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Page 1: 120jac.or.jp/english/images/vol16/JAPANESE ALPINE NEWS Vol16...131 歩いて富士山の麓に到着、現地では御師の世話になって宿に泊まり、登山をしたわけである。先達を職業とする者はなく、あくまで庶民によるボランティアであったが、御師はむしろ

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JAPANESE ALPINE NEWS 2006●

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 神奈川県秦野市の元教員、佐々木茂良(しげよし 当時 67 才)は、2007 年 11 月 23 日、富士山に登頂、自身の「年間登頂記録」を塗り替えた。佐々木にとってこの登頂は 2007 年だけで 133 回目だったのである。この年の最初の登頂は 6 月 12 日だから「5 日に 4 回」という、驚くべき登頂ペースである。 2001 年に教師を退職した佐々木が初めて富士山に登ったのは 2004 年 6 月 5 日、63 才の時だ。標高 2400 メートルの富士宮口から 3776 メートルの頂上まで 1370 メートルの高度差を一般登山者の倍の早さで登り、山頂から 360 度の景観に心を奪われた。以後、繰り返し富士山の頂を目指すようになり、04 年だけで 41 度も頂上を踏んだ。「仕事をリタイアしたのでゆったりした気分で登り続けることができた」と言うが、登りに 2 時間 40 分、下りに1 時間 20 分のペースは相当速い。 05 年には 80 回登頂。全山が凍り付いて危険な冬場を避け、5 月から 11 月までの半年が登頂シーズン。それでも雪に覆われた 6 月、11 月は、ピッケル、アイゼンが欠かせないのは勿論である。06 年には 121 回登頂し、07 年になっての 133 回をあわせると富士山登頂は合計 375 回を数えた。「08 年中に計 500 回の登頂を達成したい」と話している。

(注 :2012 年 8 月 11 日、72 才になった佐々木は富士山 1000 回登頂を達成した。64 才で登りはじめて 8 年 3 か月だった。) 日本は、山の国だ。山と森が国土の 70%を占め、平野部は 15%しかない。ヒマラヤやアルプスの高さはないが、3000m を越える山々は 21 峰も存在する。2000m 以上の山となると642 峰に達する。海に囲まれた日本列島周辺は 1 万メートルに達する深い海溝があり、海底からの標高を測れば、ヒマラヤ並みの高さを誇る世界有数の山岳大国なのだ、と指摘する学者もいる。 その日本を代表する山といえば、誰もが「富士山」という。標高 3776m と、2番目に高い北岳(3193m)より 500m 以上も高く、裾野まで秀麗なラインを描く独立峰。7 世紀後半から 8 世紀後半頃にかけて編まれた、日本最古の歌集「万葉集」では富士山について多くの歌人が詠んでいる。浮世絵にも富士山は大事なモチーフとなっている。 しかし、富士登山が日本人の間に広まっていったのは「富士講」という特別な信仰登山の広がりによるものだった。富士講のきっかけをつくったのは、16 世紀の長谷川角行(はせがわ・かくぎょう 1541 - 1646)という修験者だった。「人穴」と呼ばれる溶岩洞窟に篭り、1000 日を過ごした。その後 1572 年はじめて富士山に登り、以後 127 回登頂、中腹を一周する「お中道巡り」も 33 回行なった。

江本 嘉伸

日本の山岳信仰と富士山―庶民が登る山

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● JAPANESE ALPINE NEWS 2006

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 富士講は、角行の死後百年たって享保年間(1716 ~ 35)、食行身禄(じきぎょう・みろく 1671-1733)という修験者の登場をきっかけに急速に広がった。身禄はそれまでの呪術的な富士山信仰を否定、「無益な殺生をしない」「博打をしない」など道徳思想の実践を説いた。そして、救世の理想を果たすために、享保 18 年(1733 年)生きてミイラとなって果てる覚悟で弟子とともに富士山に向かった。七合五尺の烏帽子岩で 31 日間の断食を決行、覚悟の通り息を引き取った。身禄の身を捨てての行動は「かわら版(江戸時代の新聞)」で広く伝えられ、多くの江戸の庶民の心をとらえた。 彼の死をきっかけに富士山信仰は爆発的な人気となりあちこちに「富士講」が生まれた。江戸の末期にはその数八百八講と呼ばれるほどになった。 富士講が企画する富士登山には、「先達(せんだつ)」という存在が大きな意味を持つ。先達は、もともと修験道の用語で、鎌倉時代に始まった呼称である。富士山に登らせるだけでなく、庶民の救済が江戸の時代に栄えた富士講の大きな目的だった、といわれる。そのリーダーである先達は修験道と同様、登山に精通しているだけでなく、人々を率いるに足る人望ある人間でなければならなかった。 先達になるには「富士登山7回以上の経験と人柄の良さ」が条件だったといわれる。当時から登頂回数は大切な要素だったのだ。中でも尊敬を集めた「大先達」と呼ばれるベテランは「33 度大願成就」を達成しなければならなかった。33 度富士山を登頂する意味だ。 交通手段がなかった当時は、講の人々はすべて江戸の自宅から歩いて登った。たとえばもっともポピュラーなコースであった吉田口からの登山は、江戸から歩きはじめ、途中宿泊しながら富士山麓の富士吉田まで 4 日かかった。そこから 1 泊 2 日の行程で山頂に登り、同じコースで江戸まで帰ると一度の富士登拝に少なくとも 10 日が必要だった。現代なら短いヒマラヤ・トレッキング可能な期間である。 それだけ体力を消耗し、お金もかかる。だから当時富士山に登るということは、1年に1度でしかあり得なかった。33 回の登頂というのは 33 年も登り続けたという結実の証しなのである。(それだけに 16 世紀、富士講のきっかけをつくった長谷川角行が 127 回も登頂した事実がいかに偉大であったかがわかる) 富士登山は「講」のメンバーとなって登るのが普通だが、先達自身は講を離れて自前で登ることもあった。そういう登り方を「カラス」といった。前述したように、講で登る場合、白の装束を着て登るが、自前登山の場合はそういういでたちをしないで登るからである。講登山は出発の準備から 130 キロに及ぶ徒歩の旅、山麓から山頂までの登頂、そして下山、と先達にとっては実に大きな仕事であった。たまには他人の世話をせずに登れる気楽さがいい、とカラス登山をする先達は少なくなかったという。 富士講の隆盛に伴い、「御師(おし)」と呼ばれる独特のリーダーも誕生した。もともと富士山の神霊に祈る祈祷師のことだが、講の人々が富士山に登拝する時は、清め祓、宿泊、登山案内など現地での一切の面倒を見た。人々は、先達に引き連れられてはるか江戸から

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JAPANESE ALPINE NEWS 2006●

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歩いて富士山の麓に到着、現地では御師の世話になって宿に泊まり、登山をしたわけである。先達を職業とする者はなく、あくまで庶民によるボランティアであったが、御師はむしろプロフェッショナルというべき存在だったことが記録からはうかがえる。 富士登山は夏の 2 か月に限定される。御師は、江戸での講の組織から富士登山にいたるすべてを取り仕切っていた。江戸から到着する登山者を御師の宿に迎え、飲食の準備、「強力」と呼ばれるポーターの手配、登山に必要な装備、松明や杖、携行食の販売、山小屋宿泊料や神社の賽銭、入山料など費用のとりまとめなどから、遭難時の対応まで取り仕切っていた。さらに、オフシーズンには江戸に出向いて、講とその会員増加につとめたり、神社の札や薬草、山頂の水など地元の特産品販売を行なった。 このように先達や御師の活躍は富士登山を支える欠かせない力であったが、富士講が盛んになった時代の空気としてもうひとつ、江戸の庶民にとってこの講が旅を楽しむ貴重な機会となっていたことを忘れてはならない。当時、日本人は自由な移動を許されず、国内を移動するためには「通行手形」と称する一種の旅券が必要だった。手形を取得するには相応の理由が要る。無難なのは「社寺詣で」であり、通行手形を取得しやすい富士山登拝は、登山の要素を持つ旅でもあったのである。 「講」というのは、同一の信仰を持つ人々による一種の結社を意味する。同時にそれはお金を積み立てて抽選で順番に利用する相互扶助団体の性格も持った。たとえば、富士講のメンバーは、旅費を積み立てて毎年順番で富士山に行く人を決めることもあった。講の中から数人を選び、代表して参拝する「代参講」も行われていた。 東京のあちこちに富士山がある、と聞くと驚くだろうが、実は、富士山は日本全国に存在する。とくに富士講が栄えた江戸には多くの富士山がいまも健在なのである。 老人や子育て中の女性たちなど、遠く、高い日本の最高峰を詣でることができない人たちがいる。先達は、実際の富士山に行くことができないこれらの人たちにもその気分を味あわせるために江戸の町に石や土を盛って人造の「ミニ富士」を作って「講登山」をした。江戸に 808 の講が存在したというのは富士登山に参加できない人たちがいかに多かったか、の証明でもあるのだ。そして、地域の講それぞれがミニ富士とも言うべき「富士塚」を作った。 富士山に模して造営された人工の山や塚であるこの「富士塚」(富士山の溶岩を積み上げたものもある)を庶民は現代も「お富士さん」と親しみをこめて呼ぶ。毎年6月末の富士の山開きには山麓浅間神社で儀式が行われるが、それにあわせてお富士さんでも山開きが行われ、縁日が開かれる。また、「拝(おが)み」という定期的に行われる行事が富士登山と並んで大事な要素だった。「お伝え」と呼ばれる勤行の教典を読み、「拝み箪笥(おがみだんす)」とよばれる組み立て式の祭壇を用いて一種の儀式をするのである。