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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 37(3-4): 89-152 URL http://hdl.handle.net/10291/8312 Rights Issue Date 1969-07-25 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Page 1: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

Meiji University

 

Title サラワクの政党制について

Author(s) 橋本,彰

Citation 政經論叢, 37(3-4): 89-152

URL http://hdl.handle.net/10291/8312

Rights

Issue Date 1969-07-25

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

Page 2: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

(291)

サラワクの政党制について

(      (((騙②ω5;ご

目 次

サラワクの歴史と政治的風土

マレーシア成立前後におけるサラワクの政治過程

サラワクの政党政治の実態

サラワクの諸政党と指導者たち

一九六三年六月選挙ーその実態-

一九六三年六月選挙-若干の分析ー

サラワクの政治過程

サラワクの国際政治にお・ける地位

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Page 3: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

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(一

j サラワクの歴史と政治的風土

サラワクの政党制について

 ボルネオbdo円ロΦoは総面積約二八七、○○○平方マイルという世界で第三番目に大きい島である。このうち、サラワク

ω鋤鑓≦跨は四八、二五〇平方マイル、サバω翁。げ魯(北ボルネオ2。誹げbdoB①o)は二九、三八八平方マイル、英国保護領

ブルネイ卑巷巴は二、二二六平方マイルであるから、いわゆるbd壇三旨bd。呂ooは総体で約八〇、○○○平方マイルを占

めるわけである。これにたいし、現在はカリマンタン円巴ぎ鋤韓8と呼ばれているインドネシア領ボルネオぎ餌8Φの冨昌

                                     (1)

bdoヨΦoは約二〇七、○○○平方マイルの面積を有し、人口は約四〇〇万人をかぞえる。史料のしめすところによれば、

七世紀のころスマトラに興ったマレi人の強大な帝国シュリーヴィジャヤωユく昔巻もボルネオをその版図にふくめてい

た様子はなく、その後、十四世紀ごろにこれとかわったマジャパヒト王国竃鋤冨U9。臣けもその勢力範囲は東ジャワ、マズ

ーラ島、バリ島に限ったようであった。だから、ボルネオという巨大な島はひさしく東南アジアにおける”暗黒の大陸”

        (2)

としてとどまっていたのである。

 ボルネオの近代史は英人ジェームズ・ブルック冒ヨΦのOd80屏o(戸QGOGQIHGo①GQ)がサラワクのラジャ 閑⇔冨ohω9。冨を鉾

として君臨するようになった一八四一年に始まる。もともと十六歳という若さで東インド軍に加わっていたブルックは、

第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続するにおよび、重

装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時

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Page 4: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ブ〃ネイでは叛乱がおこっており、サルタンはその鎮圧に手をやいていたのであるが、たまたまボルネオに到着したブ

ルックの救援をえてようやくこれをしずめることができた。 一八四一年九月、ブルックはこの功績によって幻9。すoh

ω弩9≦欝の称号と小さな領地をおくられたのである。爾来、一九四一年の日本軍の占領にいたるまでのサラワクの歴史は

ブルック家のそれであったといえる。

 孫然の著、「南洋新話」のなかの「關於海峡殖民地」と題する章に次のような記事がみえる。「海峡殖民地包括新加披、

楮榔喚、馬六甲、華僑構之爲『三州府』。這個殖民地由英國直轄……海峡殖民地的総統府設在新加披、在戦前、宿轄下除

『三州府』外、還轄有三塵幾千里以外的島喚、那就是北婆羅洲西北岸的拉布安島、印度洋的聖誕島和科科斯島(都在爪畦

西南)。其中最好的要算拉布安島。北婆羅洲、婆羅乃、砂勢越、是英國的殖民地或保護國、而拉布安島就在北婆羅洲労邊。

拉布安島本来是婆羅乃的領土、在鴉片戦孚時期(一八四〇)、先取砂勢越、後五年又取拉布安、作爲英艦在東方供慮燃料

                              (3)

的中心、會経有過軍事作用、所以不遠数千里、一直由新加披総督直轄」。

 つまり、海峡植民地とはシンガポール、ペナン、マラッカの三地点をふくんでいるのであって、華僑はこれらを『三州

府」と称する。これらの植民地は英国が直轄するところであった……海峡植民地の総督府はシンガポールに設けられてい

た。戦前は、総督府は『三州府』を統轄するほか、何千里もはなれた三ケ所の島々をもさらに統轄していたのである。す

なわち北ボルネオの西北岸のラブアン島およびインド洋のクリスマス島とココス島(この二つはみなジャワの西南に位置

する島)である。そのうちでも最もよいのがラブアン島であろう。北ボルネオ、ブルネイ、サラワクなどは英国の植民地で

あるかあるいは保護国であり、ラブアン島はといえぱすなわち北ボルネオのそばにある。ラブアン島はもともとはプルネ

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Page 5: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

イの領土であったが、アヘン戦争(一八四〇)のころ、英国はまずサラワクをとり、五年後にはまたラブアン島をとった

のだ、そしてここを英国艦船の東方における燃料の補給センターとしたのである。むかしから、このように軍事的な機能

をもつところであったから、何千里も遠くはなれたところであってもおかまいなく、ひとすじにシンガポール総督の直轄

地としたのである、というわけである。

 ブルネイには勿論、ラブアン島互国巳ohい筈§昌にも高品位の石炭の鉱脈があった。当時、英国は蒸気機関の艦船に

よる中国貿易ないし東洋経略をさかんにおこない、ためにシンガポールと香港をむすぶ航路の中間地点に石炭の補給所を

必要としたのである。一八四六年、ブルネイのサルタンとブルックとのあいだに戦端がひらかれた。ブルネイ側の海賊行

為がその理由だった。その結果、戦闘に敗北したブルネイは、①海賊の鎮圧にかんしては英国と協力してことにあたる・

②ラブアン島を英国に割譲する、③英国の同意なくしてはブルネイの領土を他国に割譲することをしない、ということを

     (4)

認めたのである。

 こうしてブルックはサラワクの完全な主権を獲得することになる。また、英国に凱旋したかれはナイトの地位に列せら

れ、同時にラブアン島のガバナト、およびブルネイほか独立の部族にたいする総領事に任ぜられたのである。一八六〇年

代までにサラワクの領土は、もとのブルネイのサルタン領の幾層倍にも達する拡大なものとなっていった。その間、ブル

ックが領土拡張のための策略として常に用いた武器は海賊の鎮圧ということだった。ブルックの生涯は波乱にみちたもの

であったが、その評価には殿誉あいなかばするものがある。あるものはかれを英雄視して称賛する一方、あるものは極悪

非道これにすぎるものはないとみるのである。しかし、ブルックはサラワク経営にその私財のすべてを投入していた。か

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Page 6: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

れの死にさいしその賛美者たちの財政的援助がなければ、サラワク国は破産していただろうといわれている。ブルックの

死後サラワクは甥のチャールズ・ジョンソンが相続するところとなった。しかし、第二代ラジャのチャールズ・A・ブル

ックO富忌ω〉三げoξしd80犀①(一八二九-一九一七)の治績は初代の白人酋長、,≦臣8幻◎冨、.の名声のかげにあって

         (5)

知られることが少ない。一方、ブルネイでは内乱が続発し、一八七八年には、ついに英国の保護領となったのである。

 一九四一年までのサラワクの政治はブルック家による慈恵的専制政治だった。サラワクの人民の、とくに∪昌鋳族の

福利がその主要な関心事だったのである。このためサラワクは切o∋800ヨ冨ロ鴫をのぞいては、他の外国の企業に開放

されなかったし、土着の民にかんする限りいかなる干渉も行なわれることはなかった。ここからはサゴ、胡椒といった物

産が輸出され、若干の金鉱採掘も行なわれていた。だが、石炭のような鉱物資源の充分な開発利用は、一定の規模をこえ

る移民を禁止したことにともなう労働力の不足によってさまたげられていたのである。一九四一年九月十四日に採用され

た新しい憲法は、それまでのo。ロ只①ヨ。Ooロ琴臨をして幻潜冨の執行機関たらしめる一方、閑①冨のみが有する立法の権限

もOo巨亀20σqユの助言と同意によって行使されると規定した。しかし、この憲法による統治は、三カ月後に太平洋戦

争がぼっばつし、日本軍がサラワクを占領したことによって中断されることになる。戦後、サラワクの荒廃はひどく、ブ

ルック家の力ではサラワク復興は到底不可能であった。一九四六年五月一七日○◎8昆2①αqユはサラワクを英国に割譲

するという内容をもった>90hO①ω匹88昏①Udユけ冨ゴρoミロを一九票対一六票をもって承認し、サラワクは英国の直

          (6)

轄植民地となったのである。

 サラワクもまた東南アジアにおける他の諸国の例にもれずマルチ・レーシャルな社会である。サラワクの人口の種族別

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サラワクの政党制について

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サラワクの政党制について

     (7)

構成は、第一表によるごとく、中国人〇三器ωo』=・一%沸 マレー人’ζ巴亀ψ一七.五%、海ダヤヲ入ω$∪昌時三

一・五%、陸ダヤク人ピ雪傷U塁爵七・八%、メラナウ人竃①冨昌’9ロ五・九%、その他六・二%である。この構成の特

徴は土着民のうち最大の人口を占める海ダヤク人と中国人の人口が殆んどあい伯仲しているということである。この事実

はサラワク自体にとっては無論のこと、全体としてのマレーシアにとっても政治的、社会的に重要な意味を有するものま

なるのである。

                                                バン

 しかし、こうした中国人コミュニティも、さらに出生地および言語に関連して、いくつかのサブ・グループ(稻)にわ

  (8)

けられる。そしてサラワクに住む中国人のうち最大のグループは客家出躊臣であるが、このグループはとくに第一省

国【曾U三ωδ昌に多い。次に人口の多いグループは福州国o。90≦であるが、かれらは第三省目三aU三ωδ昌に居住

するものがとくに多く、たあにシブωまロの町は別名.、Z①≦閃oogo≦..新福州として知られるほどである。かれらはま

光第一省のサヲワクの首府国ロ。三昌σqにも居住し、その多くは建設業に従事する。国ロ。三昌σqにおいて漁業に従うものの九

六%は福建省団ロ匹①昌の興化県ω凶魯巻コω三9から移住してきた興化幕国。コσqげ轟08εである。これにたいし福建省

の南部、泉州・潭州方面、厘門方面から移住したものは福建箒出o醇冨つと呼びならわされているが、多く輸出入業をい

となむ。青物商や雑貨商を生業とするグループは主として潮州人目Φooげ宣である。この他サラワクには広東人、海南島

人ももちろん居住している。サラワクの中国人の多くは都市部に居住しているが、だからといって、すべてのものがそう

だとばかりはいえない。たとえば第一省におけるゴム園の農業労働者の殆ど全部は客家なのである。

 サラワクの中国人コミュニティに対してなされている批評は、東南アジアの他の諸国における中国人にたかしてなされ

(297)95

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サラワクの政党制について

ているそれと同様のことがらである。つまり、かれらはかようπ移り住み何世代も生活を営なむようになったその国にた

いし忠誠心をもたぬばかりか、どこまでも中国を自らの忠誠心の対象としてみている、ということにつきるようである。

だから、かれらにたいする批判のなかでよくきかれることだが、かれらは移住し来たった国の富を不当にもかれらだけで

ひとりじめにし、しかもそれをかれらの本国である中国に送金してしまう、だが、このことは全くサラワクの犠牲におい

てのみ可能なのである、とか、このようにしてもうけた金で土着の民よりもずっと立派な教育をその子供たちにだけほど

こしているとかいう不満は、みなてれのディフォルメなのである。こうした中国人の非・同化的性質はかれらが移住して

来た土地をぱ、ついにはかれらの国の一部としてしまうのではないかという恐れから、土着の民と同等の市民権や均等の

チャンスをかれらに与えまいとする原因となっているのである。

 ネイティブのうちで最も数も多く重要度の大きい集団は海ダヤクω雷U9・饗屠である。かれらは多く農耕に従事七、第

二省ω08巳U三ωごロおよび第三省に集中的に居住する。本来かれらは内僅の民であって、かれらを呼ぷに海ダヤクとい

う名称をもってするのは、ふるくからの誤認にもとずくものである。それゆえ、かれらをイバン族Hげ壁と呼称する方が

 (9)

正しいという。この海ダヤクたちのコミュニティは比較的、均質的なものである。かれらはふつう程度以上の知能を有し

すぐれた文化を保ち、使用される言語もその下部集団のあいだで相互に通じあう。だからサラワクの冨怠くΦ冨コσq轟αq。はイ

バン語であるといえる。海ダヤクの居住する地域の学校では低学年のクラスはイバン語を用いて教育が行なわれている。

 人口数の大きさでは第三位に位置するマレー人竃巴・。器は、通常、市街地や海岸線ぞいに居住する。マレー人のボルネ

オにたいするむすびつきはふるい。したがって、マレー人とメラナウ人とのあいだの結婚はふつうに行なわれる。また、

96(298)

Page 10: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

ザラワクの政党制について

生まれた子供は回教徒となりマレー人とみなされるために両者の区別は次第に判然としなくなっているα7レー人人ロの

三分の一は国ロ畠言σQに居住する。これにたいし、メラナウ人は多く第三省と第四省司o二腎ず∪三。・δ昌の海岸線ぞいに居

住しサゴ労働に従事する。陸ダヤク冨民U亀舞はその数からいえばマレi人に次ぐ種族であるが、その人日増加は近

     (10)

年とみに著しい。主として第一省に居住する。このほか、 一九六〇年の国勢調査で土着人としてかぞえられた種族には

ロd

u曙9。”目巴曙9。P國o巻コ嚇胃①ロ旨互函o冨げ豊竃ロ噌葺”℃ロコきなどがある。

 さて、ω費9をp。閃㎡閑o唱o詳8H昏o緒①潜ひH㊤①b。”はサラワクの教育事情について次のようにのべている。

  政府の教育政策における二つの主要な目標は、 (第一に)ネイティブと中国人とのあいだの教育水準のギャップをう

 ずめることであり、つぎには過去において発達してきたさまざまな学校体系を、共通のナショナルな体系にするという

                                        (11)

 ことでみった。一九六二年においては、これらの二つの目標達成にむかう長足の進歩がみられた。       ・

一九四六年当時、ネイティブと中国人とのあいだの教育水準のギャップは、はなはだしきものがあった。この頃、中国人

                                             マ ン ダ リ ン

の側はすでに二つの学校体系をもっており、しかもそれらはよく発達したものであった。すなわち一つは標準中国語を用

いて教育を行なう小・中学校の体系であり、しかも、これらはそ・れそれの地域の中国人コミュニティから選ばれた委員会

によって管理運営されるというものであつた。これと別の体系はキリスト教団によって運営されるところの英語を用いて

教育をほどこす学校体系であった。一方、ネイティブにたいする教育を行なう学校は全く存在しないといってよかった。∴

政府はマレー人のためにはマレー語を用いて教育をほどこす小学校をひちいていた。しかしこれとても、中等教育のいか

なる形のものであれ与えるものではなかったのである。             ’

(299)97

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サラワクの政党制について

 こうした教育機関の整備状況のアンバランスが生む結果はおのずから明らかである。一九四七年当時、海ダヤクの九八

%は文盲であった。全土着民三九五、四一七人のうち、ケンブリッジ受験検定証を有するものは唯一人(マレー人)であ

                    (12)

り、卒業せるもの皆無という状況だったのである。しかし、一九六一年の終りまでに六〇〇校の小学校がネイティブのた

みに開設された。一九六二年中には、さらに七〇校がひらかれた。加うるにキリスト教団によって運営される小学校は一

≡校をかぞえるにい匁拶・これらのネイテ・ブのための学校は・低学年クラスではマ・詣、イバ・語が用いられる

のを別として、英語を通じて教育が行なわれているのである。

 かくてサラワクは多くの難問に当面しているというのがその現状であるといえるわけであるが、とりわけ解決をせまら

れている重要なことがらは、コミューナルな関係のなかに存すると思われる。八〇万人のサラワクの住民たちは、単に人

種、宗教、言語でわけられているのみならず、それぞれの境涯によっても分かれているというのが事実なのである。市街

       ウ ル

地に住むものは奥地に生活する人々の直面している困苦を理解することは少ないし、ネイティブたちは中国人の胡椒栽培

者や小商人たちの当面せる問題にたいし決して共感をもつことはない。こうした境涯の相違からくる相互理解の欠如は、

                                       (14)

それぞれのコミュニティに特有の、かつ競合的な性質をもった、.冨菖o冒房ヨω-.を生み出すことになるのである。たとえ

ば、中国人コミュニティは、他のコミュニティの実力を低くみて自分たちより優れているものはないという意識を強く有

するし、マレー人コミュニティは、自分たちこそがサラワクの政治的・社会的相続人として正当なものだと考え、非・マ

レi人コミュ一サティに允いする露骨な侮蔑感をしめすのである。さらにダヤク人もま虎そのコミュニティ特有のダヤク・

98〈300)

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サラワクの政党制について

ψ

ナショナリズムをもっているといわれているのである。・

                                                           oo

 サラワクでは、、木イディブたちが中国人にたいし信頼感をもっていないのはふつうのことであり・かれら中国人たち ー

がサラワクの経済的発展に寄与七てきていたという事実を正しく評価することはしないのである。とはいえ、サラワク

はいまだに近代的運輸通信機関の欠如、産業化不在と原始的破滅釣農耕法の採用、鉱物資源の澗渇、千古斧鍼をいれぬ

密林と沼沢をその特色とするのである。そこから、いかにすれば最善の経済開発が行なえるかがoっ碧餌≦艮≧=碧8政府

の当面する課題となり、コミューナルな緊張関係に発する政治的危機もまたこの問題をあぐって複雑化するといえるので

ある。                         「、・

註(1) <凶08【℃目8=…ζ四冨団ω剛P一〇①9℃.H$°

 (2)塗ρ℃°δS            °

 (3) 孫然、「南洋新話」、一九六〇年、二七頁~二八頁.

       ゐ

 (4)≦。8『℃98=噂勺゜H①9

 (

T)サラワク最後の、そして第三代目のラジャはO冨号的く旨臼06『8冨(H。。刈蔭~お忠)であった。かれの対英割譲の決心は、ブ

   ルック家支配の下にあって有利な地位を享受していたマレー入たちによって反対された。割譲反対運動が数年続いたのち一九

   四八年に英国人ガバナーの暗殺という事態がひきおこされたのである。                     ・

 (6)≦。§ぎ『8拝即H①゜。°

 (7) 円9↓「Φσq。昌目凶昌αq…ぎ一国鴫ω一固””畠ω言oq騨8同。魑,.お①ρ,漣・より転載。さらに詳しいものとしては、旺oヨ国碧ユ8昌.即↓冨

   聞8巨①ωoh留冨≦ロ置H㊤09を見よ。

     パン

 (8) 「蒲」については、内田直作、「華僑」、東南アジア開発選書2、鹿島平和研究所編、一五〇頁~一五二頁を参照せよ。 「摺」

   というのは集屈の意味であり、元来、鵜助とか湘互扶助に由来する語である。その牲質億華僑の地縁関孫社会集岡であるという

〈302)

Page 14: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

  ようにいえる。内田氏による「蒲」の分類は次のとおりである。・       e

  北糟11東北、華北の諸省、山東省人が多い。

  三江輌(ψ四ロー}(一”昌oq)11江蘇、漸江、江西、安徽の諸省、揚子江下流の上海に本拠をおくもの。

  福建蒲(国O評臨o昌)11福建省南部の泉州・潭州方面の慶門を中心とする集団であって、通常、次の同省北部の三集団はふくめな

   い。だが、別に福建省全部を包括する集団名として使用される場合もある。

  福州鞭(=O犀o巨ロ)踊福建省最北部の福州府の集団、「三山蒲」とも別称するのは福州城内に鼎立する三山に由来する。

  福清穏(出oぎ三国)湘福建省北部の福清県の集団。

  興化輌(閏窪αqゴ≦曽)11福清県に南接する興化県の集団。

  広府蒲(}(≦O昌αq・h口)11広東省広州府の集団、別に広州府北部の肇慶府をもふくめて「広肇帯」という場合もある。

  潮州幕(↓80三ロ)11広東省潮州府の集団、別に福倦11出o匹oωともいう。

  客家瀞(蕾冒冨 囚『①げ    讐)11広東省東北部の山岳地帯から一部は福建省西北部の永定県方面に散居する集団。

  海南(猿)蓄(出巴昆昌Φωρ出拶一冨3)11錬州府の海南島出身者集団。

  広西帯(区≦8αq出凶)11広西省出身者集団。

  なお内田氏は、これらが東南アジアで慣用される華僑の地縁による出身地別集団の分類であるとしつつも、かれらの人的結合

  の集約度が南下するにしたがってますます緊密化することから、福・広両省の集団はさらに細分化されるとし、次のように指摘

  している。つまり、福建蒲は泉州報、潭州箒、さらに村落団体として林東社(村)、新江社などに、また広府蓄は三邑(南海・

  番萬・順徳の三県)幕、四邑(台山・新会・恩平・開平の四県)葡に、そしてさらに、四会・新寧両県合同の会寧畜、鶴山県・

  中山県などの県別に細分化され、客家報は恵州客家、嘉応州(梅県)客家、大埴(県)幕(別名茶陽蓄)などに細分化されると

  いうのである。そして東南アジアにおいては、福広の両幕が華僑の大半を占めており、他の北・三社・広西の各幕はマイノリテ

  ィに属するといわれている。以上の各幕は「会舘」を組織して、福建会舘、三山会舘、広東会舘、茶陽会舘、疎州会舘、三邑会

  舘等のごとく、姓氏団体と同様、相互扶助的団体として機能するわけである。

(9)≦99勺霞8F℃°H①b。°

(10) 一三住4”り①ω゜に陸ダヤク人の人口調査の結果として、一九三九年の三六、九六三人、一九四七年の四二、一九五人、一九六

(303)101

Page 15: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワグの政党制について

  ○年の六〇、八九〇人という数字があげられている。

(11)宣畠゜”.即H①ω゜より引用。

(12) 写準噛勺゜δ幽゜

(13) 一ぼ匹゜

(14)ρ〉・い8導固a…国三。ρ灯臼8呂蒙①ω9巳9巨の℃。ま。ωぎω卸「国番貫ピロヨ90楠9暮ゴBωけ〉器口属冨8§蜜胃。戸お①8

  ”H一Pなお、ピo簿冨aは“ナショナリズム”という語を留保つきで使用するとし、次のように説明する。(一三α゜脚註)。それは

  古典的な意味における“ナショナリズム”というよりむしろ中国人で“ある”ことだったり、また、マレーシアの実在要素たる

  ことから疎外されたもの、という感情なのである。マレー人の場合は、この一体感という感じを分けもっており、加えて、マレ

  ー人指導者たちが達成したことにたいしプライドを分けもち、また集団的優越感や連帯感という感情を互いにもっている。ダヤ

  ク人にとって“ナショナリズム”とは、ロング・ハウスにたいする伝統的な忠誠心が転換されてサラワクにたいする忠誠心とな

  ったということを意味し、他のダヤク族との同施意識という感情を意味する。

(二) マレーシア成立前後におけるサラワクの政治過程

                  (1)

 シンガポールの中国人たちがマラヤ連邦国巴臼豊80hζ巴醸β。と結合することを望んでいた一方、連邦のマレー人指

導者たちのあいだにはこれに反対する気運が強かった。尤も、かれらはシンガポールのみならず、他のどの地域とも結合

することに賛成ではなかったといえるのである。その理由ははPきりしていた。さきの第一表に示されるごとく、マラヤ

連邦のみの人口構成をとってみれば、マレー人は五〇%、中国人は三七%、インド人等一二%という比率で、この国にお

けるマレー人の数的優越はあきらかである。bたがって選挙という観点からしても、当然マレー人が多数派となり有利な

102(304)

Page 16: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

地歩をしめることができるわけである。ところが、かりにシンガポールがマラヤ連邦と結合したとすると、そのときの人

口構成は、 マレー人四三・一%、中国人四四・二%、インド人等一〇・七%となり、この利点はたちまち消滅してしま

う、というものであった。

 マラヤ連邦の首相目§ざ〉区巳即9巳雪は一九六一年五月二十七日にシンガポールでマレーシア構想を明らかにし

たが、そのときかれは次のような発言を行なっていた。 「・…㎏シツガポールは中国人が支配的であり、当然の成行きとし

てその国を小中国に七ようとしているが…:・マラヤは孤立してやっていくことはできないことも知っている。早晩マラヤ

億英国、シンガポール、北ボルネオ、ブルネイ、サラワクと一つの諒解に達しなければならぬ。いま、私にとってこのヨ

リ緊密な理解がいかにすれば達せられるかをのべるのは時期尚早ではあるが、しかし、われわれはこの目標をみつめ、こ

                                                 (2)

れらの領域の政治的、経済的な協力という点でのヨリ緊密なプランを考えるのは、避けることのできないことである」。°

                                                 (3)

このラーマンの示唆の中で注目すべき点は、かれの提案するマレーシア構想のなかにボルネオ地域が含まれているとい

うことであった。間もなくラーマン首相乏、」ー・クワン・ユーい①o閑§コくΦ≦シンガポール首相の二人の間に、併合

に関する一般的な一致が得られることになる。そして次の段階として残された問題は英国政府との接渉であった。当時、

ボルネオ地域にたいする決定権は、依然、英国政府の手中にあったからである。一九六一年十一月、ラーマン首相はロン

ドンで悶巴①冨けδ昌ohζ巴餌誘冨(マレーシア連邦)を生みだす道すじとなるべき協定を英国との間にとり交した。翌一

九六二年七月十六日、英国政府とマラヤ連邦政府の双方は協伺して次のような構成の委員会を任命した。すなわち、

Ooげげo匡卿を委員長とし、ほかに二人の英国人メンバーと二人のマラヤ連邦のメンバー(うち、一人はマレー人で他の一

(305)103

Page 17: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

人は中国人)からなるというものであった。この委員会の任務は、提案されている併合問題に関し、北ボルネオ(サバ)

とサラワクの住民がいかなる意見を有しているかを確認するというものであβ・

 O。ぴσ。匡委員会の報告は、まずはじめに、サラワクというマルチ・レ:シャルな社会における最も基本的な問題は、そ

れがかかえ民・多数の種族のあいだの関係で動響としてい・・それまで・サラワクにおける異三ミニティのあい

だの関係は一応うまく運んでいた。一方における土着の民と、他方における移住種族つまり中国人は、それぞれ別々の道

をあゆんでいたし、また全員がそういうやり方に満足していたからである。しかしながら、このような事態は英国が政治

権力を保有していたかぎりにおいて存続することができるという性質のものであった。だから、なんらかの形であれ、権

力移譲という問題が日程にのぼってきたときには、それを契機として種族間に葛藤がおこるであろう、と委員会はみてい

たのである。つまり、委員会の考え方はこうであった傷サラワクの土着の民たちが、自分たちは経済的におくれをとって

おり、移住し来たっ゜た中国人という他民族に対抗して、充分競争できる立場にはいまだいたっていないと感じているその

ときに、移住してきた方の種族による政党創設(後述)というような権力追求の動きが早くも開始され、その結果、政治権

力も移住種族の中国人とわけもたねばならぬことになるとしたら、もともと経済力におけるアンバランスから生ずる社会

的ひずみに加えて、サラワクには人種間緊張が増大するだろう、というものであっ・た。事実、こうしたサラワクの政治・

社会状況は、マラヤにおける政府が強い反共姿勢をとっていたということから、ますます悪化の一途をたどっていたので

ある。

 一方、人口数からいっても、教育の面からみても、ネイティブに較ぺはるかに進んでいた中国人たち億どう考えてい允

104(306)

Page 18: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

であろうか。かれらは、もしサラワクに独立の機会が到来したときには、その国におけるかれらの地位には確固たるもの

があると信じていたのである。だから、かれらにしてみればマレーシアという計画さえなければ、独立サラワク国におけ

る指導的な地位は、政治面におけるものであれ経済面においてであれ、完全に中国人の占めるところとなったであろうも

のを、マレーシア提案はこうした中国人の思惑を微塵にうちくだくものだと考えたのである。たしかに、マレーシア提案

がこういう中国人たちの期待感を葬りさってしまうだけのものであったとしたら、多数の非・共産主義的立場をとる中国

人の挫折感の上にのって、共産主義信奉分子たちが、中国人コミュニティのなかでゆるぎない地歩をかためることになり

かねないかもしれなかった。事実これらの分子は、マレーシアという構想は全体としての中国人コミュニティのみなら

ず、その他の土着人のコミュニティまでも、マレー人の貴族の支配に服せしめる計画なのだという宣伝をたえず行なって

 (6)                                                       (7)

いたし、とくに中国人学校で教育をうけた多数の中国人青年の感情の上にのってその作業がすすめられていたのである。

他方、マレー人と他の土着民との間の関係にはイデオロギー的色彩の存在はなかったといえるけれども、過去におけるブ

ルネイ支配の不幸な追憶が残存していた。したがって新連邦の成立は、マレー人という他の部族の支配を再現するものだ

という恐怖をよんでいた。新連邦の国名がマレーシアとなるであろうということや、マレー語が国語となるだろうという

                  .                        (8)

こと、および回教が国教となろうといったことなどが、この恐怖の念をさらに深めていたのである。    .

                                             (9)

 マレーシアという計画そのものは、サラワクに住む多くの中国人の心をとらえるものでは決してなかった。サラワクの

中国人の考え方は、マラヤやシンガポールの中国人の大多数のものの見解と軌を一にするものではなかったのである。お

                              (10)

そらく、今日においてもなおそれは異なるものといえるであろう。別稿においても指摘しておい大ように、マラヤとシン

                                           ρ

(307)105

Page 19: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ガボールにおける選挙が、それぞれ〉毎曽コoΦ℃碧蔓と℃①o℃げ.ω》昆9も碧蔓(℃°鋭づ)の勝利に。終ったということは、

双方の中国人コミュニティにおける有権者の大多数がマレ」シア計画を支持したということを意味する。だが、ボルネオ

における中国人有権者については同様のことはいえない。後述するようにω9。冨≦鴇d巳8山℃Φo見Φ.ω℃国詳鴫(ω゜q°℃°”)

は、その名称にも拘らず、本質はサラワクの中国人の圧倒的な多教の支持をえている中国人党であり、つとにマレーシア

計画にたいし反対の態度を表明していたのである。サラワクにおける中国人人口は、サラワクの総人口の約三〇%にしか

すぎぬ。これはシンガポールにおける七五%に遠くおよぜぬのは勿論噛マラヤにおける三七%にもおよぷものではない。

そこに、この地の中国人たちが他の種族と協働してやってゆこうとするほど充分な安定感をもつにいたらない理由の一つ

があると思われる。

 サラワクの中国人たちがマレーシア計画に賛成しなかった別の面の理由としてさらに次のようなことが考えられる。お

よそ、サラワクはブルック家の領土であること一世紀におよんだ。そしてそれはかなりの規模を有し、また理論上は独立

の一国家であった。戦後ブルック家は主権を英国皇室に譲りサラワクは英領植民地となった。しかし、サラワクが戦争の

荒廃からたちなお・たときには再び自治を求ある・とができるだろうという期待が重には最初からあ釜のである・サ

ラワクにおける中国人たちはこの見とおしを歓迎していた。すなわち、非・中国人の大多数が、依然、原始的なレベルに

とどまっており、社会的発達もおくれていたサラワクでは、°・もし自治をとりもどすことができたときには、つまり、独立

サラワク国が実現したあかつきには、中国人がその国の政治生活を支配するのは容易であろうと予想して較珍拶からであ

る。そのとき、かれちは長かった英国支配からのがれることができようし、°特従中国人の移住を許さない移民法の修正を

106(308)

Page 20: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

することも、勿論、できるであろうと期待していたのである。サラワ〃では良質の労働力が不足していた。だから、中

国本土からの移民は、さしあたり急には望むことができないまでも、現在、群をなしてひしめいている香港からは、多

数の同胞を移住させることはできるであろう、といったことを、サラワクにおいて産業や実業に従事する人々は考えもし

また強く望んでもいたのである。ところが、マレーシア計画は(これらの人々の希望も期待も粉砕してしまうことになっ

た。第一、新連邦における一支分国にすぎぬものとなろうサラワクから、しかも、中国人の立場から、かれらの利益にな

るような立法の発議は到底のぞむべくもなかったからである。マレーシア連邦という新政治体制は、サラワク在住の中国

人にたいして重くのしかかる存在になるだろうこと必定であった。かくて、中国人コミュニティの不満と失望を集めた

ψ9”℃は、独立サラワクを求める中国人の運動を受けとめる器となり、また、かれらの反・マレーシア計画という社

会心理のなかからそのエネルギーをえることになったのである。

 サラワクにおいては、中国人にたいする不平等な政治的とりあつかいをもたらしたものはマレーシア計画だ、というこ

              (13)

とが何処よりも鋭く感じられていた。たとえば、マラヤでは十九世紀の初めごろから中国人が定住しはじめていたが、か

れらはその国の政治的主人はマレi人の伝統的支配者たちであるということを最初から認識していた。その後、マラヤに

英国の宗主権が確立したとき、この西欧の政治的主人にむかって挑戦することは、なおさら馬鹿げたことであることを知

っていた。だからマラヤにおける中国人たちは総じて低い地位に甘んじ、戦後、独立が達成された時ですら、それは政治

的特権のうすいコミュニティたることをしぶしぶながらでも認めることになったのである。しかし、サラワクでは事情は

異なるのである。およそ、プルック家のもとにおいてサラワクは独立の一国家であっ允。なるほど英国資本に支えられ允

(309)107

Page 21: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

ザラヴクの政党制について

ブルック支配はその国を開発したαしかし㍉中国人の、万能にして勤勉な民族性に加え、旺盛な企業心が同様にこの国の

開発をす・すめる重要な要素だったのである。サラワクが英国に割譲されたとき、中国人たちは、当然のなりゆきとして、

ブルック家時代においてかれらが獲得した地位がひきつがれることになろうと期待していた。ところが、マレーシアの成

立はクアラ・ルンプールによる政治的な支配、すなわちマレー人優先の立場をとる政府による支配を意味するものだっ

た。マレーシアというヨリ大きな単位に結合することは、サラワクにおけるかれらの地位を大きく下落させてしまうこと

にぼかならなかつたのである。

 サラワクにおける中国人たちは、マレ}シアの憲法を修正して中国人の利益を実現するよヶにすべきだというような、

              (14)

なまぬるい立場をとるものではない。かれらの考えはそのようなところにはないのである。かれらは、中国人の支配する

          ヘ  へ  も  ヘ  ヘ  へ

共和国であるところの独立サラワクを欲しているのである。戦後、荒廃した国を再建することができなかったブルヴク家

が、ザラヴクを英国に譲ったという事実が、さらに英国をしてこれをマレーシアへ譲渡する権利を得しめた理由だという

ごとを、ここの中国人たちは否定するのである。かれらの論理はこうである。ブルック家が去る以前それは一つの独立の

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

国家であった、それゆえにサラワクは独立国たるべぎなのだ、というのである。

・こうした中国人の論理はサラワクの政治過程を考察するさい、充分、傾聴に値いするとρ即国訂○①邑畠はいってい

                   (15)

る。かれの説くところは、・すなわちこうである。がりに、サラワクが独立していたとしたらどうであったろうか。独立せ

るザラワクは近代的世界一のなかで到底生き一のびる力をもっていなかったであろうことは明らかである。プルック家はこの

ことを知っていた。だからこそ、ブルッグ家はサラワグの主権を放棄し、それをヨリ大巻な単位に結合させねばならなか

108(310)

Page 22: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ったのである。それゆえ、たとい、独立サラワクが実現したとしても、そしてサラワク在住の中国人が、かれらの思惑ど

うりその国の主宰権を握ったとしても、まもなくサラワクは自力で生存し続けることができなくなったであろう。そのと

きかれらは何処に援助を求めるであろうか。かれらは中国人であるからして、結局、中国本土のさしのばすであろう支援

を受けいれることになりはしまいか。とするならば内そのときサラワクは、事実上、新らしい中国の海外領土ないし保護

領となるわけである。そして、こういった筋書きは西欧諸力の賛成しえぬ最たるものであったろう、と。

 実際、ザラワクにおける左派の中国人たちは、インドネシアのマレ弓シアにたいする.、Ooロ蹄8冨け凶o晃.政策がすすめ

られていたとき、これを最大限に利用してマレーシア体制を揺り動かし掘りくずそうとしていたのである。勿論、それは

インざネシアの利益のために行なっていたのではない。かれらが達成しようとしていた目的は、第一にマレーシアという

統治体を顛覆させ、ついで、ありうべき中国の支援をえて、かれらの欲する国家を設立することにあったといえるのであ

る。 

            (16)

 さて、Ooげぴo匡委員会が報告したことは、サラワクと北ボルネオの住民の三分の一のものはマレーシア連邦成立に好意

をよせている、また三分の一のものはある保障があたえられるなら新連邦をうけいれるだろう、そして残りの三分の一は

独立を望んでいるもの、あるいは英国の統治の継続をのぞんでいるものにわかれる、ということだった。そして、ついで

委員会のなした勧告の大すじは次のようなものであった。①これらの地域の将来にかんする原則の決定はできるだけすみ

やかに関係を有する各政府によってとらるべきである、②マラヤ連邦の現在の憲法が新連邦の基礎となるべきである、③

誰が連邦の元首として選ばるべき資格を有するかにかんしては委員会は未決とする、④連邦の名称はマレーシアたるべき

(311)109

Page 23: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

こと、⑤宗教に関しては、委員会のメンバi間に感情的なたかぶりがあり相違が生じた、、すなわち議長および英国人委員

はボルネオにおける宗教、教育および理念の宣伝は完全に自由であるべきだとし、一方マレー人委員は、回教を連邦の国

教となすべきだとした、⑥言語に関しては議長および英国人委員はマレi語と英語を公用語とすることが望ましいとし

た、マレー人委員はマラヤにおけるごとくマレー語が公用語たるべきを主張したが、英語もマレー語とともに併用され少

なくとも一〇年間、公用語たるべきを望んだ、⑦移民規制権は連邦中央政府に残さるべきこと、等であった。このほか、

委員会はボルネオ地域における住民の国籍に関して次のように勧告していた。つまり、マレーシアが成立するにいたった

時点において、サラワクないし北ボルネオに居住せる住民で、それに先だつ十二年間のうち八年間をそこに居住していた

ものは、マレーシアの市民として応ずる資格をもつべきである、とした。委員会のこのような勧告はブルネイにはかかわ

りがなかった。ラーマン首相は個人的にブルネイを訪問し、かれのマレーシア提案にたいするω巳3昌凶ロOoロロ色の満場

                                     (17)

一致をえた。°しかし、これに反対するブルネイ住民の一セクターが叛乱をひきおとしたのである。

 一九六二年八月には英国とマラヤの間に、マレーシア連邦の成立は一九六三年八月三十一日を期して行なうというとり

きめができた。しかし、こうしたマレーシア創設にたいするインドネシアの敵対心は次第に露骨なものとなり、Ooげげo匡

委員会がサラワクと北ボルネオの住民はマレーシアに結合するのを望んでいると報告したとき、困ン下ネシアはサラワク

およびサバの住民の見解が確かめられていないということを理由としてこれに反対した。てのインドネシアの主張に光い

し、マラヤとシンガポールは英国政府の同意をえて、国連代表がサラワクとサバを訪問し、その地域の立法者たちが世論

を適確に反映しているのを確認することができるまで、マレーシアの宣言はおくらせるべきだ乏いう意見の一致に達し

110(312)

Page 24: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

:サラワグの政党制について

た。これらの領域を訪問した国連代表は、その立法者たちが世論を確認していたこと、および住民の意見は連邦創設を望

んでいることを報告した。よって一九六三年九月十六日、マレーシア連邦が成立する運びとなったのである。

註(1) 層マラヤ速邦は一仇五七年に独立七た。それは℃o罠『ωo冨長oひ望oσqユω①ヨげ蕾P国冨ロσq層Hoげo『ρ円o匿茸国oド茸四P目賊o昌゜qσq帥…曽

   ℃o忌ω”勺。昌雪oq”§貯。$の十一州からなるものだった。戦後のマラヤの政治過程については、拙稿「マレーシアおよびシンガポ

   ールの政党制について」濁明治大学社会科学研究所紀要第七集(創立十周年記念号)所収、に詳述した。とくに六二頁~六六頁

   を参照のこと。

 (2) ≦08門勺自8拝勺。ド◎。S

 (3) ラーマンがボ弛ネオ地域を愈あようとし実政治的理由には、積極的、消極的の二様のものがあった。この点については、拙稿

   前掲論文、七六頁を滲照ぜま。 “:

 (4)≦。§2門8F電゜巳゜。~Hゆ劇゜

 (5)量α.》勺し㊤駆゜

 (6)冒q‘℃°ちO°

 (7) 一窪αご℃勺゜μ㊤㎝~おO°

 (8) 目匡↑”即HOSなおρ}ピ8写碧畠は次のようにいっている。「マレーシア流のナショナリズムとサラワク流のナショナリズム

   の主張とのあいだには’さまざまな葛藤がある。クアラ・ルンプールはマレーシアとの民族的-一体感を醸成しようとしている

   が、サラワクの市民は依然、自らを呼ぷに”留δ壽ζきサラワク人”といっている。マレーおよびマレー人の支配を恐れるこ

   とは、経験からしても否定できるどころのものではない。マレー語をサラワクの国語として導入しようという中央政府の努力は

   首席大臣の燐ンカンU舞oZぎσq冨昌の反対にあった。のちにかれが公職を剥奪されるというまでにいたったところの、中央政府

   とニンカンとの仲違いは、恐らくこのことが与って力があった。また、サラワクでは回教徒が人口の二〇%にも及ばないにもか

   かわらず、、功央政府が回教(という国教)をボルネオにまで拡張する計画があるのではないか、という恐れも存在している。」

   §【ユ。ω・溜【8昌餌咽三。溜ロ昌含門一ω一ω勺。言。ω一昌ω国門四順・。犀・喜B;朝旦奮・;・ぎ国ぎヨ§具ま刈菊二ω)そして迷ら

   北、ラコ㍗ツ僧湘が一九⊥ハ六茸二凋肥サラワクを訪問心允ときうっかりしてこの恐怖心を助長したこととして、ラ!マンがその

(313)111

Page 25: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

  訪問中、数個の小さな回教寺院にたいし十万マレードルにあがる下賜金をあたえ同時に凶言三昌αqにおける新設の竃量匡ω。器塊

  にはそれを大きく上まわる多額の連邦下付金をあたえたにも掛らず、非・回教寺院にたいしては総額で十万二千ドルしか与えな

  かったことをあげている。(守5”勺゜旨G。°脚註参照。)

(9)O°即実NO。邑8臣①↓=円島〇三昌勺・Ob。・

(10) 拙稿「マレーシアおよびシンガポールの政党制について触明治大学社会科学研究所紀要第七集(創立十周年記念号)所収、

  五五頁~九四頁。

(11) ρ℃°コ言Oo♂耳勺゜Oq。°                   ・’

(12) 一三α゜

(13) ぎ5”℃°㊤①゜

(14) ぎ苓’喝℃°OΦ~㊤S

(15) コ苓り℃°OS

(16) ≦08門剛昌8冨”℃℃°Hミ~δo。°

(17) 従来、マレーシア連邦という提案にたいする反対運動は平和的な形態をとっていた。しかし、一九六二年十二月八日、守ヨ8

  Z翁。ぎ昆一〉§鴇と自称する一組織が革命をおこしブルネイのセリアω①円冨にあるオイル・センターを占領し、ついで不成功に

  終ったもののサルタンの宮殿に攻撃を七かけたのである。切旨口皿ω冨亭9一〇◎日忘畠の社員たちが人質としてとらわれた。まも

  なくこの事件の背後にはブルネイの左翼党剛8豆o、ω℃9。円蔓(℃四同件鴇 国凶.Q楓蝉け)が関係していたということがわかった。この党の指

  導者は9客〉鑓冨二だった。かれは革命と同時にマニラから宣言を発した。つまり、この事件を国連にもちだすために、自

  分はアメリカにむかう途中であるとのべていた。英国陸軍、グルカ兵および英空軍の軍団が海軍の支援の下にブルネイに迅速に

  出動した。十二月九日にはセリアは解放され、空港は十二月までに奪回された。そして十六日の日曜日までに革命は終焉した。

  十二月十一日のクアラ・ルンプールの議会で、ラーマン首相は次のようにのべている。アザハリはブルネイ、サラワクおよび北

  ボルネオという三つの地域を外国の支配にゆだねようとしたのだ、と。アザハリはマラヤ連邦におけるoo8芭韓零o馨および

  シンガポールの浮「密ロ9。凶巴冨に蜜接なつながりをもっ.て治り、その革命軍はインド木シア領ボルネオで訓練をうけ武装した

  といわれている。

112(314)

Page 26: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

(三) サラワク似政党政治の実態

(315>

サラワク.の政党制について

 マレーシアの成立はサラワクの政党制にたいして新ちしい局面をもたらすことになった。第一に特筆すべきことは、そ

れまでに乱立してきた政党群の統合が行なわれたことである4すなわち円暮閃ロ》げα巳幻9。『日雪 の率いる竃巴餌巻昌

》島き8℃鋤n《の亜流ともいえるω碧国≦鋳≧ぎコ8の形成、および一九六三年六月選挙における同党の勝利がこれであ

る。第二にはこのω曽冨≦9。屏≧=碧ooのほかに、さらに二つの新らしい政党が出現したことであり、第三には》=冨昌8の

内部において、これを構成する諸政党のあいだの権力闘争が激化、一九六六年六月に危機的な状況にまで達したこと、お

よびω゜d°”勺の内部葛藤である。以下、順をおって述べることにするが、まず初めにサラワクにおける諸政党の発生

過程およびその指導者たちの概略にふれておきたいと思う。なぜなら、サラワクの政治の理解に資する基本的なものがそ

こに存在すると考えられるからである。                                   響

(1)

§・サラワクの諸政党と指導者たち

ド①ω碧笛芝傍。屏d三8山,℃08一。.切国コ矯(ω゜d°℃°℃)

                                                      13

(この党は」九五九年六月、、「}応.マルチ・レーシャリズムを標榜して創設された。ために、創設時メンバーにはダヤク人 -

Page 27: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

  やマレー人の代表も入.っていたが、実際のηーダーおよび支持者のほとんどは中国人 であり.党の主力も市街地に集中して

  いた。一時期、党員のほぼ半数が非・中国人だったこともある。しかし一九六二年十二月におけるブルネイのアザハリ叛

                            (1)

  乱後は、、非・中国人支持者たちが同党に背をむけ離れていったのである。この党の最大の目標は、元来、英国から秩序あ

  る平和的な独立を獲得することにあった。党議長のO昌σq閑oΦ・閏三はもと農務省の役人という経歴をもつ円自〇三昌σq在住

  の実業家である。書記長には、ロンドンで法律学をおさめたω器9窪累臼団8σqが就任した。現在もなお、この二人

π は依然そのポストについている。一方、党内左派の代弁者としては国ロ。三旨σqの実業家O『餌昌oo一帥ξ出①。が知られており、

函㌦他方、・ネイティブの指導的メンバ』としては肉oξぎ-族の有名な酋長である円笛ヨ餌芝①昌σq自ロαqσq曽αq芝きが加わって

帳鼎 ’いる。こうした指導部のもとでψdゼ,℃はサラワクにおける最も組織化の進んだ政治機関となった。党はいつでも献

政の 身的な自発的な選挙運動損を何十人も動員することができるのであ届。サラワクにおける他のどの政党も、組織化の進度

クワ という点からすればこれに比肩しうるものはない。        ・  ・

 フ

サ   ψd’即℃,の本質は中国人党であるから、政府の教育政策、土地政策などをとりあげて、これらは中国人をして不利な

                        (2)

  立場におくものだという攻撃を常におてなうのである。党は体制変革を目指して地下活動を行なっている↓冨Ωm鼠oω・

  一冒0960ヨヨ匡巳ωけbおo巳鑓一δ昌(ρρO)と連絡をたもっているといわれており、党支部長などの表むき重要なポストに

  は穏健派のものが就任しているけれども、実際に組織のか掛めとなるポストはρρOのメンバーでかためられて転紀

  という。このように9d°”℃の体質が中国人党であり容共的であるということを知れば、この党の立場が反・マレー

  シア的であるということも直ちに理解できよう。すなわち、マレーシア計画は“マレー人によるサラワク奪還の試みであ

・114(316)

Page 28: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ると同時に英帝国主義の好計”ともなろうからである、しかし、ω゜α゜”憎は、もし、マラヤ、・シ.ンガポール、旧英領

ボルネオおよびブルネイなどが平等の立場で結合するというのならば、このことには必ずしも反対するものではない。だ

から、同党が反・マレーシアの立場をとっているのは、マラヤーシンガポール統合体の、人種的バランサーとしてボルネ

                               (4)

オ地域を利用しようというアイディアにたいする憤りに発するものだったといえるのである。

 ②・霊詳網20σq碧9ω碧坦芝蹄゜(勺畳》°2°》°ω) .  「° 二. : ¶  巳

 この党は一九六〇年四月に創設された。指導者はU象qしd碧住母》げきσq寓喜竃ロ゜・富℃冨である。かれは、マレー人と

しては最高の地位にあった官吏だったが、.さきのω゜O°,めがマルチ・レーシャリズムをうたいながら、とれに加盟し

ているものの殆んどが中国人であるという事実にあきたらず”〉°客》°ωを組織したのである。したがって男〉・Z・〉・ω

こそノン.レーシャルな党であるというこどを示すために、イバン族首領のうちでも最も偉大な首領とされている↓削5

Q。

?ィ傷日①コσq瞭oロαq冒σq魯き国吋Ud叫ユ①ロσqをはじめ、㌧多くのすぐれたダヤク人指導者の支持や、何人かの知名度の高い中国

人の支持を求めてこの党を設立したのであるひしかし”》°客》°ωの主要な運動目標は、一九四六年におけるサラワ

クの対英割譲に賛成したマレ¶人層の支持をかためることにあった。これらの’マレー人は、いわゆるインテリ層ではな

  カンポン

<、部落に居住ずる一般のマレr人であり、・U9ロ切雪らp・学というような伝統的指導者にたいしては強い忠誠心を保有す

る入々なのである。したがって勺㌦》°Z°〉°ωの体質は、ノン.・コミューナルな党であることを標榜しつづもその指導

陣および支憲はあら変マレr人であるというも②であるからどの党がマレ↓ア計画に予め賛成する用意があ駕

ことは理解できる。.      ,   :  し 、 ・・ .    °°    7 °㌃ 辱

(317).115

Page 29: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

 ざて、.右に記じたω。9即勺と勺゜〉’累b°ωはサラワクにおける先駆的政党であった。双方の党の特徴は第一に

阿ルヂ゜レーシャリズムを漂榜し・これを実行する党であるとした点に求めることができる。だがザラワグの政治・社会

・的構成を複雑なものとざぜているコミューナルないしサブ・ゴ・マユレナルな諸租益は、これらのパン・コミ.ユーナルな利

益の実現をうたって結成された集合体の努力とは全く反対の動向をしめすことになる。・そして、 一九六一年、目已爵ロ

〉げα巳閑9ヨ巴 のマレrシア計画の公表をきつかけとして、コ・ヤユーナルな政治的野心家たちの権力欲がかきたてられ

                                            (6)

ることになったのであ、る。十五ケ丹以内に四つの政党がサテワクの政治的局面に出現することになった。しかも、これら

の政党のすべてはコミュ…ナリスティックなアッピールを有するどいう特徴を示すものだった。そして、これにともない

ω゜9,℃と℃°》。Z°〉°ωという先駆的な政党は、当初の規模と力を減ずることになるのである。

 ③ω゜。H9。≦鴇Z鑑8』℃賃苗(ω゜2°}勺)

 ω゜Z°}勺は一九六一年にイバ.ン人のリーダーたちによって組織された。この党の勢力はサラワクの第二省ω①8&

∪一く匠o昌に紅いて最も強い。そしてこの省に居住する教育のあるイバン人たちの多教は英国式教育をうけているもので

ある。サラワクの、前の首席大臣U卑。Z冒oq臣口や、政変後、新しく首席大臣に就任した℃雪σqゴ巳β円帥三ω嵩なども

この例にもれない。U餅8暑言呵r雪ば、.ばじみ医師の助手をつとめでいたが、のちψ客}℃の書記長となるといった

経歴の持.主.なのであるp .  ’.  ..・   , 、 、   .:….

 ④守臥ω聾閑帥、ξ算冨口ω勘邸≦爵(切㌧》ヂ閑゜冒゜〉°ω゜〉),...・ン ”.、馬    

・ ,

 炉〉渉智}ψ〉は一九六二年万に創設され允。省春の、℃噌》.望〉あがマレー人・、・・ユニテ・の中の、サラ

116(318)

Page 30: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

σ

サラワクの政党制について

ワクを英国に割譲することに賛成しだ人々の組織であるとしたら、】W°〉°即9》°ω’〉はこれとは反対に丙マレー人コ

ミュニティにおける反・割譲派の有力な組織であり、マレー人の教師、学生、公務員などインテリ層のほとんどを網羅す

る。この党の指導者はヨ]ロッパで教育をうけた法律家である》げ畠巳幻普ヨmづ玄昌出昌網潜.鋳oげ1現・連邦政府土地鉱

山省大臣1および》区巳目巴αげ冒ζoげヨ&ーオーストラリアで教育をうけた弁護士1というサラワクにおけるマレー人

青年層の代弁者である。したがって切゜〉°即い〉.ω゜〉はU舞ロ切磐匿『といった伝統的な、ふるい型のマレー人指導

者のひきいる党つまり勺゜〉°.Z°》°ωとは対峙し、はなはだしくクアラ・ルンプールに傾斜しているマレー人党という

ことになる。

 ⑤霊誹網℃o器冨》旨爵ω鋤冨≦爵(Oo匿o零豊くΦ守詳図)「

 この党は一九六二年六月に即諺゜署゜」》°ωを去ったイバン族の首領↓四昌ωユ目①ヨ①昌σqoqo昌σq冒σq昌m昌艮切毘oコσqが

組織した。その支持勢力の主たるものを第三省円臣aU三臨8から得ており、党本部もシブoDまロにある。一九六四

年以後、この党の書記長となった↓ゴo日霧国き潜Z冨≦巴は、..もとシェル石油の支配人であったが、かればイバン語、

英語、でレL語、福建語、客家語をよくする。

 ⑥ω碧9≦爵〇三器ωΦ》ωω8冨酔ご昌(ω゜ρ》)    “唖          

 

 この党は一九六二年八月に℃°〉°Z°》°ωを去ったピ冒σq切①昌σqI腔o≦によってつくられた。マラヤの〉ま9ロ8℃9n鴇

を構成する.ζ巴昌雪Oげ冒①ω①,》ωωoo聾ざ旨の積極的な後援をうけている。したがって、この党は保守的、反共的であり、

かつマレーシアを支持する中国人の党である。 い冒頓切8⑳1ωδ≦絃シプω号qの有名な材木豪商であるが、かれのほか

(319)117

Page 31: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

し指導的な中国人としてあげられるものに、もとψご゜男りの共同創設者であった↓oo国乱71のΦづσqI胃昏注昌σqL在住の

実業家1がいる。ω゜ρ〉は富裕な中国人実業家の利益のみを追求し’ているというもっぱらの評判がある。

 さて、サラワクのめざましく変化する状況の中では、いわゆる中国人コミュニティの伝統的指導者、つまり富裕な商人

たちの影響力は、もはや往時のごときものではない。それは、むしろ全体の中国人の利益を促進することのできる人々に

肩代りされつつあるといえるからである。なるほど今日の中国人の指導者たちは、まだ名家の出であることが多いゆたと

えば、・ω.q°”℃の指導者05σq国81口巳にしても、その曽祖父がサラワクに定住したのは、ふるく一八五〇年代に

さかのぼるというサラワクにおける最大の名望家で.あるし貸また同党の書記長ω8嘗窪唇目囑o旨σqにしても充分な高

等教育をうけた社会的地位の高い層の出である。しかし、中国人コミュニティの利益を促進する担い手たちを増強する

源泉としては、このような名門の人々に限られることなく、教師とか公務員とか、あるいは小商人、農業家のなかにも求

められているのである。同様に、マレー人の間においても十分な学校教育をうけたヨリ戦闘的なものが指導附立場につい

ているといえる。じd。}国。い}ψ》の指導者の幻昏ヨ巴および目9。まや、:また同党から閣僚とじて出ているb≦帥ロoq

出首唱巳び言殉窪σq凶冨昌》p昌賃などは、回教徒の竃①冨きロ・人である。ζのタイプのメラナウ人はますますその数を増してお

り、政治的に有利な立場にあるマレー人社会に積極的に同化しつつあるのである。ところが、こうした傾向はメラナウ人

のなかの若干の指導者たちの喜ぶところとはならない。かれらはメラナウ人の個有の党がなければ少数種族のメラナウ人

は滅亡するという考えからメラナウ人党円賃σqoロ¢巳8畠℃oo覧①、。。勺霞蔓.を形成するにいたるのである。一゜方」ダヤク人

118の 。

32(

Page 32: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

の伝統的指導者たちはこうしたサラワクの新しい政治的環境の中においても、なお、かれらの追随者の忠誠心をつなぎと

めている。 その最も顕著な実例が月雪ω嬉月Φヨ窪σqσqoづσq邑甘σq菩①95稗ロd巴魯σqなのである。同じく、ダヤク人である

∪卑02ヨσq臣P℃Φ昌σq冨冨日自。三ω昂の両名もともに出自は優秀である。だが、かれらについて特筆すべき点は、ガバメ

ントという仕事についていたということである。勺窪σqゴ巳二目螢惹ω嵩の父親は目慈閑ロ値魯ーロング・ハウスの長1で

あったし、 ℃①冨αq冨ピ目潜惹Qo嵩自身は教師、公務員などの長い職歴を経たのち、 一九六三年、第二省ω。8巳U三ω凶oコ

のω一日国昌σq潜ロσq全域の℃Φ口σqゴ巳ロー地区首領1となったのである。

」かぐて、これらの新しい政党群の存在理由はエスニカリーな説明にこれを求めることができぬ場合、イデオロギーや地

                             (7)

理的区分、ないし歴史的事情などにその根拠をみいだすことができる。たとえばω゜.ρ》°はω’d°勺゜勺と同じく、そ

のアッピールの対象は中国人である。しかし、そのイデオロギーは全く異なるものであった9ψ客》°℃も殉①器臣「も

イバン人党であるけれども、前者は第二省において最も強い支持を得、後者は第三省において最も強力な地歩をしめるも

のであつた。ひとしくマレt人の指導の下にある”》°2°》°ωと切゜〉°閑゜い》°ψ》の場合、前に述ぺたごとく前

者は一九四六年当時のサラワクの対英割譲派の集合体であり、後者は割譲反対論者の指導下にあるものである。かくて内

先駆的な二つの政党、つまりω。d°℃°℃および℃°}客゜〉°ωにふみとどまったメンバー達は、より“コミューナ

ル”な色彩をもつものということになる。

 ⑦ω碧餌≦爵》≡p。コ8の形成   .    °: ・・          .

.マレーシア計画がなかったとしたら、サラワクにおける政党の数はさらに増加していただろうことは殆んど確実であっ

           、

(321)119

Page 33: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

た。だから、マレーシア提案の一つの主要な効果は、サラワクにおける、かくも流動的かつ急速に進展せる政党群を整理

統合し、マレーシア計画に有効に作動する連合党の創出に導いたということであろう。ζ巴亀き〉まき8℃翼団のリー

ダー達はての目的達成の虎めに尽痒していた。かれらのサラワク訪問は勿論のこと、サラワクにおける有力なオピニオン

・リーダ91達をマラヤに招き、非・都市部の開発状況をつぶさに視察窓せ光のである。こうした竃巴餌冒昌〉≡睾oやの努

力をあますところなく記すことは到底できない。しかも、ω費鋤毛爵》=冨づ8形成の努力は政府レベルでもパラレルにす

すめられていた。そして、この過程のなかで、サラワクは勿論、サバの、態度保留組のものたちまでが特認と保障を与え

                    (8)

られてへこれに合流してゆくことになるのである。一九六三年一月までに、ψd°即℃は別として、サラワクでは前記の

五つの政党がω9冨≦p。屏≧ぎ旨8を形成することになる。すなわち、それまでに発生してきた多くのコミューナルな政党

                            スロバロロストラクチユア

群が一体となり、インターコミューナルな架橋となるべき一個の上部構造が構成されたのである。サラワクにおける.

この連合党形成の直接の目的は、その年の六月に行なわれる選挙を戦うことにあった。・かくてω゜Z°》°勺のU曽8

2ぎoq惹昌の唱導にしたがい、マレーシア計画の支持を決定したすべての党が合流し、一っの新連合党ω凶冨≦爵≧膏58

が誕生した。そして、この新党の議長には↓9。昌ωユ目①日①コσqσq8σq冒σq潜げ雪9。吋bd曽廿①昌σq(℃o器冨)が迎えられ、書記長に

はU異02旨σq臣昂が就任したのである。それゆえ、この新らしく創出された党はダヤク人支配的党であったといえる。9

 ⑧ ]≦p。oげ冒畠9および目ロσq9ロd巳けΦ畠勺Φo覧Φ.ω勺碧ξ(目゜d°,勺)

 一九六三年九月のマレーシア実現後、さらに二つの新しい政党が成立した。その一つはζ碧匡呂9。であるが、」この党

はデ九六四年、 担}2°}ω、,とω゜d°即勺の不満分子たちによって反対党として創設されたのである。この党拡マ

120(322)

Page 34: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

            サラワクの諸政党と指導者たち

…raw・k-…t・d P・・P・e’、・P。rty(S.・.・.。)     1959年、月創鍵

  議長Ong Kee-Hui

  書記長 Stephen K.T.Yong        ’                反゜マラヤ的中国人党.

  Tama Weng Tinggang Wan(Kenyahの曾長)

  Chan Siaw-Hee(党内左派)

 Dato Teo Kui-Seng(共同創設者)

モ)

マルチ・レーシャリズムをたてまえとする

@Party Negara Sarawak (P.A.N.A.S)

  Datu Bandar Abang Haji Mustapha(指導者)

  議長Abang Othman

  Tan Sri Temenggong Jugah anak Barieng(イバン族首領)

Ling Beng-Siew

⑥Sarawak National Party‘S.N.A.P)

  議長Dato Stephen Kalong Ningkan(イバン人)  ’

  副議長 Dunstan Endawie

      James Wong

  書記長 Edmund Langgu

  財政部長 David Lawrence Usit

  P・・g』・1、T。wi・Sli(イバン入)(1965年5月の土地改正法をめぐ1))

Dato Wee Hood Teck(Kuc恥g支部の議長,1966年6月)

@Bari8an Ra’ayat Jati Sarawak‘B.A.RJ.A.S.A)

  Abdul Rahman bin Haji Ya’akob(メラナゥ人,現・連邦政府土地・鉱山省大臣)

  Abdul Ta’ib bin Mahmud(メラナウ入)

  Awang Hippni bin Pengiran Annu(メラナウ人)

◎Party Pesaka Anak Sarawak

  議長Tan Sri Temenggong Jugah anak Barieng

  副議長 Dato Oyong Lawai・Jau

 ㌧     Pengarah Banyang anak Janting

      Pengarah Sibat anak Semada

  書記長 Thomas Kana Nyawai(1964年以後書記長)

  財政部長 Jonathan Bangau Renang

  Tajang Laeng(1965年政変の後,国務大臣)

  Penghulu FrancisUmpau(同上)

Penghulu Tawi Sli

◎Sarawak Chinese Association (S.C.A)

,   Ling Beng-Siew

   Dato Teo Kui-Seng

 @SaraWak Alliance

   議長

1960年4月創設.First Divisionが地盤.

マルチ・レーシャリズムをたてまえとするマ

レー人党.票田:マレー人農民およびマレー

人伝統主義者.

サラワクの対英割譲賛成派.

ゆえにB.A.R.J.A.S.Aに対立.

1961年創設.Second Divisionが地盤.

イバン人党.

木材伐採特認問題をめぐりPesakaと対立.

中国人との同盟を考えている.

1962年1月創設.First Divisionが地盤.

親マレーシア.

サラワクの対英割譲反対派.

ゆえにP.A. N. A. Sに対立.

.._ヱ」∠ニムィ,z土」λ鳳の喜撞あL.____一.

1962年6月創設.Third Divisionが地盤.

イバン人党.中国人と相容れない.

伐採問題でS.N,A.Pと対立.

1962年8月創設.

親マラヤ的中国人党(M.C.Aが支持).

富裕な実業家の利益を反映する党.

.°7璽゜°°°°一一一’一冒一F-°一゜°°’虚一6-一’°.曹゜°一゜.°一・°一一一一一’9-°…’一冒一一’°°°’°°冒曹一’曹一゜‘’徊幽’一・一’・一・・・… @一一一一一一・鱒■一・一一一璽一・。・の・。・。・。… 一・・’・一騨一一… 一・徊・一一・・一一・..........,....幽._層.....騨_......tt.9...P..・

                                          1963年創設.

      Temenggong Jugah(Pesaka)連邦サラワク省大.臣

  書記長 Dato Ningkan(S.N.A.P)首席大臣一(弼羅に)一(器年9月)

  James Wong(S.N.A.P)副首席大臣

  Dunstan Endawie(S.N.A.P)地方自治大臣

  Abdul Taib bin Mabmud(B,A.R.J.A.S.A)通信労働大臣一(蝉豹聾号解任)

t’・”;” @          儲籾騒R・J・A・s・Aの)

  Awang Hippni bin Perigiran Annu(B.A.R.J.A.S.A)国務大臣

  Dato Teo Kui-Seng(S.C.A)農林大臣

1 Penghulu Tawi Sli一首嚇(戴ぎ襯離難r

撚欝蕪鷲騨蕪囎瀞贔象隷. ロ ロ ■■ ロ ロ ■ - ロ ロ . コ コ . コ ロ ロ コ . コ ロ ロ . ロ   ロ ロ ロ     ロ ロ ロ コ ロ ロ ロ ロ コ の コ コ   コ ロ - ロ の ロ   + ロ コ ’ ロ tt

⑥Party Machinda

  Michael Buma(1966年辞職)

  Yeo Cheng-Hoe(1966年辞職)

@Tugau United People’s Party‘T.U.P。P)

  、議長Austin Druce

Alliance Party(T.A.Rahman)の分派的党.

連合諸党は以下のとおり.

 S.N.A.P.

 B.A.R.J.A.S.A.

 (土地問題で脱退したのち復帰) ,

 Pesaka S,C. A

 P.A. N, A. S

 (土地問題解決後,新たに結合)

 (Malaysia S.U.P.P)

マレーシア計画を支持.

イバン人支配的党.

                                          1964年創設,First Divisionが地盤.

                                          P.A.N.A.S, S.U.P.Pの不満分子が結成.

                                          票田:Land Dayakたち.         ・

                                          メラナウ人党.

                                          単一民族集団にアッピール.°°°°°°°・°°騨゜°・°..°噂゜一一゜°・.輔゜°°°°°・°°°°°°°噛’-i-°一一一一一一■・・°.°.・・一一・°’°°°°°°°°一゜’帥゜°°昌”°圏゜幽…帥餌゜°.°°°曹曹一… @。・・… 。・層・。。・。一・… 一一・・・・・・・・・… 一。・一一・・。… 一… __.一一..一.一..........。.......

Page 35: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ルチ・レーシャルな党という意阿をあきらかにしていたがピ9。巳U身爵たちの申にかなゆの勢力をもっており、また第一

省コ『ω酔コ三ωδロ・の非・都市部にも.強い支持者をもっていた。竃8匡a鋤はイデオロギー的にはψd°,℃に代るべき

非・過激派としての立場をたもっている。しかし本当の意味でパン・コミューナルなアツピールがサラワクといヶコミュ

Lナルな環境の中で可能であるかどうかは問題であった。一九六六年にζ90匡巳9の有力な指導者である竃凶。冨9切ロヨ帥

(H

ーき族)と団①oOげ①昌σq自o①が辞職したということは、これを証拠づけるものであろう。とまれ、この二人の指導者の

退陣が同党の党勢を弱めたことは確かである。もう一つの新しい党はさきにふれた円ロσq窪d巳8α℃oo豆Φ.ω℃碧ξ(円゜

d°即℃)である。この党はメラナウ人という単一の種族集団にアツピールするという目的をもって作られた党である。

↓°d’即℃の議長、》賃。。怠口U旨8は少数種族集団は自らの組織をもたぬかぎり、次第に消滅する運命をたどるであろう

し、自らを組織するということは政党を通してのみ可能であるという見解を示していた。サラワクにおける少数派の人種

は、一方における回教の伸展と西欧化の促進、他方におけるダヤク族の勢力の増大によって、自らの一体性を失なうとい

う危機にさらされているのである。

 註(1.) 界冒幻”ヨ螢日①巳即ω゜ζまo鮮目ゴoζ巴曙雪勺碧一冨ヨ05巳蔓田o。ユ80hH㊤①食巳①8灯・b。①P

  (2) 一び置゜

  (3) 一げ置゜葡℃°bつ刈9

  (4)崖畠’

  (5)量α゜

  (6) ψ9,℃と即〉.客}ωという先駆的な党が分解して新らしい政党群が形成されてゆく過程は、折り込み部分に整理し

   て記した。

(323)121

Page 36: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

(7)零9貯碁B国民㍗ω’≦一昌①㌔』樋ド

(8) 一σ置己即b⇒刈bo°

122

(2)

サラワクの政党制について

§一九六三年六月選挙ーその実態1

         (1)

 シシガポールが離脱するまで、マレーシア連邦議会の下院の議席総教は一五九であった。このうち、】〇四議席はマラ

ヤに割りあてられているものであり、一九六四年四月に施行された7ラヤ総選挙によって確定したものである。残りの五

五議席は、サラワクに二四、サバに一六、シンガポールは一五という割りふりであった。ところが、これら五五議席は、そ

                     ヘ  ヘ  ヘ  へ

れそれ三つの州における立法部のメンバーから、間接的に選出されてきたものであり、一九⊥ハ四年という時点において

は、これら三つの州は、そのための選挙を行なっていない。したがって、議員の若干名の移動がないわけではなかったが

これら三州選出の連邦議会議員たちは、以前に獲得した議席を保有しつづけたわけである。マレーシア連邦のなかでも、

サラワクとサバの二州は政治的におくれていた。一九六三年にいたっても、なお、それらの州では、州立法部のメンバー

たちがハ住民の直接選挙で選出されるということはなかったのである9ガバメントの最も低いレベル、つまり、.U鼓ユ鼻

:(

n区〉においてすら、住民の直接選挙による議員選出は、9サテワクの場合、-僅か数年ほどの実績しかなく、・サバにいた

・ては、それすら、極めて最近にな・てはじめて行なわれたどいケ状能心だ還のである・サラワクにおける地区協議会選

挙U聾詠900§。『日8口o⇒は一九⊥ハ三年六月に行なわれた。しかも、住民の直接選挙による選出が行なわれるのはこの(324)

Page 37: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

レベルにおけるものだけであり、これよりも上のレベ Wの省議会∪三皿。甥9。一〉畠≦ω。qO。塁。躍や州議会O。琴出Z①σq二の

議員の選揖および連邦議会U。≦騎。昌幻軌p。岩けへの代表選出は、段階制間接選挙け薄學ω8日oh凶巳跨㊦9色①oけδ房という独

特の制度を通して行なわれるのであるρ

 一九四六年にサラワクが直轄植民地匙なった之き、英国はサラワクの政治的開発は地方レペルの統治体を通して実現さ

せまうと考えていた一庵ともと、これらの統治体のメンバーは指名議員であり、しかもそのうちの何名かは政府の役人と

                                  メンパロ

いった具合いであった。だから、これらを住民の直接選挙によって選出された議員に次第にかえてゆこうというのが政治

的開発の具体策であった。∴しかし、一面において、直接選挙によゐ議員選出はこの底辺レベルの統治体にかぎるものであ

り、これを越えて、さらに上のレベル犀拡大するという考え方は全くなかったのである。そ・こから、ヨリ高いレベルの代

表はさきの喜2ω蕩8ヨを通じて間接的に選出するという原則が一九五六年憲法にとり入れられることになり、翌年その

効力を発することとなっ悔。すなわち、すべての地区協議会」榎ω三900昌o自にかんしては、数年内に、完全な直接選挙

制を施行し、ついで、これらのU鼓円凶900暮。ロが、サラワクの五つの省(一)一く一ω一α昌)の∪三ωご昌9。一>O≦ωo曼Oo5ソ畠

の議員を選出し、さらに州議会Ooロ昌。出Z。αqユの礒員四五名のうち二四名が層∪三ωδ溜巴〉α〈冨oqOoロコo芦囚零7ぎσq

客ロ且。昼Ω。一〇◎ロ昌o臨およびζ三とωま二のd吾僧コの且oけOo呂o自によつて選出されること江なったのである。一九

五仇年の.∪聾暑け~宮置口o出選挙ですべての議員が公濯議員となった。そしてこの議員たちが次にU三。。6昌9。一〉山く一ωo曙

O◎§畠の議員を選出した。さらに、これら》匹く6。還Oo80凶「の議員たちが9§畠2。頓ユの議員たるべきものを選出

し党。. :: .~     :°  .=   :   ’.  ‘      °: ’°

(325)123

Page 38: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

 一九六三年においては、圏O。自隻オ。σqユにおける三名の指名議員、同じく三名の職権上の議員①×°臨9°を別とすれば

Oo巷o出2①σqユの全議員は右の方法で間接的に選出されたものだった。つまり、右の選出方法にもとずき、有権者はまず

第一段階として、二四の.U算ユ900§。躍のメンバー四二九人を選び出ル、ついでこれちのコω9900ロ昌畠ωから第二

段階として∪三ω凶8巴>q<冨o曙no置昌o臨の代表一〇八人が選ばれ、そしてさらに、ここから第三段階としてOo§o躍

Zoσqユの三六人の議員が選出されたのである。次に,Ooロ営出Zoαqユは二四人の代表を選び、 これがクアラ・ルンプー

ルのUoミき幻9。す賓舞(連邦議会)・に議席を有することになっ.たわけである。サラワクにおける一九六三年の総選挙にお

いては、普通選挙権制度にもとずく有権者数は三〇二、七八六人であった。無競争選挙区における有権者四七、五七六人を

                                (3)

別にして、一八五、六九二人が実際に投票していたから投票率は七二・八%を示七た。ともあれ、このときの選挙によ

うて生まれたOo琶o躍20σqユにおける最終的な党派別獲得議席はoD°d°勺゜娼(の)””〉°2°》°ω(α)”≧ぎ暮o(b。ω)”

甘α。窟巳o碁ω〔ω)であったっしかし、この選挙結果は、投票者の政党支持率と各党派別獲得議席数とのあいだに大きな喰

いちがいを出していた。その理由は後に詳述するところであるが、大ざっぱにいうと、たとえばψdゲ即勺は全投票数

の二四.五%を得ていたのにもかかわらず議席率=二・九%(議席数五)にとどまり、≧ぎ昌8は得票率三〇・六%にた

                        (4)

い七議席率六三・九%(議席数二三)にも達七たのである。

 一九六三年選挙の準備は一九六一年に始められていた。そして、当時、上述のような得票率と議席率とのあいだのいち

じるしい不均衡を生ずるであう⊇・屡…∋κ対する攻撃が・99電によ・てすでに開始されて窪のである・

ψdゼ即勺の書記長ω8℃げoロ嶋o”σqは酔凶臼超ω㊧潭.κよつて選出されてくる○◎‘口o昌20σqユめ議員は選挙民とのあいだ

124(326)

Page 39: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

の距離があまりに庵へだたりすぎた存在となるかち、代表責任を負ったものとはいえなくなる、という主張をなしていた。

これにたいする反論は、およそナショナルな利益という立場にたつべきOoロコo出Zoσqユの代表を選出するにさいして

は、ややもすれば地域的な、かたよった見解のみに基ずく議員の選出がなされがちであるところの、地域住民による直接

選挙よりもけ凶臼ω器8∋の方がベターだとするものであった。そしてけ§ω誘8ヨは、一九六二年に公布された目冨ピ08一

                          (6)

O。藩3冒Φ導閑Φσq巳葺8のなかでも体現されるてとになったのである。本規則は、住民の選挙資格にかんするものであ

るが、これによると、過去十年間のうち七年間をサラワクに居住していたものは誰でも、また、一=才に達したもので一

九六二年十一月一日という資格決定駐に、あるU蓉ユ900后o=の選挙区内に居住していたものは、そのOo§o躍の投

票者として登録されるべき資格を有した。   . ’・

 投票者の登録は強制的なものではなかった。また、いくつかの地区では大洪水が氾濫していた。そして、一九六二年十

二月にはブルネイに内乱がおこった。それにもかかわらず、登録は計画通り実施されたのであるb政府の登録班は潜在

的選挙民の八四.六%におよぶ登録をなしたといわれていゐ。七かし、登録された有権者の両性間の比率にはかなりの相

違があった。ただし、マレー人の登録者の場合は両性間の比率はほぼ等しかった。しかし、それにしても問題がなかった

わけではない。マレー人の有権者として登録された数はマレ髄1人人口の九〇%に達していたからである、これはあきらか

に成年人口数を上まわる数字といえるのである。中国人の男性有権者は成年人口にみあう数の九〇%のものを構成した一

方、’女性は域年人口のやっと三分の二にしか達しなかった。他の入種で、登録されたあのは、男性の場合、その人口数の

                       (7)

約七〇%であるのにたいし女性は五〇%にすぎなかった。          99

(327)125

Page 40: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラウクの政党制について

 立候補できる最低の年令は二五才とされてかた。立候補者の資格条件として、このほかに識字条件が加えられていなか

ったから、年令制限をや皇口同めることで、ある程度の政治的成熟度を確保することが期待されたのである。しかし、この

まうに立候補の九めの年令制限が高められたというこ之の生んだ(政治的)効果は、急進的なψ9即勺の若い党員が

            (8)

立候補できぬということだった。

 投票用紙に党のマークを刷りこむことがゆるされていた。例えばψ9”勺は、一つの輪の中で相互に結びあってい

る三つの輪を党のシンボルとし、〉=す昌8の場合は、これを構成する五つの党をあらわす五人のものが小舟に乗って漕い

でいるものをそのシンボルとするという具合いであった。”〉。客》°ωはサラワクの旗を背景においた雄鹿の頭部を党

のシンボルとした。どの党にも所属せぬ立候補者たちは、かれらの独自のシンボルを一つだけ使用することが許されてい

た。一四二名の無所属立候補者のうち六五名がそれぞれのシンポルを用いたが、残りのものは使用しなかった。ために、

政府印刷局遺大かに助かったといわれている。しかし、文字をしらず、党のシンボルも知ることがなくて、あるいはシン

ボルを使ぬない無所属立候補者に対して投票しまうという場合、どうやって投票がなされるかということが問題として残

・靴。・の場合、投票者は選挙管理官に尋ね憲中の立候補者に投票することが許されたので馨・

 投票は同時に数百の投票区で行なわれるはずだから、これだけの数の、投票を監督するに充分の経験ある管理官をそろ

えることはできなかった。そこで都市部以外の投票区では、一ケ月を限って巡回班が投票を集めにまわるという方法をと

ったのである。だから、ほとんゼすべてのダヤク人の層ロング・ハウスにおいては、投票者が投票所に票を投じにいくので

                                  (10)

は濾べて投票所切方がかれらのところヱやってき虎というこ乏北なゐ売のである。

126(328)

Page 41: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

・サラワ:ク’の政党制について

∵選挙手続を有権者に熟知させるため のパ一ンフ゜レツトが配希春れたが、それちは八つの言語で書かれていた。てのパンフ

レ,ト¢.一つは月げゆφo祖鉾々日僧”°。O且号言「℃O貰冨宏いうのであり、もう一つな’≦げ韓囑oロ竃ロ曾堀ぎ≦》げo口け6冨

糎礪9コというのであった。立候補者は五〇ドルの供託金をおさめ、投票の八分の一をとれぬ場合、没収されることにな

  (11)

Pて小た。   . : ・     : ・   ・ 1, ’噛  ゜  °

 選挙億管理運営の面からみればスムー図に進行した乏噂いわれている。前述のごとく有権者乏して登録したものの七二・

爪%が投票してい塵つしかし、選挙の管理運営のスム「ズなこととは別に、°ψ9即勺ほその選挙が自宙κ行なわれた

屯のでなかつた之いう主張をしていた。っまり、ψdザ”胡 の幹部が拘引されたことや、新澗が政府批判記事を掲載す

る0を抑止七湘乙と、陳売、政府の役人やネイティヴの脅長た略がω・4即湘-の立候補者に辞退をすすめたり強制した

のし売こ走、°公務員κま乃選挙妨害や脅迫という事輿ガあっ売之と鴇政府が党を秘密共産党の地下組織と結託せるものだ

                            (12)

止するまうな悪質な宣伝を行なったこと.などをうったえていたつ.ψq即℃ の拘禁された二六人の指導的党員のリス

斗の中には、支部長および副支部長というクラスのものはそ湘それ一名しかいなかったが、支部ないし副支部の書記クラ

       (13)

スのものは十入も入って・いたということは興味ぶかい。 乏い,う.のも、前にもふれたところであるが、この党の表むきの重

                               ヘ  ヘ  へ

要嫁ポストには穏糎派の者が就任しているのであ届が、実際に組織のかなめとなるところ億ρρOのメンバーで固あ

られているといわれてい・たからである。

一選挙にさい七}眉き蔀庵゜即》°客》°ω.もω∴d°.潤勺,もすべての党がビその立場を表明する宣言を発していたコ

                         (14)

♪耀拶信oの宣看の内容は、おおむ ね次のばう港あφであつた。「すなわ略、」①それぞれの人種を代表するそれぞれの政治団

(329)127

Page 42: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

9

O

サラワクの政党制について

体がその人種の個有の問題を決定し、ついで、これらの政治団体の連合体つまり〉旨塁8のなかで人種間の妥協が作ら

るべきである、そしてこの方法はマラヤにおいては成功していること、②教育に関しては一自由なる初等教育と、ヨリ拡

大された中等教育を可能にし、しかも教育費は安価であることが望ましい、また、児童が英語以外にも自らの言語をこな

すことができるために、器梓ぞo冨5陰層σq①や中国語の学習ができる設備がなければならないこと、③土地政策にかんす

                    (15)

る若干の言及、・であった。ψq°”℃の宣言は、第一に植民地主義を”人種間の障壁となり、また労働者および小商人

をふくむ農民の生活水準を低めるもの”として非難した。そして’この国が必要としていることにぴったりするところの

社会主義にもとつく開発プログラム”を唱導したのである。私企業は個有の役割りを果すように奨励されるが、外国の利

益がサラワクの経済生活をコントロールするのは許すべきでないとした。次に教育問題にかんしては、サラワクにたいす

る共通の忠誠心をやしなうカリキュラムがつくられなければならぬが、なお、すべての人種の言語・文化は促進されるべ

きであり、そのために、学習は児童の母語を通じてなさるべきであるとした。土地問題は直ちにとりあげられねばならぬ

という主張がなされていたものの、そのための特別の方策の言及はなかったのである。即〉°客》°ωの宣言は≧一一き8

のそれと著しく異なるものではなかった。しかし、これらの諸政党が真に国民的レベルでとっくんでいたことがらはマレ

          (16)

ーシアという問題であった。≧ぎ昌ooと℃°》。乞’〉°QDはこれに賛意を表し、ψd°勺゜勺は反対の立場を示していたの

である。

 選挙運動の過程は大たいにおいてマラヤにおけるそれと同様であった。しかし、ここでは島。。三9においてさえ、選挙

民に情報を与えることは困難なことだったのである。一九六三年八月三十一日の目げo留雷≦舞O国8洋①は、oo巨゜。5σqσq碧σq

128(330)

Page 43: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクめ政党制について

げ脚ωま窪

                盆)

に言及しっつ次のように記している。

..だいだいにおいてダヤク人たちがラジオでニュースとかニュース解説を聞いていなかったということは明らかだった……かれらは殆

・んど切窪器昌σQ鴨一とかその他の形式の音楽だけを聞いており、ヨリまじめなことがらが論じられるときにはラジオのスイッチを切ると

かあるいは無視してしまうという傾向があるのだ。このことは情報源としてのラジオが役に立たぬという議論をなすものではない、こ

のことは強調しておきたい。問題はラジオをもっと適切に用いるように人々を教育することなのである……ラジオはまだ信頼されてい

ないのである。奇妙なことに、人々はラジオで聞いたことを本当のことだと信ずるまでにいたっていないのである。同様の理由で、書

かれた宣伝文が読まれることも稀れである。それがきわめて短かく、せいぜい二つか三つのパラグラフのものであるならば別である。

.このことはおそらく怠惰のせいである……これらのメディアは、政府の施策や理念を人々にたいし知らしめるさい、頼りにできるもの

                                          ヤ   ヘ   ヘ   へ

となってはいない。そうなる時はくるであろう、しかし、その場合ですら、確実な唯一の方法はクチコミなのである。つまり、政府の

役人とか政府の仕事に関係ある人々による、たえざる遊説これである。政党という政治機関が学んだもう一つのポイントは、ロング.

.ハウスのダヤク人たちは、通例、かれらが聞いた一番あとの演説の内容を覚えている傾向があるということだ。

 つまり、コミュニケーションを達成するためには、対人的な接触が重要であるということになる。だが、サラワクにお

いては対人的接触を持つのは大へん困難なのである。というのも、ここでは物理的な意味における良好な交通網が欠如し

ているからである。これらの条件が政党をして、その選挙運動の中で力点をどこに置くかにかんし、慎重な配慮をなさし

める因となったのである。こうして〉旨き8は長文の印刷物が住民にアッピールする力をもたないということを知った

がゆえに、マラヤにおけるよりも選挙関係の印刷物の量を少なくした。だから、≧ぎ匿oはイバン語でマレーシアに加担

するようにすすめた恭スターを若干印刷したにすぎない。従って遊説のための旅費が選挙運動の経費のなかで大きな比率

(331>129

Page 44: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

を占めるごどにな総・多くの幾ば河川によぞしが到達できず・落にψ『署も寒馨運動給費どしては

機動船の燃料費が蕃大きか・たので繋・,・・.㌦.:・∴∴・ ’・ .:.・°ン.°:㌧

 ここでは立候補者に選挙費用の報告を提出することを義務づけた法律はない。しかし(マラヤと比べるとサラ励クでの

選挙運動費は明らかに少なかった。選挙民の数がマラヤにおける約十分の一にしかすぎないということを斜酌しても選挙

民≒人あたりに消讐れた選挙運動費の全額は確かに少麓のである・政党別ではψ9即勺と即}客霧は≧肥

碧αoよりも出費額が少なかった。というのも、”}客・野ωの運動は第一省および第二省に限られていたこと、また

Qo

I9,℃の支持者の多くはコミュニケーションが容易かつ安直な市街地区にあったこと、および、前にも記したよう

にω゜d°即勺はイデオロギーによって結合されたかなりの数の労働者の無報酬の奉仕という便益をえていたことによ

る。一方ψd°即℃は党費の徴収は非・都市部においては不便であること、また党費徴収がこれらの地区の党員を根こ

そぎ枯らしてしまう恐れがあるという理由から、大都会でのみ党費を徴収していた。そこでヨリ大きな財源確保のために

         (21)

見世物市を開催していた。ω曽舜。≦鋳〉目きooは冒巴口。巻昌》霞磐8の財政的援助をうけていることは明らかだったが、

その構成党で党゜費をあつめていないのは勺①ω舞固だけであったつ≧匿昌8のうけている援助は財政面のみに限らない。

竃巴鋤巻づ〉=冨琴①め十数名に及ぶ党役員がサラワクでの選挙運動の支援に来訪した。ψ¢°即℃もマラヤにおける友党

からの援助をうけていた。それのみならず、》霞碧。ρ9d.勺゜℃双方とも選挙運動の手伝いに、法律ではゆるされてい

ないところ貧童を使・て鶏のである・  ’

註(1)戦後のシンガポールの政治過程については拙稿、「マレーシアおよびシンガポールの政党制について」、明治大学社会科学研

130(332)

Page 45: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制につい.て

  究所紀要第七集(創立十周年記念号)、七゜四頁~八〇-頁に詳述した。

(2) サバにおける島.帥門凶9。一。。けδ昌は、一九六二年十二月、一九六三年三月~五月および一九六四年四月に分けて行なわれた。

(3) 国・9幻舞葛日蝉昌畠幻゜ω゜竃自器”℃°ゆcQω》↓呂す×一゜,       ..      ..  ,

鳥(

S) 後出の第二表参照のこと。   :  ..       ’  °° . °.    . …

(5)国ζ幽幻舞目ヨ四包幻゜ω゜竃出昌①電゜b。刈b。~b。刈G。°

                 層

(6)置α゜℃℃°b。刈G。°     ., . 』 . .,        .   ...  .

9(

V)塗住゜㌔即b。お謎b。謹゜,    °~   「 「°・ :.:、「 、   ㌃ ゜ ’ ° 一

(8>3置゜り勺゜ミ蔭゜        .         層 ゜           . 塾

(9)崖島゜

(10) 5置.讐℃°ミ㎝゜    °    °・   ’           °  ° ’°         °    甲 ’°

(11) 」一ぴ乙゜

(12).,一甑9Pミ①゜

’へ

P3)』ぴ算℃,bO刈ρ脚註。       :9          °   °  .      …魑   °

(14) 一げ準噛即ミ◎。。             ・  ’   篭    ∴   一 2’      「 、

.へ15)、与凶住‘勺℃°bo刈G。~b。δ゜

°(16) 3置’°勺゜bQ刈㊤:    ’   , ・、噛゜   .°   .    ° 「 °、   r

(17) 彗β゜℃。卜。。。ρより引用。 ‘              .7

(18) ま民”.勺゜bQ◎。ド   .  ,.『 .  ...  ..    ’ . ... .

.(19)旨三q°°           °:   」°. °°°  〔

(20>白σ乙゜  ・

(12)、一,回寛世物市の覆は、.約芳ドルの収入を党にもたらすといわれている・(ぎ菊b・°・ド)

(22) 一げ置ご勺゜卜∂◎o卜o’

7

(333)131

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.サラワクの政党制について

(3)

§一九六三年六月選挙-若干の分析ー

一九六三年六月、サラワクにおいて行なわれた住民の直接選挙によるU聾ユ900ロロ。出選挙の総括、および、いわゆる

け醇ω畜8ヨによる、ヨリ上のレベルへの議員選出過程について述べてみることにする。

              (1)

 第一に無競争選挙区が七三あった。これら七三名の無競争当選者を政党別にみると、ψd°℃°℃は五名、即〉°Z°〉°ω

                               (2)

は六名、 ≧ぎ昌8は三四名、ぎ畠。℃。巳。三ω二八名であった。次に第二表に示されるごとく、各党別得票数は、≧ぎ昌8

五六、八九六票、ぢらo窟昌αΦ彗ω五五、〇六一票、ψd°,℃四五、四九三票、即〉’2°〉°ω二八、二四二票、総計一

八五、六九二票であったから、≧=き8の得票数は絶対多数というわけでは無論ない。しかし、〉≡雪ooが獲得した票

数は他のいかなる党の得票数よりも多く、また、ぎ畠。需巳〇三ωの総得票数は〉良雪8のそれにほぼ匹敵している。これ

ら各政党の得票状況をみると、ω゜d°即℃は第一省で最も多くの票を獲得しており、〉旨雪8は第二省において、そ

して・ぎ号需民窪房はそれ以外の三つの省で他の政党よりも多くの票を獲得していた。第四省および第五省において

ぎユ。℃①巳〇三ωの得票が抜きんでて多かったということは、これらの省が最も遠隔の地であり、都市化も一番おくれてお

り、したがってψ客〉°℃がイバン人居住地区で強力であるのを除けば、どの党の組織化も殆んど進行していない地区

であるということによる。棄権率もこの二省において最高であった。すなわち、との二省はいま述べた理由から、遊説を

行なうことも困難であり、伺時に政治的関心もうすかっ允といえるのである。    。

132く334)

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サラワクの政党制について

 ≧密ロ8とψ99即℃ は共にマルチ・レーシャルな党であることを自称しながら、その候補者選択やあるいは当選者

の状況を人種別に蒙と・そこには・両党のレーシ・ルな性格が・かなりは・きり現われてくる。例えば、ψ9竈の

場合、マツー人候補者は七名、中国人候補者は=二〇名、その他(ダヤク人を主とする)七〇名であづた。一方」〉崔塁8

の立候補者はマレー人六五名、申国人六六名、その他(ダヤク人を主とする)一四一名であった。これらの数字から考え

てみると、〉≡雪8はダヤク人に比重が大きべかかっている党であるという姿が現われているが、それにもましてはっき

りいえることは、ψ9即℃が中国人党であるということである。さらに、当選者の人種別内訳を調べてみると、ψ9”℃

の当選者=六名のうち一〇四名が中国人であり、落選者九一名のうち非・中国人は六五名であった。そこから、9d°

即℃の中国人候補者は同党の非・中国人候補者が選出されるのより数倍も大きい当選可能性を有したことになるといえ

る。一方、セ匿まOの場合はこれと対象的な姿を示していた。すなわち、伺党のマレー人候補者は六五名であっ‘たが、炉〉°

即冒艶ω゜》所属のもの三五名ガ当選していた。また一四一名の非.マレー人ネイティブの候補者がいたが、℃。紹冨所

属の当選者は四七名、92°〉°勺の当選者五二名を数えたつヰ国人候補者は六六名であった。しかし、ψρ〉所属の

当選者は四名にすぎなかった。ヒれらの結果を総合してみると、≧匿昌ooの非.マレー人ネイティブの候補者の場合、

当選者はその約三分の二をかぞえており、 マレー人候補者の場倉も、その当選率はこれに匹敵するものであったが、 一

方、中国人候補者の場合、立候補者数に対する当選者の比率は約一六分の一となっていた。

9要するにサラワクにおける中国人の支持はω゜d曾℃°℃に集中し、非・マレ!人ネイティブの支持は≧匿ロ8が集め、

一方、第一省および第二省におけるマレー人票は男簗署鋭ooがおさえてい允、といえるであろう。しかし、ψ9℃・℃ (335)133

Page 48: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

’サラワグの政党制について

娃中国人の人・が稀薄であ詮ゆ・芽・でもかなり得票を集めていた・とは注目に値いする。だがその反面・主要な都市

部中心地における中国人票は辛うじて」○%~一五%のものしか集めることができなかったのである。その理由はいろい

ろあげ.預れるが、都市部で商業をい之なむ中国人の政治意識の保守性にその因がもとめられている。また・〉≡9。昌8の構

域党の一つであるbd’}幻゜南〉°ψ》は、第一・省および第二省におけるマレー人の支持を獲得する点では確かに即〉°客

                                       ヘ                          ロ  ヒ         し

♪ωに及ぼなか。たけれども、他の三つの雀お婁覧〉・ζωの力をはるかに蓉て劣。おしなべていえば・

ゆ誇㌍}ψ〉は即}客}。。の獲得し藷席警九に衣七三五講を獲得し、得薮の面では即〉髪舘

の約二八、OOO票にたいし約一六、○○。0票を得ていたのである噂

(4途画籔において》霞、昌。。盆の政党よりも多か。たということは、小馨区制度に内在するといわれてい・三乗法

則が働いたとすれば、議席数において≧野・が決定的にリ昏するはずであつた。しかし・サラワクではそういう状

況が起ちなか竃のである。すなわち、護席を確保するのに各党竺たい何票を獲得せねばならなか・たかという計算

を試みると、ψq”勺の場合、二議席あたり平均三九二票、〉霞き8は四一二票、”}客〉°ω四七九票となるの

である。実に、無競争地区の有利性を嵩酌すれば〉誤9。月Φの一議席あたりの必要得票数の効率はさらに悪くなるといえ

るつ後の段階でψ’9電菱い羨定的柴利に作用する・ハ老にな奮・竃・奮のひずみはE一の葺レベルでは

まだ現われていなかった。それどくろか、むbろ、このレベルで億》=冨鳶Oめ方が戦況は確かに不利であつたといえる

      

のである。.  幽 、     .°、 、 ・ 、’.:: .…      馳‘唱   . !

一昌塵。b。昌号昌。、が多か。をい・つことも・の馨の特徴であった蓬挙簗ミと八〇人という多数のぎq①℃°&Φ垂当

134一(336)

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サラワクの政党制につい’て

            (6)

選者が〉匪゜。昌8にくらがえしたことは特筆に値いする。もちろん、ω゜d。即℃に加盟したものも約一七名をかぞえ、や

》°Z°〉°ωにも約六名が加入した。選挙ののちoり゜d.”℃の書記長ω言9雪く8σqはこうしたぎ畠o娼Φ民o暮ωの動きを評

して次のようにいっていた。ぎ畠①唱窪⊆①暮ωが当選したのは、まさにヨら80ロα①暮な票によるものであるゆしたがって、

選挙では〉≡き8候補者をうちまかしたぎ畠①唱Φ昌α①馨ωがのちに〉崔睾ooに加盟したとしたら、それは欺瞳的行為で

あり選挙民を馬鹿にした行為である、と。それにもかかわらず多数のぎ畠。需巳①葺ωが〉=冨昌8にくらがえをしたので

ある。そして、これといわゆるけ§超緯①ヨとが結びついて、島ω三9よりも上のレベルでの〉≡9。コ8選出議員の数を

異常に増加せしめることになったのである。

 〉≡塁8が結成された最大の目的は、この連合党がとにかくOo8亀20σQユにおける出来るかぎり多数の議席を獲得

することにあった。しかし、そのことは州レベルの政治を≧蕾コ8がコントロールすることを意味するだけにとどまらな

い。Ooロ饗出ZΦσqユにおいて各党によって保たれている議席数の割合いが、クアラ・ルンプールにおける連邦議会Uo≦餌p

                    (7)

閑笛、Ω。巻けにおける各党の占める議席数を決定するはずだったからである。実に同党結成の真の狙いもそこにあった。

 ところで、U三ω凶o昌9。一bげ〈δoqOo口づo臨から○◎暮。出Z①σqユにおくりこある議員定数は、五つ゜のU三ωδpがそれぞ

れ同一定数を保有するというものではない。第一省および第三省のU蔵忽8臣〉畠三ωoqO◎§。躍の保有する定数はそれ

ぞれ一〇議席および一一議席であり、第二省、第四省は各六議席、第五省は三議席という具合いであった。しかるに、

〉一冨口8にとって不利なことには〉一一冨昌8がぎα①需巳①韓ωと同盟して明白な多数をかちとることができる省は、大き

                                     (8)

な定数を保有する第一省および第三省ではなく、それ以外の三つの省においてであったということである。そこから≧・

(337)135

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  サラワクの政党制について

・ ・  第2表

有権者総.数

302・ 7e6人

無競争地区有権者掌

47,576人

競争地区有権者数

255,210人

投票者数.

・ 185, 692人

、投 票 率

72・8%.

議  席  数District Counci1『 議  席  数Co岨cil Negri

・  ’党 別ネ

S.U.

o.P.

P.A.

m。A.

rAII. Ind.

士。taI S.U.

o.P.

P。A.

m。A.

rA11. Ind. Tota1 S.U.

o。P.

P.A.m・A・みn・S

一Ind.

T蔓ta耳

  ,諱@甲1 省 48 3919’

10 116 10 14 1一

25 5 5一 一

10.

,第 2省 8 14 40 10 .72一

1 20 1 22 こ一

6『

6「

47 1 56 44 -148 ・ 9 1 17一

27一 一

11『

11

第  4 省 13 5 16 29 63 4 二 7 11・ 22一 『

6一

6

.第  5 省 一 一7 23 30

一 一「

}12 12

一 一 一3 3

Tota1 116 59 138’ 116 429 23 16 45 24 108 5 5 23 3 36

議席率%  .圃円

% %27,0 13.8 %  %32,227.0

%100.0

% %R1・31嵐8

%41.7

%  % %22.2100,013.9%13.9

%63.9

%8.3

%100.0

・灘・… 110  91 105 91 一

一87も,136

「75  -  5791 209 28

\s….…     .

第 1

第 2

第 3

第 4

第 5

 Total

露 票

省}省}省一省一省.

19,722票

3, 987 ’

18,518

3,266

45,493

24,5%

P。A.N.A.S

19,183票

5,453

1,001

2, 005

28,242

15.2%

Alliance

13,699票

14,923

22,809

・4,552

 913

56,896『

 30.6%「

Independents

 7,657票

 6,790

 、28,146

 8.500

 3, 90S

 55,061

 29.7%

Tota1

60,261 票9

31,153

70,474

 ,

P8,923

4,881

185;692

100.0 %

第3・表

マレーシア連邦議会(Dewan Ra’ayat)

S.U.P.P P.A.N.A.S Alliance Independent TotaI

 .  3’ ・↓   4 .

3↓2、

17

ォ18

1↓0

24’

(338) 136

Page 51: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ぎぎΦの中心的問題は第一省と第三省の∪三匹o轟一〇〇ロロo出,におけるOo§。出20σqユの代表を選出する選挙に集中する

ことになったわけである。特にクリティカルな状況は第三省に存在していた。すなわち第三省の国轟富5σqコω三900ロ昌・

o躍には》=冨暮oに傾斜している}人のぎ畠o窟巳o葺議員がいたが、第三省の○◎塁o昌2①σqユへの代表権をどの党がに

ぎるかを決定するのはこの議員の動向いかんにかかっていたのである。この議員をマラヤ訪問に旅立たせるという段取り

がつくられた。サラワクにいるよりはマラヤに行かせた方が、かれに心変りをさせるかもしれない影響力をうけずにすむ

だろうという配慮からであった。この作戦は成功し、じdヨ。。$昌σqU馨ユ900塁。一一は≧蕾琴o側に多数をもたらした。つ

いで、-このこ老は第三省における憐ま帥づ8が多数派となったということに翻訳され、さらにOo当亀20σqユの一一議席

                   (9)

が≧匿暮oの占めるところとなったのである。この過程における政治的操縦はまことに術策的であったといえる。

Oo口屑出Z①σqユにおける、〉ま雪8に所属しない第一省選出の議員は、ψご゜即勺と劉〉.Z°〉°ωとのあいだの協定

から生まれたものであった。. .  、

 上にのべきたったサラワクにおけるけ§昌ω盆ヨから生ずる結果は、第二表に整理したとうりである。そしてOo塁o=

Z①σqユにおける各党の実勢力が基本となって、クアラ・ルンプールの連邦議会においてサラワク州にたいし配分された二

四議席を、各党で割りふることになるのである。したがって、その割りふりは第三表のごとく、 〉岳き8葺噛ψd°即℃

(ω

チ ℃°〉°Z°}Qり〔ωご ぎαoO①づαo暮ω(ごということになった。しかし、その後、若干の変更があり、ぎα80&Φ旨ω

は消え、かわりに〉≡き8が一議席ふえ、ω゜d°男℃も一議席増加し、、勺゜》°2°》°oりは下部レベルで背党者が出た

           (10)

ため一議席を減じたのである。     ’   : ・     ・:

(339)137

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サラワクの政党制について

゜連邦議会におけるサラワク州選出議員二四名の構成にかんし、明らかに非・代表性がみられる。すなわち、≧ぎ昌8ま

U噛ω三。呂。嘘ロ。量Φ。菖。昌で獲得した票の数という条件からすれば、過、剰、欧代表をおくりだしており・ζれに反し・ω゜旦

            ヘ   ヘ   へ

軍と軍.Z.》・。,は過少にしか袋を出していない・とになる。・の代表性のアツバランスは・。§°凶壽ひ・ユ議員

におけゐ三名の指名議員全部が.》霞凶ロ8議員であるということ、およびこれらの指名議員はU帥ω註900§o出田Φo自oロ

で立候補していなかったり、あるいは立候補していても選挙に敗れていたということを考えにいれるならば、ますます拡

大述れたものだとい・つ印象書ける・とはできない。というのも、連邦藝における゜党派別の講わりあては9。昼

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

累。・,是おける全議員の所属党簿もとついてなされるからである。そ・から、・の舜゜・誓ヨのもつ不公平な代表性

について論ずることも充分可能であるが.窃反面、・次のような考え方をする・ともでぎるかもしれ鼠・つまり・ガバ

ノ。トの最も低い。ベルにおいて、.立候補しなか・たり、あるいは肇で敗北したりした人・が・実は大きな議会の立候

補者としてはベターであったり、充分、当選できたかもしれぬということである。. ・  }        一.

∴旺(1) 国゜9菊翁ρヨ四日9昌住閑゜ω゜鼠出昌ρ℃°bQQ◎N°                      …   °°  「  ° 、

 (2)言・肖ゆ三Φ蚤着・×ヨ葦を整理作成した。   ’, °

 (3)量2電゜b。°。O~b。°。①願

(、).例えば、。昌・円Φζ国・三。一.・↓7・・,ま■.;・・鼠,・・喜呈㊤α・・㌔誤自に詳し藷じられている・・ほか・嵩己。け鑑

                                                       カ

  :、〉暑①昌巳×.凶昌国・φ≧。げ。冨の…日冨卑三昏Oo器門巴田①。音戸o抽目8ρい89PH8ど℃即ωbQ刈~q。ωQ。°         :

(5)お悌に蕪麟羅驕講鱒瓢誌難識欝獅靴薫加灘鞭数値を参照せよ.な

、(

U)蔭。僧一謬口量昌島ψ≦甘。・竃・.pまた薯たちは酒ヒめ鼻紮現象を必ずしもバ・ド・ワゴン効果ではなく・むし

138(、340)

Page 53: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラ1ワ’クの政党制についで

   うかれらが選挙運動の過程のなかで親マレーシァ的立場をとるようになうた、とするが、もう一?には、9【學ω3ヨの下で、

   ヨリ高いレベルに選出されるためには、‘<fらがえをして、まず有利な地歩をかためておく必要があったのだという。そして、ヨ

                                 ヘ   ヘビ  ヘ   ヘ

   ゾ高いレベルの議員に選出ざれれば、財政的にめぐまれるというのが、くらがえを促進した理由のようだとつけ加えている。

 (7) 一げ己4即b◎㊤H°一・  .     ・        :                      , ,

 (8) 置置゜     「   卜

 (9)量畠㌔』Φ卜。°.

 (10)崔2”b。㊤幽゜. .,‘,.   一

 、’                                                                                    「

          困゜            .

         (1)

§サラワクの政治過程

 一九六三年以降、サラワクの政権はω巽潜≦躊》ロ冨ぎ①が担当している。初め同党の書記長U舞02ヨoq冨5がサラワ

クの首席大臣〇三Φhζ巨ω8『となり、議長の目餌昌ω臥目①日o昌笹σqo昌σq冒σq魯き郎切巴窪σqは連邦サラ現ク省大臣に

就任した。ω帥鑓毛艮〉≡9。ぎΦ政府の治績の評価には殿誉あい半ばするものがある。しかし、それはそれとしU飴8

Zぢσq冨昌内閣は勺Φ銘臣が数においてまさっているということに充分の配慮をなすことなく、もっぱらω゜2°〉°勺のガ

を過信していたといえるのである。実際、∪曽82ヨσq臣ロの首席大臣就任にさいしてすら、≧蕾ロ8内部に、その地位を

狙う競争者の存在があった。つまり、Oのロぎ出Z①σqユにおける最大の党派は勺Φωp。冨であったから、この党は首席大臣も

          (2)

当然自派から出るべきだと考えていた。一方、∪讐oZヨσq惹コの支持者は、ψ2°》.「℃は勿論のことだがω゜ρ》と

切゜》°即勺〉°ψ》充った。炉》陰押㍗♪切゜》のホープく”.躊oσは黒ロ。げ冒oq選挙区で致北していたので、2ぎoq亙コ (341)139

Page 54: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

は材木豪商の中国人冒§①゜。脅o昌σqを選び副首席大臣に任じた。その結果∪舞。Zぎσq犀塁内閣の閣僚の党派別は次のよう

なものとなった。すなわち、ψ客〉’勺からは冒日。ω芝oコσqをふくめて三名(他の一名はUロ房雷冨国巳9。三①地方自

治大臣)、切゜》°即一゜》°ψ〉からは二名(》げら巳三昌寓卑ヨニ住が通信労働大臣、〉毛碧σq出言冒三三昌勺①ロσq凶H鋤昌〉昌…

                                            (3)

が国務大臣)、ω’ρ》から一名(U葺o目①o国ロ聴留昌σqが農林大臣)という割りふりになったのである。

 大たいψZ°〉°℃も℃oω鋳帥も、その本質はコミューナリスティックなダヤク人党なのである。しかし、その政治へ

のアプローチは根本的に異なるものであった。たとえばUΩ。82ヨαq冨昌の考え方は、いかなる政府といえども、サラワ

ク在住の富裕な中国人有力者の協力が得られなければ、何事もなすことはできないだろうというものであり、一方℃o沼臣

は中国人の影響力から自由であるような乏潜け貯①≧匿昌8たるべきだというのであった。こうした中国人問題にたいする

両党のあいだの考え方の相違からくる緊張は、一九六五年五月、最初のクライマックスをむかえることになる。

 サラワクにおける中国人にとって、決定的な意義をもつものは土地問題であった。というのも、土地法によって、中国

                                (4)

人に譲渡売買できる土地はζ冥①阜No器という表示のある小さい部分の土地だけだったからである。もっと広い土地を獲

得できぬという挫折感が中国人をして心理的に反・政府的立場をとらしめるのみならず、実際に共産党の秘密組織に接近

させる要因と考えられた。そこから、U暮oZ冒σq冨ロはOoロロ。出20σqユにおいて、中国人の土地獲得が容易になるような

主旨の法案を審議することにしたのである。ところが、一方においては、この土地法改正は、自らのネイティブ・ランド

の権利を残しておきたいというダヤク人やマレi人σ心理と葛藤するものとなったのである。したがって、この改正法案

はコミューナルなグループ間の友好関係をテストするものといえた。それはさておき、ひき続く審議過程の中で、まず

140(342)

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  bd°〉°多い》°ψbが≧】ご昌8からしりぞき、ついで℃Φコσqゴ巳ロ↓9三ω嵩を含めたψZ.〉°勺の要人数名が℃oω鋤冨

  にくらがえしてしまうのである。かくてU纂oZ言σ9匿昌内閣は土地法改正案を徹回せざるをえなくなる。しかし、その

  徹回と同時に切゜》°戸い鋭ψ〉は≧ぎ昌oo に復帰し、そのメンバーは国務大臣の地位に再び就任したのである。

  そして、これに加えて、新たにえられた結末の一つとして、℃°〉’2°〉°ωが〉=冨昌8に結合する決定をなしたこと、お

  よび℃①沼冨と即〉°Z°》°ωの双方に対し内閣のポストが割り当てられたことがあげられる。つまり勺①器冨の目餌冨コσq

  ピ器旨σqと勺o昌αqげ巳ロ聞冨昌9ωd∋℃mロは国務大臣に任命され、勺゜》°客〉。ωの議長〉げ潜ロσqO芸ヨ9。昌は新しいポスト

て                 (5)

訓.である芝o臣【9嘱o耳げ9。巳ωOoコω大臣の地位を得たのである。

轍・うして、美五年の危機はひとまず回避・れたものの、中国人膿は依然サラ・クにおけ・波乱をふ惹のであ

瓠・た。そして、一九六六年の六月に、サラワクの政局は再び危機をむかえる・とになるのである。・うした、たびかさな

クワ 宥危機的状況の背景には℃o鶏冨や切゜》°即い〉°ω゜〉の指導者たちが主張していたような、若千の有力な中国人資

 フサ

 本家たちにたいし、材木伐採の特認が、あまりにもでたらめな、そして問題の多いやり方であたえられていたということ

                                    (6)

  が存在していた。そして、この間題の政治的ディフォルメは次のとおりであった。①中国人にたいするもうけの多い木材

  伐採特認問題は、結局はダヤク人の支持をヨリ多く獲得しようとするψ゜Z.〉°℃対℃。紹臣の政争の具と化していたこ

  と、②非・都市部開発の速度の緩慢さ、°③官吏はすべてボルネオ人たるべしとする運動 (団WO「昌①Oコ一鎚ユOコ)、④ω゜。旨≦鋳

  〉≡碧8指導部にたいするクアラ・ルンプ!ル中央政府の不満、である。

  ㌦第一の問題についていえばおおむね次のようである。つまり、当初、ψ2°》°℃は第二省留8昌∪三ωご雷に主とし

(343)141

r

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サラワク’の政党制について

てその支持を求めていた。、一方、,勺Φωm冨は第三省円罠註U三ωざ昌における支持に依拠七ていたのである。そしてこう

した勢力区分は相互に暗黙の諒解があったといわれていたが、勺①器匿がダヤク人票およびマレー人票を未組織の地区の

みならずψ2°炉℃の牙城においても求めはじめたとき問題が深刻化することになった。℃①給訂としては第二省および

第四省司o震誓U三ω帥8において組織化を進めるためには土地問題は絶好のトピックと考えていたし、このような勺①沼冨

の挑戦に対するψ」客》°℃の対応は第一省において組織化を深めることだちたのである。°一九六⊥ハ年の六月の初めに

砥ρ.客》°用は図ロ曾ぎσq支部(第一省)を開設し、そのO冨貯ヨ9。昌に百万長者の銀行家∪緯o芝8国。oα目o鼻をすえ

たのである。しかしこのことはω゜Z°》°勺が中国人メンバーを増強し次第にマルチ・レーシャル・パーティになるとい

う方向にすすむ屯とを示すものだった。.第二の問題点である非・都市部開発のペースは基本的に重要であ?た。というの

も、このことなガバメントがマレ!シア体制によってもたらされ売経済的チャンスを利用することができなかったこと、

すなわちU葺o乞ぎひq冨口の指導力をもづてしては急速な発展は期待できないとざれたことだからである。勺Φ沼臣は、たと

えば道路建設計画は”権利なきままに居住している中国人たち鼻巨ΦωΦωρ轟詳臼ω”の利益にだけ奉仕するものとなって

いて、ダヤク人のロング.ハウス之カンポンという生活水準の改善に対しては何ら役立っ庵のとなっていない、という攻

撃をなしたのであった。こうルたダヤク人の生活水準を向上させるのに失敗したという攻撃にたいし、∪§のδコ国民曽惹①

一ψ客}℃の副議長、地方自治大臣コは、抗議して辞職するのではないかと一九六六年のはじめごろ伝えられて…冠。

そして、かれ篭貧・・答流するだう・といううわさも流難けれども・結局政府におけるその地位にとど三たの

である。第三の問題つまり切oヨOo巳怒けざロということは、ボルネオが独立した後も噛依然として行政部内に英国人官吏

142(344)

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  が存在している之炉うことの裏がえしなのである。つまり、 植民地時代の官吏に独立後もひきつづき依存しなければな

  らないという事実にたいする批判は、サラワクにおいて「はもちろんクアラ・ルンプールからもなされていたのである。

  ∪導o乞首αq臣昌はての問題に対処するために切o∋8巳鑓けδ昌OO目ヨ葺①Φを作ったものの、英人官吏は必要とされるか

                                  (9)

  ぎりとどまりうるものとされ、結局切o讐①8冨酔ざづの実行は不可能であることが明確になったのである。

   こういった一触即発的問題の存在にもかかわらず、またそれらのコミューナルな誇張にもかかわらずω9。冨≦鴇〉罠ロ。剛ざo

  とその反対党はコミューナルな区分を超克して、ある程度の連帯性をしばらくのあいだは持続していた。しかし独立以後の

て鮎  サラワクにおける最も重要な政治的危機が一九六六年六月十二日、遂に到来することになった。Uロ82ぎσq屏塁は》匠巳

臆                              (10)

齢  臼巴ぴぴ旨竃魯日鼠を叛逆者として、また反・政府的陰謀の教唆者として解任した。℃o紹犀9。と切’〉°戸9鋭ω゜〉の

敏  内閣のメンバーはただちに辞職し、これちUgo2冒σq冨づ’と意見を異にするグループの代表がクアラ・ルンプールに飛

”  びBロ艮q>げら巳幻魯日9。口の助力を求めたのであ6。幻四げヨ9。昌はU韓oZ冒σQ閃9。昌の首席大臣たる職を解き、当時切9。冨コσq

影  いε胃臣ω三900巨o昌の議長であった勺Φ昌αqげロご目鋤忌ω出をあらたに首席大臣として任命した。℃8σQげ巳¢↓9ヨω犀

 , 

 ¢泣場は、このとき明らかに強力なものだった。なぜならOo§。出Z①αqユの議席の多数は℃①紹臣と炉〉°即一゜》°ω゜》

  によって確保されていたのに加え、即鋭客}ω議員の三」分の二が新ガバメントを支持するという決定をなしていたか

  ちである。↓餌豊ω嵩はψρ》にも働きかけ、その支持を得るかわりに一ないしそれ似上の内閣のポストを与えるとい

  う約束をした。ψρかはこれにこたえ、新しい指導部を支持する走いう宣言を発した。というのも、ψρ〉は中国人の

  利益の保護という叢の他に、ψ琴尾が中国人の党ロ貝を謬して雛という状況の現実的認識をなしていたからで

(345)143

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  ある。しかし、実際は新ガバメントにとっては中国人の支持を得るということがこのとき少なくとも重要なことだった、

  といえる。かくて孤立したU9825σq臣昌はかれの解任の合法性を法廷で争うことになる。そしてその結果、かれは一

  九六六年九月に勝訴の判決をえたが、これに対しクアラ・ルンプール中央政府は直ちにサラワクの非常事態宣言を発した

  のである。その後、数日間の同盟の変遷、離合集散という混乱の続いたのち、↓ロ惹ω嵩は首席大臣に復帰し内閣は再び

  主要なコミューナル・グループで構成されることになったのである。

 ● 

 §ω.dの℃°℃の内部葛藤

てい                    (12)

   一方、ψq’勺゜勺の内部にも葛藤があった。ω’¢°”頃の党内におけるトップクラスのリーダーたちは、シンガポー

つ塵齢 ルにおけるい①Φ国口帥ロ団①≦の℃8覧Φ、°・>o臨o口勺9。目蔓をばマルチ.レーシャルなナショナル・ポリティックスのモデル

政の としてみなしていた。しかるに他方においては、党の選挙区レベルで、とくに第一省と第三省の非・都市部における中国

クワ 人地区で、強い影響力を有する容赦なき反・マレトシア派の人々の存在があった。そしてこのような人々は”》°勺にた

一フ

サ  いしてではなく、シンガポールにおける切里墨4曽。芭δのかかげる目標に共感する之ころの多い人々であった。ψd°”

  ℃の内部にはこの二派の間の暗闘が存在していたのである。O昌σq区oo閏巳とoり89Φロ磯oロσQの、一九六五年六月におけ

  る辞任はこうした両派の間の軋韓のもたらしたものである。この二人の指導者たちはピ①Φ国轟づく①≦の提唱する大・反

  対党結成という目的をもった、ζ巴曽蕩冨昌ωoま凶ユ蔓Oo昌くΦヨδ昌に参加することを欲していた。しかし党内の戦闘的分子

  は、マレーシアに.おける穏健な反対党という構想に同調する考えは毛頭なかったのである。そして六月にひらかれたψ

  d°”℃中央委員会もOロσql嘱oロσqラインを支持しなかったのである。O旨σqはψ¢°”勺を去るであろうとうわさされ

144(346)

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サラワクの政党制について

ていたがく80qとともに七月には復帰し瓢党の重大な分裂はひとまず回避できることになった。 一方、六月における

Z冒σq訂β危機の間、ω曾2°〉.勺は勺゜》’2°〉°ωやω゜ρ〉およびω゜d°勺゜勺と統一戦線をつくることを提案して

いた。これに対しψd.℃°勺の戦闘的分子たちは、その代償として、マレーシアからサラワクを直ちに切り離すこと、

               (13)

およびすべての政治犯の釈放を要求し、ために統一戦線の実現をみることはできなかった。

 ω’¢°勺゜℃の穏健派と過激な左派との対立は、党の分裂という危機に通ずるものとみられていた。しかし、時のたつ

のにつれて分裂の危険は遠ざかり、サラワクの内政にクアラ・ルンプール中央政府が干渉せぬように望むという線で両派

の一致が得られたのである。ω゜d°勺゜勺は、内部における左右両派の葛藤というむずかしい問題にもかかわらず、また

その指導部の多くのものが.、Oo口坤oコ富酔δ旨..およびその結果としての治安維持の強化のゆえに検束されているにもかかわ

らず、ダヤク人やマレー人のあいだに同盟者を獲得するのにかなりの成功をみせている。しかもそれは勺oω9。冨というダ

ヤク人保守党の牙城において成功しているといわれているのである。思うに、ω゜ご゜即勺のこうした進出のかげには、

サラワクの内政にたいするクアラ・ルンプールの干渉を不満とする政治心理や、開発のテンポの緩慢さに対する不満が、

中国人およびネイティブの双方に存在しているということである。したがってψd°”℃は一方ではネイティブの支持

を固めつつ、おそらく、殆んどの中国人の忠誠心を自由にしうる党であるといってもよいであろう。

註(1) O°》°ピo。喜碧αは、サラワクの政治生活の特徴は、混乱、分裂、および、たびかさなる危機にあるとのべ、それゆえ、ここは

 ・  (政治的)分析を試みる価値のあるくらい悪ズレした政治的葛藤が原始的な奥地としては珍らしいほど存在するとしている。

   ρ〉°ピ8寄9■aる巴■9ρ勺臼8昌9■犀δω四巳9芭ω℃巳凶晋ωぎω国田壽貯こo旨昆一〇hω〇三冨o舞諺ω凶雪宙ω仲09竃碧。戸日㊤①刈㌔’=ピ

 (2) Oo§。旨Z①σqユで用いられる言語は英語であった。そこで英語を話せない目o日Φロoqひqoロαq冒ひq浮の首席大臣就任は無理であっ

(347)145

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サラワクの政党制について

  た。

(3) 0°〉’ピoo与胃P℃°に8脚註参照。

(4) サラワクにおける土地は次の五つのカテゴリーにわけられる。

  ①≦×Φ匹No昌oピ弩匹11約四、六〇〇平方マイルの面積があり、どの人種にたいしても譲渡できる。

  ② Z帥江く。》「$ピき住肺二、六〇〇平方マイルの面積があり、ネイティブだけが占有したり、この土地の証書をもったりするこ

   とができる。

  ③ Z豊くΦ9ω8日碧団訂巳1ーネイティブによって慣習的に保有されているすべての土地で、誰も証書をもつことができない℃

   この土地はの7津冒゜Q。巳梓貯oけδ昌のためにもちいられる。

  ④即①ω臼<oい碧011これは英国皇室の料地、料林などである。

  ⑤ぎ8円δ円〉おoい冒匹11右記のカテゴリーのどれにもはいらない遠隔の土地で、内陸の原始林におおわれている部分。

   このような土地制度のねらいは、ネイティブでないもの、特に中国人にたいする土地の譲渡を制限することにある。(ζ巴塁ω㌶

  囑8円国o言HO①メ℃°ωO㊤゜)

(5).O’》°いo。穿霞鼻即=o。°脚註参照。

(6) 一窪α4℃即嵩Q。~に㊤.

(7) ω9・B≦更くきσqロ母9閃①9同卜。”H8①.ρ》ピo。喜碧鼻℃°HH9より引用。

(8) ωo鎚≦9。屏く蜂。昌σq爵『P>唱戸HP目㊤①①」馨q°より引用。

(9) ω9。δ≦p・貯く弩σQ轟円P諺胃゜H剛μ㊤①9H窪α゜より引用。

(10) ω9・冨ミ舞く雪σq爵乙り冒器ドρ巳①①」ぼ匹゜より引用。

(11) ω言卸諺目日①ρ言ξb。.H㊤①①」げ準より引用。

(12) ρ》り8写母辞勺゜おρ

(13) ω霞巴冨目凶日①ρ甘昌①Nρお①ρ8箪”男這ρより引用。

146(348)

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(四) サラワクの国際政治における地位

(349>

サラワクの政党制について

 マレーシアという構想は誰が考えついたものかいまのところ明らかではない。しかし、その成立が東南アジアにおける

中国人コミュニティのあいだに、新らしい整頓線を生みだしたことはまちがいないのである。いわゆる穏健派の中国人た

ちはこのマルチ.レーシャルな連邦を建設することに賛意を表し協調的な態度をしめしていた。だが、同じ中国人であっ

ても左派に属する人々は、このプログラムに伺調する用意は決してなかったのである。だから、サラワクにおける中国人

だけが、この地域に中国人の国家を作ろうと望んでいたわけでもなければ、またシンガポールにおける中国人のみがその

有権者のための最低線の要求を行なっていだのでもない。東南アジアに存在する中国人コミュニティの、いわゆる進歩派

のものは誰でも、たとえば、マラヤ連邦というごとき、マレー人貴族の支配を永続せしめようとする政治体制の生成にた

                             (1)

いしては、根本的に共感をもつことはできなかったといえるのである。したがって、このような立場にある中国人たちに

               ナンヤン

喝てみれば、マレーシア計画は”南洋”における中国人コミュニティがかかえている諸問題を解決する方策として喜んで

うけとめることは到底なしうるところではなかったのである。

 それゆえ、イン・ドネシアがマレーシアにたいし、.Ooづ貯o算9けδ昌、.政策をもって対立していた当時の、北京とジャカル

タとのあいだの事実上の連携は、サラワクの中国人たちをしていちじるしく鼓舞せしめるものとなったのであり、かれら

宅て…ネシア・ゲリ・隊のサラワク浸透にたいして・しきりに手を貸すように促が控理由もそこにあ・た・とこ柳

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サラワクの政党制について

うが、一方では奇妙なごとに、インドネシアにおいては、中国人コミュニティは圧制のもとにさらされており」公然たる

そして時に暴力的な迫害をすらこうむっていたのである。初め、北京はこれにたいし、強い抗議を行ない、ために北京と

ジャカルタのあいだに、一時期、緊張の高まりをみせたこともあった。だが間もなく両者の関係は修復されるのである。

そして、インドネシアに反・中国人暴動が再発したときですら、スカルノ前大統領はこれを、中国とインドネシアの仲を裂

こうとするアジテイターのしわざであると説明し、北京もまたこれにあい呼応するのだった。両国の外交関係は、依然、

良好な状態におかれ、反・マレーシアという双方に共通の政策が弱められるようなことはなかった。この一見、奇妙にみ

える関係にも、しかしながら、充分な理由を見出すことができるのである。

 ρ即国言○臼巴αは、インドネシアにおいて中国人コミュニティにたいし加えられた圧迫は、あらかじめ北京よりとり

                                            (3)

つけられていた諒解のもとに行なわれたものであり、またインドネシア政府の奨励するところでもあった、といっ・てい

る。かれは両者のあいだには、インドネシア在住の中国人たちをしてヨリ敵意の少ない地域に移動させようという意図お

よび(暗黙の)諒解が存在していたとみているのである。そして、もし、そのときサラワクに中国人の主宰する独立の国

家が成立していたとしたら、このように迫害されている人々にとって、その国は恰好の避難場所となるものだったであろ

うし、他方、独立サラワク国にとっても、インドネシアからのこれら新移住者たちが、もっぱらかれらの技能と経験のみ

ならず、資本をも伴なってくるとするならば、充分なる歓迎に値いする増強とみなすことができたであろう。そのうえ、

このことはインドネシアにおける中国人コミュ・ニティの再編成過程の進捗に資するに足るとともに、サラワクをも利する

ものとなろうから、両地域が当面している問題を一挙に解決する最善の策となるものでもあった。それゆえ、サラワクの

148(350)

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サラワクの政党制について

中国人の眼にはインドネシアの.、9昌蹄05冨けδ昌.、政策は、あたかも力強い解放勢力の作戦の一環として映じたのである。

 一方、北京の真意は那辺にあったのであろうか。思うに、それはインドネシアに在住する同胞の生命や財産の保護を考

えることにあったというよりむしろ、東南アジア地域における植民地勢力ないし西欧諸力に反抗する運動をこそ高く評価

するものだった。ところが、マラヤ、タイ、フィリッピンなどにはすでに確固たる反共政府が樹立されており、共産党は

非合法政党とされていたし、また、これらの諸国の中国人コミュニティは、多かれ少なかれ差別的な法の下に生活を営な

んでいたのである。たしかに、北京はこれら新興の諸国の政府を非難しつづけ、そこに在住する中国人同胞は抑圧的状態

にあると、たえず述べたてていた。しかし、北京の第一の関心事はこれら個々の中国人コミュニティの境遇の順逆にあっ

たのではないのである。実に、北京の関心の第一義的なものは、その国際的な、戦略的な配置状況そのものにあったとい

えるのである。それゆえ、よしんばマレーシアが、その国に存在する中国人コミュニティのとりあつかいをヨリ自由にな

したとしても、北京の反・マレーシア政策が俄かに改まるというものではなかったであろう。北京がマレーシアに反対し

た理由は、第一にインドネシアの歓心をかちとることにあり、ついで東南アジアから西欧の諸勢力を駆逐することにあっ

智卸らである。そのためにはまずマレーシアを存続させてはならないし、ついで、これを破かいする有効な道具として、

ひとしく東南アジア地域の諸国がかかえている中国人問題が用いられることになったと思われるのである。

 およそ東南アジアにおける中国人コミュニティは定住を開始して以来、何世代も経ておりながら、その文化.慣習にお

いて、常に中国への志向性を失なわぬのである。そして、戦前においては、かれらは居住している地域の政治生活には、

いかなる面においても関与することをさけていた。しかし、戦後、東南アジア一帯に薪興の独立国家が出現しはじめると

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Page 64: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

かつての西欧の植民地勢力は後退し、ネイティブと中国人とのあいだの人種的衝突を仲裁するという役割りを果すものが

そこにはなくなった。中国人たちは、ネイティブの新らしい支配者たちと直接交渉をもたざるをえなくなったのである。一

方、新らしい政治的主人たちは、中国人たちがその国の商業や産業をひさしく支配し、あまつさえ、かれらの母国にむけて

変らぬ愛着をしめすがゆえに、中函人を好意的な眼でみるはずはなかった。こうした異・コミュニティの間の争いという

危険をはらんだきびしい状況のなかで、中国に共産主義政府が樹立されるのであるから、この危機の度合いが一層強まっ

たわけである。つまり、中国本土で何がおころうと、依然として変わることなく中国をみつめている中国人コミュニティ、

                                    

そして自らと中国の政治的運動とのあいだに常に一体感をもっている中国人たちは、東南アジアの新興諸国においては、

共産主義のシンパサイザーとしてみられることが多くなったのである。

 中国はいまや共産主義政府の治下にあるのみならず、その及ぼす影響力が東南アジア全域にわたる強大な国家となった

こともうたがいえない。その力は、かつての清や国民党時代の中国と同日の談ではないのである。したがって、東南アジ

                   

アの新興諸国における中国人コミュニティは、かつての、棄民のコミュニティでもなければ、国民党にたいする民族主義

的財政援助者のコミュニティでもない。その性格は大きく変わったのである。いまや、東南アジア諸地域の新興国家の支

配者たちは、これを共産中国の潜在的勢力だとみているのであり、かれらがこれを恐れている主要な理由もそこにある。

マラヤにおける非常事態宣言中の騒乱は、事実、中国人コミュニストによってひきおこされたものであった。

 かくて、東南アジアの中国人コミュニティは、往時とは異なり、高められた地位を期待できるかもしれぬ。しかし、一

方において、かれらがいつまでも中国にたいする精神的、文化的な愛着を示すかぎり、また、それがかれらの現に居住し

150(352)・

Page 65: サラワクの政党制について URL DOI - Meiji Repository: ホーム...90 (一 j サラワクの歴史と政治的風土 サラワクの政党制について 装備をほどこした帆船に乗組員をしたがえてサラワクにむかったのである。時に一八三八年一〇月のことであった。当時第一次ビルマ戦争で負傷し一八三〇年に軍を退くが、その後、父の死にさいし三万ポンドの遺産を相続する

サラワクの政党制について

ている国々の政治権力の分与という問題と結びつけて考えられるかぎり、

』一

eィ聞の軋韓を全く避けるということはできまいと思われるのである。

マルチ・レーシャルな社会における異・コミュ

註(1) ρ即霊自O虫巴ら…目冨目三aO三昌9。矯日㊤①◎,㊤Q。°

 (2) 蛍ユ‘勺゜OP

 (3) 量ユ‘勺゜目OO°

 (4).マレーシアはもっぱら”新植民地主義”の道具であるとされていた。スカルノ大統領はたえず“マレーシア粉砕”を叫んでい

   た。しかし、粉砕後のプログラムについては何らふれゐところがなかった。(O’勺゜H認梓N∩甲①門9一α讐℃°O㊤゜)

 (5)拙稿、 「マレーシアおよびシンガポールの政党制について」、明治大学社会科学研究所紀要第七集(創立十周年記念号)、九

   〇頁~九四頁を参照せよ。                   ,

 (6) 孫然はいわゆる華僑の数は東南アジア地域に最も多いが、かれらがどうやってこの地域に集まり住むようになったかについて

   従来いろいろな説があるけれどもどの説もつじつまがあわないとし「我常和一位朋友談到這個問題。我椚共同得到了結論、認爲

   必須從登展観鮎看、須要聯繋的方面、非常廣涯。」といっている。そして、「有的説、南洋資源豊富、容易生活、中國人肯吃苦、

   他椚去南洋的、大多是貧苦農民、因爲在國内不易生存;還有是後來出現了「喪猪仔』、因此有大批華僑『過番』、等等。我以爲這

   只孤住了一鮎或一個階段。有的還談到宋末、明末的遺民、爲了逃避異族建害而南移的事實。這當然也是一面。如果一條一條腫列

   起來、可以篤出許多條這類的鳳因。」とし、ざきに記したごとく「首先要採取登展観鮎。」とするのである。(南洋新話、二頁)。

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付 記

・本論文は、もともと、さきに私が「明治大学社会科学研究所紀要」第七集(創立十周年記念号)、昭和四四年三月刊、

に寄稿した「マレーシアおよびシンガポールの政党制について」と題する論文の一部分を構成するものであった。

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 昭和四一年および四二年の二年間の継続を条件とする同研究所の「特別研究」に応募するため、 「極東地域の産業開発 -

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サラワクの政党制について

と日本経済の地位について」というテーマを中心に、わが政経学部の教授、助教授など十数名で研究グループが形成され

たのは昭和四十年の秋ごろであったかと記憶する。そして、このグループの最初の研究長がいまは亡き大塩亀雄教授であ

った。しかるに、研究グループ結成後、間もなく大塩先生は御発病になり、爾後、約一年あまりの療養生活も空しく、つ

いに不帰の客となられたのである。けれども、そのとき結成された研究グループは現在もなお存続しており、ひきつづき

熱心な研究活動を行なっている。私もたまたまこのグループに加入することを許され、昭和四一年および四二年の二夏に

わたって東南アジア方面を視察する機会をえたのであった。そして、そのとき行なった研究調査の成果のうちの一つが、

さきに記した「マレーシアおよびシンガポールの政党制について」であったのである。

 当時すでに「政脛論叢」が大塩教授追悼号を刊行するというプランを明らかにしていたので、上にのべたいきさつから

しても、私は当然これに寄稿すべきだと考え右の論文を準備していた。ところが、昨四三年夏ごろ、社会科学研究所が創

立十周年記念号を出版するという通知を受け、つづいて前記研究グループのメンバーのうちから、私と後藤昭八郎講師が

これに投稿するという段取りが俄かに決まってしまったのである。しかし、同論文集も紙幅の制限から、すでに用意して

いた論文の全部を一挙に掲載することは到底のぞむことができなかった。そこで熟考のすえ、右の論文を構成する部分の

うち、ボルネオ地域にかんするところを切り離し、もう一度、編成しなおしたものをこれに発表したわけである。

 したがって、本追悼号のためには、その後入手七た参考資料もあったので、 「サラワクの政党制について」と題し、全

く新たに作成しなおしたこの論文を寄稿することにしだ。まことに拙ない出来のものであるけれども、もって大塩先生の

御冥福を祈りたいと思う。 (一九六九年三月)

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