ズィクル観の比較考察 - ryukoku university...ズィクル(唱念)とはなにか...
TRANSCRIPT
-
ズィクル観の比較考察
世界仏教文化研究センター基礎研究部門特定公募研究(共同)
「イスラームのディクル(唱念)と仏教の念仏の比較考察」
2019年度第2回研究会
-
本研究プロジェクトの主旨
• 比較宗教学の方法:諸宗教を単独の宗教学として研究しながら、それぞれの宗教を諸側面から比較・考
察することで、共通性を見いだす研究分野・方法。宗教間の交流・対話の背景となる学問分野でもある。
• 祈りの比較:世界の諸宗教で、聖なる存在の名を念じ、唱える祈りがある。イスラームと仏教におけるこう
した祈りのあり方を比較し、共通性と相違点を見いだす。
• ズィクルと念仏の比較:イスラームのズィクル(神を想起し、念ずる祈り)と仏教の念仏(阿弥陀如来を念ず
る祈り)の比較を通じて、共通点、相違点を見いだす。
• 祈りと神秘主義の関係性の比較:諸宗教には神秘主義、すなわち様々な祈り・行法などを通じて聖なる存
在に接近しようとする流れがあり、宗教の教義的相違を超えた共通性を見いだす地盤となるとの見方があ
る。イスラームではスーフィズムと呼ばれ、ズィクルが有力な行法となっている。他方、仏教を神秘主義的
観点から見たとき、念仏はどのように位置づけられ、イスラームといかに比較しうるかを考察。
-
ズィクル(唱念)とはなにか
• ズィクル:本来は「神を想起すること」、そのた
めの祈りをいう。心で念ずることを優先と
• 唱念・唱名としてのズィクル:次第に神の名、神
を称賛する句を声に出して唱えるようになる。
その文句も定式化していく(ルーミーのズィクル
観2参照)。
• 神秘主義とズィクル:イスラームにおいて神と
の合一を目指す神秘主義:スーフィズムの発
展とともに、ズィクルが修行法として確立してい
く(右図:ナクシュバンディー教団のズィクル)
-
クルアーンのズィクル:神の想起
• クルアーン第49章「蜘蛛」第45節:啓典からあなたに啓示されたことを読誦しなさい。礼拝しな
さい。礼拝こそは汚れた行い、悪行を禁止するものである。とりわけ神(の御名)を想起するこ
と(DHIKR’LLAH)がなによりも重要である。神はあなたがなすことすべてを知り給う。
• クルアーン第13章「雷鳴」第27ー28節:異教徒たちが、なぜ彼(預言者ムハンマド)には神から
の神兆が降されていないのか、と言ったなら、言いなさい、神は望む人々を道に迷わせ給い、
改悛して神の元に戻る人々を導き給う。これらの人々は神を信じ、その心が神を想起すること
(DHIKR’LLAH)で安らぐ人々である。本当に、神を想起すること(DHIKR’LLAH)で心は安らぐ。
• クルアーンのズィクル:神を思い起こすことを意味し、祈り、礼拝の中でも最も重要とされる。心
で神を思い起こすことが重視され、神の導きによる救いとともに心の安らぎにつながる。神の
名を声に出して唱える場合もある。
-
カリフ・アリーとズィクル
• アリー・ブン・アビー・ターリブ:第4代カリフ(656-661)。シーア派初代イマーム。預言者ム
ハンマドの従弟で娘婿。預言者在世中は側近、戦士として活躍。推挙でカリフに就任、しかし内戦で暗殺される。長男ハサン、次男フセイン(右図:於コム博物館)を通じシーア派として継承・発展
• アリーと神秘主義:アリーはその生涯、精神性の高さから神秘主義の祖として多くのタリーカ(教団)の系譜に入り、尊崇を集める
• アリーとズィクル:その説教集『雄弁の道』(次節参照)などに見られる
-
アリーのズィクル観1:クルアーン「光」の章より
• 『雄弁の道』(NAHJ AL-BALAGHAH)説教第222番:アリーは「・・・朝に夕に、そこで神を讃える
人々は、商売や取引によって神を想起すること(DHIKR’LLAH)を怠ることはない」(クルアーン第
24章「光」第37節)を読誦した際に述べた。まことに栄えある至高の神は、ズィクルを心を磨くも
のとなされた。心はそれによって難聴の後に聞き、目が眩んだ後に見、逆らった後に従うので
ある。お恵み絶大なる神には常に、時代から時代へ、(預言者が現れる)間の時期に、神がそ
の思いに真理をささやき、その知性の本質に語りかける下僕の人々がいる。そこで彼らは目、
耳、心を覚醒させる光によって照らし出し、神の日々を想起させ、神の位格を恐れさせる、荒野
における道標のように。正道をとる者には彼らはその道を褒め、救いをもたらし、右左に迷った
道をとる者にはその道を罵って破滅を警告する。このように、彼らはこの迷妄の燈明、この疑
いの道標のようであった。
-
アリーのズィクル観1:続き
• ズィクルには、現世の代わりにそれをとる人々がいる。商売や取引によって彼らがそれから逸
脱することはない。彼らは人生の日々をズィクルに費やし、無知な人々の耳に神の禁忌に関す
る制限を声高に叫び、正義を命じ、自身もそれをなす。人々を悪行から止め、自らもそれを止
める。すなわち、まるで彼らは現世を離れて来世に行き、そこにいて、現世を超えた世界を見て
いるかのようである。・・・
• この説教のズィクル観:ズィクルは現世的欲をなくして常に行い、心を磨くもの。それにより心の
目、耳が光り輝いて覚醒し、周りを照らし出す。こうして覚醒した人は人々を正道に導く指針と
なる。ただし、覚醒した人は現世を超え来世にいるようだが、自他ともにイスラームの教えに忠
実に、善を勧め悪を止める範囲に留まる。
-
アリーのズィクル観2:『箴言精華集』(GURAR AL-HIKAM)より
• ズィクルは見る目を磨き、秘密を照らす光である。(1377番)
• ズィクルは知性を和らげ、心を照らし、慈悲を降臨させるものである。(1858番)
• 隠遁をズィクルで満たしなさい、慈愛に感謝を伴わせなさい。(2374番)
• 常にズィクルを行いなさい、それは心を照らし、またそれは最も優れた祈りである。(2536番)
• 神のズィクルは信徒すべての財産の筆頭であり、その利益は悪魔から無事なことである。(5171番)
• 神のズィクルを聞く人はズィクルを行う人である。(5579番)
• 神をズィクルする人は、神が彼を想起し給う。(7758番)
• 栄えある神をいい加減にズィクルしてはならず、怠けて忘れてはならない。完全にズィクルしなさい、
あなたの心が言葉と一致し、心の隠し事が表向きの事と一致するように。あなたは真のズィクルを
行っていない、ズィクルの内に心を忘れ、我が事に心を配らなくなるまでは。(10359番)
-
シーア派のズィクル観:第6代イマーム・ジャーファル・サーディクの言葉(『十全なる原則集』(’USUL AL-KAFI)より)
• 我らのシーア派信徒は、一人でいるとき神を繰り返しズィクルする人々である。
• ズィクルを除いて、限度のないものはない。すなわちズィクルには限度がない。偉大なる神は宗教
的義務を定め給うたが、それらをなす者はそれらの限度である。ラマダーン月は、断食する者がそ
の限度であり、巡礼は巡礼する者がその限度である、ズィクルを除いて。実に偉大なる神はズィク
ルが少ないことに満足されず、ズィクルに限度を設けられなかった。それから(ジャーファル・サー
ディクは)このクルアーンの節を述べた:「おお、信徒の者たちよ、神を繰り返しズィクルしなさい、朝
夕に声高く賞賛しなさい。」(第33章「部族同盟」41節)・・・クルアーンが読誦され、偉大なる神がズィ
クルされる家では、恩寵(BARAKA)がいや増し、諸天使が訪れ、悪魔どもが遠ざかり、天界の人々に
とって星々が地上の人々に輝くように光輝く。しかしクルアーンが読誦されず、神がズィクルされな
い家では、天使が遠ざかり、悪魔が訪れる。
-
ジャーファル・サーディクの言葉(続き)
本当に預言者―かのお方とそのご家族に神の祝福あれ―は言われた。「いったい私はあなた方
にあなた方の良き行いについて伝えなかっただろうか?あなた方にとってその行いがより高い位
置にあり、あなた方の主(神)の元でより清く、あなた方にとって金貨、銀貨より良く、敵と遭遇して
殺し、殺されるより良いものを?」人々は言った。「ええ、その通りです」そこで預言者は言われた。
「偉大なる神のズィクルを繰り返すことです」そして(ジャーファル・サーディクは)言った。『ある者
が預言者―かのお方とそのご家族に神の祝福あれ―のところに来て言った、「モスク(で礼拝す
る)人々で良い人は誰でしょうか?」そこで預言者は言われた、「神のためズィクルをより多くなす
人です」そして神の使徒―かのお方とそのご家族に神の祝福あれ―は言われた、「ズィクルを唱
える言葉を与えられた人は、現世と来世の良きことが与えられます。」そして(ジャーファル・サー
ディクは)言った、「神の御言葉に、「多くなしたからといって恩に着せてはならない」(クルアーン
第74章「外衣に身を包んだ男」6節)とあるのは、神への善行を多いとみなしてはならない、という
ことです。』
-
神秘主義との関係:ルーミーとズィクル
• ルーミー:1207~1273.13世紀に活動した代
表的イスラーム神秘主義者。アナトリア(トルコ)の当時の首都コンヤで活動し、ルーム・セルジューク朝支配層からキリスト教徒まで広範な信仰を集める。
• メヴレヴィー教団:息子スルタン・ヴァラドを通じ教団が組織化され発展。オスマン帝国領土全域に広がる
• セマー:ルーミーが忘我の境地で旋舞したのを起源。修行法として確立、観光としても有名に(右図)。
-
ルーミーのズィクル観1:ルーミーの聖人伝『霊智ある人々の偉業』(MENAQIB AL-’ARIFIN)より
• ある日ルーミーに、あるネイ(葦笛:メヴレヴィー教団のセマーで奏でる)奏者が陶酔の境地で
亡くなった、との知らせがあると、ルーミーは、陶酔のうちに亡くなったことに感謝する、とし、も
し生きて正気に戻ったらよくなかったろう、と述べた。これはちょうど、寄る辺なきナイチンゲー
ルが花開く時期に花に対しさえずり、鳴き声をあげて我を忘れるまでになるのに似ている。つ
まり、もし猫がこの機を捉えてナイチンゲールを食べてしまうなら、ナイチンゲールは永遠に陶
酔したままで、我を忘れて復活するだろう。「あなたは生きるままの有様で死に、死ぬままの有
様で甦る」
詩:我らかく言えり、あとは思うべし 思いが硬ければ、行け、ズィクルせよ
ズィクルは思いを揺さぶらん ズィクルをかの凍れるものの太陽となせ
(第3章146番)
-
ルーミーのズィクル観2:ズィクルの唱句について
• ある日、ムイーヌッディーン・パルヴァーネ(ルーム・セルジューク朝宰相)がルーミーに問うて、「過去の
(神秘主義の)師の方々には、ひとりずつ、祈りの文句、ズィクルがありました。例えば「アッラーの他に
神はなし」の句や、トルキスタンのダルヴィーシュ(神秘主義の修行者)たちの一部は「ホウ、ホウ」と唱え
ています。一部の人にとってズィクルは「アッラーの他に」のみで、一部の禁欲主義者らは、「至高至大の
神における他、いかなる勢力も力もない」との句を繰り返しています。一部の人は「偉大な神に許しを乞
わん」と唱え、一部は「偉大な神に栄光あれ、神にたたえあれ」の2句を100回数えています。はたして、
尊師(ルーミー)のズィクルの方法はいかなるものでしょうか?」ルーミーはおっしゃった。「我らのズィク
ルは、「神よ、神よ、神よ」です。なぜなら、私たちは「アッラーの徒」だからです。私たちはアッラーから来
たり、アッラーに還っていくからです。」
詩: 我らは本質(DHAT)から生まれ、本質の方に行く 我ら行くのを祝え、友らよ
我らは神の他放棄せり、と言うや、我らは神を捉えたり。
我、2つの世界ともに我が側から空にせり Hのようにアッラー(ALLAH)のLの隣りに座れり
-
ズィクルの神秘主義的発展:ハッカーニー教団の例
• タリーカとズィクル:13世紀以降、ルーミーのメヴレヴィー教団をはじめ、多くのタリーカ:神秘主
義教団が成立、発展。神と合一する修行法としてそれぞれのズィクルが発展する。
• ハッカーニー教団:最大の教団で、14世紀中央アジアで成立したナクシュバンディー教団から
分かれた教団。アメリカを含め世界的に広がり、インドネシアにも定着。
• スィルスィラ(系譜):教団の指導者の系譜。預言者ムハンマドに始まり、初代カリフ・アブー・バ
クル、シーア派第6代イマーム・ジャーファル・サーディクなどを経て第17代ナクシュバンド(ナク
シュバンディー教団開祖)、第18代チャルヒー(現タジキスタン)、インド経由で現在の第40代ナ
スィーム(キプロス在住)、第41代ラッバーニー師に至る。
• ズィクル:独自のズィクルが複数存在。ズィクル・ハーティム・ハワージェガーンでは教団の系譜
をしのび、長文の唱句(テキストあり)からなるズィクルを集団で行う(CF.参考映像)
-
ハッカーニー教団のズィクル集会(於東京・2019年10月):バンバン師による神、預言者、教団の師の系譜を讃えるズィ
クル朗唱に唱和、自身を清め、神の恩寵を祈る
-
ズィクルの発展と念仏との関係(試論)• ズィクルの神秘主義的発展:①クルアーンの、心による神の想起→②アリー:現世の欲を超えて行い、心を輝かす→③ジャーファル・サーディク:シーア派にとって多く行う義務と功徳→④ルーミー:神秘主義で思考を止めて忘我の境地に至るため行い、存在の源=神と合一する
• 念仏との関係(試論):仏教は四諦にあるように欲をなくし悟り=成仏を開く正道を説く。大乗仏教は万人の救
済を目指し、念仏はその一環。信者が信心(菩提心)を起こし、念仏を称名の行として行い、往生・成仏に至る。来世での救済(天国へ行くこと)を願って行うズィクルと似た面あり。ただし④神秘主義の神との合一とは異なる面がある可能性
• 親鸞の念仏との関係(〃):阿弥陀如来の本願(念仏を行う万人を浄土に迎える)がまずあり、信者はただその願いを受け入れ、念仏はその証明。自力で救われようとする「自力作善」(じりきさぜん)の否定。④神秘主義の神と合一を目指す行法としてのズィクルとは異なる。ただし、本来のズィクルは自我を減らし神へ全面依拠・委託(TAWAKKUL)することと関係し、阿弥陀如来に全面的に自己を委ねる点と似た面あり
• 信者の側から見た類似性:特に親鸞の絶対他力の念仏は、④神秘主義の、本来のイスラームに比べても徹底した自我滅却による神への全面依拠・委託と似た面がある可能性