Title Realitätの二義性 : 中世から近世へと至る哲学史の一断面
Author(s) 檜垣, 良成
Citation 近世哲学研究 = Studies in modern philosophy (2015), 19: 1-34
Issue Date 2015-12-25
URL https://doi.org/10.14989/212534
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
の
二
義
性
Realität
―
―
中世から近世へと至る哲学史の一断面
檜垣
良成
という語がカント批判哲学において二義的に使
Realität
用されているという事実は、現代ではよく知られている。
しかし、この二義性がいかなるものか、そして、そのよう
な二義性がいかにして生じたのかについては、正確な理解
が得られているようには思われない。本稿は、後者の問題
に注目することによって前者の問題に答える試みである。
一
二義性の問題
カントの講義を記録した或る筆記ノートに次のように書
(
一)
かれている。
「
〔ママ〕という言葉は二重の意味で使用
Realitaet
される。〔
すなわち〕形容詞的に〔
〕使用され
(
一)adjective
、、、、、
る。その場合、それは客観の形式のみを意味し、した
、、、、、
がって形式的に〔
〕適用され、しかもその場
formaliter
、、、、
合、それは単数形でのみ使用されうる。例えば、諸表
象、諸概念は客観的な
をもつ。……
Realitaet
、、、、
あるいは名詞的に〔
〕使用される。
(
二)substantive
、、、、
その場合、
は客観の質料的なものへ関係づけ
Realitaet
、、、、、、、、、
られ、複数形でのみ使用されうる。なぜなら、物の諸
、、、
々の
がそれ自体そのもので考察されるから
Realitaet
、、
である
。
」(XXIX
1000
)
1/ の二義性Realität
このテクストは、カント自身が
の二義性に自覚的
Realität
であったことを示すものである。ここで
の名詞的
Realität
使用と言われているものは、ドゥンス・スコトゥスに由来
しデカルトの
で有名になった
の用
realitasobiectiva
realitas
«res»Wesen
法につらなるものであり
「各々の
〔物〕の
、
Wesenhaftigkeit
(
)
essentia
〔
〕
、
、
本質
ないし
よりよく言えば
〔本質性〕」を意味する
を継承するも
(essentialitas
)
realitas(
二)
のである。
十八世紀前半にドイツ哲学の礎を築いたクリスチャン・
ヴォルフは
『第一哲学あるいはオントロギア』において
、
(
三)
言う。「
存在〔
〕しうるもの、したがって、それに存
existere
、、
、、、
、
在〔
〕が抵触しないものは、
〔有〕と言わ
existentiaens
、れる
。
」(§134
)
「ある〔
〕もの、あるいは、ありうると把握され
esse
、、
、、、、
るものはどれも、それが或るもの〔
〕であるか
aliquid
、、、、
ぎり、
〔物〕と言われる
。
res
」(§243
)
これらの
と
の定義からわかることは
とは
存
ensres
ens
、
「
在しうるもの」であり、この同じものが、それが「或るも
の」であるかぎり、
と呼ばれるということである。
res
「例えば、樹木は、
とも
とも言われる。すなわ
ensres
ち、あなたが存在を顧慮するなら、
と言われ、そ
ens
、、
れに対して、あなたが何性〔
〕を顧慮するな
quidditas
、、
ら、
と言われる
。
res
」(ibid.
)
つまり、
と
との間には事柄の上での差異はない。
ensres
しかし、ものを見る観点が違う。何らかのものは、それが
ens
「
」
、
存在しうる
という観点から見られるかぎりにおいて
と呼ばれ、それが「或るもの」であるという観点から見ら
れるかぎりにおいて、
と呼ばれるのである。同一のも
res
のは
それの
存在
を顧慮するか
それとも
それの
何
、
「
」
、
、
「
性」を顧慮するかの違いに応じて、
あるいは
とい
ensres
う異なる名をもつ。
このような
と
との区別は、中世以来の伝統的区
ensres
。
、『
』
別である
例えばトマス・アクィナスも
真理について
の二義性/2Realität
3/ の二義性Realität
第一問第一項主文において、同じ区別を述べている。すな
ensesse
actusres
わち
はあること
の
から取られるが
、「
〔
〕
、
、、、、
という名は
の何性ないし本質を表現する」のであり、
ens
、、
、、
同一のものが、それが「ある」という観点から見られるか
ぎりにおいて、
と呼ばれ、それが「本質」をもつとい
ens
う観点から見られるかぎりにおいて、
と呼ばれる、と
res
いうのである。ヴォルフとトマスは、どちらも
「それが
、
ある」ということと
「それが何かである」ということと
、
を区別しており、その区別に基づいて
と
とを区別
ensres
している。中世以来、
に対置されるかぎりでの
と
ensres
いう言葉は
「それが何かである」ということを顧慮した
、
言葉であって
「それがある」ということを顧慮した言葉
、
ではないのである。
という言葉は古典時代以来のものであるが、
とres
realis
いう形容詞は古典ラテン語に見いだされず、スコラ学者が
から造ったものである。
は、
が「何かである
resrealis
res
もの」を指し、直接には「存在」を意味しないということ
からすれば、当然「現実的
を意味しない
「現
」
。
(
)
actualis
」
、「
」、「
」
実的
であるかどうかにかかわりなく
の
的
resres
ということを意味し、
との対比の側面では「それが何
ens
かである」ということを示すのである。抽象名詞化された
という言葉は
さらに後のものであり
ドゥンス・
realitas
、
、
スコトゥスにおいてはじめて使用された言葉である。この
「
」
、「
」
、
語も
現実性
を意味せず
性
として
(
)
Wirklichkeit
res
彼においては
の徴表
を意味し
何性
ないし
本
、「
」
、「
」
「
res
質」と同類の言葉である。ヴォルフも、先に挙げた『オン
トロギア』における
の定義に続けて言う。
res
「だから
は、或るものであるものによって定義さ
res
、、、、
れうる。そこから、
も何性も、スコラ学者たち
realitas
、、
においては、同義である
。
」(§243
)
、
「
」
、「
」
ここでは
は
何性
と同一視されており
本質
realitas
そのものであるが
『自然神学』においては、
は、
、
realitas(
四)
ParsII,
「
」
或る
に真に内在すると理解されるものすべて
ens
(
と定義される。すなわち、物の本質的述語の総括と
§5
)
res
しての
本質
そのものではなく
もっと広く一般的に
「
」
、
「
の徴表」を意味するのである。
の二義性/4Realität
カントが名詞的使用と呼ぶ
ないし
の概念
realitasRealität
、
。
については
アンネリーゼ・マイアーの詳細な研究がある
(
五)
彼女は、特にカントの直前の十八世紀ドイツの講壇哲学に
おける用法を丹念にたどることを通して、カントの質のカ
テゴリーとしての
および
の由来を疑いの
Realität
Negation
余地がないほど明白にした。カントの名詞的用語法が直接
つながっているのは、アレクサンダー・ゴットリープ・バ
ウムガルテンの『形而上学』における
と
の
realitasnegatio
(
六)
定義である。
「規定することによって或るものにおいて定立される
ものども
は、規定である。一方の積
(徴表および述語)
、
極的〔
〕で肯定的〔
〕な規定は、
positivusaffirm
ativus
、、
、、、、
、、、
それが真にそうなら、
である。他方の否定的
realitas
、、、
negativusnegatio
〔
〕な規定は、それが真にそうなら、
、、、
〔否定性〕である
。
」(§36
)
バウムガルテンにおける
は
「規定」であるから、
realitas
、
まさに「それが何であるかの内実をなすもの」としてスコ
トゥス以来の伝統につらなっているが
「肯定的」という
、
限定が加わることによって、カントの質のカテゴリーとし
ての
との連続性が一層明白である。というのも、
Realität
後者は肯定的判断の形式から導かれ、否定的判断の形式か
ら導かれる
に対置されるからである。
Negation
さて問題は、カントが形容詞的使用と呼んでいるほうの
の由来である。一九九八年に公刊された『岩波哲
Realität
学・思想事典』の「実在性
の項を
」(
)
reality,Realität,
réalité(
七)
執筆した木田元氏は言う。
「通常「実在」ないし「実在性」と訳され、日常用語
(〔
〕
では
現実
ないし
現実性
と訳される
、「
」
「
」
actuality
独
と等価的に使われるが、哲
Wirklichkeit
actualité,
〔仏〕
)
。
、
学用語としては両者は異なった文脈に属する
つまり
が
、
と共
actualitypossibility
necessity
(可能性
(必然性)
)
に事物の存在様相を意味する存在論的概念であるのに
、、、、、、、
realityideality
ideality対して
は
と対をなし
、
、
(
)
観念性
が意識のうちに観念としてあるあり方を意味するのに
、、、、、、、、、、、、、、、、
対比して、
は意識とは独立に事物・事象として
reality
、、、、、、、、、
、、、、、
5/ の二義性Realität
。
、
あるあり方を意味する認識論的概念である
もっとも
、、、、、
中世から近代初頭にかけて哲学用語として使われたラ
(およびそ
テン語
やその元となった形容詞
realitasrealis
には「実在性
「実在的」という意味はな
の近代語形)
」
かった。
は
に由来し、その物が実在す
realisres
(物)
るか否かに関わりなしに
〈物の事象内容に属してい
、
、、、、、、、、、、、
る〉という意味であり、
も可能的な事象内容を
realitas
、
、、、、、、、、
realitas
意味した
「第二省察」においてデカルトは
。と
とを区別しているが、この
objectivarealitas
actualis
場合も前者は心に投射
された事象内容、つ
(
)
obiectere
(
)
まり可能的事象内容を、後者は現実化された
actu
事象内容を意味している。ライプニッツも
を
realitas
と等置しているし、カントが
possibilitas
(可能性)と
言う場合も、それは実在物の総体
omnitudo
realitatis
のことではなく、およそ可能な事象内容の総体のこと
であった。また彼が神の存在の存在論的証明を論駁し
real
ようとして提唱する「
存在する〉ということは
〈
な述語ではない」という命題における
も〈事象内
real
容を表わす〉という意味である。その
が「実
Realität
在性」という意味をもつようになったのは、カントのと
objektiveRealität
(客観として現実化された事象内容)
、、、、、、、、、、、、、、、
いう慨念を介してであり
カントのもとで
の
-subjektiv
意味に対応して
の意味も変質した
、次第に
objektiv-
だけで〈現実に存在する事象〉を意味するよ
Realität
、、、、、、、、、
うになったのである
。
」(六五九頁)
Realität
さすがに簡にして要を得た説明であり
特に前半の
、
と現実性との区別についての記述は、欧米人が混同しがち
な点だけに適切である。しかし、後述するように、二、三
の重要な論点で語弊のあるまとめとなっており、特に
とカントが言うときの
を
「事象
objektiveRealität
Realität
、
内容」という意味で理解している点には無理がある。カン
ト自身が本節冒頭のように使用法を明確に区別していると
いうこともあるが、形容詞的使用の
のこのような
Realität
理解は、カントのテクスト解釈上で齟齬を惹き起こすから
である。
(ただし、
という形容詞の意味理解の
木田氏も同主旨の
real
テーゼを
点では重大な問題を含んでいることが後で判明する)
の二義性/6Realität
引用しているが、カントが
な神の存在証明を
ontologisch
、
「
」
批判するときに表だって唱えるテーゼは
そもそも
存在
というものは神の事象内容をなすような一つの
で
Realität
はないというものである
。この点に
(vgl.XXVIII
313,1027
)
おいて「存在」には
「何であるか」という問いの答えと
、
なるという意味での
という性格が否定されているので
real
ある。ところが、同じ「存在」には逆に、
という性格
real
。「
」
、
が積極的に肯定されることがある
存在
というものは
コプラとしての
ないしは真理の別名である「論理的
Sein
な現存在」から区別された「
な現存在」でなければな
real
。
、
らないというのである
このことは
(
)vgl.
XXVIII
313,493
「現存在」ないし「現実性」という様相のカテゴリーは、
をもつ場合には、単なる「思想形式」
objektiveRealität
とは異なる
なものでなければならな
(
)
Gedankenform
real
いということを思い起こせば合点がいくであろう
「事象
。
」
「
」
内容
にかかわるという意味での
という性格は
存在
real
に対して自覚的に否定されているので
「事象内容」にか
、
real
かわるという意味を保持したままで「存在」に対して
という性格を肯定することになる解釈にはやはり無理があ
ると言わざるをえない。
(
八)
また、カントが名詞的使用と呼ぶ
の概念の解明
Realität
には多大なる貢献をした
・マイアーであるが、彼女の
A
、
、
二義性理解も
確かに一見もっともらしく見えるけれども
問題を含むものである。
彼女に従えば、ドゥンス・スコトゥスの「
の徴表」
res
としての
は、二つの道を通って近世哲学の中へ流
realitas
。
、
、
れ込んだ
一つは
大陸の理性主義哲学へと至る道であり
この哲学においては元の意味が保持された
は
単
。
「
realitas
に現実的な物にのみならず可能的な物にも帰属するような
徴表
である。もう一つは、オッカムを経て英国哲
」(
)
S.11
、
「
」
学へと至る道であるが
ここにおいては
は
存在
realitas
を意味する言葉となった
「唯名論
という
。
」(
)
Nom
inalismus
特異な学説がそのような帰結をもたらした、と彼女は言う
のである。
「
、
オッカムのウィリアムと彼の後継者たちにとっては
本質性は、個別的な形式であり、もはや本質概念では
、、、
、、
。
、
、
〔
〕
ない
は
ここでは
具体的な存在
essentiaexistieren
、、、、、、
7/ の二義性Realität
する個物の本質を意味する。それは、それの個別的な
、、、、
、、、
諸特性の総括であり、このため、存在〔
〕を
Existenz
、、
特徴的徴表として含む。オッカムは、その上、次のよ
うに言うところにまで行く
「
と
とは
。
existentiaessentia
」。
、
全く同じものを表示する
ここから確かに
は
realitas
本質性を表現する述語でありながら、存在概念
、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、
〔
〕
。
、
Seinsbegriff
への意味変容を被りうる
そうすると
英国経験主義における
という同一視
reality=existence
は、唯名論の所業以外の何ものでもないであろう」
、、、
。
(a.a.O.
)
このような哲学史理解を土台として
・マイアーは、
A
カントが空間について言う
が英国の術語を受容し
Realität
たものであることを示唆する。
「次のようなことは確実である。カントは一七六八年
の小論文の成立直前に、細目にわたってニュートンと
かかわりあい、疑いもなく、空間の
に関す
„ Realität
„るその諸論議と共に、クラークとライプニッツとの往
復書簡も読んだ
。
」(S.32
)
一七六八年の小論文とは
『空間における方位の区別の第
、
一根拠について』のことである。ここに現われる「空間の
(
九)
を踏まえて彼女は
カントは一七六八年以降
真
Realität
」
、
、「
Realität
reality
に肯定的な規定
としての
と並んで
英国の
」
、
に従う
、すなわち、彼女によれば「現実性」ない
Realität
し「現実妥当性
を意味す
」(
)
Wirklichkeitsgeltung,
vgl.S.8,32
る
を新しく導入する、というのである。
の
Realität
Realität
二義性を「可能性」と「現実性」との対比に見るという視
点がそもそも問題であるということが次節で明らかにされ
るが、英国哲学の
の影響としてカントが
reality=existence
形容詞的使用と呼ぶ
の用法の出現を理解する同じ
Realität
ような解釈は、ギュンター・ツェラーの『カントにおける
理論的な対象関係
『純粋理性の批判』における
―および
という術語
„„
objektiveRealität
objektiveGültigkeit
„„
J.-F.
の体系的意味のために
や
哲学の歴史的辞典
中の
』
『
』
(
一〇)
による
ないし
の項目
Courtine
Realitas
Realität/Idealität
„„
„„
の説明においても窺われる。
(
一一)
の二義性/8Realität
このような解釈は確かに哲学史的には魅力的である。し
Realität
かし
もしこの解釈が正しいとするなら
カントは
、
、
、
という同じ語に、相互に矛盾する二つの意味をもたせるこ
とになる。というのも、カントは前批判期の遅くとも『神
の現存在の唯一可能な証明根拠
以降におい
』(一七六二年)
ては、自覚的に「真に肯定的な規定」としての
が
Realität
「存在」を意味することはないと主張し続けているからで
ある。それなのに、
の
が「存在」
objektiveRealität
Realität
として解釈されうるとすれば、両方の意味は矛盾的に対立
(ハイデガー)
することになる。なるほど確かに、木田氏
の解釈とは違って、
・マイアーの解釈は両
を由
A
Realität
来の異なる同名異義語として処理するものなので、相互に
矛盾する意味をもつという解釈も全く不可能というわけで
はない。しかし、もしこの解釈が正しいとすれば、たまた
まとはいえ、新たに導入した同名異義語が、以前から使用
していた同名の語からみずからが意識的に排除した意味を
もつことになってしまうのだから、カントは当然どこかで
そのことに対して弁明をなすべきであろう。しかし、その
ような箇所は見当たらない。それどころか、両
の
Realität
形式的
質
違いを同じ一つの語の形容詞的
使用と名詞的
(
)
(
使用との区別として了解しているのである。この区
料的)
別を由来の違いという外的原因によって理解するのは妥当
objektiveRealität
ではないであろう。確かにカントが
„
(
)
(
)
()
Existenz
A569/B
597
„
と書いた箇所はある
しかし
。
、
による併記は外延の一致を保証するわけではない。以下で
は、中世以来の哲学史上でカント批判哲学の内容そのもの
がもたらした必然的帰結として、彼が形容詞的使用と呼ぶ
の使用法の出現
を明ら
Realität
(正確には、或る種の再生)
かにしたい。
(
)
(
)
二
概念
と実在
ratiores
前節で
の元になった
が
との対比において
realitasres
ens
もつ意味を確認した。本節では、
が
との対比にお
resratio
いてもつ意味を明らかにしたい。アリストテレスが『命題
論』第一章で
「音声のうちにあるもの
は「魂の
、
」(言葉)
うちにある受動態
のシンボルであり、魂の受動
」(概念)
nomen
ratio
態は
物
の類似である
と言って以来
「
」
、
、
(
)名
-
9/ の二義性Realität
の相関関係は、オントロギアや認識論
(概念)
(物)
-res
の基本問題となった。この場合の
とは「もの」である
res
(本稿
が
「物」と「心」と言うときの「もの」ではない
、では、ひらがなの「もの」という表記は
「
」付きでないかぎ
、
り、
の訳語と認識されにくいので、ドイツ語の
の定訳と
resDing
。
は「物
の関連もあって
を「物」と表記するけれども
res
)
res
体」に限定されず
「魂」や「神」をも含む「もの」であ
、
る。ただし
「魂」そのものは
であるが
「魂」におい
、
、
res
てある「もの」は
ではない。むしろ
「魂
の
res
、
」(知性)
うちに「概念
としてある「もの」に対立するとい
」(
)
ratio
うことが、
という語のきわめて重要な意味をなす。こ
res
の意味に注目するなら、例えばトマス・アクィナスが
と対比して
と言う場合の意味が明らかにな
rationisrealis
る。
「
〔実在界における有〕ではないも
ensin
rerumnatura
のが、
〔概念における有〕として受けと
ensin
ratione
られることがあるのであって、ここから諸々の否定
〔
〕や欠如〔
〕が
〔概念有〕
negatioprivatio
ensrationis
(
神学大全』第二
一部第八問第一項第三異
と言われる」『
-
。
論解答)
トマス自身は
という術語を用いなかったが、こ
ensreale
こで
と言われているものがそれに相当
ensin
rerumnatura
し、まさしく
と対比されている。ここでは、
ensrationis
単に
概念においてある
だけでなく
実
「
」
、「
(
)
esseinratione
在においてある
」ということが主題化されてお
(essein
re
)
り、
に対置される
は「単にそう考えられるだ
rationisrealis
けでなく、実際にそうである」という意味で「実在的」と
訳すのがふさわしいということがわかる。この場合、
は「実在的に
、
は「実在」と訳しう
realiterres
(実際に)」
るであろう。
という語は、
と
との存
rationis,realis
ratiores
在身分の違いに応じて、この文脈では「いかにあるか」と
realitas
いうあり方を示しているのである。トマス自身は
という抽象名詞は使わなかったが、ここに
というもの
resがもつもう一つの重要な性格、すなわち「実在性」という
。
、
性格が明らかになっていると言ってよいであろう
つまり
性としての
が「実在性」と訳されるに値する語
resRealität
の二義性/10Realität
であることが、既に中世において事柄としては見いだされ
るということになる。カントが
という語
objektiveRealität
(
一二)
で表現した事柄は特に新しいものではないのではないだろ
うか。
、
「
」
「
」
また
の例として
否定
や
欠如
ensrationis
(
)
negatio
が挙がっていることにも注意されたい。前節で
(
)
privatio
見たバウムガルテンの定義では
「真に肯定的な規定」と
、
しての
は
に対置されていた
「肯定的」と
realitasnegatio
。
「否定的」との対比は、単なる論理的対立に見えたかもし
れないが、バウムガルテンにおいては「実在的」対立であ
る。というのも、例えば「善」と「悪」との対立は、一見
「肯定」どうしの対立に「見える」が
「実は」悪は善の
、
単なる「欠如」にすぎず
「実際には
「あるのではない」
、
」
とされるからである
「真に肯定的」ということは、単な
。
る「名目」上のことではなく「実際の」ことであることに
注意しなければならない。この点では
「真に肯定的」は
、
ensrationis
前段落で見た
実在的
に重なり
真の否定
は
「
」
、「
」
。
「
」、「
」
にほかならない
は
積極的な有
肯定的な有
ensreale
と言いうるものなのである。ここに、前節で見た「事象内
容」にかかわるという意味での
と「実在的」という
realis
realisres
ens
意味での
との重なりが明らかになる。
には、ratio
との対比においては「何かである」という性格が、
との対比においては「実在的」という性格が見いだされる
が、両者は区別可能でありながらも、同じ
の性格とし
res
て重なり合っているのである。単なる「事象内容
、純然
」
たる「概念」上の「内容」は決して
とは呼ばれな
realitas
い。
のシノニムでありえた「本質」は、現代では
realitas
ジョン・ロック以降の「抽象観念」の意味で理解されるこ
とが多いが、それは
にすぎないのであっ
nominal
essence
て、決して
とは呼ばれえない。プラトンの「イデ
realitas
ア」も、アリストテレスの「形相」も、トマスの「本質」
も
「実在」としての物を「実際に」まさにその物たらし
、めているものである点に留意すべきである。まさしく「実
在が実在的にあること」としての「実在性」を成り立たし
、「
」
「
」
めているものが
形相
であり
本質
(
)
formadat
esserei
。
、『
』
、
である
トマスも
有と本質について
第一章において
いわゆる
だけが「本質」をもつのであって
「実
ensreale
、
在的」ではない
としての
は「本質をもたな
ensens
rationis
11/ の二義性Realität
い
と明言している
後者がもつのは
何であるか
の
意
」
。
「
」
「
ratio
味
ないし「概念
といった
」
」
(
)
(
)
significatioconceptio
にすぎないのである。デカルトの
にして
realitasobiectiva
(
一三)
も、
を前提できるのでなければ、
と
realitasform
alisrealitas
呼ばれえないであろう。したがって、ドゥンス・スコトゥ
realitasratio
res
ス以来の
も、
とは区別されたこの意味での
性を表現する言葉としては、むしろ「実在性」と訳されて
しかるべき言葉なのである。
ないし
の二義
realitasRealität
性を理解することの難しさは、カントが言及した名詞的使
用と形容詞的使用という抽象名詞使用の一般的な区別に加
(
何であるか」の
えて、
に対して
がもつニュアンス
ensres
「
側面)
いかにある
と
に対して
がもつニュアンス
ratiores
(「
とが区別可能であり、しかも、この二つのニ
か」の側面)(
同じ
の二つの側面であるから当然であるが)
ュアンスは
res
元来深くかかわりあっていたという点にある。
「実在性」を理解する上でもう一つ注意すべき大事な点
、
「
」
「
」
は
この語が
何であるか
の側面および
いかにあるか
(
)
の側面のいずれにおいても
現実性
「
」actualitas,Wirklichkeit
とは異なる次元の区別を表現するものであるという点であ
る
カントが名詞的使用と呼んだ
は
主として
何
。
、
「
Realität
かであるもの」を意味し、そもそも「いかにあるか」とい
う「あり方」を主題とする言葉ではないから、様相として
の「現実性」を意味しないのは当然であるが、形容詞的使
(この場合
「いかにあるか」を表
用と呼ばれた「実在性」も
、
)
(「
」
現することが多いが
現実性
「
」
現実性
と重なりはしない
(可
にとっての必要条件ではあるが
(現実)
)。actus
potentia
と
との様相の区別は
本来は
現代人が考えるように
実
能)
、
、
「
在」と「概念」との
に重なるわけではな
(あり方の)区別
。
、
い
あくまでも
の領域内での
区別であり
res
(
)
あり方の
アリストテレスにおいても
においてもライプニッ
トマス
、
、
ツ・バウムガルテンにおいても
そしてカントにおいても
「可能なもの」は
すなわち実在なのである。つ
res
(
)
Ding
まり
「可能性」も「実在性」を必要条件とする。そうで
、
あるからこそ、アリストテレスは、パルメニデスやプラト
ンに抗して
「運動」の実在性を主張することが可能だっ
、
たのである。というのも、運動は可能態から現実態への移
、
、
行と見なされうるが
これが実在的なものであるためには
可能態
も単なる思想物であってはならず、
(可能なもの)
の二義性/12Realität
それ自身、物としての実在性をもたねばならないからであ
(ハイデガー)
(そして多くの
る。木田氏
も
・マイアーも
A
、カントが言う形容詞的使用の
を「現実
欧米人が)
Realität
性」と同一視しているが、これはカントのテクストとも整
合しない
「概念」の
のためにはその概
。
objektiveRealität
念の「対象」の「可能性」があれば十分であって、その物
vgl.A220/B
268,
が「現実的」である必要はないからである(
「可能性」というカテゴ
A223/B
270,A596
Anm
./B624
Anm
.)。
objektive
リーもあくまでも「対象
の概念であり、
」(物)
をもつべきものである。木田氏が
初に言ってい
Realität
res
たように
現実性
可能性
および
必然性
は本来
、「
」、「
」、
「
」
の存在様相を意味するものであって、
の領域を越えた
res(
、
視点から
そもそも
の側にあるのか否か
―
res
あるいは
の様相を表現する
とres
との関係をもつか否か)
―
Realität
は異なる文脈に属している概念である。
両文脈の関係が典型的な仕方で明らかになるのは、カン
タベリーのアンセルムスが『プロスロギオン』第二章で展
開した、いわゆる
な神の存在証明である。彼
ontologisch
によれば、神は「それより大きな何ものも考えられえない
或るもの」であるが、このような言葉を聞く者は、たとえ
無神論者であっても、その言葉の意味するところを知解
する。知解しているものはその人の「知性
(
)
intelligere
のうちにある
ことは間違いないが、
」(
)
essein
intellectu
無神論者は、それだけであって当のものが「実在的にもあ
る
ということを認めないのである。しか
」(
)
esseetinre
し、そのような想定は不可能である。
「なぜなら、もし少なくとも知性のうちにだけでもあ
、、、、、、、、、、、
る〔
〕なら、それが実在的にもあ
essein
solointellectu
、
、、、、、、
る〔
〕ことは考えられうるし、このことが
esseet
inre
、
、、、、、、
より大きいからである。それゆえ、もし、それより大
きなものが考えられえないものが、知性のうちにのみ
あるなら、それより大きなものが考えられえないもの
、、、、、、、、、、、、、、、、、
自身が、それより大きなものが考えられうるものであ
、、、、、、、、、、、、、、、、
るということになる。しかし、もちろん、それは、こ
のようなものであることはできない。それゆえ、疑い
もなく、それより大きなものが考えられえない或るも
existereet
のは、知性のうちにも実在的にも存在する〔
、、、、、、、、、、、、、、、、
13/ の二義性Realität
S.A
nselmi
Cantuariensis
Archiepiscopi
intellectuet
inre
〕」(
。
Opera
omnia,
ed.Schm
itt,I,p.101f .
)
ここで注意すべきは
「知性のうちにのみある」というこ
、
とは「可能的にある
ということとは別
」(
)
esseinpoten
tia
。
、
であるということが前提されている点である
というのも
神の場合、そのようなものが「
可能」であるな
(実際に)
ら直ちに「現実的」であるので、証明も何も必要なくなっ
(妥当かどう
てしまうからである。アンセルムスの証明が
意味をなすためには、あるものが「概
か以前にそもそも)
念
として「知性のうちにある」ということと、
」(
)
ratio「
」
「
」
それが
可能的にある
という場合の
実在性
(
)
実際に
とが区別されていなければならないのである。アンセルム
スの証明を批判したトマス・アクィナスも言う。
「たとえ誰かが、この神という名によって、言われて
いること、すなわち、それより大きなものが考えられ
えないものが、意味〔
〕されているというこ
significare
、、
、、、、、
とを知解するとしても、だからといって、このことに
よって、その人が、名によって意味されているものが
実在界にある〔
〕と知解していると
esseinrerum
natura
、、、、、、
いうことは帰結せず、ただ知性の把捉のうちにある
、、、、、、、、、、、
〔
〕と知解しているとい
essein
apprehensioneintellectus
(
神学大全』第一部第二
うことが帰結するにすぎない」『
。
問第一項第二異論解答)
トマスも
「知性のうちに概念としてある」ということ
、
と「実在界にある」ということとを彼の立場から自覚的に
区別しながらアンセルムスに切り返している。ここから、
少なくとも中世においては既に、後にカントが「思想物」
のあり方に対
(
=
)
Gedankending
ensrationis,
vgl.A290/B
347ff.
、
置して用いるような形容詞的使用の
が
Realität
(
)
vgl.II383
たとえ抽象名詞としては言語化されていなかったとして
も、事柄としては扱われていたことが明らかであろう。
という言葉そのものは確かにまだ用いられること
realitasがなかったが、
という表現で
essein
re,esse
inrerum
natura
同様の内容が表現され、
という副詞の形でも
esserealiter
用いられていたのである。現代において通常理解されるよ
(
一四)
の二義性/14Realität
うな意味での「実在性」の概念は、カントにおいてはじめ
て問題とされたということではないのである。
三
近世理性主義哲学における
実在性の概念
しかし他方で、現代において通常理解されるような意味
での
ないし
の用法がカント以前の大陸の哲
realitasRealität
学においては見当たらないように見えるのも確かである。
このことの理由を本節では説明したい。
に対する
の性格を表わした
という形容詞
ratiores
realis
の意味は、近世の理性主義哲学においては、その理性主義
。
、
(
)
Rationalism
us
的な立場故に或る変質を被る
このことを
デカルトの有名な明晰判明の規則のバリエーションに見る
ことができる。
「私が或る
の観念を私の思考から取り出しうると
res
いうことだけから、私がその
に帰属すると明晰判
res
、、、
reverares
明に知覚するあらゆるものが実際〔
〕にその
、、、、、、
、、
、
に帰属するということが帰結する
。
」(
)
VII65 (
一五)
あまり注目されてこなかったが、デカルトの第五省察にお
けるいわゆる
な神の存在証明の前提となって
ontologisch
いる規則がこれである。デカルトは単にアンセルムスの証
明を再登場させているのではない。むしろ、アンセルムス
の証明に不備があるという点ではトマスと同意見であると
明言している
。すなわち、どれほど「言葉」
(cf.VII
115
)
によって「単に知性のうちにあるだけではなく、実在的に
もある」ということが帰結しようと
「その〔実在的と称
、
する〕存在〔
〕自体が実在界において現実的に何
existentia
、、、、、、、、、、、、
かである〔
〕ということは帰
essein
rerumnatura
actuquid
、、、、
結せず、ただ
高の
の概念〔
〕と存在の概念
ensconceptus
、、
、
、、
が不可分離的に結合されているということが帰結するにす
、、、、、、、、、、、、、、
ぎない
可能性を認めるのである。それゆえ、証
」(
)
VII
99
明に先立って先のテーゼが確認されている必要があった。
第三省察で確立された一般的規則は「私がきわめて明晰判
」
、
明に知覚するものはすべて真である
というものであるが
「
」
、
先の引用で
明晰判明に知覚される
ことに該当するのは
15/ の二義性Realität
に帰属するもの、すなわち、
の徴表がまさに
に
resres
res帰属することそのことである。そこから帰結するのは、明
晰判明の規則を普通の意味にとるかぎり
「徴表が
に
、
res
帰属することは真である」ということのはずである。とこ
ろがデカルトは、この「真である」ことをここでは「実際
にそうである」ことへ読み替えている。この実
(
)
revera
際性は
「単に知性のうちで概念と概念が結合されている
、
にすぎない」ということと対比された
「実在界において
、
現実的に何かである」ということの実在性なので、まさし
く本稿で言う「実在性」のことであると言ってよいであろ
う。つまり、明晰判明の規則は「私がきわめて明晰判明に
知覚するものはすべて実在的である」と言い換えられうる
ものだったのである。そのことは、デカルトがアンセルム
、「
〔
〕
〔
〕
スを批判して
言葉
によって意味
verbumsignificare
されるものが、その故に」実在性をもつということは明ら
かではないと言うべきところを、逆に「真であるというこ
とは明らかではない
と言っているところから
」(
)
VII
115
。
「
」
「
」
も裏づけられる
デカルトにおける
真理性
は
実在性
と切り離して理解することはできないのである。
このことが意味することは
「いかにあるか」というあ
、
り方を意味するはずの実在性が「何であるか」という事象
内容
に還元されているという
(ただし
「真の」事象内容)
、
事態である。第五省察からは次のように再構成されうる議
論が見いだされる。
「馬」を「翼」とともに想像する
か否
(
ペガサス
)
「
」
かは自由であるが
「内角の和が二直角」でない「三
、
角形」を考える自由はない。つまり
「内角の和が二
、
直角である」ということは「三角形」の本質である。
、、
したがって
「三角形は、内角の和が二直角である」
、
res
ということは思考がもたらすこと
つまり
思考が
、
、
、、、、、、、
、、、
に必然性を課することではなく、反対に、
そのも
res
、、、、、、、、
、、、
のの必然性が、そのように考えざるをえないようにし
、、、、、
、、、、、、、、
ているのである
。
(cf.VII66f.
)
ここでは
「三角形は、内角の和が二直角である」という
、
「
」「
」
、
ことは
における
実際の
ことであるという事柄が
res
内角の和が二直角である
ということは
三角形
の
本
「
」
「
」
「
の二義性/16Realität
質」であるという事柄に還元されている
「実際にそうで
。
ある」ということは「いかにあるか」の意味での実在性に
ほかならないし
「本質」というものは「何であるか」の
、
問いに答えるものなので
いかにあるか
の実在性が
何
、「
」
「
であるか」の問題に還元されているわけである。
同様の事情は
「あらゆる真なる命題の述語は主語に内
、
在する」としたライプニッツの哲学のうちにも見いだせる
であろう。というのも、そのような、いわば「分析的」な
認識論が可能であるためには、すべてが「概念
の
」(
)
ratio
「
」
。
内容
によって処理されえなければならないからである
その上、彼においては、明らかに形容詞的使用と見なしう
、
、
る
という抽象名詞も現われているが
その意味は
realitas
批判期カントが形容詞的使用と呼んだものやトマス哲学に
おいて事柄としては扱われていたものとは異なっている。
すなわち、一六八四年の『認識、真理、および観念につい
ての省察』において、定義が「唯名的
である
」(
)
nominalis
か、それとも「実在的」であるかということが問題になっ
た際に「定義の
という表現が現われてい
realitas
」(
)
IV425 (
一六)
。
、
「
、
」
る
これは
定義が
唯名的ではなく
実在的であること
。
、
を意味する形容詞的使用と解するのが妥当であろう
また
『
』
実在的な現象を想像的な現象から区別する方法について
、
「
」
「
」
において
どのような現象が
実在的
であって
想像的
ではないかを論じる文脈で現われる「現象の
(
)
imaginarius
も形容詞的使用と思われる。
realitas
」(
)
VII320
「私たちは定義を、私たちが、それらが実在的である
、、、、、、
ということ〔
〕……を知るより前には、結論
esserealis
、、、、、
を出すために安全に使うことはできない。……私たち
は、単に
を他の
から区別する徴表を含むだけ
resres
rem
の唯名的定義と、
が可能であるということ〔
res
、、、、、、、、、、、
〕を確定する実在的定義との間の差異
essepossibilem
、、、
をもつ。……定義の
は恣意においてあるので
realitas
はなく、任意の概念は相互に結合されうるとは限らな
、、、
い
。
」(IV424f.
)
「実在的定義をもつために、概念が恣意的に結合され
、、、、、、、
ることはできず、それらから可能な概念が形成されね
、、、、、
ばならない。……そこから、あらゆる実在的定義は、
少なくとも可能性の、幾分かの肯定〔
〕を含
affirmatio
、、
17/ の二義性Realität
むということが明らかである
。
」(VII295
)
(形
定義が「実在的であるということ
、すなわち定義の
」
実在性は、定義の対象となる「
が可能で
容詞的使用の)
res
あるということ
を含意する
この形での
実在性
と
可
」
。
「
」
「
能性」との関係自体は、トマスや批判期のカントと同じで
あるが、その「
の」可能性が
「概念がいかなる矛盾も
res
、
含んでいないということ
によって明らかにされ
」(
)
IV424
る点が、ライプニッツもまた理性主義陣営の一員であるこ
とを再確認させる。
が「いかにあるか」というあり方
res
が「何であるか」の事象内容に還元されるのである。この
ことから、理性主義の哲学では形容詞的使用の
と
realitas
いう抽象名詞が殊更に使用されることがないという事態も
説明されうるように思われる。というのも
「いかにある
、
か」の問題が純粋に問題されることがなく、常に「何であ
るか」の問題に還元されるわけだから
「いかにあるか」
、
を純粋に表現する抽象名詞の出番も少なくなり
「いかに
、
あるか」を意味しがちな形容詞的使用の
という語
realitas
は必要ないからである。ライプニッツにおける
の
realitas
形容詞的使用はむしろ「
何かであること」を表現
(真に)
するものだと言ってもよいであろう。
(
一七)
既に見たように、ライプニッツ哲学を継承したバウムガ
ルテンは、カントが名詞的使用と呼ぶ「実在性」を「否定
性」に対置される「肯定性」のように扱っていたが、その
際
デカルトと似た仕方で
真の
肯定とは
名
や
見
、
、「
」
、「
」
「
かけの概念」上での肯定のことではなく
「実際の」肯定
、
であるという仕方で、名詞的使用の
に「いかにあ
realitas
るか」の
をも含意させていた。バウムガルテンを
realitas
解説して後継者のゲオルグ・フリードリヒ・マイアーも自
身の『形而上学』において言う。
(
一八)
「
〔
〕
単に或るものであるように見える
zuseyn
scheinen
、、、、、、、、、、、、、、、
だけでなく、実際にもそれである〔
〕
auchinder
That
seyn
、、、、、、、、、
ものは、一般に、真〔
〕と呼ばれる。そして、単
wahr
、
に或るものであるように見えるだけであって、実際に
はそれであるのではないものは、仮象的〔
〕
scheinbar
、、、
と呼ばれる
。
」(§25
)
の二義性/18Realität
「仮象」に対する「真実」が「実際のこと」を意味するこ
とに即して
理性主義の哲学では
論理的な真実
と
実
、
、「
」
「
在的な真実」とが区別されず
「真なる概念」と「実在」
、
とが重なって
実在
すなわち
は
論理
ないし
概
、「
」
、「
」
「
res
」
。
、
念
すなわち
に吸収されたのである
こうなっても
ratio
「名」ないしは「見かけの概念」と
「真の概念」すなわ
、
「
」
、「
」
「
」
ち
実在
との区別が可能なので
唯名的
と
実在的
との区別は有効であり
「名に惑わされる誤謬」論さえ健
、
在であれば
「実在的」なものとそうでないものとは十分
、
区別されうる。実際、ライプニッツの「実在的定義」に対
置されるものは「唯名的定義」であって「論理的定義」で
はない。バウムガルテンの「実在的対立」と同様
「いか
、
にあるか」の「実在的」が「論理的」に処理されてしまう
ため、
と
との対立は主題になることがで
resratio
(
)
logos
きず、
ということは、
に対するというよりも、
realisratio
むしろ
に対する真なる
の性格として特徴づけ
nomen
ratio
られるようになったのである。
以上で明白になったことは、中世のトマスにおいては
に対する
の性格を示すものであった「いかにある
ratiores
か」を表現する
は、
によっ
realisratio
(理性、概念、論理)
resRationalism
us
て
がいわば吸収合併されてしまう近世の
の哲学においては
基本的に主題とならず
何
(
)
理性主義
、
、「
であるか」を意味する
に還元されていたということ
realis
である。
という特有の哲学的立場が
「いか
Rationalism
us
、
にあるか」を表現する
という言葉の台頭を抑えて
realitas
いたと言ってもよいであろう。
若きカントはこのような理性主義の哲学的立場を明確に
理解し、みずから自覚的に採用していた。そのことが
も
明白となるテクストはまたしても
な神の存在
ontologisch
証明をめぐるものであって、この証明に対して彼がみずか
らの立ち位置を表明したものである。
「もしも物に帰属するような様々な述語に、現存在も
そのような述語の一つとして数えられうるとするな
ら、確かに、神の現存在を立証するために、デカルト
的証明以上に有効で同時に把握しやすい証明は求めら
れえないことであろう。というのは、あらゆる可能な
物のうちには、一つの有のうちに一緒にありうるよう
19/ の二義性Realität
なあらゆる
がそれのうちに見いだされうるよ
Realität
うなものが一つあるからである。これらの
、
Realität
すなわち、真に積極的な規定のうちには、現存在も属
、、、、
、、、、、、、、
real
している
したがって
あらゆる有のうちで至高に
。
、
、、、
〔
〕
、
、
allerrealestな有には
それの内的可能性のために
、、、、、、、
現存在が帰属する
。
」(XVII240
)
、、、、
カントが言う名詞的使用の
と
という語が典型
Realität
real
的に使用されて
「現存在」が物の「何であるか」の内容
、
をなすのであれば、
な神の存在証明は否定しよ
ontologisch
うがないということが述べられている。そして、のちの批
判哲学からすれば信じがたいことであろうが、この証明に
対してトマスらが持ち込んだ区別、すなわち
「知性のそ
、
とに実際にある」ということと「知性のうちに概念として
ある」ということとの区別に基づくような異論は無効であ
ると言い切るのである。
「というのは、このようなやり方では、私たちは、可、
能な物に帰属するあらゆる述語について、次のように
、、
。
、
言わねばならなくなってしまうからである
すなわち
それらの述語はその物に実際〔
〕には帰属
inder
That
、、
、、
せず、単に思想〔
〕のうちでのみその物にお
Gedanke
、、、、
、、、、、、
いて定立されるにすぎないと
。
」(a.a.O.
)
「可能な」三角形すべての内角の和が「実際に」二直角な
のであって、単に
「現実の」三角形だけがそ
(経験された)
うなのではない。徹底した経験主義者でないかぎり、普遍
的な知識の存在を認めざるをえないのであるが
「純粋な
、
感性的直観」の存在に思い至っていない若きカントは、そ
うした普遍的な認識の実在性の
「経験」以外に探さざる
、
をえないメルクマールを「論理的必然性」に求めざるをえ
なかったのである。
「或る述語の、或る物との連結が恣意的ではなく、事、
象の本質そのものによって結合されている場合には、
、、、、、、、、、、、、
私たちがその述語をその物のうちに思考するが故に、
、、、、、、、、、、、
述語が物に帰属するのではなく、述語が物にそれ自体
、、、、、、
、、、、、、
そのもの〔
〕で帰属しているが故に、そ
ansich
selbst
、、、、
、、、、、、、
の二義性/20Realität
のような述語をその物のうちに思考することが必然的
、、、、、、、、、、、、、、、、、
なのである
。
」(XVII240f.
)
これは、既にデカルトが第五省察で述べたことの言い直し
である。その物の「何であるか」の本質であると考えられ
ざるをえないものは、その「論理的」必然性故に、その物
に「実際に」帰属すると言ってよいのであり、その「物の
可能性」をなすのである。
(
現実性」ではないが、実際の)
「そして、特に「神の存在」がそれの「何たるか」をなす場
合にかぎって言えば、問題になっているのは、ほかならぬ
「存在
」であるから、特別に、単に「実際に可
(現実性)
能」であるのみならず
「実際に現実的」にも存在するこ
、
とにならざるをえない。ここでまさしく自覚的に
「いか
、
にあるか」の
は「何であるか」の
によっ
Realität
Realität
て保証されるという理性主義的立場が確認されている。し
、「
」
「
」
かも
実際に
ということは
物にそれ自体そのもので
と言い換えられていることに留意
(
)
demDinge
ansich
selbst
しておいていただきたい。
ただし
「もしも物に帰属するような様々な述語に、現
、
存在もそのような述語の一つとして数えられうるとするな
ら」という副文が接続法二式で書かれているところからも
わかるように、既に前批判期のカントも
「存在」という
、
ものがそもそも一つの
であるこ
(
何であるか」の)
「
Realität
とを否認するので、デカルト型の
な証明は首
ontologisch
肯されえない
何であるか
の
であることを
存
。「
」
「
Realität
在」に認めながら、それにもかかわらず「いかにあるか」
の
はそれに認めないというような、理性主義者と
Realität
しては首尾一貫しない主張に陥ることなく、そもそも「存
在」は「何であるか」の
ではないので、神の概念
Realität
から神の「実際の」存在を導くことはできないと若きカン
トは言うのである。
realitas
カントにおける形容詞的使用としての抽象名詞
について言えば、
・マイアーが言及する一七六八年の小
A
論文を遥かにさかのぼる一七五五年の
初期カントの私講I
師資格獲得論文において既に「定義の
の証明
realitas
」(
ということが言われており、ライプニッツと同様の
392)
Realität
使用法が見いだされる。形容詞的使用の抽象名詞
の出現は、大陸においてはカントの批判哲学の成立に伴な
21/ の二義性Realität
うものだとするハイデガーや
・マイアーの理解は誤り
A
であり、また英国の
の輸入というわけでもない。
reality
一つの抽象名詞にはなっていなかったとしても、既にトマ
スにおいて、事柄としては哲学的に重要な概念として登場
していたのであって、遅くともライプニッツにおいて使用
されており、そもそも
と
との対比や
ensrationis
ensreale
有名な
の問題において形容詞の形で、また
distinctiorealis
などの副詞の用法で十分に使用されてきた概
esserealiter
念なのである。問題とすべきことは、カント批判哲学に至
るまでの近世理性主義の哲学においては、その用法が、主
として「何であるか」にかかわる名詞的使用の
と
realitas
目立つ形では区別できなかった事情と、批判期のカントに
おいてこの区別が顕在化した事情であり、しかも、その事
情をそれぞれの哲学の内容そのものから説き起こすことで
ある。
前批判期のカントまでの理性主義哲学において形容詞的
使用の
が目立つことがなかった理由はもはや明ら
realitas
かである。
の哲学においては、
に対する
Rationalism
usratio
の性格が純粋に取り出されることがなく、
に対する
resens
の性格であった「何であるか」の問題に還元されてし
resまっていたからである。では、批判期のカントにおいて形
容詞的使用の
概念が台頭するのはなぜであろう
Realität
か。まさしく批判哲学が理性主義哲学からの重大な転回を
経たからである。その萌芽は既に前批判期においても見い
だされる。例えば、バウムガルテンにおいては「実在的対
立」は「真の論理的対立」に重ね合わせられたが、一七六
三年の『負量の概念を哲学に導入する試み』でカントは、
「矛盾」を単なる「論理的対立」と見なすようになり、こ
れとは区別された「肯定的なものどうしの対立」を「実在
的対立
とする
ここに
論理
に還元できない
実
」
。
「
」
「
(
)
ratio
在的」な領域が切り開かれつつある
。これと
(vgl.II
171f.
)
呼応するように「実在的な根拠と帰結の関係」は
「論理
、
的」なそれとは違って
「概念分析」によって帰結を根拠
、
のうちに見いだすことができないことも自覚されるのであ
る。ただし、この関係は当時は綜合的判断の思想へ結実す
ることはなく
「全く判断によっては表現されえず、単に
、
、、、、、、、、、、、、、
概念によってのみ表現されうる。……この関係のあらゆる
、、
私たちの認識は……実在的根拠の単純で分析されえない概
、、、、、
、、、、、、、、、、、
の二義性/22Realität
念に帰着する
と言われ、いわば理性主義哲学の
」(
)
II204
、前提となる限界点へ追いやられるのみだったのである。
四
カント批判哲学の成立と
概念の二義性の顕在化
Realität
通説によれば、批判期へと至るカントの哲学的発展の決
定的転換点となったものは、一七七二年二月二十一日づけ
のヘルツ宛書簡において表明されている「表象の、対象へ
の関係」の「演繹」の問題との取り組みである。この理解
に異存はない。ただし、中世以来の
と
との関係の
ratiores
問題という視点を採用して
この関係の転回をカントの
コ
、
「
ペルニクス的転回」に読み込むかぎりにおいてである。前
、「
」
批判期のカントを含む理性主義の哲学においては
経験
に依存しない
概念
の
物
への関係は
概
「
」
、「
」
「
(
)
(
)
ratiores
」
「
」
。
念
領域内部の
何であるか
の問題へと還元されていた
そのため
「概念」の
「物」への関係が純粋に問題になる
、
、
a
ことがなかったのである。しかし
「いかにして概念が
、
に対象へ関係しうるかの仕方の説明
、
priori
」(A
85/B117
)
すなわち、カテゴリーの「超越論的演繹」という課題が殊
更に自覚された『純粋理性の批判
において
』(一七八一年)
)
は、この「対象への関係」(B
eziehungauf
einenGegenstand
A109,
vgl.A155/B
194objektive
(
(
)そのものが
客観的実在性
、「
」
と呼ばれるようになる。この概念が、ライプニッ
Realität
)
ツが「定義の
」と言う場合の
につらなるも
realitasrealitas
、
、「
」
のであることは
カント自身が同じ著作で
実在的定義
は「概念の客観的実在性を判明ならしめるようなものであ
ろう
と言っているところからも窺われる。
」(
)
A242
Anm
.
ただし、同時に『純粋理性の批判』においては
「単に概
、
念のみならず、同時にその概念の客観的実在性を判明なら
しめる
と言われていることに注意しなければな
」(
)
a.a.O.
らない
「概念」を判明にすることと「それの客観的な
。」を判明にすることとが区別されており、いわば
Realitätと
との存在身分が再び峻別されていることがわか
ratiores
る。ライプニッツの「実在的定義」は
「
が可能である
、
resことを確定する
ものであったが
その
の可能性は
概
」
、
「
res念の無矛盾性」に還元されてしまっていた。批判期のカン
トも
「実在的定義」を「客観の可能性を理解せしめる」
、
23/ の二義性Realität
。
、
(
)
B300
ものと理解している点は全く同じである
しかし
「概念の無矛盾性」としての「可能性」は今や「概念の可
能性」すなわち「単に論理的な可能性」にすぎず、決して
「物〔
〕の可能性」すなわち「実在的可能性」ではな
res
いと明言されるようになる。問題となっている概念の「客
観的実在性」は
「すなわち、その概念によって思考され
、
るような対象〔物〕の可能性
と言われるよ
」(
)
A220/B
268
うに
「概念の可能性」から峻別された「物の可能性」に
、
vgl.BXXVI
Anm
.,B302f.A
nm.,
対応するものなのである(
。
、「
」
、
A596A
nm./B
624Anm
.
)
ここに
いかにあるか
のRealität
resratio
そして
の可能性
が
理性
や
概念
といった
「
」
、「
」
「
」
のみで解決できる問題ではないことが明らかになってい
る。いわば
が
を吸収し
「いかにあるか」が「何
ratiores
、
であるか」の
に還元された近世理性主義および若
realitas
きカントの哲学から、
が
から峻別され
「いかに
resratio
、
あるか」の
が「何であるか」とは独立に主題化さ
Realität
れる批判哲学への転回こそが
「コペルニクス的転回」の
、
核心である
「主観」と「客観」との関係も、こういう視
。
点から把握し直されなければならないだろう。
ここで「概念」から峻別された「物」は、前節で「真な
る概念」との相即関係が確認された「物自体そのもの」で
。
「
」
「
」
、
はない
あくまでも
経験の対象
としての
物
であり
だからこそ、カントによって新たに発見された「感性的」
「
」
、「
」
でありながら
純粋
な直観というものを
真なる概念
(普遍的な知を守りなが
と「物」とを「経験」に依存せずに
区別する原理として利用可能なのである。この点にお
ら)
いて、同じく「概念」と「物」のあり方を厳しく峻別した
トマスが、究極的には「神」と「被造物」との絶対的区別
を背景としていたのとは異なると言わねばならない。なる
ほど確かにカントが
「論理的には可能である」が
「客観
、
、
(
)
的実在性をもたない
対象なしの空虚な概念
」「
」A292/B
348
「
」
、
のことを
概念有
と呼んでいるところから
(
)
ensrationis
「客観的実在性」という概念は、スコラ哲学が「実在有」
と言うときの「実在的」という中世の概念を継
(
)
ensreale
承するものであると言うことができる。伝統的な
と
realisいう概念は
「
にかかわること」として、十分「対象へ
、
res
の関係」という意味になりうる。しかし、トマスが中世に
おいて
と
との区別の思想を突き詰めたとき、彼は
ratiores
の二義性/24Realität
なるほど、
な神の存在証明に対するストイック
ontologischな姿勢などに表われているように、人間理性の有限性を厳
しく自覚したが、やはり
と
を俯瞰する立場にあっ
ratiores
たのは確かであって、だからこそ両者を容易に区別するこ
とができたのである。ところが、近世に入ってデカルトが
を発見すると、人間は簡単には「主観」から超越し
cogito
た立場に立てなくなる。そのために、ライプニッツも若き
resratio
Rationalism
us
カントも、
を
が吸収するかのような
という立場に立たざるをえなかったのである。批判期のカ
ントが、
と
との区別を取り戻したとすれば、彼は
ratiores
再び超越的な視点に立ち戻ったのであろうか。いや、そう
ではない。彼は確かに「純粋理性の批判」を行なうが、あ
くまでも「人間理性」の立場に踏みとどまった上でのこと
である。では、その区別はどのように根拠づけられるので
あろうか。有名な『判断力の批判』第七十六節においてカ
ントは言う。
「物の可能性と現実性とを区別することは、人間の知
、、
、、、、
性には不可避的に必然的である。……可能的な物と現
、、、
、
実的な物との区別は、単に主観的に人間の知性にとっ
、
、、、、、、、、、、、、、、
てのみ妥当するものであり、……物は、現実的である
、、、
、、
、
、
、
ことなしに
可能的でありうるという命題
それゆえ
、、、、、、、、
単なる可能性から現実性へ全く推論されえないという
、
、
命題は
人間の理性にとっては全く正当に妥当するが
、、、、、、、、、、
そのために、この区別が諸物そのものにおいて存する
、、、、、、、、、、
ということを証明するということはない
。
」(V401f.
)
批判期のカントは、なるほど、ライプニッツや若き頃の
自分自身の「可能性」概念を批判して、それは単なる「論
理的可能性」にすぎなかったということを自覚している。
しかし、新たに見いだされた「物の可能性」すなわち「実
」
、「
」
、
在的可能性
は
物そのものにおいて
あるのではなく
人間の「知性」ないし「理性」にとってのみあると言うの
である。これはどういうことであろうか。
「もしも私たちの知性が直観的であるとしたなら、知
、、
、、、
性は現実的なもの以外のいかなる対象ももたないこと
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
(単に対象の可能性にかかわるにすぎない
であろう。概念、、
、、、、、、
ところの)
(私たちに或るものを与える
および感性的直観
、、、、、
、、、
25/ の二義性Realität
が、やはりそのことによってその或るものを対象として認
、、、、、
は両者とも消え失せること
識せしめはしないところの)
であろう
。
」(V402
)
すなわち
「直観的知性」にとっては「可能的な物」はあ
、
りえないのである
「物の可能性」を成り立たしめている
。
のは、あくまでも人間の「
な知性
、ないしは、
diskursiv
」
そのように有限な「概念
であっ
」(と「感性的直観の形式
)」
、「
」
「
」
「
」
、
て
可能性
と
現実性
との
実在的
区別の根拠は
(
)
「
」
主観とそれの諸認識能力の本性のうちに存する
V401
ということになる。
「というのは、もしもこれらの認識能力の行使のため
に、諸概念にとっての知性と、それらの概念に対応す
、、、
、、
、、、、、、、、、、
る諸客観にとっての感性的直観という二つの全く異種
、、、、
、、、、、
、、、、、、、
的な要素が必要でないとしたなら、いかなるそのよう
、、、、
な区別
も存在しな
(可能なものと現実的なものとの間の)
いことだろうからである
。
」(V401f.
)
カントはあくまでも人間の理性の側から、
と
との
ratiores
区別を取り戻したと言うことができるであろう。だからこ
(
一九)
そ
客観的実在性
は
表象
や
概念
の側からの
対
、「
」
、「
」
「
」
「
象への関係」となるのであって、トマスにおいてしばしば
問題になった「
そのものにおいてある」という意味で
res
の
の用法から視座が移されてきているのである。こ
realis
こに、アリストテレスやトマスの形而上学に対するきわめ
て根本的な批判が見いだされうる。彼らは「運動」の「実
在性」を救うために「物そのものにおいて
「可能な
」
」
res
を想定した。しかし、カントからすれば、これは人間の認
識にとっての特殊事情を「物のあり方」へ押しつけた世界
観にすぎず
「物自体そのもの」の真の姿を捉えたもので
、
(この点に関するかぎり、カントはむしろパルメニデス
はない
「可能な
やプラトン、そしてスピノザに近いのかもしれない)。
もの」と「現実的なもの」を「実在的」に区別することは
確かに必要である。しかし、それは人間の認識のあり方と
してそうであるというのである。或る概念の「客観的実在
性」のために必要とされることも
「その概念がそれに対
、
(
)
応した直観において描出
されうる
〔
〕
」
darstellenVIII
188f.
の二義性/26Realität
という認識の領域に引きつけられた事柄である
「概念」
。
内部で処理されうるような
な認識論からは脱皮し
rational
たカント批判哲学であるが、トマスのような超越的視点に
立ち帰ったわけではなく、その哲学はあくまでも「超越論、
哲学」の名にふさわしいものなのである。
「客観的実在性とは、或る思想〔
〕に現実に
Gedanke
、、、
XXVIII
或る客観が対応するという思想の特性である」(
、、、、、、、、、
。
492
)
例えば
「可能性」という「純粋知性概念」が「客観的
、
実在性」をもつということは、この概念が「実際に
「経
」
験の対象」に対応しているという、概念の特性を表現する
、
、「
」
、「
」
が
そのことは同時に
可能性
というものが
実際に
その概念に対応する「客観の形式」をなしており、その客
「
」
「
」
観は
実際に可能である
すなわち
実在的可能性をもつ
(なお、引用文
と言いうるということを意味するのである
の「現実に
(
)を、可能性に対置される狭義の現実性を
」
wirklich
意味するものと読むことはできず
「可能的に」をも含んだ「実
、
際に」という程の意味で理解するしかないことはもはや論を俟
。本稿の冒頭で引用した、カントが形容詞
たないであろう)
的使用に言及したテクストは、以上のように理解すること
ができる。
しかし、冒頭のテクストには、以上の考察によっては必
ずしも判明になっていない問題が残されている。というの
も、スコラ哲学においても、なるほど確かに
とい
realitas
res
う抽象名詞が名詞的に使用されるときには、主として
の「何であるか」の側面を意味し、
という形容詞と
realis
して使用されるときには
「いかにあるか」の側面を示す
、
傾向があったのは確かである。しかし、名詞的使用と形容
詞的使用の区別と
「何であるか」の側面と「いかにある
、
か」の側面との区別は一応別の区別であり、重なりは必須
ではないはずである。
の二つの性格は、それぞれ形容
res
詞的使用にも名詞的使用にも固定されるはずのない
と
res
いう同一のものがもつ二つの側面だったはずである。名詞
的使用の
が「何であるか」の側面のみを表現する
realitas
わけではなく、同時に「
においてある」ということも
res
含意したように、形容詞的使用の
もライプニッツ
realitas
27/ の二義性Realität
のように「何であるか」に引きつけて使用可能だったはず
である。ところが、カントにおいては、形容詞的使用と名
詞的使用との区別に「いかにあるか」と「何であるか」の
区別がぴったり重なっているように思われるのである。質
のカテゴリーとしての
は、純粋カテゴリーとして
Realität
は
「客観的実在性」をもたない単なる「思想形式」にす
、
(だから、もはやこの語自体を「実在性」と訳すことは
ぎない
res
できないであろう)。
、「
」
、
、
また
客観的実在性
は
基本的に
との純然たる「対応関係」のみを意味しているように見え
るのである。
後に、このことがいかにして生じたかを説
明しておきたい。
おわりに
に関するカントのテーゼ
Sein
ハイデガーが普及させた理解によれば、カント『純粋理
ontologisch
性の批判』超越論的弁証論の「神の現存在の
な証明の不可能性について」という節における「
は明
Sein
らかにいかなる
な述語でもない
という
real
」(
)
A598/B
626
realreal
テーゼに現われる
は
「何であるか」にかかわる
、
であるということになっている。なるほど確かにこの理解
は、カント哲学において「何であるか」にかかわる
や
real
の用語法が間違いなく継承されているということ
Realität
を印象づけるのに貢献したし、また、
な証明に
ontologisch
対する批判の要点の一つを説明する上でも効果的である。
しかし、批判期のテクストである問題のテーゼの正確な読
解という観点からは、そのような理解は誤りであると言わ
ざるをえない。
問題の「
な述語」に対置されるものは「論理的な述
real
語」であって
「
な述語」ではない。テーゼの前の
、
negativ
段落で論じられたことは、論理的にはあらゆるものが述語
real
になりうるので
存在も述語でありうるが
そのことは
、
、
にも述語であることを保証しないということである
「述
。
」
、
、
語
というものは本来
主語概念を拡大するものであるが
そのことが「実際の
「真なる」ことであることを表現す
」
るのが、論理的に対置される
なのである。バウムガル
realテンの
で言えば
「真に肯定的」の「真に」の部分
realitas
、
だけに相当する。だから、ここで「
な述語」というこ
real
とで
「主語概念に付加され、それを拡大する述語」が念
、
の二義性/28Realität
頭に置かれているからといって
ということ自体が
何
、
「
realであるか」にかかわると誤解してはいけない。
が付加
real
されているのがまさに「述語」であるからこそ、結果的に
「主語概念の拡大」を意味することになるだけである。そ
のことは
「綜合的判断」が「述定判断」においては「主
、
語概念の拡大」を伴なうが
「存在判断」においては、こ
、
「
」
、
れも優れて
綜合的
でなければならないにもかかわらず
主語概念を拡大するわけにはゆかないということからもわ
かるであろう
綜合的
ということがそれ自体として
主
。「
」
「
語概念の拡大」ということを本質的に含意することはでき
real
ないのである
同じことが
いかにあるか
にかかわる
。
「
」
real
に関しても言える
存在
も
単に
論理的
ではなく
。「
」
、
「
」
、
、「
」
、
でなければ
実際の存在
を意味することはできないが
事象内容を増やすという意味では決して
であることは
real
できないのである。
に関するテーゼの「
な述語」
Sein
real
は批判期の意味において「実在的な述語」と解されるべき
である。そう理解した上で「存在は実在的述語ではない」
と否定しても
「存在」そのものの「実在性」は毀損され
、
ない。単に「事象内容」がもつ「実在性」が排除されるだ
けだからである。
(
二〇)
さて
可能性
や
存在
といった
物
の様相と
実
、「
」
「
」
「
」
「
在性」という様相とは厳密には区別されるべきであるが、
カントの哲学形成においては、批判期に顕在化することに
なる意味での「実在性」の問題が、長らく「存在」ないし
「現実性」の様相がもつ特有性の問題として醸成されてき
た。まずは前批判期において
「述定判断」に対して「存
、
在判断」がもつ特有性として
「何であるか」の事象内容
、
に還元されないという否定的特性が浮き彫りにされた。こ
の側面ももちろん批判期の意味での「実在性」の特徴の一
(および批判期においては他の「物の
つをなすが
「存在」と
、共有する特性であるにすぎない。しかし、こ
様相」とも)
の特性が洞察された事情には、実は、当時の「述定判断」
(
)
が
物の
に内在する
真の
事象内容
、「
」
「
」
Subjekt
Realität
を「分析」して「述語づける
、いわば「実在的な分析的
」
判断」として理解されていたということが大きく関与して
いると思われる。というのも
「存在」以外の述語であれ
、
ば、理性主義的に「真なる概念のうちなる述語」と「実在
の事象内容」との並行関係が想定できるので
「概念」内
、
29/ の二義性Realität
での処理によって判断を下すことに問題は見いだされにく
いが
「存在」というものだけは、その「実在性」からし
、
て
「概念
のうちなるあり方」がそぐわないもの
、
(知性)
(当時の概念分析的
だからである。そこで「存在判断」は
述定判断」から弾き出されることになり、両判断の
な)「
区別が生じたものと思われる。したがって
「存在は物の
、
述語ではない」というテーゼは、表だっては「述定判断」
と「存在判断」との区別を表現しているが、実は、その根
底には、概念分析による「無矛盾性」ないし「論理的必然
性」には還元されえない新たな「実在性」概念への気づき
が含まれていたのではないかと推察されるのである。
その後
「表象の、対象への関係」の問題が顕在化し、
、
カントはライプニッツ流の分析的な判断論自体の見直しを
、『
』
、
「
」
迫られ
純粋理性の批判
においては
従来
述定判断
がもつとされてきた
「何であるか」に還元されるような
、
意味での「実在性」が「実在性」の名に値しないことが自
覚され
「いかにあるか」のあり方としての「実在性」の
、
問題が改めて「述定判断」に投げかけられることになる。
実はそれが「分析的判断」と「綜合的判断」との区別の問
題である
この区別は
カント自身が
分析的述語
と
綜
。
、
「
」
「
合的述語」との区別に「論理的述語」と「実在的述語」と
の区別を重ね合わせている
ことからもわ
(
)
vgl.XVIII
330
かるように、いわば「単に論理的な判断」と「実在的な判
断」との区別とでも呼ばれるべき内実をもつものだったの
である。この点については、これまでのカント理解ではあ
まり注目されてこなかったように思われるが、もっと顧慮
。
「
」
されてしかるべき視点である
前批判期の間は
述定判断
「
」
、
と
存在判断
との間の相違のうちに潜在していた区別が
「表象の、対象への関係」すなわち「客観的実在性」の問
題の台頭とともに「述定判断」と「存在判断」との区別に
対してちょうど垂直方向に見いだされるべきものとして独
、「
」
「
」
立したのが
単なる論理的判断
としての
分析的判断
と「実在的判断」としての「綜合的判断」との区別なので
ある。
(
二一)た
だし、この区別は「述定判断」についてのみ有効であ
る
「存在判断
につ
。
」(批判期においては「様相判断」全般)
いては
「単に論理的な判断」ないしは「分析的判断」と
、
いうものは本来はありえないという点に留意しなければな
の二義性/30Realität
らない。というのも、そもそも主語概念のうちに述語が既
に含まれているという状態がありえないからである。それ
が、存在判断が綜合的でしかありえない理由であり、まず
初に「存在判断」に「綜合的判断」の原型が見いだされ
(
純粋理性の批判』の「序論」では
「分析的判
た事情である
『
、
断」との対比がわかりやすい「述定判断」の例で説明されるの
「実在的」でしかありえ
で、気づかれにくいことであるが)。
ない「存在」の「実在性」は長らく「物の様相」としての
「存在」から区別されてこなかったが
「綜合的判断」と
、
いう新たな道具立てを得て
「可能性
「現実性
、そして
、
」、
」
「必然性」といった「物の様相」全般をも超えた次元に新
たな様相として見定められることになったのである。
「分析的判断」と「綜合的判断」との区別は
「いかに
、
あるか」の「実在性」が事象内容や物の様相から峻別され
て純粋に問題にされることを可能にしたが、カントの批判
哲学において
という形容詞が元々もっていた二つの
realis
性格が完全に分化し、
という概念が相互に還元不
Realität
可能な二義性をもつという帰結を惹き起こしたのは
「述
、
(
終形態で言えば
「様相判断」全
定判断」と「存在判断」
、
との区別である
可能性
や
存在
は
決して
何
般)
。「
」
「
」
、
「
であるか」の事象内容としての
に還元されえない
Realität
単
が
いかにあるか
という観点では
まさしく
に
、「
」
、
real
(
あらねばならないということが自覚さ
に論理的にではなく)
れたとき、
のもっていた二つの側面が「
の様相」
realisres
に関して否定される意味と肯定される意味に真っ二つに分
。
、
かたれることになる
質のカテゴリーとしての
は
Realität
カテゴリーの一つとして、もちろん「客観的な
」
Realität
をもつべきではあるが、それ自体ではもはや「いかにある
か」の意味を合わせもたず
「実在性」とは訳されえない
、
純粋な
になり
「可能性」や「存在」といった物
Washeit
、
(のカテゴリー)
(否定され
の様相
からも明確に区別される
。これに対して
「客観的な
」と言わ
るほうの意味)
、
Realität
れる場合の
は、事象内容を
捨
Realität
(物の様相も含めて)
象した純粋たる「
への関係
、すなわち、物の様相を超
res
」
(
)
えてそれらに
意味
と
意義
を与える
「
」
「
」
vgl.A155/B
194別次元の様相として
「可能性」や「存在」にとって元来
、
不可欠なものを意味するのである
。した
(肯定される側面)
がって、
の二義性については、こうも言うことが
Realität
31/ の二義性Realität
Realität
できるだろう。質のカテゴリーとしてのカントの
概念は、スコトゥス以来の古いものであるというよりもむ
、
、
「
」
しろ
カント批判哲学においてはじめて
もはや
実在性
とは訳しえない純粋な「物の質」を意味するものになりえ
たのであると。そして、
に対して
がもっていた中
ratiores
realens
世以来の性格を表現する
という形容詞は、従来は
(特に西洋
に対して
がもつニュアンスと混交した形で
res使用されてきたが、これまた
近世理性主義哲学においては)
カント批判哲学においてはじめて「何たるか」という意味
から完全に純化された「実在性」を表現するものになりえ
。
、
、
たのであると
そして
こうした二義性を成立させたのは
ほかならぬカント批判哲学の内実そのものであると。
(
二二)
純然たる「
への関係」を意味する
の概念がカ
resRealität
ント自身に明確に自覚されるのは
純粋知性概念
の
超
、「
」
「
越論的演繹」の課題に気づいたときである。しかし
「存
、
在が物の述語ではない」というテーゼは、
初期の一七五
五年の『形而上学的認識の第一諸原理の新解明』における
「真理の根拠」と「存在の根拠」との区別にまで遡源しう
るものである。そういう意味では、
の二義性の問
Realität
(
二三)
題は、カント哲学にそれの
初期から常に寄り添い、その
発展を支えてきたものだと言うことができるだろう。
※本稿は科学研究費補助金
による
(基盤研究C:
)
15K01984
研究成果の一部である。
※本稿を取りまとめるにあたっては、平成二十六年度京都
大学集中講義「西洋哲学史
」に参加いただいた院
(近世)
生諸氏との対話が大きな刺激となった。記して謝意を表し
たい。
の二義性/32Realität
註(一)
によって筆記された一七九四
九五
JohannFriedrich
Vigilantius
-
年のカントの形而上学講義のノート。アカデミー版カント全集第
巻に
として収録されている。カントの著作から
XXIX
Metaphysik
K3
の引用はアカデミー版全集による。ただし『純粋理性の批判』につ
いては、第一版を
、第二版を
で示し、その頁数を付す。引用文
A
B
中の〔
〕内および……は引用者による補足と省略であり、傍点お
よびボールドによる強調は引用者による。
J.-F.
Courtine,
Art.
Realitas,
in:Joachim
Ritter
undKarlfried
(二)
Gründer
hrsg.,
,Bd.
8,Basel
()
Historisches
Wörterbuch
derP
hilosophie
1992,S.178.
Christian
Wolff,
,2.A
ufl.Frankfurt,
(
)三
Philosophia
prima
siveontologia
Leibzig
1736.Reprint:
Darm
stadt1962.
,Frankfurt,
Leibzig
1739pars
I,1741
parsII,
(
)四
()
(Theologia
naturalis
2.Aufl.
.In:
II.Abteilung:
Lateinische
SchriftenBd.7-8,
)G
esamm
elteW
erke
herausgegebenund
bearbeitetvon
JeanÉcole,
Hildesheim
1978Bd.7
,(
)
1981Bd.8
.(
)
Anneliese
Maier,
,Berlin
1930.
(五)
Kants
Qualitätskategorien
Alexander
Gottlieb
Baum
garten,,ed.
IV,Halle,
1757.
(六)
Metaphysica
In:,herausgegeben
vonder
Königlich
Kant's
gesamm
elteSchriften
Preußischen
Akadem
ieder
Wissenschaften
Bd.XVII.
(七
『岩波哲学・思想事典』岩波書店、一九九八年。
)八
木田氏による
の解釈は
基本的にマルティン・
(
)
、
objektiveRealität
ハイデガーの解釈を踏襲したものであるように思われる。
・マイ
A
アーに先立つ一九二七年の夏学期にマールブルク大学で行われた
現『
象学の根本諸問題』と題された有名な講義で、既にハイデガーは、
「
」(
)、「
」(
)
カントにおける
が
現実性
現存在
Realität
Wirklichkeit
Dasein
Existenz
resWasgehalt
あるいは
存在
を意味するものではなく
の
「
」(
)
、
というほどのことを意味するということを明白にしていたが、その
際、
については、次のような特別な
、すな
objektiveRealität
Sachheit
わち「その
において思考された対象、それの客観で満たされ
Sachheit
た
」すなわち「現実的で現存在するものとしての経験された
Sachheit
有で証明された
」として
「現実性」と同義であると見なし
Sachheit
、
Martin
Heidegger,
,In:
たのである(
Grundproblem
eder
Phänom
enologie
。
Gesam
tausgabeBd.24,
Frankfurt
amMain
1975,S.45ff.
)
Von
demersten
Grunde
desUnterschiedes
derGegenden
imRaum
e,
(
)九
Inden
1768,K
önigsbergerF
rag-und
Anzeigungsnachrichten
Jahrgang
Stück6-8.
Theoretische
Gegenstandsbeziehung
beiK
ant.Z
ur
(一〇)G
ünterZöller,
systematischen
Bedeutung
derTerm
iniobjektive
Realität
undobjektive
„„
„
,Berlin,
New
York
1984,G
ültigkeitin
derK
ritikder
reinenV
ernunft„
„„
S.27,219.J.
-F.Courtine,
a.a.O.S.182f.,
185f.
(一一)
(一二)トマス・アクィナスにおける
と
については、山田
ratiores
晶氏の一連の研究によってわが国ではかなり充実した理解が与えら
れている。本節の基本的な視座は氏の業績に負うところが大きい。
山田晶「トマス・アクィナスにおけるラチオの研究
序説
(大阪
--
」
市立大学文学会『人文研究』十二巻四号、一九六一年
「命題の真
)、
理
ラチオの研究第二
(
人文研究』十四巻三号、一九六三年
、
--
」『
)
「ものとは何か
ラチオの研究第三
(
人文研究』十五巻二号、
--
」『
一九六四年
「個ともの
ラチオの研究第四
(
人文研究』十六
)、
」『
--
巻一号、一九六五年
『トマス・アクィナスの《エッセ》研究
(一
)、
』
九七八年)創文社
「トマス・アクィナスにおける
の用法
、
≪≫
aliquid
について
(
中世思想研究』二三号、一九八一年
『トマス・アク
」『
)、
ィナスの《レス》研究
(一九八六年)創文社
「概念の二義性
ト
』
、
-
33/ の二義性Realität
マスにおける
と
(
中世思想研究』三四号、一九九
conceptioratio
-
」『
二年
。)
(一三)山田晶『トマス・アクィナスの《レス》研究』三八五頁参
照。
cf.Roy
J.Deferrari,
,p.944.
(一四)
ALexicon
ofSt.
Thomas
Aquinas
(一五)デカルトの著作からの引用はアダン
タンヌリ版デカルト全
=
集による。
(一六)ライプニッツの著作からの引用はゲルハルト版ライプニッ
ツ哲学著作集による。
(一七)カントが言う
の形容詞的使用が既にライプニッツの
realitas
テクストに見いだされそうだということは
による
哲
、
『
J.-F.Courtine
学の歴史的辞典』の
ないし
の項目でも言
„„
Realitas
Realität/Idealität
„„
及されている(
。ただし、あくまでも英国の
a.a.
O.S.182f.,
185f.)
の思想とかかわりあったことの影響として理解され
reality=existence
ているようである。しかし、形容詞的使用のこのような内実を見る
かぎり、英国経験主義哲学の理解とはむしろ対立的と言わざるをえ
Tradition
undTransform
ationder
Modalität,
ない。V
gl.Ingetrud
Pape,
,Ham
burg1966,
S.145ff.
1.Bd.,
Möglichkeit
-U
nmöglichkeit
Georg
FriedrichMeier,
,Halle
1755-1759.
(一八)
Metaphysik
(一九)そうなると
「可能性」と「現実性」との区別に基づく「存
、
在は一つの(
何であるか」の)
ではない」というテーゼも、
「
Realität
「単に主観的」であって
「物そのものにおいて」は有効ではないと
、
いうことが帰結するであろう。カント自身
『判断力の批判』の続く
、
テクストで言う
「理性は、何らかの或るもの(根源)を無条件的に
。
必然的に存在するものとして想定することを不断に要求するが、そ、
のようなものの可能性と現実性はもはや全く区別されるべきではな
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
い
(
。だから
「存在は一つの
ではない」ということ
」
)
、
V402
Realität
、も
神そのもの
については確証されない
あくまでも私たちの
理
、「
」
。
「
性」に基づく「神の認識」としては、
な証明は有効ではな
ontologisch
いということを意味するにとどまるのである。
他方、通例
の領域と
の領域との原則的区別に基づいて
ratiores
な証明に反対したとされているトマスであるが、この理解
ontologisch
。
『
』
、「
」
にも語弊がある
彼は
有と本質について
第四章において
存在
と「本質」との「概念的」区別の、人間にとっての不可避性につい
て論じている。ここで例に挙がっているのが「フェニックス」であ
るから、論じられている「本質」は
「何であるか」という問いの対
、
象が実際に存在しうるかどうかに関係なく、知性において「定義」
としてある「本質概念(
」にすぎないことがよくわかる。それ
ratio
)
ゆえ、実はトマスにおいても、カントと似た仕方で
「神」をも含む
、
あらゆるものについて「存在は本質概念ではない」というテーゼが
見いだされうるのである。しかしトマスはこうも言う
「神がある
。
、、、、
〔
〕という命題は、それ自身におけるかぎり自明である。な
Deus
est
、、、、、、、、、、、
ぜなら、述語が主語と同一だからである。というのは、神はみずか
、、、、、、、、
らの
であるから……。しかし、私たちは神について、それが何
esse
、、、、
、、、、
であるかを知らないので、この命題は私たちにとっては自明ではな
、、、、、、、、、
い」
(
神学大全』第一部第二問第一項主文
。やはりトマスも、アン
『
)
セルムスのいわゆる
な証明が言い表わすようなことは、
ontologisch
それ自身におけるかぎりは自明であると思っているのである。しか
し、私たちが知る「本質概念」というものは「存在」を含意しえな
い。だからトマスは
「存在」が神の「本質」であることを認めてお
、
きながら、
から
への推論を否定しているのではなく、そもそ
ratiores
も神が「
真に、実際に)何であるか」を知ることができないので、
(
な証明は無効なのである。
ontologischトマスもカントも、
な証明が言い表したような事柄が物
ontologisch
そのものにおいてありうる可能性を否定してはいない。ただ、そう
した事柄は私たち人間の認識の埒外のことなのである。
の二義性/34Realität
(二〇)テクストには「論理学はあらゆる内容を捨象する」という
表現も見いだされるが、一般論理学は「認識のあらゆる内容、すな
、、
わち、客観に対する認識のあらゆる関係を捨象する
(
)と
」
A55/B
79、、、、、、
、、
言われるように、この表現は
「対象への関係」の有無が問題である
、
real
ことを示すものであるように思われる。したがって、ここでの「
な述語」の
は
「対象への関係」という批判期特有の意味におい
real、
て「内容」をもつのであって
「何であるか」の事象内容をもつわけ
、
ではない。
(二一
「述定判断」と「存在判断」との区別が
「分析的判断」と
)
、
「綜合的判断」との区別の原型であることを明瞭に示す箇所が『純
粋理性の批判』の中に見いだされる。それは、有名な「百ターレル
の例」の箇所である
「現実的な百ターレルは可能的な百ターレル以
。
上のものを些かも含んでいない
(
。これは
「何である
」
)
、
A599/B
627
か」という観点からの考察である
「可能的な百ターレル」は、それ
。
「
」
、「
」
、
が
存在する
ようになっても
何であるか
という点に関しては
。
、「
」
「
」
、
何ら変わりはない
すなわち
存在
は
実在的な述語
ではなく
「存在判断」は「述定判断」から区別されねばならない
「しかし、
。
私の財産状態においては、現実的な百ターレルの場合には、それの
単なる概念(すなわち、それの可能性)の場合よりも多くのものが
ある。というのも、対象は、現実性の場合には、単に私の概念のう
、、、、、、、、
ちに分析的に含まれているのではなく、私の概念(それは私の状態
、、、、、、、、、、、、
、、、、
の規定である)に綜合的に付け加わるからである
(
。今度は
」
)
a.a.O.
、、、、、、、、、、
「いかにあるか」という観点から考察されているが、その際に「分
析的」と「綜合的」との区別が用いられるのである。まさにここに
おいて批判哲学成立の過程が目立たぬ仕方で示されているのではな
。
、「
」
「
」
、
いだろうか
カントは
分析的判断
と
綜合的判断
との区別を
まずは「述定判断」と「存在判断」との区別のうちに、明確な概念
化を伴ってではないにしても、直観していたのである。
二二
カント批判哲学における
概念の二義性の台頭は
分
(
)
、「
Realität
析的判断」と「綜合的判断」との区別の成立と相即関係にあるとい
う論点についての試論(修正すべき点は多いが)は、拙著『カント
「
」
』(
、
理論哲学形成の研究
実在性
概念を中心として
溪水社
―
―
)
「「
」
「
」
「
」
一九九八年
第一部第五章
実在的
と
綜合的
存在判断
―
と「綜合的判断」
」に見いだされる。
―
二三
前掲拙著および拙稿
カントの理論哲学形成と理性主義
ヘ
(
)
「
」(『
ーゲル學報
西洋近現代哲學研究
(京都ヘーゲル讀書會)第
―
―』
五號、二〇〇三年)を参照のこと。
( 1 )
Die Doppelbedeutung des RealitätsbegriffsEin Aspekt der Geschichte der Philosophie―
―vom Mittelalter bis zur Neuzeit
Yoshishige HIGAKI
Kants Meinung nach wird das Wort „Realität“ in einem doppelten Sinnegebraucht. Es wird einerseits adjektivisch angewandt, so dass zum BeispielVorstellungen und Begriffe „objektive Realität“ haben. Andererseits kann dasselbeWort auch substantivisch gebraucht werden. Z. B. werden bejahende Prädikate einesmöglichen Dinges „Realitäten“ genannt. Meiner Meinung nach vermengt derAusdruck „Realität“ in Kants kritischer Philosophie zwei miteinander unvereinbareBegriffe. Es stellt sich daher die Aufgabe, die Entstehung dieser beiden Bedeutungendurch die Geschichte der Philosophie vom Mittelalter bis zur Neuzeit zu verfolgen.
Das Wort „Realität“ stammt vom lateinischen „res“ ab. Im Mittelalter steht die„res“ einerseits dem „ens“, andererseits der „ratio“ gegenüber. Die „res“unterscheidet sich vom „ens“ darin, dass das „ens“ vom Akt des Seins hergenommen wird, während das Wort „res“ die Washeit oder Wesenheit eines „ens“ausdrückt . Wenn ein Ding im Gegensatz(vgl. Thomas Aquinas, , q.1, a.1 c)De veritate
zum „ens“ „res“ genannt wird, hat man daher den Wasgehalt des Dinges im Blick.Im Gegensatz zur „ratio“ wird es dagegen „res“ genannt, sofern es eine vom „essein ratione“ unterschiedene Seinsart besitzt. Zum Beispiel ist das, was wirklich
(in intellectu) (inexistiert, nicht nur als „ratio“ im Verstande , sondern auch in der Tat.„re“)
Die kontinentale rationalistische Philosophie scheint unter „realitas“ nur denBegriff, den Kant in substantivischer Weise verwendet hat, zu verstehen. DieserWortgebrauch drückt eine notwendige Konsequenz des Rationalismus, der die„ratio“ für die „res“ nimmt, aus. Diese rationalistische Auffassung derGegenstandsbeziehung vertrat auch Kant in der vorkritischen Periode.
In der tritt der Ausdruck „Beziehung auf einenKritik der reinen VernunftGegenstand, d. i. objektive Realität“ auf. Dieser Realitätsbegriff ist vom(A109)
rationalistischen Standpunkt aus nicht verständlich, weil er auf eine über die „ratio“hinausgehende Beziehung verweist. Das Auftreten eines solchen Realitätsbegriffs,den Kant dann in adjektivischer Weise verwendet, zeigt daher die philosophischeEntwicklung Kants an.