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「調査・試験・研究」部門

河川整備基金助成事業

「天理市石上神宮の傍示浚神事からみる布留川

流域の水資源利用と土地開発に関する研究」

助成番号:23-1216-008

奈良女子大学大学院 人間文化研究科 宮路 淳子

平成 23年度

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様式 6・2 1.調査・試験・研究 [:概要版報告書] 助成番号 事業者名 所属・助成事業者氏名

23-1216-008 天理市石上神宮の傍示浚神事からみる布留川流域の水資源利用と土地開発に

関する研究

奈良女子大学大学院 人間文化研究科 宮路 淳子

〔目 的〕

奈良盆地に残る複雑な水利灌漑システムは古代より開発が行われてきた貴重な歴史的遺産で

あるが、近年、社会資本整備や水不足の解消により、水利灌漑システムは急激に形骸化・消滅し

ている現状がある。その水利灌漑システムがどのような歴史的背景のもとに誕生したのかを探る

ためには、まず現在の水路網の状況を把握し、それをもとに現在から過去へ遡及していかなけれ

ばならない。平成 23 年度は現状の流路網の調査・把握、そして現地の河川で行われている神事

の様子を記録した。

〔内 容〕

水の流れの確認するため現地踏査を実施した。現地踏査に先立ち、事前作業として水路図網を

作成した後、現地で水路の経路や断面の確認をした。現況流域図を作成するため、河川や水路に

設置されている鋼製ゲート、ゴム引布製起伏堰、石材等で組んだ井堰などの灌漑施設も調査対象

とし、設置位置や規模の記録を行った。特に分水施設については、この流域の水利用に関する特

徴的な灌漑施設であるため、現況水路網図にその位置を記録した。これらの現況図をもとに、明

治時代の測量図や条里復原図、江戸時代の絵図に描かれた水路網や分水施設を中心に検討を行っ

た。絵図等で確認した分水施設のうち、文献史料に記載のみられるものについては、現地の分水

施設との比較を行った。また、布留川周辺流域で行われている石上神宮の傍示浚神事の様子をビ

デオカメラで撮影し、その他河川に関連する神事については写真での記録を行った。 〔結 果〕

今回の調査で明らかにした現在の水路網と絵図や文献史料の比較から、布留川周辺流域は、江

戸時代から明治時代までは大規模な水路の付け替え工事などはおこなわれていなかったと考え

られる。現在の景観はさらにそれ以前に行われた土地開発によるものだということができる。絵

図や文献史料から確認できた分水施設の中には、形は変えているが今も現役で使用されているも

のがあることが確認できた。また、その分水施設では「番札」を立てる行事が行われており、吉

野川分水が通水する以前に、大和平野の各地でみられた「番水制」の名残を今も留めていること

が明らかになった。

また、布留川周辺流域の八か所で行われている榜示浚神事の様子を全て映像記録として残すこ

とができた。傍示浚神事が行われていた下ツ道と河川の交点付近大溝に木杭を多数打ち込んだ水

利施設が見つかった。東側側溝で出土した水利施設は、布留川流域の豊井町や上総町にあったと

考えられる「土木」という施設と極めて構造が類似している。傍示浚神事がこの地で行われるよ

うになったことと、前述のことは何らかの関係があった蓋然性が高いと言える。当初は神事が行

われている場所は布留川流域の範囲であると考えていたが、他郷との境界を接する地域において

は必ずしも布留川の水を利用しているわけではないことが明らかとなり、神事が行われることに

なった場所は、水の利用以外の要因を検討する必要が出てきた。

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様式 6・3

1.調査・試験・研究 [:自己評価シート]

助成番号 事業者名 所属・助成事業者氏名

23-1216-008

天理市石上神宮の傍示浚神事からみる布

留川流域の水資源利用と土地開発に関す

る研究

奈良女子大学大学院

人間文化研究科

宮路 淳子

〔計画の妥当性〕

今回対象とした布留川周辺流域は、都市化や京奈和自動車道建設による大規模な河川改修や土地開発が行

われ、それまでと景観が大きく変わるとともに、その地域で守り伝えられてきた伝統行事も変化させつつ

ある。本事業では、大規模な土地改変以前の当該地域の様子を考えるために最も必要な現在の水路網の把

握、そこに営まれている伝統行事の把握を目的とした。本事業で得たデータはこれからの景観復元や社会

資本整備に携わる人々、またその地域に生活する人々にとって貴重なデータを提供するものである。

本事業では助成事業者の宮路と共同研究者の大庭が主に連携を取りながら協力して研究を遂行した。当初

予想していたよりも多くの分水施設が存在したことから、専門業者による測量を依頼したが、これにより

各分水施設の位置や概要を正確に把握することができた。したがって、本事業の計画は適切な体制および

規模であったと考えられる。

〔当初目標の達成度〕

平成 23 年度では、現況の流域図を把握すること、傍示浚神事の様子を記録することが目的であり、どち

らも当初の目標を達成したといえる。

しかし番水制については、都市化した地域においては記憶している人がほとんどおらず、また時間的な制

約もあり当時の状況を把握することが極めて難しかった。今後の検討課題としたい。

〔事業の効果〕

本事業により得られた成果は、従来石上神宮の信仰圏は布留川の水の利用する範囲と重なる地域といわ

れてきたが、必ずしもそうでない地域も含まれていることが今回の研究で明らかとなった。歴史学の成果

に新しく土木工学の成果を取り入れたことで新しい研究課題を得ることができた。

また、傍示浚神事の様子を記録した映像資料は神事を守り伝えている地域の方々に大変好評であり、神

事の重要性を再認識していただく良い機会となったとのお言葉もかけていただいた。神事の場所が変更さ

れる南六条町の人々の働きかけや研究分担者である大庭鎮顕氏の御尽力により、神事が行われていた現地

には記念碑が建てられることとなったのも、この事業の成果である。また、研究成果の一部は平成 24 年 6

月 23 日、24 日に京都大学で開催される第 29 回日本文化財科学会で「FOSS4G を利用した天理市布留川流域に残る歴史情報の発信」として発表予定である。

今回の研究を通じ、社会資本整備は大規模な土地の改変を伴うため、計画立案時には歴史的文化財だけ

でなく、地域の歴史の中で、その土地の生い立ちに関わる伝統行事や風習なども視野に入れた事前調査を

することの重要性を発信していくための礎としたい。

〔河川管理者等との連携状況〕

今回研究をするにあたり、県河川課からは、河川図の提供、天理市からは河川図の提供、下水道台帳の閲

覧等でご協力いただき、有益な助言をいただいた。また天理市の各地域の区長さん及び関係の方々には、

貴重な資料を提供していただき、神事の撮影に関してもご快諾いただいた。今回調査で得たデータ等は共

有の財産とし、今後の社会資本整備や河川環境の維持等にも役立てていただけると考えている。

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目 次

頁数 1. 研究目的 2 2. 方法 2 3.布留川とその流域について 3.1 布留川周辺の水路網 2

3.2 水路の変遷について 5 3.3 江戸時代の絵図に記録されている水路 6 3.4 条里制と水路について 7

4.布留川の水に関する伝統行事 4.1 傍示浚神事 7 4.2 大川堀 9 4.3 一之井の水分け行事 10 4.4 菅田川の川堀 10 5.結果 10

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1.研究目的 奈良は日本で最初の本格的都城が誕生した地であり、古代から開発が行われてきた地域

である。現在でも奈良盆地を上空から眺めると、多くの条里制遺構が残る。また奈良は水

不足にも悩まされ続けてきた地でもある。現在でも奈良盆地一円に残る多くの溜め池がそ

れを物語っている。先述の地理的な条件に加え、中世においては東大寺や興福寺などの大

寺院が盆地内の耕地を荘園としてもち、近世に入ると天領や寺社領などに細かく分けられ

たことに起因する複雑な水利灌漑システムが奈良には残る。

昭和 62 年、奈良県民の悲願であった吉野川分水の完成により、慢性的な水不足は解消

されたが、旧来の水利灌漑システムは、水不足の解消と社会資本整備により急速に形骸化・

消滅している。

今回の研究対象とした布留川周辺流域は、布留川など龍王山の渓流部の水を利用する地

域でもあり、奈良県天理市のほぼ全域を占める。中心となる布留川は天理市内のほぼ中央

を流れ、市内の河川中最大のものである。天理市の平野部においては、古来よりその受益

地間に度々はげしい水論をかもしだしたところとしても有名である。

布留川流域は『日本書紀』にも記載のある石上神宮を紐帯とし、古代から現在に至るま

でその信仰により結びついている地域であり、その信仰圏は一般に布留郷と呼ばれる。布

留郷の範囲は、その流域との関係が深い。布留郷では、10 月 1 日に石上神宮の信仰圏であ

る地域8か所に石上神宮の神官が赴き、榊を立てる「傍示浚神事」が行われている。これ

は同月 15 日に開催される秋の大祭「ふるまつり」に先立ち、外部からの汚穢不浄を防御し、

神域内を清浄に保つためのものであり、その始まりは中世まで遡ると考えられている 1)。

しかしながら、神事が行われてきた8か所のうち、天理市南六条町の現地(古代幹線道路

である下ツ道と水路との交点)が、京奈和自動車道建設に伴う水路の大幅な付替により平

成 23 年中に消滅してしまった。

複雑な水利灌漑システムは古代より開発が行われてきた奈良盆地の貴重な歴史的遺産

である。その水利灌漑システムを探るためには、現在から過去へ遡及していかなければな

らない。以上のような目的とし、平成 23 年度は現状の流路網の調査・把握、そして現地神

事の様子を記録することとした。

2.方法 ・文献史料、地図、現地調査による現況水路網の把握。

・現地調査による井堰や分水施設の把握。

・ハンディ GPS を用いて、水路、井堰、分水施設の位置情報を取得し、地図化。

・傍示浚神事の映像記録化

・布留川周辺に残されている分水施設の図化、土木工学的見地を含めた歴史的位置づけを

行う。

3. 布留川とその流域について 3.1 布留川周辺の水路網

3.1.1 布留川周辺の河川 図3.1.1 布留川周辺の河川図

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北から高瀬川、石上川、珊瑚樹川、中川、布留川北北流、富堂川、布留川北流、布留川、

勾田川、布留川南流、越川、長柄川、新泉川、真面堂川、西門川の一級河川が東西方向に

佐保川と大和川の合流部に向けて流れている。小規模河川から構成されているため、流路

が複雑に形成されている。また条里制の遺構が残っている地域としても知られている。 今回、流域図を作成するため、まず現地踏査にもとづき、現況水路網図の作成を行った。

現地踏査では、水路網の調査だけでなく、井堰や分水施設の確認作業も行った。 3.1.2 水路網調査 水の流れの確認するため、5月から11月にかけて、延30日間現地踏査を実施した。現地踏査に先立ち、事前作業として天理市都市計画図2)などに記録されている水路を抽出して

水路図網を作成した後、現地で水路の経路や断面の確認をした。暗渠になっていて現地確

認ができない水路は、天理市下水道台帳3)を参考にして補足した。流域内のほとんどの水

路はコンクリート造であるが、土の水路も一部存在し、それも調査の対象とした。しかし

土の水路は水が流れていない状態では水路としての区別ができないため、調査期間内で流

水が確認できた水路を記録した。水路網図は、基本的に上流から下流に向けて連続するが、

一部田越しの流れもあるため、水路が一部途中で途切れた部分もある。 住宅密集地や集落内の人家と人家の間を流れる水路については、現地確認ができない場

合は住宅地図等で補った。天理市内の下水道は分流式になっているが、個々の家屋からの

排水路は調査目的に影響しないため対象から除外した。 また現況流域図を作成するため、河川や水路に設置されている鋼製ゲート、ゴム引布製

起伏堰、石材等で組んだ井堰などの灌漑施設も調査対象とし、設置位置や規模の記録を行

った。特に分水施設については、この流域の水利用に関する特徴的な灌漑施設であるため、

現況水路網図にその位置を記録した。 3.1.3 布留川周辺の水の流れ(図 3.1.3 布留川周辺流域図) 布留川周辺の水の流れは、水源に着目すると、大きく3つのタイプに区分できる。

A 龍王山山頂を水源とする布留川は山麓から扇状地部へと流下するが、途中で一之井のような分水施設により、枝分かれし、佐保川と大和川の合流点に向けて流下する。(珊瑚樹

川、中川、布留川北北流、富堂川、布留川北流、布留川、勾田川、布留川南流) B 龍王山谷筋の渓流を水源とし、山腹部に設けられた池を経由し、東西方向の水路を流下し、布留川南流等に合流する。(越川、長柄川、新泉川、真面堂川、西門川) C 平野部では、布留川などの河川本川(上流からの排水を水源)を堰き止めて、堤内地側に引水し、池や直接水路に導水している。

A は布留川流域という言葉を用いて記載した。B と C の水源は、布留川流域の水源と異なるが、下流部において布留川流域の水と合流している。そのため本稿では、A を「布留川流域」、A を含む B、C を「布留川周辺流域」として語句を使い分けている。

3.1.4 流域検討 布留川の北側に位置する高瀬川流域については、白川ダムの建設の際に調査された高瀬

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川流域の流域図を参考とした 4)。(図 3.1.4① 高瀬川流域図)また、布留川の南側の大和

神社付近は、昭和19年頃、大和海軍航空隊の飛行場建設による水路や道路の改変があり、

条里の痕跡も消えている地域である。このため、この南側部分については、明治41年の

地形図等 5)を参考にして流域の検討をおこなった。(図 3.1.4② 布留川周辺地形図(2008),

図 3.1.4③ 布留川周辺地形図(1907),図 3.1.4④ 布留川周辺流域図)

3.1.5 分水施設と井堰 (1)現在の状況 布留川周辺の水路は、水源地である龍王山からその東側の谷間を流下し、天理市内を流

下する。一之井で布留川の北流と南流に分岐した流れは、下流に向けてさらに枝分かれし

て支川となる。扇状地部においては、一之井を含めて 21 カ所の分水地点を確認できた 6)。

分水施設で分岐した水路は、東から西に流れる。(図 3.1.5 (1)-① 分水施設位置図①~

⑲) 高低差の少ない平野部において、布留川周辺の水路で 24 箇所の井堰や 260 機の鋼製ゲートが確認できた。(図 3.1.5 (1)-②) 井堰の位置図)鋼製ゲート設置以前は人の手に

より水路に木の板を差し込み堰き止めていたが、機械的な操作によりゲートの開閉ができ

る鋼製ゲートが普及している。その位置を確認することにより、その水を利用している農

地の範囲を把握できる。 通常水は水路の縦断勾配に従った流れとなるが、大和平野の中心部は土地の高低差が少

なく、水路の縦断勾配も緩いため、ゲートで堰き止めて水路内に水をため、水位差により、

流れる方向をコントロールして、周辺の農地に水を配水している。このため、布留川周辺

流域の下流部では、ゲート操作で東西方向の水路と接続する南北方向の水路により、別の

東西方向の水路に水が流れ、佐保川と大和川の合流部に至る。

(2)分水施設「一之井」について(写真 3.1.5 (2)‐③ 一之井) 一之井は、天理市滝本町の天理市浄水場の下流部に位置し、布留川の河川中央部にある蝋

燭型をした分水施設である。先頭部は石材で組まれており、右岸側面には、「南流田村 勾

田村」、左岸側面には、「北流 三嶋村」と刻まれている。横断面は右岸・左岸ともに 2.4m

×0.64m とほぼ同じ断面である。この分水の先頭部から上流側に、水の勢いを減水させる

石が置かれている。また、分流部先頭部から下流約 10m の区間には河川底部に延石が敷き詰めてあり、水流による洗掘防止の工夫がされている。先頭部から下流に向けて、右岸側

と左岸側の断面を比較すると、右岸側は布留川本川のため、次第に断面が大きくなるが、

左岸側は人工水路であるため、その断面はほぼ同じ大きさである。河川の水位が増水した

場合、この分水施設は水中に没してしまうが、水没する間際において、右岸側と左岸側の

水位差が生じ、左岸側が満水状態になった時、下流部で横越流できるように縦断が下げら

れている。これにより、洪水時の分水施設の安全性が確保されている。 (3)一之井の歴史的検討 布留川に設置されている分水施設のうち最も上流にある分水施設である。天理市内各地

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に残る水利関係文書にも「一之井」の名称がみられ、文献史料に頻出する分水施設である。 ①三嶋庄等水配分状写(三島区所有文書)天正 12(1585)年 7 月 12 日(史料 3.1.5 (3)-①)と②一之井関水配分取替再認書(勾田区所有文書)天正 12(1585)年 7 月(史料 3.1.5 (3)-②)は、天理市史記載の水論関係文書の中では一番古いものである。①②の文書によると、

すでに天正 12 年以前から一之井という字が存在していること、そこは分水施設であったこと、一之井で三嶋村と田村・勾田村に等分に水を分けることは以前からの決まりごとで

あり、そしてその配分量は当時の大和国の支配者であった筒井順慶により安堵されていた

ことがわかる。ゆえに、16 世紀よりも前にすでにこうした取り決めがあったことが文書からうかがい知ることができる。 次に③水論裁定書写(田井之庄区所有文書)享保 13(1729)年 6 月(史料 3.1.5 (3)-③)、

④三島川番水約定写(保田家文書)享保 13(1729)年 6 月(史料 3.1.5 (3)-④)は、三島川の水の配分について、田井庄村と三嶋村が水利権を持つ田村・勾田村に対して、三島川

の用水を利用している田井庄村にも、一之井の水番をさせることを認めさせるために京都

町奉行に訴訟を起こしたものである。結果は三嶋村と田井庄村の申し出は認められず、古

来よりのしきたりを守り、水の配分については田村・勾田村・三嶋村に優先権があること

が確認されている。ここで注目すべき内容は、どのような形状のものであったかは不明で

あるが、分水施設の材質が石であったことが明記されていることである。 現在の石造の分水施設は、先述のように蝋燭型の形状をしており周囲をコンクリートで

固めている。現在の一之井は、勾田区所有文書「三ケ村張分ニ水規定書」(史料 3.1.5 (3)

-⑤)から明治 14 年に三か村がお金を出し合って作ったことがわかる。 3.2 水路の変遷について

布留川周辺流域では表 3.2-①7)と図 3.2-②(表 3.2①地域開発一覧表, 図 3.2② 地域開発位置図)に示したように明治 33 年から現在に至るまで、水路の付け替えや経路変更を伴う地域開発が行われている。このため、現在の水路網図と条里復原図を利用して、明治時

代 8)の水路網について次の①から④の資料により検証を行った。 ① 昭和 50 年代後半の布留川改修工事に伴い、田村川は付け替えられているため、昭和29 年測量の天理市都市計画図を参考にした。 ② 現在、天理教の中心施設が建つ豊井町から三嶋町に至る地域では、明治 44 年以降、三嶋町周辺開発や天理教神殿の築造により、東西方向の水路が付け替えられているため、

「おやしき変遷史図」9)により、水路網の確認を行った。 ③ 主な水路は、明治41年測図の二万分の一地形図 10)により確認した。特に、天理市長柄町付近では、昭和 19 年、大和海軍航空隊の飛行場建設が行われたため、東西方向の水路が大幅に付け替えられ、条里制の痕跡もなくなっている地域である。斜めに付け替えら

れた水路を明治の地図のとおり、東西方向の水路に修正した。 ④明治 41 年測量の地形図に図化されていない水路は、大和国山辺郡村絵図 11)により、明

治時代の水路網の確認を行った。 ①②③④の作業を踏まえて、現在の水路網図から、明治時代の水路網の検証をした。 小結 大和平野において、河川は条里に沿った流れを形成していたが、明治以降の河川改

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修により、蛇行部や条里方向に折れ曲がった流路は直線的な流路に改修されている。一方

で、主な水路は条里に沿った流路を形成していたことが確認できた。その水路は現在の水

路網とほぼ同じであることが確認できた。 3.3 江戸時代の絵図に記録されている水路

先に確認した明治時代の水路網から、さらに江戸時代の布留川水利分流絵図 12)に描かれ

た水路や河川の位置関係の検証を行った。検証作業では、絵図に書かれている地名、寺院

の名称、小字等から、絵図に描かれた水路の位置を比較した。 また明治時代の水路網と比較して、位置関係の検証をした。 検証に用いた主なポイントは、 ① 田井庄、富堂、前栽、平等坊、岩室、荒蒔、上之庄、菅田、小田中、田部、別所、指

柳、布留、三嶋、庄屋敷、川原城、丹波市、守目堂、田村、勾田村の位置 ② 上ツ道、中ツ道、下ツ道及び布留街道の位置 ③ 別所池、指柳池の位置 ④ 絵図に記された浄土院の位置 ⑤ 絵図に示されている分岐点のうち、小字が記されている「土木」の位置 図 3.3.① 布留川水利分流絵図(寛文13年:豊田区所有)

図 3.3.② 布留川水利分流絵図 描き起し図

図 3.3.③ 大和国山辺郡 内馬場村田村勾田村 水論立会図 13)(勾田区所有)

図 3.3.④ 大和国山辺郡 内馬場村田村勾田村 水論立会図 描き起し図

図 3.3.⑤ 江戸時代の絵図に記録されている水路(天理市都市計画図に加筆)

小結:①~⑤のポイントで検証した結果、江戸時代の絵図は、縮尺など精度の点では評価

できないが、流域の範囲は極めて正確に把握しており、また主要な地物等の位置関係も正

確に反映されている。勾田町の絵図では、龍王山山頂付近の土地が田村領に属すること、

山頂の池及び社が現存していることが確認できた。これらのことから、絵図が描かれた時

期から明治時代にかけて大きな水路の付け替えなどはなかったと推定される。 ④により、絵図の上ツ道沿いの浄土院の南側において、水路が西に向いて流れているこ

とが読みとれる。現在もこの付近が流域界となっており、絵図の水路は流域界を反映して

いる。 ⑤で検討した三嶋川と菅田川の分水点にあたる小字土木は、大和国条里復原図及び地元

への聞き取り調査で確認した。この土木の由来であるが、天理市史 14)によると「豊井と上

総にある。川の底や岸の土地が流れないように、杭を打って木を横に渡したのをどぎとい

う。上総のはどぎ川のほとりの地である。」とある (下線部は加筆) 上総町にある現在の上総池は、大和国山辺郡村絵図(上総)で字土木池と記載がある。

また大和国条里復原図でも、上総池の周辺に字土木と記載がある。上総池の水源は現在の

石上川であることから、「はどぎ川」は石上川と考えられる。このようなことから、土木は、

水利施設に由来すると考えられる。

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3.4 条里制と水路について (図 3.4 条里復原図と現在の水路網を重ね合わせたもの)

大和平野は古代から中世にかけての耕地開発の痕跡である条里地割が残る地域として

広く知られており、また水路網も条里に沿っていると言われることが多い。3.2 及び 3.3

の検討を踏まえ、大和国条里復原図 15)に復元された条里と水路が重なるかどうかの検討を

行った。大和国条里復原図に現況水路網図を重ね合わせた結果、河川改修部分を除くと、

条里にそった水路網が確認できた。絵図に記載されている情報と布留川周辺では、江戸時

代(末期)から明治時代にかけて大規模な水路の付け替え工事などは行われていないと考

えられる。

4. 布留川の水に関する伝統行事

4.1 傍示浚神事 (図 4.1.2①傍示浚神事位置図)

今回、平成 23 年 10 月 1 日に行われた神事について、その様子をビデオ撮影し記録として残した。以下、傍示浚神事の内容を報告する。 4.1.1 牓示浚神事の概要

神事の概要については、白井伊佐牟氏の著書に詳しいので、以下抜粋する 16)。 「当日午前九時神職二名が北郷・南郷(布留川の北が北郷・南が南郷)にわかれ、北郷は

1 石上町・石上市神社、2 富堂町・岩上神社、3 田井庄町・八剱神社、4 南六条町北方・三十八神社の四か所、南郷は 5 内馬場町・春日神社、6 川原城町・神明神社、7 備前町南端・備前橋南詰道路脇、8 田町・厳島神社の四か所の計八ケ所で祭典が行なわれ、榜示榊は 1・2・3・4・5・8 は各神社本殿前の盛砂に刺すが、8 は後刻北西方の境界地へ刺し、1 も以前は北方の櫟本町との境界に立てていた。6 は一の鳥居跡地(布留街道と上街道の交差点の東)へ、7 は祭典場所と同じところへ立てる。 式次第は先ず修祓(神饌・榜示榊・玉串・参列者の順に祓う)、次に榜示榊を盛砂に刺す、

次に献饌、祝詞奏上、玉串拝礼と続き、撤饌を以て終る。」 傍示浚神事は上記の順序で行われる。神事の準備をする各町では、その神事に参加する

人数や神饌の内容、榊を立てる場所に若干の違いがみられる。また、北郷の南六条町北方

では、神社での神事の後に北西方に位置する境界地に榊を立てていたが、西名阪自動車道

郡山ジャンクション建設に伴う開発により、その境界地が消滅したため、現地で行われる

神事は平成 23 年 10 月 1 日が最後となった。 次項では、平成 23 年 10 月 1 日の傍示浚神事の様子について説明する。 4.1.2 現在の傍示浚神事の様子 (写真 4.1.2② 傍示浚神事の様子 南六条町現地)

傍示浚神事は、各町では「榊立て(神事)」と呼ばれることが多く、「傍示浚神事」とい

う呼び方は各町においては一般的ではない。また、この神事が主な神事ではなく、あくま

でも 15 日に開催される「ふるまつり(田村渡り)」に先立つ神事である。 神事当日は北郷・南郷ともに石上神宮の神職が、朝 9 時・10 時・11 時・12 時と各町を車で廻る。午後 1 時に神事は終わる。

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<北郷> ①石上町 区長さんのお話によると、もとは上ツ道の郡界橋付近で神事を行っていたそうである。

現在その場所は存在していない。以前は神事に立ち会うのは区長だけあり、また神事の事

を知っているのは区長とごく一部の人間のみであった。平成 21 年の調査では参加者は2人であったが、平成 23 年は区長・当屋・氏子総代・町内役員の 8 名が参加した。 ②富堂町 参加者は区長・月当番(2 代前の区長)の 2 名である。神饌は三台(酒・水・塩)であ

った。 ③田井庄町 参加者は区長1名と十人衆 17)と呼ばれる 10 名の計 11 名である。神事が行われている八か

所のうち、田井庄町のみ、警蹕※をおこなう。

※警蹕…天皇の出御(しゅつぎょ)・入御(じゅぎょ)・渡御(とぎょ)、供御(くぎょ)の

持参、神事の降神・開扉、昇神・閉扉を知らせる音声。

けいひつ【警蹕】”, 国史大辞典, ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先

<http://www.jkn21.com>

④南六条町 区長・頭屋・氏子総代・自治会役員の 8 名が参加する。まず神社で神主が神事を執り行い、主祭神前に盛られた砂に神主が榊を立てる。神事が終わると、神職は神宮に戻り、区長と

次年度の区長以外は解散となる。その後、区長以下 2 名で、主祭神前に立てられた榊を一旦抜き、南六条町・伊豆七条町・八条町との境に移動し、榊を立てる。移動の手段は車で

ある。平成 23 年は、すでに郡山ジャンクション建設に伴う発掘調査が進められており、今まで存在していた水路は仮の水路となっていた。場所はもとの神事が行われていた場所

より数メートル南に移動している。その水路の南側と下ツ道の交点とに榊を立てた。 <南郷> ①内馬場町 区長・頭屋・年神主を含む 5 名である。神饌は最初から主祭神前に設置された案に置くのではなく、献撰の前に集会所から持って上がり、供える。供えられた神饌は撤撰の儀の後、

献撰の儀とは逆の順番で下げられる。なお、平成 21 年次の調査とは修祓の場所が少し異なった。また、平成 23 年度の神事では女性の参加があった。 ②川原城町 神事に立ち会うのは 3 人。区長・副区長・氏子総代である。神事を行う前に参加者 3 名それぞれの役職について説明がある。神社で榊立ては行わず、榊立て以外の神事を執り行う。

その後、神職と一緒に天理本通り商店街まで歩いて移動。移動先は、商店街ができる前ま

では、石上神宮の燈籠があった場所である。現場はアーケード街になっているため、砂は

木箱の中に盛る。現地には氏子衆 10 名程が集まり、神職が榊を立てた後一同お辞儀をして終わる。 ③備前町

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現地でのみ神事を行う唯一の地区である。区長・氏子総代の 2 名が参加する。榊立ての場所は県道 51 号線と真面堂川の交差する南西側であり、ここは備前町と武蔵町の境界でもある。現地の榊立ての場所が分かるように、平成 22 年に四角い枠が作製された。枠の南側は武蔵町との境界線にあたるという。その四角い枠の上に砂を盛る。神事に必要な道具

は区長・氏子総代が用意する。雨天の場合は、氏神である天皇神社で神事を行う。 ④田町 ここは 10 月 15 日に開催される石上神宮の秋の大祭「ふるまつり」当日の御旅所となる。また、布留川流域において、どの町よりも優先的に布留川の水を引くことができる水利権

を持つ町でもある。平成 23 年度は区長・氏子総代・自治会役員の 8 名が参加した。神社境内で榊立て神事を行う 6 か所は主祭神前に榊を立てるが、田町は拝殿前にある鳥居前に榊を立てる。 小結:全体として共通していることは、 ①当日朝、神職が到着する前に区長が神社や拝殿を掃除し、神饌の準備をする ②神事に参加するのは基本的に男性のみ(内馬場町のみ 23 年度は女性が参加)である ③神饌は神事終了後、参加者に分けられる である。 榊を立てる位置に関しては、現地で行われる備前町と川原城町を除き、それぞれの神社

境内で行われるが、原初的な形は先述の通り、もとは郷と郷の境で行われていたと考えら

れる。現地で神事が行われている南六条町と備前町をみると、南六条町は伊豆七条町と八

条町の境界地点が古代の幹線道路である下ツ道と河川の交点であり、備前町は真面堂川と

中ツ道の交点にあたる。どちらも「榊」という小字名が残ることから、今回研究対象とし

た榊立て神事と関係が深いことが考えられる。 4.2 大川堀(写真 4.2.1) 毎年5月の卯の日に、布留大橋(天理市豊井町)の下流部の布留川と田村川(現在の布

留川南流)の分水点にあたる場所で、大川堀と言われる伝統行事が行われている。布留川

は、江戸時代の文書で大川と記されており、現在でも地元の人は、布留川のことを「大川」

と呼んでいる。 この行事には、南郷の地元である勾田町、田町の自治会長や水利関係者などが集まる。

川の中に、3本の竹の枝を立てて御神酒を流す。これは、田に水が必要になる時期になる

と、水利権を持つ田村に優先的に水を流すため、他の町には一切水が流れない。しかし、

それではあまりにも無慈悲だということで、せめて竹を伝って流れる水ぐらいは他の町に

も水を分け与える、ということから始まった神事であると伝えられている。 かつて布留川は、布留大橋から下流約1㎞の区間は蛇行した自然河川であり、その蛇行

部分に布留川と田村川の分水施設が作られていた。現在、布留川は直線的に改修されてお

り、布留川には田村川の取水口が整備され、布留川の左岸に田村川は付け替えられている。

(県内の河川では、上流部で分水することにより、土地の高低差を利用し、河川周辺の農

地に灌漑する仕組みが取られている。)

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4.3 一之井の水分け行事

毎年5月に、三島町、勾田町、田町の自治会長や水利関係者などが一之井に集まる。春

の農耕の始まりに際して行われるもので、最初に分水施設にたまった土砂等を掃除してき

れいにする。 次に、水を流す断面を同じにするため、付近に生えている竹などで水路幅を計って、土嚢

で丁寧に幅の調整が行われる。その後、川底から砂を集めて、分水の堤の上に砂を盛り、

「田村」と記された一番札(写真 4.3.①)を立てる。一之井に一番札を立てたのち、それ

ぞれの地域関係者は、下流部にある分水施設(図 4.3.②)に行き、同様に「番札」を立て

る行事である。 4.4 菅田川の川堀 18)

毎年5月の卯の日に、天理市上ノ庄町から菅田川沿いに上流に向けて、ホラ貝を吹きな

がら川堀をする行事である。農耕の始まりの時期に、菅田川の水利権を有する大字として、

水路点検と維持管理のためこの行事が行われている。水の利用に関して、一般的には下流

より上流の方が有利な立場にあるが、この上ノ庄町は、布留川の下流にある村にも関わら

ず、水に関する占有権を有している大字である。菅田川の「菅田」という名称は、下ツ道

沿いに南菅田町、北菅田町という地名として残っている。菅田川は、寛文13年の銘があ

る「布留川水利分流絵図」(豊田町所有)に、上流部の豊井や田部付近にまで「菅田川」と

記載されていることから、水利権が上流部にまで及んでいたことが推察される。 5.結果 今回の研究で以下の点を明らかにすることができた。

①従来の先行研究では、主要な水路の概念図しか明らかにされてこなかった布留川周辺地

域であるが、今回当該地域の現在の水路網を押さえることができた。研究助成申請当初は、

石上神宮の信仰圏である布留郷は布留川の水を利用する地域と重なることから、布留郷は

「布留川によって組織された一種の水利組であることがわかる」19)という考えが暗黙の了

解であり、傍示浚神事も布留川流域の範囲であると考えていたが、他郷との境界を接する

地域においては必ずしも布留川の水を利用しているわけではないことが明らかとなり、そ

れを図化することができた。具体的には川原城町、田井之庄町、富堂町、田町、内馬場町

は、布留川流域の土地であるが、備前町は布留川流域には入らない土地である。南六条町、

石上町は布留川流域には入らない土地であるが、高瀬川流域や旧河道との関係でさらに検

討が必要である。

②絵図や文献史料から確認できた分水施設の中には、形は変えているが今も現役で使用さ

れているものがあることが確認できた。また、その分水施設では「番札」を立てる行事が

行われており、吉野川分水が通水する以前に、大和平野の各地でみられた「番水制」の名

残を今も留めていることが明らかになった。国内では戦後開発が進み、古代からの景観で

ある条里が良く残ると言われる大和平野であっても、近代以前の景観を復元するのは徐々

に困難になってきている。そのような中で分水施設が中世や近世の面影をとどめ、現代も

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生活の中に根付いていることは歴史的に大変貴重であり、今後も後世にその重要性を伝え

る必要がある。

③布留川周辺流域の八か所で行われている榜示浚神事の様子を全て映像記録として残すこ

とができた。傍示浚神事の行われている場所のうち、現在も現地で行われている南六条町・

川原城町・備前町にはそれぞれ「榊(南六条町)」・「榊(川原城町)」・「榊本(備前町)」と

いう小字名が残る。またこの地名は、南六条町は下ツ道、備前町は中ツ道、川原城町・石

上町は上ツ道に沿った土地で古代の幹線道路に接する土地でもある。今回注目した傍示浚

神事とこれらの小字の地名は、何らかの関係があったと考えられる。 ④平成 23 年で消滅した傍示浚神事の南六条町の現地では、道路建設に先立つ埋蔵文化財の発掘調査により、傍示浚神事が行われていた下ツ道と河川の交点付近では、牛馬の骨が

出土しており、ここでなんらかの祭祀も行われていた可能性がある。また、下ツ道の側溝

跡と大溝に木杭を多数打ち込んだ水利施設が見つかった(写真5①)。東側側溝で出土した

水利施設は、布留川流域の豊井町や上総町にあったと考えられる「土木」という施設と極

めて構造が類似している。利水上重要な水利施設として、水利機能が守られてきたと推定

される。(図5-②千本杭想像図 20 ))南六条町の神事が行われていた小字榊の付近は、南六

条町を含む三町の境界点であり、また利水上重要な施設があった場所でもある。傍示浚神

事がこの地で行われるようになったことと、前述のことは何らかの関係があった蓋然性が

高いと言える。 今回の研究を通じ、社会資本整備は大規模な土地の改変を伴うため、計画立案時には歴

史的文化財だけでなく、地域の歴史の中で、その土地の生い立ちに関わる伝統行事や風習

なども視野に入れた事前調査をすることが重要性であることを伝えることができたと考え

る。 引用文献 1) 白井伊佐牟 1991「榜示浚神事」『石上・大神の祭祀と信仰』国書刊行会 p.33-p,40 2) 参考に用いた地図は次の通りである。天理市都市計画図(平成 12 年 9 月作成),大和郡山市基本図(平成 9 年 12 月作成),川西町都市計画図(平成 19 年 3 月作成),田原本町(平成 10 年 10 月作成) 3) 天理市 2001 他『天理市下水道台帳』 4) 白川溜池土地改良史編纂委員会 1999『白川溜池土地改良史』 5) 大日本帝国陸地部 1908「櫟本・丹波市・桜井・郡山明治 41 年測図地形図」(柏書房 2001『正式二万分一地形図集成 関西』)

6)天理技研株式会社 2012『天理市・布留川流域の歴史的な水利施設の測量』報告書 7)流域の開発については、天理市史編纂委員会 1976『天理市史 上巻』に収録されている年表及び http://www.kkr.mlit.go.jp/nara/keinawa/yamato.html を参考にした。 8)明治時代に同一の測量技術で作製された地図資料は、当該地域においてはここで用いた明治 15 年作製「大和国山辺郡村絵図(奈良県製作/天理大学図書館蔵)」が現存資料では最も古い。したがって、本稿では「明治時代」とは基本的に「明治 15 年」として使用している。

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9) 天理教 1931『おやしき変遷史図』 10) 前掲 5) 11) この絵図は、明治15年に作成された字単位の絵図で、山辺郡27カ村(田井庄、富堂、前栽、杉本、平等坊、岩室、稲葉、荒蒔、上之庄、菅田、六条、南柳生、新庄、上総、

木殿、指柳、小田中、石上、田部、別所、福智堂、永原、九条、吉田、庵治、備前、嘉幡、

小島、筑紫、合場、井戸堂、内原、小路)の絵図が残されている。絵図には、山、道、水

路、流水の方向、寺社、池、集落、字界、方位、主要地物からの距離が記録されている。 また、同様の絵図(布留、三島、川原城、田井庄、石上、田部、別所、豊田、豊井、勾田、

守目堂、田、丹波市、内馬場、岩屋ヶ谷)が天理大学図書館にも保管されており、これら

を利用して明治時代の水路網の確認作業を行った。 12) 天理市史編纂委員会 1976『天理市史 上巻』 13) 天理市勾田町所有の文書類を上田喜史氏の御好意で今回拝見させていただいた。 14) 天理市史編纂委員会 1958『天理市史(限定版)』p.944 15) 奈良県立橿原考古学研究所編 1981『大和国条里復原図』を利用した。『大和国条里復原図』は昭和 47 年に奈良県土木部都市計画課が作成した「都市計画図 1/2500」を基本図としている。この復原図の水路は基本図に記載された水流線、池沼などを基準とし、そ

の後の河川の付け替えや池の開鑿などは反映されていない。 16) 前掲 1)参照 17) 天理市史編纂委員会 1976『天理市史 下巻』。昭和 31 年前後には六人衆と称するものが存在したが、改定天理市史編纂に伴う昭和48年前後の調査時には確認されていない。

十人衆は、宮座制度と同様のものと考えられる。 18) 天理市二階堂上ノ庄町 1987「ふるさと」『上ノ庄町誌』 19) 近江昌司 1988「布留郷と石上信仰」『大神と石上』 20) 京都府山城土地改良事務所 1999『南山城瓶原大井手 鎌倉から平成に流れる・農業土木遺産 助成事業者紹介 (研究代表) 宮路 淳子 奈良女子大学大学院人間文化研究科 准教授(人間・環境学博士)

(共同研究者) 大庭 鎮顕 奈良県吉野土木事務所 所長

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「調査・試験・研究」部門

河川整備基金助成事業

「天理市石上神宮の傍示浚神事からみる布留川流

域の水資源利用と土地開発に関する研究」

図版・資料編

助成番号:23-1216-008

奈良女子大学大学院 人間文化研究科 宮路 淳子

平成 23年度

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2008) 図 3.1.1 布留川周辺河川図(奈良県河川図 大和川水系 2008)