カール・クラウスにおける 世界・ 言葉・性 - osaka city...

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人文研究大阪市 入学文学部紀 1 458 n 1993 ' r f: 107 --126 カール・クラウスにおける 世界・ 言葉 ・性 恨源概念、と時代批判 l 目次 (その 1)' ) 1 .カール・クラウスの思想圏 山口尚之 2. <根源> におけるトリアーデ一一芸術家クラウス 2.1 .官能性と詩的言語 2.2. 詩的言語と自然 (その 2) 3. <時代、 におけるトリアーデ一一批評家クラウス 3.1. 市民モラルとジャーナリズム 3.2. ジャーナリズムと文明 4. 根 源 概 念 と 時 代 批 判一 一調車I J 家クラウス (699) (そのの 107

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  • 人文研究大阪市投 入学文学部紀1門知 45ど会 第8分nけ1993'rf:107以--126氏

    カール・クラウスにおける世界・ 言葉 ・性

    恨源概念、と時代批判l

    目次

    (その 1) ')

    1 .カール・クラウスの思想圏

    山口尚之

    2. におけるトリアーデ 一一芸術家クラウス

    2.1 .官能性と詩的言語

    2.2.詩的言語と自然

    (その 2)

    3.

  • -108 四

    3. ぐ時代> におけるトリアーデ一一批評家クラウス

    ここでの とは,すでにふれたように, I到達点 Zieljとして

    の から離反した状態として, クラウスか把握していた

    射実の状況令般を怠味する。つまり,この現実の状況こそが,仮借ない批評

    家としてのクラウスの批判の対象となっている。前章ては,クラウスの思想

    闘における主要領域として掲げた ,, の問題か,

    それぞれの線源的状態においていかに結ひついているかを述べてきた。クラ

    ウスにと って,それそれの領域における根源的状態てある 「官能性J,r詩的百-話j,I自然」は,名々か独自の問題性を持つというだけではなく,

    への志向という点に収赦することによって,全体として一つの主題を形成し

    ているのである。この立ては, の対極にあるものとして想定された

    において,各テーマ間の関係を前章と対応する形で考察する。すな

    わち, I官能性」と 「詩的 F言語Jに対して 「市民モラル」と「ジャーナリズム」

    が,また, i詩的言語」と 「自然、Jに対して 「ジャーナリズム」と 「文明Jが,

    批評家クラウスの行う時代批判において,どのような主題的一体性を形成し

    ているか, また,根源、からの離反におけるそれぞれのテーマ聞の関係が,根

    源におけるそれに対して,どのような対応関係をもっているかが問題とな

    る。

    3.1 .市民モラルとジャーナリズム

    クラウスの市民モラルに対する批判が,初めて彼の執筆活動における明確

    なテーマとなったのは, 1902年に『ファッケル』に掲載された においてである。このエッセイで, I道徳、と犯罪一一この両者が相容れ

    ないことを示す最大の機会が姦通裁判であるj (SuK,27) と述べているよう

    に,この後クラウスは,主に性道徳裁判を素材としながら,性モラルに関す

    る問題に集中的に取り組み,それらのエッセイは,後に著作集『道徳、と犯罪』

    としてまとめられることになる。これらのエッセイにおけるクラウスの態度

    は,少なくとも当時の『ファッケノレ』の読者にとっては, この雑誌の創刊当

    初からの姿勢である,あらゆる社会的不正に対する攻撃の一環として受け取

    られたに違いない。クラウスが道徳批判に集中的に取り組むことによって,

    道徳及び性の問題は彼の単なる一つの対象としてではなく, rファッケノレJ固有のテーマとして認識されていくことになるが,いずれにせよ,その性格は,

    (700)

    -ー

    • ー』

    -

    -

  • カール・クラウスにおける世界・ 言葉・性(その 2) -109 -

    当初においてはそれ以前からの社会批判の延長上にあると言ってよい。創刊

    時から明確に掲げられていたジャーナリズムに対する批判が, これらの道徳

    批判のうちに示されていることも,社会批判としての 『道徳と犯罪Jという性格づけを補強してきたと思われる。

    市民モラルとジャ ーナリズムというテーマの結び、っきは, ここで改めて指

    摘するまでもなく, r道徳、と犯罪Jにおける重要な論点のーっとな っている。興味深いのは,クラウスにおいて と の領域が関わるのが,

    前章 (2.1.)で扱ったように,それらの 「根源Jにおける理想的状態に限られるのではないということである。それぞれの根源における状態である 「官能

    性」と「詩的言語Jの結び、っきは, もはや二つの領域が出会ったものという

    より,クラウスにとっては根源における一体性を意味している。これとは全

    く別の意味においてではあるが, I市民モラル」と 「ジャーナリズム」という

    根源から離反した状態においても, 二つの領域の連携が問題となる。2)そこで

    は, ジャーナリズムはまず市民モラルの非道の共犯者として弾劾される。ク

    ラウスは, Iモラル」という私的領域を「法」という公的領域から切り離すべ

    し,というそれ自体正当性を持つ要請を掲げ,また, IモラルJが犯罪とされ

    ることによる恐喝の危険性を指摘することによって,性の領域を擁護しよう

    とする。「性交を取り締まろうと司法がでしゃばったために,常に最悪の不道

    徳、が生じてきた。性欲を犯罪として罪悪視することは,国家による犯罪の常

    助である。密告者と恐喝者は道徳法学者の同盟者なのだ。モラルが法益とな

    るとき,自由,平安,経済的安全性という財産は脅かされることになる。」

    (SuK,183)個人の私的領域を公のものとする法廷以上に,それを一層はなは

    だしいものとしているのがジャーナリズムによる報道である。クラウスに

    とって, Iスキャンダ、ルを待ち伏せし,あれこれ報告しては秘密を暴露するイ

    ンチキ新聞,インチキな日刊紙,滑稽新聞」は, I一都市の道徳的雰囲気を数

    週間にわたって汚染し,審理された犯罪の不潔な撲をたっぷり含んだ不道徳

    の飛砂を蔓延させるJ(SuK,21)ことによって,道徳裁判のもたらす害患に荷

    担する。そして, I我々の自にふれないでいるならば,ある個人的な事柄が引

    き起こさないであろう公序良俗に反する行為J(SuK,151)を生み出すことに

    直接荷担しているのがジャーナリズムである。また,男性の道徳的逸脱につ

    いては黙認する一方,女性が同じことを犯した場合,道徳のファサードを押

    しつけようとする「道徳Jの二枚舌的な態度は, ジャーナリズムにおいても

    そのまま表れている。売春などの性道徳の乱れを嘆きながら,同じ紙面で実

    (701)

  • 11.10

    広告を掲略する新|閥比過酷:蹴判で掛り広lギ i三h 民事 I~ li 11 tん

    跡 11 1..., 1・μ ~J#.)14.そのものとともに,まさに市民モラルを陣現するものとして批 100) t ~ 1

    司を向けられる。 19~Ø r

    .......111の前徳批判のエ 1ツセイにおいて.クラウスの[語、間は.側々の1B接部. ~~~\~~ l~でも

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    は相容れないという当初|の空路,r,ι 「泊.徳 lとして拙けfられているイヂオロ r7 T'ケごーが「不迫徳J,ひいては犯昨的なものとなるという l論鴎へ変容していく 。 ~b\tlt~ j

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    ウスのl陥E理性にはすでに,拾の 「削妬 1への主印1"::31:イ|い十Irlrl献 :1"p ,;F, ~

    |の f[]燃J(官能性)を擁2更する立場で占豆一十日:fJ' t-10) f] ,rl九占 .1 e ~ • I・・

    クラウスは即座に肱棄してしまう。実の」品孟 孟 ー~

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    ーナリズムがセンセーシ g ナル1に取り

    である夫が|自殺に追いやられたハーヴィ

    のエッセイは曹『迫骨:と犯罪」の中でもとくに市笹な 1ものにs

    リスト教社会党の集会にやってくる選踊などよりも価航カ

    702

  • i-

    カール・クラウスにおけるt1t界・ 言葉・性 (その 2) - 111ー

    にはほとんど規定することのできない交件の理想に近いと思われる (SuK,

    100)とクラウスが述べたハーヴィ夫人に対しても,彼広が ー回惣録」によ っ

    てflらの 「宵能性Jに月、政みな表射を与え,正当化しようとするやいなや,彼Lとから距離をとっている。日

    がj主主でもふれたように, 1905年頃,クラウスの性の問題に取り組む基本的

    な盗勢が,社会批判から審美的立場へと変わ ってし、く 。特に,アフォリズム

    という形で,交性に除!する芸術家としての見解が明確にぷされてい く。

    『ファッケノレJにおける最初のアフォリスム (F198,12.Marz 1906)より後にEl;かれた ぐ りール裁判> (F211, 13.November 1906)では, 売春術の造り

    -婆マダム ・リ ーノレに対する 「道徳的J憤激や法 ・警察の対比;のに設偽件に攻

    撃を向ける -}j, アフォリズムにおいて展開されているような性についての

    穂美的見解が,同時に彼の道徳批判を支える論拠とな っている。ir先者をなくせ !~ ではなく,性倫周をなくせ ! というべきだろう 。 この性倫盟によ っ

    て,快業を金で買うことが搾取という刑事制裁のもとにおかれ,快奈は感染

    という刑事制裁一一これは,梅毒を 「狼袈Jに対する最後の手段としてと ってきたのだがーーのもとにおかれる。(…)同然は,男性の精神が副復する源

    泉としての有能性を女性に与えてきた。 しかし,さまざまな規範を作り出し

    てきた者たちは,男と交の|刻係を逆転させ,女性の常腎的なゼクスアリテー

    トを肉習に縛り付け,男性の機能的なゼクスアリテートを際限なく傾落させ

    た。このようにして[火性の 筆者花]優美さも[男性の 筆者作]精神性

    もひからびてしまったo !;J:.性には品性と自己意識が命じられ,男性には動物

    的な放縦が許される。そこで男性は,自分のつまらない欲求のために友性の

    官能性という奔流をどっと解放し,その結果,男の脳味噌は雫っぽになって

    しまう。この世の中,~,ゼクスアリテートはなお存在してはいる。 しかし,

    それはもはや,ある特質[友性の官能性 筆者注]が輝かしく展開したもの

    ではなく,ある機能[男性の'性欲 筆者注]が哀れにも退化したものにすぎ

    ない0 1;:.の自然は口を封じられ,男のえげ勺なさが幅を利かせる。J(SuK,250 f.)6)ここには,市民モラルに対する批判が始まった当初と比べるならば,批

    判の論拠や論議の重点に関して,大きな変化がみ られる。 例えば, 1902年の

    エッセイでは,彼の批判の論拠は,モラルや司法の態度の

    虚偽性,法と道徳、の領域を同一視することの誤り, i不道徳Jを犯罪とする事

    によって生まれる恐喝や脅迫といった倫理的・社会的な!不正に求められてい

    る。しかし,上に引用した論議においては, i性倫理をなくせ!Jという道徳

    (703)

  • -112-

    批判的主張は,官能性によってもたらされる女性の 「優美さ」と男性の「精

    神性」一一この両者が「市民モラル」によって失われることに対して彼の批

    判は向けられている一ーをめざすクラウスの芸術家としての立場を支える手

    段というニュアンスさえもっている。ここまで明確に,芸術家としての性の

    思想が社会批評の中に姿を現していることには,とりわけ 1905年以降,彼の

    性に対する基本的な取り組み方に, I男性の精神性が回復する源泉としての

    (女性の〉官能性」という芸術家としての立場が加わっていったことが,大き

    な理由としてあげられるだろう。 性モラル批判は, それが始った 1902年当

    初,それまでの社会批判の延長という性格を強くもっており, I市民モラノレ」

    およびそれを体現する道徳裁判はそういった社会批判の対象のひとつにすぎ

    なかったかも知れない。そして,一連の性モラル批判に携わるうち,彼の「社

    会批評」の性質がそのように変わっていったということもできょう。しかし,

    これほど明確にではないにせよ, r道徳と犯罪』におけるクラウスの市民モラル批判は,当初から女性の「自然、」である「官能性Jを擁護しようとする意

    図に支えられている。それは,彼のあるエッセイの表題が示すように, iエロ

    スとテーミス」の誤っ た結び、っきである。その意味で, r道徳と犯罪』は,エロスを守るために,テーミスのエロスへの介入を防ごうとした著作として読

    むことができるであろう。

    社会批評としての『道徳と犯罪Jにとっては潜在的な要素である官能性の

    擁護という意図は,とりわけ,虐げられた存在としての女性に対するクラウ

    スのまなざしから見て取ることができる。例えば,冒頭のエッセイ で描かれているような,夫からは虐待され, 法廷では人格を無視さ

    れ,不公平な取扱いを受ける女性への同情は,あちこちに見られる。また,

    と題された小さなエッセイでは,全く罪のない女性が「モラル」の

    ために虐げられるさまが描かれているが,そこでは女性は,無垢で,か弱い

    存在として「鳩」になぞらえられている。7) この女性の虐待をさらに倍加して

    いるとクラウスが見なしているのが, ジャーナリズムであり,その意味でも

    ジャーナリズムに対して批判が向けられる。その際,次節で述べる「ジャー

    ナリズム」と「文明」との連関においてもとりわけ興味深いのは, r道徳、と犯罪』の中でクラウスが女性の虐待にふれる際にいくつかの箇所で見られる

    「魔女狩Jのモティーフである。これは,最初のエッセイにおいてもすでに,控えめではあるが現れている。「中世には,親指を締めつけ

    る拷問器はあったが“新聞"はなかった。姦通を犯した女は,何百倍にも増

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    (704)

  • カール ・クラウスにおける世界 ・言葉・性 (その 2) -113-

    えた公衆という晒し台で串刺しの刑にされ,中世が与えることのできなかっ

    た拷聞を受けた。J CSuK,25) このジャーナリズムの害悪は, 先にもふれた

    ハーヴィ夫人をめぐるエッセイの中で,最も明確に取り上げられている。

    において,女性の官能性に価値をおく立場に基づいて 「性

    的な偽善を捨てよりと主張しながら,クラウスは彼女に対する道徳的非難

    を煽り,プライパシーを嘆ぎ回るそれぞれの新聞が,どのようなことをして

    きたかを事細かに述べている。そして, < レオーベンの魔女裁判> では,彼

    女を 「魔女Jと評するジャーナリズムの行ってきたことが,まさに 「魔女裁

    判Jに他ならないことが示される。上に引用したと同じ意味で 「魔女裁判の

    技術は, ジャーナリズムの魔術 Schwarzkunstによ って前代未聞の完成度

    に達したJCSuK,106)。次節で述べるように, I根源Jである自然、から離反し

    た 「文明」と,ジャーナリズムの 「黒魔術 schwarze MagieJ,すなわち印

    刷用の黒インク Druckerschwarzeによる魔術は密接な関係にあるが,同じ

    くそれは,女性の 「自然、」を圧殺する 「市民モラルJにもその力を及ぼして

    いる。16月から 10月の間に上部シュタイア一マルクで起こ ったことは,“悪魔猿き"から悪魔を追い払うことに似ている。また, レオーベンの裁判官が

    刑吏に似ているように,中出の悪魔j放いにそっくりだ。(…〉精神生活が,埋

    もれ去った時代の暗黒によるよりも,自由主義的新聞の印刷用黒インクに

    よって濁っていようとも,このことは明言 しておかなければなるまい。」

    CSuK,117) 主に 1908年から第一次世界大戦中までのエッセイを集めた [黒

    魔術による世界の没落Jで展開される, I黒魔術Jとしてのジャーナリズムに

    対する批判は,すでにこの時期に始まっているが, ここでの 「魔術」に対す

    る断罪は,第一次大戦前の黙示的傾向の強い時期におけるジャーナリズム批

    判と同様に,虐げられた 「自然、」の救済という,意図をもっているのである。

    3.2.ジャーナリズムと文明

    クラウスにおけるジャーナリズムと文明というテーマの結び‘っきは,とり

    わけ『黒魔術による世界の没落J全体のtJl心テーマとなっている。ここに含まれるエッセイにおいて批判の対象となっているのは, I文明Jを支えるイデオロギーとしての進歩思想,そしてそれと密接に結び.ついたジャーナリズム

    である。特に冒頭のエッセイ では, I文明JI進歩JI近代技術J

    「ジャーナリズム」と「自然、JI精神JIファンタジー」との聞の対間関係が械めて明確に見て取れる。クラウスの進歩批判には,一見,近代技術の誕生以

    (705)

  • -114 -

    来存在し続けてきた復古的立場 8)や,また,物質的文明と精神的文化という

    ステレオタイプ的な対立のも見られる。しかし,その際, I文明JI近代技術jの側にあるものに対して批判か向けられることの根底には,それらが(ここ

    では外的世界としての)I臼然」を踏みにじり,犯してきたことに対する憎悪

    があると思われる。「至るところに宇宙の不満足状態が現出し,夏の雪や冬の

    暑さが物質主義に対する反対表明を行っている。この物質主義は,どこにお

    いてであろうと一ーすなわち,自然において,女において,芸術家において

    一一自然の顔つきから様子がおかしいと気付けば,存在をプロクルステスの

    ベッドに載せ,魂の病を腹痛として治療し,自然、の顔を歪めさせたがってい

    るのである。J(UdW,10)そして,こういった 「自然、」の凌辱を最も効果的に押し進めてきたのがジャーナリズムであると,クラウスは見る。ここには,

    クラウスの道徳批判のうちに市民モラルが女性の 「自然、Jを虐げてきたこと

    に対する憤りが潜んでいるということとの完全な並行関係が存在している。

    ジャーナリズムや近代技術による 「精神の抹殺J(UdW,14)が問題となるの

    も, I精神性Jは 「自然Jとしての 「官能性」によって豊鏡なものとなるという怠味において, I自然Jの凌辱に対する批判と密接に関わっている。

    この著作におけるジャーナリズムと文明・近代技術との結び、っきについて

    は,改めて強調するまでもない。また, この著作に限らず, この二つの事柄

    の結びつきがクラウスにおいて問題となるのは,ベンヤミンがエッセイ

    において指摘しているとおりである。 10) しかしなが

    ら, これが 「根源Jから離反した状態における との結び、っきであることを考えるならば, このことはきわめて興味深いことである

    といえるだろう。というのも,クラウスの「根源Jにおける言葉と世界との省後な結び、っきについての見解は,例えばノ¥ーマンやヘルダーリンに見られ

    るように, 言葉の始原的状態(ポエジー〉において言葉と世界が直接的に結

    びつくという言語観の流れに深く関わっているように恩われるからだ。11) そ

    ういった言語観とのアナロジーで考えるならば, 言葉がその根源性にあって

    いぞ界と結び、ついていることはもっともなことであるにしても,言葉が始原性

    を失ってしまえば,世界とのl庵接的な関係は断たれてしまうことになる。し

    かし,クラウスにおいては一一根源における結び、っきとは全く別の意味で、は

    あるが一一,根源から離反したもの同士の結びつきが存在する。しばしば指

    摘されるように, クラウスの長語批判においては,言葉はそれが使われてい

    る世界をそのまま表すものとして,批判の対象となる。 12) また,彼のハイネ

    (706)

    • 、.

    -・.

    • 』

    、‘

  • カール・クラウスにおける tlt界・ 言葉・性 (その 2) -115 -

    批判やマキシミリアン・ハルデンとの論争などに見られるように, 言葉がそ

    れを使う人を表すという見解も,全く同じ思想に越づいている。13) しかしな

    がら,クラウスにとって, 言楽はmに「試金石J,l片界の診断のぷ准であるばかりではなし、。 とりわけジャーナリズムにおいては,悲しき言-5焦が思しき!立

    界を作り山す 「黒魔術」として,言撲はllt界に対して能動的に働きかける。

    。ij阜で述べたように, クラウスにとって 「魔術」は一一場合によってはきわめて内定的な意味で用いられることもあるが一一一般源における よ葉と t~界

    との結び‘つきを成り注たせるものである。それに対して, ,黒魔術Jという語

    は,似源、から離以したジャーナリズムの F言葉が出界に対しでもつ力という作

    定的側面をきわめて明確に表している。クラウスの「思位、のがjJ戊性 Praform-

    ierthcit der GedankenJの見解によれば,似源において,世界のうちにもと

    もと存在する思怨の版像は,素材としての経験によって 言葉の要素へと分散

    される。芸術家はこの F言葉の要素から, もともと存在していた思想へといた

    る。芸術家のd箆(,詩J)は,忠、組、のj京像がもともと存在した外界をぶ向す

    るとはいえ,実際に「魔術」のように外界に対して何らかの力を汝ぼすわけ

    ではなし、。しかしながら, ,黒魔術」のイメージのうちにクラウスか見ている

    のはt ,印刷用黒インク DruckerschwarzeJによって,新聞か現実に限界に

    対してふるう「精神の抹殺Jの力である。

    このジャーナリズムの F言葉, とりわけ「常査句」が附界に対しでもつ「黒

    魔術」の力については,このことが彼に最も危機感を与えた 1900年代末から

    第一次 tt!界大戦後にかけての時期の著作『黒魔術におけるほ界の没落~, ~最

    後の審判~, ~人類最後の H 々 J において,さまざまな視点から語られている。

    彼の危機感の表明が一一「世界に対する私の奇定表明を,修復可能な状況の

    批判として理解したがる楽天主義者たちJ(WGI,26)に対して皮肉を向け,上にあげた著作の表題にも現れているように黙示的な調子により悲観的態度

    を表してはいるとはいえ一一,諦観に由来するのではないことは,彼が時代

    に向けた言葉の多さからも推し量ることができるだろう。

    彼のこういった危機感が最も実際的なイメージを伴って現れているのは,

    例えば,新聞のために数多くの木が切り倒されるという事実においてであろ

    う。「ある大新聞がひとつの版に使う紙の量は,それを製造するために 20

    メートルの木を 1万本も切り倒さなければならないほどのものだ。このこと

    は,算出されていないのか。植林された木が育つよりも,次々と印刷されて

    いく方が早いのだ。木が日に二度,新聞 Blatterを出すだりで,それ以外の葉

    (707)

  • Blatterをつけなくなるほどに事態が至ってしまうとすれば, なんと嘆かわ

    しいことか。J(UdW,ll) また, ~人類最後の日々 J の中で,クラウスの分身

    である 「不平家」は,終幕のきわめて重要なモノローグの冒頭で次のような

    新聞記事を読んでいる。「森に立つ木が新聞になるまでに要する正確な時間

    を知りたいと思ったことがきっかけとなって,ハルツのある紙工場の所有者

    が,興味深い実験を行った。〈…〉つまり,その朝,小鳥たちが枝にとまって

    さえずっていた木々からなる素材の上に,最新のニュースを読者が読むこと

    ができるようになるまでに, 3時間 25分という時間しかかからなかったと 1 いうわけである。J(L T,670) このように文明と新聞の結び、っきは,新聞に 111 I

    書かれた内容だけに関わるものではなく,物質的側面にも関わる。ここで描

    -116 -

    かれていることは,比喰ではなく,文字通り,新聞が自然を破壊するという

    出来事である。この出来事に向けられる批判の意味合いは, しかし,破壊さ

    れる自然、がその人にと ってどのような意味をもつものであるかにより,全く

    異なったものとなる。文明による自然の破壊が人間の生活環境を脅かすこと

    につながるという 意味での近代技術に対する批判ないし反省は,あくまで

    も,人間による自然、の支配という考え方の圏内にとどまっている。人間の自

    然、文配という 「思い上がり」に対するクラウスの批判は,例えば の中で述べられているような, 言葉を支配していると思い

    込んでいる者たちに向けられた批判と全くパラレルな関係にある。裏返して

    言うならば,根源としての自然に対する姿勢としてクラウスが要請すること

    は,根源の言葉に対して彼が 「仕える」という姿勢を言い表したように,自

    然を征服するという思い上がりを捨て,根源としての自然、が本来人間にはる

    かにまさったものであることを意識することと言えるだろう。こういった文

    脈において考えるならば,上の引用での自然破壊に対する批判は,人聞が利

    用する対象としての自然、が曾かされることに対する懸念、によるのでは決して

    なく,彼にとって最も大切な「根源Jである自然が, しかも「精神」をもたないもの, 1"野蛮 UnkulturJによって探摘されることに対する憤りに基づい

    ているといえるだろう。

    「線源」を踏みにじる同盟者としての「近代技術」と「ジャーナリズム」を,

    クラウスは 1908年に の中で,ヨハネの黙示録で述べられている

    「獣」と「大淫婦」になぞらえる。「しかし,私は彼[黙示の騎土]が, 10本

    の角, 7つの頭,獅子のような口をもっ獣だと分かる。『人々はその獣を拝ん

    で長った。誰がこの獣に匹敵し得ょうか。誰が,これと闘うことができょう

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  • カール・クラウスにおける世界・ 言葉 ・性(その 2) -117ー

    か。この獣にはまた,大言を吐く口が与えられた。』 この獣と並んで,大淫婦

    が立っている。『この女は,その淫行によって世を汚した。』 望む者には誰に

    でも,日に二度,身を任せることによって。『地の王たちはこの女と姦淫を行

    い,地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている。J]J(UdW, 12)14) 10年た ってクラウスは『人類最後の日々Jの中で,この彼自身の預言

    的な 言葉を振り返っているが 15に それはこのことが, I文明JI近代技術」が

    究極的な形で現れた 「戦争」において最も顕著な形で現れ, I進歩」とともに

    「世界の没落Jが進行していくさまを見てきたからだ。

    調刺家クラウスの戦争批判における戦略は一一彼のあらゆる批判がそうで

    あるように一一 「避けることのできない付随的現象から全体を判断し,手始

    めに偶然的な不祥事を取り上げて,それを兆候と考えるJ(L T,85)こと,ま

    た,引用を通じて「言葉と戦争の間にある明確な関係を提示することJ(LT, 201)に他ならない。しかしながら,クラウスにと って言葉,とりわけ新聞に

    よって生み出される言葉は,単に 「兆候」であるばかりではなし、。すでに述

    べたように,ジャ ーナリズム のもつ力が 「黒魔術」 と乏い表されるのは,

    ジャーナリズムの言葉が現実を生み出すと彼が見ていたことによる。戦争と

    はまさにこのことが最も明確に現れた場所であった。第一次開界大戦の勃発

    に際して「沈黙」という意志表明を行った時代論難者クラウスは,大戦勃発

    4カ月後の 11月になってようやく, という戦時の常

    套句を表題にもつ講演を行い, 12月にそ のエッセイのみを含む『ファッケ

    ルJ発刊を 5カ月ぶりに行っている。そこでは言葉と戦争との結び、つきが,すでに明確に意識されている。「新聞は使者か。いや,山来事だ。演説か。い

    や,人生だ。新聞は,真の出来事とはその出来事に関する報道である,とい

    う主張を掲げるばか・りではなく, これらの不気味な一致をも引き起こす。そ

    の不気味な一致によって,もろもろの行為はそれが遂行される verrichtet前

    にまず報道される berichtet,というふうに見えることにもなり,また実際そ

    ういったことが起こる吋能性もしばしば生まれる。いずれにせよ,従軍記者

    が戦争の現場を見ることが許されず,兵士が従軍記者となるという状況が,

    この一致によって生じてくる。その意味で,私が1主流を通じて新聞を過大評

    価してきたという陰口を喜んで受けよう。新聞は召使いではない。召使いな

    どが,とうしてあれほど多くを望み,手にいれることかできょうか。新聞は

    出来事そのものなのだ。J(WGI,15)

    戦時中の fファッケルJに掲載されたエッセイを集めた『最後の審判J],そ

    (709)

  • -118ー

    して長大なドラマ r人類最後の日々Jは,疑いもなく戦争批判の著作である。しかし,戦争はむしろ結果としての状態であって,真に批判を向けられるべ

    きものは戦争における偽り,とりわけ 「ジャ ーナリズム」の言葉の偽り, i文

    明Ji近代技術」を支えるイデオロギーである。そして, それがクラウスに

    とって悪と見なされるのは, i根源」に属するものがそれによって凌辱される

    という意識が強烈に存在するからである。クラウスの文章に幾度となく繰り

    返される 「犠牲者 OpferJという語は,直接には戦争やモラルの虚偽の犠牲

    となった人たちを指すと同時に,そこには 「根源」の側にあるものすべてに

    対する哀悼が込められている。「私は (…)言葉が虐げられているのを感じ

    る。鉄条網にひっかかっているのは,自然、の血まみれの残骸だ。 〈…〉私が関

    心をもっているのは,ただ全体のもつ生ける意味だ。戦争において問題と

    なっているのは, 言葉の生死なのだ。J(L T,255) i平和時には動物殺しゃ子供殺しを平気でやる卑劣な生の憎悪が,あらゆる生き物を壊滅するために機

    械を手にした。近代技術に守られたヒステリーが自然、を打ち負かし,新聞の

    紙切れが武器を統率する。 〈…)人の住む地上で,かの宣戦布告がなされたと

    き,すでにファンタジーのあらゆる王国では撤退がなされていたのではない

    か。終わりに言葉ありき。精神を殺害した者には,行為を生み出すことしか

    残されていなかった。弱虫が強者となり,われわれを進歩の較に繋ぐ。そし

    て, このことをなし得たのはあの者,その淫行により世を汚したあの者だけ

    だったのだ。新聞が死の機械を動かしたことではなく,新聞がわれわれの心

    を空洞化し,その状況をもはや想像することさえできなくしてしまったこ

    と, これこそが新聞の戦争犯罪なのだ。J(LT,677) まさに戦争においてこ

    そ, i根源の言葉」の圏内に属する「精神Jiファンタジー」そして 「自然」が, iジャ ーナリズム」また「文明Ji近代技術」によって,最もはなはだし

    く損なわれ,破壊されているのをクラウスは見る。そして, i文明Ji近代技

    術」における「精神の抹殺Jも,何にもましてジャーナリズムが押し進めてきたこととクラウスは見なすのである。

    4. 根源概念と時代批判一一語刺家クラウス

    これまで取り上げたテーマを,クラウスの執筆活動の展開に沿ってもう一

    度振り返ってみよう。 1902年から 1910年頃まで (6)の市民モラル批判,およ

    びそれを出発点とする性の問題への取り組みにおいて彼が行っていること

    (710)

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    カール・クラウスにおける世界・ 言葉・性 くその 2) -119ー

    は,モラルや法自体のもつ問題点を衝くと同時に,それ らによる 「官能性」

    の虐待に対して 「官能性」を擁護すること,根源におけるエロスを描き出す

    とともに,それが男性の 「精神性」の源泉となるさまを示すことと 言えるだ

    ろう。そして,エロスの虐待の共犯者として,ジャーナリズムが弾劾される。

    また, 1908年頃から 1918年頃までの時代17)の中心テーマといえるのは, i進

    歩Ji近代技術」 への信仰を支えるイデオロギーに対する批判であるととも

    に,その荷担者というよりむしろ,そのイデオロギーを加速度的に再生産す

    るものとしてのジャーナリズムに対する批判が,それまで以上に大きな比重

    を占めるようになる。そして, こういったことは,まさに 「戦争」において

    究極的な形で起こっているものとクラウスは捉えた。この閉じ時期に, r韻文で書かれた言葉』が次々と巻を重ね, i根源」への志向がかなり顕著な形で現

    れるという全く対照的な側面も認められる。このことはまた, などの重要なエッセイにおいて, ジャーナリズム批判ととも

    に, i根源の言葉」へのいわば秘教的な見解が示されることにも現れている。

    こういったことのうちに見られるのは, i精神の抹殺Jをもたらした, i近代

    技術Jや 「ジャーナリズム」による 「自然J及び 「根源の 三葉」の凌辱に対

    して批判を向け,それによって 「自然Ji言葉Jを救出することである。上に取り上げたテーマ領域において一貫して看取されることは, i根源」へ

    と向かう基本的立場に基づきつつ, i根源、」の圏内にあるものが 「根源」から

    離れた「時代」によって虐げられていることに対して批判を向け,それに

    よって「根源」を救出しようとする姿勢である。「根源Jの圏内にある官能

    性・詩的言語・自然が踏みにじられることに対してクラウスが批判を向ける

    のは,それらが彼にとってそれ自体守られるべきものであるからだが,さら

    に,根源性から離反じた市民モラル・ジャーナリズム・文明によって「精神

    性」が失われるということもあげられる。すなわち, i女性の官能性は,男性

    の精神性が再生する源泉であるJ(A,13)という性についての彼の基本的立場

    は,他の領域においても保たれ続け, i根源、の言葉」も 「向然、」 も, i精神」

    「ファンタジ-J一一これはクラウスにとっては男性によって生み出されるものだがーーを支えるものとして擁護されるのである。

    クラウスの実際の執筆活動においては,市民モラル批判, ジャーナリズム

    批判,進歩・近代技術批判は,それぞれ,官能性 ・根源の言葉・臼然、への志

    向の明確な表明に先だって行われている。このような展開をたどったのは,

    クラウスの視線がなによりもまず「時代」に向けられており,時代の悪しき

    (711)

  • -120 -

    現状に対する批判が行われていく過程において,その批判の拠り所となって

    いるものの本質が彼自身の内で、次第に明確になり,それが新たなテーマとし

    て析出していったからではないか。いずれにせよ,クラウスの時代批判は,

    最終的には彼の芸術家としての「根源」への志向と結び、っき,両者は相関的

    なテーマとなっていく。すなわち, I時代」の診断によって「根源」への志向

    が明確な形をとっていくとともに,それが彼の 「時代」批判の基盤をなして

    いるのである。

    そして,この 「根源」への志向をもっ芸術家としての立場と「時代」批判

    の立場を統合するものとして, I調刺 SatireJをクラウスの著作活動全体の

    うちに位置づけることができるのではないか。クラウスは菰刺の最もすぐれ

    た例をネストロイのうちに見いだし, と題するエッセ

    イにおいて,調刺に対する一般的な理解のために誤解され,軽視される傾向

    にあったネストロイに正当な光を当てるとともに, クラウス自身の活動その

    ものである調刺を救出しようとする。体制に対する挑発的 ・論争的性格をも

    っ調刺は,単に現状に対する否定的立場を言い表すものにすぎず,生産性・

    創造性をもたないという一般的理解を前提としながら,クラウスは調刺のも

    つ創造性と現状否定の両側面を,それぞれ「叙情詩JI理想」および「障害」「遠さJIイロニーJという言葉で表す。「調刺はまさに障害の叙情詩であり,

    それが叙情詩の障害であることの埋め合わせを十分に受けている。調刺はど

    のようにしてその両方をもつのか。理想から,理想の全体とともに遠さをも

    手にするのである。調刺は決して論争的ではなく,常に創造的である。それ

    に対して,偽りの叙情詩は単に肯定的なせりふをロにするだけのものにすぎ

    ず,すでに存在する世界を呼び出すだけのくだらない行為である。調刺がど

    れほど真の象徴性であることか! それは,目にした憎悪の兆候から失われ

    た美を察知し,世界の概念のささやかなシンボルを提示する。偉大な物事を

    前提とする偽りの叙情詩,そして偉大な物事を否定する偽りのイロニーは,

    一つの顔しかもたない。J(UdW,228) I障害JI遠さJという言葉は,クラウ

    スのエローティクに関する見解におけるキーワードである。18) 彼にとって,

    目標への到達が引き延ばされ,そのプロセスにむしろ視点が移されることに

    よって,根源的状態にあるエローティクはいっそう豊かなものとなる。単な

    る肯定である「偽りの叙情詩J,単なる否定である「偽りのイロニー」に対して,調刺は生産的な「障害Jをもっ「叙情詩」であり, I目にした憎悪の兆候」を出発点にするとはいえ,その目指すものはそういった「兆候Jを論難し去

    (712)

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    カール・クラウスにおける世界・ 言葉 ・性 (その 2) . -121 -

    ることではなく, I失われた美J,ある理想的な全体像へと至ることである。

    「調刺はあらゆる敵意から遠く,ある理想的全体像に対する好意を意味する。

    菰刺は,現実にある個々の出来事に敵対するのでなく,それらを通じて,そ

    の全体像へと突き抜けてゆく。J(A,289)

    調刺における出発点と目標はまた, i風刺のもつ性格においても特に重要な

    意味をもっ「素材」の問題に直接に関わってくる。一般的な見解によるなら

    ば,調刺はその時代,その地域における最新の出来事を素材とし,その意味

    において時事的 aktuellなものである。 このことは,一ー とりわけ素材が些

    細なものであった場合一一誠刺は時代の流れとともに忘れ去られる運命にあ

    り,後の時代にまで生き延びることは困難である,ということを意味する。

    クラウスの批判は,同時代の菰刺に対する無理解に向けられると同時に, と

    りわけこういった 「後世」の態度に向けられる。「ネストロイの後世は,芸術

    に対する鈍感さのために,素材のおかげで彼と通じ合っていた同時代人たち

    がしたのと全く同じことを行う。つまり,同時代人たちは彼を時事的なひょ

    うきん者と考え,後世の人々は,彼はもう時代遅れだというのである。(…)

    菰刺は誤解の狭間に生きる。すなわち,調刺に近すぎる者と調束IJから離れす

    ぎている者との狭間に。芸術とは素材よりさらに先に生 き延びるものであ

    る。後に続く時代が,素材から離れることによって芸術をつかむことに成功

    したとしても,芸術を試すことはその時代を試すことにもなる。このわれわ

    れの時代のしていることといえば,芸術から離れ,素材にしがみつくことで

    ある。(…〉自分がそのきっかけと同じ環境に生きていれば,なお機知を笑う

    力はある。消化に記憶が追いつかないような時代が,いったいどうやって,

    自らの前に直接開示されないものに手をさしのべたりするだろうか。 もはや

    覚えていないことを精神の狙上に載せることは,消化を妨げるのである。

    (…)後の時代を生きる信奉者 Nachlebendeなど存在せず,ただ今を生きる

    もの Lebendeが存在するだけだ。彼らは,自分たちが存在すること,そして

    その時代の目新しいことだけに心を配り,未来に対する神秘などもたないよ

    うな現代が存在することに対する満足感を表明する。J(UdW,239)ネストロイをもはや理解する力をもたない「後世J(クラウスの同時代人たち〉に向けられたこの言葉において,クラウスはネストロイの調刺について語ることを

    通じて,調刺家としての自分自身の立場を明らかにしている。『ファッケノレJに取り上げられたおびただしい量の同時代の出来事, クラウスの引用した同

    時代の言葉の指し示す具体的事柄の数々は,今日『ファッケノレJを読む者に

    (713)

    I

  • -122ー

    とっては,確かに理解の大きな障害となっている。それに対して,同時代人

    にとっては,それらの出来事の連関や背景は周知のことであり,その意味で,

    クラウスの文章をより理解しやすい立場にあったといえるだろう。しかし,

    そのことは出来事という素材にあまりに近い場所にいることを意味する。ク

    ラウスによれば,彼らがネストロイを正当に理解することができないのは,

    とりわけ 「進歩」によって 〈根源としての)芸術から離れてしまったために,

    素材から遠ざかってしまえば, もはやそれを精神的な対象とすることができ

    なし、からである。同時代人をこ のように断罪し,一一クラウスの言葉をその

    まま受け取るならば一一彼らにはもはや期待がかけられていないかのように

    語りながらも,クラウスが要請することは,素材から出発しながらも,そこ

    に潜む本質を浮かび上が らせることである。「私の読者は,私がその日その日

    から題材をとって ausdem Tag書く ので,その日暮らしで furden Tag書

    いていると思っている。そういったわけで,私の書いている事柄が時代遅れ

    となるまで待たねばならない。そのとき,それらの事柄がアクチュアリ

    ティーを獲得するということもあるだろう。J(A,164) それでは, このように逆説的に獲得されるアクチュアリティーとは何か。

    クラウスが今日読まれるのは,言うまでもなく,そこに書かれた素材のため

    ではなく,素材を通じて提示された思想のためである。彼の「時代批判」の

    対象である 「時代」のイデオロギーは, 20世紀前半のウィーンという地方性

    のもつ制約を完全に越え出て,西欧的思考に基づいた「近代」全般における

    イデオロギーとして取り上げられていると言ってもよいだろう。 19) しかし,

    「近代」の依拠するイデオロギーに向けられたものとしての「時代批判」が,

    われわれにとって近代批判として意味をもつのは,それが単に「近代」のも

    つ問題性を指摘するだけではなく,その問題性に対する批判が一一「根源」

    概念自体,そのまま受け入れることのできない大きな問題を苧んでいるから

    こそ一一 「根源」への志向によって支えられることにより,近代の問題性へ

    の怠識がより明確に喚起されるからではないだろうか。その意味でも,クラ

    ウスの批判が素材の死によってアクチュアリティーを獲得できるのは,何よ

    りも, クラウスが自らの文筆活動を「障害の叙情詩」としての「調刺Jと捉え,批判が常に根源に根ざしたものとして存在していたことによっているで

    あろう。

    (714)

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  • カール・クラウスにおける世界・ 言葉 ・性 - 123-

    テクスト

    (ここからのうIHlは,下記の時号とti数を該主IJ筒所にノ示した。)

    Die Fackel. Hrsg.: Karl Kraus. Neuausgabe von Heinrich Fischer.

    39 Bande. Munchen 1968-1973. = F

    Karl Kraus: Schriften. 1-1rsg. v. Christian Wagenknecht. FrankfurtjM.

    1986ff. (suhrkamp taschenbuch)

    Band 1: Sittlichkeit und Kriminalitat = SuK

    Band 4: Untergang der Welt durch schwarze Magie = UdW Band 5: Weltgericht 1 = WG1

    Band 8: Aphorismen = A

    Band 10: Die letzten Tage der Menschheit = L T

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    t 11 d.主

    1) r人文研究j(1992年〉第 44巻第 8分冊 111頁,._134貞掲載。2 )以下のクラウスの道徳批判における彼の視点の多層性については,r市民モラル」

    と 「ジャーナリズム」の結び、っきという文脈で述べられたものではないが,拙論

    rr道徳と犯罪Jにおける芸術家カール ・クラウスの視座J,東京大学地域文化研究会, r地域文化研究J第 l号 (1990年),137頁以降参照。

    3) Theodor W. Adorno, Sittlichkeit und Kriminalitat. Zum elften Band der Werke

    von Karl Kraus. 1n: Ders.: Gesa1nmelte Schriften Band n. Noten zur Literatur.

    FrankfurtjM. 1974. S.371

    4 )こういった期待に対して,クラウス向らがはっきりと態度表明を行っているのが,

    例えば Sehnsuchtnach aristokratischem Umgang (UdW,335ff)であろう。

    5) SuK,123ff. V g1.: Adorno, a.a.O. S.373

    6) V g1.:F211,27f.ただし,再録された著作集『道徳と犯罪Jの中では,表題は ではなく, となってい

    る。この引用について少し注釈しておきたい。「男性の精神が回復する源泉として

    の(火性の)官能性」という見解は, クラウスの性の思想の最も核心をなすもの

    で,彼はこれを厳初のアフォリズム集『正言と異言 SpTUcheund WidersprucheJ

    の冒頭に燭げている。彼にとっては,男性は精神的存在であり,それに対して,女- ・・・・. . . . .

    性は官能性を持つがゆえに価値あるものとされる。 女性にとっては Sexualitat

    は,本性的なものであって, r常習的 habituellJなものとされる。精神的存在である男性は,確かに機能としての Sexualit討をもつが,本来女性の Sexualitatに向

    (715)

  • -124ー

    かう Erotikをもつべきであり, 単なる消費的な性的欲望は嫌悪すべきものであ

    る。なぜならば,それはなんら精神的な創造を行わないからだ。しかし,現実の市

    民モラルにおいては,女性の 「本性・自然、」としての官能性は抑圧され,男性の性

    欲が解放されるがゆえに,本来あるべき 「男と女の関係」が 「逆転」してしまって

    いる。ここにクラウスの批判が向けられることになる。

    7) V gl: SuK,35ff.

    8 )例えば, i (…)そうい った事情ならば, 三月革命前の時代 Vormarzに向かおうで

    はないかJ(UdW,236), i彼 らは,私が革命家だと思っている。しかしいまや知ら

    ねばならぬ。私はフランス革命にも至っておらず,ましてや, 1848年と 1914年の

    間の時代など問題外だ。JCUdW,337)

    9 )例えば, iあらゆる末端に世界の腐った脳髄からでたガスがゆきわたり,文化は息

    をすることもでき ない。 結局は死んだ人類が自分たちの作りだしたもののそばに

    横たわる。 これらを発明することは,人類にとってあまりに精神を必要としたの

    で,それを使えるものはもう誰も残っていなかった。われわれは,機械を作り出す

    ほど後雑であるが,同時に機械に使われるほど原始的である。J(UdW,9) i堕落し

    た人類の悲劇トー これは文明の中での生活にとって, 処女が売春宿にとって役立

    たない以上に意味のない代物であり, また, モラルによって梅毒にかかっている

    ことから気を紛 らせよう とするのだが一ーは, 精神的に生まれ変わろうとするあ

    らゆる働きを不断に諦めてしまうことによって, いっそう強められている。彼ら

    の体は倫理を塗りたくられ,脳味噌は印刷インクで目止めされた孔カメラであ

    る。J(UdW,10)

    10) V gl: Bcnjamin, Karl Kraus. In: Ders.: Gesammelte Schriften. Band 11.1. Frank-

    f url/M. 1977. S.336f.

    11 )倒論 「カール・クラウスの言語思想、と言語起源論J,大阪市立大学ドイツ文学会,『セミナリウムJ第 14号, 75頁以下参照。

    クラウスの言語観の 「神秘主義的J特質を指摘しているしLieglerや C.Kohnは,

    ロマン派の作家の言語観との親近性についてふれているが, これは最近のクラウ

    ス研究においてはむしろ避けられている問題といえるだろう。 Vg1.: Josef Quack,

    Bemerkungen zum Sprachverstandnis von KarlKraus. Bonn 1976. S.l78ff.この問

    題に関しては,月IJの機会に論じたい。

    12) Vgl.: C.Kohn, Karl Kraus. Stuttgart 1966. S.202.; Bertolt Brecht, Schriften zu

    Literatur und Kunst 3. Frankfurt/M. 1967, 5.68f.ただし,プレヒトはここで 「彼

    にとって,人間同土が理解し合う手段である言葉は,試金石としての役割jを果た

    (716)

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  • カール ・クラウスにおける ll!界 ・言葉 ・性 -125 --地

    しているJと述べているか,前章て述べたように,クラウスはコ ミュニケーション

    の手段としての E言葉を評価すべき問題と凡なしていない。

    13) V gl.: Udw,185ff. Heine und die Folgen; ChM,55.

    14)聖書の引用筒所の翻訳は, [1本聖哲協会の 1954年改ぷ版をもとに した。引川筒所

    はそれぞれ 「ヨハネの黙ぷ録J.第 13章4・5節,および第 17$ 2 fifj。

    15) V gl.: L T,677

    16) r道徳、と犯罪JJ(1902 irから 1907年までのエ ッセイ )およひ『文加のfxlJ刈 (J907年から 1910年までのエッセイ )に合まれるエ ッセイの執事された年を以4にして

    つl

    "・良守5

    いる。

    17) r黒魔術による問界の没訴JJ(1908-1922), r以後の審判JJ(1914-1919) t ~ 人組以後のfI々J(1915年から執事が始まる)の執事年を基準に,第 4 次1"界人戦の終 fま

    でとした。上にあげた著・作は,戦後に苫かれたものを合み,特に 『人間以後の

    f:I々 Jは,まとまった著作としては 1922年に完成 ・党刊されたものたか,そこ で

    問題となっているのは,ほぼ,大戦終 f時までのこととJSえてよいだろ う。

    18)例えば,iエロティックな業しみとは障害物競走である Ji述 く離れた念人で・はな

    く,その速さこそが怨人なのだo.J(A,27)など,こういった見解は,アフォ lJスム

    をはじめとして,数多くみられる。

    19)それゆえ, タラウスは好んで中国, あるいは日本の思イ号を, i!Lt欧的思々 に対向す

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    る。『支那の長城Diechinesische Mauer JJの中の同名のエッセイは,その典明的な

    ものとして挙げられる。

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    (717)