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Title 梁啓超 : 西洋近代思想受容と明治日本 : 共同研究( 梁啓超 の仏学と日本 / 森紀子 ) Author(s) 狭間, 直樹 Citation みすず書房, 1999, 421p. Issue Date 1999-11 URL http://hdl.handle.net/2433/68936 Right Copyright © 1999 Misuzu Shobo. All Rights Reserved. Type Book Textversion publisher Kyoto University

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Title 梁啓超 : 西洋近代思想受容と明治日本 : 共同研究( 梁啓超の仏学と日本 / 森紀子 )

Author(s) 狭間, 直樹

Citation みすず書房, 1999, 421p.

Issue Date 1999-11

URL http://hdl.handle.net/2433/68936

Right Copyright © 1999 Misuzu Shobo. All Rights Reserved.

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Kyoto University

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梁啓超の仏学と日本

森  紀子

 晩霜の思想界を担う大半の人士が仏学の研究に熱心であったことを指摘し、仏学を清末思想界の伏流として思想史

上に自覚的に位置づけたのは、他でもない梁啓超その人であった。すなわち、一九二〇年一一月から翌一九二一年一

月にかけて『改造』に連載された「前清一代中国思想界之蜆変」の二八章が晩清の仏学に言及した部分である。この

                                   (1)

論文はさらに加筆された上で、有名な『身代学術概論』としてただちに出版された。

 ちなみに、日本においてはこれより早く稲葉君山が、一九一四年の『清朝全史』(「公羊派の仏説」)、あるいは一九

一六年の『近世支那十講』(「公羊家の仏説」)において、襲自暴によって公羊派と仏教が儒者の問において結びつけら

れ、この派の多数が公然と仏弟子の名乗りを上げていることを、「最近八○年内に起こりた」特色として注目し、そ

                 (2)

の系統をたどって梁啓超にまで至っている。

 ところで、梁啓超は一九二〇年代に、学術的性格の強い一〇数篇の仏学研究の著述をまとめており、その仏学思想

                           (3)

については、最近の梁啓超研究でもよく言及されるようになった。しかし、彼の啓蒙活動を支える応用哲学としての

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仏教思想は、清末の思想形成の過程に早くも現れている。本稿ではこの問題を進化論、死生観との関わりから内面的

に検討するとともに、彼の仏学研究に対する日本の思想界の影響を探っていきたい。

、清末の仏教

 清末の知識人、とりわけ公羊派人士の仏学への傾倒に関して、先に稲葉君山の指摘を紹介しておいたが、翠蔓超み

ずからも、すでに一九〇四年、『新女盛報』五八号掲載の「南中国学術思想変遷之大勢(最近世)」において、次のよ

うに言及していた。

遅桜庵が好んで仏(学)に言及してから、昨今の学界を代表する数君子は、おおむね定庵に淵源しているので、

皆また仏学を治めるようになった。南海、壮飛(讃嗣同)、及び銭塘の夏穂卿(夏曾佑)の如きがその人である。

その根器の深厚により、あるいは証するところが定置を越えていたとしても、要するに勤王がその導師であった。

                               (4)

私はそれをよく知っている。定庵と学界との関係は誠に複雑なものであった。

本日と学仏の超啓梁

陽すなわち、康有為ら公羊派の人士が仏学に流入したことは、やはり襲自珍に、その淵源の一つが求められるのである。

                                 (5)

梁によれば、聾自珍の仏学とは「禅宗を排し、子下三家(天台、法相、華厳)を術」めんとするものであったとされる。

 また謂嗣同について語るとき、梁はその思想背景に湖湘学派の存在を挙げる。すなわち、謡初には灌没していたも

のの、その遺書の刊行によって清末民初の知識人にはあまねく知られることとなった王船山の影響である。

船山は仏学に対して大いに研究があり、しかも学んだものは法相宗であり、著作に「相宗絡索」がある。近二〇

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年では、法相宗は復活し研究する人も多く決して珍奇なものではないが、しかしその時代にあっては、仏教方面

は完全に禅宗と浄土宗の占領するところであり、学理を研究する人はなかった。彼は独り二百年前にあって、玄

 以後、中断していた糸口を祖述したのである。独特な見解というべきであろう。かつ、当時の儒学の末流は狂

禅を養成し、明らかに仏教を学びながら、仏教と関係があるとは死んでも認めようとしなかった。彼は独り大胆

にも儒学を研究し同時にまた仏教を研究していささかも隠そうとしなかった。これはなんと爽快なことであろう。

(中略)近世の曾文正(国国\胡文忠(林翼)はともに彼の薫陶を受け、最近の讃嗣同、黄興もまた彼の影響を受

  (6)

けている。

つまり梁啓超は、襲自軍、王船山という強烈な個性の思想家が、それまでの禅と浄土という中国仏教の大勢を破る形

で、学理としての仏学(法相宗)に沈潜していったことが、それぞれ学統として清末知識人に影響している、と説明

するのである。

 ところで、清末の仏学興隆の立て役者としては周知のように楊面会がいる。一八六四年、『大乗起業論』を一読し

てより入信した彼が、その後仏典の収集に努め、南条文雄との交流の中で、一八八○年、『成唯識論険要』等の仏教

文献を中国にもたらし、清末知識人の仏学研究への環境を大いに準備したことはあまりにも有名である。当然、梁啓

超もそれを指摘する。

文会は「法相」「華厳」の両三に深く通じ、「浄土」信仰を学者に教えたのであって、学者は次第に彼を尊敬する

ようになった。諜嗣同は彼に従って遊学すること一年、彼から学んだ学問をもとにして『仁学』を著わした。こ

とに、つねつね友人の梁啓超を鞭具したので、梁啓超は、深く極めることはできなかったが、やはり仏教を好ん

で、しばしば仏教を推奨している。康有為はもともと好んで宗教を語り、しばしばみずからの意見に従って仏説

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を論評した。比量麟もまた法相宗を好んで著述がある。したがって、清末のいわゆる新学家は、ほとんどだれひ

                                              (7)

とり仏教と関係をもたなかったものはなく、真の信仰をもったものは、おおむね楊文会に帰依したのである。

拙蝉刎超啓

梁嘲

 梁啓超自身についてみれば、一八九一年、康有為の万木草堂において、宋元明儒学案、二十四史等の歴史書、周秦

諸子の書とともに仏典を学んだというのが、仏学への接近の一歩であったとされる。ただ、この時、康有為の説いた

仏学が、どのようなものとして梁に受け取られていたのであろうか。「先生は陽明学より仏学に入る。故に最も禅宗

              (8)

に力を得、華厳宗を以て帰宿と為す」とあるように、康有為にあっては華厳とともに禅宗への傾倒が語られ、当時の

                                          (9)

梁聖業は「先生又常に為に仏学の精奥博大を語るも、余、夙根浅薄、説くるところ多きこと能わず」という次第であ

った。

 梁庶男の仏学受容に関しては、「青年時代の勉学において最も影響を受けた導師」と回想される夏季佑との出会い

が重要とされる。前述のように、夏曾佑もまた楊文会とは深い交流があった。早くから唯識学の価値を認識し、謂黒

山、梁啓超に強い影響を与えたこの夏曾佑との交遊の様子は、「亡友夏穂卿先生」の一文によく紹介されており、日

清戦争後の沸きたつような世相のなかで変法思想を形成していった彼らが、どのような雰囲気で新学を、そして仏学

                                       (10)

を取り入れていったかは、島田盧次氏の訳文をもって、我々にもなじみのものとなっている。

 仏学の同志としては、さらに呉季清、撃鉄樵父子との交流がある。京師で強学会の成立に奔走していた梁は、諌嗣

同、呉鉄樵と兄弟の約を結び、一日目して離れたことはなかったと言う。撃鉄樵は算学に長け、算学で哲理を談じる

                                   (11)

ことを好んでいた。讃賢息の『仁学』には彼の説が多く取り入れられているという。また彼らは呉季清に親しく父上

していたが、呉季清は仏壇に通じ双遣居士と号していた。一八九九年、知県として漸江西安県に赴任したが、義和団

の乱に連動した漸江江山県の仇教運動の中で惨殺されるという悲劇の人であった。上海の『時務報』の発起人の一人

  (12)

でもある。

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畷 さて、一八九六年頃、上海の梁啓超と頻繁に交際していた顔ぶれの中に、宋恕、壁面喧の名が見えることも注目に

                            (13)

値する。出身、学統等複雑に錯綜する当時の維新派の人脈において、宋恕は古文派であり、経学の立場の違いや、張

記号への反発から、康、梁とは一線を画しつつも、彼らの変法活動を高く評価し、夏土量とは見解が頗る近いとみず

からいう。ちなみに、章段麟が仏教に開眼したのも、宋恕、夏曾佑のすすめで仏典を読みはじめ、『大乗起信論』に

        (14)

心酔したからであった。車曳章の姪婿であり、宋恕の友人である里中喧の日記には、彼らの交遊ぶりが克明に記され

ている。八

月十四日(一八九六年、九月二〇旦、胎生、卓如、穣卿、畢生の諸氏を一品香に招いた。最近の科学の成果の

多くは、期せずして仏教の教理に合致している、そこで人々はようやく仏教の書を尊重するようになった、科学

はついに仏教と並んで世に行なわれている、などと大いに論じ合った。

十九日(一八九六年、九月二五日)、昼過ぎ、讃復生のところに行き、燕生、雁舟、穣卿、仲立、卓如、および復

生の七人で一枚写真をとった。ある者は跣坐し、ある者は背をもたせて坐り、ある者は左呈して右膝を地につけ、

                      (15V

ある者は長脆するなど、そのポーズはさまざまだった。

この写真については、後日にまた記事がある。

三月二十八日(一八九七年、四月二九日)、晴。「周礼注疏」を覧る。前に謳塾生ら七人と一枚写真をとったが、仲

巽が私に題をつけるよう依頼した。私は簡略な践文数語をつくって云う、丙申の秋、海上に同志七人と集う。日

          マ  マ

く呉雁舟嘉瑞、曰く忍目生態同、曰く宋燕生恕、曰く梁忍目啓超、日く涯穣卿康年、曰く胡仲遜惟志、曰く孫仲

愚宝喧。その人多く円教を喜ぶ統にして、北海に游ぶことを志し、一日ともに光学中に現身す。すなわち偶をつ

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くりて云う、幻影はもと真にあらず、鏡を顧みて狂号するなかれ。他年法界の人は、

     〔絡)

当日の竹林の友。

本日と

学仏の超啓梁籾

 彼ら仏学愛好の同志達が、科学(それは光学でもあり、写真でもあるわけだが)と仏学の間に学理上の一致をしきりに

求めている、このような無邪気なありさまにも、当時の新学、仏学受容の時流としての特徴が鮮やかにみられる。

 しかしながら、日記からみる限り、孫宝喧や着駅は、禅と浄土の間で揺れ動いているのであり、後に梁啓超が総括

していくような批判的見解を、この二宗に対して抱いていた様子はない。孫宝喧の結論は、浄土が仏門の拠乱の統で

あり、阿弥陀仏を念ずるのは基督教人が上帝に帰依するのと同じであると見極め、先に浄土を学んで、のち禅に進も

              (17V

うとみずから納得するものであった。

 当時の長里超は実に多忙で、仏経を読み「真如生滅両門の情状において彷彿と見るところがあるようなのに、透徹

することができません。人事に煩わされ、久しく六根の駆役を受けて自主することができず、日に益々堕落の恐れが

             (B)

あります」と夏曾佑に訴えている。そんな中で、満鉄樵が浮彫で急死したという知らせが彼を撃った。長子を失った

呉季清の悲嘆を慰めるべく差し出された梁の書簡の中には「そもそも留書の出家の念は今日に始まったことでもなけ

れば、彼独りだけのものでもありませんでした。穂卿も、畢生も、啓超も、皆久しくこの願を発し、機縁がないのに

                                  (19)

苦しんでいるだけです。鉄樵がまだ機縁に遇わなかったのは我々と同じなのです」と彼と友人達の出家への想いが綴

られている。

 ところで、この入山の願望は、前年の康有為にあてた書簡にもしばしば言及されている。彼は入山によって、学問

を完成させ、その教学によって無量世界を救おうとしたのである。

弟子が自ら思いますに、学業はまだ不十分であり、数年間山にこもるという志を大いに持っております。ただ手

をつけたあらゆることがまだ捨てられないだけです。近ごろは、算学、史学を学び、また内典(小乗経を読み、旧

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m教に得るものが頗る多く、また律、論を読んでいます)を読み、見解は昔より進歩があるようです。仏法に帰依し、

吾が教の太平大同の学はすべてバラモン旧教にあり、仏が唾棄して語るに足りぬとしたものだと密かに考えるほ

                                   (20)

どになり、平生学んだものが拠り所を失ったような感じです。どうしたものでしょう。

ここでは、梁面立がそのいきさつは不明ながら、小乗経を読んでいるということ、仏法の前には太平大同の学もバラ

モン旧教と同質のものかと疑念を抱きかけているということに注目すべきであろう。このバラモン旧教への言及には、

厳復訳の『再演論』が刺激になったと推察できる。梁啓超は一八九六年には『天堂論』の原稿を目にしているはずで

あり、その「冥往」「真幻」「仏法」等の篇にバラモンの旧説が登場しているのである。スペンサーの不可知論を知る

きっかけになったことも含め、『天象論』は彼の仏教思想形成にも大きな役割を果たしたはずである。

私は以前報館で、吾が党の志士はみな数年間山にこもり、そうして始めて世に出るべきだという議論を発しまし

たが、君勉(徐勤)等諸君に大笑いされました。(中略)我々の宗旨は伝教にほかならず、政治活動ではないのだ、

地球及び無量世界の衆生を救済するのであり、一国を救済するのではないのだということが分かっていないので

                    (21)

す。一国の滅亡が私と何の関わりがありましょう。

この時期、公羊学、仏学、新学と混沌たる思想の種子を内に宿した維新の志士、梁啓超の情熱は、広大無辺の無量世

界の救済に向けられていた。救済の手段は伝教であるが、その教義も梁の内面では重層化が始まっている。すなわち

孔教の世界主義の基層に仏教の無量世界が広がり、公羊の三世説を唱えながら、小乗経の四諦十二因縁説、過去現在

未来の三世両重の因果説が滑り込んでくるのである。いみじくも、政変に敗れ亡命してきた梁啓超を迎えた日本の新

                                                (22)

聞も、その人となりを「好んで玄理を談じ仏眼の身を捨てて一切衆生を済度するを愛慕せり」と紹介したのであった。

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二、宗教の効用

細蝉釧超啓

梁卸

 戊戌の維新が讃嗣同等の流血を見ずにはすまなかったことが、難を逃れ、亡命した豊肥超にとって悲痛な衝撃でな

かったはずはない。彼らにあって今まで観念的に志向されてきた衆生済度の、生死を賭けた実践が目の前に生悟現化さ

れたのである。この雲量同等の自己犠牲が意味を失わないための論理、死者と生者をつなぐ論理が、生き残った者の

ことばとして、どうあっても表出されなければならないだろう。しかしそれには、政治課題の明確化とともに、大き

な座標軸の転換をともなう内面的整理作業が必要であった。

 一八九九年五月一三日、梁啓超は、東京麹町富士見軒において開催された、日本哲学会春季大会の最後に「論支那

宗教改革」を朗読している。席上、彼を紹介した姉崎正治は『インド宗教史』等の著作を持つ、日本の宗教学の草分

けである。姉崎を頭とする日本の宗教学者達の業績は、以後、大いに梁啓超の活用するところとなる。ただし、この

時の梁の講演の内容は、なお康梁変法派として孔教の六大主義(進化、平等、兼善、強面、博包、重魂)を主張するもの

であった。ただ、声声を説くその弁論には、例えば孔子の教えを小康教派(萄子等)と大同教派(孟子等)の二野に分

け、その抗争を仏教の大乗小乗の関係に見立てたり、兼善主義の説明に孔教の仁慈と仏説の慈悲を併置し、博包主義

の説明に「華厳法界、事事無擬、事理無擬」を持ち出すなど、仏教との比定に努めていることは、後の展開から見て

    (23V

示唆的である。

 周知のように、梁啓超の工芸に対する情熱は康有為とは同質であり得ず、持続されることもなかった。梁上超が、

宗教家康有為を描いて、その仏教の受容の深いこと、キリスト教に対しても見解を有していることをいい、それにも

関わらず、「先生の中国に布教するや、専ら真教を以てし、石瓦を以てせず。吐棄するところあるにあらず。実に民

                (24)

俗歴史の関係にして、しからざるを得ず」と分析するとき、そこからはむしろ梁啓蒙自身が、七教を宗教界における

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鯉至尊必然の存在とみなしての上ではなく、相対化しつつも、まさに民俗歴史の制約から提唱していたことが透けてく

るのである。

 一九〇二年は、三十歳になった梁啓明がさまざまな点で思想的な区切りを明確にした年といえよう。宗教に関し

ていえば、『新影響報』第二号(二月二一二日付)に「保量器所以尊孔論」を発表し、以後、康有為の孔教を代弁するこ

とはなかった。「民俗歴史の関係」から抜け出た近代的視野への試みが始まったのである。

 ところで、バスチド氏はその論考において、梁啓超の使用する「宗教」の語義を丹念に追った上で、それまで梁に

おいて、しばしば教えや思想と同義的にあいまいに使われていた「宗教」という語が、日本亡命後、とりわけ一九〇

                                        (25)

一年以後は、日本の思想界の影響の下、西欧的な「宗教」概念に変化したことを指摘されている。すなわち、神聖さ

や超越的存在に対する信念、信仰行動に限定して「宗教」の語を使用するようになったということである。それはい

ま一つ「哲学」という概念を獲得したことと表裏を為すことであった。

 そして、このような意味合いで宗教を考えたとき、梁にとって宗教とは必ずしも文明的なものとはみなせず、その

排他的なマイナス面にも着眼せざるを得なくなった。ましてや、日本の哲学家たちの言辞、たとえば井上円了の『哲

                                          (26)

学要領』にっとに説かれている「孔教のひとり盛大を極めたるは、かえってシナ人の不幸というべし」といった類の

ことばが、与えたに違いない影響をも考慮すれば、教主としての孔子像とは、もはや思想の自由を妨げる視野の狭い

ものと意識されたであろう。この井上円了の『哲学要領』は、『哲学一夕話』『哲学道中記』『哲学一朝話』『仏教活論

序論』等とともに、康有為の『日本書目志』にもあげられ、中国では早くから知られており、一九〇二年には中国語

       (27)

にも翻訳されている。

 さらにまた、梁啓超は東京で、井上円了の創建した哲学館の「四聖祠典」なるものを実際に目にすることによって、

驚愕を新たにしたのである。そこには一釈迦、二孔子、三稜格拉底(ソクラテス)、四康徳(カント)と、古今東西を

                      (28)

代表する哲人が、釈迦を筆頭に祭られていたのである。ここにいう「四聖祠典」とは、井上円了が一八八五年(明治

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本日と学仏の超

啓梁

  「八年)より、毎年}○月

  二七日に四聖の画像の前て

  行なっていた哲学祭を指す

  ものと思われる。哲学を東

  洋哲学、西洋哲学と大別し、

  それをさらにイント哲学、

  シナ哲学、古代哲学、近世

  哲学にわけ、それぞれの代

  表として釈迦、孔子、ソク

  ラチス、カントを挙げ、年

  代順に配して、その像を画

  工に描かしめ、中村正直に

  画賛を願ったのか四聖画像

  である(図1)。これを祭

2 るという円了の意図は、哲

図学そのものを祭り、哲学の

  振起発達を祈ることてあっ

  (彩

  ≠

   ところて、四聖画像は橋

 本雅邦によって一八九三、

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山導謬晦毒蚕奮蛍

驚辺誇鱗群群亥堂墾邸

調卿垂雪こ樋鶉義人皇摩

四年ごろにまた新たに描かれている(図2)。一九〇

二年、インド経由で外遊に出た井上円了は、たまたま

ダージリンに隠棲していた康有為と会見し、かつて四

聖を祭っていたことを知る康有為から画賛を寄せられ

(30)

た(図3)。そもそも謹啓超が「四聖祠典」を目にし

たのはいつのことなのか、康有為とともにであったの

か、今は明確にできない。しかし、進化論をふまえ、

仏教の近代化に情熱を傾けていた井上円了の、荒削り

ながら東西哲学を貫こうとする気迫が、梁啓超に強く

訴えかけたことは疑いもなく、「近世第一大哲康徳之

学説」を著述する動機付けにもなったのである。

 「論中国学術思想変遷之大勢」は『新民叢報』第三

号から第五八号にかけて間欠的に連載されたものであ

(31)

るが、一九〇二年に書かれた、その「仏学時代」にも

同様な宗教観が語られてくる。中華四千年の学術思想

を談議した彼は、他国と際だって異なる中国の特徴と

して、無宗教ということをあげるにいたる。無宗教性

は国の栄誉でこそあれ、恥とすることではない、宗教

とは、人群の幼稚な時代にあっては有効であっても、

人群の成長の暁には、学術思想の自由を阻むものとな

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細僻細難筋る、いまはただ、学術の進歩、思想の統一を願うだけで、必ずしも宗教の末法で自縛することはないのだ、という主

張は、孔教による宗教改革を唱えた三年前と比較して、その変転は明白である。

 あまっさえ、従来、儒者がみな惰弱無気力となり、中国学術思想史上、最も不振な時代とされていた六朝階唐の問

とは、仏教の盛行によって、首邑に匹敵する、世界史上に比類のない学術最盛の時代と見直されるのである。仏学が

外来の学であること、本国固有かどうかということなどもはや問題にされない。こうして唐代が「仏学時代」として

中国学術史の中に位置づけられ、仏学諸宗の略記が相当のスペ…スを割いて論述される。この記述の拠り所となった

のが、日本の凝然の『八宗綱要』『十二宗綱要』『仏教各宗綱領』等の書物であったとは、彼自身の言明するところで

 (32)

ある。

 しかし、みずからは信仰に、就中、孔教には頼りどころを求めぬといってみても、数千年にわたって閉塞されてき

た中国の思想の自由を救うことなしに中国を救うことはできず、泰西の歴史家の論に鑑みても、近世の政治学術の進

歩、すなわち国民国家の形成にあたって、宗教改革の大事業を原動力としないものはない、という見解に立つ限り、

梁啓超にあって宗教の効用そのものが疑われることはなかった。同年、第}九号掲載の「論宗教家勢哲学家之長短得

失」では、迷信に偏るということで最も宗教を喜ばなかったという自らの性向を述べた上で、究理の哲学家と治事の

宗教家との役割を明耀し、歴史上の英雄豪傑、クロムウェル、ジャンヌ・ダルク、リンカーン等が、あるいは日本の

維新前夜の諸人確認が、すべて宗教に力を得て大事を成し遂げたことをいう。また哲学においても、唯心論哲学は宗

教に近く、勇猛に事に任ずる明末の王学派、日本の維新派を見れば、心学は宗教の最上乗なもの、とみなされるので

ある。

 かくして完全な文明状態にはまだ遠い今日であれば、群治に信仰はなお不可欠とされるのであるが、すでに孔教を

宗教とみなさず、信仰の対象としないのであれば、どのような宗教を信仰の対象にしょうというのであろう。

 第二三号に発表された「論仏教与群治之関係」では仏教の選点が、六項目にわたって挙げられる。すなわち、智信、

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緬                                         (33)

兼善、入世、無量、平等、自力の六項目である。ところで、この六項目を先の「論支那宗教改革」に挙げられた信教

の六つの主義と比較してみると、平等、兼善は孔教の教義としてそのまま主張されたものであるし、無量は手甲の博

包(すなわち相容与擬あるいは世界主義)と、自力は聖教の売立(その中身は自強、独立)と同質である。互いに異なる二

項目(孔教の進化、重魂と仏教の智信、入唐)に関しても、退嬰的かつ世間的と目される儒教の宗教化(孔教)にあたっ

ては進化と重魂が強調されたのに対して、本来出世間的な仏教においては、かえって智信と入世の二項目が強調され

たという構図を見抜けば、梁細粒が望む「宗教」の特質は一貫していたといえよう。新たな国民創出のためのイデオ

ロギーは、孔教から仏教ヘスライドすることで可能となったのである。

 また、ここに仏教の信仰を智信というのは、「悲智双修」を最大綱領とする仏教が盲信を戒め、その説法、講義の

十の八、九が哲学、学理に関するものであること、すなわち、「哲学の宗教」であることをいうのであるが、さらに

スペンサーが「可知」と「不可知」をわけ、宗教と哲学の調和を謀っているのが学界の過渡義とすれば、「不可知」

                               (34)

の中についに「可知」を求める仏教は学界の窮境義である、とする見解や、また西人は学術を純理と応用の両門にわ

                            (35)

けるとして、悪騒同の「仁学」を「応用仏学」と名づけることなど、その仏教観には、随所に日本の欧化主義的仏教

哲学、すなわち井上円了の主張の影響が見られる。

                                  〔36)

 そもそも井上円了は、彼の最初の純正哲学の著述『哲学一夕話」第二編の序において、自らの意図するところは

「古今東西の諸説背面を合して哲理の中道を立て」ることであり、道の本体を、易の太極、仏説の真如、老荘の無名

真宰、スピノザの本質、カントの自覚、ヘーゲルの絶対理想、スペンサーの不可知的という、古人の用語によって名

付けるならば、その中正を欠くとして、自らの名「円了」こそが、道理の円満完了する義であり、古今東西の哲理を

合した名称であると豪語していた。かような意気込みを持って、彼は東大在学中に、科学と宗教、実証主義哲学、宇

宙論哲学、唯物論、合理主義、進化論、心理学等の多彩な読書ノート『稿録』を残しているが、この中でも紙数の多

                    (37)

い一つがスペンサーの思想の要約であったという。彼の所論の基層をうかがうことができよう。

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本日と学仏の超啓梁

ゆ そして、「仏教の一半は哲学にして一半は宗教なり」とか「哲学は原理にして、宗教は応用なり」とは、井上円了

が下した定義であり、彼はまた仏教を「理論宗」と「実際宗」とに分かってもいる。あるいはスペンサーを踏まえて

可知的世界と不可知的世界の概念を挙げ、仏教の第一原理たる「真如」は可知的と不可知的との中間にありて存する

                     (38)

もの、とみなすことは、彼の一貫した持論であった。

 スペンサーの「可知」「不可知」説に関しては、前章でも指摘しておいたが、『天竺論』の厳復の卑語にも「斯賓塞

爾(スペンサー)は天演公例を著し謂えり、教学二途は皆不可思議を以て起点と為す、即ち面影(仏)の所謂不二法門

                           (39)

なる者なりと。その言至りて奥書なり、前論と参観すべし」とある。梁啓超も『新民叢報」第二二号の中で「音量斯

                      (40)

賓塞かつて哲学を分かち可思議不可思議の二科と為す」と述べているところがらみれば、暗黒によって既に知り得て

いた概念とも思われるが、この「可思議」「不可思議」という厳復の訳語を使用した、すぐ次の第二三号で前述のよ

うに「可知」「不可知」という日本語訳を用いているのである。僅かな期間に日本の哲学界からの吸収があったこと

が推し量れよう。

 ところで、梁啓超が仏教を自力の信仰とするのは、その因果説に根拠がある。因果の思召とは、数千里を隔てて溶

せられても仮借なく応ずる電報のようなもので、自らの造った因は人が代わって消滅しうるものではない。ただ自分

一身のみならず、衆生の造った悪業の「普通の部分」があい薫じあい結してこの器世間となり、「特別の部分」が

各々霊魂となって、自ら作り、自ら受ける。すなわち、自らがこの社会の種々の悪業の薫染を蒙り、受けて化すれば、

それがまた社会を薫染するのである。ここにわが身と器世間の堕落を救わんとすれば、早急に善因を造らなければな

らない。そこには「天の助け」など期待しえぬ独立不測の念がある、と考えられたのである。そして旨旨超はさらに、

                                              (41>

ダーウィン、スペンサーの進化論もこの因果の範囲を出ることはない、と進化論を因果説の範疇で語ろうとする。そ

れはまた、彼の死生観とも密接に関係を持つことであった。

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三、進化論と死生観

 「二十世紀の天地その幕を開くこと画すでに一年有奇、この年余の内、名人の著述の大作で、学界に貢献する者は

少なくない。しかし道を開き、卓然と一家言をなし、世界社会全体に影響を与え、将来のために一大光明を放つもの

としては英国頷徳(ゆ謬言ヨヨ匿αα)先生の今年四月出版の『泰西文明原理』(豊§ミ霧ミ尋。。討ミQミ露袋融§ZΦ≦

く。「貫δo・。)の書を推す。キッドとは何者ぞ、進化論の大後継者、進化論の革命健児なり」と高らかに書き出される

             (42)

一文が「進化論革命者額徳之学説」である。再啓超はこの文章において、キッドの『人群進化論』(の09ミ肉eoミー

職§曽ぴ。⇔αo員一G。逡)の紹介をする。

                               (43)

 日本では、すでに一八九六年四月一八日開催の哲学会において、外山正一が「人生の目的に関する我信界」と題し

て行なった講演の中で、このキッドの『社会進化論』に言及している。この講演は同年八月一〇日発行の『哲学雑

誌』第一一巻第一一四号に論説として掲載されているが、このあたりがキッドに言及した草分けといえよう。

 外山のこの論文は、キッドが個人の利害と社会の利害は対立するという前提のもとに、人の行為への宗教による制

裁を説くのを、自己認識の誤解に基づくものだと批判した上で、宗教的制裁といった外的制裁に依らずとも、国家、

社会と己を同視し、一体化できる没自判主我の精神を日本人の特性として、これこそが進化の一大条件とする。国家

衰亡の↓大原因は実に国民の没自的主我心の消滅にあるとされ、現今の支那帝国の一大困難もこの精神の欠乏にある

とする。その上で、死の観念に及び、己は死んでもその継続者において、己は生きている、個の死生は仮相であり、

集団の死生こそが真相である、個の死は集団永続のための新陳代謝とみなすなど、国家競争の激烈ならんとする時代

において、国民の没自弁主我心のさらなる養成を主張し、国家社会の進化改良を人生の目的にしょうとするものであ

った。後に述べる梁啓超の論調と実によく呼応するものである。

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本日と

学仏の超啓梁靱

 ところで、キッドのの09ミ肉§Nミご嵩は、日本では一八九九年二月半、ベンジャミン・キッド著『社会の進化』と

して、角田柳作の翻訳が開拓社から出版されている。また中国でもほぼ同時に『万国公報』の「二}巻からティモ

シ・リチャ;ド(↓巨9ξ空魯輿α)の訳で企徳著「大同学」として連載され、五月には上海広学会の訳本として出

版された。ただし、こちらの方では著者名が器徳と当て字されている。一応、訳文は全編にわたっているが、角田訳

に比べると中国語訳の方は抄訳といってよい。ただ、角田訳では削られている付録の統計表が中国語訳には備わって

いるということもあるQ

 梁啓超はこれらの訳本のどちらをも参照できたわけであるが、中国語訳で「万物成長変化之理」「養民」、スペンサ

ーの「万理合貫」と訳されているところは、それぞれ「進化」「社会主義」「総合哲学」と角田訳の語を使っているし、

                                (44)

角田訳にのみ付され、中国語訳では訳出されていない原序に触れてもいる。三里超のこの文章が簡単な紹介文であり、

それも、自分に関心のある部分のみを強調発展させた、かなり恣意的な文章であることを思えば、局部においての一

致がいくつか見られることは、かえって角田訳にも目を通していたと考えうる根拠となろう。

 さて、キッドの説く進化論とはどのようなものとして梁壁面に受け取られていたのであろうか、要約してみよう。

 すなわち、人も他の動物と同じく競争しなければ進歩できない。競争の結果の優勝劣敗、適者繁殖は不易の公理で

ある。進化の運動は個人を犠牲にして社会に利せずんばあらず。現在を犠牲にして将来に利せずんばあらず。故に現

在の利己心を持って進化論に附会する者は進化論の罪人である。なぜならば現在の利己心は進化の大法と相関せざる

のみならず、相いれないからである。現在の利己心とは「天然性」である。キッドはこの天然性を人性の最も「個人

的」「非社会的」「非進化的」なものであり、人類全体の永久の進歩にとって有害無益だと考える。キッドによれば、

人類の進歩には節性が第一義である。節性とは宗教によって天然性を制裁することである。宗教が人類天然の悪質と

あらがってこそ人群の結合を促し、進歩させのである。

 さらに云う、キッドの人群進化論は生物進化論、すなわちダーウィンの学説を前提としている。しかしながら、ダ

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㎜氏のいう適者とは、現在の己に益有るように状態を変化させた者である。それに対してキ氏は、自然淘汰の目的は同

族中尊大多数に最適の生存を得させることであるが、この最大多数とは現在ではなく将来にあるとする。故に各分体

の利益、現在全体の利益はみな、将来のための犠牲とされざるをえない。外界の変化に順応して世代交代を頻繁にす

る種族のみが自存しうるのである。物が生を有する所以は自身にあるのではなく、未来の全体という大目的に達する

ための過渡であるに過ぎない。

 このようにキッド説を解説してきた梁啓超は、ここに至って逆説的に「死は進化の大原なり」、「死は進化の母な

                     (45>

り」という魅惑的なことばを書き付けるのである。後年、このことばは一人立ちをし、「キッド日く、死は進化の母

                                 (46)

なりと」と、虚無主義的な青年たちが大いに口にするところとなるのであるが、これは相当に梁啓超のバイヤスのか

かったことばであろうか。角田訳、中国語訳ともにこれに当たることばは見いだせない。

 そもそも、キッドの進化論は、社会を有機体とみなした上で、自然淘汰、適者生存を未来への進化としてとらえる

ものであった。その際、個の利と群の利は対立することを前提にして、献身的、自己犠牲的個の存在する群が苛酷な

生存競争の優者となるとした。個人的理性の発達は愛他心を失わせ進化を妨げる、宗教による愛他心の育成こそが進

化を可能にすると強調し、現今の社会科学、すなわちベンサム、ミルらの功利説、スペンサーの学説、社会主義、個

人主義などがすべて現在に立脚し、宗教を蔑する点を批判したのである。また下等人種に対するアングロサクソンの

優位は、その宗教によってもたらされたものとされ、宗教改革の意義、プロテスタントの社会的影響を考察したうえ

で、植民地の道徳的支配にまで説き及ぶものであった。

 しかしながら、梁啓超が受容し主張しなければならないことが、進化における宗教の必要性であったとしても、キ

ッドの説くプロテスタントの意義や、アングロサクソンの優位に関する見解は、それはそれとして泰西の歴史に他な

らない。いま彼が必要とするものは、自己犠牲の発揮と、死の未来への効果を強調する自らの理論である。すなわち、

先述したような、旧幕臣の外山正一においては、「発達せる意識」であれば当然抱くべきものとして、立論の根拠を

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示すことなく、自明の信念として提示された対自的主我の死生観の、それを裏付ける論理が大きな課題となってくる。

 そこで彼は、キッドの描く「泰西教化」の考察の代わりに、儒教、道家(並列、老楊、神仙)、エジプト世教、バラ

モン外道、景教、仏教の各宗教の死生観を概観するのである。その結果は仏説こそがその至れるものであった。

仏説それ至れるかな、謂えり、一切の衆生はもと不生不滅、妄生より分別し故に我相あり。我相留まればすなわ

ち生死の海に堕し、実相去ればすなわち法身常に存す。死は固より畏るべきにあらざるもまた楽しむべきにあら

ず。睾擬するところなく、恐怖するところなく、貧恋するところなしと。一切の宗教上の最難解の疑問を挙げて

いちいちこれを喝破す。仏説それ至れるかな。しかりと錐も衆生の根愛すでにいまだ成熟せず、よく受くるもの

   (47)

蓋し少なし。

本日と

学仏の超啓梁測

 このように、我相の幻想を去れば生と死を隔てる差異など存在しない。生死の別がないのであれば、死んでなお不

死の存在があるはずである。いまや梁啓超にとって「死学」が、霊魂の滅不滅の問題が、大きな課題となってくるの

である。

 ところで、この霊魂の滅不滅の問題は、当時、生死を考える人生論、宗教論において盛んに取りあげられているテ

ーマでもあった。おりしも日本にあっては一九〇三年五月二二日、「万有の真相」を「不可解」と遺書し、華厳の滝

に身を投じた藤村操の煩悶自殺が社会的衝撃となっていた。もっとも、なお民族、国家の将来を課題として担ってい

る梁啓超にとって、生死の問題は決して、このような個我探求のレベルにとどめられるものではなかった。

 かつて、日本の兵士が「祈戦死」と書かれた幟に送られて入営していく光景に衝撃を受けた梁啓超は、維新の原動

力となった日本奏すなわち武士道に強い関心を持ち、ひるがえって中国魂はいずこにありゃと反問していた。さらに

尚武を論じて「キリスト教を奉じる民は堅桿好戦の風があり、仏教を奉じる民も生死を軽視する性がある。独り、儒

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躍                       (48)

教の国のみが判然として怯儒なのはどうしてであろう」と慨嘆している。かくして一九〇四年、彼は『中国之武士

道』を書き上げた。この書には楊度が長い叙を寄せている。

 楊度は、日本が儒教と仏教の長所をそれぞれ取り入れて、「無死尚侠」「至誠無我」の武士道を発展させてきたのに

対して、中国が表面的には儒教を尊びつつ、実行してきたものは揚朱の教えであるといって、その現世的功利主義を

痛烈に批判する。「十年半また死し、百年もまた死す、書聖もまた死し、零墨もまた死す、貴くればすなわち執権、

死すればすなわち腐骨、生くればすなわち桀紺、死すればすなわち腐骨↓のみ」という楊子のことばを「これ絶望の

                                    (49)

語にして、絶望の極や自暴自棄に陥り、自暴自棄はついに放情縦欲の淫室豪飲に亘る」と評したのは高橋五郎である

が、楊度はこの高橋五郎のことばを援用して楊朱批判からさらに霊魂の滅不滅(死不死)説を紹介し、結局は肉体と

精神の二元論に帰着する。「今日の世界は古人の精神の創造するところ、将来の世界はまた必ず今人の精神の創造す

              (50)

るところとなる、これ人類進化の道」と精神の不死を主張した重度の叙文は、梁啓超にとっていい刺激となり、彼の

                       (51)

「死学」である「余之死生観」が執筆されることになる。

 ところで、クリスチャンである高橋五郎もまた、中国ではその名の早くから知られていた一人である。康有為の

『日本書目志』には彼の『人類学一班」『有神哲学』『仏教新解』等の書名があがっている。一八八七年、井上円了が

ヤソ批判を『仏教活論序論』で行なった際、論争したのが高橋五郎であった。前引の高橋の文章は、彼の『宇宙観』

「第十七章 生死及霊魂有無滅不滅問題」にみられる。ちなみにこの本の出版は一九〇四年一二月一〇日である。「余

之死生観」は同年一二月二一日付(五九号)と翌年一月六日付(六〇号)の『新耳茸報』に載ったものである。梁はこ

の後編の方で再び楊度の叙文とリー博士の『人生哲学』(冨ヨ①ω慈.ピoρ↓ぎ§蕊躇ミ9」§鐸一。。O卜。)を大いに引

用しているのだが、このリー博士の『人生哲学』も高橋五郎が一八九三年に訳出したものである。

 さて、話を「余之死生観」に戻そう。梁啓超は次のように考察する。

 そもそも宗教には霊魂を語るもの、語ることに反対するものと様々であるが、要は人が死んでなお不死のものをど

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細蝉刎超啓

梁η

う名づくかということである。彼は密度と同じくそれを精神といい、さらに考察を進める。すなわち、仏説ではそれ

はまた、輪廻解脱の主体であって、カルマと呼ばれる。進化論では、遺伝により子孫に受け継がれていくキャラクタ

ーのことである。すなわち、全世界は全世界人類の、一社会は一社会人の、個人は個人の心理が造成するものである。

その刹那生滅の中で因果連続して相続不断であるものがカルマである。

 また人の肉身は原質が一旦死んだあとは、地水火風の四大に還元され、生前においても血液循環代謝の理のように、

刻々と変易している。今日の我はすでにもとの我ではないと、精神と肉体の二元論にたって、彼は「吾輩は皆死す、

                            〔52)

吾輩は皆死せず、死は我が輩の個体なり、不死は我が輩の群体なり」と特筆大書する。そして、肉体、精神の二つな

がら全うできぬ時は、肉体の死を肯んじても精神を死なせてはならない、「その死すべからざるものを死す、名づけ

                                  (53)

て心土という。君子曰く、哀の爆死より大なるはなしと」と荘子のことばで結ぶ。高橋五郎のいう、形態的死亡と霊

魂的死亡、すなわち身死に対する心死であろう。

 こうして輪廻説、遺伝説を援用して不死のもの、精神の不滅が確信されたとき、未来のために犠牲となった精神の

不滅であることも確信される。他でもない謂嗣同たち政変の犠牲者の精神も不死のものと確信されたのである。しか

も過去現在未来と三世が刹那に生滅すると思い至れば、現在の生はきわめて希薄なものとなり、身を殺して仁をなす

行為者の哲学がここに生じる。

 このように、辛亥以前の梁啓超の仏教思想は、つまるとごろ、国民国家形成のためには、流血の犠牲をも辞さぬ無

私の精神の覚醒、殉教精神の鼓舞という、状況に迫られて発揮される応用宗教であった。そして、彼が仏教に求めた

この輪廻思想と無我の精神の追究は、その晩年に至るまで、一貫して続けられていくのだが、しかし、政治状況の変

化と彼自身の政治思想の変化にともない、そのスタイルははっきり変わっていく。

 すなわち、「九二〇年代の彼は、「日本滞在以後、次第に欧日の俗論に染まり、偏狭な国家主義を盛んに唱えるよ

                  (54)

うになってしまったことをその死友に恥じる」と述懐するように、欧米流の国家主義に懐疑を抱くようになっていた。

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川あるいは、致用の学を反省し、学問の独立性を語るようになっていた。より直接的には、五四新文化運動を支えた

『新青年』派の分裂と、「問題と主義」の論争から生まれた「事故整理」運動、すなわち胡適等による論壇の動向をう

け、梁啓超の仏学も、一九二〇年代には、鎮静した学術のスタイルを取るに至ったのである。

四、二十年代の仏学研究

 一九二〇年の梁啓超は、すでに大戦後の悲惨なヨーロッパも視察し、ベルグソンをも訪問し、政治の表舞台から身

を引いていた。この一九二〇年と二一年の間に多数の仏教史に関する文章が発表されている。いわゆる『仏学研究十

八篇』といわれるもののうち、実に一五篇がこの間に発表されているのである。その題目を大まかに提示すると、中

国仏法の興衰、仏法の初輸入、仏典の翻訳、仏教と西域、中国と印度の交通、印度仏教、四阿含などの原始仏典の研

究という具合で、いわば西域経由の中国仏教受容史ともいうべきテーマとともに、その関心が次第に遡源し、印度原

始仏教へと集中していくのがうかがえる。

 いま少し具体的に畑田超の関心に即してみると、中国ではなぜ大乗のみを尊び、かつ「中国的仏教」を創立し得た

(55)

のか、ということが彼の問題の一つであった。すなわち、インドでは大乗が起こるやその小乗との対抗は極々であっ

た。日本では今日なお「大乗非仏論」者がいる。ところがひとり中国のみは、大乗がひとたび至るや一世を風靡し、

                       (56)

階唐以後になると、仏学者は小乗を語ることを恥とする。このような「中国的仏教」としての大乗の発展に、梁啓超

は中国民族の創造性を認あながらも、その極み、教外別伝たる禅宗が盛行することによって諸派は絶え、ついに中国

                     (57)

の仏学は衰微したと見る。「唐以後ほとんど仏学無し」というのが梁早福の中国仏教史の結論であった。大乗の母胎

である小乗、すなわちインドの原始仏教への関心は、かかる史的観点に基づくものであった。

 さらに梁啓超は、中国仏教を南北に分かって分析する。南方仏教は理解を尊び、社会思潮となる。北方仏教は迷信

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本日と

学仏の超啓梁笥

を重んじ帝王勢力となる。その結果、南方には自由研究の風があるが、北方は専制盲従であるという比較をして、中

                  (58)

国の国民性を代表するものは南だと断言する。この南北問題は、また仏教の南吾北伝問題とも関連づけられる。イン

ド仏教をカシミール、ガンダーラに伝わった北宗と、セ不ロンに伝わった南宗とに分かち、中国仏教は西域を経由し

た北宗が広まったものだ、という癖人の通説に異論を唱えるのである。すなわち、漢代の中印交通は海上交通であっ

たと断じたのち、中国には南北両軍とも伝来したが、陸路の堅陣よりむしろ海路の常理の方が早かったというのであ

(59)

る。 

かくして彼は中国にその伝の失われた小乗の発掘に情熱を傾け、その原始仏教経典への関心から、「説四阿含」「読

異部宗輪論述記」「説六足発智」「説大毘婆沙」等の文章が執筆された。

                                            (60)

 先ず、「説四阿含」では、橘恵勝『印度仏教思想史』、金子大栄『仏教概論』、羽渓了諦『西域之仏教』といった日

本の仏学者の書を引用しつつ、仏滅四か月後に団体公開結集(五百結集)し、一時頃編纂された四種の叢書(ニカー

ヤ)である『阿仁(アーガマ肺伝承聖典)』経の伝授や、その伝訳の源流を解説した上で、それが最初に成立した経典

でありながら、仏教の根本原理(四聖諦、十二因縁、五慈皆空、業感輪廻、当字処、八正道等)をすべて備え、かつ、大乗

教義をも含んでいるという、その「東方文化の一大宝蔵」としての重要性を指摘する。そして、重要教理(説苦、説

無常、説無我、説因縁生法、説油取緬、説四辺等等)の項目によって各経を分類付録し、原始仏教の根本観念を確立しよ

うという「阿含学」の方法にまで説き及ぶのである。

 この阿含経への関心は、一九世紀末、断片のみであったサンスクリット阿含に対して、ディーガ(長部)、マッジ

マ(中部)、サンユッタ(相応部)、アンダッタカラ(増支部)、クッダカ(小部)め五ニカーヤを存するパーリ阿含のロ

ーマ字本が、パーリ聖典協会(℃ゆζ日りΦ×け0りOO一Φ一こ一口】じO⇒αO⇒)から発行されたことによる。日本では明治以後、その価

値が再認識され、漢巴両玄の比較の試みが姉崎正治寒鴨きミ」鷺§含ミOミミ”↓o尊。.一りO。。によってなされて

いたのであり、梁啓超はそうした学界動向を努めて紹介しようとしていたのである。

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鴻 さて、梁啓超のことばを借りれば、仏教は小乗より大乗へと進化するのであるが、ここには二種の極論が存する。

すなわち、仏在世中、既に大乗は円満に成立していたとする説と、それに対して欧州の多数の学者が唱える大乗非単

記とである。仏教史を系統的に研究するためには、大小乗の別を超え両派の相互影響を見なければならない、という

のが梁の主張であった。そこで彼は「読二部千山論述記」において、「上座」「大衆」の二部に分裂した「宗教革命」

以降の小乗二十部の叙述をする。ここにいう『異笹蟹輪論』一巻とは説一切有部の代表者世変の作であり、専ら小乗

諸派の分裂状態を叙している。中国にも三種の翻訳があるが、『異部面輪論述記』(一巻、慈恩寺乱作)というものは

                                    (61)

二代の経録にも見えず、日本にのみ単行本が存在しているとして紹介されたのである。梁平貝にとって、仏教が諸派

に分裂し、それとともに各種の経典が生産されていくありさまは、儒教の経典解釈の歴史に引き比べることによって、

         (62)

理解が容易にされていた。

 また「説六足発智」にいう六足とは、仏典の三蔵、すなわち経蔵(修多羅”スートラ)律蔵(毘尼Nヴィー二)論蔵

(阿毘曇“アビダルマ)における六部の論である。アビダルマ集楽園足固、法穂足論、施設足論、識身足論、品下足論、

二身足論で六足であり、発智論とともに説一切有部の宝典である。軽量超はこの論を心理学書として評価する。たと

えば法号足論は「心数法」を詳細に列挙しているが、この系統の分類は現在の泰西の心理学書とくらべてもはるかに

精密であるといい、世友の作である品類足論は心理過程を専癒したもので、仏教の系統的心理学は世々から確立され

    (63)

たのだという。

 梁によれば、そもそも、釈尊の立教はもっぱら認識を解脱の入門とするが、その後学の心理に対する観察分析は、

大全婆沙に見られるよう、微に入り細にわたっている。欧州の心理学者がようやく独立の一科学を形成したのは近々

この数十年であるが、インドにおいては、一五〇〇年も前に、欧米心理学と比較してもひけをとらぬ心現象の深遠な

          (餌)

理解がほぼ大成されていた。毘婆沙研究は、大乗の法相宗を治め、唯識、顕揚、難論等の書を研究するためにも復活

されなければならないが、それというのも、仏教が全世界人類に卑益を与えるものと確信しつつ、それを当代に普及

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本日と

学仏の超啓梁即

                                              (65)

させるには科学の精神、すなわち、認識論と心理学をもってしなければならないからだ、と彼は主張する。

 仏学の、とりわけ法相の唯識が、優れて精緻な認識論であり、心理学に他ならないという見解は、つとに井上円了

が開陳したところであり、その『仏教心理学』は一八九七年に、哲学館の「仏教専修科講義録」として発行されてい

る。まさにこのころ、東京大学では心理学実験室をつくる計画がたてられていたが、仏教教理を最新の西洋哲学との

比較で論じようという、井上のこの野心的な書名は、よく再啓超の採用するところとなった。ただし、梁が「仏教心

理学浅手」と題して心理学会で講演したのは、一九二二年六月のことであった。一五年も前の井上の書をそのまま踏

まえているわけではない。

 梁が「仏教心理学」と銘打って、仏学を心理学の見地から理解しようとしたのは、心理現象を正確に把握すること

により、仏教の根本義である「無我」の道理が科学的に証明できるとしたからであるが、その具体的な内容は「五纏

(色、受、想、行、識)皆空」の義の解釈である。この点を井上の『仏教心理学』と対応してみると、井上の該書では、

五重についてはその名義の英訳が簡単に記されているだけで、説明は「倶舎論」「唯識論」に譲るとして省略されて

 (66)

いる。また五更の語義でも二人が一致しているとは言い難い。甘言超一人においても、とりわけ「行ωき喜年下」の

解釈は「作意及行為」としたり、「意志の活動」としたり、あるいは「翻意、思惟」としたり、時によってゆらぎが

ある。

 梁啓超にしてみれば、五纏は無我説との関わりでかならず語られなければならないものであり、その問題設定は、

むしろ仏陀の四諦論を中核においた姉崎正治の『根本仏教」や、その影響を強く受けた姉崎門下の木村泰賢の『原始

仏教思想論』に近いのである。とりわけ木村の書は、後に述べるように、梁啓超が全面的に依拠するものとなった。

ただ同年四月、すなわち、この講演の二か月前に出版された木村のこの書を、「仏教心理学浅測」ではまだふまえて

いないようである。ちなみに木村は「想」を「表象」、「行」を「意志」というショウペンハウエル的なことばで表現

   (67)

している。いずれにしろ、この年の秋、梁は本格的な仏学研究を志した。

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旙 一九二二年一〇月末、梁啓超は南京東南大学で斯学しているが、そのおりをとらえて彼は一一月中支那内学院に通

い、欧陽寛無の唯識の講学を聞いている。当時の手紙からは、朝六時におきる苦痛をぼやきながらも、月、水、金の

                                           (68)

七時半から九時半まで、学生に戻ったかのように熱心に早朝から仏学の講義を聞いている様子が伺える。また、翌年

一月二九日の手紙には、一日に三、四葉ではあるが毎日『成唯識論』を読んでいることや、日本に行きたいとの気持

ちも書かれている。中国史研究と仏学研究において日本の学界が無視できぬことを、彼は素直に認めているのである。

たとえば書籍購入のさいにも、日本の『史学雑誌』『史林』『支那学」『仏教研究』『宗教研究』『仏教学雑誌』『東洋学

                                             (69)

芸」『外交時報』等の専門雑誌のバックナンバーをそろえることを最優先事項として手紙で注意を促している。

 すでに、しばしば言及してきたように、梁啓超の仏学研究の方向性は、日本の学界の動向と大きく関わっている。

そして日本の仏教学界、史学界は十九世紀以来の欧米学者によるパーリ語経典の研究、西域研究の進展に刺激をうけ、

活発な論争、すなわち釈迦生滅年論争、大乗起各論論争を巻き起こしていた。あるいはより広く、インド宗教への関

心、原始仏教への関心が強く起こっていた。もちろん、日本において「大乗非仏寺」は早くも江戸時代、富永仲基に

みられるが、明治期の学者たちによって主張されたその空気は、桑原隆蔵の論文からもよくうかがえる。

 一八九九年六月に書かれた「北方仏教研究の価値」において、桑原は「仏教の研究は今や我国の一大流行となれ

り」と説きおこす。しかし、彼の懸念は、これらの研究が専ら南方仏教に限られているところにあった。そもそも、

仏教のうえに科学的研究が試みられたのはこのわずか百年ばかりのことである。セイロン所伝の南方仏教の研究に従

事した欧州の東洋学者の貢献が大とされるわけだが、桑原は「我国近時の少壮仏教研究者は、概ねこれら東洋学者の

感化を受けて、興り来たりしものなるが故に、勢い重きを南方仏教におかざるを得ず」と、北方仏教を仏説にあらず

                                             (70)

と揚言し、無視しかねない現下の趨勢に警鐘を発している。当時の学界の動向をよく伝える↓文といえよう。ふりか

えれば、日本に亡命した梁啓超が哲学会で接した姉崎正治こそ、実証的な宗教学の新機軸を打ち出した人物であった。、

 そして、木村泰賢である。木村は↓九一七年、東京帝国大学の助教授となり、一九↓九年にイギリス留学する。イ

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本姻群齢羅㎎

ギリス滞在中にステード(≦望Φα①)やリス・デビズ(日.≦。ヵξの】鼠≦αの)等の原始仏教研究者の影響を受け、ロンドン

郊外で『原始仏教思想論』の稿を起こす。脱稿したのはベルリンであり、東京に送られた草稿は、】九二二年五月の

帰国直前、すなわち四月一六日付で出版されていた。当時の豊本のインド哲学、仏教学界の最先端の書物といってよ

い。梁啓超の「仏教心理学浅測」の講演がこの年の六月であったことは先にも述べたが、梁のこの年の仏学関係の著

述はあと二篇あるのみで、「九二三年には↓篇もない。二四年も簡単な序文と後文二篇のみである。支那内学院での

聴講も含め、充電の時期であったのかも知れない。

 一九二五年に発表された「仏陀時代及原始仏教教理綱要」は、原題を「印度之仏教」といい、清華大学で講義した

   〔71)

ものである。それまでの仏教史や、経典の整理分析といった趣の強かった文章と違って、原始仏教の思想を明快に解

                                                 (72)

説している。現代の中国の研究者も「簡明で概括的で通俗的で分かりやすく、また近代的な息吹を多く感じられる」

と評するものであった。そしてこれを木村泰賢の『原始仏教思想論』と対照してみると、その構成から内容の大部分

にわたって木村のものに全面的に依存していることが分かる。しかしそれはまた、この書が、梁のずっと抱き続けて

いた問題意識と見事に合致するものであったからでもある。

 生熟超が仏教の基本的な教義として、わが身に強く引きつけて考え続けたものは無我説と十二因縁説、三世両重因

果説であった。それは前章で述べたように彼にとって、実践を支える哲学となっていたと同時に、認識論であり、心

理学でもあった。木村の書との対応を念頭におきつつ、その因縁説、輪廻説を見てみよう。

 因縁とは依存の関係である。「有此前有棘、此生則彼生、無此前無彼、此昼前彼滅」というように、依存関係には

同時的依存関係と異時的依存関係がある。同時的依存関係とは「主観的な能認識の識体」と「客観的な認識される対

象」が、あい交渉して世界を成すこと。すなわち五薙(色、受、想、行、識)の「色」は宇宙間の一切の物質及び人身

の諸器官をいい、「名(受、想、行、識)」は心理活動の状態をいうのであるが、「名色」といえば認識の総対象握客観

的要素をいい、認識する本能-一主観的要素を「識」という。「識は名色に縁り、名色は識に縁る」という、この「名

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㎜色」と「識」の交渉が「因縁」である。

 そして異時的依存関係こそがかの「十二因縁観」であった。すなわち「無明一行-識”墨色-歯入-触-受-愛-

取-有一生-老死」とめぐる因縁の最初の動因が「無明」である。梁はこの「無明」を「無意識の本能活動」と解釈

する。さらに「行」は「意志の活動」と解釈するのである。すなわち、一個人の生命は天が付与したものでもなく、

因なくして突然発生したものでもない。全ては自己の意志力が創造したもので、過去の無明と行が構成したものであ

る。生命存在の期間は、識から有までが刹那刹那に展転相縁り、無明の業報を増長して未来の生命を造出するのであ

(73V                                         (74)      (75)

る。そして「三世三重因果」を木村の図式を使って図示したのち、業と輪廻を次のように説明する。

 業(冨穿き)とは自己の意志力による不断の活動のその反応の結果が自己の性格を造成し、この性格がまた将来

の活動の根底となって自己の運命を支配することをいう。運命支配のその点から名付けて業果、業報という。業は永

遠不滅であり、一期の生命の死亡によって終わるものではない。あたかも急須でお茶をいれる時、茶の葉を捨てても

その「精」が残り、次ぎに入れた茶をより味わい深いものにするように、業はまた新生命を形成して転換する。これ

を輪廻という。そしてこの輪廻をさらに説明するため、彼は木村が引用したリス・デビズ夫人の輪廻の図式を活用す

る。こうしてことばを尽くして業と輪廻を説き、哲学からいえばこの説が最も科学に近く合理的であり、生物学上、

心理学上の法則に借りて証明できるとする。またそれは宗教、教育からいえば行為責任をぴしっときめ、人の向上心

                (76)

を鼓舞する最上の法門とされたのである。

 梁啓超のこの解釈は、基本的にはかつての精神の不死の主張と同質である。しかし、かく全面的に木村の書に依拠

したということは、梁の自覚の有無に関わらず、木村の独特な原始仏教の生命論的解釈をそのまま採用したことにも

なる。木村は、無明を動因とする十二因縁論を生命持続の法則ととらえた。「生きんとする意志、すなわち無明また

は渇愛(欲)を根本動機として、生命は自ずから種々の経験を積みて自らの性格を作り、その性格に応じて後来の運

                                  (77V

命なり、境界なり、性格なりを開拓し行くに、ここに一定の規則があるという説」こそ、仏陀が最も力説したものと

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                                        (78)

いい、仏教の因縁観は哲学的にみれば、カント、ショーペンハウエルにも通ずるところがあると主張したのである。

 この木村の問題提起は当時の日本の学界を刺激するに十分なものであった。無明の解釈をめぐって、あるいは、シ

ョーペンハウエルに依拠したその新解釈に対して、そして、縁起説の本質をめぐって、まさにこの年の一月から反論、

攻撃が開始されていたのである。反論者は赤沼智善であり、宇井伯寿であり、翌年の和辻哲郎であった。木村が一九

                      〔79)

二七年に再反論を開始するに及び大論争となってきた。梁啓超はこの論戦を知っていたのであろうか。「仏陀時代及

原始仏教教理綱要」に付録された彼の「説無我」の一文では、「行」を「意志の行為」と解釈することはされていな

晩酵サしてこれ以後、梁啓超の仏学に関するめぼしい著作もないのである。なお木村の該書は一九三一二年に欧陽重心

               (81)

の訳で商務印書館から出版されている。

結 び

本日と

学仏

の超

啓梁皿

 梁振逃の仏教に対する関心のあり方は、大きく三期に分けて考えることができよう。すなわち、日本亡命を期に前

後二期に分けた清末民初とその晩年の一九二〇年代とである。

 その特徴を簡単に言えば、清末、日本亡命以前の彼の仏教は、公羊学の学統よりもたらされたものであるが、公羊

学も仏学も新学との付会によって、その時流であることが強謁されたのである。また、厳復の『天演論』は西欧人の

日]を通したインド哲学(バラモン教、仏教)を梁罪障にかいま見せてくれたわけであるが、太平大同の学と小乗経への

関心を併存させ、揺らぎを見せつつ、彼はなお孔教の主張者であった。

 日本亡命後、様々な西洋思想に接した梁啓超にあって、思想的枠組みの最大の変化は、国民国家の形成という政治

課題の明確化に基づいてもたらされた。新たな国民創出のためのイデオロギーを求めるに当たって、原理の哲学、応

用の宗教という二分野が確定される。そして仏教を「哲学の宗教」と形容することによってその両義性を確保し、孔

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珈教から仏教への移行が確信されたのである。

                               (82V

 そもそも仏教を「哲学の宗教」と定義したのは日本の井上円了であった。井上が仏教の近代化を志し、西洋哲学に

匹敵する科学的かつ合理的なものとして、仏教を解釈しようとしたその姿勢を、梁啓超は受容したのである。より具

体的に言えば、彼らは仏教を認識論ないしは心理学とみなすことにより、その近代性を評価しようとしていた。

 しかも仏教は、学理であると同時に応用するものとされた。李沢厚であれば、そこにこそ伝統的な実用理性の発揮

を見いだすかもしれない。しかし、梁出超の自覚では、近代的科学は理論と応用の二部門に分別されるという認識に

たつものであった。とりわけ、清末の政治活動の中での効用が問われれば、それは実践哲学でなければならなかった。

 そして、キッドの社会進化論を援用しつつ、精神の不死を仏教の輪廻説で支えたとき、民族、国家のためには死を

軽んじ、自己犠牲をいとわぬ行為者の精神、すなわち、外山正一が日本人の特性とした「没自的主我心」が理論化さ

れたのであり、新たな国民国家形成のイデオロギーとして仏教が、世界主義の孔教に取って代わることとなったので

ある。

 第↓次大戦後の一九二〇年代、西欧流の国家主義と致用の学への反省を表明した早寝超は、「問題と主義」の論戦

を経た論壇の、「国故整理」運動の流れを受けて、仏学研究を再開する。清末の応用仏教と比較すれば、それは学術

研究として鎮静化されたものであったが、しかし、仏教教理への彼の関心は、やはりなお、因縁論と輪廻説、無我説

で終始一貫していたのである。もちろん、その解釈や表現は時々によって変化し、豊かになりはするが、彼にとって

仏教の根本はこれ以外になかった。また、彼の原始仏教への関心は、先にも述べたように早くから芽生えていたので

あるが、それはヨーロッパの東洋学の刺激を受けた、日本の宗教学界の時流でもあった。梁啓超はこの時期にも、日

本の仏教研究の成果を敏感に取り入れていく。姉崎正治に始まる阿含経等原始仏典への重視や、木村泰賢の生命論的

な因縁論の解釈まで、彼は受容したのである。とりわけ木村の『原始仏教思想論』は、梁崇拝が抱き続けてきた世界

観である因縁と輪廻を、豊かな思想の流れの中に解釈してくれた。そして梁豊麗の晩年を飾った明快な仏学は、良く

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も悪くもモダンな啓蒙の書として人々に受け取られたのである。

本日と

学仏の超啓

梁㎎

注(1) 『改造』三巻五号、中華書局、一九二↓年。なお、これを受けた形で、甘蟄仙も『東方雑誌』(「最近二十年来中国学術轟

測」民国一三年一月一〇日)において、仏教を学んで最も能く積極精神を発揮した者として潭雷同の名を挙げ、さらに、章太

炎が唯識を運用して先入諸子を解釈していることに言及し、梁啓超に関しても、その立論にはいつも仏教が援用されていると

述べている。

(2) 稲葉君山『清朝全史』下巻、第六一節、学風詩文絵画及び戯曲小説の変遷、三六一頁、公羊派の仏説。早稲田大学、一九

 ↓四年。『近世支那十講』第八章、支那学問の近状、三六五頁、公羊家の仏説、上、中、下。金尾文淵堂、}九一六年。

(3) 孟属望『親里超伝』三一五頁「仏学的研究」、北京出版社、一九八○年。壁宿ほか『中国近代仏学思想史稿』第=一丁

目梁啓超的仏学思想」、巴墨書社、一九八九年。麻天祥『晩清仏学与近代社会思潮(上、下)』台北、文津出版社、↓九九〇年。

高振農『仏教文化与近代中国』第三章、第二節「梁啓超及其仏学思想」、上海社会科学院出版社、一九九二年。呉羅謬ほか

「仏教海上伝入中国之研究」(『歴史研究』一九九五年、第二期)。李喜所「楚割超晩年的仏学研究」(『新華中断』一九九五年、

第七期)。巴訳注(ζ9巴冨8①しu器江α-uσ歪σq巳酵Φ)「梁啓超与宗教問題」(『東方学報』第七〇冊、一九九八年)。

(4) 梁啓超「論中国学術思想変遷之大勢(最近世)」(『新民叢報』五八号、二一頁、台北、芸文印書館、一九六六年、影印版。

『飲泳室合集」文集之七、}〇三頁、中華書局、一九八九年、影印版。以下『合集」と略称する)。

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

『合集』文集之七、九六頁。

梁啓超「儒家哲学」(『合集』凝集之一〇三、六二頁)。↓九二七年、清華大学で講演。

梁啓超「清代学術概論」(『合集」専集之三四、七三頁)。小野和子訳『三代学術概論』三一五頁、平凡社、一九七四年。

梁啓超「南海康先生伝」(『合集』文集之六、七〇頁)。

梁啓超「三十自述」(『合集』文集之一一、一七頁)。

尊母超「亡友夏忌避先生」(『合集』文集之四四上、一八頁)。島田度胆『中国革命の先駆者たち』五頁、筑摩圭旦房。

『新民叢報』二四号、「飲三盛詩話」七〇頁、台北、芸文印書館、】九六六年、影印版。

呉季清、本名徳瀟、字面村。『清史稿』巻四九五。『新無賃報』二四号、「白蓮室詩話」六五頁に黄公度の哀詩が収録され

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 ている。

(13) 『宋恕集』(中華書局、一九九三年)の編者胡珠生によれば、当時の維新派には大きく二つの流れがあった。一つは清流派

 の翁同麻、張之洞をよりどころとする張春、康有為、梁出超、唐才常、黄紹贅、注康年らであり、いま一つは洋務派の李鴻章

 をよりどころとする厳復、王修植、孫翌翌、鍾天緯、張換論、章柄麟、置上らである。

(14) 島田度次「章柄麟について」(「中国革命の先駆者たち』二二四頁、筑摩書房、一九六五年)。

(15) 丁文江・趙豊田『梁啓超年譜長編』・五七頁に引く孫宝塔「日益斎日記」、上海人民出版社、一九八三年。

(16) 孫宝喧『忘山男日記」上、九四頁、上海古籍出版社、】九八三年。なお、聖上、仲遜は同一人物であろう。

(17) この年の五月二八日の日記には禅宗、律宗、浄土等多様な仏書のどの門から入ればいいのかという迷いが吐露されている。

また、↓二月二六日中は、宋恕と↓緒に東本願寺上海分寺の松林和尚を訪問。以後、日本僧から日本語や、『哲学論綱』を学

 んだことが後日の記録にうかがえる。

(18) 前掲『梁啓超年譜長編』七五頁、光緒二十三年丁酉「与穂卿大師書」。

(19) 梁啓超「与呉季清書」(『合集」文集之一、=二頁)。

(20)(21) 「与康有為書」(中国近代史資料叢刊『戊戌変法』第二冊 五四四頁)。

(22) 『大阪毎日新聞』一八九八年、一〇月八日、雑報。

(23) この年の『哲学雑誌』第一四巻、第一四八号、四八二頁一四八五頁に「孔子の主義」として梁啓超の支那宗教改革論のう

ち孔教の六大主義に関する議論の要点が摘載されている。ただし六項目目の「重魂主義にして愛身主義にあらず」の説明は欠

けている。次回に陳述することになっていたようだ。また四八七頁一四八八頁に、哲学会春季大会の報告が為されている。

(24) 梁啓超「南海康先生伝」(『合集』文集之六、七〇頁。↓九〇一年作)。

(25) 巴斯箒「梁啓超与宗教問題」三四〇頁、『東方学報』第七〇冊、一九九八年。

(26) 『井上円了選集』第一巻「哲学要領(前編)」九九頁、東洋大学、一九八七年。原本は、前編、一八八六年、後編、一八八

七年、哲学書院。以下、『選集』と略称。

(27) 羅伯雅訳、上海、壁書書士。筆者未見。『井上円了関係文献年表』六六頁、東洋大学井上円了研究会第三部会、】九八七

年、参照。

(28) 梁啓超「近世第↓大哲康徳之学説」(『合集」文集之=二、四七頁。一九〇三年忌)

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本日と学仏の超啓梁

(29) 『選集』第=一巻「南船北馬集第三編」哲学堂の由来、五五〇頁。なお、この四聖画像は「図録東洋大学百年史』一二頁

 に掲載されているQ

(30) 「選集』第一二巻「南船北馬日脚三編」哲学堂の由来、五五五頁。井上円了「西航日録』二〇頁、二十堂、一九〇四年。

康文珊「康南海先生年譜続編」二四頁によれば、康有為は一九〇二年、インドに滞在している。『康南海先生遺著彙刊』(二

二)台北、笠置書誌、一九七六年。なお康有為の寄せた画賛の実物の所在は不明であるが、哲学館の雑誌『東洋哲学』第二

編第一号、巻頭(一九〇四年一月一日発行)に写真が掲載されている。この件に関しては井上円了記念学術センターの豊田徳

 子氏にご教示いただいた。

(31) 「総論」から「仏学時代」までの六章分は『新民叢報』第三-五、七、九、一二、一六、一八、二一、二二号(一九〇二

年)、第七章「近世之学術」は第五三-五五、五八号(一九〇四年)。付録1参碩。

(32) 『新民叢報』第二一号(「論中国学術思想変遷早大勢」第六章、仏学時代、四九頁)。

(33) 梁啓超「論支那宗教改革」(『合集』文集之三、五四頁)。

(34) 『新民叢報』第二三号(「論仏教与群治之関係」四七頁。『合集』文集之一〇、四五頁)。

(35) 同右、五一頁。文集之一〇、四九頁。

(36) 「選集』第一巻、四八頁(一八八六年作)。

(37) 『選集』第↓巻、解説、針生清人、四一〇頁。

(38) 後に井上円了は、その著『大乗哲学』において「仏教そのものは哲学と宗教の両様より成る」(四三九頁)とし、「哲学は

 理論にして、宗教は応用なり」(四四〇頁)という。また、「仏教を理論宗と実際宗とに分」(四一三頁)かってもいる。仏教

 の第一原理たる「真如」は「その体たるや老子の無名、易の太極、プラトン氏の理想、スピノザ氏の本質、カント氏の実体、

 フィヒテ氏の主我、シェー3ング氏の絶対、シュライエルマッハー氏の神体、スペンサー氏の不可知的、ヤソ教のゴッドに当た

 るべし」(三九六頁)といい、「けだし真如は可知的と不可知的との中間にありて存するものなり」(四二九頁)ともいってい

る。「大乗哲学」はもと哲学館の講義録であるが、この講義録の出版は一九〇五年置あり、これを参照したとはいえない。た

だ井上のこのような見解は『哲学要領』にも散見される。なお、引用文に付した工数は『井上円了選集』第五巻所収の『大乗

 哲学』のものである。

(39) 『天竺論』三五、天刑、六一頁、第一原理、第二部不可知界、飾言二(厳訳名著増刊、商務印書館、一九八一年)。

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(40) 『新民叢報』第二二号(「論中国学術思想変遷之大勢」第六章、仏学時代(続第二一号)三一頁。『潔白」文集之七、七六

頁)。

(41) 『新民尊報』第二三号(「論仏教与群治之関係」六、仏教之信仰乃自力而非他力、五二i五四頁。『黒白』文集之一〇、五

〇頁一五二頁)。

(42) 梁啓超「進化論革命者頷徳之学説」(「合集』文集之一二、七八頁)。

(43) 外山正一(一八四八-一九〇〇)は幕臣として英国に留学したが、帰国時は維新にあたる。静岡学問所の教授を経て、外

交官として渡米した際、ミシガン大学で哲学、理学を学ぶ。東大教授に就任してスペンサーの進化論哲学を説く。井上円了が

東大で学んだものはこれである。

(44) 梁啓首の文中(七九頁)に「自達爾文種源論出世以来全量思想界忽開一新天地不徒有形科学為之一変而已乃至史学政治学

生計学人群学宗教学倫理道徳学一切無不受信影響(ダーウィンの種の起源が世に出て以来、全世界の思想界はたちまち一新天

地を開き、有形科学が一変しただけでなく史学・政治学・経済学・社会学・宗教学・倫理道徳学に至るまで、一切がその影響

を受けた)」とあるのは、角田訳の原序(中国語訳には付されてない)に「ダーウィンの『種の起源』出版に就て始めて照破

せられたる進化論の応用せらるると共に、泰西文明の思想界次第にその面目を一新せりき。下等科学は相つぎて其生気を加ひ

其の組織を改め藪に清新なる知識となりにき。……史学や経済学や政治学や殊に人類の宗教的生活と現象とを攻究する学術と

 は深く之が為に影響せらるべきに似たり」とあるのと、ほぼパラレルである。

(45) 梁啓超「進化論革命者頷徳之学説」(『合集』文集之一二、八一頁、八二頁)。

(46) 朱謙之「虚無主義的哲学」(「新中国』↓一八、三三頁、一九】九年)。朱謙之については拙論「虚無主義者の再生」(『東

洋史研究』第五四巻、第一号、一九九五年)参照。

(47) 梁啓超「進化論革命者頷徳之学説」(『合集」文集之一二、八三頁)。

(48) 楽器超「自由書」祈戦死(『合筆』専雲門二、三七頁。↓八九九年作)。楽器超「新自説」論尚武(『合集』専集之四、一

 一二頁、一九〇三年作∀。

(49)高橋五郎『宇宙観』(「第十七章生死及霊魂有無滅不滅問題」四五一頁、前川文栄閣、一九〇四年)。

(50) 梁啓超「中国之武士道」(『合集』専集之二四、楊叙、=頁)。

(51∀ 梁啓超「余之死生観」(『合集』文集之一七、一頁)。

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本日と学仏の超啓梁

(52) 同右、八頁。

(53) 同右、一二頁。引用句は『荘子」田子方。

(54) 梁啓超「清代学術概論」(『合集』専集之三四、六九頁)。

(55) 梁啓超「中国仏法興衰沿革節略」(『合集』専集之五一、三頁)。

(56) 梁啓超「説四阿含」(『合集』専集之六二、=二頁)。

(57) 前掲「中国仏法興衰沿革節略」=二頁。

(58) 同右、七頁。

(59) 梁啓超「仏教之初輸入」付録二「四十二章経弁偽」(『合集』三栖之五二、七頁)。

(60) それぞれ「説四阿含」の四頁、五頁、一二頁に引用されている。

(61) 梁啓超「読異部宗輪論述記」(『合集』専集之六一、三頁)。

(62) 梁啓超「説大毘婆沙」(『合集」専集之六四、三頁)。

(63) 梁啓超「説六足発智」(『合集』専集之六三、三一四頁)。

(64) 前掲「説大毘婆沙」一〇頁。

(65) 同右、一五頁。

(66) 井上円了「仏教心理学」(『選集」第一〇巻、一九頁)。

(67) 木村泰賢『原始仏教思想論』一六一頁、丙午出版社、一九二二年。

(68) 『梁上超年譜長編』九六七頁、民国=年=月八日、一七日、復季常書。九六六頁、民国一一年↓一月二三日、与開成

永忠書。=月二九日、与思順書。

(69) 同歯、九八二頁、民国一二年一月二九日、量目言書。一〇六七頁、民国一四年一二月二〇日、致仲揆、油平両面書。

(70) 『桑原隆蔵全集』第一巻、東洋怪説苑、二八六頁「北方仏教研究の価値」、岩波書店、一九六八年。

(71) 梁啓超「仏陀時代及原始仏教教理綱要」(『合集』専集之五四、一頁)。

(72) 前掲「梁啓超晩年的仏学研究」六九頁。

(73) 前掲「仏陀時代及原始仏教教理綱要」九-一四頁、従認識論出発的因縁観。前掲『原始仏教思想論」一一五一一一六頁、

 二二九頁、二五一一二五七頁に対応。

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(74) 同右、一四頁。木村書二六六頁に対応。

(75)同右、一四一一六頁。木村書一八九一一九二頁に対応。

(76) 同右、一七-二〇頁、木村書↓九四-一九九頁に対応。

(77) 前掲『原始仏教思想論』一二〇頁。

(78) 同右、↓二三頁。

(79∀ この論争に関しては、山折哲雄「やせほそった仏陀」(『仏教』一号、一九八七年)に詳しい。

(80) 前掲「仏陀時代及原始仏教教理綱要」付録「説無我」二九頁、ここでは「行」は「執意、思惟」と説明されている。

(81) 北京図書館編『民国時期総書目』宗教、八二頁、書目文献出版社。筆者未見。

(82) 日本明治の哲学受容史と井上円了の哲学観との関係は、針生清人「井上円了の哲学」(『井上円了研究』第一冊、東洋大学

井上円了研究会第三部会、一九八一年)に詳しい。

  なお、本稿作成に当たって、井上円了関係の史料については、東洋大学井上円了記念学術センターから大部の寄贈をいただ

 いた。ここに厚く感謝の辞を呈したい。