、『英国人の特性』においては直接にふれられてないけれども、注意を要するとおもわれる点

    を二つあげておこう。

    その第一は、ユマソソ家の経済状態である。そもそも借金によってはじまったイギリス旅行であったが、留守

    エマソソの『英国人の特性』

  • 宅の経済事情が予期に反して悪化し、妻から生活の不如意をうったえる手紙がとどいたらしい。旅先のくるしい

    財布からなにがしかの金を家に送ってやり、それは自分の当地訪問の主目的を奪うことになるのだと、苦情まじ

    りの手紙をしたためている。一ケ月後には、度重なる家計の苦しさの知らせに、こcanha邑yregretmyjOur・

    neyIOnthewhO-e.紆yetitseemsineくeryWaytOhaくeCOStt00muCh・、と、費用のかさみすぎたことを

    認めている。ユマソソの渡英目的はこaithfu-seeingOhEng-and、にあると妻に告げており、大英博物館を訪

    れることも長年の望みであった。さらには、フラソスへ渡ることもその予定のなかにはいっていたはずである。

    出発以前に、フラソス語の勉強さえしていたのである。したがって、資金不足でパリ訪問をかなり躊躇したので

    はあったが、結局、おもいきってドーヴ71海峡を渡る。そして、ロソドンでの講演がその経済的な埋合わせに

    なることをひそかに望んでいたらしく、パリで講演の下準備さえしたのであるが、最初の二回の講演に関するか

    ぎり、聴衆はすくなく、エマソソをがっかりさせたようである。このように、たえず「金」に苦労しながら終え

    たイギリス旅行は、イギリスの富に対するユマソソの見方に何らかの影響を与えているのではないだろうか。

    第二の点は、書簡に繰返し登場するエマソソ自身の「非社交性」である。最初の言及は、十二月一日付妻リデ

    ィアソ宛の手紙にあらわれる。

    IcOn訂ssIammuchOhthetimeinthatunhappystatewhichqくeロmgpa註esthrOWmeint〇二he

    par-OurErebus.andthatSSjヾ首甘幸ぎOfmineMr出u-=sthe-astpersOロtO訂rgiくe・(イタリッ

    ク原文)

    おなじ頃、マーガレット・フラー宛の手紙にも、こhaくekeptmybadhabitこhatis-HhaくOkeptina

  • cOrner.-と記している。この「悪い癖」は、別の箇所では、hmyawkward紆pOrCuPinemaロnerS-、へthetrickOf

    SO-itariness二myrusticities…紆myb註m呂nerS∵myunsOCi已計鼓邑hhabits二my-nCur旨-eun淫ロeSS

    訂rwhatisca--asOCiety、などと表現されており、兄ウィリアムに対しては、自らをこhisOutSidebarbar・

    ian.と呼ぶ。自分は「すべてのアメリカ人のなかで、ここ〔英国〕にいる資格にもっとも欠ける者」というこ

    とさえある。このように、洗練されたイギリスの社交界に身をおくと、なにやら居心地がわるく、田舎者のよう

    に片隅に引籠りたくなる性質が頭をもたげたらしい。その結果、エマソソは各所でイギリス人の社交上手を指摘

    し、賞讃するのであるが、同時に、自分がイギリスで暮すことのできない人間であることをはっきりと意識せず

    にはいられなかったともいえるのではなかろうか。

    最後に、イギリス滞在中に記している英国に対する感情にふれておこう。書簡にみられるそのような感情の記

    述をいくつか拾うとー

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    賢tOSuCCeedhim.、(TOLidian伺merSOn.December-P一監3

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    ∴【pmwe--enO点hentertainedhere紆dOthinkmOStreSpeCtfu--yO輪LOndOnbutihyOuaSkme

    エマソソの『英国人の特性』

  • 葛hatIthinkOftraくeEngLamOn首cOn雷medinmyOWnCyn-Cism・句ewmenare巴fOrit、and

    OneOughttObesuppOrtedbyacOmmaロdiロgmOtiくetOSaくeitfrOmbeinga-OPg-mpertineロCO㌧

    (TOGeOrgePPrtridgeBr註訂rd,M害ChP忘蕊)

    ユマソソの妻宛の手紙は、旅先で自分ひとり楽しい経験をしていることに気がひけて、ややひかえめな報告をし

    ているようにも受取れるのだが、それでも、一八四七年十二月頃の書簡には、イギリスに対する「尊敬」がかな

    り「賞讃と敬愛」に変化している様子があきらかであるとおもわれる。しかし、それも時とともにざらに変化し、

    四月二十五日付のマーガレット・フラー宛のものになると、ことなった面があらわれてくる。この書簡には、

    ニーeaくeEng-呂dwithanincreasedrespect訂rtheEng-ishmPロ‥‥MyrespectisthemOregenerOuS

    thatHhaくenOSympathywithhim,○ローyanadmiratiOn・.という、よく引用される文章が含まれているけ

    れども、実は、その直前のところで、すでに二ケ月ちかくなるロンドン滞在中に、議会・大英博物館・タイムズ

    新聞社などの公共の施設のみならず、さまざまな私的な社交の集いにも加わり、好奇心をもやしてイギリスに閑

    する知識を得ようと努力してみたが、すでに興味がうすらぎはじめた、と記されているのである。

    エマソソは、九ケ月にもおよぶ英国逗留中には、一時的には、この国に感激し、夢中になった時期があったら

    しい。∴hIstPyhere-Ong-IshaニーOSe巴-mypatriOtism-紆thinkthatMng】andhasabsOrbeda巳e聖

    Cel-ences㌧という言葉が日記に見られるが、これを記入したのはいつなのであろうか。ここには、恐怖に満ちた

    悲鳴にちかいものが感じられるようにおもわれる。しかし、ユマソソの旅先での記録をみれば、全体として、き

    わめて冷静に、「あるがままに正しく英国を眺めよう」としていることに驚くのである。その長所と欠点の両方

  • を克明に記録し、また、自己の感情もつねによく見きわめている。出立間近いある日、カーライルとともにスト

    ウソへソジを訪れたときに交した言葉のなかに、自分は英国人が好きだし、すぐれた国民とはおもうけれども、

    自分がアメリカに帰ると、また別の考えがおこるのだと話している箇所がある。

    ltO-dCPr】y-eOnthewaytOStOnehengeth貫thOughIwasinthehabitOfcOnCedingeくerythiロg

    ingnOrO{同ng-呂dwhichEng冨hmendempロded-thOughlwasdazN-edb七thewea-th紆pOWe↓紆

    SuCCeS仇eくeryWh害eapparent.IyetIknewく害yWe--thatthemOmentIreturntOAmerica-H

    ShOu-d-apsQa等-nintOthehabitua-訂e-in的WhichtheくaStphysica-inβuencesOhthatcOntin昌t

    ineくitab肯-nSp-reO{cOnPdencethatthere紆thereOn】yistheri昔thOme紆seatOftheEng-ish

    r胃eい紆thi∽greatEn聖andwiHdwind-eaga-ntOanis-andwhichhasdOneWe〓、buthpsrePnhed

    itsutmOStのHppnSiOn.

    これは日記に記されている文章であり、『英国人の特性』第十七章では多少ちがう表現が使われているけれども、

    やはり同趣旨のことが述べられている。ここにこそ、ユマソンの自己を見失なわぬ、冷静な観察の基礎があると

    おもわれる。第一回目のイギリス訪問のときとはことなり、英国をよりよく理解しようとして好意的態度は示し

    たものの、二度目の訪英の記録にも依然として、アメリカ人としての自覚を片時も忘れぬエマソソの姿がたえず

    認められる点は、見逃すことのできない重要な点だといえよう。

    エマソソが一八四七年に、大西洋を渡る以前に書き記した文章に注目しよう。

    エマソンの『英国人の特性』

    三五

  • WegOtOEurOpetOSeearistOCraticsOCietywithasfewabatementaspOSSib-e・WegOtObe

    AmericaniNed二〇impOrtWhatwec呂.ThiscOuntryhasitsprOperg-Ory二hO点hnOWShrOuded紆

    uロknOWn.Wewi--訂titshiロe.

    「われわれはヨーロッパに行って、ますますアメリカ人になる」という文章は、『処生論』にも使われているが、

    これこそエマソソが身をもって実践したことではないだろうか。

    エマソソは、帰国後まもなく、一八四八年の冬から一八四九年にかけて、「英国」、「ロソドン」、「英国と英国

    人」などの題目をかかげて講演をはじめた。この原稿が、一八五二年十二月には「小生の英国に関する覚え書

    (myEng-ishn。teS)は、現在、ちょっとした本の分量になっています」と兄ウィリアムに知らせるほどたまった

    ようである。しかし、第一章の原稿を書店主フィリップスに送る一八五五年十月九日までは三年ちかくも得たな

    ければならない。さらに、第一葦ができあがってから、最後の章が書きあがるまで、八ケ月余りもかかるのであ

    ⑳る。エマソソにとって、『英国人の特性』は、かなり難産だったとおもわれる。

    内容の点でも、最初の意図と決定稿のあいだには、相違が生じているらしい。一八五三年四月、かつて英国で

    世話になったジェイムスソ夫人(Mrs・lames。n)に、英国に関する覚え書をささやかな書物にしようという企て

    があることを知らせた手紙で、「アメリカ人がたえず連想するような、こちらの大陸における類似例をもふくん

    だ」書物になりそうだと告げている。しかし、たとえばクーパーの『欧州拾遺巻二英国』(一八三七年)(lPmeS

  • 句enimOreC00per‖G訂へ邑薦二畠的ミ〇営≡.声h星雲軋)やホーソーンの『われらの故国』(一八六三年)(訝th邑e-

    HpwthOrne∵9≡1P憲∵巧さ要)にみられるほど、アメリカとの比較を表立ってはおこなっていない。また、一八五

    六年一月、西部の講演旅行の最中も英国論を書きつづけていたユマソソは、原稿はできあがらないけれども.my

    chapterOftheAロg-OAmerican-の材料がみつかっている旨、妻に書きおくっている。一八五三年から五五年

    にかけて.TheAng-?American-という題の講演が何度もおこなわれ、これが、いま触れた『英国人の特性』

    にふくまれるはずの二軍の母体とおもわれる。しかし、いかなる事情によるかほさだかでないが、公にされた書

    物には、この一章はふくまれなかった。

    一八五六年に出版され、現在われわれが読むことのできる英国論において問われているのは、「なぜ英国が英

    国であるのか」という当時の英国の繁栄の理由と、「英国人が他の国民に対してもつ支配力の構成要素」(全集版

    第五巻三五ページー以下引用文はページ番号のみを記す)の二点である。この答をみつけることが、自分の国アメリ

    カの将来の繁栄にむすぴつくと考えられるからである。英国が検討の対象としてえらばれたのは、「英国の精神が

    多少ともめぐまれた新しい条件のなかへ継続しているのがアメリカの精神だ」(三六ページ)からにはかならない。

    しかも、英国は、「現存の国家のなかで最善のもの」だからでもある。しかし、その直前の文章-「もし国民精

    神を判断する試金石としてあまねく認められているものがあるとすれば、それは成功ということである。もし過

    去一千年のあいだに成功をおさめた国がこの宇宙にあるとすれば、それは英国である」(三五ペーヱーにふく

    まれている二つの「もし」は、なにか意味ありげに響く。エマソソがかつてソロー(詳ロryロEdThOre呂)とか

    わした会話の記録のなかに、こtwasagreed…thatwhatisca--edasuccessinAmericPOrinEロg-andis

    エマソソの『英国人の特性』

  • ロOneこhpttheirb00kOrmanOr-awh註nOr00tinロPture-OfcOurSe.1-という文章があることを知っ

    ていれば、なおさらである。

    『英国人の特性』全十九章のうち、結論の一章は別にして、最初と最後のあわせて五章がエマソソの個人的な

    体験の記録であり、それにはさまれている十三章が英国分析の部分である。英国が随一の強国となりえた理由を、

    国土・人種・能力・風俗・性格などの面から検討し、その質讃は「富」の章で一つのクライマックスに達する。

    検討はさらにつづき、貴族・大学・宗教・文学などが順次とりあげられるが、あつかう対象の物質的要素が減少

    し、精神的要素が増加するにつれて、ユマソソの批判はきびしさを増す僚向があるようにおもわれる。本書の特

    色の一つは、英国の物質主義に対する批判としての、アメリカの精神主義的、倫理的主張にあるといっても間違

    いではなかろう。以下、エマソソの説くところを、いくつかの点についてたどってみることにしよう。

    たびたび繰返して指摘される英国人の特性の一つに、その動物的性質と強健な肉体および食欲がある。丸々と

    ふとり、血色もよく、均斉のとれた美しい姿体をもつ英国人とならんで歩くと、アメリカ人は「骨の袋」(三〇五

    ページ)同然にみえるほどである。「動物的性質をもつ人間は、動物とおなじく、本能にたよる。英国人は犬や

    馬と伸がよい」(七一ページ)、「英国人は、世界中のだれよりも馬についての理解はすぐれており、馬が自己の分

    身になっていることを自慢する」(七二-三ページ)、「英国人は自分たちの馬について重んじる点、すなわち気概

    と耐久力とを、自らもっている」(一〇二ページ)などと、ユーモアまじりに書かれている。若い頃病身であった

    エマソソは、二度目の英国旅行中に妻におくった手紙のなかでも、たびたびこの事にふれている。ホーソンも

    『われらが故国』において、同様に英国人の体格のよさに言及しているから、当時の人々がよほど目立って壮健

    であり、:ユー・イングラソド出身の人々とは対照的だったのであろう。

  • 動物性とならんで指摘されるのは、物質に対する関心の強さ、土地所有欲、蓄財家としてのサクソソ人の伝

    統である。英国に、「その全人口が一年間はたらかずにぶらぶらしていても、食べていけるだけの富がある」

    (一六〇ページ)のは、地理的にめぐまれた場所に位置する国土に、「実益に対する欲望」(八三ペー之をもった国

    民が住みつき、何百年にもわたって正直をもっぱらとし、その才能の限りをつくして通商に精を出したからであ

    る。「英国では何もかもテソポが早い」うえに二年間に他のヨーロッパ人の三倍も働く」(一五七ページ)結果

    である。

    つぎに、英国の成功の実体が披露される。蒸気の利用による動力織機の発明以後、つぎつぎに機械は改良され、

    二日で従来の百人分、二百五十人分の生産が可能になり、富はますます蓄積された。しかし、機械はそれを使用

    する人間を非人問化しはじめる。レスターの靴下製造者は蜘蛛に、マソチェスターの織工は針になったも同然、

    おなじ手仕事をたえず繰返していると、力も知慧も融通性も失ってしまう。したがって、時代がかわって産業に

    変化がおこると、町全体が蟻塚のように犠牲になってしまう。思考力をもち、あたらしい選択ができ、あたらし

    い仕事へ自己の才能を適用することのできる人間でないかぎり、身をほろぼさずにいられる著はない(〓ハ六1七

    ページ)。つぎにはまた新たな災難がおとずれる。不正があばかれ、商品の粗悪化が発見され、いままで正直で

    あった英国において、万事がにせ物、まやかし物であることが判明する。国の責任者たちが、あやまった方針に

    もとづいて、自ら国を貧しくしているにもかかわらず、豊かにしていると信じこんで死んでいったことが分る

    (一六七-八ページ)。このように語ると、英国の成功の中味がまったくお粗末きわまりないものであるといわざる

    をえない。

    その実体はともかく、英国には莫大なる富がある。エマソソはつぎに、「他の諸国家も究極には富める国にな

    ユマソソの『英国人の特性』

  • るということを考慮に入れて、英国は賢明な富の使い方をしているか」(一六九ページ)と問う。余剰資金の利用

    方法で国民の知慧が判断できるといって、現状を調べた結果、「英国は富を使いこなしていない」(一七〇ページ)

    との結論に達する。なるほどユマソソは、世界中で「公共の利益」にもっとも注意がゆきとどいているのは英国

    である、というフィリップ・ド・コミーヌ(Phi-ipdeC。miPeS--監㌣GOu)のことばを引用したり(八二ページ)、

    公共の目的の追求や公共の目標の採用に英国人がなみはずれた情熱を傾けることを指摘はする(九〇、九九ページ)。

    しかし、英国人は結局、「構造にはおしみなく金をかけておいて、ゆっくりと利潤の還元をまつ」(八九ページ)。

    そこには、エマソソが『処生論』所収のエッセイ「富」で説く、「富は倫理的なものである」(全集版第六巻一〇二

    ページ)という認識が欠落している。エマソソにおいては「本当の節約とは、つねに、一段たかい次元でお金を

    費すことにある。……動物的生活の増大にではなく、精神的なものの創造にこそ費すべきである」(第六巻一〇三

    ページ)というのが理想の姿としてとらえられているので、英国の現状は、残念ながら、模倣すべからざる姿と

    いうことになる。「アメリカや英国のいわゆる成功は、成功とみとめない」という、先述のソローとの対話がこ

    こで想起されるであろう。

    強い倫理感と精神主義が、ユマソソの、そして当時のアメリカ人の重要な特色である。世界で唯一の成功した

    国の成功の仕方に倫理感が欠けているという非難から判断すると、英国の繁栄の実体は、すくなくともエマソソ

    にとっては、空中楼閣のようにたよりなくみえたことだろう。英国の上流階級にあるのは家柄ばかりで思想がな

    く(一八六ページ)、叡智と高邁な精神の持ち主もそこにはいない(二九三ページ)、となげく。「マンチェスターで

    の演説」(一八四七年十一月十八日におこなったもの。その草稿は『英国人の特性』第十九章として収められている。)によ

    れば、「英国をみたいと願いながら森のなかをひとり歩きするアメリカ人が心を惹かれるものといえば、それは

  • サクソソ族に独特な倫理感1さからいがたい善悪の意識、それに対する愛と傾倒-Iである」(三一〇-一ペー

    ⑳ジ)と、かなりの期待をいだいている口吻ではあるけれども、「文学」の章では、英国人は「文学・哲学・科学

    における展望をまったく失ってしまった。その名に値するような英国人も、その精神の由分の三に鍵をかけ、残

    り四分の一のなかにとじこもっている」(二五二ページ)とか、「あさましくも因襲に満足し、哲学や宗教ときいた

    だけで風刺をとばし、……慣習を偶像祝して、生命と精神の衰退を暴露する」(二五四ページ)などと、きわめて

    批判的な発言をしているのである。

    それでは、過去1アメリカには見あたらない過去の歴史の重み-というものに対して、エマソソはどのよ

    うにいっているのであろうか。「われわれ人間の歴史的時間は、自然の作用の期間にくらベれば、一つの点にす

    ぎない」(四九ページ)とはいいながらも、各所で、英国の九百年、千年にもおよぶ時間の経過を強調している。

    それには、おそらく、非常に性急に富を求めようとしていた当時のアメリカ人に対する警鐘のねらいがこめられ

    ていたであろう。『社会と孤独』所収のエッセイ「成功」においては、成功にいたる正道が説かれていて、「一

    攫千金をもとめる心は、野蛮で幼稚な考え方である」、「信用取引で金持になろうとするこの浅薄なアメリカ精神

    は大きらいだ」(全集版第七巻二八九-九〇ページ)などと述べられている。英国人のように、忍耐強く、誠実に、

    そして「ひとたび実行しようと着手したことは忠実に実行する」(九二ページ)という徹底した心で、時間をかけ

    る以外に成功の正道は存在しない。そのかぎりにおいては、サクソソ人の長所を、アメリカ人もぜひとも受継ぐ

    必要があることを、エマソソは強く訴える。

    しかし、歴史の古さもよい点ばかりではない。「二万人の盗賊ども(thi①くeS)がへイそティソグズに上陸した。

    上院のもとを築いたこれらの人々は、貪欲で狂暴な騎馬歩兵の子孫、貪欲で狂暴な海賊の子孫であった。……し

    エマソソの『英国人の特性』

  • かし、古きと富の幻影にはさからいがたく、現在の相当な身分の上流階級の人々は、これらの下劣な盗賊どもの

    末裔であるのをいいことに自慢しており」(六〇-一ページ)、彼らが豚・山羊・ジャッカル・豹・狼・蛇などを

    自家の紋章にとりいれることでそのような動物に似ていることを告白しているという。しかし、「百代もつづい

    た血統」といえども、「工場で蒸気を使う紡績工場主とくらベれば」何の意味ももたない(七六ページ)。

    また、古い歴史をほこるオックスフォード大学も、「文学」の章で語られる英国精神も、ともに目が過去にば

    かりむいている(二一二、二四六ページ)。ここで用いられている.retrOSpeCtiくe.という単語は、さきに引用した

    『自然論』の冒頭の文章にも用いられており、エマソソにおいては否定的な意味で使われる語である。英国人は、

    「ひとりひとりの年齢が一千年で、想い出によlって生きている。そう言ってやると、はめ言葉と受取ってしまう

    のだ」(二五二ページ)という弱点をもっている。「英国人の力は、また、変化を嫌う点に存在している。彼らは

    理性をはたらかせるのが苦手で、あらゆる場合にまず記憶を用いる」(二〇ページ)。精神がそのように過去に

    とらわれ、融通性を欠いているのでは、「地平線上におぼろげな姿をあらわす新しい形、過去の古ぼけた衣裳戸

    棚にしまわれている服をまとうことのできない新しい巨大な思想を、どのようにして見分けることができようか、

    どのようにして迎えることができようか」(二四六ページ)といわざるをえない。過去にばかり目をむける英国は、

    未来へ目をむけるアメリカに、やがてとってかわられることになるだろうと、エマソソは予言する。

    第三章「国土」のはじめで、ロンドソを訪れるなら十九世紀なかばの今が絶好の機会である理由として、「英

    国がすでに絶頂に到達したというきざしのいくらか見られる」(三七ページ)ことをあげる。それは、間もなく英

    国が衰退の段階にはいるかもしれないことを暗示する言葉といえよう。そして、ストウソへソジの遺跡でエマソ

    ソがカーライルに語ったとして巻末近くに記されているつぎの言葉は、現在からみれば、次回の戦争が空中戦に

  • なることを指摘した箇所(一六二へージ)、英語が人類の共通語になるのではないかと述べる箇所(三〇三ページ)と

    ともに、結局は実現されるにいたった予言の言葉ともいえそうである-「英国民族(出百itishrpce)の座とも中

    心ともなるのは彼の地であって此の地ではない。おなじ民族の手によるとすれば、彼の国の巨大な自然の好条件

    に対抗しうる技術も活動も存在しない。それに、老衰した島国としての英国には、他の親とおなじく、子供が強

    いことのみが満足の種であるような日が、いつかやってくる」(二七五1六ページ)。このようにいったあと、「も

    っとも、このような主張は、どのような英国人も容易には受けいれてくれないだろうが」とつけくわえている。

    この主張がエマソソの本心にきわめて近いことは、『英国人の特性』の一番最後の文章をみればあきらかであろ

    う。ここにも「もし英国の勇気が経済的危機の可能性とともに消えゆくものならは」という条件文がついてはい

    るけれども、この文章は、「私はマサチューセッツの岬、インディアソの住む自分の河のほとりにもどり、自国

    の同胞にこう告げよう-古き民族はすべて滅びた、と。そしてまた、人類の順応力と希望とは、ほかならぬア

    リゲニー山脈のうえにのみとどまるであろう、と」(三一四ページ)と結ばれている。この英国論の最後の章とし

    てつけられている、マソチェスター・アシーニアムの夜会での演説は、すでに触れたように、一八四七年十一月

    十八日、ユマソソの講演旅行がはじまって半月あまりしか経っていない時におこなわれたもので、この時の発言

    が今後の講演の成果に影響をおよばしかねない大事な場面での演説であった。しかし、ここにも、英国にのりこ

    んできて、英国の文人を前にして一歩もあとにはひかぬ、愛国者エマソソの気骨が非常に明瞭にあらわれている

    とおもわれる。

    エマソソの『英国人の特性』

  • エマソソの『英国人の特性』

    一八四七-四八年の英国といえば、プリーストリー(J・PPriest訂y)のいう「ヴィクトリア女王の最盛期(ゴマ

    tOria、∽Heyday)」を目前にひかえ、その国力たるや、たしかに絶頂にちかく、片やアメリカは、一八一二-一四

    年の英米戦争の勝利によって自信をつけ、次第に富める国になりかけていたとはいえ、英国とはくらぷべくもな

    かった。したがって、エマソソの批判や非難によって英国の屋台骨がゆらぐどころか、何の痛症も感じなかった

    にちがいない。『英国人の特性』は、出版後、ユマソソの英国国教会に対する批判と偏見にみちたヴィクトリア

    朝文学批判とに関して、英国のいくつかの書評に文句をつけられたが、それでも英国ではエマソソの作品中もっ

    ともひろく読まれた作品だといわれている。この事実にしめされる著者と読者の考え方のずれを、当時リヴァプ

    ールの領事として英国に滞在中だったホーソーンが、実に見事にとらえている。

    lama昔aiditwiロp-easetheEロg-isht00We--こOryOug-くethemcredit旨rthepOSSeSSiOn.in

    くery-argemeasure.〇蝿a--thequaEiesthptthey<巴ue-OrpridethemseFeSuPOn‥andtheyne忌r

    WEcOmprehendthatwhatyOudenyis旨rgreaterandhigherthanwhatyOuCOnCede.In㌻ct

    yOudeロythemOn-ywhattheywOu-dbea旨amedO誉ihtheypOSSe∽∽ait.

    これは、エマソソから贈られた『英国人の特性』に対する一八五六年九月十日付の礼状の一節である。英国人は、

    エマソソに欠除を指摘された要素は、むしろ持たぬことを誇りにしているものであるため、平然としていられる。

    そなわっていると指摘された特質は、それを所有していることが自慢すべきことであるから、英国人は自分たち

  • が賞讃されたと思って喜ぶことだろう。ホーソーンにとって、これは大きな不満の種のように受けとられている

    らしいが、はたしてエマソソは、そのような英国人の反応を予期していなかったのであろうか。

    当時の英米間では、かなり多数の旅行者がたがいに相手国を訪れ、帰国後には旅行記を出版する風潮があった。

    フラソシス・トロロウプ(Fr呂CisTrOuOPe‥p鳶註C旨旨書芸亀詳』鳶をShL∞∽-)、バリユット・マーティノ

    ー(呂arrietMarti芳雲‥㌢註ギ㌻:ぎ芸訂-∽∽〇、ディケンズ(Char-esDickens=ささ等ぎ=!≧蔓ぢ∴㍍た)、また、

    アーヴィソグ(WashingtOnIrくiロg一3~S訂ミl哲阜-∞NO)、クーパー、エマソソ、ホーソーンなどの作品がきわ

    めて有名である。ほかにも数えきれぬほど沢山の旅行記が出版されていたようで、英米両国間の政治的関係の緊

    張度と呼応して、相手国に対する意識的な偏見・軽蔑・憎悪をこめて書かれたりもした。そして、おたがいに相

    手方の批判には、とくに敏感に反応したようである。英国人は、自分たちのあいだで自国の欠点をあげつらって

    面白がったりするのであるが、外国人、とくにアメリカ人の指摘には、あまり寛容な態度をしめさない傾向があ

    るらしい。クーパーの英国論にも、ホーソーンの英国論にも、英国人は立腹した。時代がくだってマーク・トウ

    ェイソが小説『アーサー壬宮廷のコネティカット生れのヤンキー』(一八八九年)(M巴旨Tw已n‥ゝCO喜邑訂邑ざ苧

    訂こさら薦き昌宮‡C芸主のなかで英国を諷刺したときも同様であった。どちらの側に立っても、相手国の悪

    口を書けば、自分の国の人々には喜んで読んでもらえても、相手国の人々を怒らせてし事つ。旅先で歓待を受け

    れば受けるほど、批判的発言は礼儀に反することになってくる。世界各国の旅行記のなかで、英国人によるアメ

    リカ紀行、アメリカ人による英国紀行、および文化論の類は、おなじ英語を用いて書かれているという点で、世

    界の類書のなかではきわめて特殊なものということができる。

    このような背景において『英国人の特性』を考えてみるとき、ユマソンの苦心はどのような点にあったであろ

    エマソソの『英国人の特性』

  • うか。まず、ディケンズの『アメリカ覚え書』を相当つよく意識していたのである。英国へ講演旅行にでかける

    五年前、一八四二年十一月二十五日の日記に、『アメリカ覚え書』の読後感を、「アメリカの風俗を描写したも

    のとして、これ以上のいつわりはありえない」と、かなりはげしい調子で記録している。面白く読める本を書く

    という目的にはかなっているものの、真実を写すことを目的とはしていない。アメリカの説明としては短かすぎ

    る。偏狭で表面的すぎる、無知で取るにたらず、作者はこの仕事に不適任だ、ときめつけている。詳説する余裕

    はないが、エマソソはディケンズに対してあまり好意をいだいていない。一八四八年四月二十五日、ジョン・フ

    ォースターの家でカーライルも同席してはじめてディケンズに会い、妻リディアソ宛に「彼がなかなか気にいっ

    た」と、従来の評価を多少かえるかのように書いているが、一八六〇年出版の『処生論』では「行動」の章に

    『アメリカ覚え書』批判をふたたび記している(第六巻一七四ページ)。『簡約ケンブリッジ英文学史(CO亭鼠等C旨・

    富ぷ竃出紆ぎヾとこ甘貰監こE垂蔓妄ThirdEditi。n)』のなかで、アメリカ文学に関する章を補筆したチャーチル

    (R・C・Churchiロ)は、『英国人の特性』が「ディケンズの『アメリカ覚え書』に対する一種の逆襲(ripOSte)であ

    ⑳る」といっているが、一面では正しい指摘である。しかし、ユマソソの意図は、ディケンズがアメリカに対して

    おこなったことを、今度はエマソソが英国に対してするという意味での逆襲にあったのではなかった。それは、

    ディケンズの作品の欠点を、自作においてはことごとく排除することであった。エマソンのねらいは、アメリカ

    人の面目にかけても、できるかぎり英国人を怒らせずに自己の所信をのべうる書物を書くことにあった。「一つ

    の国について語らなければならないことは、もろもろの徴候の上っ面をとりあつかうことである。……精神の来

    歴までふかくはいりこむことはできない。」(三〇二ページ)と断ってはいるが、表面的な風俗習慣の記述、観察者

    ひとりの気まぐれな偏った判断にもとづく記述をできるだけ避け、すこしでもより客観的な、真実にちかい説明

  • をすることが必要であった。旅行記として手軽な書簡体の紀行文でもなく、訪れた各場所を中心にしてまとめた

    叙述でもなく、事柄を章の見出しに立てた高度のエッセイ形式をとっている。さらには、自分の意見の補強材と

    して豊富な引用を織りまぜ、とくに古い時代の文章をおおく利用することによって、十九世紀半ばの一時期の特

    性ではなく、歴史的な恒久性をはっきりと強調している。かかる手段により、真実に対するひときわ強い愛をも

    ち、事実の前には脱帽するという特性をもつ英国人に、つけいる隙を与えようとしない。

    ユマソソは、はかにも用意周到な配慮をこらしている。『英国人の特性』の冒頭第一ページに、一八三四年の

    夏、ヨーロッパ大陸からロソドンに上陸すると、それまでおこなっていた、旅行者にありがちな生意気な批判癖

    をひかえなければならなかった、と明記している。これは、すでに述べた、アメリカ人が英国論を書くときの困

    難さをしめしていると同時に、エマソン自身が以下の各章で、ある程度沈黙をまもらざるをえなかった事柄のあ

    ることをほのめかしているのではなかろうか。英国式の論理には、物事には表と裏という「二つの面が存在する

    という信念」(八一ページ)がある。「英国人の心には男と女の二つの性が共存している」(六七ページ)。エマソソ

    がこのような点を強調しているのは、ある事実を指摘すれば、つねにその事実とは正反対の事実もまた存在する

    ことをあきらかにしようとしているといえよう。たとえば、シェイクスピアの『シソべリン』に登場するイモジ

    ェンの感情は、英国人の性質を模倣して措いたものだといって、英国女性の級細さをはめる(一〇八ページ)とき、

    その背後には、女性のずんぐりした身体つき(六七ページ)が存在する。ホーソーンが『われらの故国』のなかで、

    英国の女性を.maSSiくeWithsO-idbeehaロdstreakytauOW∵madeupO柚stのpksaロdsir-Oins、などと形

    容して物議をかもしだしたようなことは、用心深いエマソソの場合には起りそうもない。また、英国の貧富の差

    のはげしさ、とくに都市の悲惨な貧民に触れないことに不満をもらす批評家もいるようだが、どうやら意識的に

    ユマソソの『英国人の特性』

  • 言及しなかったという方が正しそうな気がする。エマソソは、幼少時代からの貧しい生活の体験によって、貧乏

    に対する考え方が一般の人と違い、青年に「清貧と叡智」(一七〇ページ)を説きたいのである。しかし、あま句

    にも極端な貧富の対照や極貧の生活ぶりに決して目をとめていないわけではない。ただ、ますます悪化の一途を

    たどる奴隷制度の問題を自国がかかえていて、どうして他国のスラム街を非難できようか。さらにまた、もし差

    出がましく英国の社会制度あるいは風習の改革を提案するようなことになれば、それこそディケンズがアメリカ

    に対してとった態度とおなじことになってしまうのである。

    かくはいうものの、言いたいことを言いひかえた、というのではない。英国人は「人が思いきって自分の意見

    をもつことを要求し、事にあたって直哉にイエスかノーかを言えないような憶病者とかわりのない人間をきらう。

    ……下心なく気概をもっておこなえば、あらゆる戒律をやぶっても文句はいわないだろう。腹のすわっている人

    間でさえあれば、あれやこれや、何をしてもかまわない」(一〇二1三ページ)。あるいはまた、自分の乱行をいさ

    めたラティマー司教をヘンリー八世が各めなかった例をひいて、「耳の痛い真実をかたる度胸、ときにはライオ

    ンのロのなかに首をつっこんででも真実をかたれる度胸ということにかけては、英国人にまさるものはいない」

    (一二〇ページ)と賞讃する。こう書かれてしまえば、エマソソの評言が真実であるかぎり、それに対して立腹す

    ることは不可能になってしまう。このようにして、言うべきことは相当おもいきって発言したといえるだろう。

    もう一つ、「英国人はユーモアを解する国民だ」(一四四ページ)という指摘も有効である。機智とユーモアに

    あふれる書き方で英国人の長所と短所があばかれてゆく。おそらく、いままでにあげた、英国人を怒らせないで

    いいたいことをいう方法も、一つのユーモアと解すべきであろう。「アメリカのもっとも機智に富んだ作家によ

    る、もっとも機智に富んだ作品」という、マーク・ヴァソ・ドーレソ(MarkくaロDOren)の言葉にもうなずける

  • のである。

    エマソソは『英国人の特性』の執筆中に西部へ講演旅行にでかける機会があり、土地の人々が笑いを期待して

    あっまることに言及して、日記にこう記した。「もしシェイクスピアやフランクリンやイソップがイリノイ州に

    来るとしたら、彼らはこう言う。私の智慧に、悲劇や哀歌ではなく喜劇的な形式を与えなければならぬ。そして、

    私はそのやり方をよく心得ているのだ。自分の形式を変え、どんな困難なめにあっても自分の目的を達する人で

    なければ、大家とはいえない、と。」エマソソは『英国人の特性』を書きあげるまでに随分苦心したらしいが、

    みごとに「大家」といえる人の作を完成させた。そこでは、初期の講演「アメリカの学者」でいうところの学者

    の義務-「人々に外見のなかから真の事実をしめしてやることにより、彼らを励まし、助け、導くこと」(第

    一巻一〇〇ページ)-を依然として実践している。アメリカ人を励まし、助け、導くのである。そればかりでは

    ない。論じた対象の英国人の長所を十分に作品自体のなかに取りいれ、あの感服した英国の礼儀作法にある程度

    はしたがいながら、堅牢にして耐久性のある作品を書きあげた。そして、「英国国民性について書かれたすべて

    の書物のなかで、『英国人の特性』はもっとも洞察力に富み、もっとも深遠で、もっとも長持ちするものといっ

    ても、誇張にすぎることはあるまい」といわれるほどのものとなりえた。この作品が書かれてから一世紀以上た

    ってもなお面白さを失わず、さらには、単に英国人の特性を描いたものとしてみる場合だけでなく、(作者がまっ

    たく意図しなかったことであろうが)別の時代の別の富める国にあてはめてみた場合にも示唆に富むということは、

    この作品の普遍性を証明するものであり、さらに、作者の現実を視る目の鋭さとともに現実の彼方を見通す目の

    確かさをも、何よりも証拠だてるものといえよう。ユマソソがアメリカ人の国民性に顕著な特性として挙げてい

    る、「ヤンキー独特の器用さと精神主義の融合」が、ここにも見られるとおもわれるのである。

    異吋ソソの『菓国人の特性』

  • (本稿は昭和五十三年十l月十九旦強大会館にて開かれた京大英文学会での口頭発表に加筆したものである。)

    注①㊤④④⑤⑥⑦㊥

    C誉Phi著し.窯C0-0讐h鳶喜寓Q云知ebS礼袈賢さ㌧ゝ講和≧鼓ま竪苗亀Eng-ishTrmEs(CO-umbiaU・P・,

    -宗-).pp.丁∽.

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    p.野本

    節における伝記的事実は主として次の書物による。

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    AEedR.句OrguSOロ(ed.)‥3ヘ音芸邑:買=弄註善さ寅>ぎ営爵:†ぎ登こぎ巨ふぎ選ぶ二己IくーB㌣

    -∞Uか(Be-kロapPHのSSOfHPrくprdU.P・.-宗舎11このシリーズは以下竜と略す。

    、き鴫男Hメ3-3(lOu↑n已Q.pp.一-7-∽).

    旨㌫.-巴(lOurn巳Q.p.-NOP).

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    3bCO選せ監こきをこナ評登=さ買こざ芸宝(CentenaqEditiOロ)(以下ききと略す)く。-・--山鉾芦

    本節に述べる事実は主として次の書物・論文に負うところが大きい。

    R已phL.Rusk‥3こミニ†浮草=さ買こぎ芸SCh.-P

    R巴phL.Rusk(ed.)‥当馬Pミ芸:く知官笠こき邑ざ動き≡雲(以下ト註宅的と略す)-く0-PIII紆-く(CO-umbiP

    U.P.LS芋

    MeユOnM.Sea冨Lr.(ed.)‥、葺く0-.8-嬰S己監∞(Be-knp勺PressOfHprくPrdU.P.二等∽).

    TOWnSendScudder.ud㍉AChrOn0-Ogica-ListOfEmersOn、sLecturesOnhis出HitishLectureTOurOf-詮7

    -監誓知己卜』-くOL∽-(-¢∽①)-思㌣命.

  • ㊥⑲㊥㊥㊥⑭㊤⑯㊥㊥㊥㊨㊧㊨

    ご宴ヨ二三-m紆-∽(T。LidiaロEmのrS3.1anSryNm-aロdFebruary-0--詮乎

    卜註等わ.HII.畠N(TOLidian同mersOn-December宗.-①烏).

    『英国人の特性』では「三月」となっているが、実際は二月二十七日から二十九日の間マーティノー家を訪ねたらしい

    (㍉竜之∵舛∵已コi)。

    卜監訂房.Iく、N伽.

    箋メ∽N∞n。te紆㌍くii・なお、六月二十六日にもう一回講演を追加している(、男声邑雲已)。

    卜監訂眉Iく.∞?ヾ(TOLidi呂EロerSOnLune芦-∞怠)・

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    旨芯.こI:-監-(TOLidianEmeH∽On-December∽-〕監コ.

    旨試こく-∽ふ(T。LidianEmersOn.M害Ch∞紆-○)・Cf・単車コ(TOWiEpmEmers。n.May∽--∞畠).

    R.L.Rusk‥叫醇も卜一盲:斗知已せ「買試計h㌢買薫Spp.∽崇⊥声

    卜註等メIく-∞○(TOLidi呂EmersOnLuneP一∞畠).

    卜註芸こIIふ監(TOLidi賀田mersOn"Decembe二二二「亭5.

    Letters-III-会の(TOM害garet『uロer.Decembeニ「疑ヨこIl二法(TOLidi呂Emers。ローDecemberN∽二軍マ

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    Abe-Adpms,Apri-巴.-∞命)二く、雷(TOLidiaロ同mersOn-Mpy♪一望盈こII.畠∽(TOWi--iamEmersOn-Decem・

    be叫声-①烏)二く;㌣∽(T。Lidi呂EmerS。n-May♪-加島).

    ㊨㊥㊥㊨㊥

    トへミ宅♪lHI-畠NこHH.畠-こIH畠∞こく.巴.

    卜監訂3.Iく.完.

    、造岩∴ヂ付会(lOurn巴LOndOロー一.雷).

    旨㌫・-盟での()呂昌巴LM.p.一〇〇).Cf.司Qを-く.当㌣P

    ゝ罵男∴戸-巴(lOurn巴GH.p.苫).

    ユマソソの『英国人の特性』

  • エマソソの『英国人の特性』

    ㊥一言募的-弓r亡ヨ

    ㊨箋〆涙声Wi--iPmChpヨ貫.AChrOロ0-○乳C已L訂t二OhEmersOn、sAmeric呂LectureEロgagement-Pt・III、

    ≧買∴百品Cぎこg茸こ⊆云さふg迂首OctOberL宗○(く○-・声20.-0).pp.㌶丁∽N,

    ㊨卜畏ま.Hく.∽∽N(T。WiEpm伺me巧SOローDecembeHG.-試ず

    ㊥「十六、七草のうちの最初の草」といって原稿を送った。LP蔓訂3.1く、3∽(TOMOSeSDresserPhiEps.〇ctOberゆ-

    -卯∽∽).

    ㊥「小生の書物、とうとう、一週間前に完了しました」といって兄ウィリアムに知らせたのは、一八五六年六月二十三日

    であった。(ト主等タメぶ.

    ㊥↑箪苗苫∵ココ∽史(TOAロロa]浮OWne--MurphyJpmesOn-Apri-NOL∽∽学

    ㊥卜註bメメ鉢(TO】LdiPロEme宗○ロ、昔OmDiHOロ、IEnOisL呂uary-∽、一握学

    ㊥Cf.Phyl-isCO-e∴EmeHSOローEng-呂d-pロd句ate㌧iロDaまdLeまロ(ed.)‥竪芸喜更∴ぎせざ導き塗きさせ訂寅

    宝礼h竜宮苫Ch(同ng訝hInstituteMssP当S)(COFmbipU・P・.-笥睾p・謡いWiEamCharく昇竜.註.IPP・∽麗⊥芦

    ㊥箋舛I.N∽∽(甘urロ已田○-P∴N).

    ㊨Cf.P.LヨC0-0鞠-p.-霊.

    ㊥全集版の注(四〇五ページ)によれば、英国の封建制にもとづく特権と完全な貧苦をまのあたりに見て、やむにやまれ

    ず書き上げて発表した講演「生来の貴族」の主題が、この点にあるという。

    ㊨P.Lヴ〓C0-0鞠-pp.帖ローP

    ㊨卜註等的-く完の(訂OtnOte〓◎).

    ㊨箋くllH.柏N㌣∽(lOu昌巴KIpp.巴ふ∽).

    ㊥卜主等♪Iく.霊(TOLidi呂EmersOn.呂ay〕霊草Cト裏声NN㌣の二g⊥nOteI試?-.

    ㊨GeOrgeSpmpsOn"3qCQ畠C訂C宝を蕊曾h芽舌jp「聖芝生「にぎ専芸Third同ditiOn(CpmbridgeU.P..

    -胃○)-p.3-.

    ㊥]許th胃ie-HpwthOrne‥Qミ○芯聾蓋㍉Lhh訂芝.認ぜこ甘さ宣言恵舌㌻(CentenPry巴iti。n、ぎー.く)(Ohi。Stpt乃

  • U.P.」等○)-P.畠.

    @、竜罠メN医ム(10urn已LOndOn.PP.監1g)などにそのような記録が残されている。

    @Markく呂DOren(ed.)‥局豪∵p亘吏ぎ∴豊莞送呈(TheくikingPressL軍学p・忘・

    ㊨」三男滅Iくふ加(lOurna-RO-pp.宗IJ.

    ㊥HenryStee-eCOmm品er(ed.)‥昏きき二蚕豆隻:富雪ぎ三重扇(McGrpw・Hin出合。kCO・-一等芋p・崇声C誉

    C害-y-e-S-ettertOEmersOnINDecember.-害の二nlOSePhS-ater(ed.)‥3~C呈漕言註選ぶ亀ふぎ三宝b鼓

    Cミ首訂(CO-umbiaU.Pニー宗芋pp.∽-↓.

    ㊥箋メーコ.

    エマソンの『英国人の特性』