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3 0.はじめに カントの法理論については,道徳理論との関 係をどう考えるかが一つの論点である。今日は, 彼の法理論と道徳理論との関係について報告を 行う 1 1.カントの道徳理論について─薄味の 理解 レジュメで,道徳理論についての「薄味の理 解」と書いたが,これはカントがとりわけ 『道徳形而上学の基礎づけ』の中で言ってい ることを,額面どおりに受け止めると筋の通ら ない,おかしな結論になることが多いため,控 えめに受け取ったほうが良いのではないのか, という趣旨である。まず彼は,周知のように, 『道徳形而上学の基礎づけ』の冒頭において 2 「義務に基づく行為」のみが善いということを述 べている。分かりやすく言えば,妥当な理由に 基づく行為のみが善いのだという,常識的なこ とを改めて述べていることになるだろう。とな れば,そこでいう「妥当な理由」とは何かが問 題となる。カントが『道徳形而上学の基礎づけ』 の中で終始一貫してとっている立場は,普遍的 に妥当する理由が,すなわち,同じような状況 にあれば誰にでも当てはまる理由として措定可 能な理由こそが「妥当な理由」だというもので ある。さらに,その理由が普遍的に妥当してい ることをみんなが理解していると仮定した場合 にも妥当な理由でありうることも必要とされて いる 3 そこから先が問題だが,何かをポジティヴに 命ずる,すなわち,○○という規範が普遍的に 妥当するということを積極的に定めようとして, カントがこのような議論をしているわけではな く,何がそれではありえないか,つまり,何が 排除できるかという観点から,こうしたことを 述べているように思われる。カントは,『道徳形 而上学の基礎づけ』あるいは『実践理性批判』 の中でいくつかの具体的な事例を出している。 「自分にとって都合がよければうそをつくべし」 や, 「誰にも気づかれないのであれば預かったお 金を横領してもかまわない」,そして「苦痛を避 けるためならば自殺をするのがよい」等である が,そういったものが普遍的に妥当することを みんなが承知しているという前提の下でなお, それらが「妥当な理由」たり得るのかをカント は問うた上で, 「妥当な理由」ではありえないと 述べ,排除されるべきだとする。 「自分にとって都合がよければうそをつくべ し」という法則が普遍的に妥当することをすべ ての人が承知しているとすると,うそをつくこ とで得ようとした便宜を得ることはできないは ずである。また,「誰にも気付かれないのであれ ば預かったお金を横領しても構わない」という 法則が普遍的に妥当することをすべての人が承 カントの法理論に関する覚書 道徳理論との関係についての一試論 長谷部恭男* * 東京大学法学部教授

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Page 1: カントの法理論に関する覚書win-cls.sakura.ne.jp/pdf/27/01.pdf3 0.はじめに カントの法理論については,道徳理論との関 係をどう考えるかが一つの論点である。今日は,彼の法理論と道徳理論との関係について報告を

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0.はじめに

 カントの法理論については,道徳理論との関係をどう考えるかが一つの論点である。今日は,彼の法理論と道徳理論との関係について報告を行う1。

1.カントの道徳理論について─薄味の理解

 レジュメで,道徳理論についての「薄味の理解」と書いたが,これはカントが─とりわけ

『道徳形而上学の基礎づけ』の中で─言っていることを,額面どおりに受け止めると筋の通らない,おかしな結論になることが多いため,控えめに受け取ったほうが良いのではないのか,という趣旨である。まず彼は,周知のように,

『道徳形而上学の基礎づけ』の冒頭において2,「義務に基づく行為」のみが善いということを述べている。分かりやすく言えば,妥当な理由に基づく行為のみが善いのだという,常識的なことを改めて述べていることになるだろう。となれば,そこでいう「妥当な理由」とは何かが問題となる。カントが『道徳形而上学の基礎づけ』の中で終始一貫してとっている立場は,普遍的に妥当する理由が,すなわち,同じような状況にあれば誰にでも当てはまる理由として措定可能な理由こそが「妥当な理由」だというもので

ある。さらに,その理由が普遍的に妥当していることをみんなが理解していると仮定した場合にも妥当な理由でありうることも必要とされている3。 そこから先が問題だが,何かをポジティヴに命ずる,すなわち,○○という規範が普遍的に妥当するということを積極的に定めようとして,カントがこのような議論をしているわけではなく,何がそれではありえないか,つまり,何が排除できるかという観点から,こうしたことを述べているように思われる。カントは,『道徳形而上学の基礎づけ』あるいは『実践理性批判』の中でいくつかの具体的な事例を出している。

「自分にとって都合がよければうそをつくべし」や,「誰にも気づかれないのであれば預かったお金を横領してもかまわない」,そして「苦痛を避けるためならば自殺をするのがよい」等であるが,そういったものが普遍的に妥当することをみんなが承知しているという前提の下でなお,それらが「妥当な理由」たり得るのかをカントは問うた上で,「妥当な理由」ではありえないと述べ,排除されるべきだとする。 「自分にとって都合がよければうそをつくべし」という法則が普遍的に妥当することをすべての人が承知しているとすると,うそをつくことで得ようとした便宜を得ることはできないはずである。また,「誰にも気付かれないのであれば預かったお金を横領しても構わない」という法則が普遍的に妥当することをすべての人が承

カントの法理論に関する覚書─道徳理論との関係についての一試論

長谷部恭男*

* 東京大学法学部教授

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知していたとすると,誰も人にお金を預けようとはしないはずである。こうした法則は,法則として普遍的に妥当しているとすると,自己破壊的となり,結局,普遍的法則としては妥当しえない。 報告者はカントの実践哲学を読みつくしたわけではないので,カントが道徳法則が斯く斯くに一義的に定まると言っていないという立証は出来ないが,少なくとも典型的な事例としてカントが提出しているものからすれば,このように,自己撞着を起こすために道徳法則となるのは無理だという理由で排除するために,「本当に普遍的に妥当しますか」という問いを立てているように思われる。しかも,そのような結論を下す際にカントは,こんなことは一般人が常識的な思考を働かせれば直ぐにわかることだ,と述べる。逆に,カントは,哲学者の言うことはあまり信用するなと言う4。哲学者はハード・ケースばかり考えたがるが,ハード・ケースばかり考えていると,むしろ議論が混乱する。一般人が直観的に理解できる標準的な事例を出発点とすべきだというわけである。 今述べた,普遍的に妥当する理由になりうるかどうかという論点を,カントは,定言命法

(kategorischeImperativ)の要請に適うかという独特の言い回しで表現する5。人は定言命法の要請に適う格率を自律的に定立し,それに従って生きるべきである6。 定言命法は仮言命法と対比される。仮言命法は,「もしお茶を飲みたければお湯を沸かすべし」とか,「日本で生活する以上は,裁判員としての義務を果たすべきだ」というように,条件がついていることが特徴である7。「日本で生活する」必要がないのであれば,「裁判員としての義務」を果たす必要はないし,「お茶を飲みたい」と思わなければ,「お湯を沸かす」必要もない。ただ,レジュメに「定式化の如何にはよらない」と書いておいたように,どんな命法も,条件を付けた形で定式化しようと思えばできる以上,条件を付けない形で定式化が可能かということにカントの重点はない8。ここでも常識的に

考えて,われわれがたまたま抱いている目的や欲望に依存しない普遍的に妥当する格率と考えられるかどうかを,カントは問題にしている。 今までの議論をまとめると,誰にでも普遍的に妥当する理由,しかも,そのことを誰もが知っている理由に基づいて行動すべきだ,それが善いことである,ということになる。しかし,この問いを通じて,誰にでも普遍的に妥当する理由がポジティヴに決まるわけではない。むしろ,普遍的に妥当すると万人が承知しているとすると自己破壊的となるため,普遍的に妥当する道徳法則にはなりえないものが何かを判定するための物差しとして,こうした問いは立てられる。そして「何が普遍的に妥当する理由」かは自分で判断すべきであり,そうするのが,自律的に行動する人格である。妥当な理由が何かを自分で判断し,それに基づいて行動するからこそ人間は自由だと言いうる。ここまでは,分かりやすい議論である。 ただカントは,「道徳的に自律的であること」に対して,別のより強い意味を与えている。これはカントの構成主義(constructivism)と呼ばれる側面である。カントが『道徳形而上学の基礎づけ』の中で述べているところでは,外在的に与えられた理由ではなく,自ら普遍的に妥当すべきものとして構成した理由のみが真の理由となる9。そうした理由に基づいて行動することこそが自律である。外在的に与えられた理由に基づいて行動すれば,他律となる。例えば,自分の好みとか傾向性は,外在的に与えられているものであって,それに基づいて行動するのは,他律である。そうしたものを離れて,「これは万人に当てはまる普遍的な理由だ」と自分で判断し,自ら立法し,それを普遍的に当てはめた末の行動こそ自律的である。 構成主義は,一体何を意味しているか。最低限意図されているのは,moralrealismの否定であろう。moralrealismというのは,何が道徳的に正しいのかは,客観的に決まっているという考えであり,後はそれを発見するだけというものである。構成主義はそうは考えない。客観的

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に存在する答えを発見し,その答えによっていかに生きるべきかが決まるということになれば,それは他律になってしまう。普遍的な道徳法則は自分で構成し作り上げていくことが出来なければならない。 ここで生じる問題は,なぜ構成主義を採らなければならないかである。結論を先に述べれば構成主義をとる必然性はないと考えられる。『道徳形而上学の基礎づけ』の中におけるカントの主張は,分析的に言うと,人間はそういう存在として想定せざるを得ない,というものと思われる。「分析的に」というのはどういうことかと言うと,カントの出発点は,人間は,ごく普通の人間であっても,何が正しい行為なのか,何が正しくない行為かは判断できるというもので,なぜそうしたことが可能なのか,それが可能だとすると,妥当な道徳法則たりうるのはどういうものかを引き出してくることが出来るはずだ,という考え方の筋道のことである10。その議論を突き詰めれば,カントが言っているのは,人間は自由な意思に基づき普遍的道徳法則を自ら立法できる存在であると想定しないと,常識人が普通に持ち合わせている直感的な道徳判断の能力が説明できない,ということのように思われる。 しかし,この議論は十分に説得的とは思えない。一般人が普通にどういうことを考えているかを所与として,それが成立するためにはいかなる前提がなければならないかを問うという思考方法は,「実定法には従うべきだ」という法実証主義的な一般人の想定を説明しようとすると,

「歴史的に最初の憲法に従うべきだ」というGrundnormをみんなが思考の上で前提していると考えざるを得ないというケルゼンの議論と11,同じタイプの推論である。しかし,カントが所与とする想定を説明するために,彼の言うような構成主義的な自律的人間像を前提とする必要はないと思われる。何が妥当な道徳原則なのかがあらかじめ客観的に決まっているとの想定の下で,人々は常識的にそれを認識できると考えても,カントが所与とする想定は十分に

説明できる。とはいえ,人々が常に正しく認識するという保証があるわけではないであろうが。 いや,「構成主義を支えているのはそういう推論ではない」という反論があり得る。では,カントがなぜこのようなことを言っているのか。それは,自分が抱いている価値観や世界観とは異なる価値観・世界観を抱いている人は世の中にたくさん存在するが,そのような人にも自分の道徳的判断を納得してもらおうとすると,自分がたまたま持っているそのような価値観・世界観は,理由にならない。そうなると,どんな価値観・世界観を抱いている人でも承認するであろうような普遍的な道徳法則に訴えていかざるを得ないのではないか。このような形で,自らの信念や世界観を一旦括弧に入れた形で,普遍的な道徳法則を自ら構成していかざるを得ないのではないか,という理屈の筋である。しかし,この理屈も構成主義をとるべき説明としては成功していないのではないか。というのも,ここでも問題となるのは,普遍的に妥当する道徳が成立しているか否かであって,それを自分が構成したか否かは関係がないと思われるからである。 この点については,デイヴィッド・ヴェルマンの論文が参考になる12。彼が述べているのは,なぜ構成主義をカントが採用しているかというと,人間というものは自由な意思を持つ,因果関係では決定されていない存在であると想定せざるを得ない,とカントが考えていたからである,ということである13。確かに,カントはそう考えていたであろう14。しかし,このような意味での自由な意思を措定しないと道徳というものが考えられないとか,実践理性などありえないということはないであろう。また,人間の行動について因果関係による説明が可能であることと,人間の意思決定が自律的であることとが衝突すると考えるべき必然的理由もない15。結局のところ,構成主義を採るべき理由は明らかではない。 さらに注意すべき点は,カントは定言命法の要請に沿って各人の定立する格率が,厳密に普

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遍的に妥当すべきものだとは考えていないことである16。つまり,数理論理学でいう普遍命題のように,「すべてのXはYである」となれば,Xである以上,必ずYでなければならない,というわけではない。彼の想定するところの「普遍的妥当性」なるものは,標準的な場面を想定すると,一般的にいえばそうすべきだ,という程度の話である。これは,カントが『人倫の形而上学』の『徳論』の中で,定言命法の要請に基づいて,たとえば「自殺をすべきではない」という結論を導いておいて,その上で,カズイスティックな問題(KasuistischeFragen)という項目を立て,戦場で捕虜になる危険に備えて毒薬を常備していたフリードリヒ大王の事例を改めて検討していることからも分かる17。標準的な場合にあてはまる議論が,しかも,一般人でも常識を使えば分かるという議論が,100パーセント常に当てはまると考えていたわけではない。この点でも,カントの議論は「薄味」で理解する必要がある。カテゴリカルに排除できるはずの行為についても,具体的状況に即した主観的判断を迫られる可能性がある。その他の多くの場合に各人が主観的に定立する格率については,そもそも相互に衝突する多様な格率の存立が予想されるし,その具体的状況への適用については,さらに判断が分かれうる。 最後に,カントの法理論へのつなぎとして,次のことを述べておきたい。最近報告者がいわゆる天皇会見問題で応用が可能だと指摘したことだが18,『道徳形而上学の基礎づけ』の中でカントは,理性的存在者(人)は,「自己も他人も手段としてのみではなく,同時に目的として扱うべきである」と述べる19。目的として扱われたときには尊厳が与えられ,手段として扱われたときには値段がつく。ここでいう「目的として扱う」は謎の言葉である。人間を「目的として扱う」というのは,日本語としては理解不能である。目的・手段というときの「目的」ではない。何かを目指す,あるいは実現すべき,という意味であるとすれば,人間は「目的」ではありえない。

 ここでカントが言っているのは,人間は,何かを実現するための「手段」として価値があるのではなく,それ自体として内在的に価値がある者として取り扱え,という話であろう20。この議論は,カントの法理論の中でも再び現れる。

2.カントの法理論について

 カントは,『人倫の形而上学』の中の『法論』の序論において,重要な点を3つ述べている。 まず,法とは何かということについて,「法とは,ある人の選択意思が他人のそれと自由の普遍的法則に従って調和させられうるための諸条件の総体である」と述べている。次に,これは同じ事をより分かりやすく述べているのだが,

「いかなる行為も……各人の選択意思の自由が何人の自由とも普遍的法則に従って両立しうるような行為であるならば,正しい(recht)」21。

「正しい(recht)」と言っても,カントはこのような意味で「正しい(recht)」ということばを使う,という立法的な定義として受け取らざるを得ないものであって,これは日本語の普通の語感の「正しい」とは,全く異なることに注意が必要である。 ここから何が引き出されうるか。「自由の一定の行使が普遍的法則に従っての自由の妨害(不法)である場合には,この妨害に対して加えられる強制は,自由の妨害の排除として,普遍的法則に従う自由と調和する。つまり,正しい

(recht)」22。法は,強制秩序であって,人がどう行為するかのみを問題としている。このような形での妨害の排除としての強制がrechtであるということが,先ほどの,「何がRechtなのか」ということのコロラリーとして出てくる。要するに,法は人々の自由の(普遍的法則に従った)両立を目指す。他者の自由を妨害する行為は法の強制によって排除される。ここで言うところの他者の自由も,普遍的法則に従った自由である。 問題は,少なくとも日本語の一般的な語感から相当に距離のあるrechtを,なぜカントが観念

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せざるを得なかったのか,である。その理由になり得るのが,自然状態から市民状態つまり法状態に,なぜ人間は入らざるを得ないかを説明する部分に存在する23。そこでカントが述べるのは,自然状態において,各人が自分にとって正しく,かつ,善いと思われることをなし,この点について他者の意見に少しも頼ることがないとしても,つまり,意思の自由に基づいて何が正しい行為なのかを自律的に誠実に判断するということを全ての人が行ったとしても,自然状態においては,各人・各民族・各国は相互的暴力から決して安全ではありえない,ということである。 このことが暗黙のうちに含意しているのは,定言命法に何が当たるか当たらないかということを,人々は自律的に各人が判断する。そして,それぞれの人が良心的な判断をしたとしても,それら判断は,必ずしも両立しない。善いことを行おうとして,人々がそれぞれ,それぞれにとって「善いこと」を行うようになれば,ホッブズ的な戦争状態に至ってしまう。そうした状態を解消しようとするならば,カントによると,

「各人が一切の法概念を廃棄しようと欲せぬ限りは,彼がまず決定すべき第一のことは,各人が思うがままに振舞う自然状態を脱して,すべての他者とともに,ある公的法則による外的強制のもとに服することを目指して結合し,……各人に対して彼のものとして承認されるべきものが法律によって規制され,充分な外的力〔強制権限〕によってそれが配分されるような状態に入り込まなければならない」つまり「市民状態に入るべき」である。各人にとって何が自由なのかということが,強制的な権限によって配分されているような法状態に入り込まないと,各人の安全が保障されない。 そしてこのことが,法義務の区分に反映する24。ここで,ウルピアヌスの3つの格言25を,カントは相当程度読み替えている。まず,①honestevive(正しき人であれ:�eieinrecht��eieinrecht�licherMensch)ここでいうrechtlichは,先ほどの特殊カント的定義に則したrechtの意味で理

解しなければならない。日本語の一般的な語感で言うところの「正しく生きよ」とは全く異なる。あるいは,honesteviveは,むしろ「名誉をもって生きよ」と訳すのが適切かもしれない。honesteは英語で言うところのhonestにも対応するし,honorにも対応する。ウルピアヌスの通常の訳し方としては,名誉をもって生きよと訳すほうが一般的であろうかと思われるが,専門家ではないので間違っているかもしれない。なぜそのように考えるのかというと,その一つの手がかりは,カントがそれに続けて言っていることである。つまり,「正しく生きよ」の中身は何かというとそれは,「他人との関係において自己の価値において一個の人間の価値として主張せよ」。すなわち「他人に対して自分を単なる手段とすることなく,同時に目的でもあれ」。これは,先ほどの目的と手段の議論を受けた議論である。自分が目的として扱われることを目指せ,いかに行動すべきかは自分が自由に判断する,そういう存在して他人から扱われるような,そんな人間であれということを言っていることになる。先ほどの議論と何処が違うかといえば,強制される普遍的な法則,つまり法の枠内において自律的に判断する主体として扱われることを要求しなければならないことを,honesteviveという言葉に込めている。 そして,そのように要求することは,他者に対してはそれを逆転させれば,②neminemlaede(何人をも害することなかれ)ということになる。それから,さらによく知られた③suumcuiquetribue(各人に彼のものを与えよ)を,カントは,「各人に彼のものが確保されるような社会へ,他者とともに入れ」という意味に理解している。文字通り,「各人に彼のものを与えよ」と理解すると,この格言は不条理で理解不能となる。すでに「彼のもの」であるものを再び「彼に与える」ことはできないはずである。したがって,この格言は,「各人に彼のものが確保されるような社会へ,他者とともに入れ」という意味に,つまり,強制的な権限によって(国家権力によって)何が自分の自由であるかが適切に配

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分されている法状態のもとで生きなさい,という意味で理解される必要がある。 ①②③は,このように意味を読み込めば,一つの整合的なセットとなり,結局のところ,国家の強制権限のもとで,何が各人の自由なのかが明確に確定された,そういう状態のもとで生きよ,ということになる。およそ法概念なるものを廃棄しようとせぬ限りは,そうせざるを得ないのであって,これが,そのような意味において普遍的な,道徳上の義務となる。法が定めているから義務となるのではなくて,これは道徳レヴェルの義務である。 今までの議論を要約すれば,自然状態を脱して市民状態に入ること,つまり国家の下で法に従って生きることは,人にとって第一の義務である。ただ,どの国家の法に従うか,どのような内容の法に従うかは,それらの法秩序が当該法秩序の下で生きるすべての人に同一の自由を保障する限りでは,一義的には決まらない。繰り返しになるが,定言命法を物差しとするだけでは,何が正しい行為なのか,何が正しい義務なのかは一義的に決まらない。一義的に決まらない判断を個々に自律的に行う人々が,相互に安全に暮らしてゆこうとすると,何か強制権限による自由の配分が必要となってくるはずであるが,その自由の配分の仕方も一義的には決まらない。ただ,それでも,いずれかの法秩序に従って生きる必要がある。そうしなければ,何が誰のものであるかは,確定しない。 そのことにつきカントは具体例を挙げている。それは,『法学教室』の論稿でも触れた26,公設市場での馬の売買による善意取得の例である。日本の民法でも,動産は取引を通じて善意取得されるが,なぜこういう制度があるのかというと,カントの説明によれば,もし善意取得がありえないとすると,一体真の持ち主は誰なのかを,無限にさかのぼっていかなければならなくなる。無限にさかのぼっていかなければならないとなれば,一体何が誰のものなのかは,永遠に確定しない。そのような事態になれば,物騒で仕方なくなってしまう,ということである。

 無限にさかのぼって誰が真の持ち主なのかということを議論しても仕方ないということは,実は国家の支配権の起源についても妥当すると,カントは明確に述べている。国家の最高権力の起源について無用な詮索をすることは止めよ。とにかく今,眼前にある実定法秩序に従え。さもなくば,自分の自由が一体どのようなものかが,永遠に決まらないことになる,というわけである。このように見れば,一見,抵抗権は否定される。ただし,この議論については射程に限界がありうること,つまり抵抗権が否定されるのは,当該法秩序が,何が誰のものであるかを確定する,自律的な判断と行動を可能とするような法の支配を提供している場合に限られるとの解釈の余地があることは,『法学教室』掲載の拙稿において示したとおりである27。

3.むすび

 カントの道徳理論は,人がいかに生きるべきかについて,一定範囲の考慮・行動を自己撞着をおかすもの,あるいは人を単に手段として扱うものとして排除する。その道具となるのは,定言命法の要請である。しかし,定言命法の物差しだけでは,人が従うべき道徳法則が一義的には決まらないため,人々の自由な行動を両立可能なものとして保障し得ない。 そのため,人々は,法則的な(法の支配に従う)外的強制の下で共に暮らすことが必要となる。そこでは,法の支配が成立している限りにおいては,個別の法の内容について異議を唱えることには意味がないため(それ以外の法があり得るという主張には意味がない),とにかく実定法に従え,という実践上の法実証主義が妥当する。 今,現にそこにある法秩序に従うことで,はじめて各人にはそれぞれのものが配分され,保障される。何が正しく(recht),何が不法であるかが定まる。

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1 本稿は,2010年1月10日に開催された早稲田大学GCOE「憲法と経済秩序」研究会での筆者の報告を必要な修正と最小限の注を加えた上で再現したものである。なお,本報告と関連する拙稿として「カントの法理論に関する覚書」立教法学83号(2011)がある。詳細な参照文献等については,同稿をご参照いただきたい。

2 『人倫の形而上学の基礎づけ』平田俊博訳,岩波書店カント全集7(2000)22�27節。

3 後掲注5で示した定言命法の要請を参照。カントは,自分の利益や幸福の実現を求める怜悧あるいは賢慮(Klugheit)は,行動に関する確実な指針を与えることができないと考えていた。『人倫の形而上学の基礎づけ』[A417�A419]参照。

4 『人倫の形而上学の基礎づけ』[A391,A404]。5 典型的な定言命法の要請は,「自己の格率が同

時に普遍的(道徳)法則となることを,自身が意欲しうるような格率に従ってのみ行動せよ」として定式化される『人倫の形而上学の基礎づけ』[A402,421],『実践理性批判』坂部恵・伊古田理訳,岩波書店カント全集7[A44]参照。

6 「格率Maxime」は,行為の主観的原理,つまり主体自らが定立する原理であり,それが客観的にも妥当しうる場合にのみ「普遍的法則all�gemeinesGesetz」となる(『人倫の形而上学』樽井正義・池尾恭一訳,岩波書店カント全集11

(2002)[A225]。言い換えれば,各人の定立する格率は直ちに普遍的道徳法則として客観的に妥当するわけではない。

7 『人倫の形而上学』[A221]。8 「約束をしたのであれば,それを遵守すべし」

をカントは定言命法だと考えたはずである。9 『人倫の形而上学の基礎づけ』[A398]。10 『人倫の形而上学の基礎づけ』[A392,A404]

参照。[A392]でカントは,同書でとった方法について,「普通の認識から出発して認識の最上原理を決定するまで,分析的に進行」し,「それから再び道を引き返して,その原理の吟味と原理の源泉から,その原理が用いられている普通の認識まで,総合的に戻る」のだと述べている。

11 HansKelsen,Reine Rechtslehre,2nded.(FranzDeuticke,1960),pp.200�209.

12 DavidVelleman, ‘ABrief IntroductiontoKantianEthics’,inhisSelf to Self(Cambridge

UniversityPress,2006),pp.32�35.13 裏側から言うと,カントは当時流行していた,

人間は生まれながらの傾向性によって何を目指すべきかが決められているという思想からの訣別を目指していた(JeffrieMurphy,Kant: The Philosophy of Right (Macmillan,1970),pp.38�39)。生まれながらの傾向性があるべき道徳を決めるという立場の典型は功利主義である。ジェレミー・ベンサムによると,人間は快楽と苦痛の差,つまり幸福の最大化を目指すべく定められた存在であり,社会全体として幸福の量を最大化することが唯一の道徳原理である(JeremyBentham,An Introduction to the Principles of Morals and Legislation,eds.J.H.BurnsandH.L.A.Hart(ClarendonPress,1996),p.11)。

14 『人倫の形而上学』[A215�216]での,道徳を経験的な幸福論に還元する議論への反駁を参照。

15 ヴェルマンの表現を借りるならば,人間は因果関係から自由でなくとも自律的でありうる

(Velleman,supranote12,pp.34�35)。16 これは,AlbertJonsenand�tephenToulmin,

The Abuse of Casuistry: A History of Moral Reasoning (UniversityofCaliforniaPress,1988),pp.186�87が強調する点である。

17 『人倫の形而上学』[A423]。18 長谷部恭男「天皇の公的行為」法学教室354号

(2010年3月号)39�40頁。19 『人倫の形而上学の基礎づけ』[A429]。20 この議論は,功利主義批判としての側面を持

つ(cf.Murphy,supranote13,p.39)。功利主義において,各個人は自律的な判断主体としてではなく,社会全体の幸福の量を集計する際の一単位として扱われる。つまり,目的としてではなく,社会全体の幸福の量を最大化するための一手段として扱われていることになる。

21 『人倫の形而上学』[A230]。22 『人倫の形而上学』[A231]。23 『人倫の形而上学』「法論」41�44節[A306�313]。

この部分の重要性を指摘する文献として,Murphy,supranote13,pp.124�25;JeremyWaldron, The Dignity of Legislation(CambridgeUniversityPress,1999),Ch.3;RichardTuck,The Rights of War and Peace: Political Thought and the International Order from Grotius to Kant (OxfordUniversityPress,1999),pp.207ff.がある。

24 『人倫の形而上学』[A236�237]。

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25 『学説彙纂』[1.1.10]。26 長谷部恭男「カントの法理論」法学教室352号

(2010年1月号)29頁以下。27 前掲注26)拙稿「カントの法理論」33頁。と

はいえ,カントの第一次的な目的が,正義に関する暴力的対立を排除する社会秩序の樹立にあったことは疑いがない。