title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・...

10
Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 Author(s) 佐川, 榮次郞 Citation 地球 (1936), 26(4): 277-285 Issue Date 1936-10-01 URL http://hdl.handle.net/2433/184611 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Upload: others

Post on 24-Jan-2021

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景

Author(s) 佐川, 榮次郞

Citation 地球 (1936), 26(4): 277-285

Issue Date 1936-10-01

URL http://hdl.handle.net/2433/184611

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

・人.・7.~..-.iP.≠

刺刻され、別

納になるまで此の分納に利川さ九・tJゐる。

(.i就)

糾机

「利鴨Ei;の世外的に関する榔兜的研究し(地排

研究

.iOノ二・三・凹)参州。

(.J六)

探洋紙封氏

「元締咋糊の地球儀と大塊供し

(倣ぬ地

二八ノ一)容旧u

(1七)

「雌敵地伽

L一七ノ四

日紛参;=:0

(一八)

藤川先非氏

群「日本地別離史L及'軌柄

「新井白石が

西拝紀閲及釆児聖

一・Eを解すに参考し

た利.=3榊肌の世琳問に就

いてL(地珊桝研究九ノい0)歩糊州。

九)

林朋洗次郎氏潜

「他聞掛虹」仰城.)氷北帝大問

費仲

に減せられ.る。

(二〇)

西口11敬川

郎氏

「長久仰加水の地榊に北きて」(兜蝉邪

説三一ノ五)

(二.I)

糾桐

「朽垣子徹

の課した坤糾粂剛祝に就

いて」(地球

(二.iノ

t)参淵O

ナウ

マン氏小話'フォッサ

マグナ、費用風景

エ・Lム

。ナ

マン酵

Dr.

Edmund

N

aumann

ツp

ン囲

マイ

人、

一八

五四

年九

月十.LH

生れ

一八

四年

ミュ

ンヘン大尊よ-葦位を程、翌年明治八年日

本政麻の瑠晒

受けて水朝、来京大撃数帥とな

った。三年間地質及貌山の撃産に地質

・焼物

ナ・>マン氏小論'フォッサマグナ、曹川風:・::i

探髄の撃む数

へた。共時の撃産には地質の方に

は瓦奄~部

・山下

。閲の諸氏の級と富士谷氏の級

とがあった。明治十

.i年内務省地理局内に地貿

課が出来て氏は其方に移-利口維四郎氏と共は

地質調査事業の創立事務は槻

舶した。翌年には

其の準備のために欧米に旅行、十三年

(1.八八

四七

Page 3: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

i・&二十八へ巻

0年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業

を竹めたとl.芯はる。

大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ

値にi甘んだ様だが'教師と公仕との閏淀で、E・3

はね催過を受けた話もある。人出のナウマン川

Jモ ン マ ウ ナ

は見頃の記念物である。論文ーこは、「人砧火山」

「托1i年収」

「日本地震及火-rL

がある。

欧州施行

中に'前にライマン

氏よ-鑑定を現

まれね北粘法化村の研究をLJL、北渥逆目唱和

化不に鵬する小編を

一八八り年は出し'

ブラタ

ンス氏が北粘道書こジュラ紀アンモナイトが産す

rr

E:姥

]119(

,

るとしね

≠ほっdJ疑と挟んだ。

=本部象の記

(.八八

JJ)も此頃の小竹である。之に対しブ・Tiタ

ンス氏の駁論、ナシマン氏の封駿がある。

明治十1.<年地部課は農商務省地粥訓(=所

とな

ったが、ナ氏は、卜入牢録囲迄、五年岡地朋E3朋

館の宜傍に(=aつた。時流だ下川の時世として〃

頼すべき他聞は東-、地形糊の灘作及非印刷は

苅望

加であった。外にL性及分析の化小もあわ

始は外人川人、邦人j=一一人の粗

いであった。l.i

年の問に地解凍として容顔した人NJHI御伽

・山

はん

・坂

・西川

(卜二.氏は元のライマン氏助手)・

横川・山m・中砧・liSH・鈴木の綿氏であった.

氏の妃跡は三人比の出納に亘少'比較的東北

及舶来地方に精し-'其企僻は巌

一蒔キロに亘

ったが'共中は地形糊hT'作少つゝ少

いた.~(==時

の勉雌.板を語った

‥節に'睦朝川脈横断胡食中

八月の酷親の日に'西両氏と丘柿輪を押す人夫

と雀内省を従

へ'ニト川灯の製周と制寵に従jl

L、目茶れた

る後佃二十キロを進み、夜起-オp

Page 4: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

lJ・j

ll一t■-一ll

七の弧朴は辿-つき村民を耽かし大都がある0

之は野栄の澱高記銘とせるが普通平均の行軍は

二十粁であった。氏は此異同を同時にする調査

方法を大に推奨して居るが、地問の在る今も佃

精碇に於で此方法の重要性は減じて居らね。氏

の著藩に見る佐川

及飯石の地同は其造物であ

る0開

架山地は如来に妊

いから、氏の澱も精し-

い光庭をるが、其の構造の胤耕せるに苦み、

仰簡単在る四問につきで研究するの利益を放

た。従って蝿は再三

凹閲を見舞った。

ナ氏は頼時日に日本金性の地質概要を知る串

は主目的を置

いた故

1地方の精査に従事した蔀

は極めて少夜-、ライマン氏の如-油EE炭肘の

精査を夜しカとは趣を異にLy居る。氏は四年

の後日本始めでの金岡地質閲(北港道を除-)敬

追-上げた.翌年乃はち

一八八五年には、口本

群島構造及S.成諭を著はし、之を地栗岡の解説

藩として同年の商鯛地質拳骨に提出し、同時に

ナウ

マン氏小冊'フォッサ

マグナ'滑川風発

一一1

1■

ttt1一書t一一II

口木地貿概杏の

一段落をつけ火のであっカ。之

によって始めて、査問の地異諸系統の布術及其

構造の大貌は確定された。素よか幾多の瓢殊に

時代論に於で幌陳又は誤謬を免れ夜かつね。例

へば中生代の植物化石は皆保雁とnれ'烏の鬼

石茨岩は三塵紀と疑はれ'外昔の廉

い中生地帯

は古生暦と苫れね如きは後に訂正nれね事であ

った。氏は宙北日本及内外昔の別を私め、其境

界在る横断的の中央破綻地帯及耗賃約の中央構

造線の大根幹構造を解織した。尤79始は内外称

の間に中央帯在る凹地地域を別に考

へねが後に

は之を撤去したC叉地質系統の界は主として大

なる断層在る串、

九州南部に琉球山脈の影響あ

る串を絡め、外神に多さ

逆傾単科暦を輯倒摺曲

として'日本海方向よ・e

t凍る魔力に蹄した。又

北日本は南北性質を典ほし其北部は某に押した

事、四問の開平は仁淀川に沿ふ線にttJ、落ち込

みたる都等の説を出しカ。

私は

.L々ナ氏の龍を誠に詳述せAとするもの

蓋九

四九

Page 5: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

ではな

いが、嘱々氏のフォッサ・マブナにつきて

は、少しく触れて見たい。之は第

一の記念

物で

あ-又氏の狗創カの豊富を

不す好例でもあ-、

且之には今西動もすれば'誤解が纏はると思は

れる題目で79あるからである。

フォッサi

グナは、一本州中部を横ざる顕著な

る凹地と之に揮ふ火山の大噴出とを訟明する為

はナ氏が考

へ出した

一大裂植或は

一大間隙であ

る。此親睦は古

い時代から時々開き樹ししたも

のとして居る。今の知識はよ-其地質的意義を

詮じっめれば、此方南の第三紀始の源と

一致す

るものである.

始は唯漠然

ダラーペン(凹地)

としたが後にフォッサ・マグナの名はよって其裂

醇が現れた後の現今之に替る仙匿をホす事を考

へ、其範囲を定ひるは常

って、氏は其甜頃は大

磯糸魚川-静岡線に求め、兼境は南部は観光山

地古庄厨の酉及南の繰蓮としたが其北部には古

層の露出の在

いのけ苦み、地形を☆山としてー千

田班

三台

曲川上流よか信越戟遭線路に沿払、海に至るも

のとした。之は頗る崩した境界に過ぎ覆

いが此

地域を以て、大数櫨の痕跡

SpuTeinergrossen

Zerreissung,einergrossenQueT

SPalteとした。

氏は大盤醇の成

因を階段は求めず

て商北日本

が此塵は曳き裂かれ大間院が開かれカとした。

氏は南日本轡につきでは'由

元論者であるが此

裂開はつきでは新

は起った七島山脈の兼に向ふ

運動の飴

波はよるものとしね。乃ち之はよさ凹

地と火山との両者の成因を共同のカに揺する巧

妙n堅

不した.氏は裂開の罫を主はして叙述し

地塊の運動につきでは明言,<LJ避けて居るが氏の

所謂七島山脈運動の方向から'叉南日本は平静

である間に北日本は裂値と仙姦-佐渡断層線と

の間は魔力を受けねとせる轟から見ても北=本

の南部が東に動

いたとしー而して其運動は魔柿

とし

て措いたとしね蔀は窺はれる。氏は地塊の

.u動

する革につduで諏識して居た革は南日本の

大,3,3動につきで

記して屠る非から明かであるが

Page 6: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

何故に此考をフォッサ・マグナの場各は用ひなか

つねか、其排由は別は察せらるゝものがあるが、

茄には同氏が地塊大移動論の先駆とし

て裂開ダ

ラーペンともこぶふべき詮を提唱し」

此動力とし

て七島山脈の運動を揃

へ凍った其桐眼を栴揚し

0

に抵抗鰹としてのフォッサユ

ダナほついて

は人動もすれば、ナ氏は之が為にフォッサ÷

ナ紅葉出しカとするが'触らざ-し事は'前述

の通-である.然し之は確かに東軍在る役割で

あった。氏は其西側の山機の特異の韮療及後曲

は、フォッサユ

ダナが障壁と在った馬に起った

とした。之

は.,,hユラやアルプスは例のある事で

ある。東亜山脈の槽威-ヒトホIへン氏は、之

A.以て

Riickstaub・Kettung

1;例としたが、

力の活き

につき

ではナ氏と同意であった。相之

は対して其後抵抗不必要の解秤・@出て居る。

フォッサ。マグナの抵抗鰻としての構造はつき

では、格別明言して屠覆

いが'其充填物として

ナウマン氏小話'フォッサマグナ、野川風発

火成岩に韮さを置

いた革は確であ-、多-の岩

株健を此中に含ましめで居るからしても、貫入

岩の大小操漆によ-て、必要在る程度の弧化が

程らるべきを察せられる。

ナウ

マン氏以来我々は、樽統的に摺曲山脈の

考に浸潤して居る。同時に

「鱗片構造」を取入

れて居るが

、英資管に青んでゐる。ナウマン氏

日本調査時代に巳にスコツーランドに於

Highlandstructureの明解を稗で居た革む恩

ば、賓は日本の山岳の構造につき異相を知る事

の困難を戚ぜざるを稗覆

い。此現状に於で、其

常識的在る事と

1貫性は於で'優越の地位を

_

ひるナウマン氏の抵抗散の如0,は'容易に滅び

るとは恩はれな

い。

ナ氏の大盤櫨の考は

fi朝にして出水ねもので

はな-、氏は衆朝の年、

一日.八ヶ岳の麓の平

伴の峠に立ちで、前には釜触.・・、川の平野を隔てJ

赤石山脈の連峰恕仰ぎ、左はは的束山地の線鼎

をなす川曙の上は温かに富士の秀峰の饗ゆるを

.L./tt

.1

Page 7: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

二十大令

兄で、其光景の怪位に鰐欺したと云ふy屠るO

其後胤を錬る事多年'始めて敬表し次のが此大

裂醇散であった.併し敢初'乃ち

.i八八五年の

歯間地質拳骨には地匿名とし

てGrosserGraben

と名付けた。之はダラーベンの普

通語の意味

溝又は濠よ-凍る箪在

る凹地

の意味であった.

氏は

Senkung.Depression

も同じ意味に使っ

た。ハズ

ユス氏がグラーペソを地質的ほ階段地塊

と定義したの正

'其二年前は過ぎ覆

い.)併し後

にナ氏は離解を恐れて'成因的意義を含まざる

フォッサi

グナの新ラテン名を作身'(同年或は

翌年?)ドイツ地班撃骨に発表した。(一八八六

年印刷)其後

'1八八八年ズユス・原田両氏各作の

封曲数班で、.大ダラーベンの春在を否寵しわ。

俳も之はナ氏の考

へもせぬ断層階没

L.typ

is

che

GTabensenkung"の否髄であっカ。ナ氏

は之を

遺戚としで押切に力め、又封曲紋に封しては.

其力の方向の鵜川iqt・Sる革及同殻にょれば、此感

けは鷹綿が起る故、火山や凹地が在かるべqJ非

鉾田批

二仝

五二

を根櫨として論駁した。要するには氏はダラー

ペンの語に翻されたるのではあるが氏の超時代

的の考が排解nれ夜かった革が察せらるる。

氏は地形測量の序に地形課員をして磁力測定

ををnしめカ。其結果場所によみて異常在る壁

化が静められた。之は地質殊に

フォッサユ

ダナ

JJ関係があるとの考を起し、之を唱散した。魚

し後の専門家の測定によれば此の如

き閥係は私

められ夜かつカ。

氏は

1八八五年腐囲後背時ミ品ンへン大撃助

教授として居ねが'其後はマイン河畔のフラン

クフルト市牢水位の地とし.世界的の覇業骨就

たるメタル祉'後には他の髄山食配に紬係して

居た.其間

に於で氏が試みたる大旅行はバグダ

ッド鉄道に袖する資源調査二

八九

〇年)黒海地

方の石炭調査二

八九三)メキ

,bn囲髄床調査

(

一八九七)であって、其みやげとして小アF,,hア

北部山脈の封曲構造説、メキ;>コ西部山脈は大

Page 8: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

津側--,・押TDれて拍兼ねとする龍がある0其他

北部アフ-カー南光歓洲等頗-兼行したO

氏は中

年後に於で、回顧して自分の日本行は

一生を決したと云って居るが'日本は於て始め

て腰用上の問題は細れ'自然に終生臆用地質家

は進んだ種路を

芸ったものと瓜はれる。蓋し、

腰用地質家の任務の大部は地質構造問題の秤明

に在って規模の大小の差こそあれ難解の鮎に於

ては日本地質構造に此して劣らざる問題に骨は

遭遇するのであるが'氏が日本の構造につき

示した天黍の才と、此塵ほて程ね訓練とは

氏の

後の任務は於でも大に役立った革と恩はれる。

氏は達筆であった。日本の地質地排は観する

論文は二十種に上るが'教委更なる薯藩

「日本

群島構造及生成諭し

の如き'豪批なる文憶の内

は二股句を動線せる

宛然日本風景論とも見え、

時には熊狩の話が飛出す等'地質論としては賓

に典例の藩である.

一八九三年に出版せる

「金

角から

ユタフラチスまで」と云ふ麓行記は好評

ナウ

マン氏小論、フォッサマグナ、幣川風紫

を博し忽托して裏切と在った・と云はれる0氏は

音楽に長じー又日本の銅器・象牙

・彫刻・木版・

漆器の蒐基及鋸織は、郷関に放て釆dtJをなして

居たO

氏は

1九二七年二月

.I日、

フランクフルト市

は於て七十四歳で殺した.氏の友人の記する塵

にょれば'晩年は病に惰nれ夜がら、生水の勤

勉と明朗とを矢は夜かったとある.

氏が此校的長く逗留して居た土佐の或地方に

は、揮竜を求めらるJまJに、ドイツの詩人の句

を毛筆ほで脊

いたものが残って居る。佐川町の

或宿屋には之が額になって居た。其下に私は化

石採集家の外山矯氏の「ノーマン先生」はつき語

る散開

いおのであった。此事を私はナ氏は話し

ねら笑っていたづらむしたと云った。此日柄

5,

たづらは珊皆をもので氏は莱末の役所に於でピ

トルむ身

に減して居た事もあった話が残って

居る。

rJA夜番が氏の気力旺盛熱烈の人と夜・eh

一報を

不す79のであるが氏の封立者であった

ニ(1古

瓦三

Page 9: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

節二十六番

ライ

マン氏との対照が薯七-戚ぜられる。両人

北ハほ俊英在る新知識として迎

へられ、若威力の

十年内外を我園は過ごし各々典つカ型鰭の地質

調査の駒親として活動しカ革は珍しいが。

一足

先は衆力ライマン氏は

山米人が巻

いた悼酢にあ

る様は軸の聾者

oneofG

od.ssaints.although

anatheistと云はるJ如

き生れなが

らの高僧

型の人

であって、泉的及油圧tの来閉式新調査法

の塵歴を捗って居ねから、直ちに之を我問は鷹

用した.此瓢ナ氏が大撃を出允許-で我問に凍

て、此鹿で始めで鋸山及其他鷹用の問題は携つ

たのとは大は趣を異はする。

二九

〇九年我はフランクフルトにナ氏を尋ね

て怨敵をる待遇を受けた。普時氏はテル

スと云

ふ銀山骨配は勤めて居て其魔で技師長格

の職務

は在って時々兼行79夜し忙し

いと云ふた。氏は

ドイツ領南洋に人を遭-カ

5,が日本から在れば

悲-で便利だが、経か岩石のわかる通常の人は

いか、経基はどうだ等の話hlLカ0今から息

解四鞭

五四

ふと燐鋸かアル

ミ助かに捕係の革であっ光と考

へられる。式は唯快をる膏年の次男は市中を境

ruせ允復毛

へ招待しわ。氏は郊外のククヌス

山脈を眺める鹿色の好

い新式アパー・Lは次男の

外は番は長ずると云ふ少女と妹と共は.住

人で居

た。夫人は先年苑Lt長男はドレスデン市工業

大導の土木科の助手をして居た。

氏は色

々を談話の中は秩父三峯山登山口の数

川の風濃を畢げで絶讃し允。諸種の日本風景に

接嫡し溌

が何故は件に之を推馨し允か。私は

元凍、風景観は乗象的環境と個人的心境とは支

配さるJ事多大な

らとの考を持った為此秩父盆

地の推賞

に勤しで常時は蝕み注意せず探-語る

革もせ改正だ。併し後に氏の覚誤の特典なる事

に戚じ'叉氏は骨で或冬の塞峯に庄内鶴岡町の

宿屋の屋根上に随行の地形課員を動員し、兼の

連山の見取間を轟かせて、彼等hl泣かせた事が

あって、其番は地質調査朗は磯-、氏の地形に

封す

る嵐ハ創芸を示し光琳夜ど忠

弘州HL、此秩父

Page 10: Title ナウマン氏小話、フォッサマグナ、贄川風景 地球 (1936 ......地 球 i・ &二十八へ巻 0 年)のやに如湖'同年九月よ-地質調溌外業 を 大学時代には'休暇には兼行htなし、随分ホ竹めたとl

凪灘の報散の希盤を起し滋が今相磯を糧卑小却

敬遺憾として居る。蓋し丘陵地、浸蝕轟地∵

レース、泥-刻める河によ・Jaで開展された池雅

均寮が氏の審美眼を引きつけた轟は察するに

刺-ない。其後此事を

互智部博士に話したら、を

の賀川につきては面白

い事があると孟

nFtつA.

年地筑見

ウマン氏

に引率せ、見た地贋

及球讐

生数名は米川に約ふて秩父鈷地に入ったO共時'私は河肺に

て砂余を噛んだ濃を孜兄して・ナウ

マン氏に米められた串等

あって、遊んで資川綿畔

の宿願に泊

った。約めて挿入

の珍客

を見た人々の幣は多大でありたがー柄

の女主人は私に耳綿し

て云ふには,「あんな立派な人外此牡

の中にあらうとは思はな

んだ」とて如何にも感擬して解た。

徹清澄在る色彩は我

の精とで79見えねであ滝う其人も'私の過った

時は痩型の光頭の好々爺と在って居た.春風秋

雨六十年人巳に遠-苗に磯讃奇遇の任話を俸

でナウマン氏の魂の舘つカ雛源の風色が世に覗

はるJ機縁ijなら人事を希望する。

所要地圃

二十溺分ノ一軒開脚

新都及大-

混濁分ノ一地形樹

洞卿川、綾部'大江山

二頂五千分二

地形問

締知山水部及同西部

揃知山盆地と由良川

八ー

一、地

二十寓分二

帝開聞京都及大阪淡の北西部を

アヤベ

占める稲知山盆地は'兼は綾部から酉は両知山

五五