a study of the term you-rang in wang wai s poetry

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011) 122 A Study of the Term “You-rang” in Wang Wai’s Poetry Hideko SAIGUSA *1 Synopsis This paper reports a verication study of the Chinese word “you-rang” in Tao Yuanming’s poetry. It was used to express a sense of a relaxed or dreamy mind which was compared with subsequent examples of Wang Wei’s poems. In this paper Wang Wei’s “you-rang” is carefully considered to have been affected by Tao Yuanming. The purpose of the study is to clarify by an analysis of his literary works the change in the meaning of “you-rang.” Previously several studies compared the poet’s poems with those in the same period of Tao Yuanming’s “you-rang.” Despite these studies, no comparison has been made with the later one. Therefore, this paper establishes a new comparative method in the study of Chinese poetry. The research revealed that Wang Wei was one of the poets affected by Tao Yuanming; however, regardless of the use of “you-rang,” it was not inuenced by Tao Yuanming. Key words Wang Wei, Tao Yuanming, Tang dynasty, Liuchao era *1 Faculty of Liberal Arts Nihonbashi Gakkan University NIHONBASHI GAKKAN UNIVERSITY Bulletin No.10 Nihonbashi Gakkan University NII-Electronic Library Service

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011)122

A Study of the Term “You-rang” in Wang Wai’s Poetry

Hideko SAIGUSA *1 Synopsis

This paper reports a verifi cation study of the Chinese word “you-rang” in Tao Yuanming’s poetry. It was used to express a sense of a relaxed or dreamy mind which was compared with subsequent examples of Wang Wei’s poems. In this paper Wang Wei’s “you-rang” is carefully considered to have been affected by Tao Yuanming. The purpose of the study is to clarify by an analysis of his literary works the change in the meaning of “you-rang.” Previously several studies compared the poet’s poems with those in the same period of Tao Yuanming’s “you-rang.” Despite these studies, no comparison has been made with the later one. Therefore, this paper establishes a new comparative method in the study of Chinese poetry. The research revealed that Wang Wei was one of the poets affected by Tao Yuanming; however, regardless of the use of “you-rang,” it was not infl uenced by Tao Yuanming.

Key words Wang Wei, Tao Yuanming, Tang dynasty, Liuchao era

*1 Faculty of Liberal Arts Nihonbashi Gakkan University

NIHONBASHI GAKKAN UNIVERSITY Bulletin No.10

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三枝秀子:王維詩に見える「悠然」- 唐代における陶淵明詩受容研究の一環として- 123

太市郎・原田憲雄『王維』(集英社、一九六四年)③釈清潭『淵明・王維全詩集』

(前掲書)④小川環樹・都留春雄・入谷仙介『王維詩集』(岩波書店、一九七二年)

(6) 都留春雄『王維』(前掲書)一二二頁。小川環樹等『王維詩集』(前掲書)一二九頁。

(7) 小林太市郎・原田憲雄『王維』(前掲書)二七九頁。

(8) 釈清潭『淵明・王維全詩集』(前掲書)二八四頁。省略部分「菱蔓の二句は人事

の定節無きを比体としたるは明白なり」

(9) 中国における主な解釈書。①陳鐵民『王維集校注』(中華書局、一九九七年)②

趙殿成『王右丞集箋注』(上海古籍出版社、一九九八年)③趙松谷『王摩詰全集

箋注』(北京図書館出版社、一九九九年)④楊文生『王維詩集箋注』(前掲書)

(10) 陳鐵民『王維集校注』(前掲書)四四八頁。悠然、間静貌。

(11) 楊文生『王維詩集箋注』(前掲書)二九八頁。悠『広韻』:「悠、遠也」﹇陳注﹈

悠然:邈遠貌。

(12) 題を「口号又示裴迪」に作るテキストもある。

(13) 陳鐵民『王維集校注』(前掲書)四八六頁。塵網:塵世的網羅。人居世間有種種

約束、故云。此処隠指自己被囚禁的境遇。

(14) 楊文生『王維詩集箋注』(前掲書)七五五頁。

(15) 趙殿成『王右丞集箋注』(前掲書)二五四頁。楊氏もこの趙氏の注を引いている。

(16) 陳鐵民『王維集校注』(前掲書)四八六頁。払衣;提衣、振衣。有表示決絶之意。

『後漢書・楊震伝』:孔融魯国男子、明日便当払衣而去、不復朝矣。

(17) 「藜杖」は『荘子』譲王篇に「原憲華冠縰履にて、藜杖つきて門に応ず(原憲華

冠縰履、杖藜而応門)」とある。陶淵明には「藜杖」の用例は無い。

(18) 陳鐵民『王維集校注』(前掲書)四八六頁。桃花源:参見「桃源行」注釈。桃

源:即陶淵明「桃花源記」中所写之桃花源。

(19) 後藤秋正・松本肇編『詩語のイメージ』(東方書店、二〇〇〇年)。第一章「天空

への視線」「浮雲・白雲」を中野将氏が担当。

(20) 李善注『文選』では「白雲」を「白雪」に作る。

(21) 「祭程氏妹文」の「白雲」を「白雪」に作るテキストもある。

(22) この他に「擬古」其五の「白雲」も同様のものと見る。「青松

路を夾んで生え白

簷端に宿る(青松夾路生、白雲宿簷端)」

(23) ここに挙げた宋之問「春日山家」、張説「湘州北亭」にも「悠然」の語が見える

がここでは「白雲」についてのみ言及するに留め、この「悠然」については別稿

において詳細に検討したい。

(24) 趙松谷『王摩詰全集箋注』(前掲書)十七頁。柴河岳英霊集唐文粋倶作荊。

(25) 李蓓『河岳英霊集注』(四川出版集団巴蜀書社、二〇〇六年)七十頁。荊扉:柴

門。陶淵明「帰園田居」之二「白日掩荊扉、虚室絶塵想」

(26) 王維の「柴扉」五例。「帰輞川作」「送錢少府還藍田」「山居即事」「送別」「贈劉藍田」

(27) 王維の「荊扉」六例、「酬諸公見過」「送張五帰山」「送綦毋潜落第還郷」「渭川田家」

「酬厳少尹徐舍人見過不遇」「淇上田園即事」

(28) 王維の「柴門」三例、「輞川間居贈裴秀才迪」「東谿玩月」「早秋山中」

(29) 注(24)参照。

(30) 注(27)参照。

(31) 題を「送別」に作るテキストがある。

(32) 李蓓『河岳英霊集注』(前掲書)八四頁。荊扉:柴門。陶淵明「帰園田居」之

二:「白日掩荊扉、虚室絶塵想」

(33) 楊文生『王維詩集箋注』(前掲書)五一一頁。荊扉:柴門、喩隠者清貧的門戸。

(34) 「王孫」は『楚辞』「招隠士」に見え、隠士である王孫を山の中から世俗へ呼び

戻そうとする。この王孫の典故は、王維の「山居秋瞑」にも見える。

(35) 小川環樹等『王維詩集』(前掲書)一三〇頁。

十二

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011)124

惆悵掩柴扉

惆悵として柴扉を掩す

輞川の入り口の谷まで来ると、「漁樵」のような非世俗(非役人)の姿で

さえも見ることが稀であるということは、勿論、世俗(役人)たちはもうこ

こには来ることはないということである。このように詩を理解すると、この

詩の冒頭においてすでに陶淵明の「柴門」を「掩と

」した状態に達しているこ

とが表現されていると考えられる。そしてこのような状態であるにもかかわ

らず、最後に「柴扉」を「掩」すと詠むのは、つまり、「漁樵」のような非

世俗の人たちとも一線を画し、さらなる個人の世界(寂寞の境地)へ入ると

考えられないだろうか。

この「帰輞川作」詩に詠まれる「漁樵」「悠然」「白雲」「柴扉」という語は、

これまで述べてきたように隠遁の意味を彷彿とさせるものである。さらに、

「帰輞川作」という題に「帰」とあるため、「帰輞川作」詩は、隠遁生活につ

いて詠まれたものと理解し得る。だが、詳細に見ると、ここには陶淵明の詩

文に見られるような隠遁生活をたのしむことはもちろん、自身の隠遁生活そ

のものさえも表現されていない。王維は陶淵明のように、世俗から離れ隠遁

することなどできなかったから当然のことである。しかし、筆者がここで言

いたいのは、彼の現実のその行動のことではない。王維は、「門扉を閉ざす」

と表現することにより精神的に独りきりの「寂寞の境地」を得ようとしたの

ではないか、それを詩に表現したのではないかということである。

おわりに

今後の課題

小論を終わるに際し、小論に関わる今後の課題を二点示しておきたい。

まず第一として、小論では、王維詩の「悠然」は、陶淵明の「悠然」の田

園でゆったりとした心情を表現するものとは異なり、従来の「悠」「悠悠」

の「マイナス思考的心情」かあるいは「永い・遠いという客観的な状態」を

表現するものであることを明らかにした。しかしそれは、「悠然」の語に限っ

ての一応の結論ということに過ぎない。なぜなら、王維詩には「悠」または

「悠悠」という語が十三例見られ、その「悠」「悠悠」の検討を行った上で、

改めて結論すべきだと考えるからである。

第二に、王維と同時代の詩人の詠んだ「悠然」についても検討する必要が

あるということである。王維と同時代の崔興宗が王維に贈った「酬王維盧象

見過林亭」詩に「悠然」が見える。このことから、王維と崔興宗との共通認

識としての「悠然」の意味を理解することができる可能性があると考えられ

るからである。さらに崔興宗に限らず、同時代の他の詩人の詠む「悠然」に

ついても検討し、当時の共通認識としての「悠然」の意味を解明する必要も

ある。この「悠然」の語は、中唐期の白居易の「秋池独汎」に「悠然として

意自得す、意外何人か知らん(悠然意自得、意外何人知)とあるように、こ

れは明らかに「プラス思考的な心情」を表現している。これについてはまた

別稿において述べるつもりであるが、王維から白居易に到るまでの間の調査

がさらに必要であると考える。

本来ならば、この二点の課題を考察した上で王維詩における「悠然」につ

いて検討を行うべきであるが、今回の小論はその前提として王維詩に見える

「悠然」という言葉に限定して検討を試みたものである。

【注】

(1) 三枝秀子『たのしみを詠う陶淵明』(汲古書院、二〇〇五年)第四章参照。

(2) 釈清潭『淵明・王維全詩集』(日本図書センター、一九七八年)六八頁。

(3) 楊文生『王維詩集箋注』(四川人民出版社、二〇〇二年)一二八頁。悠然:渺

遠貌。『広韻』悠、遠也、遐也。

(4) 楊文生『王維詩集箋注』(前掲書)二九八頁。東皋、田野的泛称。阮籍「奏記指

蒋公」「方将耕于東皋之陽」

(5) 日本における主な解釈書。①都留春雄『王維』(岩波書店、一九五八年)②小林

十一

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三枝秀子:王維詩に見える「悠然」- 唐代における陶淵明詩受容研究の一環として- 125

1寂寞掩柴扉

寂寞として柴扉を掩し

2蒼茫対落暉

蒼茫として落暉に対す

3鶴巣松樹遍

鶴は松樹に巣うて遍く

4人訪蓽門稀

人は蓽ひ

門もん

を訪と

うて稀なり

ここの「寂寞」について、小川氏等に以下の論述がある。

「荘子」天道篇に見える語で、道家のいう、塵念や欲心をとり去り、無

為に徹した静けさの極地の境地。王維の場合は、それと、仏教における

「寂静」、「寂滅」すなわち煩悩を離れ世俗の苦患をたちきった涅槃の境

地とが微妙に融合されているであろう)

35(

小川氏等によると、「寂寞」は煩悩や世俗から離れた境地が表現されてい

るということである。筆者もそれに与したく思う。さらにこれに付け加える

とすれば、その様な境地にいたることができるのは、「柴扉」を閉めるから

こそできるのではないかと筆者は考える。続く五句目以降を見てみたい。

5緑竹含新粉

緑竹 

新粉を含み

6紅蓮落故衣

紅蓮 

故衣を落す

7渡頭煙火起

渡頭 

煙火起り

8処処采菱帰

処処 

采菱して帰る

先の一・二句で「柴扉」が閉じられ、夕日と向かい合っていることが詠ま

れた後、三・四句では、蓽門(=柴扉)を訪れる人が稀なことが詠まれてい

た。そして五句から八句には、青々とした竹、咲き終わりの赤い蓮の花の咲

く景色が詠まれ、続いて渡し場に明かりが灯る頃になると、菱を采っていた

人たちが帰って行くと詠まれている。

「柴扉」が閉じられた後、詩の中の主人公の居る閉じられた「柴扉」の内

側は詩に詠まれてはいない。「柴扉」が閉ざされた後であるにもかかわらず、

五句から八句には、「柴扉」の外側の渡し場や菱を采って帰る人々の様子が

詠まれているのである。

陶淵明の場合、先の「癸卯歳十二月中作与従弟敬遠」詩においては、「顧

盼するに誰をも知るなく、荊扉昼も常に閉ざす(顧盼莫誰知、荊扉昼常閉)」

と詠んだ後、続いて「勁気襟袖を侵し、箪瓢屡々設くるを謝す(勁気侵襟袖、

箪瓢謝屡設)」冬の寒気が袖口から入ってくるし、粗末な食事すら満足に取

ることができない、というように苦しく貧しい「扉」の内側の生活の様子を

詠んでいる。しかし、王維の「山居即事」詩では、「柴扉」を閉じても、閉

じた扉の内側から外の世界を独り眺め続け、なおも扉の外の世界の様子を詩

に詠んでいるのである。あえてこのように表現することによって、実は、「柴

扉」の内側の誰もいない「寂寞」を表現しているのではないかと考える。

(3)「帰輞川作」再考

これまで検討してきた「白雲」「掩柴扉」の内容を踏まえて、ここでもう

一度、「帰輞川作」詩について検討してみたい。

谷口疎鐘動

谷口疎鐘動き

漁樵稍欲稀

漁樵稍や

稀ならんと欲す

悠然遠山暮

悠然たり遠山の暮

独向白雲帰

独り白雲に向かいて帰る

菱蔓弱難定

菱蔓弱くして定

さだま

り難く

楊花軽易飛

楊花軽くして飛び易し

東皋春草色

東皋春草の色

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011)126

もりなのだから。

楊氏が「荊扉は柴門である。隠者の清らかで貧しい門戸のことである)33(

」と

注をしている。この詩は、「荊扉を掃」う行為を自分に代わって張諲に依頼し、

やがては自身も隠遁生活を送るつもりであることが詠まれている。

王維の場合、これらの門扉は開かれた状態であるのかそれとも閉ざされた

状態であるのであろうか。次の「酬諸公見過」詩(部分)は、前半には「藍

田」での「躬耕」生活について詠まれ、さらに以下のように続く。

暮看煙火 

負担来帰

暮に煙火を看 

負ふ

担たん

来帰す

我聞有客 

足掃荊扉

我れ客有りと聞く 

荊扉を掃うに足る

この部分は、夕暮れ時の家から立ち上る「煙」を見たから、荷物を持って

帰ってきた。客が来ると聞いたので、「荊扉」を掃って出迎えることにした

という意味になろう。

この「酬諸公見過」詩では、「荊扉」を開け客人を出迎えていることが理

解できる。一方、次の「淇上田園即事」詩では「荊扉」を閉ざしていること

がわかる。

屏居淇水上

屏居す淇水の上

東野曠無山

東野曠として山無し

日隠桑柘外

日は隠たり桑柘の外

河明閭井間

河は明かなり閭井の間

牧童望村去

牧童村を望んで去り

猟犬随人還

猟犬人に随って還る

静者亦何事

静者は亦何事ぞ

荊扉乗昼関

荊扉昼に乗じて関と

ここは、川が流れ、桑畑が広がるのどかな田園である。「牧童」が出かけ

ていき、犬は主人の後をついて走る。この田園の景色を見ている「静者」は

というと、昼であるのに「荊扉」を「関と

」している。

次に「柴扉」であるが、先の表においては五例あることを確認した。だが

その内一例は「柴扉」が「荊扉」に作られている前述の「贈劉藍田」詩に

見える用例である。また、さらにもう一例は、「帰輞川作」詩の用例である。

この「帰輞川作」詩は後に検討したい。よってここではこの二例を除く「送別」

詩、「山居即事」詩、「送錢少府還藍田」詩の都合三例を検討の対象としたい。

まず、「送別」詩であるが、これは友との送別を詠んだ詩である。

山中相送罷

山中 

相 

送り罷や

んで

日暮掩柴扉

日暮 

柴扉を掩す

春草明年緑

春草 

明年緑なるも

王孫帰不帰

王孫 

帰るや帰らざるや

山の中で友を見送り、そして夕暮れに「柴扉」を閉めた。来年の春になっ

たら王孫(私)は扉の向こうの世俗に帰るのだろうか)

34(

この詩から「柴扉」は山の中にあることがわかる。そして、見送りが終わ

るまでその「柴扉」は開かれているが、見送りをすませると「柴扉」は閉め

られている。よって、「柴扉」は作品中の主体の意志に従って意識的に開閉

されていることがわかる。

次の「山居即事」詩に詠まれる「柴扉」には、「柴扉」を閉めることによ

り世間と離れることが表現されている。

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三枝秀子:王維詩に見える「悠然」- 唐代における陶淵明詩受容研究の一環として- 127

ら薪取りをするというものである、とここに詠まれている。

このように「癸卯歳始春懐古田舎」その二、「自祭文」のいずれの「柴門」

もそれは田園の家にある門(戸)であることがわかる。

以上のように、陶淵明の詩文においては、田園にある自分の家の門を「荊

扉」もしくは「柴門」と詠むことが確認できた。

この「門」「扉」は、外界と内界とを遮断するものであるが、外界の一切

を遮断するという強固な門でなく、また常に閉ざされているものでもない。

「帰園田居」その二の「白日にも荊扉を掩と

し、虚室にて塵想を絶つ」や、「癸

卯歳十二月中作与従弟敬遠」詩の「荊扉

昼も常に閉ざす」ように、官界(塵想)

と交わりを絶ちたいときには昼間であっても閉めている。だが、「癸卯歳始

春懐古田舎」その二のように、「民」たちと交わりたい時には扉は開いていて、

「日入りて相与に帰」り、酒で「近隣を労

ねぎら

」った後に、「柴門を掩と

」すのである。

つまりこの扉は作品中の主体の意志に従って意識的に開閉されているのであ

る。陶

淵明の詩文における「荊扉」と「柴門」を確認したところで、次に王維

詩の「荊扉」と「柴扉」を見ることにしよう。陶淵明詩に詠まれていた「柴

門」は、王維詩にも三例確認できる)

28(

。この「柴門」も「柴扉」と同様、やは

り世俗から離れたところにある家の門扉のことを意味している。

先の「贈劉藍田」詩の「籬中犬迎え吠ゆ、屋を出でて柴扉に候つ」の「柴扉」

は前述した通り、テキストによっては「荊扉」になっているものもある)

29(

。そ

してこれ以外の「荊扉」の用例は六例を確認することができる)

30(

。その中の一

つ、次に示す「送綦毋潜落第還郷)

31(

」詩(部分)は、故郷に帰って行く綦毋潜

を見送った際に詠まれた詩である。

置酒臨長道

置酒し長道に臨めば

同心与我違

同心我と違う

行当浮桂棹

行きて当に桂棹を浮ぶべく

未幾払荊扉

未だ幾ならずして荊扉を払は

わん

今、共に別れの酒を飲んでいるが、君がその盃を置いてここを離れると、

私たちは違う道を歩んでいくことになる。君はこれから故郷へ向かう旅に出

る。帰るとまもなく荊扉を開くのであろうよ。

ここの「荊扉」について、李氏の注に「荊扉は柴門のことである」とある。

さらに氏は続いて、陶淵明の「帰園田居」その二の「白日にも荊扉を掩と

し、

虚室にて塵想を絶つ」を引いている)

32(

。これをふまえて「送綦毋潜落第還郷」

詩での「荊扉」を考えると、仕官を目指していた世俗の日々と、これからの

世俗と離れた日々とのちょうどその境目に「荊扉」が存在すると理解し得る。

その「荊扉を払う」とは、「荊扉」の外の世界である俗世から「荊扉」の中

の世界である隠遁の日々へ、扉を払うようにして中に入っていくと考える。

次の「送張五帰山」詩(部分)に詠まれる「荊扉」も世俗と隠遁の間に存

在している。この詩は張諲との送別を詠んだものである。詩の冒頭には、張

諲とともに数日間一緒に過ごしたあと彼は帰っていってしまったことが詠ま

れる。そして詩は以下のように続く。

東山有茅屋

東山に茅屋有り

幸為掃荊扉

幸ねが

わくは為に荊扉を掃え

当亦謝官去

当に亦 

官を謝して去るべし

豈令心事違

豈に心事をして違わしめん

東山にはあずまやがある。君よ、私のために「荊扉」を払ってきれいにし

ておいてくれないか。私もいつかは官を辞めて君のように隠居生活を送るつ

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011)128

た、李蓓氏の『河岳英霊集注』にも「荊扉は柴門のことである」と注がなさ

れ、続いて李氏は陶淵明の「帰園田居」その二の「白日にも荊扉を掩と

し、虚

室にて塵想を絶つ(白日掩荊扉、虚室絶塵想)を引いている)

25(

。李氏の注によ

ると、「柴扉」と「荊扉」はどちらも同じものであり、また、陶淵明の「荊

扉」を典拠としていると理解できるようだ。ということは、王維の「帰輞川

作」詩に詠まれる「掩柴扉」を検討するには、まず先に陶淵明の詩文におけ

る「荊扉」を検討した上で行うべきであろう。

陶淵明と王維詩に詠まれる「柴扉」に纏わる表現の一覧を示すと以下の表

の通りである。

柴扉

荊扉

柴門

荊門

陶淵明

0

掩柴扉0

2

掃荊扉0

払荊扉0

2

掩柴門1

0

王 

5 )26(

掩柴扉3

6 )27(

掃荊扉3

払荊扉1

3

掩柴門0

3

王維詩の場合、「柴扉」「荊扉」「柴門」「荊門」の語にそれぞれ用例が見え

るが、陶淵明の場合、「柴扉」「荊門」の用例は見えないことがわかる。

それでは、陶淵明の詩文に見える「荊扉」と「柴門」から検討を行うこと

にしたい。まず、「荊扉」であるが、先の李注に引かれていた「帰園田居」

その二以外にもう一例ある。

「癸卯歳十二月中作与従弟敬遠」詩の「顧盼するに誰をも知る莫な

く、荊

昼も常に閉ざす(顧盼莫誰知、荊扉昼常閉)」がそれである。前述の李

氏の注の「帰園田居」その二の「荊扉」は昼(白日)であっても掩と

されてい

るものであった。この「癸卯歳十二月中作与従弟敬遠」詩の「荊扉」も「昼

に閉ざ」されている。「荊扉」とは家と外との間にある「門」(戸)のことで

ある。その門を「昼に閉ざ」すと詩に詠むというのは、意識的に家の外の世

界を閉ざすこと、つまり外界と交わらないことが表現されていると理解でき

る。次に陶淵明の「柴扉」について検討を行いたいところであるが、先に表

にて確認をした通り、陶淵明には「柴扉」の用例はない。よって前述の李氏

の注により、「柴扉」の代わりに「柴門」を検討することにしたい。「柴門」

の用例は表において確認したように、陶淵明詩には二例ある。次の「癸卯歳

始春懐古田舎」その二(部分)と「自祭文」(部分)がそれである。

まずは前者である。

日入相与帰

日入りて相与に帰り

壺漿労近隣

壺漿もて近隣を労

ねぎら

長吟掩柴門

長吟して柴門を掩と

聊為隴畝民

聊いささ

か隴ろ

畝ほ

の民となる

日が沈んだら近所のみんなと一緒に帰り、酒で彼らを労う。そしてうたを

口ずさみながら柴の戸を閉める。私も近所の皆と同じ畑仕事をする民となっ

た、とここに詠まれている。

共に農作業をする近隣の民たちは、柴門の中に入ることができることがこ

の詩から読み取ることができる。次は「自祭文」である。

含歓谷汲

歓びを含んで谷に汲み

行歌負薪

行々歌いて薪を負う

翳翳柴門

翳翳たる柴門

事我宵晨

我が宵晨を事とす

柴の門に囲まれた家での一日は、楽しく水くみをしたり歌を口ずさみなが

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三枝秀子:王維詩に見える「悠然」- 唐代における陶淵明詩受容研究の一環として- 129

第三句目に詠まれる「紫芝曲」は四皓がうたった隠遁の歌のことである。

そして第四句目に「白雲」が詠まれている。さらに第五句目の「魚楽」は『荘

子』秋水篇に「鯈ゆ

魚ぎょ

出で遊びて従

しょう

容よう

たり、是れ魚の楽しみなり(鯈魚出遊

従容、是魚楽也)」を典拠としている。これは魚が水の中で悠々自適に泳ぐ

こと、引いては、人が悠々自適に生きることを意味する。最後に第六句目の「采

薇」であるが、これは伯夷・叔斉の故事であり、帰隠することを言う。以上

のように、この詩には「紫芝曲」「白雲」「魚楽」「采薇」という、隠遁を意

味したり象徴する言葉が詠まれている。

この詩に表現されているのは、いつの日か私も四皓や伯夷・叔斉等のよう

な隠遁暮らしをしたいものだという願望であると考えられる。したがって、

第三句目に詠まれる「悠然」は、隠遁生活のゆったりとした心情を表現する

のではなく、古の四皓たちへ思いを馳せていることを表現していると理解で

きよう。

初唐の張説(667

730)の「湘州北亭」にも「白雲」が見える。

人務南亭少

人務南亭に少く

風煙北院多

風煙北院に多し

山花迷径路

山花径路を迷わし

池水払藤蘿

池水藤と

蘿ら

を払う

萍散魚時躍

萍うきくさ

散じ魚時に躍り

林幽鳥任歌

林幽く

く鳥任

きまま

に歌う

悠然白雲意

悠然たり白雲の意

乗興抱琴過

興に乗じて琴を抱えて過ぐ

南亭では務

つとめ

めもなく、北院には霞がかかっている。花が路を迷わせるほ

ど小路に咲きほこり、藤蘿が池の水面にゆらゆら揺れている。その池には魚

が時に跳ねては萍うきくさ

をちりぢりにし、静かな林の中に鳥が気ままにに鳴いて

いる。白雲の意ははるか遠くであるなあ。興が乗じて琴を抱えてここに立ち

寄った。

自由に泳ぐ魚と気ままに鳴く鳥。この魚と鳥の組み合わせは単なる自然の

景物を写したものではない。川に自由に泳ぐ魚と空を自在に飛ぶ鳥を見た詩

人は、我が身は魚や鳥のように在るべき場所に居るのだろうかと、自己と魚

と鳥とをしばしば比較する。この表現には、仕官と隠遁の両極に苦悩する詩

人の姿を見ることができる。この表現は、陶淵明の「始作鎮軍参軍経曲阿作」

詩にも見える。陶淵明が鎮軍将軍の参軍となり、曲阿(現江蘇省丹陽県)を

通った時、「雲を望んでは高鳥に慚じ、水に臨んでは遊魚に愧ず(望雲慚高鳥、

臨水愧遊魚)」と、自由に飛ぶ鳥や自由に泳ぐ魚を見て、役人として仕えて

いる我が身を恥ずかしく思い、「終には班生の廬に返らん(終返班生廬)」と、

やがては役人を辞めて隠遁したいと詠む。

魚と鳥にはこのように隠遁への憧れが表現される傾向があるとすると、「湘

州北亭」詩に詠まれる魚と鳥も単なる景物を表現したものではないと理解で

きる。さらにこの詩は「悠然たり 

白雲の意」と続いている。ここに詠まれ

る「白雲」は自由な魚と鳥が象徴する、「隠遁の意」として理解することが

できよう)

23(

(2)「掩柴扉」について

続いて、王維の「帰輞川作」詩に詠まれる「掩柴扉」について検討を加えたい。

まず、「掩柴扉」の「柴扉」は、「贈劉藍田」詩にも詠まれる。「籬中犬迎

え吠ゆ、屋を出でて柴扉に候つ(籬中犬迎吠、出屋候柴扉)」とある。この「柴」

を、趙松谷氏は「河岳英霊集と唐文粋ではともに荊に作る)

24(

」と注を施してい

る。確かに、『河岳英霊集』を確認すると、「柴」を「荊」に作っている。ま

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氏に付け足すとすれば、陶淵明より前の時代の西晋の左思(250

305)の「招

隠詩」その一にも「白雲は陰岡に停り、丹葩は陽林を曜て

らす(白雲停陰岡、

丹葩曜陽林)」と「白雲」が詠まれ)

20(

、ここでの「白雲」も隠者をとりまく風

景の描写として用いられている。また、中野氏の挙げた陶淵明の「擬古詩九

首」その五以外の作品にも陶淵明に「白雲」の語が見える。まず、次に示す

のは単なる景物の一つとしての「白雲」の用例である。

悲商叩林 

白雲依山

悲商 

林を叩ち 

白雲 

山に依る

「閑情賦」

白雲掩晨 

長風悲節

白雲 

晨に掩お

い 

長風 

節に悲しむ

「祭程氏妹文)

21(

「閑情賦」に見られる「白雲」は秋の日の夕方の風景を描写する文脈の中

にある。また、「祭程氏妹文」では冬の日の雲に覆われた朝の様子を描写す

る文脈の中にある。これに対して、次の「和郭主簿」其の一(部分)には官

界から離れたのどかな生活の様子を表現する文脈の中に「白雲」が用いられ

ている。

舂秫作美酒

秫を舂きて美酒を作り

酒熟吾自斟

酒熟せば吾れ自ら斟む

弱子戯我側

弱子 

我が側に戯れ

学語未成音

語を学びて未だ音を成さざるも

此事真復楽

此の事真に復た楽し

聊用忘華簪

聊か用って華簪を忘る

遙遙望白雲

遙遙として白雲を望む

懐古一何深

古を懐うこと一に何ぞ深き

好きな酒を作り、かわいい我が子に囲まれ楽しい日々を送っていると、簪

を刺し役人勤めをした日々のことを忘れてしまった。遠くはるかに見える白

雲を望み、古の昔を思う。

ここには酒と子供に囲まれたのどかな田園での生活が表現されている。こ

の「白雲」は先の「閑情賦」や「祭程氏妹文」の「白雲」のように単なる自

然としての景物ではなく、官界から離れたのどかな生活を象徴する働きをな

している)

22(

。先の中野氏の論述のように、陶淵明詩においても「白雲」は隠遁

をイメージする言葉と言ってよいだろう。

では、さらに時代が下るとどうであろうか。初唐の宋之問(656?

712)の

「春日山家」詩にも「白雲」が見える。

1今日遊何処

今日 

何れの処に遊ぶ

2春泉洗薬帰

春泉 

薬を洗いて帰る

3悠然紫芝曲

悠然たる紫芝曲

4昼掩白雲扉

昼に白雲の扉を掩と

5魚楽偏尋藻

魚楽 

偏ひとえ

に藻を尋ね

6人閑屡采薇

人閑 

屡しばしば 

薇を采る

7丘中無俗事

丘中 

俗事無きも

8身世両相違

身世 

両つながら相違う

春、山間の家に身を寄せている。私はいつも俗事だらけの世の中にいるが

この山の中では俗事の無い暮らしを送ることができる。さて、今日は何処に

行こうか。泉に薬を洗いに行き、そして帰ってきた。四皓がうたった紫芝曲

ははるか昔のことだ。昼に白雲の扉を閉ざす。魚は楽しげに藻の間を泳ぎま

わり、人はのどかに薇を採る。この山の中ではこのように俗事は無いけれど

も、私はいつも俗事にまみれた生活を送っている。

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三枝秀子:王維詩に見える「悠然」- 唐代における陶淵明詩受容研究の一環として- 131

続く第三句の「悠然として藜れ

杖じょう

を策し」の「悠然」は言うまでもなく、

陶淵明の詩文の言葉である)

17(

。最後の第四句「帰りて桃花源に向わん」の「桃

源」は、陳氏が「陶淵明の『桃花源記』のなかに書かれている桃花源のこと

である」と注をなしている)

18(

以上のように、「菩提寺禁口号又示裴迪」詩には、「塵網」以外にも、「払衣」

「悠然」「桃花源」など、陶淵明の詩文に見える言葉が用いられていることか

ら、ここに陶淵明の影響を確認することができる。だが、この様に陶淵明と

同じ文字を用いてはいるが、王維詩に表現されている内容は、陶淵明の表現

している内容とはたして同じなのであろうか。

例えば、先の陶淵明の「飲酒二十首」その十九では、「衣を払って田里に帰」っ

た後、月日は流れ十二年が過ぎたことが詠まれ(冉冉星気流、亭亭復一紀)、

さらに続く最終句には、漢の疏広のように人に大盤振る舞いはできないが、

田園では「酒」を飲むことができる(雖無揮金事、濁酒聊可恃)と詠んでい

る。ここに表現されているのは、陶淵明が田園に帰った後

4

4

4

4

のことであるのだ。

一方、王維の「菩提寺禁口号又示裴迪」詩では、「桃源」に向かおう

4

4

4

4

という

願望が詠まれるにすぎない。

また、「悠然」の語の意味するところも、陶淵明のそれとは異なっている

ようである。陶淵明の詩の中、特に「飲酒二十首」その五において用いられ

ている「悠然」は、田園でゆったりと過ごしている心情を表現するものであっ

た。しかし、王維のこの「菩提寺禁口号又示裴迪」詩の「悠然」は、「帰り

て桃花源に向わん

4

4

4

」とあることから、「桃源」に帰る前の心理状態を表現す

るものである。その帰る際の心理状態は、ゆったりとした気持ちで「桃源」

に向かおうとするのか、憂えた気持ちで「桃源」に向かおうとしているのか、

それともどちらでもないのかがわからない。

以上のように、この「菩提寺禁口号又示裴迪」詩は、「悠然」の詠まれる

句だけではなく、すべての句に陶淵明の詩文に詠まれる言葉が配置されてい

る。この点を取り上げても確かに陶淵明の影響があるとみることができよう。

だが、詳細に見ると、陶淵明と同じ語を用いながらもそこに表現されている

内容は陶淵明の詩文とは異なっているのである。

先の「帰輞川作」詩においても、「悠然」以外に陶淵明の詩文に用いられ

ている言葉がある。第四句の「白雲」、第八句の「掩柴扉」がそれである。

そこで、次章においては、「帰輞川作」詩に詠まれている「白雲」、「掩柴扉」

について検討したい。

二、「帰輞川作」の解釈の試み

ここでは「帰輞川作」詩に詠まれている「白雲」、「掩柴扉」について検討する。

「白雲」は陶淵明の詩文に見える用例と宋之問・張説に見える用例を中心に

検討する。次に「掩柴扉」については、王維と陶淵明の詩文に見える用例を

検討する。これらの語句を検討した結果を踏まえ、「帰輞川作」を解釈したい。

(1)陶淵明の「白雲」と宋之問・張説の「白雲」

「白雲」は単なる自然の景物としてだけではなく、超俗的・神秘的なイメー

ジを持つものとしてしばしば詩に詠まれている。このことは後藤秋正・松本

肇編『詩語のイメージ』において中野将氏によりすでに指摘されている。中

野氏は「白雲」の語に最初にイメージを与えた作品は、漢の武帝の「秋風辞」

とし、この「白雲」には「無常なるもの・はかなく寄る辺ないもの・孤独のイメー

ジが感ぜられる」と述べ、さらに「『白雲』の語は六朝期晋代の頃から神仙、

あるいは隠者をいう作品に多くみられるようになってゆく」と述べている。

氏は晋の湛方生(生没年不詳)の「廬山神仙詩」序、陶淵明の「擬古詩九首」

その五、宋の鮑照(412

466)の「白雲詩」、斉の王融(467

493)の「遊仙詩五首」

その四の「白雲」の用例を挙げその根拠としている)

19(

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011)132

独向白雲帰

独り白雲に向かいて帰る

菱蔓弱難定

菱蔓弱くして定

さだま

り難く

楊花軽易飛

楊花軽くして飛び易し

東皋春草色

東皋春草の色

惆悵掩柴扉

惆悵として柴扉を掩と

題から、王維の別荘の「輞川」に帰ることを詠んだ詩であることがわかる。

輞川に向かう谷口に差しかかると鐘の音が聞こえ、漁夫や木こりの姿が見な

くなってきた。はるか遠くに見える山の夕暮れを眺めつつ、私は独り白雲に

向かって帰って行く。菱ひ

の蔓つ

はゆらゆらと揺れ、楊花はふわふわと飛んでい

る。東皋はすっかり春の草花が咲いているが)

4(

、私は憂いの気持ちで柴の扉を

閉めたのだった。

日本においては)

5(

、都留春雄・小川環樹両氏が、「悠然」を山ののびやかな

さまを形容するものと理解し)

6(

、また小林太市郎・原田憲雄の両氏は「悠然」

の語をそのまま「悠然」とし「悠然たる山懐へ」と訳している。以上はいず

れも、「悠然」を事物の様子を表現するものと理解している)

7(

。一方、釈氏は、

この「悠然」をそのまま「悠然」の意とし、この句を「悠然として遠山の暮

色を見つつ」と訳している。さらに「余論」にて、「此の詩、顧可久の評して、

仕へて

意こころざし

を得ざるの作、含蓄露さずと曰ふは或は当たる、(中略)詩とし

ては悠然の十字、余味津津」と述べている。これによると釈氏は「悠然」を

心情表現として理解していることがわかるが、はたしてそれがプラス的心情

なのかそれともマイナスであるのか明言されていない)

8(

。中国においては)

9(

、陳

鐵民氏が「悠然」は静かな様子とし)

10(

、楊氏は山がとおくにあることを形容す

るものと解している)

11(

以上、日本と中国における解説書によると、この「帰輞川作」詩の「悠然」

を、詩の中の主人公の心理状態を表現するものとして解釈しているのは釈氏

だけで、その他は「悠然」は事物の様子を客観的に表現するものと判断した。

「菩提寺禁口号又示裴迪)12(

安得捨塵網

安にか得ん塵網を捨て

払衣辞世喧

衣を払いて世喧を辞し

悠然策藜杖

悠然として藜れ

杖じょう

を策し

帰向桃花源

帰りて桃花源に向わん

日本と中国における主な注釈書には「悠然」に対して語釈が施されていな

い。よって、詩全体の意味を捉えた上で、改めて「悠然」について検討を行

うことにしたい。

まず、第一句の「安にか得ん塵網を捨て」に詠まれる「塵網」であるが、

陳氏によると、「塵網」とはこの世の中のしがらみのこと、具体的にここで

は拘束されている今の境遇のことをいうとしている)

13(

。楊氏も同様の解釈をし

ている)

14(

。また、趙殿成氏が、「陶潜詩。誤落塵網中、一去三十年」と、陶淵

明の「帰田園居」詩の句を引いて注をしていることから、氏は「塵網」を陶

淵明の影響の下にある詩語であると見なしていることがわかる)

15(

この詩には、この「塵網」以外にも、陶淵明の詩に見える言葉をいくつか

確認することができる。続く第二句の、「衣を払いて世喧を辞し」の「払衣」

も陶淵明の「飲酒二十首」その十九に「遂尽介然分、払衣

4

4

帰田里(遂に介然

たる分を尽くし、衣を払いて田里に帰る)」と、これまでの役人生活にけじ

めをつけ、故郷に帰るという文脈の中で詠まれている。陳氏は、「払衣は提

衣や振衣というのと同じである。決絶を表す意味がある」という注をし、さ

らに続いて『後漢書』楊震伝の「孔融は魯国の男子なり、明日便ち当に衣を

払いて去り、復た朝せざるべし」を引いている)

16(

。陶詩及び陳注より、「払衣」

には役人生活にけじめをつけるという意味であることが理解できる。

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三枝秀子:王維詩に見える「悠然」- 唐代における陶淵明詩受容研究の一環として- 133

である。だが、陶淵明の後の斉の劉絵(458

502)の「餞謝文学」、北斉の「享

廟楽辞十八首」昭夏楽の「悠然」は、『詩経』以来の「悠」「悠悠」と同様の

マイナス思考的な「憂い」という心情を表現していた。つまり、郭璞や陶淵

明以後の韻文に詠まれる「悠然」には、「プラス思考的な心情」の表現を確

認することはできず、それは「悠」「悠悠」と同じ用法に過ぎなかったので

ある。

では一体、プラス思考的な「悠然」が定着したのはいつからなのだろうか。

これを明らかにするための一環として、本稿においては陶淵明の影響を受け

た詩人の一人である、盛唐期の王維(699

759)の詩に見える「悠然」を調べ

ることにした。その結果、王維詩における「悠然」は、隠遁をイメージする

言葉、もしくは、陶淵明を意識した言葉と共に詠まれているのだが、その「悠

然」は『詩経』以来の従来の「悠」「悠悠」と同様の「マイナス思考的心情」

や「永い・遠いという状態」を表現するにすぎないことが明らかになった。

一、王維詩に詠まれる「悠然」

王維詩には計三例の「悠然」の語が見える。「至滑州隔河望黎陽憶丁三寓」、

「帰輞川作」、「菩提寺禁口号又示裴迪」の三首にそれぞれ一例ずつある。まず、

この三首の作品の大意と、「悠然」に付けられた従来の解釈をそれぞれ次に

示したい。

「至滑州隔河望黎陽憶丁三寓」

隔河見桑柘

河を隔てて桑そ

柘しゃ

を見る

藹藹黎陽川

藹あい

藹あい

たり黎陽川

望望行漸遠

望望として行けば漸

ようやく

遠く

孤峰没雲煙

孤峰雲煙に没す

故人不可見

故人見る可からず

河水復悠然

河水復た悠然

賴有政声遠

賴さいわ

いに政声の遠きあり

時聞行路伝

時に聞く行路の伝うるを

滑州にて黄河の向こうにある黎陽川を眺め、丁寓のことを思い出して詠ん

でいることが題から読み取れる。黄河の向こうに青々と茂る桑柘と黎陽川が

見える。丁寓のことを思いながら進み行く。孤峰は遠くにあって雲の中に隠

れているかのようだ。丁寓はこの辺りに居るそうだが、彼に会うことはでき

ず、黄河がはるか遠くまで流れているだけだった。風の便りに、丁寓は善い

政治を行っていると聞いた。

釈清潭氏の「字解」によると「悠然」は「水流がゆったりとしたる貌」で

あるという)

2(

。また楊文生氏は、「悠然」は「はるか遠いさま(渺遠貌)」と理

解している)

3(

。両者とも「悠然」は「河」を形容したものとして解釈している。

筆者もこの「悠然」は、『詩経』などに見える「悠」または「悠悠」と同様に、「永

い・遠いという状態」を客観的に表現するものと理解する。またさらに一歩

深めて解釈するならば、丁寓に会えず、憂えた気持ちで河が遠くに流れ行く

のを眺めているとも解すことができる。いずれにせよ、この「至滑州隔河望

黎陽憶丁三寓」詩の「悠然」はゆったりとした心理状態を表現するものでは

ないことがわかる。

「帰輞川作」

谷口疎鐘動

谷口疎鐘動き

漁樵稍欲稀

漁樵稍や

稀ならんと欲す

悠然遠山暮

悠然たり遠山の暮

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日本橋学館大学紀要 第 10 号(2011) 原著論文

134

はじめに

陶淵明の「悠然」と本稿の目的

陶淵明(365

427)の「飲酒二十首」その五の「菊を採る東籬の下、悠然と

して南山を見る」の句に見える「悠然」は、「見られる南山」を形容するのか、

「見る淵明の形容」なのか、それとも「南山までの距離」を言うのかが従来

問題となっている。この問題については、斯波六郎氏・吉川幸次郎氏・大上

正美氏・井上一之氏等の論考においてすでに指摘され検討されている。筆者

は、それらの論考を整理し、さらに自身も陶淵明の「悠然」について調査し

検討を加えたことがある)

1(

筆者は、陶淵明の「悠然」の語は、彼自身が用いた「悠」「悠悠」の語と

は用法が異なることに着目した。陶淵明の詩文においては、「悠」「悠悠」の

場合、『詩経』以来の従来の作品に詠まれる「悠」「悠悠」と同様に、「憂い・

思う」という「マイナス思考的心情」や、「はるか」という「時間の長さ・

距離の遠さ」を表現している。一方、「悠然」の場合、心が何にも拘束され

ず自由であり、「ゆったりとしている」という、「プラス思考的な心情」を表

現していると考えた。

このプラス思考的な心情としての「悠然」は、実は、陶淵明と同時期の文

学作品にも見ることができる。それは郭璞(276

324)の「遊仙詩十九首」、

『世説新語』の「言語第二」「雅量第六」または謝霊運(385

433)の「山居賦」

二〇一〇年九月二十八日受理 A Study of the T

erm ‶You-rang

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日本橋学館大学リベラルアーツ学部

王維詩に見える「悠然」

唐代における陶淵明詩受容研究の一環として

三枝 

秀子*

1 本稿は唐代における陶淵明受容研究の一環として、盛唐の王維詩に見

える「悠然」の語について検討したものである。

この「悠然」の語は、陶淵明の「飲酒二十首」その五の「悠然として

南山を見る」に見えるものである。この「悠然」には様々な問題があり、

筆者は、かつてそれらの論考を整理し、さらに「悠然」について検討を

加えたことがある。その際、調査の対象を陶淵明以前の詩文に限定して

行った。その後、陶淵明よりも後の時代の「悠然」が如何に詠まれてい

るのか調査することが必要だと考え、まず、王維詩における「悠然」の

言葉の検討を試みるに至った。王維は、陶淵明の影響を受けた人物であ

ることは周知のことである。王維詩には計三例の「悠然」が見え、三首

にそれぞれ一例ずつある。三首のうち二首には明らかに陶淵明の影響を

見ることができるのだが、同詩に用いられている「悠然」は陶淵明の用

法とは異なる意味で用いられている。この点から筆者は、王維は陶淵明

と異なる用法をあえて用いることにより、王維自身の「寂寞」の境地を

詩に表現したのではないかと考えた。

キーワード

王維 

陶淵明 

唐王朝 

六朝時代

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