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Title ハイネのヘーゲル像をめぐって : Heine und sein Hegel-Bild Author(s) 一條, 正雄 Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[6] p.[35]-[48] Issue Date 1970 Rights Version 岐阜大学教養部 (Faculty of General Education, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47426 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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Title ハイネのヘーゲル像をめぐって : Heine und sein Hegel-Bild

Author(s) 一條, 正雄

Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[6] p.[35]-[48]

Issue Date 1970

Rights

Version 岐阜大学教養部 (Faculty of General Education, Gifu University)

URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47426

※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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Heine und sein Hegel-Bild

ハイネのヘーゲル像をめぐって

35

條 正

(1)

ヘーゲルの 『精神現象学』 をマルクスは, ヘーゲル哲学の 「誕生の場」 な らびに 「鍵」 とみ

なしていたそ う で あ る。1) マルクスが ベル リンの学生 となった時, ヘーゲルは既にこの世に

いなかった。 それにひきかえ , ハイネは1821年4月の夏学期か ら, このヘーゲルの講義を聴 く

ことがで きた。 1818年か ら1831年 コレ ラに笥れるまでの期間, ヘーゲルはベル リンで講義を し

ていたからである。 ハイ ネが聴講したのは, ヒル ト及び F. メ ソ デによれば, 論理学な らびに形

而上学, 宗教哲学 ・美学であった らしい。2) ハイネは, 43年12月ク リスマスの頃, ルーゲを介

して マルクスと はじめて知己の間柄にな り, 3) ShUkOWが描いているハイネと マルクス夫妻の

歓談の模様に象徴されているような親しい交渉をパ リで始めているから, ハイネは両巨人の音

容に, 20年とい う歳月をはさんで , 接した ことにな る。 このふた りの, 詩人ハイネに対する影

響は, 本質的で測 り知れない。

マルクスのことはひと まず置 く と して , 事実ハイネはその作品 ・書簡などの中で1820年代か

ら1850年代の死期の迫るまで , 折に触れては丁偉大な る師」4) ヘーゲルに言及しているのであ

る。 ヘーゲルは 『精神現象学』 の序論の中で , 哲学的認識の方法について , 次のよ うに述べて

い る○ 』 ・ 。 ’

二 「このゆるやかな崩壊の過程において全体の相貌は変わらない。 しかし出現のときが到来す

れば, この過程は打ち切られ, 電光石火 , 一挙にして新たな世界の結構がそ こにたち現われる

のであ る。

しかし こ9新たな ものは, 生まれたばか りの子供 と同様, まだ完全な現実匝を備えてはいな

いレ この点は本質的なことであり√看過されてはな らない。 新たな世界が登場したばかりの段

階はそれの直接的なあ りかたで しかな く , 言いかえれば, それの概念であるにすぎない。 ・ ・

・それはこの経過と拡散とから自分にたち返ったばか りの全体であり, このようにして生成し

た全体の, いまだ単純な概念 (傍点・原文イタ リック) で しかない。 この単純な全体が現実性を

得るためには, いまではこの全体の諸契機となっているさ まざ まな形態が, ふた xび新たに,

た yし この新たなエレメ ン トにおいて, すなわち こ xで生成し てきた新たな意味において, 展

開され, 形態を得ることが必要である。」5)

ヘーゲルはこのよ うに概念のプロセスを緊張せしめるこ とを要求しているけれど乱 いおば

Prozessieren といった ヘーゲルの事柄を 考えてみて乱 ハイネが 自己をふりかえってみて,

「ぼ くはいつも過去 ・現在 ・未来を すみずみまで見据えて, 背負っていると 実感してきた」6)

とか, 「内的統一な しに精神の偉大さはあ り得ない」7) とか, 自己を 「イデーを負 うもの」8) な

どと語る時に, ハイネの思惟活動の基底にヘーゲルの影響を看すごすことは到底できないであ

ろ うとおもわれて く る。 マルクス主義以前の市民的哲学の全体は, 理論的なものと方法論的な

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36 一 條 正 雄

ものを , 一個の強固な連関の中へ互いに組入れる努力によって貫かれてお り, この認識論的努

力は, 単に認識論の伝達ばかりでな く , 同時に, そ してそれと不可分に, 認識方法の伝達に向

かって進展していった。 ヘーゲルの解答は弁証法であった。9) メ トーデを発見し , 科学を構築

しなければな らないこと , これがもと よりマルクスの哲学とヘーゲルの哲学との核心的論点で

あった ことは周知の事実である。 ヘーゲルはハイネに思惟活動についての手引きを した師匠で

あった。 ヘーゲルの弁証法に含まれている革命的傾向を , ハイネは歴史, すなわち社会と芸術

の発展に適用したのであった。lo)

さて, ハイネのヘーゲル像を追究してい く際に, 想起し , 比較検討を要するのは, ハイネの

ゲーテ像についてであろ う。 ハイネのゲーテ像は, 単に外面的経過ばか りでな く , 内面の法則

性からみて もいわばヘーゲルの三段階の展開をそなえている。 1824年のゲーテ訪問に象徴され

る20年代が テーゼの設定であ り, 1830年から1836年にかけての アンチテーゼの形成, それか

ら, す く な く と も革命的気運が濃厚になってい く発展段階における二 ・三の要素によるジンテ

ーゼ, とい う Triaden-Schemaなのであ る。11≒ヽイネのヘーゲル像において も , この定立 ・反

定立 ・綜合と もいえる過程を貫いているとみることができ るかどうか, そこがこの小論の主た

る関心事にな ることはまちがいないが, 一方, ハイネの場合, 文学上の 「時代精神」 との対決

の過程で うまれてきた彼の批評文書の大部分は, 告白的綱領的性格を帯びることが多く , 卜また

新時代の原理の名において論駁するのがな らわしであった。 その意味で , この詩人のヘーゲル

像を辿ることが, 同時にハイネの世界観的ひろがりとふかまりとを , 彼の創作活動のさ まざま

な局面で浮彫にすることができ る, という推測も成 り立つのである。

以下, 個々り場合に立ち入る前に, 若干長 くなるのを厭わずに, ヘーゲル像の全体を可成の

程度象徴的に覆っているハイネの一文を先取して, こ Xに示しておこ うと思 う。 いずれにして

乱 この 『 ドイ ツに関する書簡』 (1844/45) という文章を読むと気付く のであるが, 殆んど同

時期に公表されたマルクスの 『経済 ・哲学 ・手稿』 (1844) の中で , マルクスによって資本と労

働の関係の本質を哲学的に表現するために使用された, 「疎外」 の概念と相通ずる理解をハイ

ネが示してい ることは興味深い。 貧し く て , 無欲な人間にみられる不自然な単純への帰還では

なしに, 豊かな人間と人間らしい豊かな欲求の実現を , ハイネはめざしているからである。

「イデーが宗教を殺 した。 宗教は頭を失なった蝿のように飛びまわっているが ・ ・ ・われわ

れは無神論の修道僧たちを遂にもつ ことになってし まった。 彼らはヴォルテール氏を生きなが

らに火焙 りにするであろ う。 ヴォルテール氏は頑固そのものの理神論者だから。 私は正直に告

白するが, 無神論の狂噪を好かない。 けれどもおどろかされはしない。 ヘーゲルがこの音楽を

作曲した時, 私はヘーゲル先生の蔭に身を潜めていたからである。 と もあれ, 誰にも解読され

ないように, ひど く不明瞭で , くね くねした記号を使用していた一 誰か解読しはしないかと

いう 不安から√へ‥- ゲルが辺ケを心配そう に視廻している様子に√私はお目にかかることが抄

くなかった。 彼は私を大変に可愛がって くれた。 私か彼の言葉を漏らさないことを , 彼は確信

していたからである。 私はあの頃彼のことを奴隷とさえ思っていた。 ある時, 『存在するもの

(現実的なもの) は, すべて理性的だ』 とい う言葉に, 私が仏頂面を していると , 独特な微笑を

浮かべて, 彼はこ う言った 『こ うも言 うことができるで し ょ う , 理性的なものは, すべて必ら

ず存在する (現実的だで), と。』 彼はあたふたと辺 りを視廻した。 けれどもたちまち安心した。

パイ ソ リッヒ ・ベーアしかその言葉を聴いてはいなかったからである。 後になって漸 く , 私は

この語句を理解したの七ある。 だからまた彼が哲学史の中で , 次のように主張した理由も , 後

になって漸 く理解できたのであった。 『死んだひと りの神を説いているのであるから, 確かに

キ リス ト教は ひとつの進歩だ。 と ころが異教の神々は, 死について 理解すると ころがなかっ

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ハイネのヘーゲル像をめぐって 37

だ。 従って , 神とい うものが, 全然実在しな くなってし まった ら, キリス ト教はなんという 進

歩だろ うか/ 私たちは, 或る夕方, 窓辺に立っていた。 そ して私は死者の宿る星について,

熱弁をふるっていた。 だが巨匠はひと り言のように呟いた。 『星は空に光る痘痕に過ぎない』

- 『いやはや』 と私は叫んだ 『すると , あの空には美徳を死後に償って くれる楽しい酒場は

ないのですか ? 』 彼は私をみ くだすように視つめて, 『するとあなたは自分が生前, 義務を果

したこと , たとえば 病気のお母さんの面倒を看た り, 弟さんにひもじい思いを させなかった

り, 論敵に毒を盛らなかったことに, 酒手をも う一枚欲しいというのですね ? 』 ……

……神への信仰を否定することは, 単に道徳的に重要なばかりでな く , 政治的にも重要なの

だ。 たとえば, 大衆はキ リス ト教的忍耐心を抱いて自分たちの地上の惨状を もはや我慢しな く

な り, 地上の幸福を渇望す るようになる。 コムニスムスは, この変化を うけた世界観の当然の

帰結なのである。 そ して コムニスムスは ドイツ全土に拡大する。 プロレタ リアが既存のものに

戦いを挑む うちに, もっと も進歩的な精神, 即ち偉大な学派の哲学者を指導者にいたy く とい

うこと乱 同様に当然の現象なのだ。 これらの指導者は, あらゆる思惟活動の究極の目標であ

る行為へと , 学説から移行する。 そ して綱領を作成する。 それはどのよ うな ものであろ うか ?

私はそれを久し く夢みてきたし , 次のような言葉で , 言い表わしてもぎた。 rわれわれはサソ

キュロッ トにな りた く ない。 下層市民乱 安手な大統領もい らなyヽ 。 われわれは等し く壮麗

で , 等し く 神聖で , 等し く至福を うけた神々の民主々義を建設し よう‥…・』 (けれど乱 当面)

……われわれの真に危険な敵は, あらゆる種類の覆面を して……iuる所で , われわれに忍び寄

って く る, ヨーロッパ貴族の奴隷たちだ。」12)

(2)

ヘーゲルの講義に出席したのが, 1821年 4月以降であることは先に触れた。 この当時のハイ

ネの受講内容は, 法学関係とヘーゲルの哲学以外に乱 ギ リシア文学史で, ピンダロスの抒情

詩, 18世紀史及び フランス革命史 ( ラウマー) などであった。13) 『ルー トヴィ ツヒ ・ マルク ウス

追悼書』 には, ヘーゲルめ講義を傾聴す るハイネを彷彿とさせる箇所がある。

「マルク ウスは医学を修めるために1820年にベルリンにやってきた。 だが間もな く この学問

を放棄して し重った。 そのベル リンで , 私は彼にはじめて出遭ったのだ。 ヘーゲルの講義中

に, 彼は私の隣に席を占めることが多かった。 そしてこの巨匠の言葉を聴きながら筆を走らせ

ていた。 彼は当時22歳であうた。 (ハイネ23歳)」14)

学生生活乱 今のわれわれには羨ましいほどに優雅なものであった。 王立図書館を利用し,

コンサー トや オペラを聴きに出掛け, 社交の場に臨み, 有名コーヒー店や レス トランを楽し

む, といづた生活がハイネの学生生活を彩っていたからである。15)社交といえば, 「この世で仮

にも私を幸福にして くれる婦人は唯ひと りしかいない, それがラーエルなのだ」 とグリノレパル

ツェルを長嘆息せしめ, ゲーテからは 「美しき魂」 として描かれた, ラーエル ・ ファルソハー

ゲソ ・ フ ォン ・エソゼはスケールの大きな才媛であった。 彼女はベル リンの豪商の娘で , 23歳

の夫, カール ・ アウグス トと37歳の時に結婚, 1815年から, ベル リンにサロンを開いた。 この

サ ロンで , ノヽ イ ネはヘーゲルと も漫遁 している。16)

このベル リン生活のなかで, 1822年, 「ユダヤ人文化学術協会」 ( 1819.11.7設立) に参加

した ことか ら, 多くの知人をパイネは得た。 なかでもモーゼス ・ モーザーの影響力V ヘーゲル

との関連の中で考えると , すこぶる大きかった。 彼は当時, 銀行員であったので , 余暇を文学

や学問に う ち込んでいたげれども, ヘーゲルと熱心に取組んでいたからである。17)けれども , 八

イネはい うならば肺易していだ らし t 。ヽ モーザーとおぼしき人物が 『帰郷』 35 (1824) の中に

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38 一 條 正 雄

結晶している。

「ぼ くは悪魔に声をかげてみた, すると悪魔はやってきたので , / ぼく は感にうたれてみつ

めた。 / この悪魔は醜 く もな く , 足も萎えてはいない, / 愛すべき, 魅惑的な男だ, j/ 男の働

き盛 りで , / 実があって, 丁重で , 世故にも長げている。 / 彼は機転の利 く男で , / みごとに

教会と国家とについて語るのだ。 / ち ょっ と顔色が冴えないけれども無理もない, / サンスク

リ ッ トとヘ ーゲルを いつ も手がけているのだか ら。」18) ・

1825年のハイネ受洗を間にはさんで, このモーザーとの交渉は, しばら く途切れる。 けれど

もこの頃のモーザー宛のい くつかの書簡を窺 うと , ハイネはモーザーの熱気から身を加わしな

がら乱 一方では, ヘーゲルの思考方法を身につけていった よ うだ。 22年以来, ハイネが知己

の間柄となった教師, イマ ヌエル ・ ヴォールヴィル宛には, 22年から23年にかけての冬には余

り勉強ができなかった と伝えてはいるものの, その学習内容のひとつに 「ヘーゲルを少し」 と

書き送ってい る (1823.4.7) 19)し , 新詩集 「フ リーデ リーヶ」 第一連では, (学究心と恋心を織りまぜ

て) 「くだ らぬものや薄い紅茶, それに機転の利きすぎる人々に/ あふれたベルリンを去れ,

/ 彼らは神と世界とを , そして彼ら自身が如何なるものか, / ヘーゲルの悟性によって把握し

て久 しいのだ。」20)といっている。 その反面 , モーザーに対 しては,

「君は大急ぎでヘーゲルの論理学をつかんだ ものだから, ぼ く にその中の混乱した箇所を披

露しているのだ」 (1823.5)20とか, 「君らは余 りにイデーにな りすぎている」 (1823.6.18)22) 「君

のヘーゲルは勘弁して欲しい/ 」 (1823.11.28)23) 「予め君にお願い卜てお くけれど乱 ぼく らが

出会って乱 ぼくにヘーゲルの言葉は聴かせないで呉れ給え」 (1824.3.19ゲッティングン)24) など

と書き送 っているか らである。 ‥

このようなモーザーとのやりと りの裏で , ハイネには既に別の視点が, ヘーゲルに対して萌

していた。 『ベル リン便 り』 第二信 (1822.3.16) 及び rポーラン ド論』 (2) (1822晩秋) とにそれ

を読みと るこ とができ る。

「縫馬と羊は, かつて既に話をするこ とができ るようになっていた。 それに彼らの古典文学

を持っていた。 卓越した演説を……羊頭の理念……lこついておこなっていた。 けれども事物の

流転のあとでは, そ うな るのが常なのだが, 彼らは文化の中で再び余 りにも沈下してし まった

ので , 自分たちの言葉を失なって しまい , 単に心情的な 『ヒ ヒ ーソ』 と稚拙で従順な 『メ エ

ー』 と しか, あとには遺らなかった。」29

こ 以こ見 られるグロテスクな フ ィ ヒテ(櫨馬) , ヘーゲル (羊) へのあて こす りが, 当時のハイ

ネの立場からすれば, カソ トにみられるよ うな哲学上の 「革命性」 をヘーゲルに見出せぬ苛立

ちや, ユダヤ人問題でのハイネの実践的活動から得られた物の見方に, そしてヘーゲルを プロ

イセ・ンの御用学者と して排撃する考え, な どに裏打ち されているであろ う。 と もあれ, 沈下し

てい くへ= ケ勺レ像とい う点でいえば,‥ハイ ネのヘヴゲル像の中にあって , -アヴ チ ・テ= ゼにつ

ながっていく要素を含んだ萌芽的文章のひとつとみなすことができる。 同じ年に, ヘーゲル像

のジンテーゼにつながる要素を含んだ文章 も見出されることは注 目に価する。 1820年代を通じ

てのハイネの数多 く の旅行の中で , ポーラ ン ド旅行の結果, 詩人はポーラン ドの農民の生活か

ら, 「自由」 の現実に開眼す ると ころがあ った。 ハイネはポーラン ドの現状を具に眺めた眼で,

ポーラン ドの若者たちが今や ドイ ツを手本 と して学問に立ち向かってお り, ヘーゲル哲学も吸

収し, 哲学革命の段階にあるのをみてと り, 「ぼ くはポーラン ドの, この精神革命に最大の期

待を寄せてい る」26)と表明するのである。

げれど乱 ヘーゲル哲学の根本思想と も考えられるもの, 即ち , 歴史の中を貫 くひとつの法

則的な流れに着目し , この法則を絶対者 ・神の自己実現の過程と して把握する, その思想その

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ハイネのヘーゲル像をめぐって 39

ものへの懐疑的発言がないわけではない, 「生きていることが大切なことなのです……フ ラン

ス革命, ヘーゲル√汽船などは, 神の夢の良き思惟のひとつひとつなのですー で 乱 これは

永続き しないで し ょ う , そして神は目を醒まし , 寝呆け眼を こす り, 微笑するのですー する

と私たちの世界は無に帰します, 否 , 私たちの世界などとい うものは, はじめからなかったの

です。」 (ル ・ グラソの書, 第3章, 1826)27)

ヘーゲルがハイネの内部で , 批判の対象にされるひとつの大きな契機があった。 ハイネのゲ

ーテ体験がそれである。 1824年10月のゲーテ訪問の体験を 報ずる R. ク リスチャーニ宛書簡に

は, この間の経緯がみられる。28)

「ゲーテの外見には, 心底びっ く りさせられました。 顔は黄色 く , ミイ ラのようであ り, 歯

の欠けた口が, 不安そ うに動 く のです。 い うな らば, 容姿全体が人間落潮の図なのです。 おそ

ら く最近の病気の結果なので し ょ う。 た xご, 彼の眼は澄んで輝いていました。」 と , まず直接

的な印象を報じてから, 自分とゲーテとの相違を , 「生を結局は重 くみないで , 理念のために

昂然と生を献じたがる資質」 の有無で説明している。 このイデー, つまり時代精神とは, ヘー

ゲルに負 うものであ り, ヘーゲルを支えに, ゲーテに挑んでいったとみること もあながち不当

ではなかろ う6 ゲーテは ヘ ーゲルの学説を いつ も 回避 していた ので29) (ヘーゲルの, プロイセン

における教育政策に対しては, 賛意を表したけれども30)) , ハイネは, 自己の内部で, 「ゲーテ」 と 「ヘ

ーゲル」 とい う分裂と戦い, 止揚せざるを得なかったことになる。

二 ( 3 )

ヘーゲルは市民的革命の主導的な思想に, 生涯に渉つて拘束を うけていた。 これが彼の学問

体系上の思惟活動の基底であった。31)この構成する心の落着きと思想の調和を備え, 合法的で ,

節操のあヽる人物に, ハイネは接して, この師を ラディカルな不正と偏狭さ とを以って, はずか

しめ否定し去る時期を経ないわけにはいかなかった。 しかし , ヘーゲルを性急に責めることか

ら転じて, この師の教えから肯定的側面を汲みと るだけの思想的ひろが りをみせる時期も , モ

の後に訪れるのではあるが。。「ヘーゲルに泥をかけ」32), ヘーゲルを嘲笑するハイネの言葉を ,

われわれは, 例えば 『ルッカの町』 (1829/30) 第17章にみることができる。

「壁は絶対的なるもの, つま り法則であ り, それ自体存在するものであ り, それは存在する

がゆえに理性的なもので もあるとい うのだ。 だからまた , 最高に理性的で , 反論の余地な く存

在し , かつ強固にされた絶対主義を耐え よう と しないものは, 非理性的であるとい うのだ。 呵

々/ 」33)

ハイネが, 現実的なものは理性的である, とい う命題から, 理性的でないものは現実的でな

い, という対偶命題の奥深い意味に想到するのは, 大分後年のことであった。 ヘーゲルにおい

ては, 絶対者 ・神の本質は自由であり, 従って歴史とは, この自由が実現されていく過程であ

り, 世俗的人間生活の中で , 人間の自由が実現されてい く可能性を , 彼はプロイセンとい う現

実の国家の中にみてと った。 ヘーゲルがまだ存命していた1831年 3月に, ハイネは七月革命を

総括して 『カール ・下ルフ貴族論の序』 を著した。 これは彼のパリ移住直前のことであった。

この短い論文の中で, ハイネはフランス革命と ドイツ哲学史を比較しつ x, ヘーゲルをオルレ

アン大公であった市民王, ルイ ・ フ ィ リ ッ プになぞ らえて , der Orleansder Philosophieと

呼んでいる。

「奇妙であるのは, ライ ンの彼方のわれわれめ隣人たちの実際の営みが, 静安な ドイ ツのわ

れわれの哲学的な夢想と独特の親和力を持っている点だ。 ともかく , フ ランス革命史は, あの

ように多く の実務を果している際に, 徹頭徹尾覚醒した状態を示さなげればな らないので , わ

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40 一 條 正 雄

れわれ ドイ ツ人に, 実務を果す間だけフ ランスのために眼をつぶって夢をみていて欲しい, と

依頼したのだ。 だからわれわれ ドイ ツの哲学は, フ ランス革命の夢に他な らないといえる。 か

くてわれわれは現存のものと伝統を , 思想の帝国内で絶ち切った。 ち ょうどフランス人が社会

とい う領域で , そ う したように。 純粋理性批判のまわ りには, わが哲学上のジャコバン党員が

参集した。 彼 らはその批判に耐え うるもの以外は何ものを も認めなかった。 カソ トはわれわれ

のロベス ピエールであ った。 ……遂にヘ ーゲルが, この哲学界の オルレア ン大公が 新政府を

創設した。 も し くはむしろ組織したのである。 この折衷的な政府の中にあって, ヘーゲル自身

は, もちろんのこと殆んど重きをなさなかった。 だが彼はこの政府の先頭に据え られ, そ こで

彼は, 昔のカ ソ ト流ジャコバン党員やフ ィ ヒテ的ボナパルテ ィス ト, シ ェ リング流上院議員,

それに自派の者たちに, 確固と して合法的な立場を指示したのである。」34)

ハイネは, パリでの1年半余の生活の後に, プロイセン政府の政策の中でヘーゲル哲学の果

した 「役割」 を更にラディカルに表現す る。 『フランスの状態 ・序文』 (1832.12) の中で , ハイ

ネは こ う言 う のであ る。

「このプ ロ イセ ン。/ プ ロイセ ンは臣民の用い方を な ん と よ く 心得てい るこ とか/ このプ

ロイセンは自国の革命家からさえ, 利益をひき出すことができる。 プロイセンの国という喜劇

のために, プ ロイセンはあらゆる色合の端役を必要としている。 プロイセンは三色斑の縞馬さ

え利用するこ とを心得ている。 こ う してプロイセンは, 最近数年間に手飼いのもっ と も狂暴な

煽動家どもを用いて, 全 ドイツがプロイセンの轍を踏まねばな らぬと説いてまわらせた。 ヘー

ゲルは奴隷状態すなわち現状を理性的なものと して正当化せざるを得なかった。」35)

同趣旨の考え方は, ハイネによって 2年後の文章の中で もふた Xび確認されている。 「ヘー

ゲルはベル リンで戴冠式を うけ, 残念な ことに, 少しばか り香油も塗られ, それ以来 ドイツの

哲学界を支配した。」 その同じ文中で , ハイネは 「 ドイツの哲学革命は終った。 ヘーゲルはそ

の大きな環を結んだ。 われわれはそれ以来, 自然哲学の発展と完成とをみるだけである」36)とヘ

ーゲル評価を もおこなっている。 けれど乱 『 ドイツ宗教 ・哲学史考』 第 3部後半で比較され

るシェ リングとヘーゲルの哲学については, 「絶対的なものを知的に直観し よう とい う試みを

もって, シェ リング氏の哲学上の経歴は終る」 とするハイネのシェ リング像の言葉に対応する

ヘーゲル像があいまいである。 汎神論的思想の流れを汲むとい う点では共通するシェ リソダと

ヘーゲルの哲学の, 相違点, 即ち無変化的 ・ 自己同一的な絶対者と 自己実現をはかる絶対者と

いった両者の絶対者のと らえかたの差異にレハイネが関心を寄せていないからであろ うか。 と

まれ, ヘーゲル体系の中では, もっ とも価値なき体系と もいえる自然哲学を , 嘲笑しているか

のような文章を , われわれは既に 『ルッカの町』 第 2章に見出すことができ る。 ハイネは意表

をつ く比喩で , 自然哲学者との対話を記述している。 この文中でぼ, ヘーゲルとシェ リングの

差異す らみ られない。 …… 。‥……………… …… … … ……………… …………㎜ ■ ■ ㎜ ㎜ ■ ㎜ ㎜ ㎜

「『この世に退行をのぞむものはいない』 とぼく に一匹の年とった トカゲが語 り出した, 『一

切が前進を心がけるのだ, 結局, 大規模な自然の前進が生ずるのだ。 石は植物に, 植物は動物

に, 動物は人間に, 人間は神々になるであろ う。』 『で も』 とぼ くは叫んだ。 『一体, なにがこ

の善良な人々から, つまり年とった貧しい神々から生まれて く るでし ょ うか ? 』 『こんな風に

なるで し ょ うな, 君』 と トカゲが答えた。 『彼らはおそ ら く謝絶するか, なにか気高い所作で’

休息の立場に移るで し ょ う。』 ぼ くはこの象形文字のような肌を した自然哲学者から, 更に多

くの秘密を聞知した。 けれども一切漏らさない誓をたて Xしまったのだ。 ぼ くは今や, シェ リ

ングやヘーゲルよ,り多 く のことを理解している。 『この両哲学者については, どのように考え

ているのか ? 』 と , この老 トカゲはぼくに訊ねた。 …… 『結局, この人たちはあなたのよ く ご

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「彼らは哲学を しています , そ していま, カ ソ トを , フ ィ ヒテやヘーゲルを語 ります , 彼ら

は煙草を吸い, ビールを飲みます, 九柱戯をやるものも齢 くあ りません。」

ハイネのヘーゲル像をめぐって 41

存知の同一哲学という同じ学説を教えているのです。 ……ヘーゲルが彼の哲学の原理を提示す

る時には, 腕のいい学校教師があらゆる数を巧妙に寄せ集め ることによって形成するこ とので

きる, あの感じのいい形姿をみたものと思いこまされるのです。 ……けれども よく物を考える

生徒は, その形姿自身のなかに, むしろ深刻な算術問題り答を認めることができます。 …・・・ヘ

ーゲルの抽象的な記号は, ぼ く らにと って , ひど く灰色で 冷た く死んだ よ うに 凝固していま

す。 ……』 …… 『人間は思惟などとい う こ とを していない。 時折念頭に浮かぶこ とを思惟とい

っているだけだ。 シェ リングもヘーゲルも思惟してはいない。 思惟の最高のものは, わが尾の

象形文字に秘められている』。」37)

:L830年の7月革命直前直後の ハイネ書簡のなかで , ハイネは ドイツ的状態への急進的批判

者, 革命のプロパガソダーとしてあらわれてお り, 事実, 35年の連邦議会 「出版禁止令」 は,

公的にハイネが文学上の反対制運動の首領であることを証明した。 けれども , 1840年代初頭の

政治的文学的対決のなかで, ハイネの立場はパラ ドッ クス と してあ らわれ る。38) 「図にのるな。/

/ おかみの前では/ 市長さ まの前では/ おもんぱかりを 忘れるな/ 」39)。 30年代後半のハイネ

は, ドイツの民衆の中のさ まざまな政治的潮流や事件に眼を注ぎ, それらの潮流の否定的側面

と理論的限界とを明らかにす る努力を払 ったが, そのことのあらわれとみな してよかろ う。40)国

粋主義に歪曲された学生組合運動, 1830年以後のリベラ リズム運動の萌芽的組織活動の階級的

妥協, パリにおげる ドイツ人手工業者の急進的な結合などについてである。 パ リの 「懐疑家」

を , 若きエングルスが 「紛れもなき変節漢」41)とみなしたのも, 将にこの頃のハイネの話であろ

う。

ハイネが既に 「新しい船」 に 「新しい仲間」42)と乗 り込んで し まってから, 描かれたハイネの

ヘーゲル像には, プロイセン批判に直結 したヘーゲル批判だけにと yまらず , マルクスがヘー

ゲルの体系構成そのもののもつ嘘偽を 批判したのにも 匹敵するような ヘーゲル像が あらわれ

る。 『冬物語』 第 5章がこのことを示しているといって過言ではなかろ う。

この第5章は, 詩人がライン河に架かる唯一の橋, ライン橋に辿 りついて, 月下の父なるラ

インと13年ぶ りに対面して語 り合 う , とい う筋書になっている。 父な るラインが, ドイツの現

状を嘆いて, 「いまフ ランス人が帰ってきたら, 彼らの前で, わしは顔を赫らめずにはいられ

ないだろ うj と言 う と , 詩人は, 彼らはむかしのフランス人ではもはやな く , ズボンは赤で ,

白ではな く , 歌った りはねだ りしないで , もの思わしげに首を垂れ,

(4)

1842年11月7 日発信のラウベ宛の書簡を読むと , ハイネにひとつの重大な転機が訪れたこと

がうかがわれる。 いわゆるこの 「文学宣言書簡」 の中で , 「ぼく らはプロイセン流の理論をも

てあそんではな らない。 『ハレ年鑑』 や, 『 ライン新聞』 に同調しなげればいけない。 ぼ く らの

政治的共感と社会的反感とを , どこにも隠しだてする必要はない」 と書き送ることによって。

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それに彼らは ドイツ人たち同様に俗物になっていること, もっ と低下してい くであろ う , と父

な るラインを慰めるのである。 そ して この章を , 次のように詩人の立場を明瞭に打ち出すこと

によって結んでいる。 「ご安心下さい, 父なるライン……もっ と よい歌を間もな く聴 く ことが

できまし ょ うから。」43) ∧

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42 一 條 正 雄

ハイネは 「大いなる事柄のためには, あらゆる大きな犠牲を払ってきた」 ことを自負し , 政治

的共感と社会的反感という 「新しい叫び声」 で過去を拭い去ろ うと している。44)

更にも うひとつ, 墳事ではあるが, 触れてお くな らば, ハイネが自己の世界観の展開のひと

つの局面を 自覚したことを間接的に裏づげていると思われるのは, 次のようなハイネの希望で

あろ う。 カ ンペ宛に詩人は1844年4月17日の手紙で , 眼病のこと , 『冬物語』 完成のことを伝

えてから, こ 以 3年来, 物故した友人 ・知人の想出の記を著したいと もち出している。 そして

人物記の人名を数えあげているのである。 そり筆頭がヘーゲルであった。45)

このよ うなハイネを背景にして , 『時事詩』 (1) ドク ト リン, が, 『フ ォアヴェルツ』 誌上に

1844年 7月掲載された。 こ Xでハイネがヘーゲル哲学を乗越えつつ 乱 この哲学について示し

だのは, この哲学がギ リシア彫刻のヘレニズム的な地上の生活を , 政治上の実践的な進歩の信

仰に結びつけているとい う ことであった。 詩人はヘーゲル像を止揚して, 「太鼓を打ち鳴らし

て恐れず, 酒保の女将にはキスを し , 人々を眠 りから打ち醒まし , 若々し く太鼓を打って, た

ゆまず進むのが, ヘーゲル哲学だ」, 46)とい うのである。 「脳みそが抽象氷になってし ま う精神

の北極まで 乱 物と もせずに突き進む人」47)などとい う一面的なヘーゲル像は影を潜めてし まっ

た 。

哲学におけ る伝統的な主体客体関係のなかでは, 主体はその都度の個人的な自我の点てあっ

て, それは点以外のすべてを客体と化してしまう。 自分自身に対して乱 この自我点は主体客

体分裂を適用する。 ヘーゲルはこの自我点を 自意識の形で緊張せしめる絶対精神の中に埋めこ

んで し まったので , この自意識は分裂活動を しつ X, 自意識自体とは無関係の精神世界を うみ

出した。48)マルクスにとって, 個人は自我点ではな く , 社会的本質であったことは, 今更こ Xで

触れるまで もないことである。 既に1834年に, ハイネは ドイツ観念論の流れを嘲 うかのごとき

エピソー ドを記している。 ・ 。 ・ゝ-

「フ ィ ヒテがカ ソ トと意見を異にした時, フ ィ ヒテは次のように印刷させた。 『カ ソ トは己

自身が理解で きないのだ』。 私がいずれにしてもこ Xで触れているのは, わが国の哲学者の滑

稽な一側面である。 彼らは絶えず理解されないことを歎いている。 ヘーゲルが死の床に横だわ

っていた時, 彼は 『唯ひと りの人が, 私の言 う ことを理解して くれた』 と言った。 けれどもそ

う言ってから直ぐに, 彼は不気嫌そ うに付け加えたのである。 『その男は私の言う ことをやは

り理解していなかった。』」49)

ハイネはさ まざまな同時代人との文学上の対決を辞さなかったが, おけて乱 ヘーゲルとの

関連でいえば, A ・ルーゲとの問題を看過することはできない。 ハイネが新時代の原理の名に

おいて , 文学上の対決と論駁を行なった詩人であっだのに対して, A ・ルーゲも時代精神の名

において, 批評の筆陣を張ったので , この両者の徹底的かつ批判的な対決の秋は, どう しても

避けることができなかった。 1844年以降に, つまり, ‥イヽ イネの世界観の展開が決定的となると

共に, その対決も本格化した。 この 「ヘーゲル派の番人」, 「哀れな る勇敢な るルーゲ」50) と八

イネの論争は, いわばヘーゲルの非凡な弟子と平凡な弟子の対決であ り, 観念的自由主義の思

考様式 と唯物論的民主々義のそれとの間の対立をあらわして もいた。 ルーゲはヘーゲルに形式

的に依拠しつつ, ハイネを批判したので , 勢いハイネ乱 自己のヘーゲル像を止揚せざるを得

なかった。 ルーゲは, ハイネのこの世の人間化を , 単に自分の熟知している抽象的観念的な表

象方法からしか理解することはできなかったし , ルーゲカ宍ヽイネの機智と イロニーについて言

及す る場合 , それはヘーゲルにも とづ く ものであった。 ヘーゲルはイ ロニーを き っぱ り と否認

していたし , 機智とイロニーの中に, 空しい自己投影に捉えられた主観の, つまり社会的客観

性と活動性へ と乗 り出してい く ことのできない一精神の, 否定的表現手段をみて と っていた。

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ハイネのヘーゲル像をめぐって 43

これがルーゲのハイネ批判の中心点であった。 われわれは既に , 『時事詩』 (1) ドク ト リンを通

じて, ハイネが師ヘーゲルに, 胸を張って イローニッシュに答えた一例をみている。 またルー

ゲが, ハイネについて , 「理念, 即ち 自由と真理- この昂揚感がハイネの神だ」 と評する場

合, ルーゲの 「自由」 の見解は, 「主体が自己の中に包摂できる最高の内容」 とするヘーゲルの

概 念 に立脚していた。51)ハイネは, はじめから自由を求め る努力を , 根源的で生まれなが

らの権利とみなしていたし , 自由の勝利を , 搾取されたるもの, つま り被抑圧者の政治的行為

なしには考えることができなかった。52) 『ルテーツィア』 附録, 刑務所改革と刑法の立法につい

て (1843.7) には, この点に関連して, ハイネの意見がみられる。

「こ xでまず, いわゆる報復の理論をみよう。 古代の厳格な法律, 報復権のことである。 こ

の権利をわれわれは旧約のモーゼの箇所に, 戦慄すべき素朴な形で見出す。 生には生を , 眼に

は眼を , 歯には歯を。 …… (奇妙なことに, 哲学の世界ではこの古代法がまかり通っている) ……罪

ほろぼしの原理は, ヘーゲルの場合, モーゼの場合 と全然同じ なのだ。 た yモーゼの場合は,

古代的な宿命の概念を胸中に抱いていたのであるが, ヘーゲルは常に近代的な自由の概念に動

かされている。 ヘーゲルの言 う犯人は, 一個の自由な人間なのだ。 犯罪行為自体は自由の行為

なのであって, 行為には, そのかお り当然の話だが, 権利が生ずる。 ……ヘーゲルにみられる

ような近代的な立場にとっては, われわれの状態はしかしなが らまだ余 りにも低すぎるのだ。

それもその筈, ヘーゲルは常に絶対的自由を前提と しているか らだ。 このような自由から, わ

れわれはまだ非常に離れているし, おそ ら くはまだ可成の間, へだたったまxであろ う。」53)

更に, ハイネは 『ルテーツ ィア』 第 2部 (1843.5.6) で Volkwerdung der Freiheit とい う言

葉を使いつつ, 「これまでは, た きぐあち らこち らで人間化したにすぎない自由は, 民衆そのも

のの中へ乱 社会の最下層の中へ乱 入りこんでゆき, そして大衆化しなければならないヱ4)と

述べている。 こり時期に彼は 『アウクスブルク一般新聞』 の通信員となって, 強まる社会主義

運動の中で, 際立って く る 「自由の大衆化」 を興味深 く追究 していたからである。 自由主義

者たちには, 哲学革命を 政治革命の領域へ移し導 く力がない こ とを ハイネは理解するのであ

る。55) 「言葉は肉と化し , 肉は血を流す」56) ものでなければな らないとい うハイネの考えは, こ

のよう な背景から発せ られていた。 国家は, プ ロイセン国家及びその余の当時の ドイ ツに実在

した国家の形姿を と りつ 卜 政治的批判の中心点に位置していた。 ヘーゲルが国家についての

弁証法を解明したのではな く , 神秘化して し まったと断じた時から, マルクスはヘーゲル学派

ではな く なっていた。 ヘーゲルにと って, 国家とい う形では 「抽象的な実体, つま りイデーの

生活史」 以外の何ものも体現されなかった。57) 『ヘーゲルの国法論批判』 にはじ ま り, 「ヘーゲ

ルの弁証法及び哲学一般に対する批判」 へと展開したマルクスの批判活動が, 1843年から1845

年にかけて集中的におこなわれたげれど乱 『ライン新聞』 (1842 1843) 共同執筆が, マルクス

に社会問題を深刻に視つめる力を与えている点は注目されなければな らない。 ち ょ うどハイネ

も, 通信員として 『ルテー・ツィア』 を執筆する過程で, 民衆という, いわば大地に触れて, 歴

史的に発生したい くつかの社会集団0 活々と した対決が潜んでいることに気付き, 巨人アソ ト

イスさなが らに, 新しい展望を抱 く こ とができたからである。

こ う して, この頃のハイネのヘーゲル像には, 積極面と否定的側面 とをふたつなからに踏ま

えた綜合がみうけ られるようになる。

「われわれは公平に告白したい。 かつわれわれが偉大なるヘーゲルに関して犯したのとおな

じ不正と偏狭さ とを もって, ラディ カルな党派はクザソをはずかしめているのだ と。 ヘーゲル

乱 彼の哲学が十分にそして強固に成長しき るまでは, それが国家権力の保護のもとで無事に

成長し, 教会の信仰となんら闘争することのないのを望んだのである ー そしてその精神はき

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44 一 條 正 雄

わめて明徹で , その学説はきわめて リベラルであったにもかかわらず, この人はそれをひど く

陰気で煩項な, 但書の多い形式で表現したので, 単に過去の宗教的党派ばかりでな く , 政治的

党派まで もが, 彼のなかに同盟者を得たと思いこんだ。 たy, その道の消息通のみがこのよう

な誤謬に微笑した。 そ してわれわれは こんにちになって初めで, この微笑を 理解するのであ

る。 あの頃われわれは若 く , 愚かで, 性急で, ヘーゲルを責めるのに急だった。 ち ょ うど最近

フランスの最左翼が, クザソを責めるのに急だったように。」 (1843.6.15)58)

おなじ考えが3年後にも表明されている。

「最悪の検閲は自己の言葉に対する不安であった。 学者たちは以前にも増して, 自分の学問

的な定式で, つまり謂う と ころの学術用語で留保した。 この学術用語を警察の手先は理解でき ´

なかった。 否, 外国語と思うととも斟くなかった。 こんなことで革命的精神が追放されること

があるのだ。 例えば, プロイセンの大臣アルテソシュタ イソがしてし まったのだが, 彼はヘー

ゲルを保護す るほどに高度の理解を してはいなかったの Cある。」59) ヽ

以上で , ハイネのヘーゲル像は, いわば, Hegelsche-Triadeを為して, ひとつの環を とじ

る。 (20年代・30年代・40年代前半, という三つの大まかな時代区分でみれば, ) ヘーゲルの体系から養分

を うけ, その体系を断罪し, その体系を新しい運動への肯定的対決の中で綜合するハイネと,

その世界観の展開のあらましを不充分ではあるが辿った こ とにな る。

ところで, この小論を閉じ る前に, どう しても触れて置かなければな らない点がある。 それ

は, ハイネの, 1849年頃に表面化する動揺と信仰の告白についてなのである。 これはヘーゲル

像の新しい定立となるものであるが, 若干の考察を加えておきたい。

「それは不快な病で, 日夜私を苦しめるのだ。 そ して私の神経組織ばかりでな く , 思想の体

系さえも著し くゆさぶるのだ。 時折, それも脊椎が余 りにもひど く き りき りと痛む時には, 特

に次のよ うな疑念が私の頭を掠める。 果して人間は, 天界に去ったヘーゲル教授が25年前に,

ベル リン大学で請け合って くれたように, ほんと うに二本足の神なのであろ うか。 去年の5月

私はどう しても病臥しなければな らなかった。 そ してそれ以来, 私は二度と床を離れられない

でいる。 こ う している間に, 私は卒直に告白したいのであるが, 私自身にある大きな変化が生

じたのだ。 私はもはや二本足の神ではない。 ルーゲが元気旺盛の日々に, 私を名付げたのとは

違って, 私はもはや 『ゲーテ以後のもっ と も自由な ドイツ人』 ではない。 ……」 (1849. 4. 15 『報

告』)60J

ハイネは, ヘーゲルに乗 り越え られていったシェ リングについて, 同情ある視点を提示 して

いる。 「創始した仕事が完成すれば, 創始者は死ぬ一 でなければ変節する」61) また改宗談義に

触れて, 多 くの自由思想家たちが, 年をとって疲れ肉体的および精神的な力を失ない, もはや

………楽しむことも考えること_もできな くなって改宗していったけれども, それは病理学の範ちゅう

’ に属する事柄, と している。 「二本足の神ではない」 と して, 自己の限界を認め, ヘーゲルと

訣別するハイネを, 今触れたハイネ自身の視点に照 らして眺めること もでき よう。 マルクスの

温いハイネ描写に比較すると, や Xサッパリッ ヒで, 冷えびえ と したものを感じ るき らいがあ

るが, エングルスのマルクス宛書簡は, 力つきたハイネを描写してあます所がない。 :L848年元

且頃と推測されるけれども, 病床のハイネを見舞ったエングルスは, 次のように報じている。

「ハイネは崩れかXつています。 2週間前に彼のと ころへ行ってきました。 彼はペ ッ トの中

で, 神経発作に襲われていました。 昨日, 彼は床を離れたのですが, 惨價たるものです。 彼に

はも う 3歩以上歩け ません。 彼は這 うのです。 壁で身体を支えて, 肘掛椅子からペ ッ トまで,

それからまたペ ッ トから肘掛椅子へと。 そのうえ更に, 彼の家の喧噪が, 彼を狂乱状態に陥し

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入れています。 例えば金切声やハンマーを打つ音などがす るのです。 精神的にも彼は幾分開伜

しています ……」 (1848.1.14)62)

エングルスはハイネを 「崩れかかった」 と判断した。 ハイネは二年後の書簡のなかで, ヘー

ゲルの無神論を放棄し, 聖書の世界へたち戻ったことを報じている。 けれどもこれを読むと,

直ちに浮んでな らないのは, ハイネの次の如き発想である。 「ユダヤの民は精神の民であ り,

彼らが己の原理にたちかえる度毎に, 彼らは壮大にな り, ・……新しい力を獲得する。」63) これが

動的に発動 されれば 『冬物語』 にすらなった。 けれども今の彼にその力はない。

「ぼく の頭は, 絶えず仰臥しているので, また麻酔用阿片を過度に使用しているので, 薄弱

になってい ます。 で も呆け切ってはいません。 ですから, ぼ く の願いは, この頭脳を死ぬまで

45ハイネのヘーゲル像をめぐって

- この死は, この場限りの話ですが, 可成早期に訪れます

(1970.8.27)士

¯ 匹

ある程度の明晰さに保ちたい

というこ とです。 私の今の信心や外見の敬虔な振舞についての噂話は無意味な点が多 く , かつ

悪意が遥かに多量に混入しているのです。 ぼく の宗教感覚には, 大変化など生じたわけでは全

くないのです。 内面の唯一の出来事について, ぼ くは判然と 自覚しつつ報告して構わないので

すが, それはこ ういう点です。 ぼく の宗教上の見解や思想に乱 一種の2月革命が到来したの

です。 その折にぼくは, 実は以前から冷たい間柄になっていた昔の原理の替 りに, 新しい原理

を据えたのです。 この原理もぼ く は同じ よ うに, さほどフ ァナチ ッ クに自己の拠 り所とはして

いません。 この原理によって, ぼく の心的状態が一挙に改変させられるような ことはなかった

のです。 ぼ くは結局, 君に事態を一語ではっき りとさせるな らば, ヘーゲル的神を, 換言すれ

ば, むしろヘーゲルの無神論を放棄し , その替 りに, 真の人格神の ドグマを と り出したので

す。 ……昔のモーゼが燦々と輝いてい ます……」 (1850よ25)64)

ハイネがヘーゲルを挟別し , 旧約の世界に眼をむける外的な らびに内的必然性を, こ Xまで

の彼の発言に沿って同情の念を こめて読みとるこ とは可能であろ う。 けれども, 1854年の冬の

『告白』 の中で, ハイネは 「いかなる哲学者も私が神であるとふたX,び私を説得することはで

きないであろ う。/ 」 と語 り, ヘーゲルでは時代遅れであると しながら, 己は神に帰依 し, 「私

のいっそ う逼かに強情な友マルクス」 に反省をす 1める気でいる。65) こ うなると事態は同情あ

る理解だけではすまされない複雑な要素を胎んで く る。 げれど乱 ひとつはっき りと言 う こと

ができる。 次の文章をどのように読んで 乱 過去に眼を専らむけて語るハイネの姿勢からは,

もはや新時代の原理の名において 働きかけた剣と 焔の詩人の存在を 感じ とるこ とは 困難であ

る。 ヘーゲルとの訣別は, この詩人に と って不可避的に, 時代との決別ともな らざるを得なか

ったとい う表現もゆるされよう。

「おかしなことだ, 私の全生涯を通 じて哲学のあらゆる踊場をさ まよい歩き, 精神のあらゆ

る暴飲乱舞に耽溺し, あ りとあらゆる体系とじ ゃれつき合い, しかも淫蕩な夜のあとのメ ッサ

リーネのよ うに, 遂に心の満たされなかった後にー いま私はあのアンクル ・ トムの立ってい

るのと同じ 立場, つま り聖書の立場に立っている自分を突然見出したのであるから。」66)

乃 が : E . E lster; H . Heines Samtliche W erke. in 7 Bdn. ( Leipzig u. W ien 1890)

:・ F . H irth; H . Heine. Briefe in 6 Bdn. ( M ainz 1957)

A答me池 t名答g

1) G. Mende; Die Geschichte der Philosophie von Hegel bis Marx, in “Das Jahrhundert

Goethes” (NFG in Weimar) S. 156

2) Briefe; Bd. 4 S. 72 und F. Mende; Chronik (Akademie-Vlg. Berlin, 1970) S.22f.

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條 正 雄46

3) W . Victor; Marx und HeineS. 33, und S.43 (LShukow)

4) W erke; Bd. 6 S. 402

5) G. W . F. Hegel SamtlicheWerkeBd. 5 S. 16f (Vlg. von Felix Meiner ‘52)

〈 真下信一 (河出) , 岩崎武雄 (中公) , 訳参照>

6) W . Dietze; JungesDeutschland u. deutscheKlassik S. 52

7) W . Bd. 7 S. 135

8) W . Bd. 7 S. 375

9) G. Mende; a. a. 0 ., S. 148 ‥

10) F. Mende; Heineund Rugein Weimarer Beitr卵e1968-4 S. 804

U ) W . Dietze; a. a. 0 ., S. 71

12 ) H . Kaufmann; H . Heine W erke und Briefe in 10 Bdn. Bd. 7 S. 306f

13) F. Mende; Chronik S. 22f

14) W . Bd. 6 S. 114

15) F. Mellde; Ch o氾k ebd・ レ

:L6) B. Bd. 4 S. 40f

17) B. Bd. 4 S. 51f, und S. 57

18) W . Bd. 1 S. 111f

19) B. Bd. 1 S. 65

20) W . Bd. 1 S. 254f

21ミ) B. Bd. 1. S. 78

22) B. Bd. 1 S. 90

23) B. BdごLS. 12卜

24) B. Bd. I S. 155

25) W . Bd. 7 S. 576

26) W . Bd. 7 S. 205f

27) W . Bd. 3 S. 136

28) B. Bd. 1 S. 210

29) B. Bd. 4 S. 105

30) 岩崎武雄 : 世界の名著ヘーゲル (中公) 29頁

31) G.一Mende; a. a. 0 ., S. 150

32) B. Bd. 2 S. 314

33) W . Bd. 3 S. 425f

34) W . Bd. 7 S. 281f

35) W . Bd. 5 S. 17f

36) W . Bd. 4 Sヽ. 290・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ - - 警 ・ = - - ・ ・ - = r ・ J・ ・- - - - ・ ・ - ・ ・ - | ・ - - ・ ・ ・ - ・ ・- - - ・ - - -・- - ・ - ・- - ・・ ・ - ・ = r - ? r - r ・ ・ r ・ ・ ・・ - - - ♂ - - ・ - s - ・ r - - - ・ - ・- 7 - ・ ・ ・ - ・ - - ・ - ・ ・ ・ - ・ ・ ・ = - - r - ・・ r ・ ・s s ・ ・ ・ ・ ■ ・ ・ ・ ・ - ・ - - ・ ・ - - - ・- - 「

37」 W . Bd. 3 S. 381ff

なお, エルスターによれば, 「何もいわないという約束を した」 という箇所は, シェ リングの秘密主義

を訊刺しているとい う。

38) Vgl. H. Kaufmann; Politisches Gedicht und Klassische Dichtung ( Auf-bau Vlg. 1959) S. 8 19

39) W . Bd. I S. 312 この du は deutscheFreiheit を指している。

40) Vgl. 拙稿 Heinevon 1837 bis1842 (岐大教養部研究報告 Nr. 4 S. 17-26)

41) H. Kaufmann; a. a. 0 . S. 11

たしかに, 1839年 3月のエングルスの手紙に よれば, 彼はハイネを青年 ドイツ派と同一視していた。 け

れども, エングルスは40年代のドイツ ・ジャ コバン主義を克服する過程で, この誤ったハイネ観を訂正

した。 Vgl. Marx, Engels; むber Kunst u. Literatur, (Dietz Vlg. Berlin, 1967) Bd. 2 S. 381。

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und S. 507

42) W . Victor; Marx u. Heine (3. Ausgabe1953) S. 56f

1844. 12. 13 「現在 ドイツの詩人中最大の詩人H ・ハイネがわれわれの戦列に加わった……」

W . Bd. 1 S. 308 Zeitgedicht 10 Lebensfahrt は次 の通 り ,

笑い声と歌 ! 陽光はきらきらゆらゆら

波は楽しい小舟を

揺り動かす。 ぼ くはその小舟に

親し き友らと , うき うきと坐っている。

ハイネのヘーゲル像をめぐって 47

また歌と笑い声一

風は鳴り, 船板はきしむ一

空には最後の星もかき消えてー

ぼ くの心はなんと重苦し く , 故里はなんと遠いことか/

カウフマシは, 「動 く海り姿も, 歓喜と悲歌の調べも, ハイネには久しぶりのもので, 1830年の頃を想

起させるし , このように自ら文学上の反対制派の先頭に立っていた時代へ, 観念的 ・美的にさかのぼる

ことは, ハイネが懐疑家の立場を捨て去ったことを示している」 とい う。

43) W . Bd. 2 S. 440ff 第17連で Fichte ではな しに , Fischteと , エルスタ ー版 も, カ ウフマンの版 も書

かれてい るが, ど う してなのかわか らない。

44) B. Bd. 2 S. 439

45) B. Bd. 2 S. 506 レ

46) W . Bd. 1 S. 301

エルスターは, 1842年としているが, 誤 りでカウフマンは, 1844年 7月20日, パリの 『フォーアヴェル

ツ』 に公表されたことを証明している ( H.Kaufmann: a. a. 0., S. 207)

47) W . Bd. 7 S. 327

48) G. Mende; a. a. 0・, S. 159

49) W . Bd. 4 S. 262 ’

50) W . Bd. 6 S. 52

51) Vgl. F. Mende; a. a. 0・, S. 800, S. 813

52) W . Bd. 7 S. 587

53) W . Bd. 6 S. 428

54) W . Bd. 6 S. 372

55) W . Dietze; a. a. 0., S. 65

56) W . Bd. 6 S. 372f ハイネの場合, 「血を流す」 とは旧約のイタージに由来する 「社会の浄化」 を意味し

た 。

マルクスはヘーゲルの法哲学批判序文の中で,

「批判という武器は, いずれにしても武器のもつ批判の代りにな り得ない。 物質的ゲヴァルトは, 物質

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ぼ くは新しい船に

新しい仲間と乗 り込んだ。 見知らぬ潮が

ぼ くをあち らこち らへと波間に揺った。

故里はたんと遠 くに/ ぼ く の心はなんと重苦しいこ とか/

小舟は粉微塵に くだけた。

友らは泳ぎが不得手だった。

彼らは沈んだ, 祖国で。

ぼくをセースの岸辺にうちあげたのは, 嵐だった。

Page 15: Title ハイネのヘーゲル像をめぐって : Heine und …...Title ハイネのヘーゲル像をめぐって : Heine und sein Hegel-Bild Author(s) 一條, 正雄 Citation [岐阜大学教養部研究報告]

一 條 正 雄48

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〔附記〕 本稿のあらましは, 日本独文学会東海支部研究発表会 (1970. 12,ユ2) において口頭発表された。

的ゲヴァル トによって打倒されなければならない。 ただ, 理論も, その理論を大衆が把握するや, 物質

的ゲヴァル トになるのだ」 といっているとい う。 ( H. Kaufmaun; a. a. 0., S. 207)

57) G. Mende; a. a. 0., S. 152

58) W . Bd. 6 S. 411f

59) H. Kaufmann; Werkeu BriefeBd. 3 S. 603

60) B. Bd. 3 S. 169f

61) W . Bd. 4 S. 288f

62) Engels Brief an Marx (1848. 1. 14) Marx/ Engels; a. a. 0., S. 235

63) W . Bd. 7 S. 123

64) B. Bd. 3 S. 194f ( Brief an H. Laube)

65) W . Bd. 6 S. 47一一53

66) W . Bd. 6 S. 54