title 「不朽」の修辭學 : 胡適・コスモポリタニズム・白話詩...
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-
Title 「不朽」の修辭學 : 胡適・コスモポリタニズム・白話詩
Author(s) 福嶋, 亮大
Citation 中國文學報 (2005), 69: 119-153
Issue Date 2005-04
URL https://doi.org/10.14989/177954
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
-
「不朽」の修餅学
-
胡適
・コス
モポリタニズム・白話詩-
福
嶋
亮
大
京都
大学
一
は
じ
め
に
ヨーロッパで第
一次大戦が勃馨した
l九
1四年の春、胡
適は留学先のアメリカにおいて'ある雑誌の誌面を晴れや
かな顔寓真とともに飾ることになる。グリーダーの引用に
よれば'そのキャプションには次のような説明が付されて
いた。「どんなネイティヴの生徒よ-もうまい英語を操る、
この奇妙
で
「例外的」
(anoma-y)な中国人学生'
ス-
・
71氏は'大
いなる注目を自らの身に集めることにな
っ
た」。なぜなら、彼は
「コIネル大学が行
った英語論文で
l等賞を勝ち取
った唯
lの中国人学生」に他ならず、「こ
「不朽」の修辞学
(福嶋)
①
の文学的な名著に加えて、奨学金をも獲得した
」
注目すべ
き秀才だ
ったからだ。ヴィクトリア朝時代の英国詩人ブラ
ウニングをテーマに選んだ胡適は、モアやサンタヤナ'チ
ェスタートンなど並み居る批評家の評債にも目配-しつつ、
冷静な哲理と人間愛に裏打ちされたブラウニングの
「オブ
②
ティミズム」を堂々と論語してみせる
。
そこでは殺伐とし
た世界にあ
って'なお悲観的になることな-、理性と愛に
ょる陶冶の果てに平和な世界の現前を夢見る詩人
・ブラウ
ニングの姿が描かれていた。すぐれた英語力を備えたこの
若き中国人留学生は'この評論を大学の懸賞論文に投稿し、
高
い評債を得る。その結果、彼は、賓にたやす-名門大学
の権威ある賞を獲得してしま
ったというのが事のあらまし
だ。そして、受賞以降の胡適は'多岐に渡る活動を精力的
にこなすことになる。たとえば'彼は各地の学生集合で講
演を行い、大統領選について仲間と討論し、アメリカと中
国の女性問題に思考をめぐらせ'
1般の新聞や雑誌に時事
的な論説を次々と投稿するだろう。これらの場所で、胡適
は'国際政治上の中国の弱髄な地政学的位置をむしろ積極
- 119-
-
中国文学報
第六十九冊
的にアピールし、弱者
(マイノリティ)としての地位を逆
用したアイデンティティ
・ポリティクスを展開していた。
異邦人であることは、必ずしもマイナスにはならない。ア
メリカの地政学的
・文化的規賓を照射する上で'異邦人の
位置は逆に強みにもなる
(と謹み手に想定されうる)し、
胡適もその属性をうま-活用していたように見える。この
ように'アジアの劣等園からやってきた
一介の留学生は、
ハンディキャップを感じさせない華々しい言論活動を行
っ
ていたのである。
とはいえ、留学首初の胡適は、かな-深刻な危機にも直
面していた。留学中に書き留められ'蹄国後出版された
『戒嘩主節記』(以下
『留学日記』と表記)には'友人を亡
-Lt租園の危機に際しても無力な彼が'キリス-数に接
近してい-様子が記されている。彼の深刻な無力感は'さ
しあた-宗教によって癒されなければならなかったようだ。
後に胡適自ら回想したところによると'この接近は'
1時
の感情の動揺と、巧みな勧誘
(ペテン)に惑わされた結果
③
だという
。
しかし'仮に宗教による癒しを断念したとして
も'遠い異国の地で'しかも賓硯不可能な愛国の念を抱き
ながら留学生活を迭らねばならないという催件そのものは
何も奨わっていない。では'胡適はいかにしてその候件を
克服したのだろうか。その理由は'必ずしも'心理的なも
の
(気分の蟹化)や状況的なもの
(環境との通庸)には還
元できない。これから述べてい-ように、胡適はその課題
をあ-まで論理的に解決しようとしていた。それはひとま
ず'租園の苦難を引き受ける
「愛国」から'愛国を含みつ
つそれを乗-越える
「コスモポリタニズム」
への傾斜とし
てまとめられるだろう。胡適を論ずる上で'この髪達は決
して見逃せない重要なボインーである。
しかし'問題はそれだけではない。というのも、胡適の
この態度蟹更は、五四時期の文学者がおおむね共有してい
た時代的な
「空気」を顕著に表しているからだ.だとすれ
ば、私たちは胡適を導きの練とすることによって、十年代
後半から二十年代前半の文学史や思想史を橋渡しする'か
な-大きな断面図を浮かび上がらせることができるだろう。
以下論じてい-ように、その断面は'文学のレベルにおけ
120
-
る言文
一致連動
(と-わけ詩論)と'政治のレベルにおけ
るコスモポリタニズムがはっき-交差する地鮎でもあった。
そして、そうした文学と政治の問題の原型は'『留学日記』
において鉦に表れている.結論から先に言うならば'コス
モポリタニズムと言文
1致連動は、『留学日記』における
文学と政治の封立'および前者の勝利という
一連の流れか
ら分岐したふたつの局面であると考えることができる
(下
圃参照)
0
したがって本稿は、最終的には単なる胡通論に留まらな
い射程を目指してみたい。ひとまず胡適を中心軸に置きつ
つ'同時に、胡適に集約的に象徴される昔時の中国の文学
史的
・思想史的傾向を明らかにすること。それが本稿の課
題である。そのために、私たちはまず、「中国新文学の源
流」のひとつとして近年'研究者たちの脚光を浴びている
時空-
コ-ネル大学
(一九一一-
一五年)およびコロンビ
ア大学
(一九l五-
一七年)への留学時期-
に焦鮎を合わ
せつつ、『留学日記』の思想的な位置づけを明らかにして
いきたいと田いう.
「不朽」の修辞学
(福嶋)
t九二~l四年
(留学初期)
政治の盾と文学の盾の禿離
=
「政治の季節」
文学による政治の乗り越え
I(A)コスモポリタニズム
I
(B)白話詩の構想
一九一四-
一七年
(留学後期)
政治の盾と文筆の盾の融合
-
「文学の季節」
(A)(B)の縫合
1俸達の純粋化
=「世界」「人類」への飛朔
l九l七-二十年代(韓国)
「談新詩」「不朽」「終身大事」etc
園 :留学期から蹄囲後にかけての胡適の思想的蟹遷
- 121-
-
中囲文筆報
第六十九冊
二
政治の季節から文学の季節
へ
『留学日記』を参照する限-、胡適の主要な活躍の場は'
大学の授業ではな-'自らが所属するい-つかの学生集合
にあ
った。そのひとつが
「世界学生曾」(コスモポリタン・
クラブ)と呼ばれる組織である。彼はこのクラブの重要な
メンバーとして積極的に闘わ-'そのことは日記でも頻繁
に言及される。しかし、最初から彼が'メンバーと友好関
係を取-結べたわけではない。たとえば'胡通は'租園の
自主濁立を訴えた
一人のフィリピン入学生に封する周囲の
噺りを'苦々しい筆致で書き記している
二
九二
年四月二
④
三日、以下
『留学日記』からの引用については日付を記す
)。留
学首初'胡適は'自分と同じ-弱者の境遇にあるアジア人
に射して同情の念を抱きつつ、周-を取り巻-倣慢なアメ
リカ人たちには抜きがたい甑齢を感じていた。しかし'こ
の後、本稿冒頭でも言及したブラウニング賞の受賞
(一九
l四年五月九日の日記に記載)を皮切-に、彼は様々なテー
マで演説を重ね'遂には大学の代表として全国規模の含合
に出向くまでになる。そのテーマは、多くの場合、「国家
や民族を超えた人類の連帯」という関心によって支えられ
ている。それは政治的弱者としての自らの脆弱な立場を'
国際的な普遍的連帯の理念によって補填するものでもあ
っ
た。こ
うしたコスモポリタニズム
(世界市民主義)への接近
は'留学期間に限定されるものではな-、これから述べて
い-ように、蹄国後の彼の主要な主張の中にもはっき-皮
響している。しかも彼のコスモポリタニズムは'従来の中
華世界の規範秩序
(朱子学)の枠組みと修辞を借りつつ'
その内賓をそっ--組み替えるような結果ももたらした。
したがって'彼の思考の過程を探索することは、思想史的
に見ても、重要な意味を持
っていると考えられる。
具佳的に追跡してみよう。胡適は
「My
country-Right
orwrong〉-Mycountry」(私の租園は-
正しいか否かに関
わらず
-
私
の租園
である)というテーマに関して、注目す
べき文章
(英文)を残している
(一九
山四年五月一五日)。こ
こで胡適は、正義の
「ダブルスタンダード」'つま-'
1
--∫_i_1-一
-
方で囲家の強権を抑制するための園内に向けた
「正義」が
あ-、他方で野外的な危機に封して蓉動される
「正義」が
あることを強調する。個人の人権をふみにじる専横な国家
は'平時ならば個別の国家の法に優先する普遍的な
「正
義」に抑制されるべきである。しかし、そうした専横国家
であったとしても、ひとたび他国の侵略にさらされた場合、
その国民は国土の防衛にこそ
「正義」を兄いだすだろう.
そう考える胡適は'こう締め--る。「私たちがもし国内
外の別にかかわらず通用するひとつの正常性のスタンダー
ドを採用しない限-'議論の共通の地盤はありえないよう
⑤
に思います
」。胡適は西洋が練-上げてきた
「正義」の説
得力と賓致力を疑わないが、同時にパトリオティズムを追
求することが
「正義」と抵鯛してしまう可能性も考えてい
る。このとき'普遍的な正義と個別的なパーリオティズム、
地球規模の人類の正義と部分的な国民の正義はいかにして
両立しうるのか。それこそが'胡適の抱えていたダブルス
タンダードであり'彼はこの両者を縫合する新たな地平を
模索していたのである。
「不朽」の修辞学
(福嶋)
しかし、最終的に、そうした分裂は'普遍主義ないしコ
スモポリタニズムの強調に収束していく。すなわち'
コス
モポリタニズムをパトリオティズムよ-も原理的なものと
みなすことによって'ダブルスタンダードを解消する方向
に向かう。胡適は徐々に考えを明確にしてい-。たとえば'
彼は'人類普遍の原理を立てることが'そのまま租園の保
全に直結するという論理を展開する。それは'世界各国に
コスモポリタン的な人道主義が贋まることによって、軍備
がいかに不必要なものであるかをひとびとが理解するよう
になるtという線測に根嫁付けられている
(一九
一四年
一
⑥
二月
二
一日)。さらに彼は'弱肉強食の強権主義を否定し
つつ'このように述べていた。「愛図は重要なことだ。し
かし国家の上にさらに大きな目的'さらに大きな集圏があ
ることも知るべきである。ゴールドウィン
・スミスが言う
「Above
alt
Na
tLonsisHumanLty」[すべての民族の上に人
警
]が
これである」(完
l四年
l〇月二六的)。彼はこの
理想に溢れた修辞のなかに'愛観に優越する普遍的=
不偏
的な命法、すなわちコスモポリタン的な友愛の理念を聴き
---JZj -
-
中歯文学報
第六十九冊
取ろうとするのである。中国の
「瓜分」の危機を救うため
に必要なのは、革命のような政治活動ではな-、人類が共
有するべき普遍性を練-上げ'平和主義を貫徹することで
あ-'それが最も致率的なパトリオティズムにもなるとい
⑧
うのが彼の最終的な主張である
。
パトリオティズムは、胡適に限らず'常時の中図人留学
生にと
ってきわめて大きな問題として吃立していた。彼ら
がおおむね熱烈な租囲愛に貫かれていたことは想像に難-
ないが、害際には'彼らは政治的に無力な学生にすぎない
(冒頭でも述べたように'胡適がキリスト教と出遭うのは'
こうした状況においてであ-、そこには現賓の劣位を宗教
的な信仰によって碑倒しょうとする意園が見え隠れしてい
る)。彼らはこのギャップと正面から向き合うこと、そし
て、できるかぎりそのギャップを解消することを目指して
い
た
が
'しかし、それはきわめて困難な道だ
った。後年'
胡
適は
、
外国人に向けたある講演
(1九二六年)の中で'
次のように述懐している。
l九
1四年'五年そして六年には'絶望の感覚がす
っ
か-浸透していました。多-の若者が'外部に抜け出
す道がどこにも考えられないこと、そして前方にはど
んな光も見られないことを理由に自殺を選びました。
その状況は、いつかどこかで革命が起こると人々が考
えていた清王朝の末期の数年とは違
っていました。確
かに革命はやってきましたが、進むべき路から外れた
方向に押し流され、憂欝と絶望だけが後に残
ったので
す。私の若い友人のひと-は杭州の西湖に身を投げま
した-
希望なき状況から脱出できる喜びをしたため
た、友人
への別れの手紙を残して。この数年の間に'
人々は遂に政治の表面的な壁化のむなしさを悟-、新
時代の基礎とな-うるような新しい要因を捜し求めは
⑨
じめたのです
。
そして、その
「新たな要因」は'新文学の導入による思
考様式の革命'すなわち、後に胡適自身によって
「中国の
ルネサンス」と名づけられる
一連の改革として硯賓化して
- 124-
-
いく。胡適自ら主導した俗語文髄の改良
(言文
一致)'察元
培や銭玄同、黍錦輿を中心に達成された漢字の簡略化'魯
迅の
「狂人日記」に始まる俗語文学の誕生などに代表され
る
「文学革命」において、辛亥革命では賓現しえなかった
政治的革命が達成されたと彼は看倣しているのだ
(むろん、
こうした文学史的整理が事後的
・遡行的になされているこ
とは注意しなければならない)。「瓜分」の危機に封虞でき
ないという政治的絶望を'文学によって埋め合わせること。
だとすれば、文学革命において胡適らが政治を全面的に放
棄したというのは、あ-まで表層の理解に留まるだろう
ヽヽヽ
-
正確に言えば'彼らはあえて政治を放棄したのである。
彼らの考えでは'最良の政治革命は、ふつうに考えられる
政治革命ではな-、
一見して政治と無関係な
「文学革命」
によってこそ可能である。言い換えれば'彼らは'文学の
レベルと政治のレベルを隔てる壁を突き崩し'文学的であ
ることが同時に政治的であるかのような回路を作-上げた。
多-の若者を沈欝な憂国の嘆きに追い込んだ政治の問題は、
文学の問題に止揚され'結果的に解消されることになる。
「不朽」の修辞学
(福嶋)
私たちはこの引用部で表明された
一九
一四-一六年頃の
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
樽換を、政治の季節から文学の季節
への牽化と名づけてお
こう.そして、ここで重要なのは、この奨化が'先ほど述
ヽヽヽヽヽ
べた普遍主義による愛国主義の止揚、すなわちパトリオテ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
イズムの季節からコスモポリタニズムの季節
への奨化とほ
ぼ同時に行われていることだ。たとえば、『留学日記』の
初期において、次のテニソンの詩篇が引用され'胡適もそ
れに大
いに共感を覚え
て
いる。〟HFatman
}s
thebest
cosm
op
otite\Whotoveshisnative
country
be
st.″[自らの
租園を
最
もよ-愛するものこそ'最良
のコスモポリタンである]
⑲
(l九一三年四月)
。この
l節は'その後の胡適がたどる道
筋を'ある程度線告していたと言えるだろう。政治
(覗
賓)と文学
(理想)の乗離を埋め合わせる詩人の言葉に期
待を寄せる胡適は、この後、かなりの精力を割いて、中国
語による新たな文学の姿を構想することになる。
その間の経緯を確認しておこう。政治
への
「絶望」が世
を覆
ったという首の一九
一四年頃から'胡適は中国人の留
学仲間'と-わけ梅光辿'任叔永らとの交流を深めてい-0
125
-
中囲文学報
第六十九冊
首初は、詩のや-と-、
文学談議の麿酬から、文字論、比
較文化論に到るまで'積極的に議論を戦わせていた彼らだ
が、徐々に立場や考えの違いが鮮明になってい-ことが日
記からは謹み取れる。そして'その決定的ともいえる敵酷
が、翌年の夏に表面化する。
普初この敵齢は'文言を擁護する梅光辿'任叔永らと'
白話を支持する胡適との封立として表面化した。「半死の
文字」である文言に代わって'よ-活力があ-、生活に密
着した文字、およびそうした文字をベースにした白話文を
使用すべきだと考える胡適に射して'梅光辿らは
「字は思
想の符鋸であ-、思想がなければ字もない。(-)字数[歴
史的俸続を負
った多種多様な文字量のこと-
詳者]が増え
れば思想もまたそれに従い'しかる後に言葉に内容が生ま
れる」(完
l六年八月二三的)
と猫特の主張で論陣を張-
つつ、強硬に抵抗したのである。彼らは、文字の慣値を測
定しょうとするという鮎は共有していたものの'新しさゆ
えに宿るエネルギーを重税するか
(白話派)'それとも長年
の俸統ゆえに宿る思想を重税するか
(文言振)'という鮎で
ははっきり封立していた。しかし'よ-重要なのは'彼ら
の主張の是非よ-も'こうした文字の新書の封立が'その
まま来るべき文学のイメージ'具膿的には
「詩」について
の議論にずらされていったことだと思われる。文言に宿る
俸続の重みと美的慣値を擁護していた梅光迫は'その論理
を敷桁しっつ、ジャンルの差異という硯鮎から白話と文言
の役割を峻別しようとする。「文章の腔裁は同じではない'
小説詞曲ならば白話を用いてもよいが'詩文ならばそうは
⑫
いかない」(同年七月三日
)。胡適はそれに野して'白話で
も十分に詩が作れることを立諾しょうとした。こうして彼
が試作した白話詩は'審美的な側面から見ればあま-にも
平板で失敗作に終わったものの'その試み自膿は仲間うち
で高-許慣されたのである。
私がはじめて白話詩を作
ったとき'友人のうち'[朱]
経農、[任]叔永'観荘[梅光辿]はみな精
一杯反射した。
そこで二ケ月ほど、私は筆戦をせず、ただ白話詩を作
っていた。「賓地試験」の結果を侯
って、私の主張の
726
-
是非を判定したかったのだ。今取-立てていうほどの
目に見える成果は上がっていないとはいえ'「黄胡蝶」
「嘗試」「他」「経農に贈る」の四首は、すべて経農'
叔永、[楊]香備に賞賛されたので'反封する勢力は
徐々に消えていった。経農は前日手紙を寄こし'白話
に反封しないのみならず'白話の詩をつ--'今
一度
「白話」の看板を掛けようとした。私が喜んだのは'
⑲
言うまでもない。(同年九月十五日)
この白話詩の暫定的な完成が、「政治の季節から文学の
季節へ」という問題系を内包した
『留学日記』の賓質的な
悼尾を飾ることになる。この後'『留学日記』には白話を
用いた敷編の戯れの詩
(打油詩)が書き付けられ'また考
語学に関する学術的な知見が披渡されたりもするが'文学
に封する胡適の論理的な構えは'ほぼ
一九
一六年の段階で
完成していたと見て差し支えない。そして'翌
一七年三月
にアメリカから韓国した胡適は'留学中に磨き上げた文学
観を武器にして'文学史上に残る華々しい活躍を見せるこ
「不朽」の修辞学
(福嶋)
とになるのである。
ここで再度、議論を整理すれば'
一九
一四年という政治
への絶望の年を境に'胡適は'政治思想的にはコスモポリ
タニズム'文学論的には白話詩を来るべき新時代の理念と
して提示していた。『留学日記』による限-'この両者は
彼の留学中の思想の機軸となるものであり、しかも'おそ
ら-両者は不可分に結びついている。とはいえ'『留学日
記』の段階では、この両者を縫合するところまでは議論が
洗練されていないため'軍に徴かな交差を見せるだけで終
わってしまった印象は拭えない。私たちは、しかし、鯖国
後執筆された彼の代表的なエッセイにおいて、この両者が
同
一の論理のもとで構想され'統合されていく過程を兄い
だすことができる。
それはどういうことか。しかし'先走って議論を進める
前に、「文学の季節」を象徴するこのふたつのアイディア
を、もう少し掘-下げて検討せねばならない。
127
-
中国史学報
第六十九冊
A
コスモポリタニズム
そもそも'コスモポリタニズムはあ-まで西洋の思想史
上の概念であり、中国の侍続的な思想的用語には存在しな
い。しかし、胡適にと
って、コスモポリタニズムは俸続的
な用語で十分説明
(朝詳)しうるものだ
った。このあたり
の事情を見逃すことはできない。もちろん'西洋の概念を
過去の東洋哲学の用語で勧請すること自膿は少しも珍しい
ことではないが'仔細に観察するといろいろと問題が見え
て-る。たとえば、コスモポリタニズムの詩語としてしば
しば採揮される
「大同主義」との関係を見るとわかりやす
いだろう。
周知のように
「大同」思想は、廉有馬をはじめとする活
末の奨法運動家にと
って、重要なキーワードであ
ったC彼
らは'王朝国家の秩序を支える超越的な規範の失敗を目の
首た-にして'かつて
『砥記』で描き出された
「大同祉
曾」による社食ネットワークの建て直しを構想する。
三一ロ
で言えば、それは
一種の農本主義的
・平等主義的なユート
ピアだった。彼らは'と-わけ日清戦争以降'解膿の危機
に直面した規範意識を穴埋めするために'古代の理想郷を
動員し、ありうべき秩序の再建を固ろうとする。あ-まで
孔子を制作者とする考えにこだわった鮎からも推察できる
ように'康有馬は自らの主張を儒教的な馨想によって輪郭
付けようとしていたのである。
それに封して、胡適のコスモポリタニズムにおいては'
侍枕的な理念を呼び出し'それによって自らの主張を位置
付けるという作業工程が鉄けている。彼は'康有馬のよう
に遇か昔のユートピアに遡行する必要もなければ'または
『仁学』の講嗣同のように寓物に遍在する
「以太」(エー
テル)を仮構する必要もない。「大同主義」の雛形はむし
ろ、胡適の目の前に用意されていた-
なぜなら'他なら
ぬ胡通自身が、民族
・国家の差異を乗-越えたコスモポリ
タンとして、異郷の地アメリカで華々し-活躍していたの
だから。胡適にと
って、普遍的な秩序の回復は、儒教にお
ける大同主義の枠組みをそのままコスモポリタニズムに移
し襲えるだけで事足-たのである.
128
-
l家よ-
一族
l郷に至-、
l郷よ-
l邑
l園に至る。
いまひとびとは
一団に到るとそれで終わ-だと考える。
園の外側にさらに人類があ-'世界があ-'さらに
一
歩進めば大同の領域に昇ることを知らないのである。
園に到ってそこで終わってしまうのは、自ら限界付け
⑲
ただけである
(一九一四年一〇月二七日
)
このとき'胡適が朱子学的な
「修身斉家治国平天下」の
綱領を念頭に置いていたことはおそら-間違いない。その
古典的な枠組みを踏まえた上で'胡適は、朱子における最
高次の
「天下」を
「人類」「世界」に代替することになる。
もちろん
一口にコスモポリタニズムといってもその種差は
⑮
様々だが
'
簡潔にまとめるならば、ここで述べられている
大同主義=コスモポリタニズムとは'微小な個が矛盾を季
むことな-同心囲状に接大Lt最終的に人類=
世界という
普遍的な境地にまで到達しうるという
一種の調和論である。
ならば、ここで本質的な問題は'最高鮎がどこにあるかで
はな-'起鮎と終鮎が無矛盾に連頼するようなヴィジョン、
「不朽」の修節嬰
(福嶋)
つまり思考の形式的側面にこそ求められるべきだろう。そ
して、そのような観鮎に立つとき、朱子学にせよ康有馬に
せよ胡適にせよ、個から普遍へのまざれのない純粋な俺達
を志向するというボインーを共有しているのが、はっき-
と見えて-る。
さ
ら
に
、おそら-もう
一つ、胡適にとって暗款の
(しか
し重要な)参照項だったと考えられるのが'
1九〇二年に
その大部分が
『新民叢報』に掲載された梁啓超の代表作
『新民説』である。よ-知られているように'この論文の
中で染啓超は
「国家」を
「私愛の本位'博愛の極鮎」とし
て最高審級の座に据えた。その根嬢は次のように説明され
る。
いわゆる博愛主義、世界主義が、そもそもどうして徳
の至-'仁の深みでないことがあろうか?とはいえ、
これらの主義が理想界を離脱して現苦界に参入するな
どということを、果たして期すことができるだろう
か?[…-]そもそも競争は文明の母である。競争が
一
129
-
中国文学報
第六十九筋
目停止すれば'
文明の進歩もたちどころに止まる。
1
人の競争が
l家を成し、
一家を通じて一族がなり、
1
族を通じて
1囲がなる.
一団は、園髄の最大圏[最大
⑮
領域]であ-、競争の最高潮である
。
この年の梁啓超は
『新民説』のみならず'文学
・宗教
・
思想
・経済学その他賓に多種多様な文脈で仕事をした。そ
の姿勢は、おおむね師匠である康有為ふうの大同主義を批
判し、弱肉強食の世界において生き延びるために
「新民」
(-国民)を組織しょうとする動機のもとで
1貰している。
それに封して、留学中の胡適は、国家よ-も人類や世界を
上位に任じっつ'人類の幸福
(平和)がそのまま国家の幸
宿
(国土保全)に直結するような構想を抱いていた。こう
した梁啓超と胡適の差異もまた、先ほどから論じている、
政治の季節から文学の季節への韓換を象徴するものである。
賓際'胡適の文学史的整理においては、梁啓超の占める地
位はさほど大き-ない。多-の支持を集めた彼の新文鯉の
「魔力」を認めつつも'胡適は'古文を基盤にした彼の文
膿が不徹底な失敗作だったという立場を崩していないので
⑰
ある
。
梁啓超に封するある種の冷淡さは、胡適が対決Lt
葬-去ろうとした思想の所在を雄梓に示しているだろう。
胡適が推進した文学革命は、後で詳し-論じるように
「文
字の致用は達意にあ-、達意の範囲は最大多数の人間に博
⑲
達されたとき最も成功する
」
という信念を潜在させていた。
胡適は、梁啓超の啓蒙の努力に
一定の許債を輿え、自らも
その恩恵にあずかったことは認めているが'その政治的立
場
(愛国主義)においても文学改良
(新文憶)においても、
梁啓超ふうの啓蒙の博達範囲には限界があったと考えてい
る。いずれにせよ'〟Above
atl
NationsisHumanity″と
いうコスモポリタン・クラブ
の
綱領は、主に儒教
(朱子学)
との修辞上の轄換を潜-抜けるなかで、胡適自身の確固た
る信仰へと昇華していったのである。
とはいえ'コスモポリタン・クラブにおける多種多様な
異なる他者との出合いは'結局、大学という閉ざされた空
間の中で完結するものでしかなかったことも付け加えなけ
ればならない。胡適は後年、昔時の雰囲気を次のように述
130
-
懐している。
こうした別々の民族が挙行した[コスモポリタン・クラ
ブの]パーティにおいて'私たちは各民族のそれぞれ
異なった習俗に射してよ-
1暦深い理解を得たのです。
さらに重要なのは、各民族の間に社交的接鯖と親密な
国際的友情が生まれたことによって'私たちが人種の
囲結と人類文明の基本的な要素を理解できたことでし
⑲た。
口述の筆記者である唐徳剛は'この思い出を語る胡適の
様子を書き留めている。「胡先生は六十を越された時期'
私にコ-ネル時代の
「民族パーティ」のことを話されまし
たが'依然としてその口もとは昔時の香-をとどめてお-、
⑳
[思い出の]味わいが残
っているようでした
」。彼の目に映じ
ていた多種多様な民族や人種は'留学生組織の内部にのみ
存在する甘美なイメージであ-、あえて言えば
「どこにも
ない場所」としてのユー-ピアであ
った。もちろん、いま
「不朽」の修辞学
(福嶋)
さら胡適をブルジョア
・イデオロギーの権化として批判す
るのも、あま-に凡庸である。しかし'胡適ふうのコスモ
ポリタニズムがその後'十年代後半から二十年代前半にか
けての中国において'きわめて強い支持を得てい-ことは'
やは-重要な問題として認識されるべきだろう。しかも'
その際、差異を抹消するコスモポリタニズムの甘美なイ
メージに'何らかの理論的な吟味が加えられた形跡もない。
このことは、今後'批判的に検討されていかなければなら
ないと思われる。
しかし'まずは、コスモポリタニズムを可能にした土壌
そのものの検討作業を始めるのが先決だ。そもそも'二十
年代とは、第
1次大戦によって西洋の啓蒙理性にはっき-
と疑問符が付され、それに呼鷹するかたちで'ラッセルや
デ
ュ
ーイをはじめとする西洋の知識人が東洋の精神文明を
高-許惜し、また'政治史的にもウィルソンふうの普遍主
義
・多文化主義
(マルチカルチュアリズム)が積極的に唱え
られた時代である。国内的にも、反帝国主義
・反植民地主
義をスローガンとする五四連動が起こるとともに'知的エ
- 131-
-
中岡文学報
第六十九竹
リートの間では'東洋精細の復権が啓高に叫ばれ'梁激浜
の
『東西文化及其哲学』(叫九二l年)がベストセラーにな
るような事態が起こっていた。かつて
『新民説』で国家主
義を強調していた梁啓超でさえ、『欧瀞心影録』二
九
一九
午)では第
1次大戦前後のヨーロッパの状況分析を施した
上で'人類の四分の一を占める中国人が、物質文明の荒廃
⑳
の後で果たすべき役割を強調し
、
『先秦政治思想史』二
九
二二年)では欧州の国家主義の俸続に射して'中国の
「反
⑳
国家主義」「超国家主義」の倦枕を封置している
。
ここで
彼は'それまでの国家主義からの轄回をほのめかすのみな
らず、人類普遍のコスモポリタニズムが、他ならぬ中国文
化にこそ俸統的に備わっていることを示唆しているのであ
㊨る。弱肉強食の祉合進化論的な世界から生き延びるべ-、
西洋に倣
ったナショナリズムを鼓吹していた彼は'いまや
逆に
「中国」に普遍的な原理を兄いだすナショナリストと
してふるまう。かつて自らが急先鋒とな
って批判した中岡
人の
「国家意識の紋如」こそ、むしろ肯定されるべき慣値
なのかもしれない-
この選巡において、彼の思想的立場
は椅麗に反輯している。
このように、とりわけ二十年代以降のコスモポリタニズ
ムの展開については多-の語るべきことがあるが、ここで
は胡適との関係に注目する立場から、先ほど名前を奉げた
梅光辿の韓囲後の言説を検討することで満足しておこう。
文学史
・思想史的に言えば'彼は、新文化運動
(西洋化)
に反封して俸続を擁護した復古的な東洋主義者として説明
されている。しかし、その見立てには、敗にい-つかの疑
義が提出されている。梅光辿らの東洋回蹄は決して彼ら自
身の孤立した考えではな-'むしろ西洋の学者が提起した
物質文明批判を継承したものではないか、というのがその
⑭
疑問のポイントだ
。
害際のところ'彼を中心に結成された
雑誌
『撃衡』グループは'
ハ-ヴ7-ド大学のア-ヴィン
グ
・バピ
ッー
(白壁徳)を特権的に支持していた。バビッ
トは東洋文明の精榊を持ち上げ、西洋の物質文明を乗-越
えようとしたが、その饗悪は、撃衡派によってそのまま律
儀になぞ-返されている。だとすれば、私たちはここに、
他者=
西洋の欲望を内面化することによって'自らを表象
132
-
する手立てを掴む
「オリエンタリズム」の典型的なパター
ンを見なければならないだろう。たとえば'梅光迫は新文
化運動着たちを批判する際、頻繁に
「侶欧化」という修辞
を使用するが、この表現には'「異正の文化」を
「建設」
するに菖たっては何よ-も正統的
(本来的)な西洋文化を
受容すべきであるという含意がある。梅光過によれば、新
文化運動着たちは西洋文化の皮相的な受容に留まってお-'
その本質的な理解には造かに遠い。「彼らは西欧文化につ
いて贋大で精密な研究を有していない。それゆえ知識は浅
⑮
-理解もひど-謀
っている
」。
ならば、西洋化は否定され
るべきではな-、むしろ積極的に推進されるべきではない
か。新文化運動者たちの近代主義は、それが慣-の西洋を
前提しているという理由で批判されるのであり、だからこ
そ異の西洋文化が早急に掻取されなければならない。
そもそも梅光辿にとって、来るべき理想の文化は西洋/
東洋の差異を消去し、互いの精華を十全に取-込んだとき
にはじめて成立しうるものだった。「ゆえに固有の文化を
改め、他者の文化を吸収するには、まずすべから-徹底的
「不朽」の修酎嬰
(福嶋)
に研究をおこない'きわめて明確な審判をし、それにきわ
めて詳細で首を得た仕事を加えるべきであり'そして'多
-の物事を合
一し中国と西洋を融合させた博学な大師が'
国人を先導し、風気をさかんにすれば、四㌧五十年後に致
⑳
果が表れるのを必ずや見ることができる
」。
梅光迫は'そ
の賓規の任務は世界の文明に通暁した少数のエリ1-が塘
うべきだと考える。「真正の学者は
一団の学術思想の領袖
である。文化の先駆けは少数の優秀な人間によって拾われ
るのであ-'多数の凡人によってなされうるものではな
㊨い」
。しかし、繰り返しになるが、そうした
「学者」の雛
形は'バビットをはじめとする西洋の人文主義者に求めら
れていた。ならば'東洋
(俸統)回蹄は'むしろ西洋の視
線の中にこそ内蔵されていると言わなければならない。
さらにこの論鮎は'梅光辿が
「文学
(批評)」を特権的
に擁護していることからも補強することができる。梅光迫
は、イギリスの杜倉秩序を再建するために
「文化」による
規範の再生を目論んだアーノルドを最大級に許債しっつ'
彼の
「文学
(批評)」のなかに、「文化」の最高鮎
へとアク
ー 133-
-
中国文学報
第六十九冊
セスする上での最上の導き手を兄いだす。「アーノルドの
文学批評は文化に到達するための手績きであることがわか
㊨る」
。こうした文学
(批評)の許債の背後には'哲学的言
語の語嚢があま-に抽象的であること
への反馨と、文学
(批評)的言語の具鰹性
への賞賛が潜在している。梅光迫
は'哲学と文筆
(批評)の差異を次のように説明する。
「(一)哲学は多-抽象に走-、人生に接近しない。文学
批評は事賓を重視し'具髄的な時論を行う。(二)哲学は
多-専門用語を用い'それに通暁した人でなければ理解で
きない。文学批評は普通の用語を用い
(文学創作もまた同じ
である)'人々に理解されやすい。(≡)哲学者の思想はと
きに高尚だが文字は美し-ない。堅賓な説理の文にはなる
が、垂術の文にはならない。文学批評家の文ならば、説理
⑳
と蛮術を兼備することができるのだ
」。梅光迫によれば'
哲学が内賓を放いた抽象論しか語れないのに封して、文学
は地域的な特性まで含みこんだ、よ-賓質的で具膿的な
「文化」を語ることができる。そして'哲学では汲み取れ
ない美学領域を賓装することによって、文学は普遍的な慣
値を帯びることになるというわけだ。
つま-、彼にとっては、哲学が専門家的な秘敦に陥-が
ちなジャンルであるのに封して'文学は文化の具鰹的な精
髄を汲み取り、特殊性をそのまま普遍性につなげる上で非
常に有数なジャンルである。そして
「二十世紀の文化」が
多文化の融合を前提とする以上、雷然哲学よ-も文学が前
面化されなければならない。こうした彼の文化論=
文学論
が、人類の普遍性を追及するコスモポリタニズムと限-な
-接近していることはわか-やすい。
それに射して'胡適は別の方向を向いているようにも見
える。西洋文明を超克するものとして東洋文明を揚言する
ひとびとに封して'彼は終始冷淡に振る舞
ったのである。
たとえば'文化に優劣はな-'いかなる文化も無候件で
「世界文化」になると考える梁淑漠の論法に封して、胡適
⑳
は
「いかなる根椋があるだろうか?
」
と
一蹴しているし、
後年'別の論文でも、ヨーロッパ文明がひとびとの欲求を
十分に満たしてきたことを挙げながら'「この鮎からすれ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽ
ば'西洋近代文明は決して唯物的ではな-'むしろ理想圭
134
-
ヽ,,,,,,ヽ,㊨
義的
・精神的である」とはっき-主張している。梁淑浜や
梅光迫とは違って'胡適は西洋と東洋の絶封的な断層を見
逃せなか
ったのである。とはいえ、こうした西洋文明の
「精神」の優位は'決してコスモポリタニズムを脅かすも
のではない。胡適はここでへ西洋史の博枕に蓄積された理
念を最大限利用し、それを人類の幸福に供せよと説-功利
士義者
(ないしプラグマティスー)としてふるま
っているか
らだ。彼にとって'西洋文明へのコミットメンIは、理想
のコスモポリタニズムの賓現化に向けた致率的な第
一歩で
ある。
かくして、文言と白話の優劣をめぐって激し-封立した
胡通と梅光迫でさえ、二十年代のコスモポリタニズムのも
とでは'あっけな-その差異を縫合されることになる。二
人の差異は'人類の普遍性に到るための経路の違い'つま
-活用すべき文化資源を東洋文明に求めるか'西洋文明に
求めるかの差異でしかないのである。その経路の信悪性と
透明性そのものは疑われていない。
「不朽」の修節撃
(福嶋)
B
白
話
詩
先述したように'文言詩の特権性を標梼する梅光迫の批
判に封して'胡適は白話詩を章際に制作してみせることで
療酬した。しかし、同種の批判は、蹄国後も胡適の周囲か
らは絶えず巻き起こっていたと思われる。たとえば'朱経
農は、胡適の馨表した
「建設的文学革命論」(『新青年』第
四巻第四鍍)に封して次のようなコメントをアメリカから
寄せている。「あなたの
「白話詩」はどれもすぼらしいも
のです。聾に出して謹んでみても音韻
(リズム)があるし、
すぼらしい興趣や新しい内容もあります。私はみだ-に反
封をする気は全-あ-ません。しかし
『新青年』に掲載さ
れたほかの人の
「白話詩」は、ちょっと謹み積けることが
できなかった。
[…⊥「白話詩」を馨達させようと思うな
ら'規則[韻律の決まり]がないわけにはいかないでしょ
㊨
う」(l九l八年)。胡適はこの意見に封して'「近膿詩」は
韻律からの自由
(「詩鰭の大解放」)によって達成されること
を強調し'はっきり反封の意を表明している。そして、現
Ij5
-
中閥文学報
第六十九肘
在が白話詩の賓験段階であることに重ねて言及しっつ、胡
適は後人が新時代の白話詩の
「規則」をつ-つて-れるこ
とに期待を寄せる。しかし、その尊言は後に、彼自身が
「規則」の定式化に着手することによって裏切られること
になる。文言の優位性を突き崩し、白話の全面勝利を達成
するために、胡適は
「詩」の1盾赦密な理論化を急がなけ
ればならなかった。「白話がこの詩園を征服するときが到
⑬
来すれば、白話文学の勝利は完全なものとなると言える
」。
おそら-胡適には、後人に委託するような徐裕はなかった
とも言えるし、それ以前に、自らの手で定式化するほうが
手
っ取-早いという判断が働いたとも言えるかもしれない。
いずれにせよ'ここで私たちはへ白話詩
(新詩)の
「音
節
(リズム)」の可能性を論じた彼の代表的な詩論
「新詩を
談ず」二
九l九年)を検討する必要があるだろう。この論
文は、新文学の方向性をかなり明快に指示したという意味
でも注目に値する1
すなわち'このなかでは'文言の擁
護派にとって最後の聖地というべき
「詩」を制贋する据鮎
が示されているのである。胡適は白話詩の韻律を特徴付け
るために'猫特の論理を展開してい-。まず彼は、周作人
や康自情へ博斯年'愈平伯といった白話詩の賓作者を列挙
しっつ'「詩髄の解放」による成果を強調する。すなわち'
苦乗の文言詩に比べ'感情表現はよ-繊細に、裏書はより
細やかにな-'また新式の標鮎符髄の使用によって、詩の
表現の幅は従来より格段に贋がったというわけだ。こうし
た許債は'おおむね詩の内容面における達成に着眼したも
のであると言える。しかし'それだけならば'本稿で取-
上げる意味はさほど強-ないだろう。おそら-、この論文
で異に注目に値するのは'白話詩のリズムを位置付け'正
常化した箇所である。
胡適によれば'文言詩の擁護派の根標は、ひとえに詩の
音韻やリズムの有無にかかっていた。「現在新詩を攻撃す
⑭
るひとの多-は'新詩に音節がないと言
っている」。しか
し、胡適はまさにこの期を棒倒しょうとする。
新詩を攻撃する人はいるが'彼らは
「音節」が何たる
かを自分で理解しておらず'句末で韻を踏み'句の中
136
-
に
「平平伏灰」「灰灰牢乎」といった調子があれば、
それで音節が存在すると思っているのである。中国の
音節末尾は母音終わ-
(いわゆる陰聾)でないならば'
鼻音終わり
(いわゆる陽聾)であ-'虞州の入聾を除
いては'別種の聾母を用いて末尾を終わらせるものは
存在しない。したがって、中国の韻はきわめてゆるや
かである。句末の押韻などはまさにきわめて容易なこ
とであ-'だからこそ古人には
「押韻は問題あ-ませ
ん」という皮肉がある。押韻は音節
(リズム)の上で
最も重要度が低い要件である。句中の平灰についても、
⑳
重要ではない。
ここで彼は'文言詩擁護者にとっての生命線である
「押
韻」および
「午灰」の規則の存在債値をあっさ-と否定し
てしまう。彼によれば'中国語の詩において最も重要なの
は'韻にこだわることではないし'そもそも白話に音節が
存在しないというのは端的に誤解にすぎない。そのことを
根据付けるために'胡適は白話詩における致果的な
「音節
「不朽」の修辞学
(福嶋)
(リズム)」の仕組みを考察する。そのメカニズムは、語
気の自然なリズム'および毎句内部で用いられている文字
の自然なハーモニーに大別され'その両者をうまくつなぎ
合わせてはじめて、白話詩は良質の作品た-うるというの
だ。そして'この鮎に関して'胡適が高い許債を下してい
るのが'沈戸数の
「三弦」という詩である.そのl節。
安達有
1段低低的土播'措佳了個弾三弦的人、却不能
⑳
隔断那三絃鼓畳的聾波
。
胡適はこの一句の内部に'三箇所の双聾
(「費」「遠」/
「有」「こ
/
「段」「低」「低」「的」「土」「措」「弾」「的」「断」
「盗」「的」)が使用されている事案に着眼する。胡適によ
れば、三番目のDtH音で統
一された双聾のカテゴリー
は三弦の音響を模嘉してお-、さらに
「揺」「弾」「断」
「藍」の四つの陽聾
(鼻音終わり)は、残-の七つの除草
(母音終わ-)と相互に交用されることによって三弦の音
∵
の
「抑揚頓挫」を表しているという
。
重要なのは'こうし
- 137-
-
中歯文学報
第六十九冊
た彼の理解がどれほど的を射ているかということよ-も、
むしろ、「音節」の意義が、詩の内容そのものを自然に反
映し'博達することに特化してい-ことである。「詩の音
節は'詩の意味から離れて濁立することはできない」「お
よそ詩意の自然な曲折'自然な軽重、自然な上昇下降を十
⑳
分に表現しえたものこそ、詩の最良の音節なのである
」。
胡適によれば'従来の文言詩において、音聾は基本的に詩
作上のルールに従属してお-'意味や内容とは関連が薄い。
それに封して'白話詩の
「音節
(リズム)」はつつがな-内
容の倍達を遂行するための致果的な方法論であ-、意味の
純粋な受け渡しと意味内容の的確な具現化にこそ奉仕する
ものである。ここで胡適が念頭に置いているのは'具標的
には
「文学改良審議」の第
一修に掲げられた
「須言之有物
(「物」のあることを言うべし)」の命
題であろう。このとき'
古典詩の韻律は'まさに
「物」の俸達を阻害する悪しき慣
例にすぎない。その上で、胡適は結論部分で、詩の理想的
な姿を語-始める。彼は'詩人は何よ-も
「具膿性」を重
んじなければならないtと主張しっつ、李商隙のように唆
味で思わせぶ-な表現を戒め、極力明断でわか-やすい表
現を推奨する.これもまた'「物」を十全に膿現し'しか
もそれをできるだけ純粋なかたちで倍達するという彼の志
向を端的に表している。要するに'形式面では中国語の特
色を生かした音節の重税、内容面では具膿性の重税という
I,
のが胡適の詩論の特徴であ
る
。
非日常の輝きを湛えた崇高さを演出するのではな-、む
しろ逆に'思想内容の博達を最重要課題とした、きわめて
平明で自然な詩膿を追求すること。それにしても'こうし
た胡適の理想は、
一般的に想定されるような詩のイメージ
とはまさに正反射ではないだろうか。賓際'胡適のつくる
詩は意志倍達という局面では非常に致率的だが、美や崇高
の観鮎から言えばま
ったく許債できないだろう。それは、
胡適の先行世代'とりわけ魯迅が構想していた詩論ともま
った-逆方向を向
いている。魯迅の
「文化偏至論」「摩羅
詩力説」(ともに一九〇八年)といった論文が'超越的で彼
岸的な高みから民衆に覚醒を呼びかける崇高な詩人の姿を
措いていたとすれば、胡適は'そうした崇高さを意識的に
138
-
抜き取った上で、日常的な感情の地平に徹底して忠章に寄
り添い'その動きをうま-反映するものとして
「白話詩」
をイメージするのである。また'別の観鮎から見るならば、
昔時はロシアフォルマリズムが墓頭した時期とも重なって
いるが'その代表者であるシクロフスキーは'日常言語と
詩的言語を厳密に直別した上で、後者の形式論を掘り下げ
ようとしていた。しかし、胡適の詩論はむしろ'徹底的に
日常の
「自然」な地平にこそ寄-添うのであ-、そこでは
詩そのものの固有性はほとんど問題にならない。したがっ
て、彼の議論は、賓質的に'詩の詩たるゆえんを無数にす
るような詩論であ-、私たちは'その無数化を要請した純
粋な俸達への志向こそを問題化しなければならない。
徹底してポエジーを脱色しっつ'同時に話し言葉を反映
した
「音節」は確保すること'そして、まざれのない侍達
の遂行に限りな-特化すること。その志向は、賓は文学革
命の最初期にまで遡れる。
宋朝の大詩人の絶大な貢献は、ひとえに六朝以来の韻
「不朽」の修酎撃
(福嶋)
律の束縛を打ち破り'話し言葉に近いような詩膿を作
ろうと努めたことにある。そのときの私の主張は'宋
詩を謹んだ影響を強-受けていた。そのため、「詩を
作ること文を作るがごと-すべし」と言ったのであ-、
⑲
「琢鐘粉飾」の詩に反封したのである。
この問題意識を引き継ぎつつ'胡適は'
一般的な意味で
のポエジーや崇高
(請)を解髄するかわ-に'人々の自然
な話し言葉に密着したリズム
(文)を作-出そうとした。
彼は
1貫して'韻律ならぬ
「音節」と、口語文膿の
「自然
さ」とを統合しようとしていたのである。古典詩
・詞
・曲'
⑪
いずれとも異なった
「『白話詩』の音節
」
は、封立関係に
あった
「詩」と
「文」を調停し、縫合し、止揚する澄明で
あ-、その止揚の過程で'内容のつつがない
「侍達」とい
う胡適の年来の課題は、かな-明確になるだろう。そして
「琢磨粉飾の詩」は'そうした博達の純粋化を阻害し、メ
ディア
(文字)の物質性を露呈してしまうという鮎から排
除される。ダメを押す意味で、また別のエッセイから引用
139
-
中囲文学報
第六十九珊
しよ、つ。
文学は最もよ-職責を果たす言葉
・文字にすぎず、ま
た文学の基本作用
(職務)は
「達意表情[こころを博達
し'感情を表硯する]」であるので'第
一の候件は、情
や意をはっき-と表現し'博達し'謹み手に理解させ、
しかも容易に理解させ、決して誤解のないようにする
⑫
ことで
す
。
文学は抽象的で晦溢なものではな-'むしろ具性的で明
断なものでなければならない'それとともに、文字の物質
性は限-な-無化されなければならない'そして何よ-
「話し言葉」に込められているはずの感情や内面をうま-
引き出さなければならない。そうした彼猫特の文学観が、
ここでも顔をのぞかせている。あたかも話者と野面してい
るかのような錯覚を生み出す'いわば距離ゼロの
「文腰」
をつ--だすこと。この鮎において胡適は、同時代人の追
ヽヽヽヽヽヽヽ
随を許さないほどに徹底した音聾中心主義者である。胡適
の讃者なら誰しも'きわめて
「自然」で平明な'そしてと
きにはあまりにも凡庸にさえ見える彼の文膿に、
一度は注
意を向けるだろう。しかし、その透明な文腰の採用は、単
に彼の資質の問題に鋸せられるわけではな-'むしろ、五
四時期の言文
一致
(白話)連動が目指したひとつの理想の
境地を表すものなのである。
三
「不朽」の修辞学
もう
一度'問題を整理しておこう。私たちは'政治の季
節から文学の季節
へ、という持換を取り上げている。そし
て、『留学日記』を讃解するなかで'
コスモポリタニズム
による愛国主義の乗-越えというテーマと、白話詩による
文言詩の乗り越えというテーマを兄いだすことができた。
しかし、その両者はかなり密接につながっているにもかか
わらず、『留学日記』の段階では'まだその関係性が詳ら
かにされていない。
⑲
そこで'私たちはこれから
「不朽
」
というエッセイを取
-上げてみよう。「新詩を談ず」とほぼ同時期に構想され
- 140-
-
ていたこの論文は、ふたつのテーマの相同性をかな-明確
に告知している。このなかで'胡適はまず、留学中のコス
モポリタニズムを改めて中園の停続的な思想用語と関連付
け、理論的に位置づけようとする。その作業が彼にとって
非常に重要だったことは、彼自身がこの論文を敷度の改訂
によって注意探-練-上げていることからも裏付けられる
だろう
(1九l九年に執筆した初稿を'翌年英文で改作し、さ
らにその翌年に再び中国語で改訂した上で
『胡適文存』に収録)
。
初稿バージョンではへこの時期沓表された陳濁秀や李大別
⑭
の評論との関連性が示唆されてお-
、
「不朽」が同時代的
な蓉想とかな-共振していることが謹み取れる。
以下、具膿的に検討してみよう。論文の冒頭、胡適は多
種多様な
「不朽」概念をふたつに分類してみせる。すなわ
ち、ひとつは
「霊魂の不滅」という意味の不朽であ-、も
うひとつは
『春秋左氏俸』における
「三不朽」である。胡
適によれば、前者は有神論における
「精神」の不滅を指し
ているが、他方、『左俸』の
「三不朽」とは、よ-知られ
ているように、次の三種類を指す。「(こ
立徳の不朽
「不朽」の修酎嬰
(福嶋)
⑮
(二)立功の不朽
(≡)立言の不朽
」。
そして、これらの
「不朽」概念は'いずれも儒教によって支えられた
「中華
世界」のシステムの中で重要な役割を果たしていたと言え
るだろう。徳
・功
・言の
「不朽」は'儒教的な統治機構-
⑲
-
「頑治システム
」
-
を支える中心理念であり、その理
念が調整的な準堰鮎として作動することによって'士大夫
の欲望は儒家的な秩序の中で整流されることになる。つま
-、徳
・功
・言は'有限的な個濃
(士大夫)の死を
「不朽」
の名のもとに意味づけLへ中華世界の秩序のなかに適切に
水路付けるための重要な結節難である。おそら-胡適は、
こうした事情をよ-理解していたと思われる。
整理すれば'「死後の霊魂」の不滅が土着的な信仰の土
豪なのだとすれば、胡適の挙げる
「三不朽」は、士大夫-
讃善人階層の理念を基礎付ける'よ-聖化された概念であ
る。こうした両種の
「不朽」概念に関して、胡適は
「言う
までもな-、「三不朽」説のほうが
「霊魂の不滅」説よ-
⑰
もずっと良い」
と述べている。しかし'胡適は積いて
「三
不朽」説の映鮎を三つ掲げている。第
一に
「不朽」となれ
141
-
中国文学報
第六十九冊
る人間は'
墨子やイエスらのごと-'きわめて非凡な人間
に限られていること。第二にこうした
「不朽」は楽観的な
観念によって着想されてお-'死後の震魂における
「地
獄」のようなネガティヴな制裁は設定されていないこと。
第三に
「徳」「功」「言」の三つの範囲
・境界が不明瞭であ
ること。これらの映鮎を克服するために'胡適が提唱する
のが
「融合的不朽論」である。
ここで胡適は、ライプニッツの
『モナドロジー』を援用
しっつ'ふたつの
「我」(私)概念を設定している。
私というこの
「小我」は濁立した存在ではない。無数
の小我と直接的あるいは間接的な相互関係を持つもの
であ-'融合の全鰹や世界の全鰹と相互に影響しあう
関係を持つものであ-、融合や世界の過去
・未来と因
果関係を持
つものである。様々な先行する原因や'
様々な現在の無数の
「小我」、そして無数の他の勢力
によ-もたらされた原因、それらはすべてこの
「小
我」の
一部分を構成している。私という
「小我」に
様々な先行する原因を付け加え'また様々な現在の原
因を付け加え、それが俸えられてい-と、さらに無数
の将来の
「小我」を生み出すだろう。こうした様々な
過去の
「小我」'現在の
「小我」、将来の無窮の
「小
我」は'
一代また
一代と博えられ'僅かな量にまた僅
かな量が加えられてい-.
1筋の練のように博えられ、
連綿として絶えることがない。ひとつの川が勢いよ-
ほとばしって'滑々として絶えることがない.-
こ
れこそ
「大我」である。「小我」は消滅してしまうだ
ろうが、「大我」は永遠に不滅なのである。「小我」は
いつか死んでしまう存在だが、「大我」は永遠に不死
⑲
であ-永遠に不朽なのである
。
胡適はここで、空間的
・時間的に遍在する
「小我」の絶
佳を
「大我」と呼んでいる。文化的な差異や時間的な落差'
政治的な断層は
「大我」から見ればほとんど問題にならな
い。胡適は'歴史上かつて存在し'そしてこれからも生ま
れるであろうあらゆる
「小我」をそのものとして包み込む
142
-
という美しい調和論を奏でつつ、個別的な存在がそのまま
普遍的な存在に短絡する道筋を描き出している。ほとんど
宇宙大にまで贋がる沃野そのものとしてイメージされる
「大我」は、ある特定の時空でしか通用しない儒教の理念
をはるかに凌駕する。「中園の儒家的な宗教は'父母の観
念'租先の観念を提出することによって人生における
一切
⑳
の行為の制限を行
っている
」。つまり融合的不朽論とは、
こうした儒教の三不朽を乗-越え'儒教の
「制限」を解除
した果てに兄いだされるひとつの視座なのである。そして'
こうした
「不朽」概念の組み換えは'胡適自身の大きな韓
換をも意味していた。たとえば'留学中に書かれたもうひ
とつのブラウニング論において、胡適は'人間の理性と良
識に全幅の信頼を寄せるブラウニングに儒教の蓉想との類
似を見ていたのである。「儒家はブラウニングと同じ-、
人間の個性と人間の存在
・行為の不朽をと-たてて強調し
ている。彼らは決して滅びない三つの不滅のものを信じて
⑳いる
」
。しかし蹄国後
「不朽」を書いた時鮎の胡適ならば'
昔然ブラウニングに
「融合的不朽」の理想形を見ただろう。
「不朽」の修鮮撃
(福嶋)
私たちは、ここでも'首初肯定的に捉えられていた
「三不
朽」が別種の
「不朽」に取って代わられるプロセスを尊兄
することになる。
超歴史的
・超空間的に遍在する不朽の
「大我」。この新
たな不朽を演出する修節が'個別のパーリオティズムを乗
-越えたコスモポリタニズムの修辞と等しいことは容易に
想像できる。賓際'後年、胡適が英語で行
った講演では、
「大我」が
「人類」や
「世界」とほぼ同義語として用いら
れているのである。かつてのコスモポリタン・クラブの綱
領は'ここにもはっき-反響している。
この
l連の推論は融合的不朽
(soclallmmortatlty)の
宗教とでもいうべきものに私を導きます。というのも'
その推論は本質的に次のような考えに基づいているか
らです。つま-、社食的自我による影響の蓄積の産物
である小我
(lndtvLduaLseLf)が、より大きな自我の上
にあらゆる存在やあらゆる行動のぬぐえない痕跡を残
留するという考えなのですが、その大きな自我とは
- 143-
-
中国文学報
第六十九冊
「融合
(soctety)」
や
「人類
(Humanity)」もし-は
「大なる存在
(GreatBelng)」と名づけられるかもし
れません。個濃は死ぬかもしれませんが、その個鰹は
この不朽の大我
(GreatSetf)のなかで生き頼けている
㊥
のです
。
このように
「不朽」には'『留学日記』以降のコスモポ
リタニズムがはっきりと刻印されている。そして'この時
期の胡適は'精力的に
「不朽」の理念の作品化に励んでい
た。たとえば
「不朽」を馨表した翌月の
『新青年』に掲載
された戯曲
「終身大事」は、コスモポリタニズムと文学が
再度交差した作品であ-、「不朽」の理念を寮作の面から
補強するような役割を果たしている。あらすじを含めて簡
単に説明しよう。留学鋸-の若い女性田亜梅には将来を誓
い合
った男性がいる。彼女は結婚を望むが両親はそれに反
封する。母親はいかがわしい占い師のお告げに従
ってこの
結婚を不吉だと主張し'
一見進歩的に見える父親も母親の
迷信を噸笑するにも関わらず、田姓と陳姓とは租先を同じ
-する
「同姓」ゆえに結婚はタブーだと主張するのである。
田亜梅は絶望してこう叫ぶ。「お父さん!お父さんはず
っ
と迷信的な風俗をやっつけようとしていたけど'結局のと
ころ迷信的な塞廟の決まりはやっつけられないなんて、わ
⑳
たし夢にも思わなかった」
。そのとき'悪人から手紙が届
-。「これは僕らふた-だけの問題だ、他人は関係ない。
⑲
きみが自分で決めるべきだ」。この呼びかけに歴じて彼女
は家を出る。
この作品の主題は明白である。母親は土着的共同健の論
理に束縛され、父親は儒教的な規範意識から逃れられない。
この両者が'「不朽」における
「塞魂の不滅」と
「三不朽」
に封雁していることは言うまでもない。そして、そうした
悪しき因習から町並梅を救い出すのは懲人の男性の
「呼び
啓」であり、イプセンの
『人形の家』をなぞるかたちで彼
女は
「家出」を敢行する。ならば、不在の男性の聾の呼び
かけに腔じて外部に脱出する田並梅の行き先は、中国人で
あることが同時にコスモポリタンでもあるような新たな
「不朽」の世界のほかにはあ-えない。田並梅が待望する
144
-
のは'土着の因習と儒教の因習をともに乗-越えた、い
わ
ば
「すばらしき新世界」なのだ。ここに私たちは、文
学
(戯曲)とコスモポリタニズムが融合したひとつの例を見
ることができる。
しかし、その融合は既に
「不朽」において示唆されてい
たー
胡適の詩論の要石というべき沈ヂ款の詩が'「不朽」
のなかに引用されているのである。この詩は
「不朽」(政
治)と
「新詩を談ず」(文学)を媒介する蝶番のような役割
を果たしている。ここに'コスモポリタニズムと白話詩
(言文一致)の接黙があからさまに生じて-る。
そこに
「低い土壁があって'三弦を弾-ひとをその中
に囲い込んでいる」[一座低低的土播、遮着一個弾三弦的
人]とする。その三舷の音波は空間の内部に無数の波
動を起こす。その振動した生気の質鮎は、直接的間接
的に周囲の無数にある空気の質鮎を振動させる。この
波動は近-から遠-まで行き渡ることによって、無窮
の杢間に到る。現在から賂乗まで、いまこの剃郡から
「不朽」の修辞学
(福嶋)
無量の剃郡、無窮の時間に到る。これこそ、もう不滅
⑭
不朽なのだ
。
胡適は
「三弦」の音を暗室の束縛を超克した'いわば超
歴史的に遍在しうるものと考えている。それは時空を越え
て無矛盾のままで染み渡-'「無窮」で
「不朽」の
「融合」
に到着するだろう。そしてそのような遍在する音色こそ'
「新詩を談ず」において'最良の白話詩として稲えられて
いた皆のものではなかったか。白話詩を騒動する修辞と、
コスモポリタニズムを駆動する修節は'時空を越えた無制
限の世界と卑小な個人を接合する鮎ではっきり共通してい
る。こ
のように
『留学日記』に萌芽する
「政治の季節から文
学の季節へ」の韓回は'「不朽」における白話詩とコスモ
ポリタニズムの修辞上の縫合によって'さしあた-の完成
を迎えたのである。紛れのないきわめて純粋なコミュニ
ケ
ーションを志向すること'個別の能力の差異'文化的差
異'経済的な格差、その他すべての差異を消し去-'遍在
145
-
中国文学報
第六十九冊
する波動のイメージのもとで諸個人を統合することへそし
て'俸達を地球規模
・人類規模にまで接張すること。留学
期以来の胡適の勢力は'これらの目標のイメージ化に注が
れる。もちろん'こうした馨想を誇大妄想的だとして噸笑
するのは容易いが、しかし'諸々の差異を解消する思考様
式は、必ずしも胡適に限
った話ではない。賓際、こうした
費想そのものは、たとえば
「文学の季節」から再び
「政治
(マルクス主義)の季節」
へと韓回を見せ始めた
一九二〇
年代後半においても'なお兄
いだすことができるだろう
(l例を挙げれば'いわゆる
「創造穂の左旋回」が政治への深い
洞察というよりは、革命や大衆へのロマンティック
(文学的)な
賛美に基づいていたことはよく知られている)
。
胡適自身はやや方向を襲えている。「不朽」以後の胡適
は、白話詩そのものの整備を行うよりも'『国語文学史』
(一九二七年)や
『白話文学史』(一九二八年)といった著作
のなかで、「白話文学」の歴史的な正富化を目指している。
自ら言うように、彼の白話詩
へのコミッーメンーは'あ-
まで従来にない先例をつ-るための
「嘗試
(こころみ)」に
限られてお-、それ以上の追求については禁欲的である。
胡適が先鞭を付けた新詩は、しかし'成功したとは言いが
たい。賓際、後年彼はある講演のなかで、四十年前の新詩
連動とその展開を'次のように苦々し-振-返っていたと
いう。「新詩は軍に
「嘗試」にすぎなか
ったのであ-、今
に至るまで完全な成功を果たしておらず、ただ軍に口火が
⑮
切られただけである
」。その上で'胡適は'新文学は新詩
のみならず長編小説や戯曲においても遂に良質の作品を生
み出しえなかったと判断している。この述懐はある程度、
正鵠を射ていると言うべきだろう。
とはいえ、胡適がコスモポリタニズムと白話詩を通じて
企画していた
「俸達の純粋化」の問題系そのものは、賓際
には脈々と継承されている。たとえば、創造杜の詩論'大
衆語論争'革命文学論戦'第三種人論争などにおいて
「倍
達」は
一貫して問題化されているLtしかも最終的には紛
れのないコミュニケーション空間のイメージが優勢になる
鮎においても胡適と共通している。自己の同心囲状に贋が
る想像的な風景のなかに他者を取-込み、回収すること。
- 146-
-
少な-ともこの鮎においては'右翼と左翼、保守と革新の
別を問わず'多-の中国近代文学者たちが胡適ふうの思想
圏域に屠していると言うことができる。胡適は、政治思想
的にも文学論的にも'五四以降の言説杢間におけるウエル
メイドな類型をほぼ書き壷-してしま
った。そして、彼の
諸論文は'おおむね
「不朽」で示された調和論的な馨想の
圏内にあると考えられる。
四
結
語
以上のように、
一九二〇年前後の胡適は'個別から普遍
に到るための
「純粋な倍達」を問題化していた。賓際のと
ころ、胡適は'きわめて巧みに
「政治と文学」を縫合して
みせたと言えるだろう。この手際のよさは'同時代におい
て確かに際立
っている。だとすれば、今後追及されるべき
課題は'彼の巧みな縫合が二十年代後半以降いかなる締結
を迎えたかという問題であ-、また'近年胡適の著しい再
許債を遅行している解揮共同鰹が'どれだけ彼
の巧みな
「縫合」を吟味しえているかという近代文学研究の言説室
「不朽」の修辞学
(福嶋)
間に関する問題でもある。それはまた'胡適の名に託して
現在'肯定的に語られている
「個人主義」や
「自由主義」
の内案を再検討することにも
つながるのではないだろうか。
しかし、それらの問題を論じる紙幅は残されていない。
その問いに答える作業は'また別途なされなければならな
い。しかし'最後にひとつだけ'胡適ふうのコスモポリタ
ニズムに封して'最も早い段階からイロニカルな異議を申
し立てていた文学者の言葉を引用しておこう。以下の文章
は'「不朽」よ-以前に書かれているものの'胡適に封す
る暗款の歴答のようにも讃めて-る。
私が阿Qのために正博を書こうという気にな
ったのは、
もう
一年や二年のことではない。しかし書こうと思い
つつも、あれこれ選巡してしまう。ここからしても、
私が
「立言」の人ではないのは十分明らかである。昔
から不朽の筆というものは'すべから-不朽の人を俸
えるものなので、人は文を以
って停わ-'文は人を以
って俸わるとなるとー
結局'誰が誰によって俸わる
147
-
中国文学報
第六十九冊
のか、
だんだんよくわからなくな
ってくる。ともあれ、
ついに阿
Qを備えることにしたが、あたかも脳裏に鬼
⑳
(幽塞)が宿
っているような感じがする。
阿
Qは
「不朽」の人物ではない、と魯迅は明言している
-
このつまらない人物を
「博達」する上でつきまとう、
「幽霊」のような居心地の悪さとともに。もちろん、不朽
ならぬ阿
Qが'中国近代文学のみならず世界文学に名を連
ねる主人公となり、他方'胡適をはじめとする新文学の作
家たちがつむぎだそうとした
「不朽」の主人公が'今やほ
とんど忘却されているのは'皮肉でも何でもない。私たち
が見据えなければならないのは'他ならぬその必然性では
ないだろうか。
註①
GrLeder,JeromeB
Hu
ShLh
an
dtheCh
meseRenalSSanCe・
LlberalLSm
lntheChinese
RevolutLOn
]9]7・]937
Harvard
UnlVerSltyPress,)970,)990p.40
「ス
-
・
7-」
とは昔
時の胡適
の
自
稀。なお、
l九二
三
年の手紙に'綴-を
「Suh
HuJから
「HuShlhJに埜吏する旨の説明がある。『胡適全
集』(四十)(安徽教育出版赦、二〇〇三年)二1九頁。以下、
『胡適全集』からの引用に際しては'『全集』と略記した上'
巻数と頁数を記す。
②
胡適の受賞論文
"ADefenceofBrownLng〉sOptlmLSm"は
『全集』(三十五)で謹む
ことができる。さらにへその翌年
には'ブラウニングの美学と儒教の博統思想を結びつけた
"ThePhlLOSOPhyofBrownlngandConfuclanlSm"(同書所
収)が馨表
さ
れてい
る
ことにも注意したい。
③
『全集』(二十七)
一五四百。
④
「留学日記」『全集』(二十七)
1三二頁。
⑤
同上、三
二
l頁。"(tseemstomethatunlessweadopt
onestandardofrlgh
teousnessbothwLthln
andwithoutour
country,wehaven
ocommongroundonwhich
w
ecan
argue
⑥
同上、五八四頁。
⑦
同上、五三
l頁。「愛国是大好事ー惟告知国家之上更有
1
大目的在.更有
1更大之圏健在ー葛得宏斯密斯
(GoLdwLn
smith)所謂
「寓囲之上猶有人類在」(AboveaLLNattonsIS
Humanlty)是也。」
⑤
『留学日記』に
お
けるパトリオティズムの馴致に注目した
ものとしては、Grleder前掲書、と-わけ第二章を参照。本
稿も彼の議論には大いに示唆を受けている。
148
-
⑨
"TheRenalSSanCelnChlna"『全集』(三十六)
l六四頁。
"tn19)4,)9)5and19)6therewasanall・pervadLngsense
o
fdespatr.Anumb
e
ro
fy
oungm
encommlttedsulCldebe・
causetheycoutdthlnkof
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