イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 - hermes-ir...(38)一橋法学 第4巻...

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(3?: イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 ジョン・ミドルトン※ I はじめに II イングランドにおける従来のプライバシー保護 ヨーロッパ人権条約によるプライバシー保護と表現の自由の保障 IV 1998年人権法によるプライバシー権の展開 V 1998年人権法施行後のプライバシー関連の判決 おわりに I はじめに イギリスの1998年人権法(HumanRightsAct 1998)'は、世界 年の権利章典(BUIofRights)以来の国内法における最も重要な人権に関する 律であるとみられている2)。ヨーロッパ人権条約(人権及び基本的自由の保護の ためのヨーロッパ条約) (European Convention on Human vention for the Protection of Human Rights a で保障されている権利および自由をより一層実施するために制定されたこの法律 r一橋法学』 (一橋大学大学院法学研究科)第4巻第2号2005年7月ISSN 1347 一橋大学大学院法学研究科助教授 1)この法律の成立の経緯および内容については、斎藤憲司「ヨーロッパ人権条約の 国内通用化-1998年人権法の制定」ジュリスト1151号(1999年3月1日) 江島晶子「1998年イギリス人権法の実施過程に関する検討- 「人権の世紀」のた めにとりうるAlternative」中央大学・法学新報108巻3号(2001年8月) 下、同『人権保障の新局面-ヨーロッパ人権条約とイギリス憲法の共生』 (日本評 論社、 2002)、同「イギリスにおける人権保障の新展開 - ヨーロッパ人権条約 と1998年人権法」ジュリスト1244号(2003年5月1日・ 15日173頁以下 司「市民的自由の保障 - 「イギリス的アプローチ」と「1998年人権法」の成 立」比較法研究61号(2000年3月100頁以下、田島裕『イギリス憲法典-1998 人権法』 (信山杜出版、 2001)、田宮裕「イギリス憲法典-1998人権法の制定」法 の支配118号(2000年9月) 19頁以下参照。 2) Jack Straw MP, "Foreword to the First Edition field, Blackstone's Guide to the Human RightsAct stone Press, 2000), p. ix. 373

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Page 1: イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 - HERMES-IR...(38)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月 は、 2000年10月2日に施行された。その結果、イギリスの訴訟当事者がフランス

(3?:

イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護

ジョン・ミドルトン※

I はじめに

II イングランドにおける従来のプライバシー保護

Ⅲ ヨーロッパ人権条約によるプライバシー保護と表現の自由の保障

IV 1998年人権法によるプライバシー権の展開

V 1998年人権法施行後のプライバシー関連の判決

Ⅵ おわりに

I はじめに

イギリスの1998年人権法(HumanRightsAct 1998)'は、世界史上有名な1688

年の権利章典(BUIofRights)以来の国内法における最も重要な人権に関する法

律であるとみられている2)。ヨーロッパ人権条約(人権及び基本的自由の保護の

ためのヨーロッパ条約) (European Convention on Human Rights (European Con-

vention for the Protection of Human Rights and Fundamental Freedoms))のもと

で保障されている権利および自由をより一層実施するために制定されたこの法律

r一橋法学』 (一橋大学大学院法学研究科)第4巻第2号2005年7月ISSN 1347-0388※ 一橋大学大学院法学研究科助教授1)この法律の成立の経緯および内容については、斎藤憲司「ヨーロッパ人権条約の

国内通用化-1998年人権法の制定」ジュリスト1151号(1999年3月1日) 6頁、江島晶子「1998年イギリス人権法の実施過程に関する検討- 「人権の世紀」のためにとりうるAlternative」中央大学・法学新報108巻3号(2001年8月) 551頁以下、同『人権保障の新局面-ヨーロッパ人権条約とイギリス憲法の共生』 (日本評論社、 2002)、同「イギリスにおける人権保障の新展開 - ヨーロッパ人権条約と1998年人権法」ジュリスト1244号(2003年5月1日・ 15日173頁以下、倉持孝司「市民的自由の保障 - 「イギリス的アプローチ」と「1998年人権法」の成立」比較法研究61号(2000年3月100頁以下、田島裕『イギリス憲法典-1998年人権法』 (信山杜出版、 2001)、田宮裕「イギリス憲法典-1998人権法の制定」法

の支配118号(2000年9月) 19頁以下参照。2) Jack Straw MP, "Foreword to the First Edition" in John Wadham and Helen Mount-

field, Blackstone's Guide to the Human RightsAct 1998 (2nd ed.) (London : Black-

stone Press, 2000), p. ix.

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Page 2: イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 - HERMES-IR...(38)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月 は、 2000年10月2日に施行された。その結果、イギリスの訴訟当事者がフランス

(38)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

は、 2000年10月2日に施行された。その結果、イギリスの訴訟当事者がフランス

のストラスブール市にあるヨーロッパ人権裁判所(EuropeanCourtofHuman

Rights)に訴訟を提起する代わりに、国内裁判所においてヨーロッパ人権条約に

より規定されている基本的な市民的・政治的権利を国家に対し要求する手段が保

障されることになった。

同法の施行に合わせて、拙稿「イギリスにおけるプライバシーの法的・倫理的

保護論」と題して、 「一橋大学研究年報・法学研究」第35号(2001年3月)で、

特に虚報被害者の救済法の観点から同法の背景および規定について論じたことが

3Z*.

その当時におけるプライバシー3)関連のイングランド法は、まだ「発達不十分、

複雑かつ断片的」 (underdeveloped, complicated, and fragmentary)であり4)、そ

の権利の保護は不十分である、と一般的にはみられていた5)が、その後1998年人

権法の適用によりどのように展開しているであろうか。

本稿では、特に、英連邦の法律家をはじめ、世界中の報道機関の注目を集めて

いるキャンベル対MGN社事件における貴族院(HouseofLords)の判決6)に焦点

をあてながら、人権法施行後のイングランドにおけるプライバシー権の展開を考

察することにする。しかし、その前に、まずその前提となっているイングランド

における従来のプライバシー保護、ヨーロッパ人権条約によるプライバシー保護

および表現の自由の保障、ならびに1998年人権法のいくつかの主要な規定につい

て簡単に説明することにする。詳しくは、前掲の拙稿を参照されたい7)。

3)イギリスでは「プリヴァシー」と発音されることがあるが、ここでは、日本の一

般的な表記にならって「プライバシー」を使うことにする。

4) Basil S. Markesinis and Simon F. Deakin, Tort Law (4th ed.) (Oxford : Clarendon

Press, 1999), p. 648.

ちなみに、 2003年に出版されたその第5版では、この表現は「発達不十分、複雑

かつ断片的ものの変革中である(underdeveloped, complicated, fragmentarybut

alsoinastateofevolution)」と改正されている(SimonDeakin,AngusJohnston

and Basil Markesinis, Markesinis and Deakin's Tort Law (5 ed.) (Oxford :

Clarendon Press, 2003), p. 697)。

5) Alan Williams, "England and Wales" in Christian Campbell (ed.) , Internatioγ乙al Me-

dia Liability : Civil Liability in the Information Age (Chicester and New York :

John W:比ey & Sons, 1997), para. 3.44.

6) campbell v. MGNLtd [2004】 UKHL 22, 【2004】 2 AC 457, 【2004】 2 All ER 995.

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(39)

Ⅱ イングランドにおける従来のプライバシー保護

イングランドにおいては、包括的プライバシー権は認められていない8)が、プ

ライバシーは判例法および制定法によって一定の範囲内で保護されている。

7)また、 2001年以降出版されている次のような英語文献も参考になる。

Lauren B. Cardonsky, "Towards a Meaningful Right to Privacy in the United King-

dom", 20BUInflLJ 393 (2002).

Richard Clayton and Hugh Tomlinson, Privacy and Freedom of Expressio柁(Ox-

ford and New York : Oxford University Press, 2001).

Madeleine Colvin (ed) , Developing Key Privacy Rights (Oxford and Portland , Ore-

gon : Hart Publishing, 2002).

Jonathan Cooper (ed.) , Privacy , 【2003] EHRLR Special Issue.

Tom Crone (Ph:山p Alberstat, Tom Cassels and Estelle Overs (eds)), Law and the

Media (4* ed.) (Oxford : Focal Press, 2002).

Simon Deakrn, Angus Johnston and Basil Markesinis , Markesinis and Deakin's Tort

Law (5th ed.) (Oxford : Clarendon Press, 2003).

David Feldman, Civil Liberties and Human Rights in England and Wales (2nd

ed.) (Oxford and New York : Oxford University Press, 2002).

Jeffrey Jowell QC and Jonathan Cooper (eds), Delivering Rights : How the Human

RightsAct is Working (Oxford and Portland, Oregon : Hart Publishing, 2003).

Nicole Moreham, "Cases : Douglas and others v Hello! Ltd - The Protection of Pri-

vacy in English Private Law", (2001) 63 MLR 767.

Gavin Phillipson and Helen Fenwick, "Breach of Confidence as a Privacy Remedy in

the Human Rights Act Era , (2000) 63MLR 660.

Gavin Phillipson, "Transformhg Breach of Confidence? : Towards a Common Law

Right of Privacy Under the Human Rights Act", 〔2003) 66 MLfi 726.

Joshua Rozenberg, Privacy and the Press (Oxford and New York : Oxford Univer-

sity Press, 2004).

Damian Tambini and Clare Heyward (eds) , Ruled by Recluses? Privacy, Journal-

ism and the MediaAfter the Human RightsAct (London : IPPR, 2002).

Hugh Tomlinson QC (ed.), Privacy and the Media : The Developing Law (Lon-

don : Matrix Chambers, 2002).

John Wadham, Helen Mountfield and Anna Edmundson, Blackstone's Guide to the

Human Rights Act 1998 (3rd ed.) (Oxford and New York : Oxford University Press,

2003).

Tom Welsh and Walter Greenwood, McNae's Essential Law for Journalists (16

ed.) (London and Edinbu増,h : Butterworths, 2001).

Jane Wright, Tort Law and Human Rights (Oxford and Portland, Oregon : Hart

Publishing, 2001).

8)貴族院は、ウェインライト対内務省事件(wainwrightv.HomeOffice[2003]UKHL53,[2003】4AllER969,[2003】3WLR1137)において、包括的なプライバシー侵害という不法行為(generaltortofinvasionofprivacy)はイングランドに存在しない、と判示している。

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40 一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

判例法上は、プライバシーは、トレスパス(trespass)、信頼違反(breachof

confidence)、ニューサンス.nuisancej、名誉穀損(defamation)、契約違反

(breachofcontract)、信託違反(breachoftrust)などの分野において部分的に

保護されている。

同様に、制定法上は、個人情報の無断公開(unauthoriseddisclosi∬eofper-

sonalinformation)9 、郵便.公衆電気通信システムの故意の傍受(intentionalin-

terception of posts and public telecommunications systems) 、盗聴装置の使用

useoflister止ngdevices) 、いやがらせ(harassment)12)などによるプライバシー

侵害が禁じられている。

この判例法と制定法の組み合わせによって、ある程度までプライバシー権は保

護されているが、このような権利が欠如している場合も時々ある。

イングランドの裁判所では、実際に、人権法施行前からプライバシー権に関連

した裁判において、他の事件に比べて、その権利に関するコモンローを大胆に拡

張する傾向が目立つようになっている13)。すなわち、救済に値する原告に対して

は、従来の不法行為の範囲を拡張したり14)しながら、限られた「プライバシ一

種」のような権利を認めている場合がある。

大法官は、議会における人権法案(HumanRightsBill)の審議の際、次のよう

に発言している15)。

「裁判官は、条約の編入にかかわらず、今にもコモンローによって保護される

プライバシー権を発展させようとしている。 [中略]私の見解では、裁判所は、

コモンロー自体が新しい権利または政済方法を発展することを可能にしていな

い限り、立法者として行動して条約上権利の侵害に対する新しい救済方法を与

9) DataProtectionAct 1998.

10) Regulation oflnvestigatory PowersAct 2000.

ll) wireless TelegraphyAct 1949.

12) protection from HarassγnentAct 1997.

13) David Feldman, "Privacy-related Rights and their Social Value" in Peter Birks (ed.) ,

Privacy and Loyalty (Oxford : Clarendon Press, 1997), p. 20.

14) stephen Todd, "Protection of Privacy" in Nicholas J. Mullany (ed.), Torts in the

Nineties (North Ryde, New South Wales : LBC Information Services, 1997), p. 176.

15) Lord Chancellor, House of Lords, Committee Stage, Hansard HL, 24 November 1997,cols 784-785.

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(41)

えてはならない。正しい見方は、裁判所は、トレスパス、ニューサンス、著作

権、信頼などに関する従来の国内法の原則を適用することによって、コモン

ロー上プライバシー権を創設するために、コモンローを適応させ、発展するこ

とができるようになるということであると思う。」

今後ともイングランドのプライバシー法が現行の不法行為法から発展していく

場合には、さらに複雑な整合性のない判例法を生み出すおそれがある。それは、

特に、救済方法に対する一致したアプローチおよび共通の免責事由の確立を妨げ

るであろう16)。

これを解決するために、イギリスでも制定法によってプライバシー権を確立す

べきであるという議論が半世紀以上にわたり行われてきたが、 1997年の総選挙に

よる政権交代の結果、イギリス政府の新しいプライバシー法の立法に関する政策

が大きく変わった。具体的にいうと、労働党(ブレア政権)は、裁判所がそれま

で求めていた新しいプライバシ-権を保障するための国内法を制定するという方

法ではなく、ヨーロッパ人権条約という国際法の規定を国内法に編入することに

より、プライバシー権を含む国民の人権全般の保護を強化する政策をとることに

した。すなわち、それは、今後イギリスにおけるプライバシー権が新しい制定法

や従来のコモンローから生まれてくるというよりも、国際法から導入されるとい

うことを意味した。

そこで、ヨーロッパ人権条約の規定を検討することにしたい。

Ⅲ ヨーロッパ人権条約によるプライバシー保護と表現の自

由の保障

1 ヨーロッパ人権条約

ヨーロッパ人権条約は、 1950年11月4日にヨーロッパ審議会(Councilof

Europe)の加盟国により署名され、 1953年9月3日に発効した。

加盟国による同条約のもとでの義務違反を主張する訴訟は、ヨーロッパ人権裁

判所により審理されるが、この裁判所の決定は、拘束力をもつものであり、それ

16) Roderick Bagshaw, "Obstacles on the Path to Privacy Torts" in Peter Birks (ed.), Pri-

vacy and Loyalty (Oxford : Clarendon Press, 1997), p. 143.

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42 一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

に対する上訴権は存在しない。これまでのメディアや表現の自由関連の一般的問

題に対する裁判所の積極的な態度は、高く評価されている17)。

同条約は、裁判所に申し立てる権利を国家および個人の双方に対して与えてい

るという点で国際法としては稀有な例である。もっとも、同条約は、加盟国に対

してのみ拘束力をもち、個人やメディアのような団体を拘束しない。 EU法の表

現でいうと、同条約は、水平的効力(horizontaleffect)ではなく、垂直的効力

(verticaleffect)を生じている18)。ただし、同条約が国家に対して課している義

務は、消極的なものだけではなく、積極的なものもあり得る、と裁判所は判示し

ている。これは、特に第8条に当てはまる。同条は、国家によるプライバシー侵

害を禁じているとともに、プライバシー権を尊重する義務を課すことにより、プ

ライバシー権を効果的に保障する積極的義務としている19)。

2 イギリスの加盟

イギリスは、同条約の草案作成作業にあたって主要な役割を果たし、 1951年3

月8日、それを批准する最初の加盟国となった1966年以来、イギリスの訴訟当

事者は、個人でヨーロッパ人権裁判所に申し立てる権利が承認されている。その

ため、国家によって人権を侵害されたと主張する個人は、国内の裁判所において

適切な救済措置が存在しない場合には、ヨーロッパ人権条約に基づいて訴訟を提

起することが可能である。しかし、イギリスは、同条約に定義されている権利お

17) Emmanuel E. Paraschos, Media Law and Regulation in the European Union :

National, Transnational and U. S. Perspectives (Ames : Iowa State University

Press, 1998), p. 45.

これは、名誉投損事件、裁判所侮辱(contemptofcourt)事件、および信頼違反に対して差止命令を求める訴訟において、言論の自由のための主張を無視し軽んじる傾向があるイギリスの国内裁判所の状況とは対照的である(EricBarendt,Freedom of Speech (Oxford : Clarendon Press, 1985), p. 306) c

18)垂直的アプローチ(verticalapproach)によると、人権の規範は、国家と個人との

関係のみに適用される。これに対して、水平的アプローチ(horizontalap-proach)によると、それは、個人と個人との関係や個人と民間法人との関係にち

適用される。実際に、この2つの間には、様々なものがあり得る。その範囲のなかでその法制度が具体的にどこに位置しているかについての裁判所の判断によって、民間関係を規律する法律が基本的人権の規範の影響を受ける程度が決まる

(Murray Hunt, "The 'Horizontal Effect'of the Human Rights Act", [1998】 PL 423).

19) singh (1999), op. cit.. pp. 174-175.

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(43)

よび義務を議会制定法を通して国内法に編入する点では他の加盟国に比べて後れ

をとった。

締約国は、国内法に同条約を編入する義務はないが、その管轄内にあるすべて

の者に対して条約上の権利および自由を保障し(第1条)、それらが侵害された

者に対して国の機関による「効果的な救済措置」 (effectiveremedy)を受けるも

のとしなければならない(第13条)。イギリス政府は、従来、現行の国内法・手

続はこの条件を満たしているとして、編入を拒否し、ストラスブールにおいて不

利な判決が下されるたびに、直ちに国内法の改正を行ってきた。

しかし、労働党(ブレア政権)は、イギリスが同条約に定義されている義務を

果たしていないことに対する国民の関心が高まってきたなかで、その編入を政権

公約の一部として掲げた20)。それまでに、ヨーロッパ人権裁判所は50回以上、イ

ギリスが条約違反をしていると判示しており21)、それらの事件が深刻な内容であ

ることに加えて国内法において迅速かつ効果的な救済措置が欠如しているために、

個人の立場を弱めるばかりでなく、人権問題に関する国際的地位にも影響が出て

いるとみられていた22)。

同条約が保障している多数の人権のうち、第10条は表現の自由、そして、第8

条はプライバシーに関連する規定である。

3 第10条による表現の自由の保障

第10条23)は、すべての者に対し、 「公の機関による干渉を受けることなく、か

つ、国境にかかわりなく、意見をもつ自由並びに情報及び考えを受けかつ伝える

20)同条約を国内法に編入するという選挙公約は、労働党が野党として公表した諮問文書(Jack Straw MP and Paul Boateng MP, "Bringing Rights Home : Labour's Plansto Incorporate the European Convention on Human Rights into United Kingdom

Law" (Labour Party Consultation Paper, December 1996), 【1997】 EHRLR 71))から

生まれてきた1997年5月の選挙で勝利を収めてから、労働党政権の政府は、白

書(Home Office, Rights Brought Home : The Human Rights Bill (White Paper)(Cm 3782) (London二The Stationery Office, October 1997))を公表し、 1997年10月

23日に貴族院(HouseofLords)に人権法案を提出した。

21 ) David Leckie and David Pickersgill, The 1998 Human Rights Act Explained (Lon-

don : The Stationery Office, 1999), p. 2.

22) strawand Boateng (1997), op. cit.,p. 74.

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44;一橋法学第4巻第2号2005年7月

自由」を含む「表現の自由に対する権利」(righttofreedomofexpression)を保

障している(第1項)。この自由の行使は、義務および責任を伴うので、国内レ

ベルにおいて公の機関により制限され得るが、その制限は、「他の者の信用もし

くは権利の保護のため」、「秘密に受けた情報の暴露を防止するため」等の目的の

ために、「法律で定める」(prescribedbylaw)もの、かつ、「民主的社会におい

て必要なもの」(necessaryinademocraticsociety)でなければならない(第2

項)0

表現の自由の行使に義務および責任が内在していることから、公衆の関心の対

象となる問題を報道する記者に対して第10条が規定している保障は、「記者が

ジャーナリズム倫理に従って正確かつ信頼できる情報を提供するために善意を

もって行動することを条件としている」と裁判所は判示している24)。

同条約に保障されている表現の自由およびそれと競合する名誉・プライバシー

の権利は、民主的社会において対等であり、いずれも優越する地位を占めない25)

ので、裁判所は、その2つの競合する権利の間の均衡を保たなければならない。

第10条に関連した事件を決定するにあたって、裁判所は、申立人の権利に対す

る「干渉」(interff:erence;があったか否か、その干渉が「法律で定めた」もので

あったか否か、それが「正当な目的に従った」(pursuanttoalegitimatea血)か

23)第10条は、 「表現の自由」について、次のように規定している。「1 すべての者は、表現の自由に対する権利を有する。この権利には、公の機関による干渉を受けることなく、かつ、国境とのかかわりなく、意見をもつ自由並びに情報及び考えを受けかつ伝える自由を含む。本条は、国が放送、テレビまたは映画の諸企業の認可制を要求することを妨げるものではない02 1の自由の行使については、義務及び責任を伴い、法律で定める手続、条件、制限または刑罰であって、国の安全、領土保全もしくは公共の安全のため、無秩序もしくは犯罪の防止のため、健康もしくは道徳の保護のため、他の者の信用もしくは権利の保護のため、秘密に受けた情報の暴露を防止するため、または司法機関の権威および公平性を維持するため民主的社会において必要なものを課することができる。」(大沼保昭編『国際条約集2005年版』 (有斐閣、 2005年)の和訳による。以下、同様である。)

24) Bladet Troms¢ and Stensaas v. Norway (2000) 29 EHRR 125, para. 65.

Goodwin v. United Kingdom (1996) 22 EHRR 123, para. 39およびダ'ressoz and

Roire v. France (1999) BHRC 654, para. 54も参照。

25) Resolution 1165 (1998) of the Parliamentary Assembly of the Council of Europe,

paras 10-ll.

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護  45

否か、およびそれが「民主的社会において必要なもの」であったか否かを判断基

準としている。必要性という最後の条件は、様々な要件のうち、その干渉が「差

し迫った社会的必要」 (pressingsocialneed)に対応したか否か、また、それが

追求された正当な目的と「よく釣り合った」 (proportionate)ものであるか否か

を決定することである。国家は、法律を制定し、適用するにあたって、ある程度

の「判断の余地」 (marginofappreciation)が認められており、その余地は、問

題の対象によって異なっている26)。

第10条は、政治的27)、ジャーナリスティック28)、芸術的29)、商業的30)等、多くの

種類の言論を保護している。実際に、裁判所は、政治的な言論およびジャーナリ

スティックな言論を他の種類の言論よりも重視し、保護しているが、この区別に

理論上の根拠があることを明白に否認している31)。裁判所は、公的人物(public

丘gure)が名誉致損事件を提訴するのに現実的悪意(actualmalice)の存在を立

証しなければならないと示されたアメリカ合衆国最高裁判所のニューヨーク・タ

イムズ社対サリヴァン事件の判決32)まで至っていないが、 「いわれのない人身攻

撃」 (gratuitouspersonalattacks)に当たるものを除き、政治家や裁判官のよう

な公的人物を批判する者に対して相当の保護を与えている。これは、その言辞が

事実であるか意見であるか、または、それが丁寧にもしくは優雅に(elegantly)

表現されているか否かを問わない33)。裁判所は、意見の表現自体をはじめ、情報

提供者の匿名性を守る記者の権利のような自由なプレスの基本を保護しようとす

26) Lord Lester of Herne Hill QC and Natalia Schiffrin, "The European Convention on

Human Rights and Media Law in Eric M. Barendt and Alison Firth (eds), The Year-

book of Copyright and Media Law 1999 (Oxford and New York : Oxford University

Press, 1999), p. 354.

27)例えば、 Bowman v. UnitedKingdom (1998) 26EHRR l参照.

28)例えば、 Goodwin v. UnitedKingdom (1996〕 22 EHRR 123参照。

29)例えば、 Muller v. Switzerland (1988) 13 EHRR212、 Wingrove v. UnitedKing-

dom (1997) 24 EHRR l参照。

30)例えば、 Bartholdv. Gerr,柁αny (1985) 7EHRR383、 Colmanv、 UnitedKingdom

(1993) 18EHRR 119参照。31) Thorgeir Thorgeirson v. Iceland (1992) 14 EHRR 843, para. 64.

32) New York TimesCo. v. Sullivan, 376US254 (1964), ll LEd2d 686, 84 S Ct 710, 1

MediaLR1527,95ALR2d1412.堀部政男「言論の自由と名誉穀損-NewYorkTimesCo.v.Sullivan,376U.S.254 (1964)」、 r英米判例百選I公法jジュリスト別冊59号(1978年5月) 118頁以下参照。

381

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46 一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

るのである34)。しかし、公的人物以外の者に関する報道の場合には、裁判所は、

プレスの表現の自由よりもその報道の対象となっている人物の権利および自由を

重視する可能性が高い35)。

イギリスの最高裁判所である貴族院は、言論の自由はすでに同条約第10条関連

の法理を大筋において反映している、と判示している36)。ところが、個々の事件

における判例法の慎重な判断は、今後、国内裁判所の裁量に様々な影響を及ぼす

であろう37)。

4 第8条によるプライバシー権の保障

第8条38)は、すべての者が有する「その私生活、家族生活、住居及び通信の尊

重を受ける権利」として、プライバシー権を保障している(第1項)。この権利

の行使に対する干渉が、法律に基づくものであり、 「民主的社会において必要な

もの」であり、かつ、 「国の安全、公共の安全もしくは国の経済的福利のため、

無秩序もしくは犯罪の防止のため、健康もしくは道徳の保護のため、または他の

者の権利及び自由の保護のため」である場合を除き、公の機関は、それに干渉し

てはならない(第2項)0

ヨーロッパ人権裁判所は、第8条により国家に対して積極的義務が生じるとし

ばしば確認している39)。 ⅩおよびY対オランダ事件40)では、裁判所は、次のよう

33) Oberschlick v. Austria (No. 2~) (1998) 25 EHRR 357 ; De Haes and Gijsels v. Bel-

gium (1998) 25 EHRR 1.

34) Goodwin v. UnitedKingdom (1996) 22 EHRR 123.

35) Wadham, Mountfield and Edmundson (2003), op. cit., p. 170.

36) R. v. Secretary ofStatefor theHomeDepartment, e.∬parteBわnd [1991】 1 AC 696.

37) John Wadham and Helen Mountfield, Blackstone's Guide to the Human Rights Act

1998 (2nd ed.) (London : Blackstone Press, 2000), p. 116.

38)第8条は、 「私生活及び家族生活が尊重される権利」について、次のように規定している。

「1すべての者は、その私生活、家族生活、住居及び通信の尊重を受ける権利を有する。

2 この権利の行使に対しては、法律に基づき、かつ、国の安全、公共の安全もしくは国の経済的福利のため、無秩序もしくは犯罪の防止のため、健康もしくは道徳の保護のため、または他の者の権利及び自由の保護のため民主的社会において必要なもの以外のいかなる公の機関による干渉もあってはならない。」

39) Feldman (2002), op. cit., pp. 524-525.

382

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(47)

に、この積極的義務は他の民間当事者の行為から個人を守るための作為を要求す

ると述べている。

「第8条の目的は、本質的に公の機関による慈恵的な干渉から個人を保護する

ことであるにもかかわらず、国家に対してそのような干渉をしないよう強要す

るのみではない、ということを当裁判所は喚起している。主として消極的であ

る当該義務に加えて、私生活または家族生活の効果的な尊重に内在する積極的

義務もあり得る。このような義務は、個人間の関係の領域内でも私生活の尊重

を確保することを目的とする措置を採ることを伴うことがあり得る。」41)

このような状況においては、個人の利益と公の利益との間に公正な均衡が保た

れなければならない。その利益は、第10条によって保障されている表現の自由、

裁判所が民主的社会に重要な基礎であると述べているプレスの自由等の他の権利

を含んでいる42)。私生活の尊重は、個人情報が公開されないよう保護することお

よび個人の名誉の保護を要求することがある43)。前に指摘したとおり、裁判所は、

そのようなプライバシー権と表現の自由(特に、プレスの自由)との緊張関係を

認識し、第8条のもとで積極的義務の範囲を決定するにあたって、その2つの間

に均衡を求めようとしている44)。

ある事件において、私生活の尊重の保護が国家による措置を必要とするか否か

を評価する際、裁判所は、申立人の利益の性質およびその利益が認められるとし

た場合、国家が負う負担を考慮に入れる。申立人の利益がわずかなものであり、

国家の改革の負担が大きい場合には、これは、尊重されるべき権利が侵害された

との結論を否定するように働く。この場合には、イギリス政府は、ニューサンス、

信頼違反、その他の種々様々なコモンローおよび制定法に依拠し、それらの相互

作用によって、裁判所が不十分であると判断できないほどに、十分な法的保護措

40) Xand Yv. TheNetherlands (1986) 8 EHRR 235.

41) Id.atpara.23.

42)例えば、 sunday Tiγnesv. UnitedKingdom (1979-80) 2 EHRR245, 【1979】 ECHR

6538/74参照 singh (1999), op. cit.,p. 175.

43)例えば、 winerv. UnitedKingdom,wo. 10871/84, 48 DR 154参照。

44) Stephen Grosz, Jack Beatson and Peter Du野, Huγnan Rights : The 1998 Act and

the European Convention (London : Sweet & Maxwell, 2000), para. C 8-51.

383

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(48)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

置が採られていると主張することが可能であろう45)。

ワイナ一対イギリス事件46)においては、ヨーロッパ人権委員会(EuropeanHu-

manRights Commission)は、国内でプライバシー権侵害を理由に訴訟を提起す

ることができないということだけでは申立人の私生活・家族生活に対する尊重が

欠如していることを示すものではない、と判示した。この事件では、申立人は、

自分の結婚生活について誤った情報をも暴露した本は第8条違反に当たると主張

した。この申立ては、申立人がその本に掲載されている誤りについて国内の名誉

敦損法におけるすべての救済措置を尽くしていないとして却下された。ただし、

条約のもとで権利が衝突している場合には、国家に対して比較的広範な判断の余

地を与える裁判所の傾向は、メディアによるプライバシー侵害の被害者の権利を

保護するのに役立っていないといわれている47)。

しかし、 1998年人権法によるイギリス国内法へのプライバシー権保障の導入は、

今後、この分野におけるメディア法の発展に大きな影響を与えることになろう。

ここでは、言論の自由および名誉・プライバシー権の保護に役立つであろう同

法のいくつかの規定をみることにする。

IV 1998年人権法によるプライバシー権の展開

1 法の解釈

1998年人権法は、他の法律の解釈・適用を根本的に変えている。裁判所・審判

所は、条約上の権利と関連して生じる問題について判断する場合には、その訴訟

手続に関連すると考えるストラスブールのすべての先例(すなわち、ヨーロッパ

人権裁判所の判決、決定、宣言および勧告的意見、ヨーロッパ人権委員会の意見、

ならびにヨーロッパ審議会閣僚委員会(Committee of Ministers of the Council of

Europe)の決定)を考慮に入れなければならない(第2条1項)。しかし、スト

ラスブールの先例は、拘束力のあるものではなく、説得的法源となっている48)。

45) Ian Cram, "Beyond Calcutt : The Legal and Extra-legal Protection of Privacy Inter-

ests in England and Wales" in Matthew Kieran (ed.), Media Ethics (London and

NewYork : Routledge, 1998), p. 107.

46) winerv. UnitedKingdom, no. 10871/84, 48 DR 154.

47) Cram (1998), op. cit, pp. 107-108.

384

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 49

また、人権法は、国内の現行および今後の制定法・規則が可能な限り条約上の

権利と一致するように解釈され、施行されることを要求している(第3条1項・

2項(a)号)0

2 「公の機関」による違法行為

公の機関(publicauthority)が条約上の権利と一致しないような行為をするこ

とは違法である(第6条1項)。ただし、当該機関は、 (a)制定法の規定の結果

として異なる行為をすることができなかった場合、または(b)当該規定を条約

上の権利と一致するように解しかつ効力を与えることができなかった場合には、

第1項は適用されない(同条第2項)0

「公の機関」とは、裁判所・審判所および公的性質をもつ機能を有するものを

含むように広く定義されているが、両議院および議会手続に関連する機能を行使

するものを含まない(同条第3項)。その結果、プライバシー保護のために立法

しない議会の怠慢は、同法の適用除外となっている。

メディアに対する苦情の裁定に関しては、プレス苦情処理委員会(PressCom-

plaints Cortlmission, PCC)およびオフコム(Office ofCommur血ations, Ofcom)4

は、同法上の「公の機関」に当たると考えられている50)。イギリス放送協会

(British Broadcasting Corporation, BBC)も、その公益事業機能について規定し

ている特許状(RoyalCharter)からみれば「公の機関」に当たる可能性が高く、

おそらくチャンネル・フォー(Channel4)もそれに当たる可能性がある51)。し

48) David Feldman, "The Human Rights Act 1998 and Constitutional Principles", (1999)

19LS 165at168.

49)この機関は、 2003年12月29日に、放送基準委員会(BroadcastingStandards Com-

mission, BSC)、独立テレビジョン委員会(IndependentTelevision Commission,

ITC) 、ラジオ庁(Radio Authority) 、無線通信庁(Radiocommunications Agency) 、

およびオフテル(Office of Telecommunications, Oftel)に代わって設立されたものmme

50)プレス苦情処理委員会について、大法官(LordChancellor)は、 「公衆からのプレ

スに関する苦情を裁定するPCCの重要な役割が公的性質をもつ機能に当たると判

示される可能性が高い」ので、同法のもとでは「PCCは公の機関に当たると判示

される可能性も高い」と考える、と貴族院(上院)で述べている(HouseofLords,

Committee Stage, Hansard HL , 24 November 1997, col. 784) 。

385

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(50)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

かし、一般のメディア事業者は、それには当たらない。

このように、この定義は、プレス苦情処理委員会のような、制定法や国王大権

によって設立されていないが、何らかの公的性質をもつ機能を有するものをも含

んでいることに注意しなければならない。その結果、プレス苦情委員会は、将来、

条約第8条の権利を保護しない場合には、人権法第6条のもとで訴訟を提起され

ることもあり得る。例えば、同委員会への苦情申立てが成功しなかった場合には、

その申立人は、同委員会および政府が申立人の条約第8条のプライバシー権を保

護していないと主張し、高等法院(HighCourtofJustice)の司法審査手続Gu-

dicialreview)によりその決定に対し異議申立てをしようとするかも知れない52)。

しかし、このようなことは、今のところ現実的ではない。

プレス苦情処理委員会は、プライバシー等を侵害する新聞社から個人を守るた

めに設置されたものであるので、その役割を効果的に果たす限り、裁判所に訴え

られることはないであろう53)。

3 国内裁判所による救済方法

裁判所は、違法と判示する公の機関がした行為(またはそれがしようとしてい

る行為)に関して正当かつ適当と考える、その権限内の救済方法を与えるか、ま

たは命令を下すことができる(第8条1項)。このような救済方法には、プライ

バシー侵害事件において有効な差止命令等が含まれる54)。

ただし、損害賠償を与えることができる裁判所は、民事事件において損害賠償

を与えるかまたは賠償金の支払いを命じる権限をもつものに限る(同条第2項)。

裁判所は、当該事件のすべての事情を考慮に入れた上で、その賦与が被害者に対

し正当な弁済を与えるのに必要と考える場合に限り、損害賠償を与えることがで

きるが、そのような事情は、 (a)すでにその裁判所またはその他の裁判所が当該

行為に対し与えた救済方法または下した命令、および、 (b)その行為に対するそ

51) shgh (1999), op. cit, p. 181 ; PeterCarey,MediaLaw (2nd ed.) (London : Sweet &

Maxwell, 1999), p. 79.

52) Wadham and Mountfield (2000), op. cit, p. 59.

53) Singh (1999), op. cit,p. 189.

54) Wadham, Mountfield and Edmundson (2003), op. cit., p. 97.

386

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(51)

の裁判所またはその他の裁判所の判決の結果を含むとされている(同条第3項)0

裁判所は、損害賠償を与えるか否かまたはその朕与の金額を決定するにあたっ

ては、ヨーロッパ人権裁判所が条約第41条の補償の賦与に関して適用する原則を

考慮に入れなければならない(同条第4項)0

4 今後のストラスプールへの提訴

同法による議会主権の維持の結果として、条約上の権利の違反を主張する訴訟

で、国内裁判所において解決できないものが生じる可能性がある。これは、特に、

当該違反が、コモンローまたは法律の解釈によっては修正できない、制定法また

は立法の不作為から生じる場合にある55)。このような場合、当事者は、国内機関

によるすべての枚済手段を尽くしてから、従来どおりストラスブールへ提訴でき

る。

5 第12条による表現の自由の保障

第12条の規定は、同法が公益に当たる事実の正当な調査を抑制するコモンロー

の展開につながるというメディア関係者の心配を和らげるために挿入された。プ

レスおよび放送事業者は、裁判所がおそらく条約第8条に基づきプライバシー権

を発展させること、公表を止める中間的差止命令をすぐ下すようになることなど

について関心をもっていた56)。しかし、条約自体がプライバシーの権利と表現の

自由の権利との均衡を保たせることを要求しているので、この規定の挿入にもか

かわらず、実際にはほとんど効果をもたらさないであろうとみられている57)。

第12条の規定は、当事者が公の機関ではない場合にも適用され、したがって条

約上のこの権利が、当事者の双方が私人である訴訟においても執行し得る(すな

わち、直接の水平的効力を有する)という考えに立脚していることに注意する必

55) Id.,p.215.

56) Christopher Baker, "The Act in Outline" in Christopher Baker fed.), Human Rights

Act 1998 : A Practitioner's Guide (London : Sweet & Maxwell, 1998), paras 1-07

and 1 -67 ; Santha Rasaiah, "Current Legislation, Privacy and the Media in the UK",

(1998) 3 Communications Law 183 at 187.

57) Grosz, Beatson and Duffy (2000), op. cit, para. 4-60.

387

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52 -橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

要がある58)。

表現の自由を保障している第12条は、裁判所が条約上の表現の自由の権利の行

使に影響を与え得る救済方法を与えるか否かを考える場合に適用される(第1

項)。 「裁判所」 (court)の定義は、審判所(tribunal)を含むものであり、また、

「救済」 (relief)は、刑事裁判以外のあらゆる救済方法または命令をも含む(第

5項)。

被告(すなわち、政済の請求を受けている側)が不在で、しかも弁護人を立て

ていない場合には、裁判所は、 (a)申立人が被告に通知するために実行できるい

かなる手段をとっているか、または(b)被告が通知されるべきでないと考えるき

わめて強い理由(compellingreasons)があるか、について判断しない限り、そ

のような救済を与えてはならない(第2項)。その上、裁判所は、申立人はその

公表が許されるべきでないと立証できる可能性が高いと判断する場合を除き、裁

判前に公表を抑制する救済(すなわち、中間的差止命令)を与えてはならない

(第3項)0

同法の規定のうち、ジャーナリズムおよびプレスの自由に関して最も重要な規

定は第4項59)であるが、それは、裁判所が表現の自由の重要性を特別に考慮に入

れることを要求している。これは、裁判所が「条約上の表現の自由の権利の重要

性を特別に考慮に入れる」べきであると指示しているストラスブールの法のアプ

ローチを反映している60)。さらに、当該訴訟が「ジャーナリスティック、文学的

58) Id.,para.4-61.

59)第12条4項は、次のように規定している。「裁判所は、条約上の表現の自由の権利の重要性及び、当該訴訟はジャーナリス

ティック、文学的若しくは芸術的な素材(又はそのような素材に関連した行為)であると被告が主張しているか、または裁判所が判断する素材に関連している場合には、以下の項目を特別に考慮に入れなければならない。

(a) (i)当該素材がすでに公開されているか、又は公開されようとしている程度。(ii)当該素材の公表が公益に当たっているか、又は当たる程度。

(b)あらゆる関連したプライバシー綱領。」ちなみに、ジャック・ストロー(JackStraw)内務大臣(SecretaryofStatefortheHomeDepartment)は、ここでいう「そのような素材に関連した行為」とは「記者の取材がストーリーの存在を示唆しているが、例えば記事がまだ書かれていないという理由で、具体的な素材がまだ存在していない場合のために意図されてい

る」と庶民院(下院)で説明している(HouseofCommons,CommitteeStage,HansardEC , 2 July 1998, col. 540) 。

388

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ジョン.ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 53

若しくは芸術的な素材」 (journalistic, literary or artisticmaterial)6に関連した場

合には、裁判所は、現在のまたは近い将来の公表およびその公表に伴う公益をも

特別に考慮に入れなければならない(第4項(a)早)0

この項は、全体的にどのような結果をもたらすかを予想するのがきわめて難し

い。同項は、裁判所が表現の自由の重要性を特別に考慮に入れることを要求して

いる。他方、国内裁判所は、各々の事件を決定するにあたって、ストラスブール

の法の原則を考慮に入れた上で、条約の第10条と第8条との間に正当な均衡を保

たなければならない62)。国は、プライバシー権を避けるために第12条を利用する

ことはできない。また、裁判所が、条約第8条2項により正当化されていないプ

ライバシー権の侵害に対し救済を与えないならば、同裁判所は、公の機関として

同条に違反していることになろう。

裁判所が、当該素材の公表が公益(publicinterest)に当たる程度を特別に考

慮に入れなければならないという規定は、プライバシー侵害事件におけるそれぞ

れの公益の衝突に関する理論がもっと深められない限り、ほとんど役立たないで

あろう。というのは、イングランドのコモンロー上の公益という免責事由は、現

在「悪名高く不確定」であり、このままではプライバシー権と表現の自由との間

の困難な衝突を解決するのに裁判所の有用な手段となる可能性がないからであ

る63)。

この項が適用される場合には、裁判所は、 「あらゆる関連したプライバシー綱

領」 (anyrelevantprivacycode)をも特別に考慮に入れなければならない(第4

項(b)早)。被告は、プライバシー綱領を独自で備えたり、または、既存のプ

ライバシー綱領を自らに適用する義務はないが、そのような綱領がない限り、第

60) Grosz, Beatson and Duffy (2000), op. cit., para. C 8-51.

61)この表現は、 1998年デ-タ保護法(DataProtectionAct 1998)第32条1項(a)号のなかでも、データ保護原則に対する例外ならびに同法の第7条、第10条、第12条、および第14条1項~3項に関して使われている。これについては、堀部政男「イギリスの一九九八年データ保護法とジャーナリズム目的」新聞研究580号

(1999年11月) 15頁以下参照。62) Wadham, Mountfield and Edmundson (2003), op. cit, p. 68.

63) Jonathan Griffiths and Tom Lewis, "The Human Rights Act 1998, Section 12 - Press

Freedom Over Privacy?", 【1999】 Ent LR 36 at 38.

389

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(54)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

4項(b)号を利用することができない。

「プライバシー綱領」とは何かについては定義されていないが、第6条の目的

のために公の機関に当たる規制機関および自主規制機関によって採択されている

綱領を含むことは明らかである。したがって、プレス苦情処理委員会、オフコム、

新聞社や放送事業者の社内綱領(例えば、 BBCの内部綱領)等は、 「関連したプ

ライバシー綱領」に当たる可能性があるO あるメディア組織が自分の綱領の規定

に従ったことまたはそれに違反したことは、裁判所が救済を認めるか否かを決定

するにあたって、考慮に入れるべき一つの事項である64)。しかし、裁判所は、綱

領の解釈の仕方に関する当該規制機関の決定を考慮に入れる義務があるとは考え

ないであろう65)。

また、ある機関のプライバシー綱領に規定されている原則は、場合によっては、

メディアの被告がその機関に加盟していないにもかかわらず、関連したものとし

て扱われる可能性がある66)。

そこで、イギリスの裁判所は、実際、最近のプライバシー関連事件においてど

のように人権法や「あらゆる関連したプライバシー綱領」を適用しているかにつ

いて考察したい。

V 1998年人権法施行後のプライバシー関連の判決

1 キャンベル対MGN社事件

1998年人権法とプライバシ-の保護関連でリーディング・ケースとなっている

のは、キャンベル対MGN社事件における貴族院の判決(前出)である。

(1)概要

この事件において、タブロイド型新開であるデイリー・ミラー(DailyMir-

rorj紙は、 2001年2月1日から数日にわたりスーパーモデルのナオミ・キャン

ベル(NaomiCampbell)氏の麻薬依存症およびその治療(セラピー)について

64) Secretary of State for the Home Department (Mr Jack Straw), House of Commons,

Committee Stage, Hansard HC , 2 July 1998, cols. 538-539.

65) Griffiths and Lewis (1999), op. cit., p. 38.

66) Grosz, Beatsonand Du野(2000), op. cit., para. 4-68.

390

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシ-の保護 55

の記事を掲載した。具体的にいうと、これらの記事は、 ①キャンベル氏が麻薬依

存症者であること、 ②同氏がその依存症のために治療を受けていること、 ③同氏

がナ-コテイツクス・アノニマス(NarcoticsAnonymous,NA)で治療を受けて

いること、および(りその治療の内容(その期間、頻度、方法、関与の程度など)

を明らかにするとともに、 (り同氏がカジュアルな姿でその集いの会場から出てい

るところをパパラッチが隠れて撮影した数枚の写真を含むものであった。ちなみ

に、 NAは、麻薬依存症者たちが匿名で自分の依存症について話し合う場所・機

会を提供し、麻薬依存症からの回復を手助けする団体として知られている67)。

記事の情報源は、キャンベル氏のスタッフ、仕事上の仲間、またはNA会員と

みられている。また、そのカメラマンは、その日的のためにMGN社によって雇

われたフリーランサーであった。

初日の記事は、 「ナオミ ー 私は麻薬依存症者だ」 (Naomi: Iamadrugad-

diet)という見出しの下で第1面、第12面および第13両を割いて掲載された.そ

のなかで、キャンベル氏は、自分の問題を認めた上で、勇気をもって依存症とた

たかう決心をして努力している者として、同情する立場から描かれていた。しか

し、公道に駐車中の自動車から撮影された同氏の写真については、 2人以上の他

の依存症者の顔にぼかしが入っているにもかかわらず、その集いが行われた喫茶

店の看板がそのまま写っているため、ロンドン・チェルシー(Chelsea)にある

キングズ通り(King'sRoad)に詳しい読者にはその場所を容易に識別できるは

ずであった。

また、同日、同紙の出版社であるミラー・グループ・ニューズペーパーズ社

(Mirror Group Newspapers Ltd, MGNLtd)は、キャンベル氏に訴訟を提起される

と、その態度が敵意のあるものに変わった。同紙は、 2月5日に「哀れむべき」

(PATHETIC)という大きな見出しの下で、長年にわたり違法薬物乱用 細egal

drugabuse)および自己宣伝(selトpromotion)をしているのにプライバシーを

侵害されたと泣き言を言う.whinge)キャンベル氏を批判する記事および社説

67)この団体は、 「アルコホ-リクス・アノニマス(無名のアルコール依存症者た

ち)」 (AlcoholicsAnonymous,AA)をモデルに、 1950年代にアメリカにおいて設

立され、現在100カ国以上の国々において活動している。

391

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(56)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

を掲載し、さらに2月7日にアーティストの人権保護を助長する運動をしようと

している黒人のキャンベル氏を「チョコレート兵隊並みの効果をあげるだろう」

(about as effective as a chocolate soldier)とけなして攻撃し続けた68)。

キャンベル氏は、 2月1日・ 5日の記事の結果、苦痛、困惑および不安(dis-

tress,embarrassmentandanxiety)を覚え、さらに2月7 []の記事および裁判に

おける被告の行動によりそれが悪化した。その結果、同氏は、イギリスにおける

NAの集いにほとんど参加しなくなり、その代わりにプライバシーが守られるア

メリカ、日本、オーストラリア、フランス、およびイタリアにおいて参加するこ

とにした。

キャンベル氏は、第一審の際、自分が多くのファッション業界関係者と違って

麻薬依存症者ではないと、以前何度も公に嘘をついたことがあるため、報道機関

が公共の利害(publicinterest)のために自分が麻薬依存症者であり、その依存

症のために治療を受けている真相を伝える権利がある69)ことを認めたが、 NAへ

の自分の参加に関連したその他の個人情報および写真については、 MGN社に対

して信頼違反による損害賠償および1998年データ保護法違反による補償を請求し

た。原告が最もセンシテイヴと思われる事項(すなわち、上記の①および(む)に

対してプライバシー侵害を主張できないことを認めた上で、それほどセンシテイ

ヴではないと思われる事項(すなわち、上記の(9 -ゥ)のみに対してそれを主張

した点では、この事件は異常であるといえる。

この訴訟は、 「信頼違反または不法なプライバシー侵害」 (breachofconfidence

68)貴族院判決によると、この「不快かつ原告をけなしている記事」 (offensiveanddisparagingarticle」は、 「卑劣」 (mean-spirited)かつ「粗末」 (shabby)であった([2004】UKHL22, 【2004] 2AC457, 【2004] 2 AllER 995 at 【9】 and 【35】 perLordNicholls) 。

69)貴族院が指摘したとおり、ヨーロッパ人権条約のもとで、公的人物がその私生活について意図的に偽りのイメージを出したり嘘をついたりする場合には、プレス

は、通常、その真相を伝える権利がある([2002】EWCACiv1373at【43日2003] 1An ER 224 at 【43], 【2003】 QB 633 per Lord Phillips MR) 。

キャンベル氏がその嘘さえつかなければ、新聞は、同氏が有名人であるにもかか

わらず、その麻薬依存症という個人情報の公開を正当化できなった(【2004】

UKHL 22, 【2004] 2 AC 457, 【2004】 2 A皿ER 995 at 【24】 per Lord Nicholls and 【36】 per

Lord Hoffmann) c

392

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(57)

and/orunlawful invasion of privacy)を理由に提起されたものの、弁護人は、実際、

「プライバシー侵害」という不法行為による請求を追及せず、専ら「信頼違反」

を理由に裁判を進めた。また、原告側は、 1998年データ保護法下の請求は、信頼

違反の請求に何も加えないものであることを認めた。

第一審の際、高等法院は、 2002年3月27日に原告の請求を支持し、 MGN社に

対して2,500ポンド(1ポンドを200円とすると、 50万円)の補償的損害賠償、 2

月7日の「チョコレート兵隊」記事について1,000ポンド(20万円)の加重的損

害賠償(aggravateddamages)、および原告の弁護士費用の支払いを命じた70)。被

告は、控訴院へ控訴した。

控訴院は、 2002年10月14日に第一審判決を破棄する判決を言い渡し、原告に対

して35万ポンド(7,000万円)の被告の弁護士費用の支払いを命じた71)。原告は、

貴族院へ上告した。

貴族院は、 2004年5月6日に3対2の多数意見をもって控訴院判決を破棄し、

第一審判決を支持する判決を言い渡した。 (反対意見を述べたのは、ニコルズ

(Nicholls)裁判官およびホフマン(Ho∬inarm)裁判官であるo)その結果、被告

は、 3,500ポンド(70万円)の損害賠償の支払いのほか、 100万ポンド(2億円)

以上と推定されている両当事者の弁護士費用を負担することになった0

貴族院の5名の裁判官は、原告のNAへの参加に関連した報道が信頼違反(不

法なプライバシー侵害)に当たったか否かについて意見が分かれたにもかかわら

ず、現行のイングランド法によるプライバシー保護のあり方については各裁判官

の見解はほぼ同じであった。換言すれば、上告の対象となった最も重要な問題は、

ヨーロッパ人権条約第8条と第10条のもとで、実際どのように表現の自由とプラ

イバシー権の間の均衡を保つかということであった。この間題については、貴族

院は全員一致であった72)。

70) 【2002】 EWHC 499 (QB)言2002】 IP&T612 perMorlandJ.ちなみに、モーランド裁判官は、原告が信頼違反を理由に損害賠償、また、デー

タ保護法違反を理由に同法第13条2項(b)号のもとでの補償を請求できる場合、裁判所は二重の損害賠償の賦与を認めない、と判示した(at【124】)。それよりも、双方による1つの損害賠償の賦与が適当である。

71) 【2002] EWCA Civ 1373言2003】 1 AllER224, 【2003】 QB 633, 【2003】 2WLR80.

393

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(58)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

(2) 「プライバシー侵害」という不法行為の不存在

貴族院は、イングランドにおいては包括的なプライバシー侵害という不法行為

(generaltortofinvasionofprivacy)は存在しない、というウェインライト対内務

省事件(前出)における同裁判所の判決を適用した73)。

イングランドの裁判所は、従来保護されていない行為をカバーするために新し

い訴訟原因(不法行為)を作り出すわけにはいかない7㌔へイル(Hale)裁判官

の言によると、ウェインライト事件判決は、イングランド法が、たとえ包括的な

プライバシー侵害という不法行為を発展させたいと思っても、それができないこ

とを指摘している75)。従来のその他の救済法が利用できる場合には、裁判所は、

当事者の条約下の競合する権利の均等をとらなければならないに過ぎない。

ニコルズ裁判官が指摘しているとおり、この事件は、プライバシーという広い

概念のなかの「私的情報の不法公開」 (wrongful disclosure of private informa-

tion)というカテゴリーに関連したものであり76)、それに関連する従来の訴訟原

因は、 「信頼違反」である。

(3)信頼違反という不法行為の概念

信頼違反という不法行為は、従来、 ①その情報が内密(confidential)のもの

であり、 ②それが信頼義務(obligation of confidence ; duty of confidence)を含

む状況において伝えられており、および③それを伝えた者がその無断利用により

不利益を受けた場合に、成立し/ォ- 。 「信頼違反」のなかの「信頼」 (confi-

dence)は、信頼関係(confidentialrelationship)から生まれてくるものを意味

していた78)。

しかし、当事者の間に信頼関係がすでに存在していることを要しない現行の信

72) [20041 UKHL22 at t36日2004】 2AC 457 at 【36], [2004】 2 All ER 995 at [36] per LordHoffmann.

73) Id. at 【11】 and 【43】 perLordNicholls.

74) Id. at 【1331 perBaronessHale.

75 Ibid.

76) Id. at t12】perLordNicholls.

77) Coco v. AN. ClarkEngineersLtd [1969】 RPC 41 at 47-48 per Megany J.

78) 【2004】 UKHL22at 【13】, 【2004】 2 AC 457 at 【13日2004】 2 All ER 995 at 【13] per Lord- Nicholls.

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ジョン.ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護  59

頼違反法では、 「信頼違反」という表現は、すでに不適当となっているといえる。

現行法は、その代わりに、当該情報が公正かつ合理的に内密とみなされることを

知っているか、または知っているべきである者がそれを受け取る(apersonre-

ceives information he knows or ought to know is fairly and reasonably to be re-

garded as confidential)場合に、その者に対して信頼義務(duty of confidence)

を負わせているのである79)。すなわち、信頼義務は、その義務を負っている者が、

その相手が自分のプライバシーが保護されるのを合理的に期待していることを

知っているか、または知っているべきである場合に生じる80)。

現代英語では、個人の私生活に関する情報が「内密」 (confidential)というよ

り「プライベート」 (private)といわれることから、 「信頼違反」や「信頼義務」

という表現の使用は、適切ではない。この不法行為の本質は、むしろ「私的情報

の濫用」 .misuse of private information)と呼ばれるべきである81)。

この事件において、貴族院は、 2002年のA対B社事件82)における控訴院の

ウールフ(Woolf)裁判長の判決を通用しながら、ヨーロッパ人権条約第8条お

よび第10条により保障されている権利は、今日「信頼違反」という訴訟原因に併

合され、その一部となっていることを明らかにした83)。 1998年人権法は、個人間

に新しい訴訟原因を設けていないものの、関連した訴訟原因が適用される場合に

は、裁判所は、公の機関として両当事者の条約上の権利と一致するように行動し

なければならない別)。

ウールフ裁判長は、次のように判示した85)。

「[第8条および第10条]は、裁判所が、信頼違反訴訟において、ある者が裁判

79) Id. at [14] perLordNicholls.

80) Id. at 【85】 perLordHope ; Av. B (acompany) 【2002】 EWCACiv337at [ll](ix), (x),

[2002】 2 All ER 545 at [11】(ix), (x), 【2003] QB 195 per Lord WoolfCJ.

81) 【2004] UKHL22 at 【13ト【14], [2004】 2AC457at 【13]-[14], [2004】 2 All ER 995 at 【13】

-[14】 per Lord Nicholls.

82) Av. B (acompany) 【2002] EWCACiv337, 【2002】 2 AllER545, [2003】 QB 195.

83) [2004] UKHL22, [2004] 2AC457, [2004] 2AllER995at [17] per Lord NichoUs, [85]-

【86] per Lord Hope, 【132】 per Baroness Hale.

84) Id. at 【132】 perBaronessHale.

85) Av. B (acompany} [2002] EWCACiv337at [4], [2002] 2AllER545at [4], [2003]

QB195.

395

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(60)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

所によってプライバシーを保護される権利があるか、それともその保護が伴う

表現の自由の制限を正当化できないかを決定するための新しいパラメーターを

提供している。そのような訴訟で提起される問題に対する裁判所のアプローチ

は、それが1998年人権法第6条により、公の機関として、 「条約上の権利と一

致しないような行為」をしないよう要求されているため、変更されている。裁

判所は、第8条および第10条が保障している権利を長年確立している信頼違反

の訴訟原因のなかに併合することにより、それを可能とした。これは、同訴訟

原因が同条の必要条件に適応するよう、それに新しい力および幅を与えること

を伴う。」

第8条により保護されている私生活の範園について決定する際、裁判所は、公

開された事実については当該個人がプライバシーの合理的期待(reasonableex-

pectationofprivacy)を有していたか否かを考慮すべきである86)としている。

(4) 1998年人権法と水平的効力

貴族院は、第8条および第10条が保障している権利が、個人と公の機関の間で

制限されることなく、それと同様に個人と個人の間や個人と新聞社のような非政

府機関の間にも一般的に適用されることを認めた87)。換言すれば、 1998年人権法

が、信頼違反という不法行為に対して水平的効力を有していることが、明らかに

な.-)/蝣蝣,

(5)治療についての報道

信頼違反が主張されるすべての事件において、裁判所は、公開された情報がプ

ライベートなものであったか否かを決定しなければならない。この事件において

は、貴族院は、 3対2の多数をもって、原告のNAによるセラピーがその健康状

態または治療とは区別されるべきでない、との意見を述べた。なぜならば、その

詳細は、信頼義務を含む私的情報であったからである。

これとは対照的に、控訴院全員および貴族院の少数の裁判官は、キャンベル氏

が自らその依存症および治療を公開したため、 NAの集いへの出席に関連した情

86) 【2004】 UKHL22 at [21], [20041 2 AC 457 at 【21】, [2004] 2 All ER 995 at 【21] per Lord

Nicholls.

87) Id. at [17-18] per Lord Nicholls.

396

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 61

報は、第8条により保障されるほどプライバシーの性質を保持しなかった、との

意見を述べた。ニコルズ裁判官の言88)によると、キャンベル氏がNAによる治療

を受けるのを選択したという情報の公開は、 「手足を折った患者がギプスをはめ

ているとか、がん患者が化学療法を受けているという発言」より重要なわけでは

なかった。原告の行動により公開が許されるようになった、本来非常にプライ

ベートであった情報の量を考慮に入れながら、それとこのような重要でない情報

を分けるのは、 「まるで目の細か過ぎるくLを入れることのようである。人権が

関わっているのは、そのような細かい区別ではなく、実質である。」

NAの集いへのキャンベル氏の出席に関連した情報がプライバシーの性質を保

持していることを仮定して、ニコルズ裁判官は、プライバシーと表現の自由の対

立について、次のように述べた89)。

「一方では、この事件の異常な状況において、この情報の公表は、せいぜい

キャンベル氏の私生活に対する比較的小さな侵入に過ぎなかった。他方では、

この情報を公表しなければ、正当で同情的な新聞記事から、色彩と説得力を加

えた付随的な詳細が奪われたであろう。この情報は、麻薬問題と取り組んでい

るキャンベル氏の関与を示すために公表された。本件においては、 [プライバ

シーと表現の自由の間の]均衡は、この日的のために公表された情報に対する

ジャーナリストの許容範囲を除外するほどに保たれる必要はない。」

控訴院の判断は、 NAによるセラピーが医療施設による治療と同等であると考

えていなかったことに影響されていたようである90)。同裁判所は、この事件にお

いて公開された個人情報がカルテとは別のカテゴリーに属していると判示した。

これについて、貴族院のホープ(Hope)裁判官は、 「患者が診察を受けた際、医

師が書き留めたものでなかった点で、それはそうかも知れない。しかし、当該情

報は、医師がカルテに記録するのと全く同じ種類であった」と指摘している91)。

NAのような治療とプライバシーについて、ホープ裁判官は、この事件のよう

88) Id. at [26] perLordNicholls.

89) Id, at [28】 perLordNicholls.

90) Id. at 【97】 perLordHope.

91) Id. at 【146】 perLordHope.

397

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(62)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

に情報の公開がその治療を妨げる傾向がある場合には、その秘密性(confidenti-

ality)はより強いものであり、 NAは、その名前自体で、その治療におけるプラ

イバシーの重要性を強調している、と述べた92)。また、次のように判示してい

る93)。

「違法薬物またはアルコールに依存している者がその依存症に直面して話し合

う集いに参加することによって受益することができるということは、よく知ら

れている。そのような集いのプライベートな性質は、依存症者が匿名で出席で

きると信じて出席することを促すものである。プライバシーの保障は、それに

不可欠な部分である。参加者が互いに有している信頼義務違反が、その治療の

場所、時間、頻度等を公開することにより生じることになると、その治療は害

されるおそれがある。このような事項は、明らかにプライベートであると、私

は判示する。」

同様に、カーズウェル(Carswell)裁判官は、次のように述べている94)。

「NAにおける上告人の治療の詳細およびその集いから出てくるところを道で

こっそり撮影された写真の公表は、同氏が治療を受けている事実やNAにおい

て治療を受けている事実の公表の範囲をはるかに超えたものである、と私は思

う。それは、治療が行われている場所を明らかにし、その記事はNAにおける

同氏の治療の頻度まで言及した。このようにして、治療に関するいくつかの特

徴的なことにまで侵入し、同氏が受けるべき治療を続けるのを妨げるだけでな

く、治療-の参加が公開されるのをおそれる他の者がそれを続けるのを妨げる

傾向があるものでもあった。」

また、ヘイル裁判官は、次のように述べている。

「記事により公開された情報は、キャンベル氏の身体的・精神的健康に関する

情報であった。95) r中略]

個人の健康および病気の治療に関する情報が、私的で内密(privateandcon-

92) Id. at 【83】 perLordHope.

93) Id. at [95] perLordHope.

94) Id. at 【1651 per Lord Carswell.

95) Id. at 【144】 perBaronessHale.

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(63;

丘dential)であることは、昔からずっと認められている。これは、医者と患者

の間の信頼関係だけでなく、その情報自体の性質からも生じている。ヨーロッ

パ人権裁判所がZ対フィンランド事件(Zv.Finland (1999)45BMLR107at

124(para.95))において述べたとおり、

「医療情報の秘密性(confidentiality)を尊重することは、条約のすべての締

約国の法制度における肝要な原則である。プライバシーに関する患者の気持ち

を尊重するだけでなく、医療専門職および医療サービス一般に対するその信頼

を維持することも、重要である。そのような保護がなければ、治療を必要とし

ている者は、自分の健康(または、伝染病の場合、コミューニティ全体の健

康)を危うくしながら、適切な治療を受けるのに必要な個人的で詳細な情報を

知らせないか、最初から治療を求めないことにするおそれがある。」ォ, [中略]

ミラー紙の記事で公開されたキャンベル氏の依存症およびNA-の出席に関

するすべての情報は、それがキャンベル氏の肉体・精神健康の重要な面および

そのために受けていた治療に関連したため、私的で内密であった。信頼違反を

してインサイダーより得られたものでもあった。その単純な事実は、 [同氏の

弁護人が]新聞の対抗する表現の自由がその情報の一部の公表を正当化してい

ると同氏に代わって適当に認めたことによりあいまいにされている。しかし、

その出発点は、すべてがプライベートであり、その公表のために具体的な正当

化が必要であったということでなければならない。」97)

ホープ裁判官の言98)によると、このような事件において、情報の公開が好まし

くないか否かを決定する際、裁判所は、その治療を必要としている通常人 rea-

sonableperson)の立場から判断しなければならない。この事件において、キャ

ンベル氏が①自分が麻薬依存症者であり、 ②その依存症のために治療を受けてい

るという事実の公開について異議がなかったということは、それらがその他の事

項(すなわち、上記の③~⑤)の公開が好ましくないか否かという決定の際、そ

の考慮の対象から除かれるわけではない。各事項について適切に考慮するために、

96) Id. at 【145】 perBaronessHale,

97) Id. at 【1471 perBaronessHale.

98) Id. at 【98] perLordHope.

399

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(64)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

写真を含むその記事全体を読む必要があった。そのコンテキストは、治療を受け

ている麻薬依存症者のことであり、それ自身の感情を考慮に入れなければならな

かった。その事項の公開がその治療を妨げる可能性があるか否かについての決定

が必要であった。他の麻薬依存症者と匿名で自分の問題について話し合う集いに

参加することによって受益しようとしている依存症者にとって、そのような事項

の公開は、苦痛および非常に不快であるに違いない。

(6)写真によるプライバシー侵害

キャンベル氏がNAの集いの会場から出てくるところの写真については、貴族

院の裁判官の意見が分かれた。

反対意見を述べたニコルズ裁判官およびホフマン裁判官は、身なりのきちんと

した姿で建物の入口で温かく挨拶を交わしているキャンベル氏の写真が、私的場

所へ侵入せずに撮影されたものであり、新しい個人情報を伝えるものでも困惑さ

せるものでもないと判示した99)。ジャーナリズムの観点からすると、写真は、そ

の記事に不可欠であり、記事に比べてその真実を裏付ける機能を発揮した。した

がって、写真を公表するか否かという決定は、編集者の判断の範囲内にあり、適

当な許容範囲が認められるべきであった100)。

しかし、多数意見を述べた3名のうち、カーズウェル裁判官は、次のような意

見を述べj--101)。

「被上告人の主張した事項が公表を正当化することができない程度に、 [当該写

真]が上告人の私事(privateaffairs) -の侵入に当たった、と私は考える。そ

のような公表は、新聞の信愚性を維持するのに必要であったことを受け入れる

ことはできない。」

(7)ヨーロッパ人権条約第8条と第10条の関係

貴族院は、ヨーロッパ人権条約に保障されている表現の自由およびそれと競合

する名誉・プライバシーの権利は、民主的社会において対等であり、いずれも優

越する地位を占めないので、裁判所は、その2つの競合する権利の間の均衡を保

99) Id. at [31] per Lord Nicholls and [76] per Lord Hoffmann.

100) Id. at [77] per Lord Hoffmann.

101) Id. at 【170] perLordCarsweU.

400

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシ-の煤護(65)

たなければならない、という従来の見解を確認した。また、信頼違反事件におい

て、その均衡を保つ過程は、情報を伝える者が、当該情報が内密にされる合理的

期待があるのを知っているか、または知っているべきである時点から始まるとの

ことである102)。

この事件においては、危うくなっている政治的言論や民主的言論の問題もなく、

「差し迫った社会的必要」も指摘されていなかった。しかも、情報の公開が損害

を与える可能性が、考慮に入れるべき重要な事項であった。したがって、上記の

(彰-(参の事項は、原告に対して正当化できないプライバシー侵害に当たるという

ことになった。

(8)誤報とプライバシー該当性

当該の記事は、いくつかの誤報を含むものであった103)。例えば、キャンベル氏

がここまで集いに出席している期間について、 2年のところを「3ケ月」と控え

目に言いながら、過4回というその頻度を「しばしば1日に2回」と大いに誇張

した。また、本人が出てくるところの写真には、そこに着いたところであるとの

キャプションが付いていた。しかし、このような些細な誤りは、公表された事項

の全体的な意味に影響を与えるようなものではなく、したがってその内容のプラ

イバシー該当性を減じるものでもなかった100。

貴族院は、キャンベル氏が発言したことのない「私は麻薬依存症者だ」という

ねつ造された引用の見出しについては言及しなかった。

(9) 1998年人権法第12条とプレス苦情処理委員会の倫理綱領

へイル裁判官が述べている105!とおり、このような事件において、裁判所は、

1998年人権法第12条4項(b)号に従って、条約上の表現の自由の権利の重要性

だけでなく、特別に「あらゆる関連したプライバシー綱領」をも考慮に入れなけ

102) Av. B (acompany) 【2002]EWCACiv337at [ll](ix), (x), [2002] 2 AllER 545 at

[ll](ix), (x), 【2003】 QB 195 per Lord WoolfCJ ; Campbell v. MGNLtd [2004】 UKHL

22, 【2004】 2 AC 457, 【2004] 2 All ER 995 at 【21】 per Lord Nicholls, 【841 per Lord Hope,

and l134] per Baroness Hale.

103) Id. at 【7】 per Lord Nicholls and 【102】 per Lord Hope.

104) Id. at 【102】 perLordHope.

105) Id. at 【159】 perBaronessHale.

401

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66)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

ればならない。また、この場合には、それに該当するプレス苦情処理委員会の

「倫理綱領」 (codeofPractice)第3条は、第一審のモーランド(Morland)裁判

官の結論を支持するものである。

同条は、 「プライバシー」について次のように規定している。

「(i)何人も、その私生活・家族生活、家庭、健康および通信が尊重される樵

利を有する。公表は、同意なしでも個人の私生活への侵入が正当化される

ものでなければならない。

ii)同意なしで私的場所(privateplaces)にいる人物を撮影するために望遠

レンズを使用することは受け入れられない。

注意 私的場所とは、プライバシーの合理的期待(reasonableexpectationof

privacy)がある場合の公共または私有の財産である。」

ところが、第3条に対しては、それが公益に当たると立証され得る場合に限り、

例外として認められる。それは、次のように定められている。

「1 公益とは、次のものを含む。

(i)犯罪または重大な非行を探知または暴露すること。

ii)公衆の健康および安全を保護すること。

(iii)個人または団体の何らかの発言または行為が公衆に誤解を与えるのを

防止すること。 [以下省略]」

この綱領が規定している過程は、貴族院のヘイル裁判官とほぼ同じアプローチ

であり、第一審のモーランド裁判官と同じ結論になるとのことである1(派)。

(10)まとめ

イギリスにおいては、 「プライバシー侵害」という不法行為を理由に訴訟を提

起することが末だ不可能であるにもかかわらず、キャンベル対MGN社事件にお

ける貴族院の判決は、今後の有名人の私生活に関する報道に大きな影響を及ぼす

可能性があるといえる。

次に、メディアによるプライバシー侵害関連で1998年人権法が適用された実例

として3つの有名な事件の概要を簡単に紹介する。いずれもキャンベル対MGN

106) Ibid.

JO2

Page 31: イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 - HERMES-IR...(38)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月 は、 2000年10月2日に施行された。その結果、イギリスの訴訟当事者がフランス

ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(67)

事件における貴族院の判決に先立っており、貴族院を拘束しない控訴院または高

等法院による判決である。

2 ダグラス対ハロー!社事件

ダグラス対ハロー!社事件107)では、フリーランスのカメラマンが、厳重な警備

保障体制にもかかわらず、 2000年11月18日にニューヨークのプラザ・ホテル

(PlazaHotel)で開催された、映画俳優のマイケル・ダグラス(Michael

Douglas)氏とキャサリン・ゼタ・ジョーンズ(catherineZetaJones)氏の結婚

式に侵入し、隠しカメラでその写真を揺るのに成功した。その粗末なカラー写真

は、ダグラス夫妻と100万ポンド(2億円)の契約を結んでその独占的肖像権を

取得し、きれいな写真を撮影していたOK!誌という週刊セレブ・フォトマガジ

ンのスクープを奪うために、そのライバル週刊誌であるハロー! (HelloO 誌に

掲載されることになった。

その掲載により、 OK!誌の売上部数の減少のほかに、グラマーな映画スター

としてのダグラス夫妻のイメージや人気(市場性)が損なわれるおそれがあった

ので、ダグラス夫妻は、OK!誌の出版社であるノーザン・アンド・シェル

(Northern&Shell)社とともに、 11月20日に、その写真の公表に対して中間的差

止命令(interiminjunction)を申し立てた。それと同時に、 OK!誌は、利用され

る写真を選択する権利を有しているダグラス夫妻の協力を得て、出版日を繰り上

げた。

差止命令は、同日認められ、 11月21日に延長されたが、結局11月23日に控訴院

により却下されtzv 控訴院が差止命令を認めなかった主な理由は、ダグラス夫

妻のプライバシーの大部分がすでにノーザン・アンド・シェル社へ売られ、同社

の商品として保護されることになっており、その被害が損害賠償により十分に補

償され得るからである。それとは対照的に、当該写真を掲載しているハロー!誌

107) Douglasv. Hello!Ltd [2001】 2AllER289 ; 【2001】 QB 967 ; [2001】 2WLR992 (CA) ;

Douglas v. Hello!Ltd {No. 3) [2003】 EWHC 786 (Ch), [2003】 3 All ER 996 ; Douglas

v. Hello! Ltd [2005】 EWCA Civ 595, 【20051 All ER (D) 280 (CA)I

108) Douglasv. Hello!Ltd [2001) 2AllER289, 【2001] QB967, [2001] 2WLR992 (CA).

403

Page 32: イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 - HERMES-IR...(38)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月 は、 2000年10月2日に施行された。その結果、イギリスの訴訟当事者がフランス

(68)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

の販売が差し止められる場合のハロー!社の金銭的損害を認定するのが困難で

あっ蝣A.

したがって、損害賠償よりも差止命令を希望していたダグラス夫妻は、ノーザ

ン・アンド・シェル社とともに、信頼違反、プライバシー侵害invasionofprL

vacy)、 1998年データ保護法違反等による損害賠償を請求することにした。その

事実審裁判所であった高等法院のリンドジー(Lindsay)裁判官は、 2003年4月

11日に、 「プライバシー侵害」を理由とする請求を認めなかったものの、被告ら

が非良心的にプレス苦情処理委員会の「倫理綱領」第3条に違反して信頼違反お

よびデータ保護法違反をしたという判決109)を言い渡し、さらに2003年11月7日に

その損害賠償の認定に関する判決110)を言い渡した。同裁判官は、加重的損害賠償

および懲罰的損害賠償(exemplarydamages)の請求は認めなかった。

その結果、ノーザン・アンド・シュル社は103万3,156ポンド(2億663万1,200

円)、ダグラス夫妻は1万4,600ポンド(292万円)の損害賠償を得ることになっ

た。ちなみに、ダグラス夫妻は、それぞれ1名当たり、苦痛について3,750ポン

ド(75万円)、データ保護法違反について50ポンド(1万円)、および出版繰り上

げ作業について3,500ポンド(70万円)の損害賠償を得たが、自ら訴訟にかけた

約400万ポンド(8億円)の弁護士費用のうち、約100万ポンド(2億円)を自己

負担することになった。

ダグラス夫妻が勝訴したにもかかわらず2億円弱を負担しなければならなかっ

たということは、イギリスにおいて信頼違反をされた一般市民が裁判という手段

を事実上利用できないことやプレス苦情処理委員会のような救済手段の必要性を

示唆しているといえよう。

この判決に対し、被告らは控訴院へ上訴し、原告らも交差上訴した。フィリッ

プス記録長官(LordPhillipsMR)は、 2005年5月18日にその3名の裁判官によ

る判決Ill)を言い渡したが、それにより、商事的信頼違反等の存在が認められな

109) Douglas v. Hello!Ltd (No. 3) [2003] EWHC 786 (Ch), 【2003】 3 All ER 996.

110) Douglasv. Hello!Ltd [2003】 EWHC2629 (Ch), 【2003】 AU ER (D) 110 (Nov), 【2004】

EMLR13.

Ill) Douglas v. Hello!Ltd [2005】 EWCA Civ 595, [2005] All ER (D) 280 (CA).

404

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護 69

かったノーザン・アンド・シェル社は逆転敗訴し、ダグラス夫妻はそのまま高等

法院が認めた救済のみを得ることになった。

ダグラス夫妻の救済方法については、控訴院は、最近のキャンベル対MGN社

事件における貴族院の判決およびヴオン・ハノーファー対ドイツ事件における

ヨーロッパ人権裁判所の判決112)に照らして、この事件において唯一の「十分な救

済方法」 (adequateremedy)であった中間的差止命令を却下した同裁判所の判断

が誤っていたと判示した113)。その結果、ダグラス夫妻は、中間的差止命令を得る

ための厳格な条件を満たしていたにもかかわらず、当該出版により利益を上げて

いない相手に対して、十分な救済方法となり得ない損害賠償を請求することにな

り、決して十分とはいえない「比較的小額」 (relativelysmallsum)しか得なかっ

たのである114),

信頼違反やプライバシー侵害に関する高等法院および控訴院の判決は、今後、

先例としてキャンベル対MGN社事件における貴族院の判決ほど拘束力をもたな

いものの、特に、イングランド法が信頼違反という不法行為の形で、 「個人プラ

イバシーの制限的な権利」 (aqualifiedright ofpersonalprivacy)を認め、適切に

保護しているという控訴院のセドリー(Sedley)裁判官の見解115)がキャンベル事

件の貴族院により評価されている。

3 ティークストン対MGN社事件

ティークストン対MGN社事件116)では、当時31歳でBBCの青少年向け音楽番

組「トップ・オブ・ザ・ポップス」 (TopofthePops)およびBBCラジオ・ワン

112) VonHannoverv. Germany, no. 59320/00 (24 June 2004).この判決では、ヨーロッパ人権裁判所は、個人による不法なプライバシー侵害から個人を守るというヨーロッパ人権条約の加盟国の義務および加盟国の裁判所がその結果をもたらすように法律を解釈する義務を認めた(atparas57,74and78-79)c

113) Douglas v. Hello!Ltd [2005】 EWCA Civ 595 at 【251] and [253】, 【2005】 An ER (D) 280

at 【251】 and 【253】.

114) Id. at 【249] and 【256日259】.115) Douglasv. Hello!Ltd [2001] 2AllER289, 【2001] QB 967, [2001] 2 WLR992 (CA) at

【110ト【111】 and 【137】 per Sedley LJ.

116) Theakston v. MGNLtd [2002] EWHC 137 〔QB), 【2002】 EMLR 398.

405

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(70)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

(BBCRadiol)番組の司会者として活躍していたジェイミ-・ティークストン

(JamieTheakston)氏が、はしご酒の流れで友人とともに、ロンドン・メイフェ

ア(Mayfair)にある売春宿に行ったことに関する記事をサンデー・ピープル

(sundayPeople)紙が掲載することに対して暫定的差止命令(interlocutoryin-

junction)を申し立てた。

同氏は、いったん友人と一緒に売春宿を出た後、 1人で戻り、酪酎状態で1名

以上の売春婦による性的行為を受けたり数名の売春婦と一緒に写真を撮られたり

した。そのとき、持っている現金が足りなかったために勘定を払わずに帰り、そ

の後、支払いをしつこく要求する無数の電話や1本の電子メールを受け取った。

その連絡のなかには、払ってもらわないと新聞社に写真を売るという、脅迫と思

われる内容を含むものもあった。同氏がその請求に応じなかったので、売春婦は、

そのストーリーや写真をタブロイド型新聞であるサンデー・ピープル紙に売るこ

とにした。

2002年1月26日、同紙の編集部員が、翌日掲載する記事について本人のコメン

トを求めた。ティークストン氏は、それに応じずに、直ちに「信頼違反」

(breach ofconfidentia止ty)ならびにプレス苦情処理委員会の「倫理綱領」および

ヨーロッパ人権条約第8条のもとの「プライバシー権の侵害」 (breachofthe

righttoprivacy)を理由に差止命令を申し立てた。同氏は、自分の行動について

反省をしながら、友人と一緒に私的場所内にいたこと、その行為が私的で内密で

あったこと、自分がその私生活・性生活の詳細について公に話したことがないこ

と、およびその情報や写真の公表が公共の利害に当たらないと思っていることを

主張した。また、もしそのような公表をされると、自分をはじめ家族や友人が感

じる苦痛、恥辱・困惑等や自分のキャリア-のダメージに言及した。

高等法院のウ-ズリー(Ouseley)裁判官は、即刻、写真の掲載のみに対して

差止命令を認め、 2月14日にその理由を説明する判決を言い渡した。その際、同

裁判官は、この事件の問題について、 ①原告が売春宿に行き、そこで性的行為を

したという情報、 ②そこでなされた性的行為の詳細、および③売春宿内において

撮影された原告の写真、の3つに分けて判断を示しtzl

①については、ウ-ズリー裁判官は、 (a)原告と売春婦の間に信頼関係を条件

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護71

にする明示または黙示の合意が欠如していること1脚、(b)プレス苦情処理委員

会の「倫理綱領」のもとで、多くの人々がアクセスし、そのなかで行われる行為

を目撃し得る売春宿が「私的場所」に当たらない119)こと、および(c)BBCによ

り青少年向けの番組を司会するのにふさわしい者として雇われている原告がそこ

に行ったという情報の公表が公共の利害に当たる120]ことについて判断した上で、

売春婦による脅迫の有無にかかわらず、事実審裁判所は、条約のもとの原告のプ

ライバシー権よりも売春婦およびサンデー・ピープル紙の表現の自由を重視する

であろう、と判示した121)。原告は、実際には、女にもてる男というイメージを売

り物にしながら、ある程度その恋愛関係や性生活について公に話していた。その

性生活の詳細までは話していないことにしても、それに関連した数人の女性の発

言に対しては苦情を申し立てず、その宣伝効果を歓迎してい-/蝣-122)/^-。

②についても、同裁判官は、原告の詳細な性的行為の公表が公共の利害に当た

らない1231にもかかわらず、事実審裁判所は、条約のもとの原告のプライバシー権

よりも売春婦やサンデー・ピープル紙の表現の自由を重視するであろう、と判示

した1241

しかし、(彰については、ウ-ズリー裁判官は、原告の同意なく撮られた写真の

公表が公共の利害に当たらない125)と判断した上で、被告がそれらを公表せずに保

管するよう命じ-?;126)/>_。その際、同裁判官は、写真の撮影や公表が売春宿に行った

という行為に内在的ではなく、また、それが特に屈辱的かつ中傷的な方法による

原告の私生活への侵入に当たると指摘した127)。さらに、脅迫の目的で収集された

情報である写真の公表は、プレス苦情処理委員会の「倫理綱領」の違反に当たる

117) Id.at【24】.

118) Id.at 【58] and 【641.

119) Id.at【62】.

120) Id.at【69】.

121) Id.at【70ト【711.122) Id.at【68】.

123) Id.at[751.

124) Id.at【76】.

125) Id.atI79】.

126) Id.at【771.

127) Id.at【78】.

407

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(72)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

と判示した128)。

4 アーチャー対ウィリアムズ事件

ア-チャー対ウィリアムズ事件129)では、小説家・葬議員であるジェフリー・

アーチャー卿(LordJeffreyArcher)の妻として国民の好奇心の対象となってい

るメアリー・アーチャー夫人(LadyMaryArcher)が、その元秘書(f<ormersec-

retary and personal assistant)を相手に訴訟を提起した。

元秘書は、 1988年6月から2001年11月にかけて原告に信頼されて勤めていたが、

アーチャー卿が2001年7月に刑務所に入った後、アーチャー家のプライバシーを

保護するための信頼合意書,cor岨dentiah.tyagreement)に署名するのを断った

ために、解雇され^・-.13010 ちなみに、同氏が1988年5月に結んだ労働契約のなかに

は、秘密性(confidentiality)に関する明示の規定があった。

同氏は、長年仕事に使っていた手帳を持ち続けながら、有名な広報コンサルタ

ントであるマックス・クリフォード(MaxClifford)氏を通してそのストーリー

を新聞社に売ろうとした。数名の記者と交渉してみたが、特に問題となったのは、

2002年1月4日にニューズ・オブ・ザ・ワールド(NewsoftheWorld)紙の記者

およびクリフォード氏宛てに送信したファクシミリであった。このファクシミリ

は、 13枚にわたる、 1988年から2001までのアーチャー家の詳細な歴史(出来事、

日時、便号、住所、電話番号等)およびそれに関する辛らつなコメントを含むも

のであった。

同年2月24日に、サンデー・ミラー(SundayMirror)紙は、 「メアリーの男」

(Mary's Man)や「特別の友達と旅立つ前に整形美顔術」 (She has faceliftbefore

tripwithspecialfriend)という見出しの下で、アーチャー夫人の美容外科手術等

の詳細を公表した。その記事のいくつかの部分は、ファクシミリの内容と一致し

ていたので、同紙は、なんらかの方法によりそれを入手し、参考にしながら記事

128) Id.at【80】.

129) Archerv. Williams l20031 EWHC 1670 (QB).

130)労働審判所(EmploymentTribunal)は、その後、その解雇が公正なものであったと判示している。

408

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ジョン・ミドルトン/イギリスの1998年人権法とプライバシーの保護(73)

を作成したとみられている。また、他の新聞も、すぐに同様の記事を掲載した。

2月26日に、元秘書は、そのストーリーを5万ポンド(1,000万円)でデイ

リー・メール(DailyMail)紙の出版社であるアソシエイテッド・ニューズペー

パーズ社(AssociatedNewspapersLtd)に売る契約を結んだ。しかし、その記事

が公表される前に、アーチャー夫人が訴訟を提起した。

アーチャー夫人は、信頼違反を理由とする本件裁判において、①元秘書による

将来の信頼違反を防止するための差止命令、②過去の信頼違反による損害賠償、

および③手帳の引渡を請求した。高等法院のジャックソン(Jackson)裁判官は、

2003年7月3日に、差止命令の草案に少し手を加えた上で、そのすべての請求を

認めた。

同裁判官は、解雇後継続していた原告への信頼義務に違反して、その大量の個

人情報をクリフォード氏および4新聞の記者に開示した被告の行為はその情報が

新聞に掲載される相当なリスクを伴うものであったために、「内密の情報の不法

な開示」(wrongfuldisclosureofconfidentialinformation)に当たると判示Ltzl。

そして、それに対して、2,500ポンド(50万円)の損害賠償および原告の弁護士

費用の支払いを命じた。

また、③については、ジャックソン裁判官は、いくつかの理由から、その手帳

が原告の財産であると判示し、その引渡を命じ^132)/^-。

Ⅵおわりに

1998年人権法が施行されてからすでに4年半の年月が経っている今日、イギリ

スにおいて包括的プライバシー侵害という不法行為が存在していないということ

は、改めてキャンベル対MGN社事件における貴族院の判決で確認された。しか

し、本稿において考察した4つの判例が指摘しているように、イングランドの裁

判所は、他の事件に比べて、プライバシー権に関する判例法を大胆に拡張しよう

とする傾向が目立っている。裁判官は、人権法の様々な規定に照らして、積極的

にエクイティ裁判所が数百年にわたり発展させてきた「信頼違反」という不法行

131) Archerv. Williams [2003】 EWHC 1670 (QB) at 【48】and 【72]-[73】.

132) Id.at【43],

409

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(74)一橋法学 第4巻 第2号 2005年7月

為のなかに、ヨーロッパ人権条約第8条および第10条やプレス苦情処理委員会の

「倫理綱領」のような「関連したプライバシー綱領」により規定されているプラ

イバシー権および表現の自由の概念を編入しようとしている。

このように拡張されてきた不法行為も、未だに"breachofconfidence"または

"breachofconfidentiality"として知られているが、多くの裁判官は、誤解を招く

ような命名に不満を抱いており、事実上「プライバシー権の侵害」 (invasionof

privacy)の一種として認めているといえる。イングランドの裁判所において、

"plaintiff (原告)という言葉さえ、公衆にとって分かりにくいという理由でそ

の使用が許されていない今H、プライバシー権を侵害された"claimant"原告)

がまだ"invasion of privacy"ではなく、 "breach of confidence"を主張しなければ

ならないのは、明らかに時代遅れであって、決して望ましい状況ではなかろう。

また、現行法によって保護されているプライバシー権の評価については、私は

少し疑問を抱いている。原告がキャンベル氏のように嘘をつくことにより公衆を

偏したり、ダグラス夫妻のようにプライバシーの一部をメディアに売ったり、ま

た、ティークストン氏のように私生活の一部を売り物にして公開したりする場合

には、その権利が制限されるのは当然であっても、アーチャー夫人のように自分

のプライバシーを守るために万全の措置を取り、それでも深刻な損害を受け、損

害賠償として2,500ポンド(50万円)しか賦与されないのは、バランスを失する

といわなければならない。たとえ被告が一般人であったとしても、それは、従来

の名誉致損事件に比べても決して高額ではない。

そして、ダグラス夫妻のように弁護士費用に約400万ポンド(8億円)も使っ

て苦痛およびデータ保護法違反で合計7,600ポンド(152万円)の損害賠償しか斌

与されないのも、イギリスの裁判制度の麻痔を示しているといえる。一般市民は、

相当な援助がない限り、信頼違反を理由に訴訟を提起する余裕がない0

多くの専門家は、 「発達不十分、複雑かつ断片的」なプライバシー関連のイン

グランド法について批判的であるが、私は、キャンベル対MGN社事件における

貴族院の積極的なアプローチを評価しており、今後の発展に期待できるところが

あると考えている。

410