title 幕末に於ける海軍の創設 史林 (1922), 7(2): 240...

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Title <雜纂>幕末に於ける海軍の創設 Author(s) 古田, 良一 Citation 史林 (1922), 7(2): 240-252 Issue Date 1922-04-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_7_240 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 幕末に於ける海軍の創設

    Author(s) 古田, 良一

    Citation 史林 (1922), 7(2): 240-252

    Issue Date 1922-04-01

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_7_240

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  •    第七巻 維纂 幕末に於けろ海軍の創…設

     日早朝御幸、以五百八十鯨蝋持齋儒、轄讃一切

     経念願、十二H大法愈、叡尊奉講讃一切経、十

     三R不幸一切経絡功

    ビいふ。露駅古値下に當って貸出上皇、宇多天皇が

    御親蕊あらせられ、漁民上下三って熟濤をこめた

           第二號   六入 (二四〇)

    こごは今夏説くまでもないが、本書がこれに關す

    る史實を傳へてるる黙でも亦認むべきである。な

    ほ叡奪が魑山上皇の御蔭顧を篤くしたこごについ

    ても言及せねばなら濾が、直接蒙・盲襲來に關係し

    ないからこ、には省略に從ふこご、するQ

    幕末に於ける海軍の創設

     安永天明の頃より邦人の海外に、關する知見廣ま

    り、露西亜の西伯利亜経畳進むに從ひて我北邊に

    迫るの勢漸く顯著こなりしを知るや、海防を論ず

    る表相次いで出でたり。林子不は『海嶺兵談』を著

    して、日本は海國なる故に海防の策を講せざるべ

    文學士 古  田

    からざるこご、それがためには軍艦、大砲及び砲

    毫の三者が相侯って襲達せざるべからざる所、を

    説けり。其所論の系統的科學的なるこごは子単の

    識見を示すものなりε錐、海軍術の實際的智識に

    至りては頗る幼稚にして、殊に製艦の智識に於て

    は殆ざ見るに足るものなし。子李の後に出でたる

    海防論も、大砲に間するもの多くして、軍艦を造

  • みこと、或は海軍を興こすこご等に悪し論ずるも

    の少し。尤も本多利明の如きは大船建逡の要を力

    説しπれごも、こは主こして経今上の見地に立て

    るものなbQ然るに寛政年中に至ゆ、古賀精里始

    めて七人を用ゐ蘭艦を模して大仁を襲う、海軍を・

    ・興こすべきを論せり。帥ち精霊は露艦の堅牢なる

    こごを言ひて、水戦を講…習せんご欲せば先づ艦船

    を改造せざるべからすご述べ、寛永の大船建造の

    禁は今の世にありて墨守すべきの法にあらざるを

    論じ、其建造に就きては蘭船のあるあれば取りて

    以て法となすを得べく、詳ならざるこεは蘭入に

    問ひ、建造成らば海上に於て之を試み、將軍亦四

    時海上を往凍して監嬉し、以て天下をして將軍の

    頃刻も戦備を忘れざるを知り、各自競ひ勤めしむ

    べしε言ひ、又輕聖なる皮船を造るべきこご等を

       (一)

    も言へり。蓋しこれ洋式軍艦建造論の礪矢ご見る

     べく、其後天保九年墨黒の子飼庵『海防臆測』二懇

       第七巻  雑纂  幕末に於ける海軍の創設

    を著して,また詳細に論ずる所ありき。寸書は全

    部五十六條より成り、其論頗る多岐に亘りたるも

    のなれざも、其中に於て、遽に船艦を改造して海

    防を修すべく、それがπめには二人をして其長ず

    る所を盤さしめ、費用を惜ます支出すべきを言ひ

    又これ租宗の定めたる法に背くが如くなれざも、

    大船建造の禁は畢寛邪敷を拒ぐがために過ぎず、

    今時事大に墾じπれば、これを改むるも決して租

    宗の意に戻るものにあらす、但し異敷を禁ずるの

    法は嚴にせざるべからす等のこごを論せり。天保

    十三年十一月佐久間象山電燈書して八策を督し、

    第五に穿て、「洋製に倣ひ戦艦を造り專ら水軍を練

    る事」を言ひしが、尋で更に上書して大砲及び軍

    艦製造の最も急務なる所以を述べ、軍艦を造るこ

    ごは夢解に於てせば却って入費多きによウ、蘭人

    に命じて二十艘程買上ぐるをよしごす、叉和蘭よ

    り水軍の法に鍛練せる者、測量に長じ船を扱ふ者

           第ご號   六九 (二四一)

  •    第七谷  維 纂  幕宋に於ける海軍の創…設

    等二十人、.船大工二十入、大小の鐵砲を造る職人

    並に陸戦の陣法に習へる者五人ばかり召呼ばれ、

    旗本家入の内を以て水軍歎十隊を編成し、船持の

    大名よりも家來を出して操練を學ばしめ、船艦製

    作を大工に學ばしめ、大砲逡法は諸藩より人を選

               (二)

    びて學ばしむべしざ言へb。師ち海軍の操練よb

    ,造船製重量のこごに至るまで、難事を師εして我

    國にて新に畏むべきこざを言へるものにして、此

    等は其後時を経るに從ひ漸次實現せら妙πる所な

    り。嘉永二年に至り江川太郎慨嘆門亦建議して堅

    實の軍船を建造すべきを言ひ、不時はこの船を以

                  (三)

    て廻米御用に充つべしご述べだり。幕府は四園の

    欺勢に促され、庭々に砲毫を築造して外艦の來航

    に備ふる所あり、嘉永六年六月ペリーの渡來に驚

    き.徳川齊昭に命じて幕議t便せしめしに齊昭は

    七月『海防愚存』を草して提出し、戦艦を和蘭より

    購入し廻米輸邊にも用みるべきこご、大名にも員

           策二號    ,七〇 (二四二)

    数を限う軍艦を造らしめ、爾國諸侯の墾甥交代も

                  (四)

    海路によらしむべきこ蓬等を減せりQかくの如一

    戦艦建造の必要は當時一般に認めらる、所ごなり

    しかば、老中阿部伊勢守は此年入月二十六日大舶

    建造の禁を解くに就き法命の交面を如何にすべき

    かに醜し林大.學頭に諮問し,絡に九月議を定めて

    解禁の命を照し、又和蘭政府に向ひて軍艦汽船等

           (五)

    の購入を求めたり。斯く票府は海軍を興こすの意

    を決したれこも、其乗組員養成の法に就きては未

    だ定まる風なかりしが、墾安政元年長崎に入港せ

    る蘭艦の艦特次官プアビウスの意見により、長崎

    傳習のこざ始れり。

     當時長崎駐在の和蘭甲比丹ドンク川・キユ川チ

    ウスは、これよりさき幕府に建言して海外の歌勢

    を説く所ありしが、今船艦購入の要求あるや、之

  • を本國政府に蓮達せしも、クソム戦役の淀め和蘭

    は船艦を入手するを得ざりしかば、安政元年七月

    瓜畦都督の車船長崎に入港せし時、キユルチウス

    は書を愚論奉行に黙りて、都督より傳達の旨を達

    し、養分船艦を邊致し難き事情を述べ、且つ先づ

    蒸汽船運韓の術を傳平するπめ人員を派遣したき

    由を告げたり。之に慨し幕府は閏七月九日を以て

    海軍傳習のこごに就きキユルチゥスに諮問し、キ

    ユルチウスは之を蘭艦スームビングの艦将次官フ

    ァビウスに問A似せたれば、プアビウスは璽十日極

    めて精細なる答辮書を差出も、キユルチウスを経

    て長嫡奉行に申達せり。書中プアゼウスは、海軍

    傳習には士官の敷師数人を要するこご、傳干すべ

    き學科は地理學、窮理學、星學、測量學、機醐學

    按針學、船打建方學、砲術學、興他軍用武備關係

    の學にして、成るべく一難一人の師を要するこご

    相懸の執行人を選びて傳習に堕する事務を取扱は

       第七巻  雑 纂  幕宋に於けろ海軍の創鍛

    しむる二ε、教師に自由を輿へ物質上の待遇も相

    慮にするこご、船渠建設の要あるこご等を説き、

    予想習準備ごして蘭語に習熟し概かざるべからざ

            (六)

    る所以をも述べたり。此建白は頗る幕府を動かし

    たるもの、如く、絡に義人を聰℃て傳習を受くる

    二ご・なれり。蘭艦は九月五日長崎を去りしが、其

    滞泊中、佐賀藩は数人の藩士を遣して黒蓋せしめ

    又藩主閑璽公自ら來りてスームビングに乗込み、

                  (七)

    海軍踏張に就き艦將に問ふ所ありきQ

     安政二年六月繭艦著た長崎に來りしが、これよ

    りさき幕府…の軍艦を求むるの情頗る切なるものあ

    めしかば、和蘭は此時スームビングを幕府に献ぜ

               (入)

    り。これ後に所謂寿光九なり。皇に継てアビウス

    は傳岩瀬師こして士官水夫等二十二人を残し量黛

    幕府に告ぐるに.激師の給料は和蘭政府よも支彿

    へざも、黒地は物債高きにより増給せざるべから

    ざれば、増給分だけ幕府より支彿はれたきこご、

           第ご號  七一 (二四三)

  •    第七巻  雑 纂  幕末に於ける海軍の測設

    叉一旦定めたる傳習生を中途にて墾せざるやうせ

               ハ九)

    られたきこビ等を以てせり〇七月二十九日幕府は

    勝麟太郎(安房)・矢田堀景藏・型持亨次郎を始め数・

    十人を傳習生こし、水夫は讃岐掩飽島の者よb募

                  (心○)

    り、永留立弓頭をして湖辺たらしむQ立蕃頭は入

    参宮習に擁し意見書を提出し、敷帥の給料は全部

    本邦にて支佛ふやうにすべきこご、傳習費用εし

    て差當り五千爾を支出せられんこご等を述べ、承

       (=)

    認を得たり。同月傳習生は】牢は陸路、 一牢は海

    路にて江戸を登し.長崎に向ふべきの命を受けしが

    此時鹿児島・熊本・薦岡・萩・佐賀・津二服山・掛川等

               (}二㌧

    の諸藩よりも傳習生を出せりQ

     傅野駈は西役所を以て之に充て、玄蕃頭亦弓隠

    に住す。医師は和蘭海兵指揮無尽一等士官ペルス

    レイヶン以下二十二人にして、俸給一グ年金三千

    三十四爾銀四十臼なり。敷授時問は午前入時より

    正午迄ご、午後一時より四時迄ごにして、時々艦内

          第二號   七二 (二野四)

    にて實地演習をなす。學科はすべて暗記せしめ筆

    記を許さす、.言語通ぜざるにより通馬官数名めれ

    ざも、彼我互に隔靴掻痒の戚ありて大に苦み、二

    三ケ月を経て少しく前途に希望あるを畳えたりご

    云ふ。安政一二年正月玄蕃頭は、造船聖地演習のた

    め長崎に鋳てコット川船二塁を建造すべきを建議

    し、豫鋒二千爾にてなすべきの義倉を得、一年鯨

    にして成れり。此造畢は安政元年伊豆戸田に於け

    る露艦建造ご共に、我造船技術の進歩に貢献せし

    こε大なるべしQ六月前年凍の傳習入用を取調べ

    先づ大凡一ヶ月二百四ナ爾を要する旨上申せしか

    ば、初めに交付せられπる五千爾を費清したる後

    は、其見積にて長崎奉行ご談合し取計ふべきの命

     (;一)

    あり。十月老中阿部伊勢守は、長崎にては從來の

    因襲もあb、風習生に於ても露心を生する者あり

    て、十分なる修業をなし難く、特に航海術は一層

    習得に困難なれば、年少燈健の者を選び、総督之

  • を引志して総堀に航海しては如何この旨を海防掛

               (一四㌧        曾

    に諮問せしも、其結果明ならす。十月玄蕃頭は、

    莫大の経費にて傳習ななさんより、早上生を海外

    に派遣すべきを建言せしも,これ亦直ちに探用せ

           (一五)

    らる、には至らざりき。安政四年春に至b傳習の

    業進みしかば、江戸に海軍操練所を設けんごの議

    起り、立蕃頭は興醒九に乗じ、矢田比熱写影乗組

    員こなりて、三月四日出帆、二十⊥ハ日齢府し、第

    一回傳習曇りしが、勝安芳其他四五名は居獲bて

    敷師の醤選り、秦 繭欝蒙り新敷師到

    るに際し盤力する所ありき。

               ハ

     立詰頭去りて後は暫時岡部駿河守傳習取締の任

    に當りしが、五日江戸より木村圖書頭携りて之に

    代れりQ入月五日嘗て和蘭に依頼して建造せる軍

    艦ヤッメン轍部轍鋤入津し、新敏師乗組み駈れり。

    郎ち指揮役ヵッテンデイク以下三十七人にして、

    彼の本郵轡學に貢献多き軍醤ボムペの如き亦此中

       第七谷 雑纂 幕末に於ける海軍の劔設

    にあり。九月十六日奮敷師商船に便乗して長崎を

    去る。早月江戸より第二回傳習生二十六入來り、

    前より引回き留れる者之に加はりて、新に傳習開

    始せられ、翌五年五月には和蘭にて建造せる朝陽

    九の入津もありて、傳習に一層の便を得遣りしが、

    やがて米國ビ池商假條約締結こなり、國内紛糾し

    人心葉群、且つ長崎には外艦の絶えず入港するあ

    りて、大に二戸を妨げたれば、絡に安政六年二月

    中券命ありて・酷等も醤せ曝

     かくの如くにして長蜷海軍傳習は四年に満たす

    して中止せちれたれこも、其成績の艮好なりしこ

    ごは、萬延元年成臨九の外人のカを籍らすして米

    國に渡航するを得たるによりても知るべぐ、又文

    久二年軍艦乗組員養成方法に着する幕府の諮問に

                       二八)

    濁し件鐵太郎の答串せる所によりても明にして、

    勝安芳を始め、榎本武揚。川村純晶幾・佐野常民等皆

    此時に養成せられたるなり。

           節二號   七三 (二四飯)

  •    弟七巻  維 纂  幕宋に於けろ海軍の飼設

     傳習ご同時に蒸汽器械の仕替並に手入等の必要

    上、製勝継を設一るこざ、なり、玄蕃頭より幕府

    に上嘱して諸機械を和蘭に求め、安政四年其著す

    るを待って、稻佐郷雲之浦の地を相して、同年十月

    起工し、機仕方士官ハルデス工事を督し、文久元

          (.一九)

    年四月竣工せり。佐賀藩に於ても亦製鐵所を越さ

    んごして機械を和蘭に註文し、到著したりしが、

    据附をなして事業を開始する費用なかbしだめ、

            (二〇)

    其儘幕府に獄上せり。

     安政五年井伊大老の專断にて米國この間に假確

    約締結せられてより、國論沸騰し音無を唱ふる者

    多く、文久年間に至り極込に達し、其爲め京師に

    近き揚海の防備を嚴にするの論盛ざなりて、文久

    三年三月將軍家茂入朝し、孝明天皇賀茂・石清水

    に幸して擾夷を所b給ふに及び、諸藩の録海防備

           第 二 號    七四  (二四山ハ)

    に關し建言する者相無げり。殊に長州藩の如きは

    姉小路公知及び三條實美により蝦海守衛十ニケ條

    を陳し、以て幕府を督責せんこせりQ其所謂十二「

    ヶ條は頗る大規模にして到底實行に難きものなれ

    ざ、長州藩は其外にも兵庫港に海軍局を建設して

    環海戦守の策を確立し、造艦製鐵の事も兵庫にて

           (一=)

    なさんこごを圭適せりQ四月將軍黒海を巡親せん

    がため蒐ニナ一日京都を出塾し、途中石清水を舞

    して大阪に至う、二十三日順翻意に乗じて海に津

    び、兵庫和田岬に上陸し、又轄じて紳戸小野濱に

    至りて床几を据ゑ附近を親察せしが、其東滋の任

    に當りしは、振海の要地に砲蔓築造の用務を帯び

    て此地に在りし勝安芳にて、此時安芳は紳戸に海

    軍操練所を建設するの議を上りしに、直ちに特軍

          (二二)

    の容る\所ごなる。総軍は蹄京の後、五月十入日

    を以て搬海防備に關し朝廷に奏上し.申に兵庫附

    近の施設全からざるを以て、和田岬始め要地に砲

  • 憂を築造し、又海軍所を建設せんごするの企圖あ

             (ニコ一)・

    る一覧のこごを述べたり。

     かくて群民防備の必要よりして、兵庫の束なる・

    紳戸村に海軍操練所を建設するこご、なれレ。此

    操練所は或は海軍所、海軍螢、海軍局、操練局等

    種々の名にて呼ばるれごも.安芳は之を以て輩な

    る操練所こなさす、進んで海軍管即ち今の舟守府

    の如きものごなさんごするの意ありしこεは、當

    時亀山守衛の説器物だるに偉し、安芳の「宜しく

    其視模を大にし、海軍を振張し、難所を兵庫謝馬

    に設け、其一を朝鮮に置き、絡に支那に及ぼし、

    三國合從連衡して、西洋諸國に抗すべし。」との意

              (二四)

    見を撫せしによりて察せらる。將軍巡観の璽日帥

    ち四月二十四日、幕府は安芳に紳戸村海軍所造艦

    野景取零御用井娠海防禦向御用を命じ、同時に安

    芳及び津田近江守、松手勘太郎の三入に命じて其

                  (二五)

    入費#に絶圖に就き調査をなさしめ、二十七日入

       第七巻  雑 纂  幕末に於ける海軍0,創霰

                   (二六)

    用こして年々金三千爾を渡すべきを達し、五月長

    崎製鐵所を紳戸操練所の附愚たらしめ、⊥ハ月安芳

    に操練所造馬丁等の役員の入選を命じたり。翌元

    治元年二月、安芳は京都に於て老中水野和泉守に

    紳戸操練所の外周土手を除くの外全部竣工した乃

    を告げ、其役員を推薦し、感光九・黒龍九を融戸附

    ごせんこごを乞ひ、叉兵庫鷹取山の淡坑を操練局

    附屡ざし、産炭の一部分をば諸家の蒸汽船に責渡

    し、悪質の石炭は之を近村の擁釜に佛下げ、其利.

    盆を以て海軍の入費に充當せんこご等を述べしに

    三月に至り峯ね聴許せられ、且つ安芳の夙に希望

    したる朝鮮・上海・墨東方面への練習航海をも許可

    せられたり。五月撃砕再び大阪近傍海濱を巡覧し

    安芳亦属甘して紳日ノに到り、門地を写せす康く入

    材を募り海軍の術を習得せしめんこごを乞ひて嘉

    納せらる。是に撃て同月二十一日幕府令して、「今

    度海軍術大に被爲興、概州紳戸村え操練所望取建

           第ご號   七五 (二四七)

  •    第七巻 .維 纂  幕末に於けろ海軍の趨設

    に相成候に尉、京阪奈良堺伏見に住居之御旗本御

    家人子弟厄介は勿論、四百九州中國入溝家々來に

    至る迄、有志之者は罷出修行いたし、尤業前熟達

    之者は御雇又は出鼻等にも可被仰付訪問.委細之

    }義は勝姜房守可被承含候。しご言へり〇六月安芳は

    飛海要庭に築造せらる、砲豪を操練断生徒をして

    防守せしむるこご、操練所生徒寄宿のこご等に開

                    (二七)

    し意見を提出し、七月十五日認許を得πり。然る

    に此時諸方より融戸に來集する者甚だ多かりしか

    ば、幕府の有司其絡に制御し難き程の多入数に至

    らんこεを恐れ、之を担まんこするの情あり。殊

    に七月蛤門の鍵ありてより、安芳は其門下に薩長

    等の諸藩士ありしがため幕府の嫌疑を蒙り、十一

                    (二八)

    月江戸に召喚せられて其職を免せられ、加之長州

    毎伐のこざ新に天下の大問題ごなるに及び、銅盤

    防備も亦臼ら忽諸に附せられたれば、翌慶癒元年

    三月九日を以て途に操練所は磨止せらる、に至れ

          第二號   七六 (二四八)

    (二九)

    bb

     かくの如くにして二戸海軍操練所は開所以來一

    年に満たすして磨出の已むなきに露せしが、明治

    時代の海軍将帥にして嘗て此庭.に學びしもの少か

    らざbきご云ふ。

     襲に長崎に於ける第一回傳習終りて安政四年三

    月玄蕃頭等江戸に館るや、四月軍艦敢授駈を築地

    講武所内に戴き、旗本家人諸藩士等をして槻光九

    にて操練を學ばしむ乃こご\し、玄蕃頭を総督に

    矢田導爆藏を激授方頭取に任じ、長崎にて傳習を

    受けし者の中より敷授方、同手傳を程命し、稽古

              (読○)

    規則を定めて事に從ひしが、同六年正月講武駈は

    小川町に移注し、築地の方は專ら軍艦操練所に充

          (一一ご)

    つるこご・なる.交久二年閏八月小普請紐及び㍉

    同組支配の者こ百除人を軍艦奉行支配蓬なし、

  • 尋で海軍奉行並支配に移し、其無量の手績を定

    (三二)                       (三三)

    め、又海陸二軍将士の敷育に就き軍制掛に諮問し

    或は外國に註文せる軍艦竣功後の乗組員を如何に

    して養成すべきかを矢田堀景藏・件鐵太郎・肥田濱

           (三ん)

    五郎等に諮問する等、軍備充實に意を用みる所多

    し。十二月海陸二軍將士階級順序を定め、西洋諸

    國の組織に倣ひて、総裁副総裁以下の階級を作れ

    (三五)

    りQ豊年幕府は軍艦三隻の建造を米國に註文し、

    同時に留笹生を米國に派遣するこご、ぜしが、時

    恰も南北戦孚中にて、米國は他國の註交に題する

    の暇なかりしかば、翌年改めて一隻を和蘭に註文

    し、留學生をも和蘭に遣すこご・なし、榎本武揚

    等十六人之に選ばれ、六月出登し、 一年にして彼

       (三六)

    地に着す。

     かく長崎転借以來此頃に至る迄は幕府の主こし

    て依頼せるは和蘭なりしが、元治慶態の頃より佛

    國に親しむに至り、陸軍傳習にも佛終着師を聰し

       錨三園  雑 纂  慈末に於ける海軍の創設

    叉牢人技師を招きて横濱及び横須賀に製鐵所造船

    所等を設け、海軍にありても亦三鷹二年正月四日

    より横濱に於て佛國海軍士官パリー等四人を敷師

                     (三七)

    こして傳習を受け、四月中旬に●至りて止む。これ

    幕府の佛國に依頼するこご多かりしに劃し、各國

    公使問に物議を生せしによるが如く、絡に海軍の

               (三八)

    みは英國に託するこご、なり、此年七八月の交閣

    老の書翰を添へ、受壷手墨書を酷悪公使に交付せ

    り。然るに三年五月、嚢に和蘭に註文せる軍艦開

    陽九横濱に入港し、留學生の大宇露朝するご共に

    同國よb敷師十三名望りしかば、五月十九日英國

    公使の抗議に遭ひ、絡に安芳の盤力によりて和蘭

    五師の方を断るこご、なれう。暴説敷師トレシー

    等は九月二十七日横濱に着し、築地の傳習所地内

    に更に激越及び生徒室等を堰饗し、年少子弟を募

    りて盛大に行はんこせしも、畏服已に幕府の頽勢

    挽回し難く、漸くにして慶慮四年(明治元年)正

           第二號、  七七 (二四九)

  •    第七巻  維纂  幕末に於ける海軍の勧設

    月五日より傳習を開始せしも、やがて征束の軍学.

    都を坐せしかば、二月十二日英國公使は局外中立

    のため豊野を中止すべきを盤朋して敷師横濱に去

    り、安芳は公使に計わ、}レシーに面些して解約

                  (三九)

    を乞ひ、敷師承諾して國に憐れり。

     抑々徳川氏の末葉紛回せる時勢に逸り、幕府が

    .周匝の朕勢に促されてなしたる種々の事業又は改

    革の中には、明治時代の鱗毛ご見微すべきもの頗

    る多く、我文化猶達の上に看過すべからざるもの

    なれざも、而も從來多く注意せられざりき。近時

    漸く之に注目せらる、に至りしも、未だ其研究十

    分ならす。土述の海軍創設のこごも、亦幕府のな

    せし事業中の重要なるもの\~にして、實に維新

    以後我海軍獲達の基礎は此時に作られたるものご

    云ふべし。.

           第二魏   晶帯 (二五〇)

     今幕府のなせし所を概塾するに、或は賜政の閣

    係よb、或は内外の事情により、已むを得ざるこ

    ご、は云へ、其方針の常に動揺を免れざりしは惜

    むべきこごなり。其傳習を託するに馨りても、或

    は蘭人、或は佛入、或は英人等一定せざ.りしがた

    め、其結果の見るべきもの亦比較的少かりしなら

    ん。且つ榊戸海軍操練所の如き、開所以來一年に

    満たすして閉餓し、徒に國努を塞費したるのみに

    終れり。されば幕府の大に期する所ありし海軍の

    創設む、さまで数果を暴ぐるを得ざりしかざも、

    少くごも我國に洋式の海軍操練の法を入れ、艦隊

    編成の端を開きしの功は没すべからざるものな

    り。

     予の本丸を草するや、資料の蒐集十分なむす、

    殊に本邦側の資料のみならす、外表側のものをも

    塗照するの必要あるべきに、それに及ぶの暇なか

    うしは自ら遺憾こする駈なり。且つ海軍のこざた

  • る、輩に幕府のなせしのみにあらすして、諸藩に

    於ても霊力を霊せしもの多し。それらの中にて佐

    賀藩の如きは『佐賀藩海軍史』の著あれば、それに

    基きて本丈中に略多少言及したる所あれざも、爾

    鯨の諸藩に至りては、資料を得おの難きが旋め、

    全く知るを得す。これらは他日資料を得るに、從ひ

    補訂する所あるべし。術本文を草するに當)、原

    博士より示激を得たるこご多し◎記して謝意を表

    す。 

    (一)古賀精里、海軍建設の上書(蔭幕府、第}.悪第

       五號)

     (二).勝安芳、陸軍歴史、雀+三。徳川三百年実、下

       巻。

     (三)陸軍歴史、巻十四。

     (四)同工旧、巻十六〇

     (五)嗣上。勝安芳、開國起原、巻下、}二六四頁。

       讐盗賀藩海軍史,四九一五〇頁。

     ( あハ・)勝由女鰍万、㌦栂軍歴【巾玉、巻一二。

       第七谷  雑 纂  幕末に於けろ海軍の創設

    (七)佐賀藩海軍奥、六ニー六八頁。

    (八)同書、七三頁。海軍勝算、巻三、四Q

    (九)海軍歴史、巻三、四。・

    (一

    Z)同書、二五。

    (一一)同書、巻三。

    (日二)同書、三五。

    (一三)同書、三二、五。

    (一四)開國起原、巻下む一ご】こ三頁。

    (一五)海軍歴史、二五σ

    (一

    Z)隔詞卜 o

    (蝋

    オ)同上。

    (一八)同書、巻七、十四。

    (一九)同上回、谷六Q

    (二〇)佐賀藩海軍史、三九〇頁α

    (二一)藤井甚太郎、搬梅防備史(囁津郷土史論)。

    (ニニ)海舟日誌、文久三年四月二十日乃至二十三日の

      條。海軍螢碑文。

    (二三)耀海防好字。

    (二四)海舟秘書、乾し

           第二號   七九 (二五デ)

                 触晒

  •   第七「巻  雑 纂  幕末に於けろ海軍の創設

    (二五)海軍歴史、巻十七。

    (二六)海舟日誌、文久三年四月二十七日の條。

    (二七)海軍歴史、巻十七。

    (二八)同上。海舟秘書、乾。

    (二九) 日本由教育巾蚕頁料、第七鳳朋、 六八七頁O

    (三〇)海軍歴史、巻五。

    (ご=).海軍歴史、巻+九。

    (三二)海軍歴史、巻十四。

    (三三)陸軍歴奥、巻二十。

    (三四)海軍歴史、巻十四。

    (三五)陸軍歴実、巻二十。

    (二六)海軍履厭中ん、巻二十ムニO

    (三七)同書、巻十八。

    (三八)陸軍歴実、巻二十六G

    (三九)海軍歴史、巻十九、二十三α揖東正彦、海舟言

      行録、一五五頁。

    第二號

    入○ (二五二)