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Title 大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」 Author(s) 金, 文京 Citation 東方學報 (2001), 73: 185-210 Issue Date 2001-03-30 URL https://doi.org/10.14989/66847 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」

Author(s) 金, 文京

Citation 東方學報 (2001), 73: 185-210

Issue Date 2001-03-30

URL https://doi.org/10.14989/66847

Right

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Kyoto University

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東方学報

京都第七三筋

(二〇〇一)‥一八五-二一〇頁

大津皇子

「臨終

1絶」と陳後壬

「臨行詩」

日本最古の漢詩集

『懐風藻』に載せる大津皇子の

「臨終

一絶」ときわめて頬似した詩が、中国及び朝鮮の複数の人物の

「臨刑詩」として、十世紀から二十世紀に至るさまざまな文献に見える不思議については、すでに小島憲之、演政博司の両

(-)

氏による研究があり'筆者もまた両氏の挙げられた資料の他に、元代の雑劇の用例などを補

った論考を寄表したことがあ

(2)る。しかし前稿では紙幅の制約のため、この問題を解く鍵となる大津皇子と陣後主の詩の関係について十分に論じること

ができなか

った。そこでここに稿を改めて、両者の関係を更に検討し、これら

一連の類似作が、はたして日本の大津皇子

の作が中国に侍播した結果なのか、それとも原作はやはり中国のものなのかという問題に封して、より明確な答えを導き

出すことにしたい。

まずは行論の都合上'前稿と重なるが'

一連の

「臨刑詩」を出接文献の時代順に次に列挙する。

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東 方 学 報

3 2Ju「同∬孔ハhUji:8W一弘

大津皇子

(六六三-六八六)「臨終

l絶」

『懐風藻』(七五一)

金烏臨西舎

-鼓馨催短命。泉路無賓主

-此夕誰

(一作離)家向。

(3)

陳後去

(五五三-六〇四)詩

樺智光撰

『浮名玄論略述』巻

一本

(八世紀中葉)

鼓馨推

(催)命役

(短?)-日光向西斜

。黄泉無客主

-今夜向誰家

(4)

五代

・江馬

「臨刑詩」

・陶岳

『五代史補』巻五

(1〇一二)、又明

・胡震亨

『唐音統茶』戊寄金七六七、『全唐詩』

巷七四

(『全唐詩』誤作街)鼓倭人急

-西傾日欲斜。

黄泉無旅店

-今夜宿誰家

(5)

元雑劇

「静仁貴衣錦還郷」四折

[豆葉葺]曲

『元刊薙劇三十種』(十四世紀中葉)

黄泉無旅店家

-晩天今夜宿在誰家

(・D)

・孫葦

(?-一三九三)「臨刑詩」

『西奄集』巻七

(十五世紀初)

竃鼓三馨急

-西山日又斜。責泉無客舎

-今夜宿誰家

。(7)

南戯

『小孫屠』第十九駒

[香柳娘]曲

『永楽大典戯文三種』(十五世紀初)

黄泉無旅店

-今夜宿誰家。

11・)

朝鮮

・成三間

(一四一八-五六)「臨刑詩」

『死六臣文集』所引

『稗官雑記』(一五三八)

撃鼓催人命

-回看日欲斜。

葺泉無

一店

-今夜宿誰家

『水耕侍』(容輿堂本)第八回

(十七世紀前半)

寓里葺泉無旅店

-三魂今夜落誰家

(r=・)

葉徳輝

二八六四-

一九二七)「臨刑詩」

周作人

「孫葦絶命詩」(一九三五)

186

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大津皇子 「臨終-絶」と陣後圭 「臨行詩」

慢措三通鼓

-西望夕陽斜。葺泉無客店

-今夜宿誰家。

(10)

10

金聖嘆

(一六〇七-六1)「臨刑詩」

伍倣

「日本之漢詩」(l九五五)

御鼓丁東急

-西山日又斜。責泉無客合

-今夜宿誰家。

「〓」

11

戴名世

(一六五三-一七一三)「臨刑詩」『安微歴史上科学技術創造番明家小樽』(一九五九)

戦鼓冬冬響

-西山日己斜。

黄泉無客舎

-今夜宿誰家

右の譜作のうち、陳後主、成三間、葉徳輝、金聖嘆、戴名世のものは、所接の文献が信悪性を開き、また苫人の文集に

も記載がないため、侶託であることが明らかであるが、大津皇子、江馬、孫葦については、

一般には本人の作品と認めら

れている。元雑劇、戯文、『水耕侍』の用例は、この詩が中国元明代においてすでに成語化していたことを示そう。

さて一見して明らかなように、これら

一連の作品のうち、-陳後王詩以下は、第

一句で鼓馨'第二句で斜陽、第三句で

葺泉に旅店のないこと、第四句で今夜の宿のない不安を言い'また

「斜

・家」二字で押韻する鮎すべて共通しており、相

違は個別の字句にとどまる。同

一の詩のヴァ-エーションと考えてよいであろう。これに封して-大津皇子

「臨終

一絶」

は、第

一句が斜陽'第二句が鼓馨と順序が他と逆であり、押韻も

「命

・向」の二字になっている。この二字は厳密には押

韻字とは認められないが、少な-ともこの詩を書いた常人はこれで韻を踏んだと考えていたであろうことは、すでに前稿

で述べた。

日中朝三園にわたり八世紀から二十世紀に及ぶ長い期間に、これだけの似た詩が存在するのは、到底偶然とは考えられ

ず、必ずや侍播摸倣の結果であるにちがいない。とすれば

一部の人々が説-ように'時期的に最も早いと考えられる大津

皇子の作が中国に侍わり、やや形を撃

見てその他の作品となったのであろうか。前稿ではこれに封して否定的な見解を述

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東 方 学 報

べたが'その論接を十分に示すことができなかった。

Co

この間題を考える上で最も重要な鍵となるのは、時期的に大津皇子の詩とほぼ同じく、また詩としては江馬以下の中

・朝鮮の諸作により類似している陳後主の詩が、大津皇子の詩とどういう関係にあるのかを解明することであろう。次

に章を改めて'いわゆる陳後主の詩を検討してみたい。

陳後壬の

「臨行詩」

ついて

奈良時代の僧'智光撰

『浮名玄論略述』に陣後主の作として、大津皇子の詩と同様の詩を載せることを初めて指摘され

「rij)

たのは、小島憲之氏であった。ただし氏は'それ以上の言及はされていない。

あすかべのこほり

かみのすぐり

智光は河内園

宿

人、俗姓は鋤田連'後に

に改める。その侍は、『元亨樺書』巻二、『本朝高僧博』巻四など

にあり、また

『扶桑略記』巻四

(天平十七年1月)、『日本憂異記』巷中-七、『今昔物語集』巻十

1-二などには、彼と行基

にまつわる説話が見えている。奈良元興寺の智戒より三論の教えを受けた奈良時代の名僧の一人で、『浮名玄論略述』四番

の他、『般若心経述義記』

一巻、『大般若経疏』二十巻、『法華玄論略述』五巷、『中論疏記』三食など多数の著作があり、

うち

『浮名玄論略述』と

『般若心経述義記』が侍存している。

『浮名玄論略述』は、三論宗の高僧、階の吉戒

(五四九I六二三)の著

『浮名玄論』に封する注樺である。問題の陳後壬の

詩は、晴の文帝が陳を滅ぼし、昔時建康

(南京)にいた吉戒を長安に呼び寄せたことについての注の中に見えている。以下

に関連部分を引用する。()内は筆者が改めた字である。

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大津皇子 「臨終-絶」と陳後主 「臨行詩」

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如有侍日‥後周終王競少帝開。婿諸大夫京

(享)把先廟。掌客之臣楊堅有二美女輿

l男、男是楊光也。堅使此二女琴

腸上帝。帝感於二女好色、即敏之日、「欲納其女弟耳」。堅乃戯之。析納此女而棄先妃、寵愛甚重。経乎三年、女啓帝

日、「欲見父蔦」。乃詔'「莫過三日蹄失」。女退語父'「欲帝位乎」。父日、「若似朝花、

一日得耳」。女日、「欲蘭鋳刀」。

逐畳靴裏両人宮中。帝善非違約、甚薦講柴而臥o女以錆刀密刺帝頚、乃出赦日、「楊堅入官、因寵愛女而譲位於堅実」。

堅乃施

(旋?)行云、「威憲去可去、用可用」。不知所以然之、忽行此事。己獲天下、群臣皆服、無敢出異言者。窮治商

機、其勢亦爾。-

中略-

凡陳合五壬三十二年、従大将軍陳覇先至叔賓。叔賓在位八年'以己酉年正月篤晴楊堅所威

(滅)。叔賓之臣戟妙貴、其

妻析美、王聞感念、乃任景以将軍、居成障之南境。而集

(?)其妻納於宮中。景乃言'「成境有限、無所奈何。心雄甚

悔、今無所馬」。逐生坂逆、使人告隔朝日、「叔賓無義夫道、虐悪甚之」。堅固

(故)作色而怒日、「天授不取、還受殊耳」。

乃以楊光薦大将軍'率諸兵卒'度江伐陳。臨寄之日、堅語光等、「股間其吉戒者善達法門、宜申誠心要請之。至今伐干

陳、岩鼻其地平。良由有道之王

(圭?)耳」。以域鎖輿鼓

(舵?)横島浮梁而度津、景前導而伐之。逐年其城而囚執叔賓

舛子。光乃中堅意確

(?)請。大師撫嘆而鷹之。既己、還干長安夫。賓賓路詠日、「謝矧楓.笥

矧刊ル固矧

矧勢

。」及度□津至梁上、賓詠日'「間道長安路、今年過□津。請問浮梁上、度幾失郷人。」

速至於隔。諸家大人看之感慕。章子入官、堅便

(倭)馬詠。詠日、「年少未敢書、口詠借上草o生虞非不高、但恨逢霜

(早)」。又作詠日、「野林無大小、山花色井鮮。唯有権折枝、猪自不知春。」

(奄

一本)

侍ありて日うが如し

(?)‥後周の終王は少帝閲と競す。諸大夫をひきいて先廟に享配す。掌客の臣楊聖に二美女と

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男あり、男は楊光なり。聖はこの二女をして腸を挙げ帝に上らしむ。帝は二女の好色に感じ、即ちこれに赦して日く、

ハU

「その女弟を納めんとす」と。聖は乃ちこれを戯ず。よりてこの女を納め先妃を棄て、寵愛甚だ重し。三年を経て、女は

帝に啓して日-、「父を見ることを欲す」と。乃ち詔す、「三日を過ぎずして締れ」と。女退きて父に語るに、「帝位を欲

するか」と。父日-、「朝花に似たるが若し、

一日得るのみ」と。女日-、「錆刀を斎さんと欲す」と。速に靴裏に置き

て宮中に入る。帝は違約せざるを善しとし、甚だ講柴をなして臥せり。女は括刀を以て密かに帝の頚を刺し、乃ち出で

て赦して日-、「楊堅は宮に入れ、女を寵愛せLに因りて位を聖に譲らん」と。堅は乃ちたちまち

(?)行きて云う、「威

惹去るは去るべ-'用いるは用いるべし」と。これを然りとする所以を知らず、忽ちこの事を行えり。己に天下を獲て'

群臣みな服し、敢えて異言を出す者なし。窮ら寓機を治む、その勢またしかり。-

中略-

凡そ陳は合わせて五主三十二年'大将軍の陳覇先より叔賓に至る。叔賓位に在ること八年、己酉年

(五八九)正月を

以って階の楊堅の滅すところとなる。叔賓の臣妙景と戟するものあり、その妻折美、王聞きて感念す。乃ち景を任ずる

に将軍を以てし、階を成るの南境に居らしむ。しかしてその妻を集め

(?)宮中に納む。景乃ち言う'「境を成るに限り

あり、奈何とするところなし。心に甚だ悔ゆるといえども、今はなすところなし」と。速に叛逆を生じ、人をして隔朝

に告げしめて冒-、「叔賓は義な-道を失い、虐意甚だし」と。堅はことさらに色を作し怒りて日く、「天授くるに取ら

ざるは'かえって殊を受-るのみ」と。乃ち楊光を以て大将軍となし、諸兵卒を率い'江を度りて陳を伐てり。饗する

に臨むの日、堅は光等に語る'「朕聞-にそれ吉戒なる者は善-法門に達すと'宜し-誠心を申べてこれを要請すべし。

今に至りて陳を伐つは、豊にその地を貴らんか。まことに有道の王

(主?)に由るのみ」と。繊鎖と鼓

(舵?)を以て擢り

に浮梁をなして□津を度り、貴は前導してこれを伐つ.速にその城養卒らげ叡智舛びに子を囚執す。光は乃ち聖の意確

-論うを申ぶ。大師は撫嘆してこれに鷹ず。既にして長安に還れり。賓は路を蓉するに詠みて日く、

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大津皇子 「臨終一挺」と陳後主 「臨行詩」

鼓馨命の短さ

(?)を催し

日光西に向いて斜めなり

芸泉に客主な-

今夜誰が家に向わん

□津を度り梁上に至るに及んで'賓詠じて日-'

長安の路を間道けるに

今年□津を過ぐ

請問す浮梁の上

幾たりの失郷の人の度る

速に階に至れり。諸家の大人これを看て感慕す。賓の子宮に入るに、堅は詠をなさしむ。詠じて日-、

年少いまだ敢えて書かず

口に借上の草を詠む

生いし虞高からざるに非ず

但だ霜に逢うこと早さを怨む

また詠を作して日-、

野林大小とな-

山花は色舛びに鮮かなり

ただ榛りそめに枝を折るものあり

191

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192

り春を知らず

右は要するに、北周と陳の滅亡にまつわる

1種の侍説であろう。まず北周については、最後の帝、少帝閲が後に晴の文

帝となる楊堅の女を見染め、その次女を妃に納れ寵愛したが'女は少帝を刺殺して、父の楊堅を帝位につけたという話。

次に陳については、後主陳叔賓が臣下の妙景なる者の妻を見染め、妙景を国境警備に追いやってその妻を奪

ったため、妙

岩は晴に寝返り、その先導となって陳を滅したという話である。いずれも史害にない虚構であることは言を待たない。た

だしここでは大師吉戒が建康から長安へ移

ったことの背景を説明するために引用されており、本論が問題とする詩を含む

陳後壬とその子の計四首の詩は'いわばそのついでに言及されている。これらの詩も言うまでもなく償託である。陳後王

の詩は建康を費するに富

って詠まれたことになっているので、ここではかりに

「臨行詩」と呼ぶことにしたい。

3ーFE

『浮名玄論略述』の撰述年代は明らかでないが、智戒の現存するもう

1つの著作である

『般若心経述義』の序に、

然自志学至干天卒勝賓四年'合三十箇年。

とあり、天平勝賓四年

(七五二)に智戒が四十五歳であったことを知りうる。『浮名玄論略述』もだいたいその前後の作と考

えてよいであろう。すなわち七五

一年成立の

『懐風藻』と

『浮名玄論略述』は、ほぼ同時期のものであり、大津皇子、陳

後主二人の詩は'この時期に並び行われていたことになる。

さてこの二人の詩の先後関係は'もし両者が共に真作であれば、陳が亡んだのは五八九年、大津皇子の刑死は六八六年

であるから、問題な-決することができる。しかしながら陳後主の詩は明らかに後人の償託であり、大津皇子の詩につい

てもその可能性が高い。

大津皇子の節世の作としては、『懐風藻』に載せる漢詩の他に、次の和歌が

『寓葉集』巷三

「挽歌」に見えている。

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大津皇子 「臨終一挺」と陳後壬 「臨行詩」

つつみ

なみだ

大津皇子、被

らしめらゆる時、磐

の池の

して

流して作りまLL御歌

一首

ももづたふ磐飴の池に鳴-鴨を今日のみ見てや雲障りなむ

ところでこの歌の最後の

「雲陰りなむ」は、『常葉集』の他の用例からして、貴人の死を指す言葉であり、自分の死につ

(14)

いて用いるのは不適首であるため、この歌は後人の偏託であるとする説が有力であ

もし和歌が償託であるならば、漢

詩についても富然同じ疑いがもたれるであろう。したがって確害なことは、八世紀中葉の日本に、大津皇子

「臨終

一絶」

と陳後主

「臨行詩」という互いに内容のよ-似た、ただし叙述の順序や押韻字が異なる二つの詩が同時に存在していたと

いう事案のみとなる。

もし陳後主の詩が日本で作られたものであれば、日本の詩が江馬以下の中国の

「臨刑詩」に影響をあたえた可能性はさ

らに高まるであろう。陳後主の詩は大津皇子の作よりも'中国の

「臨刑詩」により似ているからである。逆に陳後主の詩

が中国のものであるならば、それと大津皇子の詩との関係が問題となろう。

次に章を改めて、陳後壬

「臨行詩」を含む

『浮名玄論略述』の説話内容について検討してみたい。

『浮名玄論略述』所侍説話の性格

『浮名玄論略述』の北周、陳滅亡にまつわる二つの説話は、ある

「侍」を引用するという形で語られている。この

「樽」

の文章には抄寓翻刻の際の誤記が少なからずあるように思えるが、それを差し引いて考えても、その生温な文健は到底中

S3一′ユ

国人の書いたものとは思われない。特に楊堅の子の楊虞、すなわち後の晴の爆帝を、楊光と表記するのは、中国人ならば

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決して犯かし得ない誤りである。この

「侍」は日本人の手になるものと考えてよいであろう。あるいは嘗時の国際関係か

J.

らして、百済や新羅などの朝鮮牛島の入関、乃至はそこから日本への渡来人によって書かれた可能性も否定できない。

しかしながらこの

「侍」が中国人の書いたものでないことは'その内容までもが中国のものでないことを必ずしも意味

しないであろう。中国の文献が日本や朝鮮半島でリライトされるか、または日本、朝鮮牛島から中国に渡

った者が'昔時

の所間を記録することもありうるからである。

「侍」の語る二つの説話は、もとより虚構であるが、かといって歴史事茸と全く無関係ではない。まず北周滅亡の説話に

ついて言えば、楊堅はたしかに北周の外戚であった。ただしその女が嫁いだ相手は、少帝

(『周書』などの史書では静帝という)

閲ではな-へその父の宣帝である。そして宣帝は、史書によれば

l種の暴君で'臣下をみだりに課致し'ために

「内外恐

催し、人自ら安んぜず」(『周書』巷七「宣帝紀」)であったという。帝が病に伏すと、臣下の劉防らが詔を矯

って楊堅を輔政と

したが、皇后楊氏はそれを聞いて、「心甚だ悦ぶ」(『周書』巻九「宣帝楊皇后博」)であった。これが楊氏が帝を試たという話の

生まれたいわば背景であろう。

次に陳の滅亡については、さらに明確な背景を史書の中に求めることができる。周知の如く陳後主'陳叔賓は、史上有

名な風流天子であった。『南史』巷六十七

「粛摩討侍」に

「後主は摩封の妻と通じ、故に摩封は勤兵八千を領するも、初め

より戦意なし」と見え、後王が配下の有力な将軍であった粛摩封の妻と密通したため、それを知

った粛摩封は封隔戦への

意欲を失

ったことを記す。粛摩詞は晴に寝返ったのではないが、「初めより戦意なし」というのはそれに近いであろう。こ

の粛摩詞が

「侍」に述べる妙景のモデルであったと考えられる。ただしこの話がはたして史寅かどうかには'やや疑問が

ある。というのも

『南史』に見えるこの記述が、『南史』が参照したはずの

『陳書』の

「粛摩討侍」の方には見えないから

である。

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大津皇子 「臨終-絶」と陳後主 「臨行詩」

・趨巽の

『廿二史劉記』が、「南史は陳書に於て甚だし-は増別せず」(奄十一)とつとに指摘するように、繭書の内容

は大同小異である。しかしそれでも異同が全-ないわけではな-、現に趨巽は

『陳書』にはな-

『南史』が増補した例と

して、まず第

一に

「粛摩討侍」で、陳が敗れた後、隔婿の賀若弼が粛摩封の頚に刀を富てたところ、着は顔色ひとつ襲え

なかったので'樺して躍遇したという話柄を挙げている。粛摩封の妻と後壬とのことについて趨巽は言及していないが、

ともかく

『南史』の

「粛摩討博」は

『陳書』に比べて幾分の増補があるのである。では

『南史』の撰者、李延毒はいった

い何によって、これらの記述を補ったのであろうか。

中華書局標鮎本

『南史』の出版説明は、李延毒の自序によって、それを物語性と口語性の強い昔時の雅文、「小説短書」

の類であろうと想像している。李延毒の

「上南北史表」(『全唐文』巻一五四)に、「小説短書は産落し易-、腕し或いは残滅

すれば、求勘するも

一とする所無し」と言うのは、李延毒がそのような資料を少な-とも参照していたことを物語ろう。

「粛摩討侍」で李延毒が補った二つの事がら、すなわち粛摩封の妻と陳後主との関係'それに彼が刀を頚につきつけられて

も毅然としていたというのは、なるほど

「小説短書」の話柄に相鷹しいであろう。それでは李延毒が用いたであろう

「小

説短書」的な資料をある程度具髄的に特定できないであろうか。

『障害』「経籍志」の史部

・膏事類に

『開業卒陳記』二十巷が著録されている。開業とは、障文帝の年競、閑里と煩帝の

年競、大業を合わせて言ったものである。この書物は

『新

・奮唐書』の

「経籍志

・重文志」では共に雅史類に分類され

(餐

叫順爪

数は十二雀とする)、撰者は北斉、隔、唐の三朝に仕えた装矩

(五四六-六二七)とされる。書名、それに雅史に分類された鮎

から考えて、その内容は陳滅亡昔時のさまざまな逸事を記録したものであったろう。『奮唐書』巻六十三

「裳矩侍」による

と、彼は博学をもって早-より名を知られ'陳を伐つ役に際しては元師記室、すなわち纏指令官の書記として従軍し、陳

9丁⊥

が平定されると暫壬贋

(後の場帝)の命により、高穎と共に陳の国籍を接収したという。つまり蓑矩は陳滅亡時のありさま

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を葦地に見聞し、かつ陳の宮廷に威された資料を利用できる立場にあったのである。ただし陳滅亡に際してのさまざまな

出来事は、ただちに記録されることはなかったであろうから、『開業卒陳記』は壬に裳矩の見聞によって書かれたであろ

う。「蓑矩侍」は、「開業卒陳記十二巷を摸し、代に行わる」と述べており、この書物は昔時ひろく謹まれていたらしい。

李延毒は苫然それを見たであろう。『開業卒陳記』はすでに逸書のため確認することはむろんできないが、李延毒が『南史』

「甫摩討侍」において先の二つの事柄を補うに際し用いたのは、あるいはこの書物ではなかったろうか。

この鮎をさらに考えるため、次に

『開業卒陳記』についてもう少し述べてみたい。なお

『南史』が記す粛摩封の妻と後

主との関係が、もし

『開業卒陳記』からの引用であったとすれば'撰者装矩の閲歴から考えて、それはあるいは事案であっ

たかも知れない。『陳書』がそのことを書かなかったのは、撰者の桃寮がもと陳の秘書監であったため、奮主のために憤

たとも考えられよう。真相はもとより確認不可能であり'またそれは本稿の目的でもないが'たとえそれが事賓であった

にせよ、ある種の博聞として虞まっていたであろうことは'やはり

『開業卒陳記』の性格を考えることによって判明する。

196

『開業卒陳記』にみえる陳後主の詩

『開業卒陳記』は残念ながら今日侍わらないが、その逸文と覚しきものが幸いにも残されている。元

・陶宗儀編

『説邪』

(明抄本に揺る排印本)巻四十五に収める

『卒陳記』

一巻がそれである。その内容を見ると'陳滅亡にまつわる妖異や詩誠、

童謡が大半を占め、博聞的あるいは小説的と言ってもよい性格がきわめて強い。王朝滅亡にこの種の話題はつきものであ

るが、長らく績いた南北の分裂が終り統

一王朝が出現した昔時においては、ことのほか多-の風聞が生まれたであろうこ

とは想像に難-ない。まして主役は、希代の風流天子、寵妃の張麗筆との閲に有名な

「玉樹後庭花」の詩をはじめ数々の

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大津皇子 「臨終-絶」と陳後主 「臨行詩」

話題を侍える陳後主である。

この

『説邪』本

『卒陳記』の中で、本稿にとって興味深いのは、「沈后詩」と題する次の記事である。

其皇后沈氏者、望察侯君理之女也。以張貴妃樺寵、動経半年不得

一徹。陳主嘗至沈后虞、暫入即還。謂后日、何不留

我也。沈后薦詩目、誰道不相憶、見罷便成蓋。情知不肯任'教我若馬留。

その皇后沈氏なる者は、望察侯君理の女なり。張貴妃寵を擢するを以て、ややもすれば牛年を綴るも

一たびも御せら

るるを得ず。陳主かつて沈后の庭に至り、暫-入りて即ち還る。后に謂いて日-'何ぞ我を留めざるやと。沈后詩をつ

くりて日く、

誰が相憶わずといわん

見ればすなわち蓋を成す

こころにとどまることを肯んぜざるを知れば

我をしていかでは留めしめん

ところで元

・林坤の『誠哲雑記』(『津逮秘書』政)巻下には'右とほとんど同文が出典を記さずに引用されている。そして

そこでは、「卒陳記」での

「何ぞ我を留めざるや」

という陳後主の言葉が、次のような詩になっている。

留人不留人

不留人也去

人を留めるや人を留めざるや

人を留めざるもまた去らん

197

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東 方 学 報

此虞不留入

日有留人虞

此の廃人を留めざるも

自ずと人を留める虞あり

198

したがって先の沈后の詩は、この陳後主の詩に封する答詩となっており、両者比較すると、『卒陳記』の方は陳後壬の詩

を省略したものと思えるのである。なお明

・褐惟納編

『詩紀』巻

一〇八の陳後王の項は、『卒陳録』からの引用として、右

の二つの詩を各々

「戯膳沈后」「答後圭」と題し収めている。『卒陳録』は

『卒陳記』の誤りであろう。

この

『卒陳記』に見える陳後主と沈后の詩が、はたして唐初の蓑矩の原著にあったかどうかには疑問があり、後世の償

託である可能性も考えられようが、しかしそれなりに由来の古いものであることは'詩の一部が別の書物に引用されてい

ることによって確め得る。

右の陳後主の詩の後牛、すなわち

「此虞不留人、自有留入鹿」の二句は、賓ははなはだ人口に胎灸したものであって、

・顔師古の撰と侍える

『大業拾遺記』(別名『隔遥線』)巻上に、「此虞不留償、合有留償虞」と、「人」を

「債」に襲えたか

たちで見えている。ただしそこでのこの二句は'陳後壬の作ではなく、後主の寵妃、張麗筆が語った階の楊帝の作という

ことになっている。『大業拾遺記』が顔師古の著ではな-後人の償託であることは、すでに

『四庫提要』巻

l四三小説家類

存目が'北宋

・王得臣の

『塵史』及び南宋初の挑寛

『西渓叢語』に擦りつつ折じている。しかしこれによれば、おそくと

も末代にはその書は成立していたことになろう。今、南宋末の叢書

『百川撃海』に収める

『隔追録』巻上より、関連個所

を引用する。ことは煩帝が贋陵

(揚州)に遊び、快惚の閲に陳後王と張麗筆に遇ったという小説的設定での問答として見え

る。

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大津皇子 「臨終-絶」と陣後主 「臨行詩」

麗華拝、求帝

三早、帝僻以不能。麗筆笑日、「嘗聞此虞不留債、合有留償虞。安可言不能.」帝強貧乏操触日、「鬼面無

多事、聞名爾許時。坐来生百姫、書簡好相知。」麗筆捧詩、轟然不博。

麗筆拝し、(場)帝に一章を求む、帝僻するに能わざるを以てす。麗筆笑いて日く、「かつて聞く、此の虞われを留めざ

るもtかならずわれを留むる庭ありと。いず-んぞ能わずと言うぺけんや」と。帝強いてこれがために紙を操りて日く、

「面を見れば多事なし、名を聞-ことか-ばかりの時なるに。坐乗百娠生ず、寅に箇の好き相知」と。麗筆詩を捧じて、

頻然と惇ばず。

要するに張麗筆が爆帝の琶作の二句を引いて、爆帝にむりやり詩を作らせたという内容で、やはり

一種の問答形式であ

りかつ話語を伴う鮎が、陣後壬と沈后の場合に似ていよう。煩希の詩の第三句は、この前に張麗筆が帝の求めに鷹じ、立っ

「玉樹後庭花」を舞ったのが、すでに

「往時の姿態無き」ことをからかったもので'麗筆が詩を見てよろこぼなかった

のはそのためであった。『隔追録』には、このような妃境と場帝あるいは陳後主とのやりとり及びその際の詩が多数見えて

いる。鳩惟訴

『詩紀』が、「按ずるに小説家裁するところの後主と腸帝の諸詩は、蔚多-類せず'それ後人の依託たること

疑いなし」と言うのは、主にこの書を念頭に置いての聾吉であろう。

「此庭不留人、自有留人庭」の二句は、さらに近世の戯曲小説などにもしばしば見えている。たとえば元明聞無名氏の

「施仁義劉弘嫁蝉」雑劇

(『艦望館砂校本』)第

一折の王秀才のせりふに、

便好道此庭不留人'自有留水庭、頓、是留人虞。

「.i:I

よ-言うじゃないか、此の庭人を留めざれば、自ずと水を留める虞、おっとちがった、人を留める庭ありとな。

199

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東 方 学 報

とあるように、この語はすでに成語化しており'賓は現在の口語でもよく用いられているのである。

ハU

陳後主と沈后の問答詩及びそれに類する諸作を'『浮名玄論略述』の陳後主とその子の詩と比較すると、いくつかの共通

鮎が浮かびあがる。

まず第

一に、どちらも五言四句と詩型が共通しており、かつ平易な口語的表現を用いた鮎も似ている。次に作者に擬せ

られる人物が複数である鮎が指摘できる。『浮名玄論略述』の陳後王

「臨行詩」については言うまでもない。「戯胎沈后」

詩の後半二首は'既述の如-

『大業拾遺記』ではやや形を襲えて楊帝の詩とされているし、また同じく

『大業拾遺記』に

見える陳後王の小寓詩は、『西渓叢語』(『津逮秘書』収)によれば、膚の方城の詩である。このような作者の不定性は、これ

らの詩の説話的な性格を物語るであろう。第三に、第二の鮎と関連して、これらの詩のl部が元曲や

『水耕侍』などの戯

曲小説に用いられ、成語化している鮎を挙げることができる。これは作者の不定性がさらに進んで無名化したものと見な

しうる。

さらに

『卒陳記』『大業拾遺記』に見える後主と煩帝の詩は、問答髄乃至はある特定の場での求めに鷹じた即興の作であ

る鮎に特徴があるが、『浮名玄論略述』での後主の子の

「年少未敢書」と

「野林無大小」で各々始まる二首も、やはり階の

宮廷において文帝の命によって詠まれた即興の作であった。この二首の作られた状況及びその内容は、たとえば有名な曹

植の「七歩詩」を連想させるものがあろう。後主の二百の「臨行詩」

はそのような設定にはなっていないが、「今夜向誰家」

「請問浮梁上」と、どちらも問いかけになっている鮎を考えれば、あるいはもとは問答形式になっていたのかも知れない。

「黄泉無客主」の句の

「客主」の意味については後にも解れるが、この語もやはり元来は客主の問答を暗示していたとも考

えうる。『漢書』聾文志に

「客主賦」を収めるように、「客主」は問答を連想しやすい語である。問答健の詩に古-から物

語的な性格が濃いことは、李陵、蘇武の詩や

『遊仙窟』などを見れば明らかであろう。

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大津皇子 「臨終-絶」と陳後主 「臨行詩」

むろん両者には相違鮎もある。『卒陳記』『大業拾遺記』の詩がおおむね卒L<を整えた絶句髄であるのに封し、『浮名玄論

略述』の詩は卒抗の整わない古詩である鮎は最も大きな相違である。この鮎から考えると、『浮名玄論略述』の詩の方が'

唐初の

『開業卒陳記』の内容としてはむしろ想鷹しいであろう。確かなことはもとより不明であるが、『浮名玄論略述』の

話がある程度史賓を踏まえていることからしても、その内容及び詩は、陳滅亡後の江南地方で聾生した侍説を反映してい

ると見るのが最も自然である。そして昔時の朝鮮牛島、日本は中国文化を受け入れていまだ日が蔑-'このような侍説や

詩を生み出す状況も、また必要もなかったと考えられる。この鮎についてはさらにもう

一つの傍護がある。

『中論疏記』所引の

『淡海記』について

\.--.I

『浮名玄論略述』の北周滅亡についての博説と全-同じ記述が'卒安時代の僧、樺安燈の『中論疏記』(八〇六年成書)金三

3雌E

に引く

『淡海記』なる書物にも見えることについては、やはり小島憲三氏に指摘がある。『淡海記』の著者は'大友皇子の

W肥刑

曾孫で、『唐大和尚東征侍』の撰者でもある奈良朝随

一の知識人、淡海三船であると考えられている。淡海三船はまた

『懐

風藻』の編者としても、最も有力硯されている人物であった。

『中論疏記』は随所にこの

『淡海記』を引用するが、中に次のような興味深い記述が見られる。

淡海記云、仲尼輿十弟子去於陳図説躍義時、衆人不受'即成葉蘭

(陳?)虞

(伝?)、時飢可死之。爾時有

l人、其形被

鎧。子路走出、打即成死大魚。此魚食時、臣諌日、「不義食之。」孔子日、「是時不以助身。」故云賢聖定業不得脆也。

又論語第五金子竿篇'「子畏於匡、日'文王既没、文不在玄乎。」邸玄日、「匡人誤園夫子'以薦陽虎。陽虎嘗暴於匡人。

201

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東 方 学 報

夫子弟子魁額、時又輿虎行。後角夫子御、至匡。匡人相輿識魁、夫子容貌輿虎相似、故匡人以兵両国之.

ウム

『淡海記』に云う、仲尼'十弟子と陳園に去き躍義を説きし時、衆人受けず'即ち葉蘭

(陳?)の虞

(厄?)を成す。時

に飢えて死すべし。この時

一人あり、その形鎧を被る。子路走り出で、打てば即ち死せる大魚と成る。此の魚を食べし

時、臣諌めて目上

「不義にしてこれを食す」と。孔子日-、「この時以て身を助けざるや」と。故に云う、貿聖の定業

は腕るるを得ざるなりと。

『論語』第五金子軍篇に'「子匡に畏れ日-、文王既に没す、文蕊に在らずや」と。鄭玄日く'「匡人誤りて夫子を

囲み、以て陽虎となす。陽虎かつて匡人に暴す。夫子の弟子魁額、時に又虎と行き、後に夫子の御たりて'巨に至る。

匡人相ともに魁を識り、夫子の容貌虎と相似る、故に匡人兵を以てこれを囲む」と。

右の引用前車の

『淡海記』の文章にはおそら-誤字が相嘗あり、また日本語風の語順の部分もあって、正確な意味を捕

捉し難いが、要は孔子とその弟子が所謂陳寮の厄に際し、突然現れて子路に殺された男が化した魚の肉を食べ、飢えを免

れたということであろう。この奇妙な話はその奇妙な文髄と相侯って、それが日本で勝手に作られたものであろうという

3Ⅶ爪

印象をあたえようが'賓はそうではない。次に引-干賓

『捜紳

巻十九の記事は'右と同じ話である。

孔子厄於陳、絃歌於館中。夜有

一人、長九尺飴、著宅衣高冠、大蛇、馨動左右。子貢進問、「何人邪。」便提子貢而挟

之。子路引出、輿戦於庭。有頃、未勝。孔子察之、見其甲車閲時時開如掌。孔子日、「何不探其甲車、引而奮登。」子路

引之、投手什於地、乃是大醍魚也、長九尺錬。孔子日、「此物也、何薦来哉。吾聞物老則群精依之、因衰而至。此其来也、

豊以吾遇厄絶糧、従者病乎.夫六畜之物'及亀蛇魚鷺草木之属、久者紳皆悪依、能馬妖怪、故謂之五酉。五酉者、五行

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大津皇子 「臨終-絶」と陳後主 「臨行詩」

之方'皆有其物。酉者老也、物老則馬怪'殺之則己、夫何患蔦。或者天之未喪斯文'以是繋予之命乎。不然何番至干斯

也。」絃歌不軽。子路烹之、其味滋、病者興。明日遂行。

孔子陳に厄し、舘中に絃歌す。夜

l人あり、長九尺錬り、白衣高冠を著し、大いに托り、馨は左右を動かす。子買進

みて問う'「何人なるや」と。すなわち子貢を提げてこれを挟む。子路引き出で、ともに庭に戦う。頃あるも未だ勝たず。

孔子これを察し、その甲車の聞時々に開-こと掌の如きを見る。孔子冒-、「何ぞその甲車を探り、引きて奮登せざるや」

と。子路これを引けば'手を没して地に什る。すなわち大醍魚なり。長さ九尺錬り。孔子日く、「此の物や、何すれぞ乗

たるや。吾聞-に物老いれば則ち群精これに依るは、衰うに困りて至るなりと。此れその来るや、豊に吾れ厄に遇い糧

を絶ち、従者病むを以てなるか。それ六畜の物及び亀蛇魚柴草木の魔、久しき者は紳みな潰依し、よ-妖怪となる、故

にこれを五酉と謂う。五酉なる者は五行の方、嘗その物あり。酉は老なり。物老ゆれば則ち怪となる。これを殺せば則

ち己む、それ何ぞこれを患わん。或いは天の未だ斯文を喪さず、これを以て予の命を繋ぐか。然らざれば何すれぞ斯に

至るや」と。絃歌して頼まず。子路これを烹る。その味滋し、病者輿-。明日速に行-。

『捜紳記』のこの記述は'『淡海記』に比べてより整理され、かつ詳細ではあるが、話の内容は両者基本的に同じである。

この荒唐無稽な話は

『論語』が述べる陳薬の厄に際Ltなぜ孔子と弟子は飢死にせずにすんだのかという疑問に封する説

明になっており、所謂志怪小説なるものの起源の一つが、『論語』等の儒教経典の解樺にあったことを知りうる鮎で興味深

い。もしこの話が

『捜紳記』に採録されていなかったなら、『淡海記』の記述内容が元来中国のものであるかどうかは、お

そら-大いに疑問視されたであろう。そして両者比較してみるならば、『淡海記』が

『捜紳記』もし-はさらにそれを潮る

E3ウム

中国のなんらかの原資料を、日本で-ライトしたものであることは明らかである。このことは一般に昔時の日本人撰述の

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東 方 学 報

悌敬文献に見える奇異な内容の記述が'決して日本で作られたものではな-、原接は中国にあ

ったことを物語っていよう。

J今

『浮名玄論略述』の場合も事情はおそらく同じであって、なんらかの中国文願をリライトしたか、あるいは中国での博聞を

記述したものと考えるのが安富である。ただし中国ではその原資料がすでに亡侠したか'あるいはそもそも単なる口頭の

風聞にとどまり記録されなかったのであろう。

なお先の引用の後半についでに記した

『論語』子竿篇に封する鄭玄の注は、賓は何妻の

『論語集解』に包成の注として

引-ものと同文である。ただ

『論語集解』では弟子の名を顔魁とするのを

『中論疏記』の方は魁額に作るが、これは

『中

論疏記』の書寓段階あるいは翻印の際の誤記であろう。周知の如-、『論語』の鄭玄注は早-に散供し'現在では敦煙で聾

見された敷種の寓本及びトルファン出土の有名なト天寿抄

『論語』などによって部分的に知りうるのみである。そしてそ

れら出土尊兄寓本の鄭玄注は、『論語集解』では往々にして孔安国あるいは包威の注と重なることが指摘されており、唐代

I,Tl]

すでにこの三者の注が混清していたことが分るのである。とすれば、『中論疏記』の鄭玄注をあながち誤りとは決められな

いのであって、むしろこの一候を包成ではな-鄭玄の注とする中園の文献を反映している可能性は高いであろう。『論語』

鄭玄注輯本にはむろんこの候は採られていないが、少な-とも侠文に準ずるものと見て差支いない。このこともこれらの

資料が中国の文願をかなり忠賓に踏まえていることの一つの傍謹たりうるであろう。

『浮名玄論略述』所引の

『侍』と智戒

以上、『浮名玄論略述』所引の

『博』に見える北周及び陳滅亡の侍説とそれに附随する陳後主とその子の詩が日本で作ら

れたものではなく、その原接が中園にあったとする筆者の考えのあらましを述べた。もしこの考えが正しいとするならば、

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大津皇子 「臨終一挺」と陳後主 「臨行詩」

ではそれはどのようにして日本にもたらされたのであろうか。そこで注目されるのは

『浮名玄論略述』の撰者'智光の師

である智戒である。智戒は入唐僧であった。その侍は

『懐風藻』に見える。

智戒師者、俗姓禾田氏。淡海希世追撃唐図、時呉越之聞有高撃尼、法師就尼受業。六七年中、学業穎秀。同伴僧等頗

有忌害之心。法師察之、計全躯之方'逐被髪陽狂。奔蕩道路。密寓三蔵要義、盛以木簡、著漆秘封、負据遊行。同伴軽

蔑、以馬鬼狂、逐不薦害。太后天皇世、師向本朝。同伴登陸、曝涼経書'法師開襟封風日、我亦曝涼経典之奥義、衆皆

噂笑、以鵠妖言。臨於試業、昇座敷演。節義峻遠'音詞雅震。論難蜂起、厳封如流。皆屈服莫不驚骸。帝嘉之'拝僧正。

時年七十三。

あわ

智戒師は俗姓

氏。淡海帝の世に唐園に道学さる。時に呉越の閲に高撃の尼あり、法師尼に就きて業を受-。六七

年の中に学業穎秀たり。同伴の僧等、頗る忌害の心あり。法師察して躯を全-せん方を計り、速に被髪陽狂Lt道路に

奔蕩す。密かに三蔵の要義を駕Lt盛るに木簡を以てし、漆を著けて秘封し、負据遊行す。同伴軽蔑し、以て鬼狂とな

し'速に害をなさず。太后天皇の世に、師本朝に向う。同伴陸に登り、経書を曝涼す。法師襟を開き風に封して日く、

「我もまた経典の奥義を曝涼す」と。衆みな噂笑し、以て妖言となす。試業に臨み座に昇りて敷演するに、解義峻遠にし

て音詞雅麗、論は蜂起するといえども、魔封流るるが如し。みな屈服し驚験せざるなし。帝これを嘉とし僧正に拝す。

時に歳七十三。

智戒がいつ入居したのかは明らかでないが、淡海帝すなわち天智天皇の時と言えば、天智四年

(六六五)の第五回あるい

(22)

は天智八年

(六六九)の第七回の遣唐使に随伴してであったろう。第六回の遣唐使は唐に至

っていな

い。

この頃'唐は高宗

205

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東 方 学 報

の世、陳朝滅亡にまつわる侍説はいまだ語られていたであろうし、裳矩の

『開業卒陳記』もすでに流布していたはずであ

.c

る。しかも智戒は、呉越の地の高撃の尼について六七年も勉学したというのである。呉越の地は言うまでもなく陳の故地

である。後主に関する侍説が他の地よりも熱心に語られていたに相違ない。そして尼という身分は、そのような世閲の風

聞、侍説を語り侍えるにはきわめてふさわしいものであろう。

さらに智戒は

1般の僧とはよほど性行の異なる人物であ

った。髪をのばし狂人をよそおって各地を遊行したとすれば、

ふつうの学僧では知りえない唐紅合のさまざまな世俗的側面に解れる機合も多かったであろう。しかも彼は聴明で記憶力

に秀でていたらしい。

『懐風藻』の語る智戒の人物像から考えると、彼が呉越の地において、あるいは尼を通じてあるいは遊行の道中で、陳後

主などに関する嘗時の侍説及び詩を聞-か'それについての文献を入手し、日本にもたらした可能性は、むろん想像の域

を出ないが、大いにありそうなことと思えるのである。『浮名玄論略述』に引かれた

『侍』は'智戒が唐土での博聞を自ら

記録したか、もし-は唐からもちかえった文献をリライトして'弟子の智光に侍えたものではないだろうか。

陳後壬

「臨行詩」と大津皇子

「臨終

一絶」

さて

『浮名玄論略述』の侍誼と詩が中国で出来、日本にもたらされたものだとすると、次はいよいよ最後に陳後壬の詩

と大津皇子の詩との関係が問題となる。すでに述べた如-、両者はほぼ同時期に井存していたのであり、時間的前後関係

を外的候件によって明らかにすることはできない。したがって残された方法としては'両者の表現の相違を比較検討する

以外にはないであろう。そこで繭詩を次にもう

一度示すことにする。

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大津皇子 「臨終一挺」と陳後主 「臨行詩」

陳後壬詩

鼓馨推(推)命役(短?)、日光向西斜。黄泉無客王、今夜向誰家。

大津皇子詩

金烏臨西合、鼓馨催短命。泉路無寅壬'此夕誰家向。

1T7)

大津皇子詩の末句の

「誰」は

一に

「離」に作る

'

前稿で述べた如-'これが字形の類似によって日本語的な語順を改

めようとした結果であることは、

一連の臨刑詩を見れば明らかであり、原作は

「誰」であったに相違ない。

まず両者で異なっているのは叙述の順序であり、これについては陳後王詩は他の臨刑詩と共通しており、大津皇子詩は

孤立している。またこれに関連して、大津皇子詩の末句は中国語としては不自然な語順になっており、それはまた押韻字

の相違にも影響している。大津皇子詩の

「命」「向」の二字が、少な-とも作者の意識においては韻を踏むと考えられてい

たであろうことは'やはり前稿で述べた。ただこのような中古音の曾梗摸

(⊥ng)と江宕掻

(・ang)が押韻する例が、『懐風

藻』には他にもある事案をここで補っておきたい。それはほかならぬ智戒の「秋日言志」詩における「情

・聾

・驚」と

「芳」

(24)

の押韻、および智戒のすぐ後に作品が配列される葛野王の

「春日翫鷺梅」詩での

「馨

・情」と

「陽

・腸」の押韻である。

大津皇子の詩は賓は智戒のすぐ前に置かれているのであり、

この三人の詩に同じような押韻現象が見えることは、

『懐風

藻』初期の詩人たちがこのようなやや古めかしい語音牒系を共有していたことを物語るであろう。しかしそれにしても大

津皇子詩の

「命」と

「向」は他の二例とちがってL<馨であり、これが破格の押韻であることに蟹りはない。

繭詩を比較して次に気がつく鮎は'語嚢の相違であろう。繭詩の閲では、「日光-金烏」「責泉-泉路」「客主-賓主」「今

2(フ7

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東 方 学 報

夜-此夕」の如-、同じ事がらを意味する別の語嚢が用いられているのである。そして陳後主詩の語嚢がどれも平易な日

常語であるのに封して、大津皇子詩が用いたのはややひねった詩的な言語であると言

ってよいであろう。その中でも

「客

主」と

「賢壬」は、前稿でも腐れたが'本稿の問題を考える上で重要な意味をもっている。

「客主」と

「賓主」はともに

「賓客と主人」を第

一義的に意味しよう。しかしこの場合、この第

一義的な意味は明らかに

相鷹し-ない。なぜならもし葺泉への道に、主人はともか-客すなわち死者がいないのならば'「今夜

(此夕)誰が家に向わ

ん」という本句は主語を失い、この詩全健がナンセンスにおち入ってしまうからである。したがって

「客壬」にしろ

「寅

壬」にしろ、ここでは賓客をもてなす主人という意味でなければならない。

ところで客主には、『三国志

・魂志』巷七

「呂布侍」の許氾のせりふに、「昔乱に遭い下郡を過り元龍を見るに、元龍は

客壬の意な-'久し-相ともに語らず」とあるように、「客主」と言いながらどちらかと言えば

「主」に重きを置いた用法

がある。右の

「客王の意」とはまさに

「客をもてなす主人の気もち」を意味しよう。しかるに

「寅王」の方には'そのよ

うな意味を期待することが困難である。

そもそも

「異同」「是非」のように封立する二語の組合せがどちらか

一方のみを意味する偏指的用法は口語にこそ生まれ

やすいであろう。「客主」はふつうの日常語であるが、賓王は『躍記』などの経書に典壕をもつ古典語であり詩語であった。

現に索引類やコンピューターによる検索を試みてみると、六朝隔唐の詩に

「賓主」は頻出するが'「客壬」は

一例も見出す

ことができないのである。「客主」は明らかに詩語ではない。また、「客」には旅人の意味があるが、「寅」にはな-、その

鮎でも

「寅王」はこの詩に相厳し-ない。

以上の考察によってはぼ明らかとなったことは'だれかが陳後壬詩の語嚢をより詩語として相厳しい同義語に入れ替

え、かつ叙述の順序や語順を組み替えたという事賓であろう。その結果できあがった大津皇子詩は、やや無理のある韻を

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踏むことになり、さらに

「客主」と

「寅主」の意味の相違に気づかなかった改作者の不注意によって、いわば馬脚を露す

ことにもなった。泉路に寅も主もいないのであれば、この詩は成り立たない。

(25)

すなわち厳密に言えば'大津皇子

「臨終

一艇」詩は通じない詩なのであ

よしや

『懐風藻』が何らかのルートによっ

て中国に渡り、中国の文人の目にとまったとしても、この通じないしかも奇妙な押韻の詩の影響のもとに、五代の江馬以

下の歴代の臨刑詩が生じたとは到底考えられない。「臨終

一絶」はやはり中国の詩をもとに改作されたものであろう。

ではだれが何の目的でこのような改作を行ったのであろうか。だれがについては、これまでの記述から智戒あるいは淡

江三船などを想定できるかも知れないが、もとより推測の域を出ない。ましてその目的に至っては、推測をも越える問題

である。

大津皇子 「臨終-絶」と陳後壬 「臨行詩」

T甘 T T T T T注_J\J) ) ) ) )小島憲之

『高菜以前-

上代人の表現』(岩波書店

一九八六)第三

辛.潰政博司

『H中朝の比較文学研究』(和泉書院

一九八九)第二郡

「大津皇子臨終詩と金型嘆

・成三間-

日中朝の臨刑詩の系譜」、同

「大津皇子臨終詩群の解搾」(『和漢比較文学叢書』第九金、『常葉集と

漢文学』汲古書院

一九九三)0

金文京

「責泉の宿-

臨刑詩の系譜とその背景」(『興膳教授退官記念

中国文学論集』汲古書院

二〇〇〇)0

『日本大蔵経』方等部章疏五

収。

・宋揮元輯

『儀花壷叢書』(光緒十三年刊)収。

『古本戯曲叢刊』第四集収。

『景印文淵閣四庫全書』(墓漕商務印書館)第

1二三筋。

鏡南揚校注

『永楽大典戯文三種校注』(中華書局

一九七九)収。

1615141312 11109 8

『韓国歴代文集叢書』44

(景仁文化敢

ソウル

一九九三)0

周作人

『苦竹雑記』(上海良友国書

一九三六)収。

劉百閲等著

『中日文化論集』(中華大典編印含

量北

一九五五)。

何冠彪

『戴名世臨刑詩粥償』(『中華文史論叢』

l九八三-三

中華書

局)に引用。

(-)前掲論文。

『日本大蔵経』第十般若郡章疏

-『大日本俸数全書』第六。

『日本古典文学大系』三

『寓葉集』一(岩波書店

一九五五)の注参照。

興膳宏

・川合康三著

『惰書経籍志詳考』(汲古書院

一九九五)参照。

「留水」は

「流水」すなわち

「流水帳」(帳簿)にかけた酒落。王禿才

は帳簿

つけが仕事であった。

『大正大蔵経』No.22550

(-)前掲書。

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東 方 学 報

(19)

伊藤陸幕

「安燈の引用せる諸法稗書の研究」(『駒滞大草係数学部論集』

巨 :

第八戟

一九七七)、松本信道

「安澄

『中論疏記』所引

『淡海記』逸文

(覚書)」(『図書逸文研究』第十六戟

l九八五)参照。

江紹概校注

『捜紳記』(中華書局

一九七九)0

「唐景龍四年寓本論語鄭氏注残金説明」(『考古』

一九七二~二)、金谷

治編

『唐抄本都民注論語集成』(平凡社

一九七八)の

「鄭玄と

『論

語』」三

「『郡玄注論語』に関する問題」参照。

(22)

木宮泰彦

『日華文化交流史』(冨山房

一九五五)第二章

「遣唐使」参

照。

(23)

諸本のうち

「誰」に作るのは、群書類従本と林家本である。群書類徳

本と他本との関係については、山岸徳卒

「懐風藻概論」(『上代日本文

学講座』第四巻

春陽堂

一九三三)、足立伺計

「懐風藻の諸本」(『皇

学館史学』創刊戟

昭和六十

1年)、沖光正

「懐風藻の講究本」(辰巳

正明編

『懐風藻-漢字文化圏の中の日本古代漢詩』笠間書院

平成

1

二年)など参照。但し諸家の見解は必ずしも

一致しない。後考を侯つ。

(24)この他'中臣大島

「詠狐松」は

「明

・天

・柴

・樫」と押韻しており、

「天」は全-の破格となる。問題の第四句は'「貞質指高天」であるが'

「高天」はあるいは

「高冥」の誤りであろう。『後漢書』寮監侍に、「抗

志高冥」とあり、「高天」と同義、かつ下牛部の字形が似る。『懐風藻』

の押韻については'吉田幸

一「懐風藻の押韻について」(『国学院雅語』

第四三巻

一二戟

・同第四四巻

l競

昭和

一二・十三年)、月野文子

「懐

風藻の押韻-韻の偏りの意味するもの」(『和漢比較文学叢書』第二巻

汲古書院

昭和六

一年)'黄少光

「懐風藻と中国の詩律撃」(娃23前掲

辰巳正明編書)など参照。

(25)

ただし庸

・丘馬の

「尋西山隠者不遇」

詩に

「離無賓主意'頗得清浄理」

とあり'「賓主」を主人の意に用いた

例が'全-ないわけではない。

本研究は、共同研究

「文献と情報」(班長

勝村哲也)の報告である。

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