mdf news v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科...

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目次 はじめに 矢持 秀起 (京都大学) 2 ◆ 研究紹介 A01 班 高橋 利宏 (学習院大学) 3 電荷の不均化、普遍性と多様性 A01 班 米澤 進吾 (京都大学) 9 有機物超伝導体のギャップ構造の実験的解明 A02 班 石橋 章司 (産業技術総合研究所) 13 第一原理計算による TTF-CA と TTF-BA の電子状態・自発分極の研究 A02 班 稲辺 保 (北海道大学) 17 フタロシアニンπ-d 系導電体の展開 A03 班 瀧川 仁 (東京大学) 23 鉄フタロシアニン錯体における-d 相互作用と新規な秩序状態 A04 班 山本 薫 (分子科学研究所) 28 赤外スペクトルに現れた分子振動の倍音と電子型強誘電性 A05(a)班 藤原 秀紀 (大阪府立大学) 32 光機能性部位を有する分子を用いた新規機能性物質の開拓 A05 班 石田 尚行 (電気通信大学) 38 へテロスピン系の特異な結合を利用した材料群の創出と構造相転移物質への展開 ◆ 研究俯瞰 齋藤 軍治 (名城大学) 42 電荷移動錯体とドナー、アクセプター (1) ◆ 参画者名簿 49 ◆ 今後の活動・行事予定 平成 23 年度秋のミニ国際シンポジウム等の御案内 53

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Page 1: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

目次

はじめに

矢持 秀起 (京都大学) 2

研究紹介

A01 班 高橋 利宏 (学習院大学) 3

電荷の不均化、普遍性と多様性

A01 班 米澤 進吾 (京都大学) 9

有機物超伝導体のギャップ構造の実験的解明

A02 班 石橋 章司 (産業技術総合研究所) 13

第一原理計算による TTF-CA と TTF-BA の電子状態・自発分極の研究

A02 班 稲辺 保 (北海道大学) 17

フタロシアニンπ-d 系導電体の展開

A03 班 瀧川 仁 (東京大学) 23

鉄フタロシアニン錯体における-d 相互作用と新規な秩序状態

A04 班 山本 薫 (分子科学研究所) 28

赤外スペクトルに現れた分子振動の倍音と電子型強誘電性

A05(a)班 藤原 秀紀 (大阪府立大学) 32

光機能性部位を有する分子を用いた新規機能性物質の開拓

A05 班 石田 尚行 (電気通信大学) 38

へテロスピン系の特異な結合を利用した材料群の創出と構造相転移物質への展開

研究俯瞰

齋藤 軍治 (名城大学) 42

電荷移動錯体とドナー、アクセプター (1)

参画者名簿 49

今後の活動・行事予定

平成 23 年度秋のミニ国際シンポジウム等の御案内 53

Page 2: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

はじめに

基礎科学を学問すること

平成 23 年 3 月 11 日は東日本大震災が発生し、多くの方々の命が奪われた日となってしまいまし

た。さらに多くの方々が心身に傷を負われ、また、物的な被害も想像を絶する規模となりました。

被災された方々には心からのお見舞いを申し上げます。

新学術領域研究「分子自由度が拓く新物質科学」は、5年間の期間の内の 4 年度目に入りました。

計画研究にとっては後半のダッシュにさしかかる時期となり、同時に、公募研究には新たな研究グ

ループが加わり領域全体としてリフレッシュした年度となります。この節目の年に予想だにしなか

った規模の大震災が起き、国を挙げた救援・復興が必要となりました。本新学術領域研究参画者や

関連研究者にも公私にわたり大きな被害を受けた方が居られます。

本新学術領域研究の課題は分子性物質の物理と化学を研究する基礎科学研究であり、直接的に復

旧・復興に寄与できる事は皆無です。しかし、本務である研究を推進するとともにこの国難からの

復旧・復興に協力できる事があれば積極的に寄与すべきであると考えています。

基礎研究は、その成果がある程度の時間をおいて実用材料に活かされる事は多々ありますが、今

急がれている災害対応等を含め、短期的に人間社会へ直接的な利益をもたらす事は希です。今回の

国難に際しても本新学術領域研究を含め多くの基礎研究が血税からの援助を受けながらの継続が

許されている事に対して、従来にも増して研究者としての本務に注力すべき時であると思われます。

基礎科学の研究は、本質的には人間の持つ好奇心・知的欲望を満たそうとする行為であり、上述

の通り短期・直接的に人々の生活の安全性や快適さを向上させるものではありません。しかし、そ

こで得られる概念や物質は、実用面も含めて将来的に人々に役立つものを含んでいます。また、基

礎科学の研究過程においては、若い世代を鍛錬して次世代を牽引する研究者を育成すると同時に、

進路に関わらず学生諸君には自然を理解する合理的な視点を必然的に養ってもらう事になります。

これは、高度な科学技術に支えられた現代社会において種々の情報を正しく理解するための練習を

兼ねていると考えられます。この様な訓練を受けた人材を社会に送り出す事は、やはり直接的では

ありませんが、比較的短期間のうちに基礎研究が社会に貢献できる部分であると考えられます。

本質的に、人間社会一般に対して短期・直接の恩恵をもたらすことは出来ない学問ではあります

が、基礎研究に携わる者も寄与できる事は寄与するとの意思を持ちながら自らの課題を推進する事

が今求められているのだと感じています。

具体性に欠ける理念的な事柄ばかりを書き並べましたが、本ニュースレターの前回号と本号の発

行日の間に、研究者がその本務に没頭する事を妨げるに充分な悲惨な出来事があったことを記録し

ておきたく、巻頭言で触れさせていただきました。被災を免れた地域に暮らす者の文章であるが故

に、被災された方々の御心中を充分には理解できていない事を恐れております。

A05(a) 矢持 秀起

なお、今回、大きな被害を受けた東北大学でも、各部署毎に状況は異なるもののハード面の復旧

が順次進められているとの事です。一方で、建物や実験室が復旧しても学生諸君をはじめとする大

学関係者の方々の心に脱力感が強く残っており、大学としてその対策を講じようとされていると聞

いております。そのひとつとして、大学の各事業に積極的に学外者を呼びよせ同大学所属者と交流

させ、それによって心の活性を取り戻す事を考えておられます。本新学術領域でも次回の領域会議

を宮城県内で開催する事を予定しています。本領域が成し得る復興への直接的な寄与は余りにも僅

かなのですが、この様な形ででもお役にたてることが出来ればと考えています。

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Page 3: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

電荷の不均化、普遍性と多様性

学習院大学理学部物理学科

高橋 利宏

1. はじめに

分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

ら、電荷秩序、電荷の不均化とそのダイナミクスについて関心が持たれるようになった。筆者等が

固体 NMR を用いた方法でこのテーマに関わり始めてから 10 年以上になるが、この間さまざまな物

質において互いに類似した現象を観測してきた。いずれもきっかけは NMR 線幅の異常な増大であ

った。通常、NMR 線幅の増大は磁気的な転移に伴う局所磁場の出現によることが多く、非磁性の

金属状態で見出されることはまれであった。それらのほとんどを我々は電荷の不均化、正確には局

所磁化率の不均化によるものであると結論づけた。これがタイトルの「普遍性」の意図するところ

である。我々が扱ったのは-(BEDT-TTF)2I3、-(BEDT-TTF)2(Rb,Cs)Zn(SCN)4、(TMTSF)2FSO3 と

-(BETS)2(Fe,Ga)Cl4である。これらは我々が最近研究の対象としている物質の大部分にあたる。筆

者が見るとなんでも電荷の不均化に見えるらしい、と Grenoble の Berthier 先生にからかわれてしま

った。 はじめは同じ現象に見えた異なる系での「電荷不均化」は、よく調べてみると少しずつ違うこと

が分かってきた。電荷が不均化する機構はそれぞれ違っているらしい。これがタイトルの「多様性」

の部分である。機会をいただいたので、これまでの知見を概観してみたいと思う。このテーマの中

間報告に当たるレビューは JPSJ の Special Topic Section“Organic Conductors”に書かせていただいた

[1] 。また、その後の成果はこの夏、コルシカで行われる ECRYS2011 でも話させていただく予定で

ある。 2. -(BEDT-TTF)2I3における電荷整列転移、電荷不均化、ゼロギャップ相

-(BEDT-TTF)2I3(以下-I3塩と略称)は、高圧下でバルクのゼロギャップ状態を示す物質として、

現時点では分子性導体の中で最も注目を集めている物質といってもよい。「」という記号が示すよ

うに、BEDT-TTF 塩の中でもいち早く合成された物質のひとつである。常圧では 135K 以下で非

金属絶縁相へ転移し高圧をかけても超伝導にならないため、常圧で超伝導を示した-I3 塩の影に隠

れて研究が遅れた。常圧の金属絶縁体転移の機構は特定できないまま残されていた。 1990 年代の終わり頃、福山秀俊先生のグループは、BEDT-TTF 系分子性導体の多様な電子状態を

統一的に理解するため、分子間の移動積分の異方性と電子相関を考慮して可能な基底状態を系統的

に調べておられた。その一環として-I3 塩では単位胞内の分子間で電荷の大きな偏りが生じる可能

性があるということを見出された[3]。何か実験的な情報はないか、なければ確かめることは出来な

いか、とおたずねがあった。我々は、-I3 塩は古くからある物質でありそんな顕著なことがあれば

すでに発見されているはずだと、半信半疑であった。 福山先生の示唆に従って、筆者等が 13C-体の-I3 塩の単結晶を使った実験を行い、転移温度で電

荷整列を示す 13C-NMR 信号の変化を発見したのは 2000 年のことである。長年ミステリーであった

常圧下の金属非金属転移が、電荷整列を伴う新しいタイプの絶縁相であることが明らかになった。

この系は単位胞に 4 つの分子を含み、電荷整列しても結晶周期の変化が起こらないために同定が遅

れたのであった。この結果は同年、Bad Gastein での ICSM で院生の鷹野芳樹君が口頭発表して注目

を集めた[4]。 鷹野君が同時に発見したことは、転移前の金属相においてすでに、有機分子ごとに局所磁化率が

ずいぶん違う、ということであった。これは、後輩の諸戸史織さんが温度依存性を測定して、転移

温度に近づくにつれて、違いがますます顕著になることを確認した[5]。折から、高圧下の-I3塩は

バルクのゼロギャップ状態にあることが確認され、ゼロギャップ状態と電荷秩序の関係が気になっ

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た。ゼロギャップ状態では電荷秩序は存在するのか、ゼロギャップ状態の実現に電荷秩序は役だっ

ているのか、邪魔をしているのか、という素朴な疑問である。 その後、助教の開康一氏、多くの院生諸君が参加して、高圧下の 13C-NMR の角度依存性の測定

を行った。実験結果を要約すると次の通りである。1)常圧、135K 以下の低温絶縁相では、電荷整列

が生じている。2)常圧、室温付近から、局所磁化率は分子間で異なり、転移温度に近づくにつれて

違いは増大する。ただし A、A’分子は等価で結晶の対称性は転移温度まで変化しない。3)高圧下で

は、さらに局所磁化率の違いは顕著になるが、結晶の対称性は変わらない。4)高圧下、低温ではゼ

ロギャップ状態に特有の温度に比例する局所磁化率の減少が観測される[6]。 さて、この系での分子ごとの局所磁化率の違いの原

因は何であろうか。当初我々は、局所磁化率は分子の

有効電荷に比例するものと考えていた。ホールが電荷

とスピンを担っているとすれば、比例するのが自然だ

と考えたのだが、これは間違いであった。たとえば、

B-分子は 4 分子の中で最も局所磁化率が小さくなるが、

電荷は+1 価に近い。これに対して、C-分子は最も局所

磁化率は大きいのに、電荷は中性に近い。名大理グル

ープのゼロギャップ相を与えるバンド・パラメーター

を使った計算によると、分子上の電子密度と局所磁化

率は、いずれも contact point 近傍の状態密度の積分によ

って得られる[7]。状態密度が大きいと電子密度が増え

て中性に近づき、局所磁化率が増える。 分子ごとの局所磁化率(そして状態密度)の大きな

違いは、contact point の周辺の固有状態のマッピングに

よっているようである[7]。ディラック・コーンが傾い

ていることがサイトごとに違いに影響を与えているら

しい。いってみればバンドの事情によっている。この

ため、電荷のゆらぎがあるとしても NMR の観測時間に

比べて極めて早いので、平均値しか観測にかからない。

従って、分子ごとの吸収線は十分狭い。この点は、電

荷のゆらぎが格子の自由度と強く結合している後述す

る系とは事情が大きく異なっている。

3.-(BEDT-TTF)2(Rb,Cs)Zn(SCN)4 の電荷秩序転移と電荷のゆらぎ

-相 BEDT-TTF 塩の研究は、東大物性研の森初果さんのグループの精力的な研究に刺激されたも

のである[8]。当時我々のグループにいた中村敏和氏が結晶を合成し、まず EPR による電子状態の

解析を行った。この結果、-(BEDT-TTF)2RbZn(SCN)4(-RbZn 塩)の低温状態は冷却速度によって

異なること、徐冷絶縁相は有限の磁化率が生き残った常磁性相であり 30K 以下で非磁性相に転移

するのに対し、急冷相では低温で磁化率が発散する傾向を示すこと、等を結論した。

この系での電荷整列の発見は、東大の鹿野田グループに若干後れをとった。彼らは、常圧の 190K の金属絶縁体転移に伴う 13C-NMR 信号の変化を観測し、これが電荷整列によるものであることを

いち早く指摘した[9]。-塩は、-塩と同様に Herring bone 型の分子配列を持っているが、-塩に比

べて極めて対称性が高い。単位胞は BEDT-TTF 分子を 2 分子含み、しかも両者は結晶の対称性によ

って結びついており高温相では互いに等価である。転移温度以下では、分子の積層方向の格子周期

が 2 倍になる。電荷の疎密が積層方向に交互に配列するためである。電荷の比は+0.3:+0.7 程度と見

積もられている。 我々は、転移温度以上の金属相で NMR の吸収線幅が異常に増大することに注目した。線幅の角

図1 -(BEDT-TTF)2I3における 13C-NMRの角度依存性。

4

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度依存性を解析して、線幅が-軌道の超微細結合の異方性に見事に比例することを確認した。すな

わち、線幅の増大は局所磁場の不均一性によるものであることが推定される。スピンエコー法によ

る均一幅の測定から、温度の降下とともに、均一幅が増大し、200 K 前後に極大値を示したのち減

少すること、従って低温の線幅の増大は不均一幅によるものであることが分かった(図 2)。すなわ

ちこの系では、局所磁化率のゆらぎが存在し、温度の降下とともにその相関周波数(相関時間)が

急速に減少(増大)する。均一幅が最大となる温度では相関周波数は観測される均一幅程度(〜数

kHz)になり、この温度の前後で数桁変化する[10]。

電荷整列転移の前に電荷の遅いゆらぎが存在することは、一見すると、転移の前駆現象として自

然のような気がするが、この転移がしばしば結晶が割れる程の大きな格子変形を伴う一次転移であ

ることを考慮すると、転移に伴うゆらぎとは考えにくい。X-線回折実験からは、高温域では異なる

波数を持つ超格子が共存していることが明らかにされており[11]、この系での電荷の遅いゆらぎは

異なる波数の電荷秩序が競合することによって生じているものと解釈している。

-RbZn 塩では、電荷秩序が起こってもスピンの自由度が生き残っており磁化率には大きな変化

がない。さらに低温の 30K 以下になって非磁性スピン一重項状態へ転移する。これは一次元局在ス

ピン系におけるスピンパイエルス転移として理解されている。この低温非磁性相では、電荷の異な

る分子からの 13C-NMR 信号を観測することが出来て、BEDT-TTF 塩の電荷秩序、電荷不均化の解析

におおいに役だった。 -RbZn 塩とほぼ同型の結晶

構造をもつ-CsZn 塩では、常

圧では電荷の長距離秩序は観

測されていない。しかし、13C-NMR 信号の線幅は低温域

で、-RbZn 塩の転移温度直上

とよく似た振る舞いをして、同

様な遅い電荷のゆらぎが存在

することが分かる。異なる波数

を持つ電荷秩序の競合が存在

しており、特異な非線形伝導を

示すことが注目されている。

4.(TMTSF)2FSO3における陰イオン整列と電荷不均化

(TMTSF)2FSO3は、よく知られた Bechgaard 塩のひとつで、非対称陰イオン FSO3が永久電気双極

子モーメントを持っていることが特徴である。この系は常圧、89K で陰イオン整列に伴う金属-絶縁

体転移を示すこと、0.6GPa 以上の高圧下では超伝導を示すことが知られている。高圧下の電気伝導

率、熱電能の詳細な測定から、従来の Bechgaard 塩には見られない複雑な T-P 相図を示すことが確

認された(図 3)[12]。これが陰イオンの電気双極子と伝導電子の結合によるものである可能性が

期待されたが、それを示す明瞭な実験的証拠は得られていなかった。我々は、77Se、19F-NMR を使

ってこの系の電子状態と陰イオンダイナミクスの関係を調べてきた。T-P 相図によると、常圧、89Kの転移は圧力下でほとんど温度変化をしない境界Ⅰと低温側に変化する境界Ⅱとに分かれる(図 3)。境界Ⅰの前後では伝導率に異常があるものの金属のままで、境界Ⅱの温度以下で絶縁相になる。

我々は、境界Ⅰは陰イオンの四面体整列、境界Ⅱは F-サイトを含めた陰イオン整列に対応すると考

えている。最近の我々の 19F-NMR によれば、この温度圧力領域では回転と静止状態に対応する信号

が共存しており、温度の低下とともに徐々に FSO3イオンが整列していくことが分かった。我々は、

境界Ⅰ、Ⅱの間の領域で 77Se-NMR の線幅が顕著に増大することを観測した。均一幅 T2-1は 89K と

70K 付近で極大を示し、低温で減少することから、低温域での線幅は不均一幅であることが分かる。

圧力下で 77Se-NMR の角度依存性を測定したところ、不均一幅はナイト・シフトに見事にスケール

図2 -(BEDT-TTF)2(Rb,Cs)Zn(SCN)4における 13C-NMR の角度依存性。

5

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されることが分かった。これ

は、電荷の不均化の場合に特

徴的な振る舞いである。均一

幅 T2-1の極大も、70K 付近の極

大は-相 BEDT-TTF 塩で観測

された遅い電荷のゆらぎと共

通である。しかし、不均一幅

を電荷のゆらぎに押しつける

とその幅は+0.5±0.05程度と見

積もられ、-塩に比べて小さ

い。また、TMTTF 塩で電荷秩

序が報告されているのに対し、

TMTSF 塩では起こらないこ

と、FSO3塩も有機分子側の電

子 状 態 に つ い て は 他 の

TTMTSF 塩と極めて近いと考

えられることから、分子間の

電荷不均化の可能性は低いと

考えられる。

我々は、電気双極子によって分子内の電荷が偏ることが、観測された不均一幅の原因ではないか

と考えている。電荷の偏りによって分子内の 4 つの Se-サイト間で電子の密度(正確には局所磁化

率)が異なり、不均一な線幅を与えるという解釈である。そうであれば、均一幅 T2-1の異常で示唆

される遅いゆらぎは FSO3 イオンのダイナミクスによって決定されていることになる。さらに、電

気双極子によるサイトポテンシャルの乱れは、陰イオンが整列してはじめて超周期ポテンシャルと

して電子系に認識されギャップを生じることになる。 このモデルは、いまのところ極めて尤もらしい。これが正しければ、陰イオンの電気双極子が伝

導電子系と強く結合していることの初めての直接的な証拠になるし、これまでと違う電荷不均化の

メカニズムの存在を示すことにもなると考えている。 5. -(BETS)2(Fe,Ga)O4の金属相おける電荷不均化

-(BETS)2FeCl4(以下、-Fe 塩と略記)は、四面体陰イオン FeCl4が S=5/2 を持つ磁性イオンを担

う分子性導体であり、磁場誘起超伝導体としてよく知られた系である[13]。すなわち、ゼロ磁場に

おいては、10K で金属から反強磁性絶縁相へ転移

するのに対し、11T 以上の磁場中で金属相が復活

し、さらに 18T 以上で抵抗ゼロの超伝導が出現す

るのである。この磁場誘起超伝導は、いわゆる

Jaccarino-Peter の補償効果によって説明されるこ

とが提案され、我々のグループの開康一氏は

Grunoble の Berthier グループの強磁場施設を利用

して 77Se-NMR によって-電子の分極を測定し、

強磁場、低温で Fe-イオンが-電子に与える−30Tを越える交換磁場の存在と、交換磁場が外部磁場

と打ち消し合うことを直接観測、証明した[14]。 開氏は、この研究のいわば by-product として、

30K 以下の金属相で NMR 線幅の奇妙な増大を見

出した。外部磁場は 17T、温度の降下とともに

図 3 (TMTSF)2FSO3 に お け る77Se-NMR の角度依存性。

図4 -(BETS)2FeCl4, -(BETS)2FeCl4 における77Se-NMR の角度依存性。

図3 (TMTSF)2FSO3の圧力下おける 77Se-NMR の角度依存性。c)の挿入図中の実線は測定経路を示している。

6

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77Se-NMR のシフトが減少(!)する。これは Fe イオンの局在 d-電子が外部磁場の方向にそろい始

めて、-電子に交換磁場を作り始めるからである。それに伴って線幅は増大(!)する。これは d-電子の磁化に比例した増大で d-電子の作る双極子磁場が 77Se-核ごとに異なるためだと考えていた。

30K 以下ではこの比例関係が破れて、線幅はいっそう急激に増大する。線幅の角度依存性は、ふた

たびシフトにスケールする(図4)。これも「電荷の不均化」ではないか、というわけである。 -Fe 塩では、磁性を持った Fe-イオンを含んでいるので、NMR 線幅の機構はいろいろな可能性が

あり得る。線幅の増大の機構が BETS 層の事情によるものならば、Fe-イオンを含まない-Ga 塩と

比較してみるのがよい。図は、低温における-Fe 塩と-Ga 塩の 77Se-NMR の角度依存性を比較した

ものである。測定に用いた外部磁場はそれぞれ、-Fe 塩では 17T、-Ga 塩では 9T である。-Fe 塩

ではこの温度で約-32T の交換磁場が重畳しているとすると、77Se-核は-15T の有効磁場を感じてい

る。-Ga 塩と比べてほぼ 2 倍の磁場が逆向きに働いていることになる。77Se-NMR のシフトの角度

依存性の違いはこれで見事に説明できる。線幅を見てみよう。-Ga 塩でも、シフトにスケールする

線幅の角度依存性が明瞭に観測される。もう少し詳しい解析によれば、線幅を説明する不均化の程

度はそれぞれ+0.5±0.3、+0.5±0.2 で、-Fe 塩の方が 2 倍弱ほど大きい[15]。 -Fe 塩での 30K 以下での異常な線幅の増大は BETS 層上の電荷の不均化によるものと思われる。

同様な不均化は、-Ga 塩でも、若干小さめではあるが、起こっている。ここで思い出されるのは、

かつて東北大グループが報告している-Fe 塩での低温での誘電異常である。彼らはリラクサー型の

強誘電相の可能性を議論していた[16]。我々の観測した電荷の不均化と温度領域も対応している。77Se-NMR の T2

-1の測定は(T2-1が大きすぎて)行われていないのでゆらぎの特性周波数は分からな

いが、0.5~1.0MHz の不均一幅が先鋭化していないことから、その周波数より十分低いことが結論

される。ゆらぎがあるとしても十分に遅いといってよい。今後の問題は電荷の不均化の機構であり、

また、低温側に存在する超伝導相との関連である。

6.おわりに

このところ我々は、分子性導体の電子状態の研究のために、単結晶を用いて NMR の角度依存性

をていねいに解析するという手法を活用している。その中で、非磁性体なのに NMR 線幅が異常な

増大を示し、シフトに比例した角度依存性を示す例が次々に見つかったことを報告した。シフトに

比例する線幅の増大は電荷の不均化、厳密に言えば、局所磁化率の不均化によるものと考えられる

ことを述べた。NMR がミクロなプローブであること、局所磁場の(平均ではなく)重ね合わせを

観測することから得られる知見である。電荷の不均化が示唆されている分子性導体は他にもいろい

ろ見つかっている。NMR で研究がなされている物質は限られているが、ここで紹介したかったの

は、電荷の不均化など期待されていなかった Bechgaard 塩や-BETS 塩でも見つかったことである。

そして、その機構はやはり BEDT-TTF 塩と類似物質とは異なっているらしい、というのがこの報告

の結論である。

謝辞

ここに紹介した研究は、主に学習院大理の筆者の研究室において、特に助教の開康一氏の全面的

なリーダーシップのもとに行われたものである。以下に共同研究者の院生諸君の氏名を記して感謝

する。千葉亮、鷹野芳樹、久保徳明、諸戸史織、薩川秀隆、原田史朗、北原昌嗣、矢澤美穗、荒井

健一、高橋遼平、谷島章雄、高田祐介。また試料に関しては、中村敏和、山本浩史、加藤礼三、内

藤俊雄の各氏、さまざまな有益な議論を頂いた多くの皆さまに感謝する。

参考文献

[1] T. Takahashi, Y. Nogami and K. Yakushi, J. Phys. Soc. Jpn. 75, 051008 (2006) [2] たとえば田嶋尚也、梶田晃示, 固体物理 45, 719 (2010)

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[3] H. Kino and H. Fukuyama, J. Phys. Soc. Jpn. 65, 2158 (1996), 64, 4523 (1994), 64, 2726 (1994) [4] Y. Takano, K. Hiraki, H. M. Yamamoto, T. Nakamura and T. Takahashi,Synth. Met. 120, 1081 (2001) [5] S. Moroto, K. Hiraki, Y. Takano, Y. Kubo, T. Takahashi, H.m. Yamamoto and T. Nakamura, J. Phys. IV

France, 114, 399 (2004) [6] Y. Takano, K. Hiraki, Y. Takada, H. M. Yamamoto, and T. Takahashi, J. Phys. Soc. Jpn. 79, 104704

(2010) [7] S. Katayama, A. Kobayashi, and Y. Suzumura: Eur. Phys. J. B67,139 (2009) [8] H. Mori, S. Tanaka and T. Mori, Phys. Rev. B57, 12023 (1998) [9] K. Miyagawa, A. Kawamoto and K. Kanoda, Phys. Rev. B62, 7679 (2000) [10] R. Chiba, K. Hiraki, T. Takahashi, H.M. Yamamoto and T. Nakamura, Phys. Rev. Lett., 93, 216405

(2004) [11] M. Watanabe, Y. Nogami, K. Oshima, H. Mori and S. Tanaka, J.Phys. Soc. Jpn. 68, 2654 (1999) [12] Y. J. Jo, E.S. Choi, H. Kang, W. Kang, I.S. Seo and O.H. Chung, Phys. Rev. B67, 014516 (2003) [13] S. Uji, H. Shinagawa, T. Terashima, T. Yakabe, Y. Terai, M. Tokumoto, A. Kobayashi, H. Tanaka and H.

Kobayashi, Nature (London) 410, 908 (2001) [14] K. Hiraki, H. Mayaffre, M. Horvatić, C. Berthier, S. Uji, T. Yamaguchi, H. Tanaka, A. Kobayashi, H.

Kobayashi, and T. Takahashi, J. Phys. Soc. Jpn. 76, 124708 (2007) [15] K. Hiraki, M. Kitahara, T. Takahashi, H. Mayaffre, M. Horvatić, C. Berthier, S. Uji, H. Tanaka, B. Zhou,

A. Kobayashi, and H. Kobayashi, J. Phys. Soc. Jpn. 79, 074711 (2010) [16] 豊田直樹、鈴木貴博、根岸栄一、固体物理 41, 317 (2006)

8

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有機物超伝導体のギャップ構造の実験的解明

京都大学 理学研究科

米澤進吾

1. はじめに 2011 年は超伝導の発見 100 周年の記念すべき年にあたる。この長い研究の歴史にもかかわらず、

超伝導現象は今なお多くの研究者の興味を惹きつけている。分子性導体でも 1980 年に見つかった

(TMTSF)2PF6を皮切りとして[1]、数多くの超伝導体が発見されてきた[2]。これら有機超伝導体の興

味深い点は、擬一次元や擬二次元といった低次元性を持つ物質が多く、また、非 s 波の超伝導の証

拠が報告されているものが多いということである。また、電子構造が非常にシンプルである場合が

ほとんどであるため、理論との比較が容易なモデル物質としても重要である。一方で、結晶が壊れ

やすいなどの実験的な制約がある場合が多く、分子性導体の超伝導性の理解の進展には一歩進んだ

実験が必要である。我々は高感度の磁場角度分解の熱容量測定などを通じて、分子性導体における

超伝導の理解を進めるべく研究を行っている。本稿ではその研究の一端を紹介させて頂きたい。

2. 異方的な超伝導ギャップ構造 今日興味を持たれている超伝導体のほとんどは、非 s 波の異方的なギャッ

プを持った超伝導体である(図 1)。例えば、銅酸化物高温超伝導体では d波の超伝導状態の実現が確定的であるし、多くの重い電子系超伝導体や有機

物超伝導体でも d 波状態が実現していると考えられている。また、ルテニウ

ム酸化物 Sr2RuO4では超流動ヘリウム 3 と同様のスピン 3 重項状態が実現し

ている可能性が高い。 これらの非 s波的な超伝導ギャップ構造は超伝導の対形成メカニズムと強

く関係している。また、多くの実験結果を理解する上でも基本となる情報で

ある。従って、異方的なギャップ構造を実験的に解明することは超伝導研究

の上で越えなくてはならない重要なハードルである。しかし、ノードの有無

だけならば種々の物理量の温度・磁場依存性などから判別できるものの、k空間でのノードの位置を具体的に決めるのは一筋縄ではいかない。

3. 準粒子励起の磁場方向依存性による超伝導ギャップ構造の決定 では、このような異方的なギャップの構造を実験的に明らかにするにはど

うしたらよいだろうか? ギャップ構造をギャップの大きさも含めて決める

有効な手段は角度分解光電子分光(ARPES)であるが、ARPES が適用でき

る物質や条件は未だ限られている。より多くの場合に適用可能なギャップの

ゼロ点位置を決める方法が、以下に説明する「準粒子励起の磁場方向依存性」を利用する方法であ

る[3]。 一般的に超伝導体に磁場を印加した場合、磁束周りの超伝導電流(図 2a)によって準粒子励起エ

ネルギーは vs·vFに比例する変化を受ける(ドップラーシフト)[4]。ここで、vsは磁束周りを流れる

超伝導電流の速度であり、vFは Fermi 速度である。もし超伝導ギャップにノード(またはゼロ点)

が存在する場合、低温低磁場では主にゼロ点付近においてドップラーシフトによる準粒子励起が生

じる。超伝導流速度 vs が磁場 H に垂直であることを考慮すると、準粒子励起強度にゼロ点位置に

おける vF と磁場の内積に依存する寄与が加わることになる。具体的には、あるゼロ点における vF

と磁場が平行な時にそのゼロ点からの準粒子励起は抑えられる(図 2c)。 この準粒子励起の存在は、比熱測定や熱伝導測定から検出できる[5]。例えば比熱の場合、準粒子

励起が増大すると比熱も増大する。すなわち、比熱の磁場方向依存性を測定し、その変調を調べる

+s-wave

+– p-wave

++

d-wave

∆(k)

Fermi surface

図 1: 波数空間での超伝導ギャップ構造の模式図。

9

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Hと 「 ゼロ点1」 におけるvFが平行

→ 状態密度小

vF

vF

kF

H

ゼロ点1

ゼロ点2

vF

vF

kF

H

ゼロ点1

ゼロ点2

準粒子励起

∆(k)

Hと ゼロ点における vF

が平行でない→ 状態密度大

a b c

H // vortex

vs vortex

図 2: ドップラーシフトによる準粒子励起の磁場方向依存性の模式図。a: 第 2 種超伝導体では渦糸周り

に磁場に垂直な超伝導電流が誘起され、それによって準粒子が励起される。b,c: ギャップゼロ点付近における準粒子励起の磁場方向依存性の模式図。c のように磁場があるゼロ点におけるフェルミ速度 vFに平行な場合、vs·vFがゼロになるのでそのゼロ点における準粒子励起は抑制される。kFと H の関係ではなく、vFと H の関係が重要だという点に注目していただきたい。

ことで、超伝導ギャップ構造、より正確には「超伝導ギャップのゼロ点における Fermi 速度の方向」

を明らかにすることができる。ただし、多くの場合、超伝導ギャップ由来の比熱の変調は比熱全体

の数%程度以下と非常に小さく、高分解能の比熱測定を行うことが求められる。 この原理による超伝導ギャップ構造の研究は銅酸化物高温超伝導体やルテニウム酸化物・重い電

子系超伝導体などにおいて盛んに行われてきた[3]。そして、それぞれの超伝導体の理解の深化に重

要な寄与をしてきたのである。

4. 擬一次元超伝導体における比熱の磁場方向依存性とギャップ構造 前節に挙げた磁場方向依存の準粒子励起を基にしたギャップ構造の研究が行われてきた物質は、

すべて擬二次元や三次元の電子構造を持つ超伝導体である。一方、直交する 3 方向の導電性が互い

に大きく異なる擬一次元の系における研究は報告されていなかった。このように擬一次元系で研究

が遅れていた理由はなぜだろうか? その理由の 1 つは、ドップラーシフト由来の比熱変調が上部臨界磁場の異方性に由来する比熱変

調に上乗せされた形で観測されてしまうという点である。従ってドップラーシフト由来の異常を見

出すには非常に注意深い測定が必要になる。また、擬一次元系では Fermi 速度 vFの方向と Fermi 波数 kFの方向は全く異なっているという点にも注意が必要である。先述したように、この手法では「超

伝導ギャップのゼロ点における vFの方向」しか明らかにすることができない。つまり、波数空間の

ゼロ点位置が実験から自動的に得られるわけではないのである。波数空間でのゼロ点位置を明らか

にするためには、物質のバンド構造を考慮する必要がある。なお、擬二次元系や三次元系の多くは

(とくに対称性の高い k 点においては)vFと kFの方向が平行である傾向が高いため、このような問

0

0.5

1

-30 0 30 60 90 120 150

Cal

cula

ted

QD

OS

(degree)

a

0

0.5

1

-30 0 30 60 90 120 150

Cal

cula

ted

QD

OS

(degree)

b

0

0.2

0.4

0.6

-40 -20 0 20 40

Cal

cula

ted

QD

OS

(degree)

c

n1

n2

図 3:準粒子状態密度の磁場方向依存性に現れる変調(縦軸の値にあまり意味は無い)。準粒子状態密度は低温・低磁場での比熱に対応する。a: 擬二次元や三次元の系の d 波超伝導体で期待される振舞いの模式図[5]。4 回対称の振動が期待される。b, c: 擬一次元系で期待される状態密度の磁場方向依存性。c は φ = 0°付近の拡大図。ゼロ点における Fermi 速度と磁場が平行になる磁場方向(右図の φn1および φn2)で状態密度にキンクが生じる。

10

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題はあまり表面化してこない。(もしくは見過ごされてきただけかもしれない。) これらの問題を考慮すると、擬一次元系における比熱の磁場方向依存性はどのようになるのであ

ろうか? 以下では、ドップラーシフトモデルに加え、上部臨界磁場 Hc2 の異方性として有効質量モ

デルを加味した計算を紹介する。まず、ドップラーシフト由来の比熱の磁場角度 φ 依存性として

という形を仮定する。ここで、n はゼロ点の index であり、

φnは磁場とゼロ点 n の位置での vFのなす角度である。また、擬一次元系の多くは三斜晶であること

から、比熱への寄与の重みは各ノードで異なっていてもよい。従ってゼロ点 index に依存する重み

An を取り入れている。また、Hc2 の異方性は有効質量モデルを用いて以下のように表される:

。ただし、 である。こ

れら 2 式を組み合わせると、図 3b-c のような比熱の磁場方向依存性が得られる。ただし、このグラ

フはゼロ点が計 2 か所(φn1 = −10°と φn2 = +10°の位置)あり、重み係数の比が An1/An2 = 0.3、Hc2の

異方性が Γ = 3.5 であると仮定している。擬一次元系の場合と擬二次元・三次元の場合(図 3a)と

が大きく異なっていることに注目していただきたい。 この計算結果には以下の 2 点の特徴的な振舞がある: ① φ= φn1または φ= φn2において C(φ)/T 曲線にキンク構造が生じる。 ② 重み係数の異方性に起因して、C(φ)/T 曲線が結晶軸に対して非対称になる場合がある。

なお、より現実的な渦糸構造を考慮した理論計算でも同様の結果が得られている[6]。

5. 擬一次元超伝導体(TMTSF)2ClO4の磁場角度分解比熱と超伝導ギャップ構造 では、4 節で議論したような特徴的な振舞いは実際に観測されるのであろうか。それを明らかに

するため、我々は代表的な擬一次元超伝導体である(TMTSF)2ClO4 の磁場角度分解比熱測定を行っ

てきた[7]。TMTSF 系は初めて発見された有機物超伝導体[1]として有名であるが、非常にシンプル

な電子構造をもつ典型的な擬一次元系としても知られている。一方、超伝導ギャップ構造に関して

は、30 年以上にもわたる研究の蓄積にもかかわらずはっきりしたコンセンサスは得られていない状

況であった[8]。 実験にあたって、まずわれわれは高感度の熱

容量計を開発した。というのも、磁場角度分解

の測定では必ず単結晶試料が必要である一方、

(TMTSF)2ClO4 の単結晶はあまり大きいサイズ

のものが得られず、さらに電子比熱係数も小さ

いので、通常の方法では熱容量の測定が困難で

あるためである。大まかな試算によると、1 Kにおいて 1 nJ/Kよりも十分高い分解能が必要で

あった。これは広くつかわれている市販の熱容

量計(例えば Quantum Design 社 PPMS)に比べて数ケタ高い分解能が必要であることを意味する。

図 4 に示す我々の熱容量計は、「Bath modulating method (BMM)」[9]という、交流法を改良した方

法を用いている。通常の交流法では試料のすぐそばに温度計とヒーターを置くのであるが、BMMでは試料そばには温度計のみが設置されている。その代わり、プラットホームと呼ばれる場所にヒ

ーターともう一つの温度計が設置されている。このプラットホームと試料は弱く熱リンクされてい

る。プラットホームの温度を変調させると試料の温度も変調するが、その際の温度変調振幅の比や

変調位相のずれは試料の熱容量に関係する。例えば、試料の熱容量が減少すると、試料の温度がプ

ラットホームの温度に追随しやすくなるため、変調振幅の比は 1 に近付き、位相のずれは小さくな

る。BMM ではこの原理を用いて試料の熱容量を測定するのである。 開発した熱容量計を用いて測定した(TMTSF)2ClO4単結晶(76 μg)の熱容量の導電面(ab 面)内

での磁場方向依存性を図 5 に示す。重要な点は、低温低磁場において C(φ)/T 曲線が φ = 0°(結晶の

a 軸に対応)に対して非対称になっている点(図 5a)、および φ = ±10°にキンク構造が観測された点

(図 5b)である。これらの特徴がまさに先述した特徴①②に一致していることから、ドップラーシ

Sample

Platform

Ks

Kp

Bath

CsT

s(t)

Cp

Tb

Ih(t)

Heater Rh

Ks(T

s- T

p)

Kp(T

p- T

b)

Qh(t) T

p(t)

図 4: 開発した熱容量計の写真と Bath modulating method [9]の模式図。

11

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フト由来の比熱変調の観測に成功したと結論できた。 キンク構造の位置から、「ゼロ点のうち幾つかは Fermi 速度

vF が結晶の a 軸から+10°および−10°方向を向いている位置に

存在しなければならない…※」ことが言える。Fermi 面の構造

やネスティング[10]を考慮すると、安定になりうる超伝導ギャ

ップ構造をある程度絞り込むことが可能である。このように

して絞り込んだギャップ構造のうち、条件(※)を満たす構

造を検討すると、図 6 に示すノード構造を持つ状態が最も確

からしいと結論付けられた。図のように、外側の Fermi 面に

おけるノードにおいて、確かに vFが結晶の a 軸から±10°方向

を向いていることが分かる。

6. おわりに 我々の知る限り、ドップラーシフトの原理による超伝導ギ

ャップ構造の解明が成功したは擬一次元系においては初めて

である。この成果は、ドップラーシフトを利用したギャップ

構造の研究が、これまで信じられていた以上の適応可能性を

秘めていることを明らかにした。 今後は他の有機超伝導体にもこの方法を適用し、興味深い

有機超伝導の世界をより開拓していきたいと考えている。た

だし、再度ここで注意しておきたいのは、この方法で明らか

にできるのは「超伝導ギャップのゼロ点における vFの方向」

であるという点である。分子性導体は三斜晶や単斜晶の対称

性の低い結晶構造の物質が多いため、一般に kFと vFは平行と

はみなせない。従って k 空間でのギャップ構造を決めるため

には、5 節で行ったようなバンド構造も加味した総合的な考

察が必要なのである。 本研究は前野悦輝教授(京都大学)、D. Jérome 教授(パリ

南大学)、K. Bechgaard 教授(コペンハーゲン大学)との共同

研究である。また、本新学術領域「分子自由度が拓く新物質

科学」からは金銭的な面だけでなく、様々な議論やご指摘を

通じても本研究をサポートしていただいている。この場をお

借りして深く御礼申し上げたい。

参考文献

[1] D. Jérome, et al., J. Phys. Lett. 41, L95 (1980). [2] H. Mori, J. Phys. Soc. Jpn. 75, 051003 (2006). [3] T. Sakakibara, et al., J. Phys. Soc. Jpn. 76, 051004 (2007). [4] G. E. Volovik, JETP Lett. 58, 469 (1993). [5] I. Vekhter, et al., Phys. Rev. B 59, R9023 (1999). [6] Y. Nagai, et al., Phys. Rev. B 83, 104523 (2011). [7] S. Yonezawa, et al., Submitted (2010). [8] I. J. Lee, et al, J. Phys. Soc. Jpn. 75, 051011 (2006);

W. Zhang,et al.,Adv. Phys. 56, 545 (2007). [9] J. E. Graebner, Rev. Sci. Instrum. 60, 1123 (1989). [10] D. L. Pevelen, et al., Eur. Phys. J. B 19, 363 (2001).

4

4.2

4.4

4.6

-30 0 30 60 90 120 150

(degree)

C/T

(arb

.uni

ts)

4.4

4.7

5

5.35

5.5

6

6.5

789

1011

0.14 K, 1.0 T, 10 Hz

a (TMTSF)2ClO

4+ background

4.4

4.6

4.8

5

-40 -20 0 20 40C

/T(a

rb.u

nits

)

(degree)

b

0.14 K, 0.5 T, 10 Hz

0.14 K, 0.3 T, 10 Hz

0.14 K, 0.1 T, 10 Hz

0.14 K,0.3 T, 10 Hz

図 5: 擬一次元超伝導体(TMTSF)2ClO4

の熱容量の導電面(ab 面)内磁場方向依存性[7]。a の黒線はデータ(青点)を−φ に対してプロットしたものであり、黒線と青線の不一致はデータの φ = 0°に対する非対称性を示している。bは φ = 0°付近の拡大図で、矢印はデータのキンク構造を示す。

kx

ky

-10°v

F

a axis

+10°v

Fa axis

d-wave-like g-wave-like

∆(k)

+

+ + +

– –

– –

– –

+

– – +

+

– +

+ –

+ –

図 6: 実験から決められた超伝導ギャップのノード構造(上)とそれを満たす超伝導ギャップ構造(下)。青の曲線は Fermi 面を表す。vFは E(k)の勾配であるため、Fermi 面に垂直である。スピン 1 重項超伝導であるとすると、図に示す d 波型もしくは g 波型が実験と合致する。

12

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第一原理計算による TTF-CA と TTF-BA の電子状態・自発分極の研究

産業技術総合研究所ナノシステム研究部門

石橋章司

1. はじめに 第一原理計算は、結晶構造が与えられれば、他の経験的パラメータを必要とせずに系の電子状態

を求めることができるため、新規に発見・合成された物質の物性予測に有効である。さらに、必要

に応じて、結晶構造そのものの予測も可能で、例えば、分子性固体の物性制御の手段である静水圧

印加・一軸性圧縮下における結晶構造を決定できる。電子バンド分散・フェルミ面形状などについ

ての知見の他、光吸収スペクトルや、絶縁体においては誘電率、強誘電体においては自発分極など、

各種物性量の計算も行なうことができる。本稿では、上記のような特長を持つ第一原理計算手法を

有機強誘電体である TTF-CA (TTF = C6H4S4, CA = C6Cl4O2; tetrathiafulvalene-p-chloranil)と TTF-BA (BA = C6Br4O2; tetrathiafulvalene-p-bromanil) の電子状態・自発分極の研究に適用した例[1,2]を紹介す

る。 強誘電体は、従来、無機化合物を中心に研究が進められてきたが、近年、有機強誘電体が相次い

で報告され、大きな注目を集めつつある[3]。TTF-CA および TTF-BA は、その中でも比較的古くか

ら研究が進められてきた。構成分子の TTF は、共通、BA と CA については、構成元素の Br と Clを置換した関係で、類似性が高いと考えられるが、実際の固体の結晶構造は、少し異なっている。

図 1 に両者の結晶構造[4,5]を示す。双方とも TTF 分子と BA/CA 分子が交互に積層したカラムを形

成するが、単位胞に 2 ユニット存在するカラムが、TTF-CA では平行になっているのに対し、TTF-BAでは直交に近い状況となっている。 このように、平面状のドナー分子とアクセプター分子が交互積層し結晶を構成する物質群は、混

合積層化合物(mixed-stack compound)と呼ばれ、イオン化のコストと静電エネルギーのバランスによ

り、構成分子がほぼ中性のまま留まるものとイオン化するものとの、2 つのグループに分けられる。

TTF-CA は、両者の中間に位置しており、温度あるいは圧力の変換に伴い、中性-イオン性転移を

示す。一方、TTF-BA は、低温から室温までの全温度域でイオン性相をとる。前者の強誘電転移が、

中性相-イオン性相転移に伴っているのに対し、後者ではイオン相のまま強誘電転移が生じている。

ドナー-アクセプター間の電荷移動量は、TTF-CA の中性相で 0.20~0.30 電子、イオン性相で 0.70

a

c

b

Cl O

SH

CTTF

CA

a

c

b

Cl O

SH

CTTF

CABA1

BA2

TTF2

TTF1

Br

O

HS

Ca

c

b

BA1

BA2

TTF2

TTF1

Br

O

HS

Ca

c

b

図 1. (左) TTF-CA (40 K)の結晶構造[4], (右) TTF-BA (20 K)の結晶構造[5]

13

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~0.75 電子であるのに対し、TTF-BA では、ほぼ 1 電子となっている。最近、賀川らにより、TTF-BAにおいて、有機強誘電体で初めて磁気電気結合効果を示すような実験事実が確認され[6]、より一層

の注目が、この物質に集まるようになった。 2. 計算手法 有機強誘電体に関わる最も重要な物性値の一つである自発分極は、次のように計算される。分極

の変化分 ΔPtotは、イオンからの寄与 ΔPionと電子からの寄与 ΔPelの和として求められる。前者につ

いては、単純に各イオンからの寄与の和として、ΔPion = (|e|/Ω)ΣiZv

iΔriと求められる。ここで、e、Ω、ZV

i、Δri は、それぞれ、電子電荷、結晶単位胞体積、i 番目のイオン価、イオン変位を示している。

一方で、電子からの寄与分を計算するのは単純ではない。電子密度分布の差では、電子分極変化を

記述するには不十分で、全ての占有状態についての波数 k に依存した波動関数のセットが必要とな

る[7,8]。電子分極変化は、波動関数のセットからベリー位相と呼ばれる量を計算することを通じて、

次式より与えられる: G3•ΔPel ≈ -(2|e|/Ω) ∫ dξ1dξ2 Im [ ln Πs det S(ξs, ξs+1) ]。ここで、S(λ)mn(k, k’) は、2

つのブロッホ関数 u(λ)m(k)および u(λ)

n(k’)の重なり積分、λは、分極の程度を表わすパラメータ、ξは、

4 成分をもつベクトルで、k = ξ1G1+ξ2G2+ξ3G3、および、ξ4 =λの関係を満たす。Giは、それぞれ、

逆格子ベクトルの 1 つである。 実際の計算には、平面波基底と Projector Augmented-Wave (PAW) 法による第一原理電子状態計算

コード QMAS (Quantum MAterials Simulator) [9]を使用した。電子交換相関相互作用については、一

般化勾配近似(GGA)を用いた。TTF-CA と TTF-BA のそれぞれの実験構造[4,5]に加え、計算により

原子位置を最適化した構造についても、電子状態および自発分極計算を行なった。 3. 結果と考察 TTF-CA 低温(強誘電)相の実験構造について得られた電子バンド構造は、既報のもの[10]と良い一

致を示した。バンドギャップは、間接型で、0.13eV であった。また、Γ点でのギャップは、0.21eVであった。一方、光学伝導度測定から見積もられるギャップは、0.63eV である。このようなバンド

ギャップの過小評価は、局所密度近似(GGA もその同類)に付随する問題として良く知られている。

バンドギャップ近傍の占有バンド 2本と非占有バンド 2本に対応する電子状態密度を図 2 (左) に示

す。これらのバンドは、TTF の最高占有軌道(HOMO)と CA の最低非占有軌道(LUMO)に由来するも

のである。これらの軌道間で小さからぬ混成があるものの、TTF-HOMO は占有バンドに、CA-LUMO

は非占有バンドに、それぞれ、大きな寄与があることが分かる。計算結果のマリケン電荷解析から

-0.6 -0.4 -0.2 0.0 0.2 0.4 0.60

5

10

15

20

()

Energy (eV)

Total TTF CA

0

10

20

30

-0.4 -0.2 0.0 0.2 0.440

30

20

10

0 Total

TTF1 BA1 TTF2 BA2

Energy (eV)

図 2. バンドギャップ近傍の電子状態密度: (左) 非磁性 TTF-CA, (右) 反強磁性 TTF-BA

14

Page 15: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

見積もった電荷移動量は、0.61 電子であり、実験値 0.70~0.75 電子に比べて少し小さな値となって

いる。 自発分極については、実験構造で 9.99μC/cm2、原子位置最適化後で 11.77μC/cm2の値が得られた。

分極ベクトルの方向は、a 軸にほぼ平行となっている。これらの値は、既報の実験値 0.4μC/cm2 [11]に比べて著しく大きい。また、点電荷近似の結果[4]と比べても大きい。ただし、TTF-CA に類似の

結晶構造を持つ物質 TTF-QBrCl3において、2.1μC/cm2という比較的大きな値が、最近になって報告

[12,13]されているので、TTF-CA での実験値の更新もあり得る事が期待される。 第一原理計算で、このような大きな自発分極が出ている原因は、反転対称の破れにつれて、反転

対称心を位置の基準として求めたイオン分極が線形に増加しているのに対し、電子分極はあまり増

加していないことによるものであることが分かった。これは、TTF-HOMO と CA-LUMO の混成の

効果と考えられる。 TTF-BA においては、前述のように、強誘電転移がスピン-パイエルス転移に対応していると示唆

する実験結果が得られている[6]。しかしながら、周期的境界条件に基づく通常のバンド計算手法で、

スピン一重項状態を記述することは困難である。そこで、一つの極限状態である反強磁性(AFM)状態を仮定した計算を行なってみることにした。考え得る AFM 状態のパターン数は無限であるが、

ここでは、最も簡単な 2 つの場合を扱った。ケース 1 (AFM1)では、図 1 (右)に示した TTF1 と TTF2がダウンスピン、BA1 と BA2 がアップスピンを持つような配置を、ケース 2 (AFM2)では、TTF1と BA2 がダウンスピン、TTF2 と BA2 がアップスピンを持つような配置を、それぞれ仮定した。実

験構造においては、非磁性(NM)状態に比べて、AFM1 と AFM2 は、それぞれ、0.109 eV/単位胞と

0.097 eV/単位胞だけ安定であった。また、原子位置を最適化した場合には、これらの値は、0.087 eV/単位胞と 0.073 eV/単位胞であった。このように、TTF-BA では、磁性が発現した状態、調べた中で

は、TTF と BA が反強磁性的に結合した状態が安定であることがわかった。TTF-CA においては、

GGA を用いた今回の計算では、このような反強磁性秩序は得られなかった。なお、最近、Giovannettiらが、Heyd–Scuseria–Ernzerhof 遮蔽クーロンハイブリッド汎関数を用いて、TTF-CA で、反強磁性

秩序を示す基底状態が得られたことを報告している[14]。 TTF-BA の実験構造における反強磁性相(AFM1)の電子状態密度を図 2 (右) に示す。TTF-CA の場

合(図 2 (左))、そして、TTF-BA の NM 状態の場合(ここでは示していない)とは異なり、バンドギ

ャップ近傍に存在する TTF-HOMO と BA-LUMO の状態は、スピンとエネルギー領域で隔てられて

いて、ほとんど混成していないことが分かる。ドナー分子からアクセプター分子への電荷移動量は、

0 20 40 60 80 1000.00

0.02

0.04

0.06

0.08

0.10

(%)

x y z total

0 20 40 60 80 100-0.010

-0.008

-0.006

-0.004

-0.002

0.000

0.002

0.004

0.006

0.008

0.010

P (

C/m

2 )

(%)

x y z total

図 3. λの変化に伴う自発分極の発現: (左) 非磁性 TTF-CA, (右) 反強磁性 TTF-BA

15

Page 16: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

ほぼ 1 となっている。 反強磁性相(AFM1)における自発分極の計算値は、実験構造で 0.91μC/cm2、原子位置最適化後は、

0.16μC/cm2 であった。なお、分極をベクトル表示すると、それぞれ、(0.21, -0.89, 0.06)μC/cm2、(0.03, -0.15, 0.03) μC/cm2である。ここで、x 方向は、a 軸方向に一致、y 方向は、ab 面内に存在し、z 方向

は、ab 面に垂直である。実験値の 0.15μC/cm2 [6]と比べて原子位置を最適化した後の値は、良い一

致を示している。 TTF-BA の反強磁性相(AFM1)では、TTF-HOMO と BA-LUMO が異なるスピンを有することで、

この間の混成が存在しない。このことから、点電荷近似による見積もり[6]と比較的近い値となって

いることが、自然に理解できる。 非磁性 TTF-CA と反強磁性 TTF-BA の自発分極の発現における相違点を明らかにするため、パラ

メータ λを 0 %から 100 %まで変化させた際の、自発分極の発現の様子を、実験構造の場合につい

て、図 3 に示す。TTF-CA では、x 方向、すなわち、a 軸に沿った方向でのみ、自発分極が発現し、

その変化は、λの変化に対して、顕著な非線形性を示している。一方、TTF-BA では、全ての方向

について、λの変化に対して、ほぼ線形に変化している。また、自発分極の値自体も、TTF-CA の

方がはるかに大きくなっている。これらの違いは、前述のように、非磁性 TTF-CA の場合は、

TTF-HOMO と CA-LUMO が混成しているのに対し、反強磁性 TTF-BA の場合は、TTF-HOMO と

BA-LUMO が混成せず、別々に電子バンドを形成していることに由来していると考えられる。 3. まとめと今後 TTF-CA と TTF-BA は、結晶構造の詳細は異なるものの、類似性の高い物質であるにも関わらず、

磁性状態の安定性の小さな差が、自発分極の発現における大きな違いとして現れることが、GGAに基づく第一原理計算から予測された。今後は、さらに様々な有機強誘電体において、その電子状

態と自発分極を、第一原理計算により求めていく予定である。また、新たな実験結果が報告される

ことも期待され、それらとの精密な比較を通じて、より深く有機強誘電体の物性に迫ることを目指

す。 本稿で示した研究成果は、寺倉清之教授 (北陸先端科学技術大学院大学先端融合領域研究院)、堀

内佐智雄博士 (産業技術総合研究所フレキシブルエレクトロニクス研究センター)との共同研究に

よるものである。 参考文献 [1] S. Ishibashi and K. Terakura, Physica B 405, S338 (2010) [2] S. Ishibashi, K. Terakura and S. Horiuchi, J. Phys. Soc. Jpn. 79, 043703 (2010) [3] S. Horiuchi and Y. Tokura: Nat. Mater. 7, 357 (2008) [4] M. Le Cointeet al., Phys. Rev. B 51, 3374 (1995) [5] P. García, S. Dahaoui, P. Fertey, E. Wenger, and C. Lecomte, Phys. Rev. B 72, 104115 (2005) [6] F. Kagawa, S. Horiuchi, M. Tokunaga, J. Fujioka, and Y. Tokura, Nat. Phys. 6, 169 (2010) [7] R.D. King-Smith, D. Vanderbilt, Phys. Rev. B 47, 1651 (1993) [8] R. Resta, Rev. Modern Phys. 66, 899 (1994) [9] http://qmas.jp [10] V. Oison, C. Katan, P. Rabiller, M. Souhassou, C. Koenig, Phys. Rev. B 67, 035120 (2003) [11] E. Collet, Ph.D. Thesis, University of Rennes 1, 1999 [12] F. Kagawa et al., Phys. Rev. Lett. 104, 227602 (2010) [13] S. Horiuchi and R. Kumai, private communication [14] G. Giovannettiet al., Phys. Rev. Lett. 103, 266401 (2009)

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Page 17: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

フタロシアニンπ-d 系導電体の展開

北海道大学大学院理学研究院

稲辺 保

1. はじめに フタロシアニン(Pc)は大環状 π 共役系配位子であり、様々な金属イオン種と錯体を形成する。

そのため、伝導を担う π電子系と d 電子由来の磁気モーメントを分子内に共存させた導電体の構成

成分とすることができ、分子内で有意の π-d 相互作用が働けば、導電体は必然的に π-d 系となる非

常に便利な錯体である。特に、軸配位型の錯体を用いた場合、π-π 積層構造を多様に変化させるこ

とができることから、π-d 系の物性が π-π 相互作用によってどのように影響を受けるかを系統的に

調べることができる。 様々な中心金属イオンの導入が可能だが、我々はまず非

磁性の CoIII(低スピン d6)を導入した系で π-π 積層構造の

バリエーションと π 電子系由来の物性を調べ、次いで磁性

イオンである FeIII(低スピン d5)を導入した系へと研究を進

めた。Co⇒Fe の置換は分子の幾何構造にほとんど影響を与

えないことから、同形結晶を与え、d スピンが加わることで

発現する電子物性のみを抽出することができる。Co 系で作製することができた部分酸化塩のほと

ん ど に つ い て Fe 系 で も 作 製 に 成 功 し て い る が 、 代 表 的 な 一 次 元 系 で あ る TPP (tetraphenylphosphonium)塩について最近の結果も含め特徴をまとめ、次いでその他の物質群につい

て概観する。 2.一次元 TPP 塩 TPP をカチオン成分とすると、TPP[M(Pc)(CN) 2]2 (M = Co, Fe)の部分酸化塩が得られる。この結晶は電解酸化で得られ、

Pc 配位子は電解前の Pc2-から Pc1.5-へと部分酸化を受ける。

図1に示す tetragonal の結晶構造中で、Pc unit (M(Pc)(CN)2)は一次元的な π-π 積層によって配列するが、それらは c 軸

の単位ベクトルによる並進対称の関係にあることから、す

べて等価である。従って、Pc 環の HOMO の重なりによっ

て形成される伝導バンドは 3/4-filled となる。バンド幅は軸

配位子によって若干異なるが、概ね 0.5 eV 程度であること

が熱電能の結果から示されており、一次元物質としては小

さなバンド幅となっている[1,2]。 比抵抗の温度変化は測定した全温度領域で熱活性型の

挙動を示し、M = Fe ではその活性化エネルギーは 30 K 以

上では約 0.02 eV、30 K 以下では 0.03 eV となっている(図

2)。加圧による比抵抗の変化を調べたが、高温領域の活

性化エネルギーは圧力とともに減少するのに対して、低温

領域については 12 kbar の圧力下でもほとんど変化しなか

った。熱活性型の伝導度は非磁性の M = Co の系でも観測

されている。この原因が電荷の不均化によることは、59Co-NQR シグナルの低温での非対称 broadening によって

明らかにされている[3]。一方、M = Fe の系では各サイトに

磁気モーメントが導入されており、電荷不均化をさらに発達させると考えられ、そのため、伝導に

図1 TPP[M(Pc)(CN)2]2の結晶構造

軸配位型 Pc unit

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はCo系に比べより大きな活性化エネルギーが必要となってい

ることが示唆される。電荷不均化による超格子を X 線回折に

よって検出しようとする試みが花咲らによって行われたが、

Co 系では検出されなかった。しかし、Fe 系については温度の

低下によって強度の増大する 4kF での散漫散乱の検出に成功

しており、Fe 系では電荷不均化がより発達していることが裏

付けられている[4]。また、I-V 特性での負性抵抗の出現が Co系では 5 K 以下でしか見られないのに対して、Fe 系では 30 K付近から観測されており、非線形伝導が電荷不均化状態に対

する電場誘起の電荷の非局在化と考えると、Fe 系では電荷不

均化がより発達しているという解釈と矛盾しない[5]。 Fe 系の磁気物性は輸送特性を理解する上で重要である。そ

の際、考慮しなければならないのは Fe(Pc)(CN)2 unit の大きな

磁気異方性である。伝導電子を持たない[Fe(Pc)(CN)2]–の塩の

単結晶を用いて ESR を測定することで g-値の異方性を見積る

と、図3a のように得られる[6]。一般に 3d 系列の遷移金属イ

オンではスピン−軌道相互作用が quench される場合が多いが、

Fe(Pc)(CN)2の場合は事情が異なる。D4h対称と考えると、不対電子が収容される d 軌道は縮退した

dxzと dyzになるため、磁場によって異方的な g-値を生み出すことが可能となる[6]。分子軌道計算で

は、Jahn-Teller 効果による対称性の低下が示唆されているが、分裂した2つの状態のエネルギー差

はかなり小さいため、充分な大きさのスピン−軌道相互作用が働くことが示唆されている[7]。 この分子が持つ磁気異方性を反映して、磁化率も大きな異

方性を示す(図3b)。磁化率の大きなスタッキング軸に垂直

な磁場(分子はスタッキング軸に対して 20°程度分子面を傾

けているため、スタッキング軸に垂直な方向が大きな g-値の

方向に対応する)のとき、25 K 付近に極大を示す。また、さ

らに低温で再度磁化率の上昇が見られる。この物質の磁気構

造については、田島らによる磁気トルク及び比熱測定と一次

元異方性 Heisenberg モデルによる解析で詳細に調べられてい

る [8] 。 そ の 結 果 、 25 K 付 近 の 極 大 は d- ス ピ ンの

antiferromagnetic short-range order の形成(J/kB ~ 32 K)に対応

し、π電子系も 13 K 以下で反強磁性状態になることが明らか

になった。また、カチオンの異なる別の一次元系を対象とし

た磁気トルク実験から、低温で現れる自発磁化を説明する

charge-ordered-ferrimagnetism モデルを提唱している[9]。 最後に、この物質の注目すべき物性である磁気輸送特性を

紹介する。図4にパルス磁場を用いて 20 K で測定した磁気抵

抗を示す[10]。2桁以上の巨大な負の磁気抵抗が観測されてい

るが、大きな磁気異方性を反映して、磁気抵抗効果も異方性

を示し、磁化が大きな方向で磁気抵抗効果も大きくなる。特

徴的なのは磁場による抵抗の減少が極めてスムースな点であ

る。従って、この温度領域では磁場誘起の磁気相転移に伴っ

て抵抗が減少するという機構ではないことが分かる。 上述のように、負の磁気抵抗が観測される温度領域(< 50 K)では電荷不均化がかなり発達している。また、Fe(Pc)(CN)2 unit 内のπ-不対電子と d-スピン間には強磁性的な磁気交換相

互作用(J ~ 15.5 meV)が働いていることが分子軌道計算によ

図2 TPP[Fe(Pc)(CN)2]2の比抵抗

図3 (a) Fe(Pc)(CN)2 unit の g-値の異方性.(b) TPP[M(Pc)(CN)2]2の磁化率

(a)

(b)

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って示されている。さらに、この温度領域では d-スピン間で

反強磁性的な磁気秩序が成長しつつある。外部磁場がなけれ

ば、反強磁性秩序のために電荷担体の電荷不均化が促進され

局在化しているが、外部磁場が加わることで電荷担体はこの

束縛から解放されて抵抗が減少すると考えられ、実際、磁場

によって電荷不均化が弱められていることが散漫散乱の強度

の減少によって示唆されている[4]。 一方、さらに低温の 1.5 K では、15 T で急激で4桁にも渡る

磁気抵抗の減少が見られ、磁場による磁気構造の変化が示唆

されている[11]。この系ではπ-d 間、d-d 間、π-π間に複雑に

絡み合った磁気的な相互作用が存在し、これらが磁気輸送特

性の発現に関わっている。そのため、正確な機構の解明に向

けての実験が現在も続けられている。 3.二次元 PXX 塩

軸配位型Pc系導電体の特徴はπ-π積層構造の設計の自由

度である。その一例として二次元的なπ積層構造をもつ

[PXX]2[Fe(Pc)(CN)2].CH3CN について紹介する[12]。 PXX は中性分子でπ-donor 成分として働くことが知られ

ているが、この分子の積層によって金属伝導が実現された物

質はまだ報告されていない。二次元 PXX 塩は中性の PXX と

π系が閉殻の[Fe(Pc)(CN)2]–錯体をアセトニトリル中で電解

することで得られる。PXX は電解酸化されることでカチオ

ンラジカルとなり、カチオン成分として結晶を構成する。

PXX は4枚周期の一

次元カラムを形成す

るが、そのうちの3

枚では明瞭な電荷不

均化(0, +1, 0)が存

在し、残る1枚は配

向の disorder を起こ

しており、導電物性

には寄与しない。

disorder の PXX は中

性の PXX に挟まれ

ていることから、中

性であると解釈され(開殻構造であれば中性 PXX と強い相

互作用を持ち、配向の disorder は起きないと考えられるた

め)、PXX は4分子で+1 価のカチオンとなる。従って、

Fe(Pc)(CN)2 unit は–0.5 の形式電荷となる。 Fe(Pc)(CN)2 unit は二次元シート状にπ-π積層しているが、

さらに2枚のシートが重なったdouble-sheet構造となってい

る(図5)。シート内の Fe(Pc)(CN)2 unit はすべて並進対称で

関係づけられ、また、2枚のシートは対称心の関係となっ

ていることから、すべての Fe(Pc)(CN)2 unit は結晶学的には

等価である。従って、3/4-filled の金属的なバンドを持つこ

とになるが、実際には室温以下で熱活性型の伝導挙動を示

図4 TPP[Fe(Pc)(CN)2]2の磁気抵抗

図5 [PXX]2[Fe(Pc)(CN)2].CH3CNの結晶構造

図6 [PXX]2[M(Pc)(CN)2].CH3CN の比抵抗.(a)M = Co, (b) M = Fe

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す。これは一次元系と同様に電荷不均化によるものと考え

られるが、特に二次元シート内の Pc 環の重なりが一次元系

に比べかなり小さくなることから、電子相関の効果をより

受けやすい系となっている。また、一次元系と異なる点と

しては Fe 系の室温比抵抗値が Co 系とほとんど変わらない

ことが挙げられる。この傾向は圧力下の伝導度でも共通で、

Co 系では加圧によって金属的な挙動となるが、Fe 系でも室

温では同程度の抵抗の低下が観測され、金属的な挙動が現

れる(図6)。しかし、Co 系では低温まで金属的挙動が持

続するのに対して、Fe 系では低温で急激な抵抗の立ち上が

りが起こる。 常圧化では低温の比抵抗値が大きいため、磁気抵抗は 33 K でしか測定できなかった。その磁気抵抗率は–10%程度で、

あまり大きくない。しかし、加圧下では低温での測定も可

能となり、12 kbar の圧力下の結果を図7に示す。結果とし

て、3 K, 15 T で磁気抵抗率が–99.8%と、3桁近い負の磁気抵抗が観測された。この測定では特に、

結晶中で Fe(Pc)(CN)2 unit がすべて同じ配向となっていることから、磁場の方向を軸配位子の方向

(Fe(Pc)(CN)2 unit の g-因子の最も大きな方向)に揃えて測定していることも大きな磁気抵抗率に

繋がっていると考えている。残念ながら、圧力下の磁化率データが無いため、抵抗が急激に上昇す

る温度で磁気構造にどのような変化が起こっているか不明だが、この kink が外部磁場で低温にシフ

トしている点は興味深い。ちなみに、常圧下での磁化率は一次元系と同様に異方的で、27 K 付近に

d-スピン間の反強磁性的な相互作用を示唆する極大が見られる。 4.その他の物質群 本研究で用いている軸配位型フタロシアニン錯体は、中心金属だけではなく、軸配位子、大環状

π共役系配位子、カチオン成分についても化学修飾の柔軟性がある。以下にそれらの例を簡単に紹

介する。 ・軸配位子 軸配位子 L は CN 以外にも Cl, Br で一次元系の TPP 塩が得られている。軸配位子の太さの違いに

よってπ-π相互作用には若干影響が出るが(バンド幅で2割程度)、π-d 系ではそれ以上の影響が

現れる[7,13]。これは分子レベルでの配位子場の効果で、強い配位子場を与える CN に対して、相対

的に配位子場の弱い Br では d 不対電子が収容される軌道のエネルギーが Pc 環の HOMO から遠ざ

かり、エネルギー差が大きくなる。これは分子内のπ-d 相互作用の大きさに対応し、Pc-πHOMOの不対電子と d 不対電子の間に働く磁気交換相互作用の大きさは、L = CN で 15.5 meV であるのに

対して L = Br では 10.1 meV と計算されている。バルク結晶の磁気物性については、磁気異方性が

L = CN と Br であまり変わらないが、反強磁性相互作用の大きさが L = CN での約–32 K に比べ、L = Br では約–12 K と弱まる。また、Co 系と比較して比抵抗の上昇が押さえられ、磁気抵抗効果も 20 K, 15 T で比較すると、L = CN での–93%に対して、L = Br では–67%と減少する。 ・中心金属 中心金属の置換には TPP[M(Pc)L2]2の部分酸化塩について、M = Cr, L = Cl, Br の塩が得られてい

る。CrIIIは低スピン d3で期待される磁気異方性がほとんど無い S = 3/2 の磁気モーメントを持つこ

とが磁化率の測定から確認されたが、d-スピン間の磁気的な相互作用もほとんどないことが見出さ

れた。相対的に大きな磁気モーメントが導入されたことから、比抵抗および活性化エネルギーは対

応する Fe 系と比較して増加している。一方、磁気抵抗効果は 40 K, 15 T で–18%程度観測されてい

る。 一方、Fe と同族元素である Ru に置換した TPP 塩(L = CN)の作製にも成功している。この場合、

S = 1/2 の磁気モーメントが導入されるが、Fe に比べ d-エネルギー準位が上がるため、Pc-πHOMO

図7 [PXX]2[Fe(Pc)(CN)2].CH3CNの磁気抵抗(12 kbar)

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とのエネルギー差が縮まり、π-d 相互作用が強まることが予想された。実際、対応する Fe 系に比

べ、比抵抗値、活性化エネルギーの増加が観測された。しかし、磁化率の測定では、磁気異方性が

ほとんど無く、d-スピン間の磁気的な相互作用もほとんど無い、Fe 系とは全く異なる挙動が見られ

た。さらに興味深いのは、まだ予備的な測定ではあるが、磁気抵抗効果が全く現れない点である。

スピン構造が類似した Fe と Ru でこのような極端な差が現れたことから、両者の間にある違いのど

の部分が巨大な負の磁気抵抗を生み出すのに重要であるか見極めることができると考えられ、現在、

両者の違いの詳細を検討中である。 ・大環状π共役系配位子 Pc 環の拡張型配位子としてナフタロシアニン(Nc)が

ある。ベンゼン環のナフタレン環への置換には5種類の構

造が可能だが、そのうち図8a に示す2種の配位子につい

て、実際に結晶作製を試みた。2,3-Nc の部分酸化塩は得ら

れていないが、1,2-Nc-C4h については部分酸化塩の作製に

成功し、Pc 系と同じ組成で、構造も正方晶系、一次元系と

共通の TPP[Co(1,2-Nc-C4h)(CN)2]2 が得られている[14]。π

共役系の拡張は重なり積分の増加を期待させるが、軸配位

型 1,2-Nc-C4h環では逆にπ-π相互作用が小さくなり、比抵

抗値、活性化エネルギーも対応する Pc 系に比べ大きくな

ることが判明した。π-d 系へ展開した場合、電子相関の強

まった系が実現できると考えられる。 Pc と類似の大環状π共役系配位子としてポルフィリン

系の配位子も対象としている。Pc に最も近い tbp(図8b)については、熊本大の松田らが一次元部分酸化塩、

TPP[Co(tbp)(CN)2]2の作製に成功している[15]。我々は現在

図8b の tmp に注目して研究を進めている。π系の縮小は

確実に電子相関効果を強めることになり、さらにフロンテ

ィア軌道が Pc 系とは異なっていることから、Pc 系とは異なるπ-d 相互作用を持つ系が実現できる

と期待している。 ・カチオン成分

部分酸化塩を与えるカチオン成分は限られているが、最近、A(EtOH)4, A = Na, K という超分子カ

チオンが TPP 塩と同形の部分酸化塩を与えることを見出した。興味深いことに、π-π相互作用は

TPP 塩とほとんど変わらないのに、電荷不均化がかなり押さえられ、M = Co では明確な金属的挙

動が現れることが判明した。現在、電荷の不均化がなぜ弱められているか調べているが、同時に M = Fe のπ-d 系の作製に取り組んでいる。この系では電子相関効果が弱められることが期待され、そ

の結果、π-d 相互作用にどのような影響を与え、結果として磁気抵抗効果がどうなるか調べること

で、一連の軸配位型 Pc を用いたπ-d 系導電体の特異な磁気輸送特性発現の機構を明らかにできる

と考えている。 5.謝辞 本稿で紹介した研究は、連携研究者である内藤俊雄氏(現愛媛大)、花咲徳亮氏(阪大)、武次徹

也氏(北大)、高橋幸裕氏(北大)をはじめ、北海道大学大学院理学研究科/理学院、化学専攻固

体化学研究室の多くの卒業生ならびに、田島裕之氏(東大)、松田真生氏(熊本大)、宇治進也氏(物

材研)、木俣基(東大)との共同研究の成果であり、ここに謝意を表します。 参考文献

[1] H. Hasegawa, T. Naito, T. Inabe, T. Akutagawa and T. Nakamura, J. Mater. Chem., 1998, 8, 1567. [2] M. Matsuda, T. Naito, T. Inabe, N. Hanasaki and H. Tajima, J. Mater. Chem., 2001, 11, 2493.

図8 (a) Nc 配位子と(b)ポルフィリン系配位子

21

Page 22: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

[3] N. Hanasaki, K. Masuda, K. Kodama, M. Matsuda, J. Yamazaki, M. Takigawa, J. Yamaura, E. Ohmichi, T. Osada, T. Naito and T. Inabe, J. Phys. Soc. Jpn. 2006, 75, 104713.

[4]花咲徳亮、他、新学術研究「分子自由度が拓く新物質科学」第5回領域会議、PS10, June 8 (2011). [5] M. Ishikawa, S. Yamashita, T. Naito, M. Matsuda, H. Tajima, N. Hanasaki, T. Akutagawa, T. Nakamura

and T. Inabe, J. Phys. Soc. Jpn., 2009, 78, 104709. [6] N. Hanasaki, M. Matsuda, H. Tajima, T. Naito and T. Inabe, J. Phys. Soc. Jpn., 2003, 72, 3226. [7] D. E. C. Yu, M. Matsuda, H. Tajima, A. Kikuchi, T. Taketsugu, N. Hanasaki, T. Naito and T. Inabe, J.

Mater. Chem., 2009, 19, 718. [8] H. Tajima, G. Yoshida, M. Matsuda, K. Nara, K. Kajita, Y. Nishio, N. Hanasaki, T. Naito and T. Inabe,

Phys. Rev. B, 2008, 78, 064424. [9] H. Tajima, G. Yoshida, M. Matsuda, J. Yamaura, N. Hanasaki, T. Naito and T. Inabe, Phys. Rev. B, 2009,

80, 024424. [10] N. Hanasaki, M. Matsuda, H. Tajima, E. Ohmichi, T. Osada, T. Naito and T. Inabe, J. Phys. Soc. Jpn.,

2006, 75, 033703. [11] M. Kimata, Y. Takahide, A. Harada, H. Satsukawa, K. Hazama, T. Terashima, S. Uji, T. Naito and T.

Inabe, Phys. Rev. B, 2009, 80, 085110. [12] M. Ishikawa, T. Asari, M. Matsuda, H. Tajima, N. Hanasaki, T. Naito and T. Inabe, J. Mater. Chem.,

2010, 20, 4432. [13] D. E. C. Yu, M. Matsuda, H. Tajima, T. Naito and T. Inabe, Dalton Trans., 2011, 40, 2283. [14] E. H. Gacho, H. Imai, R. Tsunashima, T. Naito, T. Inabe and N. Kobayashi, Inorg. Chem., 2006, 45,

4170. [15] 松田真生、他、第4回分子科学討論会 2010(大阪)、2C07, Sept. 15 (2010).

22

Page 23: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

鉄フタロシアニン錯体における-d 相互作用と新規な秩序状態

東京大学 物性研究所

瀧川 仁

1. はじめに

電子系が伝導や磁性を担う分子性導体に局在スピンをもつ遷移金属を導入し、π-d 相互作用を

通じて新規な物性を見出そうという研究は、本新学術領域の主題の一つであろう。一般的に、局在

スピン系と遍歴電子系の相互作用に起因する現象は、近藤効果、重い電子系、2 重交換相互作用な

ど、強相関電子系において長年追求されてきた中心的問題を含む。一方、分子性物質においてπ-d系と言うときには、単に近藤格子模型や2重交換模型で表される物理を超えて、有機分子の構造や

内部自由度が絡んだ、新しい現象を求める問題意識があると思わ

れる。ここで述べる鉄フタロシアニン錯体の場合も、分子の形状

や配列に由来するユニークな現象が見え始めているように思わ

れる。本稿ではこれまで行った NMR の実験結果を中心に、この

物質の興味ある性質を概観したい。

フタロシアニン(Pc)とは図1(a)に示したような環状分子で、

中心に遷移金属が配位したものは、染料や発光素子としての応用

や、生体物質として重要なポルフィリンとの類似性からも興味が

持 た れ て い る 。 本 研 究 の 対 象 で あ る 電 荷 移 動 錯 体

TPP[FePc(CN)2]2 は、Pc 環中心の鉄の上下にシアノ基が配位した

分子が、図1(b)に示すように c 軸方向に積層した一次元鎖を形

成し、更に TPP カチオンと合わせて正方晶の結晶を形成する。

鉄の d 電子系と Pc 分子の電子系のエネルギー準位と波動関

数を図 2 に示す [1]。鉄は(3d)5の低スピン状態をとり、Pc 分子の

近似的 4 回対称性を反映してほぼ縮退した dyzと dzx軌道に、1 個

のホールを持つ。これらの軌道から z 方向(CN 軸方向)に 1の軌道角運動量を持つ状態 が得られる。更にスピン

軌道相互作用によって、スピンと軌道が CN 軸の同じ向きに揃い

2Bの磁気モーメントを持つ基底状態と、両者が反対向きの非磁

性励起状態に分裂する。このため、鉄の磁気モーメントは CN 軸

方向に固定されたイジングスピンとして振る舞うと考えられる。

実際、図 1(c)に示すように、磁化率は強い異方性を示し、磁場が

ab 面にあるときは反強磁性的なキュリー・ワイス則を示すが、c軸方向では殆ど温度に依存しない [2]。

一方 Pc 分子の電子は非縮退 HOMO 軌道を 3/4 占有する(ホ

ール描像では 1/4 占有)。またこれよりエネルギーの低い

nextHOMO の 2 軌道は dyz, dzx対称性を持ち、鉄の d 状態と強く

混成する。HOMO 軌道はこれらと直交するので、伝導電子と鉄

d 電子の間には強磁性的は Hund 結合が働くと考えられる。(しか

し最近の松浦弘泰氏の定量的計算(第 5 回領域会議)によると、

π-d 相互作用には競合する多数のプロセスがあり、単純には結論

できないとのことである。)1/4 占有の 1 次元伝導ホール系は電荷

秩序に対し不安定であるが、実際に花咲らによって、約 100 K よ

り低温で 2 倍周期の電荷秩序を示す X 線の超周期反射が観測さ

れている。更に低温の電気伝導度は、300K 程度のギャップを持

Fe

a

b

(b)

(a)

(c)

図 1:(a)FePc(CN)2の分子構造。丸印は NMR 測定を行ったサイト。(b) TPP[FePc(CN)2]2 の結晶構造。(c) TPP[FePc(CN)2]2 の磁化率(文献[2]より)。

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つ半導体的振る舞いを示す。 この系の著しい特徴は低温における巨大負磁気抵抗である。20 K では 30 T の磁場によって 2 桁

以上抵抗が減少し、特に磁場が CN 軸と平行な時に最少抵抗が現れる [3]。これは、2重交換モデル

に基づいて、反強磁性相関の強い d 電子の磁気モーメントが強磁場によって整列した結果であると

考えて、基本的に理解できそうである。最近木俣らは、1K 付近の電気伝導度が、磁場を印加する

と 15 テスラ付近で 4 桁近くジャンプすることを見出している [4]。このように鉄フタロシアニン伝

導体では、スピンと軌道が結合した d 電子のイジング的磁気モーメント、電荷秩序不安定性を示す

1次元伝導バンド、そして両者の間の強い分子内相互作用、という 3 つの要因が組み合わさって

ユニークな物性が発現していると考えられ、そのような方向

の理論も進展している [5]。

π-d 系の物性をミクロに解明するには、両者の振る舞いを

個別に観測することが有効であり、それには局所プローブで

ある NMR が適している。本研究では、d 電子のプローブとし

て鉄と強く結合する CN 基中の 13C-および 15N-NMR を、電子

のプローブとして HOMO の電子密度が最も大きい Pc 環上の

炭素サイトの 13C-NMR を用いた(図1a)。色々なサイトを同

位体置換した結晶は、松田真生氏に作成して頂いた。特に Pc環上の炭素の同位体置換はPc分子の合成から行う必要があり、

松田氏の尽力があって本研究は初めて可能になったと言える。

2. 常磁性シフトと超微細異常

図 3 に 12 テスラの磁場下で得られた CN 基中の窒素サイト

の NMR スペクトルの温度依存性を示す。図 1 に示すように、

CN 軸は ab 面から c 軸方向に 10 度程度傾いている。更に結晶

中には 2 種類の Pc 鎖が存在し、各々の CN 軸を ab 面へ射影

した方向が直行する。磁場をそのうちの一つに平行にそろえ

ると、一方の鎖の CN 軸は磁場と直交し、他方の鎖の CN 軸は

磁場とほぼ平行になる。図 3 には、CN 基が磁場とほぼ平行な

分子から得られたスペクトルだけを取り出して示してある。

スペクトルのピークから決まる常磁性シフトは正の値を示し、

温度の低下とともに増大する。これは磁化率の温度変化に比

例しており、いわゆる K-プロットの傾きから鉄の磁気モー

メントと 15N核の間の超微細結合定数が+0.36 T/Bと求まった。

一方、CN 軸が磁場と直交する分子上の 15N 核のシフトは、絶

対値、温度変化ともに約 2 桁小さい。このことは、鉄の磁化

が CN 軸方向にのみに誘起されるという、強いイジング性を

E

HOMO

LUMOs

3d

dxy

dyz dzxnext HOMOs

dz2

dx2-y2

FeFe FeFe

next HOMO

Fe

HOMO(伝導バンド)

dyz-symmetrydxz-symmetry

d電子 電子

混成

直交

図 2:d 電子系および電子系のエネルギー準位と波動関数。赤、青は位相の符号を区別している。

20x10-3

15105shift

200 K

180 K

160 K

140 K

120 K

100 K

90 K

80 K (x 1.4)

70 K (x 2)

60 K (x 2)

50 K (x 3)

図 3:CN 軸にほぼ平行な ab 面内の磁場下(12T)における 15N-NMR スペクトル。横軸は無次元の相対的シフト(ナイトシフト)にとってある。

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示している。 次に、CN 軸が磁場とほぼ平行な分子上で CN 基中の炭素サイ

トの NMR スペクトルを測定した。13C 核のシフトは 15N 核と同

様に磁化率と同じ温度依存性を示したが、シフトの値は負であ

り、結合定数も- 0.43 T/Bと大きな負の値を示した。これは予想

外の結果である。図 4 に示すように、鉄の dzx軌道は、炭素ある

いは窒素の px 軌道と結合を形成する。またこの図を CN 軸の

周りに 90 度回転すれば、殆ど縮退した dyz軌道を含む結合が得

られる。15N 核および 13C 核における超微細磁場は、主としてそ

れぞれのサイトの p 軌道上のスピン密度や軌道電流密度に起因

する。各々の軌道上の 1B の磁化当たり、スピン密度は負の双

極子結合定数 、軌道電流は正の超微細磁場

を与える [6]。従って 2 つの d 軌道が完全に縮退し

ていれば、軌道の正の寄与の方が大きい。然し、CN 軸まわりの

4 回対称性や d 軌道の縮退は近似的なものに過ぎない。縮退が解

ければ軌道モーメントは急速にクエンチされるが、スピン磁化

は影響を受けない。こう考えると 15N 核と 13C 核の間の結合定数

の符号反転は、両者の間で p 軌道の位相が微妙に異な

っているために、スピンと軌道からの超微細磁場の大

小関係が逆転していることを示唆している。

更に鉄の d 軌道は Pc 分子の next HOMO と混成する

ことを考えると、“d 軌道”の波動関数には Pc 分子の変

形も大きな影響を与えるのではないかと思われる。そ

もそもスピン軌道相互作用がなければ、ヤーン・テラ

ー効果によって Pc分子が自発的に変形し軌道縮退が解

けるはずである [7]。ヤーン・テラー効果とスピン軌道

相互作用の競合は、縮退 d 軌道を有する遷移金属化合

物においては、古くからの問題であるが [8]、フタロシ

アニン錯体では有機分子の柔らかさが新しい側面を見

せている可能性がある。局所的なスピン密度や軌道電

流密度の第 1 原理計算を行い、NMR の結果と比較する

ことができれば、新しい展望が開けるのではないかと

期待している。

図 3 の結果で異常なのは、線幅が 100K 付近以下で急

激に増大していることである。この線幅の温度依存性

は、磁化率やシフトのスムーズなキュリー・ワイス則

とは異なる。CN 基中の 13C-NMR スペクトルも同じ温

度領域で線幅の異常な増大を示している。電子系の電

荷秩序がやはり 100 K 付近で発生することを考えると、

両者が関連しているのではないかと思われる。花咲ら

によって見出された X 線の超格子反射は比較的幅が狭

く、コヒーレンス長のある程度長い 2 倍周期の秩序を

示唆している。しかし何らかの原因で電子の電荷密度

分布に空間的不均一性が生じ、d 電子のスピン・軌道密

度に影響を与えている可能性が考えられる。

図 5 に電子と強く結合する Pc 環上の炭素サイトにおける、13C-NMR スペクトルの温度変化を示

す。図 3 の場合と同じく、磁場は ab 面内にあり、CN 軸に垂直またはほぼ平行になる方向にかけて

dzx

x

z

Fe

13C

15N

px

図 4:鉄の d 軌道と炭素、窒素の p軌道の間の結合の模式図。矢印はスピン密度からの負の双極子磁場と軌道電流による正の超微細磁場を示す。

-4x10-3

-2 0 2 4shift

20 K

30 K

50 K

70 K

90 K

110 K

150 K

170 K

図 5:Pc 環上の炭素サイトにおける 13C-NMRスペクトルの温度依存性。7 テスラの磁場がCN 軸に垂直、またはほぼ平行にかかっている。

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ある。170K のスペクトルにおいて、ほぼゼロシフトの位置にある 2 本のシャープな共鳴線は CN軸が磁場と直交する分子鎖からの信号、正にシフトしたブロードな共鳴線は CN 軸が磁場とほぼ平

行な分子鎖からの信号であると考えられる。後者に着目すると、ピークのシフト値は CN 基上のサ

イトに比べて小さく殆ど温度に依存しないように見える。このことは d 電子系に比べて、電子系

の磁化率は非常に小さく温度に依存しないことを示している。しかし、線幅は CN 基上のサイトと

同様に 100K 付近以下で著しく増大する。これらの結果から、d 電子系と電子系の磁化率は、大き

さや温度依存性は全く異なるが、低温で著しく不均一な磁化分布が生じるという共通の振る舞いを

示すことが分かった。

3. 反強磁性秩序と磁場誘起相転移

より低温の NMR 測定からは、d 電子系、電子系ともに磁気秩序を示すことが分かった。温度

4.2K、ab 面内の磁場 6.615 テスラにおける、CN 基上の炭素サイトの NMR スペクトルを図 6 に示

す。= 0 は図 3、図 5 の場合と同じく、2 種類ある Pc 分子鎖の CN 軸が ab 面内の磁場に垂直また

はほぼ平行となる方向である。前者の共鳴線は内部磁場がほぼゼロの位置に表れるが、後者の共鳴

線は、±0.82 テスラの内部磁場によって大きく分裂している。このことは、d電子系が 2 副格子の反

強磁性状態にあり、磁気モーメントが CN 軸方向に向いていることを明瞭に示している。磁場を ab面内で回転すると、共鳴線の分裂間隔は磁場方向に対して単純な cos 依存性を示す。この結果は単

純なネール秩序による NMR 共鳴線分裂の教科書的な例と言ってもよい。(がゼロ以外の場合でも

内部磁場ゼロ付近に見えている共鳴線は、TPP や Pc 環の非磁性サイトに含まれる自然存在比の 13C核からの信号と考えられる。)またどの磁場方向に対しても共鳴線は非常にシャープであり、反強

磁性モーメントの大きさが極めて均一であることを示している。このことは、常磁性状態において、

不均一な線幅が温度の低下とともに急増したのと対照的である。更に前節で得られた超微細結合定

数を用いて、反強磁性状態における内部磁場の大き

さから磁気モーメントの大きさを決定すると、1.91 B と求められた。これはスピン 1/2 による磁気モー

メントの 2 倍に近く、軌道磁気モーメントが殆どフ

ルに残っていることを示している。CN 基上の窒素サ

イトの測定からも、ほぼ同じ結果が得られている、 一方、電子系の磁気秩序はこれと全く異なってい

る。図 7 に示すのは、Pc 環上の炭素サイトの低温に

おける NMR スペクトルを、磁場を変えて測定した結

果である。磁場の方向はこれまでと同じく、ab 面内

で CN 軸に垂直またはほぼ平行である。一見して、

15.96 テスラのスペクトルは 7、12 テスラのスペクト

ルと大きく異なっていることが分かる。まず低磁場

のスペクトルに着目する。内部磁場ゼロ付近の 2 ピ

ーク構造を持つ比較的シャープな共鳴線と、± 0.5 テ

スラ付近の内部磁場にブロードなピークを持つスペ

クトルの 2種類の信号が観測された。前者は CN 軸が

磁場と垂直な分子から、後者は CN 軸が磁場とほぼ平

行な分子からくると考えられる。後者のスペクトル

は、CN 基中の炭素サイトのシャープな共鳴線と全く

異なり、内部磁場がゼロから 0.8 テスラ付近まで連続

的に分布している。内部磁場が正負にほぼ対照的に

分布していることは、電子系の磁気秩序が基本的に

は反強磁性であることを示しているが、連続的なス

ペクトル形状から、磁気モーメントの大きさがゼロ

=0

=-18

=18

=36

図 6:温度 4.2 K, 磁場 6.615 T における CN 基上の炭素サイトの NMR スペクトル。角度は ab面内にある磁場の方向を表す。のスペクトルで、内部磁場ゼロの共鳴線は、磁場が CN 軸に垂直な分子鎖に、正負の反強磁性内部磁場によって大きく分裂した 2 本の共鳴線は、磁場がCN 軸にほぼ平行な分子鎖に、それぞれ対応する。

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からある最大値まで連続的に分布した、スピン密

度波のような状態であることが結論される。同じ

分子上にありながら、d 電子系はモーメントの大

きさのそろった均一な反強磁性、電子系は空間

的な変調を受けた不均一な磁気秩序、と全く異な

る秩序状態を示すということは、驚くべきことで

ある。

更に強磁場で劇的な変化が現れる。15.96 テス

ラのスペクトルは、シャープなピークの外側、内

部磁場の正方向にわずかに裾が広がるだけで、低

磁場で見られた±0.5 テスラ付近にピークを持つ

成分が消失している。木俣らの電気伝導度の結果

では、15 テスラ付近に磁場誘起相転移があり、こ

の磁場温度領域ではd電子系の磁化が磁場方向に

そろっていると考えられる。予備的ではあるが、

CN基上の窒素サイトのNMRスペクトルからも d電子系のスピンフリップ転移が支持されている。

この結果は強磁場によってd電子系の磁化が強磁

性的にそろうと、電子系の反強磁性秩序が消失

することを示唆している。

4. おわりに

TPP[FePc(CN)2]2の物性は、反強磁性的イジング

d スピン系と、電荷秩序不安定性を示す 1/4 占有

の 1 次元伝導ホールの間の 2 重交換相互作用という描像で、基本的には理解できるのかもしれな

い。しかし NMR を用いて d 電子系と電子系の振る舞いを微視的に分離することによって、d 電

子系のスピン密度と軌道電流密度の非自明な分布や、均一な反強磁性と不均一なスピン密度波状態

の共存といった予想外の結果が見えてきた。ここでは紹介できなかったが、反強磁性相転移近傍の

振る舞いや、常磁性状態のダイナミクスに関しても、面白い結果が得られている。NMR の結果が

何を意味するかは、まだ完全に分かっていないが、近い将来、Pc 分子の形状や内部自由度に由来す

る、分子性物質に特有の新しい現象として理解できるのではないかと期待している。

本研究は、松田真生氏(熊本大)、花咲徳亮氏(大阪大)、田島裕之氏(物性研)、内藤俊雄氏(愛

媛大)、稲辺保氏(北大)との共同研究であり、共同研究者の方々に感謝申し上げます。

参考文献

[1] N. Hanasaki, M. Matsuda, H. Tajima, T. Naito, and T. Inabe, J. Phys. Soc. Jpn. 72, 3226 (2003) [2] N. Hanasaki, H. Tajima, M. Matsuda, T. Naito, and T. Inabe,Phys. Rev. B62, 5839 (2000) [3] N. Hanasaki et al., J. Phys. Soc. Jpn. 75, 033703 (2006) [4] M. Kimata et al., Phys. Rev. B 80, 085110 (2009) [5] C. Hotta, Phys. Rev. B 81, 245104 (2010) [6] A. Abragam and B. Bleaney, Electron Paramagnetic Resonance of Transition Ions,Oxford Univ. Press,

New York, (1980) [7] 武次徹也、私信 [8] J. Kanamori, Prog. Theor. Phys. 20, 890 (1958)

0.80.60.40.20.0-0.2-0.4-0.6internal field (T)

7T, 4.2K

12T, 2.7K

15.96T, 2.7K

図 7:低温磁気秩序状態における Pc 環上の炭素サイトの NMR スペクトル。磁場は ab 面内で CN 軸に垂直またはほぼ平行にかけられている。

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赤外スペクトルに現れた分子振動の倍音と電子型強誘電性

分子科学研究所 物質分子科学領域

山本 薫

1. はじめに

強誘電性相転移は絶縁体の構造転移の一つと考えられている。しかし,この枠組みが,金属-絶

縁体転移に伴って電気分極する混合原子価錯体の確認により,最近一部広げられようとしている。

我々は現在,このようなグループに属す有機強誘電体の探索を行っているが,興味を持ったきっか

けは,赤外スペクトルに現れる分子振動の倍音の解析という,一見,強誘電物性とは関係が薄そう

な振動スペクトルの研究が基になっている。このレターでは,この倍音の解析について平易に議論

しながら,我々が上のような物質探索を始めるに至った問題意識の流れを述べさせていただきたい。

2. 電荷秩序系物質の赤外スペクトルに現れる反共鳴信号

この研究を始める以前より,我々は,電荷秩序することが示唆されていた様々な物質の振動スペ

クトル観測を行っていた[1]。電荷秩序相の特徴の一つは大きな電荷粗密が発生することにある。

もしこの粗密を直接観測できるなら電子相の特徴を理解することは容易であろう。しかし,荷電子

に対する残りの電子数が膨大であることからそれが容易でないことは想像に難くない。遷移金属酸

化物にも同様な電荷秩序系が存在するが,やはり同じような事情で電子密度分布の把握は難しい課

題となっている。幸い,有機伝導体の場合,結晶を構成する分子が電荷密度(分子の価数)に応じ

て形状変化するという電子密度の秤のような性質をもっているため,振動分光によって分子の局所

構造を調べることにより電子分布の変化を追うことが出来る。

ただし,価数変化に敏感な分子振動モードは e-mv 結合とよばれる振電相互作用により電子遷移

と強く結合し異常な振る舞いを見せることがある。この効果により振動波数は遊離分子に期待され

る価数依存性から大きく逸脱し,電荷量の定量は難しくなる。特に,電荷不均化により一つのモー

ドから多数のバンドが発生する電荷秩序系では,振動モードの帰属すら困難になる事態すら生じる。

複雑化した振動スペクトルの帰属を行うために,我々は,同位体シフトの検討や結晶構造の異な

る物質から得られたデータの比較を行い,さらに,モデル計算の試行により電子遷移の部分も含め

たスペクトル全体の理解を試みてきた。

こうした過程で,電荷秩序系の赤外スペクトルには共通して奇妙な構造が現れることに気がつい

た。図1は -(BEDT-TTF)2RbZn(SCN)4塩の伝導度スペクトルである[2]。電荷移動によるブロー

ドな吸収帯中の青で示した部分がディップ型の信号にみえるのである。気がついた,と後から思い

出したかのように表現したのは,この構造は異なる2つの電子遷移バンドの間につくられた谷であ

る可能性も十分にあり得るために,独立した信号であると確信するまでに時間を要したからである。

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3. e-mv 結合による断熱ポテンシャルの非調和性

同位体シフトを調べた結果,この構造は C=C 伸縮

振動に関係していることが確認できたが,その波数

は通常の特性振動数よりも大幅に高いため,関与し

ているのはその倍音と考えられる。ファノ共鳴を想

起させるディップ状の信号形状から振電相互作用が

重要な役割を果たしていることが強く示唆されるが,

e-mv 結合を取り扱った過去の文献をあたってもこの

ような倍音が議論された例はなかった。そこで我々

は,倍音の発生を念頭に置きながら,e-mv 結合効果

の数値計算の拡張を試みた。

電荷秩序による電荷粗密とe-mv結合の関係を考察

するため,二原子分子(振動モードを一つだけ持つ)

が移動積分で結合している二量体を想定し,ここに

電荷を1つおいたモデルを考える(図2)。電荷分離を引き起こす電子相関の効果は,結果として

表れる電荷粗密の大きさをパラメータとして現象論的に取り入れる(サイトエネルギー差を導入す

ることと実質的に等しい)ことにすると,電子波動関数は電荷粗密と移動積分の関数で表せる。e-mv

結合のハミルトニアンは,各分子のサイトエネルギーが分子振動に比例して変動すると効果と考え

ることで

emv1,2 2i i

i

gH gnQ nQδ −=

= → (1)

と表される。ここで,gは線形 e-mv 結合定数, in および iQ はそれぞれサイト iの電荷密度および

振動の基準座標である。実際の計算では 1 2n nδρ = − , 1 2(1 2)( )Q Q Q− = − のようにパラメータを

対称化して取り扱った。なお,矢印の関係式において電荷移動に無関係な定常成分は省かれている。

このハミルトニアンを摂動として電荷の断熱ポテンシャルの補正エネルギーを高次項まで計算

し,電荷粗密との関係を検討した。詳細は[3]に譲るが,最低次の非調和ポテンシャルに対応するQ−

の3乗に比例したエネルギー補正項を電荷密度差δρ に対してプロットすると,電荷が均一な状態0δρ = と完全に電荷分離した状態 1δρ = ± の中間的な領域で増強することが示される。非調和性が

高まる領域は,現実の電荷秩序系における電荷分離比に近く,このような物質系で倍音が活性化さ

れることをこの計算結果は支持している。

上記の結果は次のように定性的に理解できる。式(1)による e-mv 効果によりδρ とQ−は結合し,

図1 (実線)-(BEDT-TTF)2RbZn(SCN)4塩の赤外伝導度スペクトル(E//a, T = 6 K)。緑:C=C伸縮モード[3(ag)]の基本波,青:同モードの倍音。(破線)二量体モデルによる計算結果(γおよびΓは振動および電子バンドの線幅。それ以外のパラメータは本文参照)

29

Page 30: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

電荷の偏りが生じるとQ−もそれに比例してシフトする。

このシフトにより電荷の分離は安定化されδρ は増大される。しかし,電荷密度差が大きくなるとそれ以上の

電荷粗密おこりにくくなるためにこのフィードバックも

抑制される。このことは,調和ポテンシャルに非対称成

分が発生したことを意味し,図2における非調和性の起

源となっている。さらに電荷分離を大きくし完全な電荷

分離状態に漸近させると,サイトエネルギー差が発散し

て電子遷移が抑制され,非調和性は e-mv 結合の効果とと

もに消失する。この二つの効果の拮抗により,非調和成

分は図2のようなδρ 依存性を描く。 同じモデルを用いて動的感受率を導出し,図1に示した実験値のシミュレーションをおこなった

(破線)。スペクトルはユニットセルに4分子含まれるθ塩から得られたものであるが,この塩は

電荷秩序相において強い二量体構造を形成する[4]ので,赤外スペクトルの主な特徴は二量体モデ

ルにより理解できるはずである。計算の詳細は[3]に譲るが,物理的にほぼ妥当と考えられるパ

ラメータを用いてシミュレーションを試みた結果,非常に荒いモデル計算にも関わらず,電荷移動

バンド,振動の基本音,および反共鳴型の倍音信号等の基本的な特徴がよく再現された。このこと

から,倍音の活性化機構の本質が上記のモデルによってうまく説明されていると考えられる。

4. 倍音の赤外活性化と非線形光学効果の関係

以上の議論により,電荷秩序した物質の赤外スペクトルに現れたディップ型の構造は,振電相互

作用によって生じた分子振動の倍音であることが分かった。その活性化機構の理解をもとに,我々

はこのような信号を活性化させた電子状態の特徴が他の物性にも現れるのではないかと考え思索

を巡らせた。式(1)で示したハミルトニアンの形に注意すると,分子振動は形式上,外部電場と同

様の効果を電荷に与えていることが分かる。倍音の活性化は e-mv 効果の高次の摂動効果が無視で

きない大きさに達したことを意味している。このことから,外部電場による高次摂動効果,すなわ

ち非線形光学効果も大きな値となることが期待される。

このような予想を検証するために,我々は,二次の非線形光学効果である第二高調波発生(SHG)

の測定を計画した。偶数次の非線形光学効果は反転非対称な物質のみで観測されることから,それ

までの赤外・ラマン測定で反転対称性が失われている可能性があると考えていたα塩を試料として

選び実験を行い,結果的に,この塩の電荷秩序転移が巨視的な反転対称性が失われる強誘電性転移

であることを明らかにした。この研究結果については,既に邦文の解説も行っているので,興味が

あればそちらを参考にしていただきたい[5]。

図2 二量体モデルで計算した電子の断熱ポテンシャル中における非調和(Q-

3) 成分。

30

Page 31: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

6.まとめにかえて

上記のように,我々は -(BEDT-TTF)2I3塩の電荷秩序が強誘電性転移であることを明らかにした

が,この実験は倍音の研究から得た予想を検証する興味に動機づけられて計画していたため,強誘

電体探索を行っているという意識をもっていなかった。このため,(TMTTF)PF6塩等における電荷秩

序が強誘電性転移である可能性が提案されていたにも関わらず[6],これらの物質の赤外スペクト

ルには本稿で述べたような倍音が見られない[7]ことから,試料の候補に含めていなかった。

微弱な SHG 信号は,位相整合の制限もあり,闇雲に測定しても易々と検出できるものではない。

しかも,2:1 塩のように光吸収が強い物質ともなると測定には相応の準備が要されるのだが,幸い

いくつかの偶然が重なって,試料として最初に選んだ -(BEDT-TTF)2I3塩から SHG を検出すること

ができた。素人による杜撰な研究計画にまじめにおつきあい頂いた共同研究者の皆様にはこの場を

借りて厚くお礼を申し上げたい。

電子相関の効果が強誘電特性のような巨視スケールの集団物性に反映されることは基礎的に興

味深く,またマルチフェロイクスとの潜在的な関係もあり,現在,ここで議論したような電荷秩序

によって分極する電子型の強誘電体が注目を集めている[8]。

我々は最近,-(BEDT-TTF)2I3塩と結晶構造が類似した物質の一つが,結晶の対称性からは予想

できない異常な転移機構を経て電荷秩序し,SHG 活性を示すことを発見した。この系の分極特性

は結晶構造の微妙な歪み等に大変敏感であることなどから,異常な転移機構の原因として分子配列

の三角格子構造に由来する幾何学的フラストレーションが存在していると考えている。分極の起源

が動きやすい電子による電子分極であることに注目すれば,電子型の強誘電体は電荷が大きく揺ら

ぐ条件においてその真の特性をしめすと期待される。本新学術研究領域研究では,上記のフラスト

レーション効果の増強を目的とした化学圧や物理圧制御による結晶構造のコントロールを試行し,

より異常で興味深い電子状態の実現を目指している。 参考文献 [1] K. Yakushi, et al., Macromol. Symposia, 212 (2004) 159. [2] K. Yamamoto, K. Yakushi, K. Miyagawa, K. Kanoda, A. Kawamoto, Phys. Rev. B, 65 (2002) 085110. [3] K. Yamamoto, A. A. Kowalska, Y. Yue, and K. Yakushi, Phys. Rev. B, in press. [4] H. Mori, S. Tanaka, T. Mori, A. Kobayashi, H. Kobayashi, Bull. Chem. Soc. Jpn., 71 (1998) 797. [5] 山本 薫,固体物理,第 44巻,第 2号,2009年,117-125. [6] P. Monceau, F. Y. Nad, and S. Brazovskii: Phys. Rev. Lett. 86 (2001) 4080. [7] 電荷秩序する BEDT-TTF塩にくらべ電荷分離比が小さく[S. Hirose, et al., Phys. Rev. B, 81 (2010)

205107],かつ,電荷移動バンドが低波数に位置し,C=C伸縮の倍音が反共鳴効果を発生しにくにくいためと考えられる

[8] N. Ikeda, et. al., Nature 436 (2005) 1136; S. Ishihara, J. Phys. Soc. Jpn., 79, (2010) 011010; M. Abdel-Jawad, et al., Phys. Rev. B 82, (2010) 125119; M. Naka and S. Ishihara, J. Phys. Soc. Jpn. 79,(2010) 063707; C. Hotta, Phys. Rev. B 82 R31044 (2010)

31

Page 32: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

光機能性部位を有する分子を用いた新規機能性物質の開拓

大阪府立大学理学系研究科

藤原 秀紀

1. はじめに

近年、分子性伝導体の開発において伝導性・磁性・光物性などの機能性を複数併せ持つ複合機能

性物質の研究に注目が集まっている。中でも BETS 分子における反強磁性秩序と金属・超伝導性が

共存した反強磁性金属・超伝導体や磁場誘起超伝導転移の発現などは、その最も顕著な例であろう。

一方で、分子の様々な自由度を活かし、外場によって物性を制御する試みも精力的に進められてき

ている。例えば、矢持らによって開発された(EDO-TTF)2PF塩は、279K において、金属から絶縁体

へと転移し、その際、Peierls 転移と電荷秩序化転移、アニオンの秩序-無秩序転移が共同して起きる

ことが明らかにされているが、この相転移が光に対し敏感に応答し、0.1 ps のレーザーパルス光の

照射によって、1.5 ps 以内の高伝導性の準安定状態へと緩和することが見いだされている。[1] この

ように照射した光に対し、超高速・超効率で相転移する物質が見いだされたことは、光応答性物質

を開発することに対する大きな刺激となった。そこで我々は、分子性伝導体の構成分子であるドナ

ー分子に対し、光を強く吸収出来る様々な蛍光性分子を光アンテナ部位として結合させた分子を開

発し、物性が光応答可能な物質群を生み出すことを目的として、研究を開始した。以下に、これま

での研究成果の一部について紹介する。

2. PPD 部位を有する光機能性伝導体の開発 我々はまず、蛍光性部位として、2,5-ジフェニル

-1,3,4-オキサジアゾール(PPD)分子に着目し、TTF 誘導

体に結合させた複合分子の開発を始めた。[2-4] この

蛍光性のパーツは有機 EL 等の電子輸送材料として用

いられており、光照射の際に生じる過渡的な電子キャ

リアの輸送に適していると考えたからであった。また、両部位を繋ぐスペーサー部位は分子内電子

移動のしやすさを制御する上で重要なファクターであり、スペーサーの無いもの 1、σ 結合性(チ

オメチレン)2、π 結合性(エチレン)3 のスペーサーを有する分子などを適宜合成した。PhCN 中

の各種誘導体の CV は二段階の可逆な酸化還元波を示し、これらの電位は PPD 基の電子求引性によ

り TTF の値に比べてより高電位側に若干シフトしていた。図1に示すように、CHCl3中の吸収スペ

クトルは、300 nm 付近に PPD 部位による強い吸収を示し、さらに、450 nm 付近にもドナー部位か

0

1

2

3

4

5

6

250 300 350 400 450 500 550 600

λ /nm

ε/10

4 m

ol-

1 L

cm

-1

123PPDTTF

図1 TTF-PPD 複合分子の UV-Vis 吸収スペクトル 図2光誘起 CT 状態の形成

S

S

S

S Spacer

O

NN

1 No spacer2 Thiomethylene spacer3 Ethylene spacer

32

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ら PPD 部位への CT 吸収が観測された。この CT 吸収の強さと吸収波長はスペーサーによって大き

く変化し、σ 結合性のスペーサーではほとんど観測されず、π 結合性の場合にはその長さによって

長波長シフトした。PPD 部位自身は強い蛍光性を示し、282 nm の励起光を照射することにより、

350 nm 付近に強い蛍光が観測される。しかしながら、TTF 部位へと結合させた場合には、この PPDによる蛍光はほとんど消光された。これは、図2に示すように、PPD 部位の光励起により生じた

PPD 上のホールに対し、TTF 部位の HOMO からの分子内電子移動が起き、結果として分子内 CT状態が形成されるために、励起された PPD 部位からの蛍光による緩和過程が起きなくなり、消光

されたと考えられる。このような消光プロセスは、ドナー性を有する部位を蛍光性分子に置換した

場合にはよく観測される、光誘起 CT 状態が形成されたことを示す現象である。この現象を確認す

るために、さらに、TTF 部位を酸化した状態での蛍光スペクトルを測定した。その結果、酸化剤と

して過剰の NOBF4を加えることにより、化学的に TTF 部位をジカチオン状態へと酸化し、TTF か

ら PPD への分子内電子移動を抑制した場合には、中性状態よりも大幅に蛍光強度が増加すること

を見いだした。よって、この化合物の中性状態における蛍光消光が分子内電子移動によることが明

らかになった。 最近、分子研の古川らによって、分子 1 と 3 の凍結溶液に光を照射した際の時間分解 ESR スペ

クトルの測定がなされており、光照射によって生成した、励起三重項状態の ESR シグナルの観測

に成功している。[5] その D 値の解析結果から、凍結溶液状態では三重項スピンはスペーサーの周

りに局在しており、CT 状態を観測しているわけではないが、粉末試料では小さな D 値が観測され

ているため、CT 状態を観測できている可能性が考えられる。 分子 2 の黄色板状結晶について、構造解析を行っ

たところ、図3に示すように、TTF 部位と PPD 部

位が分子内で互いにねじれながら、それぞれの部位

が分離して積層する結晶構造を有することが判っ

た。a 軸方向の積層様式は分子横方向に均一な一次

元カラムであり、短い硫黄接触も見られている。そ

の TTF 部位間の重なり積分値は 9.210–3であった。

そこで、この結晶方向に2端子を取り付け、キセノ

ン光源からの白色光を照射した際の光電流値の変

化を測定した所、光のオン・オフに対応した 30nA程度の急激な増減が観測された。それ以外の分子2,3 の単結晶試料についても測定を行い、おおむね、

分子間相互作用(重なり積分値)の大小関係に比例

した光電流値が観測されており、光電流値の大きさ

は分子骨格よりもその積層様式に大きく依存して

いることが明らかになった。

3. BTA 部位を有する TTF 誘導体を用いた光機能性伝導体の開発 先の章で示したように、PPD を有する TTF 複合分子において、

CT 状態の形成と単結晶試料における光電流の発生を、これまで

に見いだしてきた。しかしながら PPD 部位はサイズが大きく、

芳香環同士がねじれやすい構造を有しているため、良好な物性を

示す結晶を得ることが困難であった。そこで我々は、新たな蛍光

性部位として、PPD よりもサイズが小さく、平面性の高い、1,3-ベンゾチアゾール(BTA)分子に着目した。BTA 部位はシアニン系

色素などで幅広く用いられているヘテロ環であり、窒素分子を4

級アンモニウムへと変換することにより、カチオン種の共鳴構造による長波長化が期待できる部位

であると考えられる。そこで、BTA 部位を各種のスペーサーを挟んで TTF 誘導体に結合させた分

図3分子 2 の結晶構造

S

S

S

S

4 n=0 (No spacer)5 n=1 6 n=2

N

S

n

R

R

a R = Hb 2R = S(CH2)2S

3.55Å

33

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子(4-6)の合成を行い、その性質に

ついて検討した。[6] また、BTA 部

位を4級アンモニウム塩へと変換し

た N-メチルチアゾリウム塩(5a-Me+, 6a-Me+)を合成し、その性質につい

ても検討した。 合成したドナー4a-6a の電気化学

的性質を PhCN 中、サイクリックボ

ルタンメトリーにより検討した。4aの E1 値は BTA 部位の電子吸引性に

より、TTF よりも 0.09 V 増加してお

り、若干のドナー性の低下が見られ

るが、アルケン部分を長くしてゆく

と、少しずつドナー性は向上してい

くことが明らかになった。4a-6a の

110–4 M CHCl3溶液の紫外可視吸収スペクトルを図4に示す。BTA 部位が TTF に直接結合した 4aは 322 nm 付近の強い吸収と 464 nm 付近のブロードな弱い吸収を示した。4a, 5a, 6a とアルケンスペ

ーサー部分の鎖長が長くなるにつれ、これら2つの吸収帯の位置は少しずつ長波長側へとシフトし

た。 B3LYP/6-31G**レベルでの 4a-6a の分子軌道計算を行ったところ、HOMO の位相は主に TTF 部分

に局在し、LUMOの位相は主にベンゾチアゾール〜スペーサー部分に存在する。5aのHOMO-LUMOギャップの大きさは 2.55 eV であり、これは波長 485 nm に対応するため、5a の 488 nm 付近の吸収

は、分子内 CT 吸収と考えられる。アルケンスペーサーの鎖長をのばしていくと、HOMO のレベル

は徐々に上昇し、LUMO のレベルは下降する。その結果、HOMO-LUMO ギャップの大きさは、小

さくなり、464 nm 付近のブロードな分子内 CT 吸収帯が長波長シフトしていくと考えられる。Me+

置換体の CHCl3溶液の紫外可視吸収スペクトルを測定すると、図4に示すように濃青色の溶液色に

対応した 600-650 nm 付近にブロードな吸収ピークを示した。これは量子化学計算から 1.25 eV 程度

と見積もられた小さな HOMO-LUMO ギャップによるものと考えられる。 得られた分子の光電変換機能性を評価するために、ITO 電極上に成膜した薄膜試料について、光

照射によって発生した光電流量を光電気化学的手法により測定した。4a-6a, 5a-Me+, 6a-Me+のドナ

ー分子の溶液をそれぞれ ITO 電極上にスピンコートし、薄膜試料を作製した。この薄膜試料を用い

て、UV-Vis 吸光スペクトの測定、及び光照射時における電流値の変化を測定した。図5は分子 6aのドナー分子の薄膜試料の吸光度および光電流の波長依存性を示している。いずれの分子において

も 338 nm の BTA 部位の吸収極大から 450 nm 付近の CT 吸収にかけて正の光電流の発生が観測され

た。このことから、薄膜試料において吸収

された光エネルギーが電流に変換されて

いることが示唆される。また、変換効率を

比較すると、BTA 部位が直接置換した分子

4a はあまり効率が良くなかったが、それ以

外の分子はピーク位置で 0.7%-0.9%程度の

変換効率を示した。 5b の赤黒色棒状結晶の結晶構造解析を

行った。5b 分子の分子構造は trans 型の立

体配置であり、TTF と BTA の間で 3.5 °の二面角が生じているが、この分子はほぼ平

面的な構造をとっている。図6に示すよう

に、結晶中では a 軸方向に沿って、分子は

0

1

2

3

4

5

300 350 400 450 500 550 600

0

400

800

1200

1600

2000

/ nm

/

104 m

ol–

1 L

cm–

1

Pho

tocurrents / n

A

図4 TTF-BTA 複合分子の UV-Vis 吸収スペクトル

図5分子 6a の薄膜試料の UV-Vis 吸収スペクトルと

Bias 電圧:–0.5V vs Ag/AgCl の際の光電流値

0

0.5

1

1.5

2

2.5

3

3.5

4

4.5

5

300 400 500 600 700 800 900 / nm

/ 1

04 m

ol-1

L c

m-1

1a

2a

3a

4

5

5a

5a-Me+

6a

6a-Me+

4a

/ 1

04 m

ol–1

L c

m–

1

/ nm

34

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横方向に Head-to-head 型で、一次元の均一な配列を形成し、EDT-TTF 部位と BTA 部位はそれぞれ

分離した構造となっている。TTF の硫黄原子同士が 3.575-3.757 Å の距離で接触しており、重なり

積分を計算すると TTF 間 (HOMO) は 7.4×10-3、BTA 間 (LUMO) は 0.2×10-3であり、a 軸方向に沿

って TTF 部位間には比較的強い分子間相互作用による伝導パスが形成されていると考えられる。そ

こで、この単結晶に白色光を照射した際の光電流値の測定を a 軸方向に沿って2端子法により行っ

たところ、照射前の = 0.7×10–7 S cm–1から照射中の = 2.6×10–7 S cm–1へと伝導度の急激な増加が

見られ、光電流の発生が観測された。光のオン・オフに対応して電流値も急激に増減していること

から、光照射による電流スイッチング挙動が観測できたと考えられる。最近、東大の岡本らによっ

て、この結晶の顕微反射吸収分光測定や光伝導測定、時間分解発光分光測定が行われ、図7に示す

ように光伝導は CT 遷移を励起した場合には生じるが、BTA 部位の分子内遷移を励起した場合には

著しく減少していることが明らかとなっている。これは、BTA 部位の分子内遷移を励起した場合と

CT 遷移を励起した場合では、ともに素早く CT 状態が生成されるが、BTA 部位の分子内遷移を励

起した場合には格子緩和した状態に転換しやすく、その場合には積層方向のトランスファーエネル

ギーが減少して、キャリアの移動が阻害されたのではないかと考えられている。

図6分子 5b の結晶構造 図7分子 5b の単結晶試料の吸収スペクトルと

光伝導度スペクトル

4. BTA 部位を有する TTF 誘導体を用いた磁性遷移金属錯体の開発 BTA 部位には遷移金属原子へ配位可能な窒素原子が含まれているため、BTA 部位を磁性遷移金

属原子へと配位させた錯体を用いた磁性伝導体の開発を検討した。BTA 部位を有する TTF 複合分

子のうち、エチレンスペーサーを有する分子 5a について、M(hfac)2への配位錯体の作製や、カチオ

ンラジカル塩の結晶成長を行い、その構造と伝導性・磁性などの各種物性について検討した。 ドナー分子 5a が M(hfac)2 (M = Cu, Co, Mn, Ni)へ配位し

た錯体の合成はシクロヘキサ

ン中で両者を混合後、シクロ

ヘキサン/ヘキサンから再結

晶することにより行った。以

下にまず、5a の Cu 錯体の構

造と磁気的性質を示す。結晶

学的に独立な1個のドナー分

子 5a と半分の Cu(hfac)2分子

が存在し、組成比は 2:1 であ

る。図8に示すように、 図8(5a)2•Cu(hfac)2錯体の構造

35

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Cu(hfac)2分子は二つのドナー分子に囲まれるように存在し、Cu 原子の上下に原子間距離 2.49Å で N原子が位置している。結晶中で、(5a)2•Cu(hfac)2錯体は a 軸方向に配列し、配列間で TTF 部分同士

が面間距離 3.74Å(S-S 接触:4.02Å)で重なり合っている。ちょうど、TTF 部分同士、BTA2Cu(hfac)2

部分同士がそれぞれ分離積層したような構造を構築しているが、TTF カラム内で TTF ペア同士は長

軸方向に大きくずれながら積層しているため、良好な伝導カラムは形成されておらず、絶縁体であ

った。また、磁化率を測定したところ、Cu2+スピン(g = 2.19, S = 1/2)のみが存在し、Cu2+スピン間に

は相互作用は見られなかった。 一方、(5a)2Co(hfac)2の結晶構造を図9に示す。錯体の分子構造は Cu 錯体とほぼ同じであるが、

Co 原子と窒素原子の距離は 2.18Å と、Cu 錯体と比較して大幅に短くなっている。この錯体の磁化

率を測定すると、高スピン状態の Co2+スピン(g = 2.58, S = 3/2)のみが存在し、Co2+スピン間には相互

作用は見られなかった。錯体間において、ドナー分子の TTF 部位同士の部分的な重なりが見られ、

硫黄原子同士には 3.90-3.98 Å の短い接触が存在していることから、この結晶の c 軸に沿って一次元

的な伝導パスが存在することが示唆される。この錯体自身は中性であるが、伝導パスの存在により

光照射による分子内電荷移動を通じた光誘起伝導性の発現が期待される。そこで、50V のバイアス

電圧を印加しながら、この錯体の結晶の伝導性を2端子法により測定したところ、キセノン光源か

らの白色光のオン・オフに対応した電流値変化がわずかながらも観測された。 次に、電解酸化によって作製した(5a)2Cu(hfac)2(AsF6)2の結晶構造を図10に示す。錯体の作製は

ドナー分子 5a、Cu(hfac)2、TBA-AsF6を用い、CH2Cl2/シクロヘキサン= 3 : 4 の混合溶媒中、16 下、0.5 A の定電流による電解酸化法により行った。結晶格子中にドナー分子 5a と AsF6

-アニオン

分子が 1:1 の割合で存在し、ドナーは+1 の電荷を有している。この結晶中では Cu(hfac)2 分子の上

下に2個のドナー分子 5a が 2.56 Åの距離で配位しており、その距離は中性錯体である(5a)2Cu(hfac)2

錯体の場合よりも長くなっている。また、錯体間で TTF 部位同士の硫黄原子間に 3.43 Å の短い接

触が存在し、TTF 部位同士で強く二量化している。しかし、TTF 二量体間における硫黄原子間の距

離は 7.10 Å と離れているため、この結晶中には伝導パスが存在せず、伝導性は絶縁体であった。このカチオンラジカル塩の結晶構造と、 (5a)2Cu(hfac)2 中性錯体の結晶構造を比較すると、錯体間においてカチオンラジカル塩のドナー分子の TTF 部位同士は強く二量化しているのに対し、中性錯体の場合、TTF 部位同士は二量化しておらず、5.96 Å の距離で互いに離れている。これらの差異はカチオンラジカル塩において+1 に荷電した TTF 部位同士が二量化しやすく、その結果 Cu(hfac)2 分子周りのドナー分子の配位様式が変化したためだと考えられる。

図9(5a)2•Co(hfac)2錯体の結晶構造図10(5a)2Cu(hfac)2(AsF6)2の結晶構造

5. 今後 今回のニュースレターでは、本新学術領域研究がスタートする前の研究から、最近の研究までを

ご紹介させて頂きましたが、これ以外にも、BTA 等の蛍光性部位を複数結合させた複合分子や、

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Fluorene, Pyrene, BODIPY 等の別の蛍光性部位を有する分子の開発、イミンなど窒素を含むスペーサ

ーを有する分子の開発、合成した分子を色素として用いた色素増感太陽電池の開発などを手がけて

います。その内容のいくつかについては年度報告書の方にまとめさせて頂いていますし、今後、別

の機会にご紹介させて頂きたいと思います。光伝導性を示す物質の開発については、今回、主に中

性分子の単結晶を用いた光伝導度の測定について紹介しましたが、中性分子では分子間の距離が比

較的離れていることが多く、分離積層構造を構築できてもその重なり積分値が小さく、良好な伝導

性を実現できないのが現状です。最近、これらの蛍光性部位を有する TTF 複合分子を用いた伝導性

カチオンラジカル塩の作製に成功しており、光照射によって中性分子の結晶の場合よりも数桁大き

な光伝導度を示す物も得られ始めています。あと2年を切った本新学術領域研究の期間内に大きな

相転移を示すような物質の開発を目指しながら研究を展開していきたいと考えています。

謝辞

本研究は、古川貢先生、中村敏和先生(分子研)、松崎弘幸先生、岡本博先生(東大新領域)と

の共同研究により行われました。この場をお借りして感謝申し上げます。

参考文献

[1] H. Yamochiet al., Sci. Technol. Adv. Mater. 10, 024305 (2009); M. Chollet et al., Science 307, 86 (2005) [2] H. Fujiwaraet al., Tetrahedron Lett. 49, 7200–7203 (2008) [3] H. Fujiwaraet al., J. Phys.: Conf. Ser. 132, 012025 (2008) [4] H. Fujiwaraet al., Physica B. 405, S12-S14 (2010) [5] K. Furukawaet al., Chem. Lett. 40, 292-294 (2011) [6] H. Fujiwaraet al., Physica B. 405, S15-S18 (2010)

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Page 38: MDF News v4 201電荷の不均化、普遍性と多様性 学習院大学理学部物理学科 高橋 利宏 1. はじめに 分子性導体における絶縁化の機構のひとつとして電荷秩序を伴う絶縁相の存在が確認されてか

へテロスピン系の特異な結合を利用した材料群の創出と

構造相転移物質への展開

電気通信大学大学院先進理工学専攻

石田尚行

1. はじめに

これまでの磁性基調の電子物性材料の開発を振り返ると、種々のスピンの自由度と、特に合成開

発側に身を置く者にとっての軌道の対称性やエネルギー準位の多様性の導入にかかわる設計性自

由度は、開発の鍵を握ると考えられる。分子内や固体内で電子の軌道の数や種類を思いのまま配置

し、さらに、磁性と複合させた電導性・光学特性・機能性材料開発においては、交換相互作用の導

入、制御、改善が求められる。本稿で紹介するように、筆者らは、有機材料の柔軟性に起因して、

構造相転移とスピンクロスオーバー類似の磁気スイッチが共同している 2p−3d系をいくつか見いだ

した。幸いなことにスピンクロスオーバーは比較的高温領域で起こる。電子相は構造相の上に構築

されるゆえ、室温構造相転移物質を電子物性材料へ適用する道が拓ける。まず、転移が室温近傍で

起こる物質群を探索すること、次に室温を跨いで双安定性を持つ物質へ改質することは、このよう

な電子物性材料の工学的応用を進めるための重要な戦略と位置づけられる。 2. 背景

我々は 2-ピリジル t-ブチルニトロキシド(2pyNO)類を用いた銅(II)またはニッケル(II)キレート

錯体の構造と磁性を調べてきた(構造式を図1に示した)。銅錯体の場合ラジカルがアキシャル配

位すれば弱く強磁性的に、エカトリアル配位すれば強く反強磁性的にカップルすると長らく信じら

れてきたが、磁性軌道が直交すればエカトリアル配位で強い強磁性的カップリングが得られる 1)。

ラジカル-遷移金属イオン間の交換相互作用は、キレート面に対するラジカル部位の捻れに鋭敏に

相関し、平面構造に近ければ強磁性的になる。平面からの逸脱を記述するにあたり、いろいろな幾

何学的パラメーターの中から、我々は捩じれ角M–O–N–C()が簡便と考えた(図2)2)。すな

わち、2J/kB(H = –2JSa•Sb の定義による)が+400 K 級の強磁性的カップリングから、–1000 K 級の

反強磁性的カップリングまで幅広く分布するのに、構造上の違いはわずかな内部捩じれだけである。

このことは、熱や光や圧力などの外部刺激が、柔軟な有機骨格へわずかな構造変化をもたらし、磁

気的カップリングのスイッチになり得ることを期待させる。 2-ピリジルニトロニルニトロキシド(2pyNN)類と比べて、2pyNO を用いた場合には、(1) 配位

酸素原子上のスピン密度が高いので相互作用が大きくなり、(2)五員環キレートの方が平面構造をと

りやすくなる、という点で優れている。 図1 検討された 2-ピリジルニトロキシドと 図2 キレート面の捩じれ角と交換パラメーターJ

類縁化合物 の相関。: 2pyNO 系、: 2pyNN 系。文献値を含む。

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3. 結果と考察

我々は 2pyNO を用いた 1・(BF4)2 および phpyNO を用いた 2・(BF4)2 が交換相互作用を熱的にス

イッチする物質であることを見いだした。しかもこれらは単結晶-単結晶の構造転移であり、ゆる

やかな転移途中において X 線結晶構造解析が可能であった。それに基づいて、これまで提唱してき

た構造と磁性の相関も検証した 3,4)。

1・(BF4)2の系

この物質の錯イオン部分はラジカル-銅-銅-ラジカルの4スピン系であり、中央で面外オキソ架橋

の二量体構造が見られる。末端配位子は常磁性 2pyNO・であり、架橋配位子はこの反磁性陰イオン

2pyNO–であることは、結晶構造上明確に区別できる。この物質は 64 K で単結晶を保持した構造相

転移を示し、転移前後で分子の対称心を維持した。セル定数の温度変化を図3に示す。ラジカル酸

素原子の配位は転移前後でエカトリアル位を維持した。ここの配位結合の捻れが磁気的カップリン

グのスイッチをもたらすと解釈される。図4に 50 K と 300 K の結晶構造を重ね書きした。低温

側でキレート環の平面性からの逸脱が見られ、の変化は僅かに19.34(8)° (50 K)から 4.5(3)° (300 K)である。なお、磁気カップリングスイッチを見せる銅-ラジカル錯体の研究において、我々の系が

エカトリアル位を維持する点は別グループの成果と一線を画すものとなっている。 図4 1・(BF4)2 の結晶構造、50 K(濃)と 300 K(淡)。

図3 1・(BF4)2のセル定数の温度変化。 対アニオンと水素原子を省略した。

1・(BF4)2の磁化率には、64 K 前後で劇的か

つ可逆的な飛びが見られた(図5)。スピンハ

ミルトニアン H = –2J(SR1•SCu1 + SCu2•SR2) –2jSCu1•SCu2 を用いて磁化率の温度変化を解析

した。ラジカル-銅の間は、高温相では強磁性

的にカップルし(J/kB = +37(8) K)、低温相で

は強く反強磁性的にカップルする(J/kB = –389(6) K)として解析された。これは、前述

の構造磁性相関(図1)に照らし合わせて矛

盾はない。中央の Cu2O2 においても銅スピン

間で磁気的カップリングを起しており、その

大きさは j/kB = –40(2) K と見積もられた。

1 2

図5 1・(BF4)2のT vs T プロット。

細実線は計算値。挿入図は低温部の拡大図。

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2・(BF4)2の系

この物質の錯イオン部分はラジカル配位子が銅イオンに 2:1 でキレートしたラジカル-銅-ラジ

カルの3スピン系である。この物質は 175 K で単結晶を保持した構造相転移を示した(図6)。高

温相では空間群 C2221であり、分子の半分が結晶学的に独立であったが、低温相では空間群 P212121

となって分子は対称性を失い、配位構造の片側だけに捻れを生じた。捩じれ角は、204 K で 3.3(4)°であり、94 K で 3.1(4)° と 31.1(3)°であった(図7)。図6の各測定点において結晶構造が解かれて

いるので、分子のダイナミクスをパラパラ動画で示すこともできる 4)。

図6 2・(BF4)2の結晶構造のセル 図7 2・(BF4)2の結晶構造、94 K(左)と 204 K(右)。

定数の温度変化。 対アニオンと水素原子を略した。

2・(BF4)2の構造転移に伴い、磁化率に飛びが見られた(図8)。高温相の磁化率の温度変化を対称

モデルのスピンハミルトニアン H = –2J(SR1・SCu + SR2・SCu)を用いて解析し、強磁性的なカップルが明

らかにされた(J/kB = +156(3) K)。低温相では非対称モデルで解析し、片側だけが反強磁性的にカ

ップルしている(J/kB = –232(2) K)ことが分かった(平面的な側については、高温相の値のまま変

わらないと仮定した)。ラジカル配位部位がエカトリアル位を維持しているため、強/反強磁性い

ずれにしても強い交換相互作用が得られた。

なお、1・(BF4)2では対称心を保持して転移するが、一方、2・(BF4)2では転移に伴い対称性を失う。

このことは、本スピン転移様現象の駆動力が主としてエントロピー項である可能性を示唆する。す

なわち、entropy-driven スピンクロスオーバーに似ている。相転移においては、転移潜熱H にちょ

うど釣り合うエントロピー変化 TS が必要である。また、スピンの自由度は微視的状態の数を規定

するので、スピン量子数の変化はエントロピー項の変化に関連付けられる。1・(BF4)2 は4スピン系

であり、ラジカルキレートの両側で反強磁性的カップリングを獲得したときのみ低温側の最少スピ

ン(S = 0)を獲得する。2・(BF4)2は3スピン系であり、反強磁性的相互作用の獲得がキレートの両

側の場合(↑↓↑)でも片側の場合(↑↑↓)でも、最少スピンは等しく 1/2 である。エントロピ

ー変化はどちらでも変わらないから、わざわざ両側で変形する必要はない。

図8 2・(BF4)2のT vs T プロット。

細実線は計算値。エラーバー付きのデータ点は

捩じれ角 の実測値を構造磁性相関(図2)に

照らし合わせて J を求めてシミュレーションし

たもの。

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耐久性

スイッチの耐久性を調べるために、熱サイクルを負荷した。高温相から低温相へおよび低温相か

ら高温相への転移が終了したと思われるサイクルとして、1・(BF4)2については 70 K 〜 30 K を、

2・(BF4)2については 200 K 〜 120 K を選び、その両端の温度でT 値を記録した(図9)。2・(BF4)2

では試料の劣化が見られたが、1・(BF4)2 の耐久性は優秀である。1・(BF4)2 は転移にかかわる体積変

化が乏しく、対称性も保持するなど、原子変位にかかわるストレスが少ないためと考えられる。

図9 (左)1・(BF4)2の熱サイクル 70 〜 30 K におけるT の変化。

(右)2・(BF4)2の熱サイクル 200〜 120 K におけるT の変化。

4. まとめ

転移が室温近傍で起こることと、室温を跨いで双安定性を持つことは、産業応用を進めるために

解決すべき課題である。本研究で得られた2つの化合物の転移温度、64 K と 175 K は依然として

低温であることと、熱ヒステリシスを示さないことの2点について、今後の改善が求められる。構

造解析によると、2・(BF4)2 は転移に伴ってセル体積が変化するので、転移温度に対する圧力効果を

調べた。予備的な測定によると、0.1 GPa の加圧により転移温度は約 4 K、1 GPa の加圧により約 25 K だけ上昇した。今後の研究方針として、結晶空隙体積や化学圧力調整(置換基や対アニオン交換

の自由度)を検討する。置換基効果を化合物のパラメーターと見ることは合成化学者の得意技の一

つである。現在、1・(BF4)2と 2・(BF4)2のどちらの系も対アニオンとして ClO4を用いた場合にはこの

ような転移は見いだされていない。イオンの探索を進めるだけでも、転移温度変化が期待できる。

なお、我々のグループでは、完全に有機元素からなる磁気カップリングスイッチ系も検討を進めて

いる 5)。有機物質の柔軟性を電子物性材料へ応用することは大変興味深い。

謝辞

本研究は、連携研究者である岡澤厚助教(東大院・総合文化)との共同研究である。また、これ

らの物質群の ESR については小島道憲教授(東大院・総合文化)の協力を得た。ヘリウムクライ

オスタットを用いた X線結晶構造解析については橋爪大輔博士(理研)の協力を得た。これらの対

イオン置換誘導体の開発ならびに、磁化率の圧力効果の実験については現石田研究室院生である、

本間雄太氏、村上里奈氏の協力によって進められている。お礼を申し上げる。

参考文献

[1] K. Osanai, A. Okazawa, T. Nogami, T. Ishida, J. Am. Chem. Soc. 2006, 128, 14008. A. Okazawa, T. Nogami, T. Ishida, Chem. Mater. 2007, 19, 2733.

[2] A. Okazawa, Y. Nagaichi, T. Nogami, T. Ishida, Inorg. Chem.2008, 47, 8859.A. Okazawa, T. Nogami, T. Ishida, Polyhedron2009, 28, 1917.

[3] A. Okazawa, D. Hashizume, T. Ishida, J. Am. Chem. Soc.2010, 132, 11516. [4]A. Okazawa, T. Ishida, Inorg. Chem. 2010, 49, 10144. [5]H. Nishimaki, T. Ishida, J. Am. Chem. Soc.2010, 132, 9598.

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電荷移動錯体とドナー、アクセプター (1)

名城大学総合研究所

齋藤軍治

1. はじめに 有機物の金属性や超伝導性は、少しの例外を除き、すべてドーピングによる電荷移動(CT)相互作

用により実現されている。ここでは、「CT 錯体の分類」、「種々の錯体成分分子(ドナー D, アクセ

プター A)」を物質開発の視点から紹介する。これは、以前に出版した“有機導電体の化学”(丸善)の 5 章までや他の解説・総説[1]を下敷きにしており、かなり化学寄りである。関連する「錯体単結

晶育成」、「分子性金属・超伝導体の設計・作成・物性・構造」、「新規機能材料(未踏高温超伝導体

探索)の開発」は紙面の都合により別の機会にする。 2. 電荷移動錯体とは CT 錯体は、電子供与体(D)と電子受容体(A)の間での電荷移動により生じる錯体 Dγ+Aγで、γは電

荷移動量(≥0)である。 D + A Dγ+Aγ (1) 1951 年、R.S.Mulliken(1966 年,ノーベル化学賞)は分子間 CT 相互作用を理論化し、非イオン的及

びイオン的な基底状態の存在および CT 吸収帯の出現を説明した[2]。非イオン的基底状態(中性 CT錯体)の一対の DA 錯体の CT 吸収エネルギーhN

CT(N は非イオン的または中性を意味する)は 2 式で

近似できる。 hN

CT = IPEAC (2) IP:イオン化ポテンシャル、EA:電子親和力、C:クーロン項の寄与 (≡e2/r) この式は、気体、液体中で成立する。また固体中では、結晶場による項 Z を含め次式で与えられ

る。 hN

CT = IPEAe2/r + Z (3) 一方、IPが小さく EAが大きい錯体の基底状態はイオン的でイオン性 CT 錯体といわれ、基底状態

がイオンラジカル対に近いため、溶液中では溶媒和による安定化によりイオンに解離し易く hICT (I

はイオン性を意味する)を観測することは困難であるが、固体中では容易に観測でき 4 式で近似さ

れる。 hI

CT = IP + EA21)(e2/r) + Z’ (4) (e2/r): マーデルングエネルギー、Z’: 結晶場などによる項 hN

CT と実測の IPや EA、ドナーやアクセプターの酸化還元電位(半波電位 E1/2, ピーク電位 Ep)の間に良い相関があるが、充分信頼おける EAがなく、(IPEA)の代わりにE [=E1/2

1(D)E1/21(A)やピー

ク電位差]を用いることが多い(参照電極など測定条件を統一させること、電気化学測定の教科書は

文献 3)。また、溶液中の hNCT強度の成分濃度や温度変化を用いて、錯体の組成、平衡定数、結合

エネルギーを得る Benesi-Hildebrand 法、Rose-Drago 法が開発され、多くの溶液中の CT 錯体の研究

が 1970 年までに欧米日で精力的に行われた[4]。CT 錯体の大きな特長は、「基底状態の錯体が Dγ+Aγ

と表される場合、その励起状態は D(1 γ)+A(1 γ)と表せる」点である。つまり、遷移により、イオン

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性、双極子能率、誘電率、磁性、導電性が大きく変化する可能性があり、非線形光学や非線形伝導

の起因となる。 3.ドナー、アクセプター分子と錯体の分類 アクセプターまたはドナー性は、電子欠乏または余剰分子に対する相対的なものであり、相手次

第では逆にドナーまたはアクセプターとしても働く。ドナーやアクセプターの IP や EA は置換基の

電子供与性や電子受容性と相関を持つので、置換基の電子供与性や吸引性の目安であるハメットの

値を利用して種々の強さのドナーやアクセプターの開発が可能となる。多種多様のドナーやアク

セプターまた以下で述べる分子錯体の分類を記述した必読文献として F.H. Herbstein の総説[5](主として結晶構造に視点がある。生体系を含め多種多彩な錯体が記載されており、研究のネタが詰ま

った本)がある。 Mulliken による CT 相互作用に、もう一つの機能としてプロトン移動(PT)相互作用を加えて、有

機分子錯体を分類する。Brönsted の酸・塩基で知られるように、プロトン受容体(Brönsted 塩基)のアンモニアとプロトン供与体(Brönsted 酸)の塩化水素との反応では、PT が起こり塩化アンモニウム

(イオン結晶)が生成する[化学の基礎コンセプトの酸・塩基について文献 6 が良い]。この組み合わ

せに電子を組み込む。アニリンと塩化水素、または、アンモニアとピクリン酸の組み合わせにお

いては、共に PT によるイオン結晶(アニリニウムクロライド(白色)、アンモニウムピクラ-ト(黄~

橙色))が生成する。しかし、アニリンとピクリン酸の組み合わせでは、電子移動とプロトン移動が

共に可能である。この 2 種類の相互作用(CT と PT)は競合または共存し、PT に関しては、Brönstedの酸・塩基性度 pKa, pKbが、また CT に関しては IP, EAが分子パラメーターとなり結晶状態・格子エ

ネルギーを支配する。PT の効果を考慮して、アニリン系の有機塩基を D, ピクリン酸などの有機酸

を AH とすると、大別して 5, 6 式の 2 種の錯体が可能である。ピクリン酸は弱いアクセプターであ

り、その CT 錯体のは零に近い。 プロトン移動(PT)錯体 D +AH → DH+•• A (5) 電荷移動(CT)錯体 D +AH → D+•• AH ( 0) (6) アニリンとピクリン酸では PT 相互作用が勝

り橙黄色の PT 型イオン結晶が得られが、ジ

フェニルアミンにするとCT相互作用が勝り、

赤黒色の CT 錯体が得られる。ピクリン酸お

よび他のポリニトロフェノ-ルと様々のア

ニリン誘導体とが作る錯体の型を図 1 に示

す。①、②、③は各々ピクリン酸、2,4-およ

び 2,6-ジニトロフェノールとの錯体であり、

図中の番号(138)はアミンを示す。横軸は

pKa[= pKa(ピクリン酸) pKa(アミンの共役

酸)]である。左側には塩基性の強いアニリ

ン誘導体との錯体が位置し、これらは全て

PT 錯体(図 1 数直線の上部、黄~橙色固体で

古くからアミン系の同定法として用いられ

るピクラートに相当、5 式)である。3238 の

弱い塩基(ジフェニルアミン(35)、インドール

(36)、スカトール(38))は赤~黒色の中性 CT 錯体(図 1 数直線下部、6 式)を与える。図にはないが、

32 の 2,5-ジクロルアニリンはピクリン酸と PT 型と CT 型の双方の錯体(双安定系)を与える。pKa

が零の付近(組み合わせで異なるが、アニリン・ニトロフェノール系で-1 <pKa< 1 (図 1)、ビイミダ

ゾール・TCNQ 系で 0 <pKa< 3)は、両相互作用が拮抗した均衡領域である。この領域の錯体は作成

図 1 芳香族アミンとポリニトロフェノールが作る固体

錯体の分類。①ピクリン酸、②2,4-ジニトロフェノール、

③2,6-ジニトロフェノールとの錯体で図中の 1 38 は芳

香族アミンを塩基性の順に示す。強い塩基性のアミンと

は陽子移動(PT)型錯体が、弱い塩基性アミンとは電荷移

動(CT)型錯体が得られる。14:アニリン

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条件や環境に敏感で、2 種以上の錯体が独立に存在する場合(単変的)や、異種の錯体が熱や圧によ

り相互に変化する場合(互変的)がある。この現象は、CT 相互作用が解明される以前の 1920 年代に、

ドイツの化学者 E.Hertel[7a]や P.Pfeiffer[4a]らにより発見され、錯体異性現象と命名された: a) 室温

で得られる PT 錯体を加熱すると、一般に幅広い転移温度領域を持って、より深い色の CT 錯体に

変化し、室温に長時間保存すると PT 錯体に戻る(互変)。b) 単変的な組み合わせでは、一般に非極

性溶媒を用いると PT 錯体が、極性溶媒からは中性 CT 錯体が析出する[4a,7]。CT-PT の双安定錯体

間の転移を迅速にできると、その色変化や導電性変化をもとにした興味あるスイッチ系が可能であ

る。 錯体異性現象が起こる「複数異種の相互作用が拮抗している領域」では、作成溶媒・温度などの

成長条件や結晶の外的環境(温度、圧、電場、光)の変化にその相互作用の大きさが敏速に感応し、

その結果、結晶の性質が変化する。まさにヤジロベー的な状況にあり、その相互作用に関与する物

理・化学パラメーターを制御することにより、ヤジロベーを均衡状態からずらすこと、つまり結晶

の基底状態を大きく変化させることが可能である。図 1 及び以下に示す図 2 のような錯体分類及び

境界領域における相互作用の拮抗による転移の考えは、H.M. McConnell, B.M. Hoffman, R.M. Metzger による結晶の格子エネルギーと基底状態イオン性の関係の議論[8b]、それ以前の松永義夫に

よる部分 CT 状態と高導電性の観察[8a]、J. Kommandeur, Z.G. Soos, J.B. Torrance, 田仲二朗、D.O. Cowan, P. Delhaes らによる部分 CT 状態と錯体の分類や[8c-8i]、Torrance らによる TTF・p-キノン系

中性イオン性相転移系の開発[8j]、Cowan, R.S. Potember らによる TCNQ イオンラジカル塩系での

スイッチング・メモリー現象[8k,l]、矢持秀起、腰原伸也らによる超迅速スイッチ現象を示す EDOイオンラジカル塩系などの開発[8m]、さらに、organic metal の電子状態設計条件に深く関連する

[1,8n]。 複数の機能グループを 1 分子に含ませ、分子間相互作用の強さ・方向を様々に変化させると、結

晶の性質制御がより面白くなる。アニリンを 2 つ繋いだようなベンジジンを用いると、1 つのアミ

ノ基が PT 相互作用を受け持ち、分子の残りの部分が電子供与基として CT 相互作用を受け持つこ

とも可能となる。このように、PT と CT の相互作用の共存している錯体を CPT 型と命名する。生

体系分子セロトニンやトリプトファンのピクリン酸錯体ではピクリン酸の H+をセロトニンやトリ

プトファンが受容し、それが電子供与体として働く。また、V.A. Kofler の見出した1-ナフチルアミ

ン・ピリジン・ピクリン酸錯体[7b]では、塩基性の強いピリジンがピクリン酸と PT 相互作用でピ

リジニウム・ピクラートを形成し、そのピクラート陰イオンがアクセプターとして 1-ナフチルアミ

ンと CT 相互作用を行う。7 式は CPT 型の一例である。一般に、電子余剰状態の A分子はドナーと

して働くことが知られているが、固体中のピクラートはアクセプターとして働く。成分は"イオン

化"しているものの、7 式は"中性的"基底状態の CT 錯体である。 PT CT D1H

+ ••••• A ••••• D2 (7) (D1H

+: ピリジニウム、D2: 1-ナフチルアミン) 強いドナーと強いアクセプターを用いると基底状態がイオン的な CT 錯体が得られ、両性分はイ

オンラジカルである(8 式)。ドナーのみが陽イオンラジカルで、ピクリン酸がプロトンを失い閉殻

イオンのピクラートの状態にある錯体も可能である(9 式)。逆に、陰イオンラジカルの相手が閉殻

陽イオンの錯体もある(10 式)。閉殻陰イオンを X(Cl, Br, ClO4, ピクラートなど)で、閉殻陽イオ

ンを M+(Na+, K+, NH4+, ピリジニウムなど)で示すと、

イオン性 CT 錯体 D + A → D+•• AH ( 0.5) (8) 陽イオンラジカル塩 D + X→ D+•• X (9) 陰イオンラジカル塩 M + A → M+•• A- (10)

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と示される。以上のことを踏まえ、分子錯体を分類すると図 2 になる[1a]。文献 5a を含め、多く

の研究者によるさまざまの視点での分類[8]があり、機能性錯体開発のネタ探しに便利で、例えば、

錯体異性相転移系の開発には、図2中の 4 角形で囲った錯体型の間で両矢印を仮定し、図 1 の階段

関数のパラメータを検討し、境界領域を探ると良い。

4 ドナーおよび陽イオン類 (前半) ドナーとして a: 縮合多環芳香族炭化水素、b: アミン類、c: アジン系、d: TTF 系、e: ポリカルコ

ゲノポリアセン系、f: ビチオピラン系、g: テトラチアペンタレン系、h: キノビスジチオラート系、

i: 遷移金属配位錯体系、j: 閉殻陽イオンなどがある。多数の縮合多環芳香族炭化水素を記した本と

して文献 9 が優れている。有機導電体の出発点であるペリレン・臭素は縮合多環芳香族炭化水素の

陽イオンラジカル塩であり、1954 年に赤松秀雄・井口洋夫・松永義夫により発見された 0.1 Scm1

の室温伝導度をもつ半導体である[10]。この発見の背景は以下のようである。1930 年代より E.Clarらや E.Zinke[11]らにより多環芳香族炭化水素のラジカル分子の研究が成されており、その中で、ペ

リレンのハロゲン化物はラジカル電子を持つのか、反応してハロゲン付加が起きているのか結論さ

れていない物質であった。他方、A.R.Ubbelohde らは 1951 年に、黒鉛の臭素や K の層間化合物で黒

鉛よりも高い導電性と、同時に、反磁性異方性の消失を観測した[12]。このことを念頭に松永は、

ペリレン・臭素錯体で見られた予想よりも小さな反磁性磁化率をラジカル電子の運動によるものと

考え固体錯体を作成し、井口が錯体の導電性を測定し上記の発見になった。その後、多くの多環芳

香族炭化水素をドナーとする錯体が各国で検討されているが、大きな成果は得られていない。逆に、

久保園芳博はピセンの陰イオンラジカル塩(陽イオンは K)で、Tc = 18 K の超伝導体を発見し、新し

い環芳香族炭化水素超伝導体の道を開いた(2010 年)[13]。 強いドナーは酸化(空気、濃硫酸中)で深い色を呈する所から、昔から色素、染料、顔料、医薬

品、生体分子の中から見いだされて来た。そのような強いドナーは、ベンゼンなどの芳香環にハメ

ットの値の小さな電子供与基を付けることにより得られる。上記のアニリン系、ベンジジン系化

合物は色素、染料の原料である。アニリンが酸化されたアニリンブラックは染料に、ポリアニリン

は導電材料である。ベンジジン類の多くはアゾ染料に用いられていたが、膀胱癌を生じることから

今は製造禁止になっている。p-フェニレンジアミンは染料や白髪染めの原料であり、N,N,N',N'-テト

ラメチル-p-フェニレンジアミン(TMPD)は非常に強いドナーとして知られ、その陽イオンラジカル

の過塩素酸塩は Würster ブルー・パークロレ-トの名で有名である。これら、および、F. Wudl らに

より見出された C60分子との軟強磁性体[14]で知られるテトラキスジメチルアミノエチレン(TDAE)などはポリアミン系ドナーである。芳香環を窒素に付加したポリアミン類は、安定な無定形ガラス

を形成し、有機電界発光素子の正孔輸送層の材料となる(城田晴彦によるスターバストポリアミン

など[15])。殺虫剤、薬剤のフェノチアジン、染料の原料フェナジンはアジン系ドナーであり、分極

性の高い分子である。核酸塩基など生体物質には、電子供与能の他に陽子供与・受容能を持つ分子

が多い[4a, 5a, 16]。 1964 年に提案された W.A.Little による励起子超伝導の機構[17]は、分極性物質を用いた高臨界

温度超伝導体の可能性を示した。また、同年、O.H.LeBlanc は分極性分子の存在により、TCNQ 上

錯体異性

H+のみH+ & e-

CPT 型

N-I 転移

中性CT型

ラジカル塩

有機分子錯体

H+のみ移動e- &/or H+ 移動e- のみ移動

イオン性CT型

e-のみ

PT型

陰イオンラジカル塩

陽イオンラジカル塩

中性ラジカル塩

図 2PT 相互作用と CT 相互作用を考慮した有機分子錯体の分類。TTF•p-キノン系 N-I 転移錯体や

錯体 TMTSF•TCNQ, TSF•Et2TCNQ, ET•TCNQ も

錯体異性現象を示す。前者は基底状態が温度・

圧力により中性からイオン性に変化する互変的

錯体異性を、後者では交互積層構造の中性錯体

(絶縁体)と分離積層構造のイオン性(部分CT 型、

金属)が独立に存在する単変的錯体異性を示す。

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のオンサイトクーロン反発が大きく減少する事を示唆した[18]。これらに基づき、Eastman-Kodak社のグループは分極性の大きいシアニン色素を陽イオンとする TCNQ 錯体の研究を行った。予測通

り色素分子サイズが大きくなるにつれ導電性は向上した。しかし、サイズが大きくなりすぎると逆

に導電性が低下し、この低下は伝導に好都合な TCNQ カラムの形成が、サイズミスマッチにより阻

害されたことによると考えられた[19]。従って、「分子サイズを小さく抑えたまま分極性の向上を図

ること」が設計条件となった。 ドナーとしての能力に優れ、化学的安定性があり、分子サイズが小さく、分極性の高い分子に

TTF がある。これは、「ヒュッケル則」と「ヘテロ原子による等電子置換」が設計に盛り込まれた

分子である。この分子の発見過程を記述する。分子骨格や電子構造の設計に関する専門分野である

構造有機化学において、フルバレン型化合物は芳香族性という観点から、1950 年以降、理論および

合成研究の対象物質であった。構造有機化学や芳香族性に関する優れた入門書として文献 20 があ

る。フルバレン型化合物は、不飽和奇数員環をエチレン結合でつないだ型の交差共役系非交互炭化

水素である。5 員環同士をつないだフルバレンを作る目的で、シクロペンタジエン誘導体と塩化鉄

を反応させたところ、別の化合物であるフェロセンが得られ (1951 年 )、その特異的構造が

G.Wilkinson らや E.O.Fischer らにより 1952 年に提案され(1973 年にノーベル化学賞。なぜか合成者

はもらっていない)、それが、後の爆発的な有機金属化合物の化学に発展したことは有名である。

環内に(4n+2)個の電子を持つ分子は、電子の非局在により安定化する(芳香族性、ヒュッケル則)。フルバレン型化合物の一つヘプタフルバレン(1959 年合成)は、一つの環が 7電子系であることから、

一電子酸化により 6電子系芳香環に変化し、安定なラジカルを与えると予想された(図 3)。しかし、

ヘプタフルバレン陽イオンラジカル(6-7+や 2 価イオン(6-6)2+は、ともに、それほど化学的に

安定ではなかった。 ヘテロ環状化合物の合成も 1960 年代に盛んに行われ、炭素 2p電子とヘテロ原子の非結合電子と

の非局在化に関する研究がなされた(図 3)。2 個の 2p電子をもつエチレン基を、O,S,Se、NH で

置換すると等電子構造の分子が得られる。特に、S,Se,Te の導入は、分子サイズを余り変えずに

分極性を大きく増加させる有利性がある。ドナーの傑作である TTF は、ヘプタフルバレンを母体と

して、その 4 個のエチレン基を S で等電子置換した化合物で、D.L.Coffen や Wudl らにより 1970 年

に合成された[22]。TTF 分子は優れた溶解性と中性やイオン化状態での安定性を持つ。この分子は

多種多彩な有機金属を与え、後の有機超伝導体の設計母体となった。E.M. Engler, Cowan, K.Bechgaard らにより TTFの Seや Teの誘導体、M.P.Cavaらにより周縁にカルコゲンが付加した TTF

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が合成された[23]。「ヒュッケル則」と「ヘテロ原子による等電子置換」の概念により、現在用いら

れている多くのドナーが説明できる。図 3 にその幾つかを示す(ビチオピラン類、ビイミダゾール

類、TTN 系、ジチアピレン、テトラチオナフタレンはドナーであり、ビオロゲン類(酸化還元指示

薬や除草剤パラコート(有毒)など)はアクセプターとなる)。各種ドナーは、機能性分子として盛ん

に開発された。欧米露では R.C. Haddon, A.W. Cordes(米), R.T. Oakley(カナダ)らによるチジアゾリル

系、A.E. Underhill, M.R. Bryce(英), J.M. Farbre, M. Fourmigue(仏), C. Rovira(スペイン), G.C.D. Papavassiliou(ギリシャ), Cowan, R.D. McCullough(米)による多数の TTF 誘導体, O. Neilands(ラトビ

ア)の TTF 融合核酸塩基系, A.M. Kini(米)の ET 同位体置換体、T.J. Marks(米), M. Hanack(独), 土田英

俊のフタロシアニン誘導体、また当分野の日本人は非常に多士済々であり、以下は数例に過ぎない。

中山重蔵、山下敬郎らにより発展した p-キノビスジチオール(QBDT)系、Engler, O.Schumaker(米)らや御崎洋二、森健彦らによる TTP 系、坂田祥光、立光斉、中筋一弘、矢持秀起、森田靖、村田剛志、

小倉文夫、大坪徹夫、滝宮和男、小林啓二、菊池耕一、伊与田正彦、西川浩之, 松林玄悦、今久保

達郎、高橋かず子、白旗崇、森(浦山)初果、山田順一、杉本豊成、鈴木孝紀、藤原秀紀、植田一正、

稲辺保、中村貴義、鈴木敏泰、持田智行らによる強いドナー、多環芳香族炭化水素や TTF 系誘導体

の S, Se、Te 置換ドナー、フタロシアニン誘導体など構造有機化学、超分子科学の視点で重要なド

ナーや新規機能分子が開発されている。次回は、ドナーの続編(分子構造と集合体電子状態次元性

の関係など)とアクセプターを記す。 参考文献 [1] a)斎藤軍治、井口洋夫, “有機電導体”、科学増刊 86、“Electroorganic Chemistry -電子を用いる新し

い有機化学”庄野、本多編、pp45-64、化学同人 (1980), b)齋藤軍治、“有機物性化学の基礎”、

化学同人(2006), c)斎藤軍治、“有機導電体の化学-半導体、金属、超伝導体-”、丸善(2003). d) G.Saito, Y.Yoshida, Bull. Chem. Soc. Jpn., 80,1 (2007).

[2] a) R.S.Mulliken, J. Am. Chem. Soc., 74, 811(1952), b) S. P. McGlynn, Chem. Rev., 58, 1113(1958) [a,b 必読].

[3]藤嶋昭、相澤益男、井上徹、“電気化学測定法”、技報堂 (1984). [4] a) P.Pfeiffer, “Die Organische Molekularverbindungen”, Ferdinand Enke, Stuttgart(1927), b) G.Briegleb,

“Zwischenmolekulare Krafte und Molekulstruktur”, Ferdinand Enke, Stuugart (1937) [a,b は Mulliken の

CT 錯体提案以前における分子化合物の総説 ], c) G.Briegleb, “Elektronen-Donator-Acceptor Komplexe”, Springer(1961), d) R.Foster, “Organic Charge Transfer Complexes”, Academic Press (1969) [非常に良い教科書], e) “電荷移動錯体(上)-基礎と物性-”、化学増刊 48、化学同人 (1971) [必読], Benesi-Hildebrand 法は、H.A.Benesi, J.H.Hildebrand, J. Am. Chem. Soc., 71, 2703(1949), 実験化学講

座続 11,電子スペクトル、日本化学会編 6 章1節、丸善 (1965). [5] a) F.H.Herbstein, “Perspectives in Structural Chemistry”, ed. J.D.Dunitz, J.A.Ibers, Wiley, New York

(1971), Vol.IV, pp169 [必読], 他に D, A それらよりなる錯体・物性値の収録として以下がある。 b)科研費総合研究 B「分子錯体系の物性と化学」松永義夫、黒田晴雄、木下實、池本勲ほか(1971), c) 基盤研究 C(1)企画調査「分子性合成金属・超伝導体の化学と物理」化学~物理 22 名 (1999), d) G.Briegleb, J.Czekalla, Z.Elektrochem., 63, 6(1959).

[6]田中元治、“酸と塩基、基礎化学選書 8”、裳華房 (1971) [7] PT と CT の絡んだ錯体の古い文献(4a,5a の中にもある) a) E.Hertel, Ann., 451, 179 (1927), Ber.57,

1559(1924), b) V.A.Kofler, Z.Electrochem, 50, 200(1944), c) G.Briegleb, H.Delle, Z. Elektrochem., 64, 347(1960), d) Y.Matsunaga, Bull. Chem. Soc. Jpn., 46, 998(1973), e) M.Tanaka, Bull. Chem. Soc. Jpn., 50, 3194(1977), f) G.Saito, Y.Matsunaga, Bull. Chem. Soc. Jpn., 45, 2214(1972).

[8]a) Y.Matsunaga, J. Chem. Phys., 41, 1609(1964) [部分 CT と高導電性の最初の実験報告], b) H.M.McConnell, B.M.Hoffman, R.M.Metzger, Proc. Natl. Acad. Sci., USA, 53, 46(1965) [結晶イオン性

とその制御パラメータ、必読 ], c) J.Kommandeur, Am. Chem. Soc. Meeting, St. Louis;

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U.S.Govt.Develop.Rep., 68(1), 170(1968), d) Z.G.Soos, Ann. Rev. Phys. Chem., 25, 121(1974), e) J.B.Torrance, in Molecular Metals, ed by W.E.Hatfield, Plenum Pub. Co., (1979), pp7-14, f) J.B.Torrance, Acc. Chem. Res., 12, 79(1979), g) J.Tanaka, C.Tanaka, Mol. Cryst. Liq. Cryst.,126, 121(1985). h) D.O.Cowan, J.A.Fortkork, R.M.Metzger, in “Lower-Dimensional Systems and Molecular Electronics”, Ed. by R.M.Metzger, P.Day. G.C.Papavassiliou, Plenum Press, N.Y. (1991), pp1-22, i) P.Delhaes, in “Lower-Dimensional Systems and Molecular Electronics”, Ed. by R.M.Metzger, P.Day. G.C.Papavassiliou, Plenum Press, N.Y., (1991), pp43-65, j) J.B.Torrance, J.E.Vazqyev, J.J.Mayerle, V.Y.Lee, Phys. Rev. Lett., 46, 253(1981) [中性-イオン性相転移の最初の実験報告], k) R.S.Potember, T.O.Poehler, D.O.Cowan, App.Phys. Lett., 34, 405(1979), l) R.S.Potember, T.O.Poehler, D.O.Cowan, A.N.Bloch, in “The Physics and Chemistry of Low Dimensional Solids”, L.Alcacer Ed., D.Reidel Pub. Co., (1980), pp419 [k,l はTCNQ 系錯体のイオン性とスイッチ、メモリ現象], m)M. Chollet, L. Guerin, N. Uchida, S. Fukaya, H. Shimoda, T. Ishikawa, K. Matsuda, T. Hasegawa, A. Ota, H. Yamochi, G. Saito, R. Tazaki, S. Adachi, S. Koshihara, Science, 307, 86-89 (2005) [超迅速スイッチ], n) G.Saito, T.Murata, Phil. Trans. R. Soc. London A, 366, 139-150 (2008) [部分 CT 総説].

[9]井口洋夫, “有機半導体”、新物理学進歩シリーズ 9、槙書店(1964). [10] H.Akamatu, H.Inokuchi, Y.Matsunaga, Nature, 173, 168(1954). [11] a) E. Clar, “Aromatische Kohlenwasserstoff”, Berlin, Springer-Verlag, 1941, b) A.Zinke, E. Unterkreuter,

Monatsh. Chem., 40, 405 (1919). [12] F.R.M.McDonnell, R.C.Pink, A.R.Ubbelohde, J. Chem. Soc., 1951, 191. [13]R.Mitsuhashi, Y.Suzuki, Y.Yamanari, H.Mitamura, T.Kambe, N.Ikeda, H.Okamoto, A.Fujiwara,

M.Yamaji, N.Kawasaki, Y.Maniwa, Y.Kubozono, Nature, 464, 76(2010). [14]P.-M. Allemand, K.C. Khemani, A. Koch, F. Wudl, K. Holczer, S. Donovan, G. Grüner, J.D. Thompson,

Science, 253, 301(1991). [15]Y. Shirota, H. Kageyama, Chem. Rev., 107, 953 (2007). [16] a) M.A.Slifkin, “Charge Transfer Interactions of Biomolecules”, Academic Press, New York, (1971), b)

A.Szent-Gyorgyi, “生体の電子論”、丸山工作、浅井博、吉岡亮訳廣川書店 (1973), c)B. Pullman, A. Pullman, “Quantum Biochemistry”; Interscience Publishers: New York and London (1963), d) E.M. Kosower, “Molecular Biochemistry”, McGraw-Hill: New York (1962), e) D.D. Eley, Mol. Cryst. Liq. Cryst., 171, 1 (1989), 他に生体系分子の CT 錯体の記載が“Organic Conductors” ed. J-P. Farges, Dekker (1994)の 14 章にあるが、内容は充分でない。

[17] a) W.A.Little, Phys. Rev., 134, A1416(1964), b)解説として、辻川郁二、津田惟雄、青木亮三、永野

弘, “超伝導の化学”、共立化学ライブラリ-3、共立出版、3 章、(1973). [18] O.H.LeBlanc, Jr., J. Chem. Phys., 42, 4307(1965). [19]B.H. Klanderman, D.C. Hoesterey, J. Chem. Phys., 51, 377 (1969). [20] a)中川正澄、“構造有機化学”、基礎化学選書 13、裳華房 (1979), 芳香族性関連では b)吉田善一、

大沢映二、“芳香族性”、化学モノグラフ 22、化学同人 (1971). [22] a) D.L.Coffen, Tetrahedron Lett., 30, 2633(1970), b) F.Wudl, G.M.Smith, E.J.Hufnagel, J. Chem. Soc.,

Chem. Commun., 1970, 1453, c) TTF の合成競争とそれに続く TTF・TCNQ の発見については、斉藤

軍治、“有機電導体 TTF ー TCNQ の発見”、化学、44、22 (1989)を参照 [23]M. Mizuno, A.F. Garito, M.P. Cava, J. Chem. Soc., Chem. Commun., 18-19 (1978).

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今後の活動・行事予定

MDF 新学術領域研究では、情報交流と共に若手育成に向けた公開シンポジウムを予定しておりま

す。詳細は各集会のホームページで御覧下さい。

2011 年 10 月 7-8 日

2011 年 11 月 10-12 日

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2011 年 11 月 25-26 日

また、来年度開催となる可能性もありますが、スピン液体に関する情報を徹底的に議論する小規

模集中型国際会議も日程調整中です。

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