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Title "Kitab-i Bahriya"の性格 : Ayasofya 2612 寫本本文を中心に Author(s) 新谷, 英治 Citation 東洋史研究 (1990), 49(2): 331-363 Issue Date 1990-09-30 URL http://dx.doi.org/10.14989/154320 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title "Kitab-i Bahriya"の性格 : Ayasofya 2612 寫本本文を中心に

Author(s) 新谷, 英治

Citation 東洋史研究 (1990), 49(2): 331-363

Issue Date 1990-09-30

URL http://dx.doi.org/10.14989/154320

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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関山門川町

σ'-

∞山}MHlq

∞jw

の性格

ーーー〉官印。守防NA山HN

寓本本文を中心にーーー

t主

uB師。『

38HN定本

〉〕『曲師。同官民

HN篤木本文の構成上の問題

〉吉田O同

3NSN篤木本文の内容上の問題

-107ー

E 間以お

tま

オスマン朝と地中海の閥わりはどのようなものであったろうか。

フロ来

トルコ人たちは陸上における遊牧を業とし、水上での活動にはなじみが薄か司たと思われる。

一一世紀にアナト

リアへの流入を本格的に開始したオグズ系のトル

コ人たちもまた例外ではなかアたであろう。それにも拘らず、彼らの後

奮がアナトリアにおいて興したオスマン朝は、一五|一

六世紀の聞を通じて、地中海、黒海あるいは紅海を制覇する海上

勢力となった。このことはオスマン朝史に特色を輿える大きな要素であり、歴史上の他のトルコ系諸民族、諸園家の歴史

331

をも覗野に入れた場合、

オスマン朝の際だって特徴的な事象として浮び上がってくる。

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332

このようなオスマン朝の海上、

なかんずく地中海での隆勢が如何にして可能になり、

またオスマン朝の地中海との関わ

り方の質鰻は如何なるものであったのか。政治的、軍事的にはもちろんのこと、経済的、文化的な側面においても、

オス

マン朝にとって地中海は如何なる一意義を有したものであったか。こうい?た黙は大第に興味深く、

(

1

)

ト邑久ノ。

また重要な問題と言え

それでは一五|一六世紀のオスマン朝の地中海との関わり方は如何にして検討可能となるか。まず我々は、

オスマン朝

が地中海に閲してどのような知識を有していたのか、即ち、オスマン朝が地中海を如何なるものとして理解していたのか

を正しく知る必要がある。それは、オスマン朝と地中海の日常的な閲わりの様相を明らかにしてゆくことに通じる。その

ような意味で研究の出護貼とされるべき文献は

一六世紀初頭にオスマン朝の海軍指揮官の

一人百円同月白

d

スマン・トルコ語で著わされたE

百件同ゲム切与円

q白v

w

(

『海洋の書』)であろう。

によってオ

(

2

)

ピlリl・ライlス及び『キタlブ・バフリエ

』につい

ては、三橋富治男氏によってすでに我が園でも紹介されている

-108ー

がここで簡単に整理しておく。

ピlリl・ライlス(?l一五五四/五)はオスマン朝海軍指揮者の一人として有名な穴同日仰一周回J

印(?|一五一一)の甥

(

3

)

であり、血筋はトルコ系、ギリシャ系のいずれとも言われるが、定かではない。生年は正確には知られていないが、

六五年ないし七

O年頃にガリポリで生まれたと考えられている。買の名は〉fB包ゲ-a

〉町と・担問』}宮ロザ同BB包

O白E-

(

4

)

自削ロHF削

Eロ円目白羽円であったとされる。幼小からおかしカマlル・ライlスの許で船上の生活を遺っていたらしい。

一四九五年の弟ジェムの死により封外政策を積極化したバヤズィット二世の求めに雁じてカマlル・ライlスがオスマ

ン朝海軍に闘属した時、

ピlリl・ライlスもおじと行動をともにし、この頃から本格的にオスマン朝海軍と関わりを持

つようになった。ピlリ

i・ライlスの名前がオスマン朝の海軍史に登場するのは一四九九一五

O二年の封ヴェネツィ

ア戦争が最-初である。この時、ライlス(『岳臼一般に船長の意)として何隻かの戦艦を卒いた。

カマlル・ライlスの死

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一五一六!一七年には封エジプト遠征に参加した。

--UEF『rRag-?ー一五四六)の許でその名を知られることになるが、

以後、

528の海戦での勝利で知られる烈}岡山令河田J

帥(関宮司

やがてエジプト方面の艦隊責任者となり、

スニ巳

ズからアラビア海、ペルシャ湾にまで乗り出してポルトガル勢力を牽制した。

一五五一年嘗時ポルトガルが占領していた

(5〉

ホルムズを包園したが、敵から賄賂を受け取って敢えてホルムズを攻め落とさずに撤退したとの嫌疑がかかり、これが原

因となってスルタlンの不興を買い、

一五五四/五年(ヒジュラ暦九さ己庭刑され、財産も浸牧された。

混年が正しいと

すれば、

Oないし九

O歳で現役の艦陵長であったことになる。これを不自然とするならば、生年はもっと繰り下げられ

るべきかも知れない。〔同日仏。位E

・と宮間三

58日目

l×〈同一〉向。ニロ曲目忌吋品目∞|見他〕

いわば地理的情報や航海方法を主睦にした地中海航海案内とも言うべきものであり、成立

の事情は『キタlブ・パフリエ』〉苫阻止

ENG巳篤本〈後述)の序文によれば、大略次の逼りである。

『キタlブ・パフリエ』は、

海洋の知識含弓削己B即と船乗の技術自己zf]ミ窓口ピ叫についてまとめ、スルタlン〔

・スレイマ

lン一世〕に献

上するために書いた。カマ

lル・ライlスその他とともに地中海の海岸、島々の海岸の人の住む所ヨ矢田口HEH、腰撞

となった所、港、川、岩礁、浅瀬などについてしっかりと見てきたが、地園では距離が縮小されてしまうためにそれ

-109ー

ぞれの地黙の細かな情報を示せない。そのため文章で説明を加える必要がある。本書はヒジュラ暦九三二〔西暦一五

以前から下書は作成してあったが、

一一六〕年にガリポリで書き上げられた。

だ〈ω自工ぽ印刷『〉と考え、清書をしないままであった〈EZ窓口主音己目守口司官

ZZEC。

(6)

ム・パシャの命を受けて、すっかり清書を終えた。〔〉吉田。同百一ω|叶〕

スルタlンに献上するのは困難なこと

しかし〔大宰相〕イプラヒ

l

著わされた理由は、著者の述べる所によれば、自分が賓際に知り得た地中海の姿と航海技術についてまとめ、貫際の用に

供することであった。しかし、それにとどまらず歴史的な情報も記述されており、様々の角度から研究されるべき内容を

333

含んでいる。

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334

さて、このように『キタlブ・バフリエ』は水夫あるいは氷丘一のための航海上必要かつ有盆な質践的・賞用的情報を提

供する事を第

一義的な目的とし、買態上歴史的事貫よりはむしろ地理的情報の記述に重きが置かれた著作であり、その意

味では地理書の範暗に属する書物であるが、執筆された一六世紀初頭のオスマン朝における地中海に閲する知識・理解が

集約されたものと言える。そしてオスマン朝側で書かれたそのような著作は今日知られている限り、他に存在しない。その

意味で、

オスマ

ン朝と地中海の関わりを考える場合、我々はまず地中海に関する基礎的な情報を提供し、類書をもたないこ

の著作を分析し、オスマン朝の地中海に閲する知識と理解、認識の貫際を検討することから始めねばならないと言えよう。

『キタlプ・バフリエ

』は

後述の通り、

ヒジュラ暦九二七年に完成したもの(以下九二七年本と呼ぶ)と同じく九三二

年に完成したもの(同じく九三二年本と呼ぶ)の二種の系統を持つ。それぞれの系統の潟本に基づいて、

一部或いは全睦の

翻語、序文あるいは本文の一部を紹介、検討する作業は既に一八世紀以来先翠の手によってなされている(別掲参考文献表

参照〉。

しかし、かつて

ω22rが指摘した通り〔ω28r53FRH〕、地中海の各地を説明している本文全瞳を締盟とし

て分析する作業は未だに行なわれておらず、現在も依然その朕態は改善されていないと言わねばならない。

-110ー

本稿は

『キタlブ・

パフリエ』九三二年本の一

寓本の本文金銭の整理と分析を行ない、

本文の構成上の問題及び内容

上の問題を検討することによって『キタIブ・バフリエ』の本文の性格を明らかにすることを目的とする。これはオス

ン朝と地中海の関わりを考えていくためのごく基礎的な作業の一部である。

〉可

gohENEN寓本

l

『キタlブ・バフリエ』の種々の寓本

『キタ13フ・バフリエ』は

ヒジュラ暦九二七年に完成したもの(九二七年本)と同じく九三二年に完成したもの(九一一一一一

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年本)の二種の系統を持つ。九二七年本の潟本が単に二系統に分かれて流布したのではなく、九三二年に著者自身によ司

(

7

)

(

8

)

て改めて書き上げられたものが九二七年本とは別個に流布していアたのである。

今日いずれの系統についても、複数の完本を比較検討した校訂本はない。

HM

白己保同

Emによる九二七年本の一潟本のテ

クストとドイツ語需の出版は未完のままである。従って賞態として我々は各圃書館等に所蔵されている寓本の形で利用で

9)

きるのみである。なお、著者自身の直筆本は南系統ともに所在が確かめられていない。

同日仏O恒ロ

-E宮∞O

同巴ω♂〉『

2F85足によれば、九二七年本一六寓本、

九三二年本一三寓本、計二九篤本、

また

ω05mW53によれば、九二七年本二二潟本、九三二本一

O寓本、地園のみのもの二、

(

)

報告者によって相違が生じているため、質際に確認する作業を急がねばならないが、ともあれ現在報告されているかぎ

計三四寓本が知られている。

りにおいて、

ω2口mwが指摘する地園のみのものを別にして本文の附されている寓本だけを考慮すると、

九二七年本はヨ

-111ー

ーロッパ各地及びトルコで所識され、

一方九三二年本はフランスの回

EoF255昨

FOE-m所臓の一潟本

(ω=z-bHE巳

(

Z28由〉を除いて全てイスタンプルに所在する。

以下の議論は、本来であれば現在知られている完本すべてを比較・検討し、

それぞれの系統についてテクストを確定

したうえで準められるべきものである。しかし、それらの作業はやや時聞を要すると思われ、また唯一全睦がファクシ

ミリ版で出版されて最も利用しやすい形で提供されている、九三二年本に属する〉百

g守由民HN

潟本(イスタンプルの

ω巴4日gqo園書館所蔵〉すらその全障の分析と考察は充分に行なわれていないのが現献である。それゆえここでは考察の

封象をこの〉吉田O

守忠告ω潟本に読り、特に本文の銃述の展開、内容の問題を検討していきたい。

2

〉官印oh可同NEN

寓本

335

以下で検討の封象とするイスタンプルの

ω己ミBSFヨ園書館所臓〉

usg守白NEN

寓本は、前述の通り『キタlブ・バ

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336

(ロ)

フリエ』の諸寓本のうち、現在全鐙がファクシミリ版で出版されている唯一の完本である。奥書公ozzoロ)を持たないた

一六世紀後牢から

一七世紀前牟に成立したと考えら

〉UH

印印O

守山NGHN

潟木本文に附された地固が粗雑であることを根援に、〉苫印O

『百

(

自己潟本が最も早い時期の寓本に麗し、原本に極めて近いものの

一っと考えている。

め、音一一再荷生、室百潟年代は不明である。書潟年代について

ωoc口岳

は、

れる他の九三二年本系の潟本と比較して、

文字は明瞭なナスフ瞳であり

一旦日貼が施されている。母一音貼は文字と墨の濃さが違うため、時を違えて施されたか、

あるいは書寓生とは別の手になるも

のと考えられる。

〉百印。『可白MEN

寓本の構成と内容の概略は次の遁りである。

よっている。寓本自世には本来-記されていない。

なお以下のページ数はファクシミリ版に記入されたものに

序文(二|七ページ)は散文で書かれ、

スルタ1ンへの献辞、執筆動機その他を述べる。解説部(七|八五ページ)は韻文

岬、町などの地形、航海上の注意貼

-112ー

であり、著者の知るところの航海法や、地理的、歴史的な情報を線論的に述べる。

(M)

を二一

Oの地域に分割し、それぞれに一一軍を充てて沿岸地域及び島興に所在する港、

本文(八六|八四八ページ)は、地中海

などを細かに述べる。各章毎にその末尾に閲係地域の地固が附される(総数一二五回)。政文(八四九|八五五ページ〉は序文

と同様に韻文であり、執筆の動機から完成までの事情を簡単に述べて本書を締めくくる。この政文の後(八五六|八五八ベ

ージ〉に

先の一二五固の地固とは別にマルマラ海関係の地圏三葉が附けられている。これには説明文は無く、地聞のみ

である。著者自身が本文で、

最初は

〔ダlダネルス〕海峡のヒサlル

〔ω口一作曲口々白(現(U

同Erz-o)及びその封岸の関白]正巳・回同一可(百

-F向『一『)〕カ

ら出渡したのであり、

〔地中海の全域を説明した後〕またその南城

E弘正由るで移了すべきである::;。〔〉苫臼O

守同日

M吋吋〕

と述べている貼に鑑みて、これらのマルマラ海闘係の地園は後に附された可能性が高い。

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1l的同門11

Tripoli

Beyru

t

闘全

海中

。Jarba

Alexandria oCairo

Misrata

~fι千)!鼠

Jミ~l'Q0 t! ,J

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338

まず絞越の流れ、即ち各地域がどのような順で説明されているかを確認する。絞越はダlダネルス海峡のエーゲ海への

出口に近いスルタlニlヤ及びキリトバヒルに始まり、

エーゲ海に面したアナトリア、ギリシャの海岸部、及びエウボイ

ア明手。広(ZO問

33ロ芯)島を説明する。次いでキクラデス諸島西部・西スポラデス諸島を除く

エーゲ海の島々を説明した

後、アテネの近退から西に向って地中海の海岸部とその近迭の島々を順に解説する。ジブラルタル海峡から北アフリカに

移り

エジプト、

シリアを経てアナトリア南岸部を述べた後、

エーゲ海の残りの島々を説明して、

最後のサロス

ωRS

エーゲ海と地中海を園む海岸部とその中の島々のうち、主要なものは殆ど網羅されていると言って良かろう。

説明される地匡の移動方向は概ね規則性を有しており、また、各一章での港、岬、町等の説明順は原則的に地匡の移動方向

と同一になっている。このように『キタlブ・バフリエ』の本文の紋述形態には規則性が存在すると言って良い。

湾に至る。

しかし明らかに規則性を破っている部分が存在する。それは

エーゲ海の海岸部とその島々に関わる部分、及びイタリア

-114-

の西岸部からジブラルタル海峡に至る海岸部である。

)

可ム( ニE

}MHmpwm(ωOBEHF円。r〉、

この部分の説明は、先ず最北部の島々、即ちボズジャアダ切ONS

〉岳、

レムノスド伽ヨロ。印(ピ自己)、

イムロズ

HBHON

〉門芯2、サモトゥラケ

ω同ヨ0・

ハギオス・エウストゥラティオス

Eb柱。回開

g可九伊丹FO印(回ONEE〉、

タソ

ス叶}品目。印の各島、次いでその封岸のギリシャの海岸部を説明した後エウボイア島に移り、

その後はアナトリア海岸に近

いレスボス戸昨日吉田(玄EM--C島に飛ぶ。そこから南東方向にアナトリアのエ

ーゲ海岸とそれに近く位置するキオスの

ES

(rrHN)島、

サモス

ωbgg島、

イカリア

FRE島等の島々を述べ、

スポラデス諸島の南端ロ

lドス河

ES島に至る。

キクラデス諸島の東牢分を停って

エウボイア島の南のア

ンドゥ

ロス

LFE円。田島に

ロードス島からは

一時して北西に進み、

至る。

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339

圃2 エーゲ海域

Izmir

C:,

o

'"

-115ー

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340

この島の説明を終えた後、

「HmユゲロN

〔エウボイア〕

から下のル

lメリの海岸を説明する」と題して新たな一章(第四七

章)を起こし、その冒頭で次のように述べる(一部先の引用と重複する)。

「島の閲

(mERE〉」といって知られており、異数徒たちが〉

58白-DmEと言い習わしている島々を順に然るべく

説明した。さてそこで、

ルlメリの海岸とフランクの海岸を

ω与S海峡〔ジブラルタル海峡〕

に至るまで説明せね

ばならない。その後マグリブの海岸を読現しよう。巡ってアレクサンドリア

rwg含ZE、シリアの陸地を逼ってア

ナトリアの海岸まで

〔を説明しよう〕。再びロ

lドス島へ来て、

そこからカルパトス同国名曲〔町立『苦手。臼〕島とクレタ

〔穴宮〕、

〔西スポラデス諸島の〕

〔キクラデス諸島の〕アナフィ

Z仰向釦〔〉ロ

SE〕、ミロスロ四郎同

BE--r〔玄伽-o臼〕、

スキロスゲEHM〔ωr司円。臼〕、スキアトス同回目内同仏口印〔ωrspo回〕、アロンニソス』削BZY

ケア宮口門広仏

同日間件〔同ハ『間同町〕島と

〔E0520臼〕の諸島を巡って海峡のヒサ

1ルへ我々は到着しよう、順番が凱されないように(冨『仲間Frog-Bミω)。とい

うのは、最初は海峡のヒサ

lルから出裂したのであり、またその雨域で終了すべきであるからである。

さてそこで、

まずル

lメリ海岸にあるアテネ〉

SE〔〉昨日仏ロ巳〕の海岸部を設現しよう。

先に述べた

ZFFZの

-116ー

OHNH-・司Z山門の正面に位置するル

1メリ

〔の海岸〕

に天然の港がある。

」の港を口氏NHOミgHと言う。

〔〉凶面目。『uZ凶日

N

吋吋〕

このように、

アテネに近い海岸部から沿岸部を西方に向って順に説明してゆく。ピ

lリl

・ライlスがこの箇所で述べて

いる通り、

カルパトス島、

クレタ島及びキクラデス諸島の西半分に位置する島々さらには西スポラデス諸島は本文の最後

に説明されている。

直ちに気附くことは次の二貼である。

ωエーゲ海の説明が本文の最初と最後に二分されていること、

ωその二分の仕方

及びそれぞれにおける説明順が奇異な印象をあたえることである。

いずれもエーゲ海のアナトリア側とギリシャ側の複雑な海岸線及び多数の島々をどのような順で説明するかという問題

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である。

ωの離はそれ自睦は特別問題とするに嘗らないかも知れない。エーゲ海が最初に扱われる理由をひとまず措くと

すると、エーゲ海が通過黙ではなく説明の出護貼であり同時に伯仲了貼であるために、冒頭で扱われる部分と末尾で扱われ

る部分に二分されていてもそれはむしろ自然であろう。問題は

ωである。

幾っか疑問が浮ぶ。エーゲ海最北部の海岸部を西方へ、次いで南方へと進んでエウボイア島に至り、そこからレスボス

島へと絞述が移るが、西スポラデス諸島がこの聞で説明されないのは何故か。また、アンドクロス島からすぐに「ル

lメ

リの海岸とフランクの海岸」の説明に移らなければならない理由は何か。先にキクラデス諸島の西牢分の島々及びカルパ

トス島、

クレタ島等を説明しておいても一向に差し障りはないように見受けられる。

残念ながら現時貼でこの疑問に劃する明確な解答の用一意はないが、偲設として次の二黙が翠げられよう。

のピlリI・ライlスの説明順が、エーゲ海における政治的朕況、或いは地域的な纏まりとそれら地域の相互関係など、

一貼目は、こ

一五二二年オスマン朝の軍は聖ヨハネ騎士修道曾の本援ロ

1ドス烏を攻略し、修道舎の支配下にあった、

ロードス島を

-117ー

嘗時の何等かの貫態を反映しているのではないかということである。

一例として考えられるのは次のようなことである。

含むスポラデス諸島(ドデカネス諸島〉はオスマン朝の支配下の島々となった。しかし、九三二年本が纏められた一五二六

年嘗時キオス島、カルパトス島、クレタ島、キクラデス諸島、西スポラデス諸島はオスマン朝の支配下には入っていな

(日〉

ぃ。ピ

IP--ライlスの佐越順はこういった事情を反映している可能性がある。卸ち、著者はまず嘗時オスマン朝の支

エーゲ海最北部の島々とその劃岸部及びエウボイア島、

配下にあった、

レスボス島、さらにはそこから南西方向のアナト

リアの海岸とスポラデス諸島を含む沿岸の島々を説明し(ただしキオス島はオスマン朝支配下になく、ここでは例外的)、しかる

後未だ支配下にはなかったがエウボイア島方向へ黙々と績くキクラデス諸島東部を停ってギリシャ岸に至り、地中海を一

廻りしたあとで、支配下にない島々のうち残ったカルパトス島、クレタ島、キクラデス諸島西部、西スポラデス諸島をま

341

とめて説明したのではないか。こう考えれば、最も奇異に思われるエウボイア島からレスボス島への飛躍が幾分なりとも

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342

理解しやすくなる。しかし、あくまで推定にとどまる。

二貼自は、

ピlリ

l・ライ

lスが何等かの先人の著作を利用、あるいは参考にしているため、

その文献の内容が反映さ

れているのではないかということである。その可能性もけっして否定できないであろう。いずれの考え方についても、十

分な材料を用一意できていない現肢では推測に推測を重ねる結果となるため、これ以上深入りすることは避けたい。

イタリア牢島南端部

iru (Policastro)

圃3

(2)

西地中海北岸部分

0. Isq五Iqa(Scalea)

Qalるwrl地方(Calabria)

T己rpiya(Tropea)

Niqutara (Nicotera) 。

Milas白ct. ~_ ~(M加zo)\ _j /'ヌ

oMisina (Messina)

Panyara (Bagnara)

0. Rija (Reggio) Jijliya島(Sicilia)

Kurdo量Iu-Alpagot1935所収 Ayasofya2612潟本

(フ ァクシミリ版)p_548の地図をもとに作成。海

岸線,町の相封的位置は原闘に従っている。

-118ー

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この部分では、

アドリア海からタ1ラント湾にかけての地域を述べた後、

シチリア島からコルシカ島そしてパレアレス

諸島を説明する。その後本文五四四!六一七ページにわたってカラプリア半島南部からジプラルタル海峡までを述べる。

それぞれの地匡(章)の順序は、イタリア半島西

ここは一三の地匿に分かたれ、本文の第一二七

1一三九章に相嘗する。

部では南から北へ移動し、フランスからスペインにかけては東から西へ移動する。この貼は本書全瞳の銃述の流れに従っ

ており、特に問題はない。しかし、地巨(章〉の中での各地貼の錠述は、それぞれ北から南へ、

る。五四四ページから始まる第一二七一章ハ本稿一一一二ページ表1注②参照〉は、

西から東へと逆行してい

残りの同包色削ロの島々

〔嘗時スペイン王園領であったシチリアなどの島々〕を我々は説明し終えた。

〔ここまで〕

来た。プリア]U

ロ-uE〔2同日目白寅際は

pzrE〕海岸から〔説明を〕再開しよう、順番に従って。

さて、

いま述べた海岸のうち、最初はポリカストロ司口]口

02号。〔FZB号。〕海岸を説明しよう。

まさにこ.のポリカストロと同

Z帥

Z同とトゥロベア吋口召ぞ白〔斗円。宮ω〕はプリアの諸城である。

ナポリ〉ロ削σ巳ロ

-119ー

〔Z30E〕とメッスィナ冨

EE〔7P25〕海峡の聞にある海岸である。

しかし南東側に

O同JEEHνq削gという岬がある。

さて、上述のもののうち、

ポリカストロは町

(臼

EHH乙である。その近くに、

その岬に

O同自という停泊地が

ある。

しかしそれ程の停泊地ではない。

というのは山の麓であり、

また、

深さが二尋牢だからである。:::〔〉ヨ・

曲。同古川町企lE印〕

とあり、地匡内で最も北に位置するためそれまでの絞越の形式に従えばこの章の末尾に説明されるはずの

Hd-Dostz

が、ここでは最初に述べられている。そして幾つかの町、港などを北から南方向に順に説明した後、

:さてこの句削ロユ円白から〉

-EE可口は南方に五マイルである。この〉宮白

EZから

OE白色問。己喝口即ち「股鍬

肢の尾(の

EE』ロヨ

Z〉」は南東・南西に(白

FEZ-。EZ)五マイルである。ここから

og口Eは一マイルである、南

南東に。

l中略|この

O営口口一回からレ

vジオ列ぶ由〔MNomm-o〕の城は南南東に五マイルである。レッジオは城(昌弘〆〉

343

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344

である。その城の前は砂演である。即ち、開けた波静かな水域である。もしその砂演で錨を下ろすならば、

五尋〔の水深のところ〕

で停泊する。

レッジオの城からメッスィナの城は西北西に一一マイルである。さらに、

ジオのあとは却帥ロ』口語宮の入り江が良い停泊地である。深さは一一一等である。絶壁のところである。

さてこの

ω削ロ』己司帥ロから明,

pgは南南東に六マイルである。かく知られるべし。以上。〔〉可白白色

3・24

と締めくくられている。

さらに次の第一二八章は「本章は司巳三〉ロ

S己P日円からポリカストロに至る海岸を説明する」と題して、

ナポリから

解説を始め、順次南下して先のポリカストロまでを説明する。以下ジブラルタル海峡のスペイン側を説明する第二ニ九一章

まで同様の形態をとる。

このような明瞭な逆行現象は、島油供の場合も含めて海岸部の説明に闘する限り他では殆ど見られず、極めて特異である。

もその理由には全く言及していない。筆者も理由については、

ジェノヴァからクレウス岬の聞の逆行現象については宮山

22ロが既に指摘している〔

ζg可Egg-8〕が、

エーゲ海の記述の場合と同様、現段階では確定的なことは

γ向同ロ門H.

白ロ

-120ー

言えない。ただ、これもまた偲設の域をでないが、次に述べるような考慮すべき事柄があるように思われる。

自在日mは、この逆行部分のうちロ

Iヌ河デルタ地帯の記述内容を分析し、

『キタlpフ・バフリエ』執筆の資料の問題

に言及している〔百a-EmHSω〕。

その論文で穴5印一

smは、

まず文中で〉Ad司曲目ヨロユ〔

E官。臼』Y向。ュ2〕の川と呼ばれるロ

ーヌ河、

ドナウ河、ライ

ン川が

ω冨J円同

NZNロZと言われる大きな山から流れ出す〔〉苫目。守防日印宮〕

というくだりに注目する。

ここで同広田

-smは、

これまで意味不明であった

ω冨ペ岡山ZNりZが正しくは

ω富国初

ZMNUZ

であり、これが

ω巳ロゲ回目白血丘区(イタリア語名

3・Fg里丘ロ。、

ドイツ語名

ω自EFgEE〉を表わすと考え、さらにそれ

を現スイスのの円

2vEFロ地方の〉

EZ山地の重要な峠皆・切叩

BEEに比定する。

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そのうえで開反∞-Emは、そのようなヨーロッパの内陸部についてのピ

lリl

・ライlスの地理概念が、

上の三川の源

流を〉仏

cg山地の一帯においているプトレマイオスの『地理皐』の読明に一致するという。

さらに、

それは決して皐な

る偶然ではなく、『キタlプ・パフリエ』のこの部分についてピ

lリl・ライlスが、嘗時既に存在していた、『地理撃』

(叩山)

のラテン語誇あるいはイタリア語語に依接した故であると指摘する。

h-2-J

ナ'+JYL

〉仏三曲山地とあるところをさらに

ω3E-

回叩同ロ阻止5峠に限定して記述したのはピ

Iリl・ライlス自身の所作とする。

自在日ぬの主張は多分に推定を含み、その意味で俵設に留まる。従って直ちに全面的に受け容れられるものではない。

しかし、従来研究者が注目することのなかったヨーロッパ大陸内陸部に閲する記述から、

『キタlプ・パフリエ』の典擦

資料の存在の問題に迫ろうとした貼で注目すべきものと言えよう。

そこで、上で見た『キタlブ・パフリエ』

の絞述の逆行現象をこのような自主百∞の考察も考慮に入れつつ考えてみ

-121ー

ると、少なくともこの逆行現象企起こっている部分ではピ

lリl・ライlスが何等かの典援資料あるいは参考資料に基づ

いて絞述したのではないかとの念を強くする。即ち、典援資料の絞述形態に制約されたため、『キタlブ・パフリエ』の

他の部分の絞述形態とは異質な述べ方が入り込んだ可能性がある。この考えもあくまで偲設に過ぎない。また、偲に逆行

現象部分で何等かの典援資料が貫際に存在したとしても、それが白色Em言うところのプトレマイオスの『地理皐』系

統の文献と限られる必然性はない。烈広明-5mの主張はそれほど固い根擦の上に立っているわけではない。ここでは、少な

くとも逆行現象の部分に閲する限り、典援資料の存在を想定する方がより員寅に近いと思われることを指摘するだけに留

(

)

める。

2

本文の構成の数量的分析

345

次に、

『キタ1.フ・パフリエ』〉苫

g守白NEN

寓本本文で扱われている地域を幾つかの匡域に大きく分割し、構成を数

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1lNNHll

417224305496136452刈

3

8

5

4

三ニρ12446Z804554550670Z7676

4

;t

j

!

l

j

l

l

i

l

i

-

-

-

-

-

111LaLaLn仏仏仏仏ハ札口仏

ZZL110000

『キタープ・パフリエ.!lAyasofya2612篤本本文の区域別分量整理

全草般に o ,-. ベ ー 全ぺ一口ぺ一口数 ① 金行蚊 I己 完~署長

報告件 へ-:/ジ敏明Z豆 夜行数君 主ゑ諏4イ1 tl

1-81 81 38.6 1-323 323 42.3 4.0 3370 43.9 41.6 1-65 65 31.0 86-355 270 35.4 4.2 2887 37.6 44.4 1- 9 9 4.3 86-129 44 5.8 4.9 485 6.3 53.9

10-33 24 11.4 130-242 113 14.8 4.7 1242 16.2 51.8 34-46 13 6.2 243-276 34 4.5 2.6 296 3.9 22.8 47-65 19 9.1 377-355 79 10.3 4.2 864 11.2 45.5 195-210 16 7.6 796-848 53 6.9 3.3 483 6.3 30.2 195-205 11 5.2 796-837 42 5.5 3.8 401 5.2 36.5 206-210 5 2.4 838-848 11 1.4 2.2 82 1.1 16.4

66-119 54 25.7 356-485 130 17.1 2.4 1063 13.8 19.7 66-93 28 13.3 356-429 74 9.7 2.6 602 7.8 21.5 94-106 13 6.2 430-457 28 3.7 2.1 217 2.8 16.7 107-115 9 4.3 458-476 19 2.5 2.1 167 2.2 18.6 116-119 4 1.9 477-485 9 1.2 2.3 77 1.0 19.3

120-139 20 9.5 486-617 132 17.3 6.6 1511 19.7 75.5 120-126 7 3.3 486-544② 59 7.7 8.4 677 8.8 96.7 127-139 13 6.2 545-617 73 9.6 5.6 834 10.9 64.2

140-169 30 14.3 618-726 109 14.3 3.6 1119 14.6 37.3 140-156 17 8.1 618-684 67 8.8 3.9 770 10.0 45.3 157-169 13 6.2 685-726 42 5.5 3.2 349 4.6 26.8

170-194 25 11.9 727-795 69 9.0 2.8 619 8.0 24.8 170-177 8 3.8 727-750 24 3.1 3.0 219 2.8 27.4 178-194 17 8.1 751-795 45 5.9 2.6 400 5.2 23.5

1-210 210 100. 0 86-848 763 100. 0 3. 6101 7682 100.0 36. 6伺

本文736ベージの内 説明文の合計 537ベージ (70.4%) 地図の合計 226ページ (29.6~の

注①章の末尾で行の長さを次第に減じて中央に揃え逆三角形型に交を結ぶ場合など行の長さが不揃いな場合は,叙述の長さを比較する便宜上遁常の行の長さに換算して数えている。従ってここでの数値は寅際の行数より少ない場合がある。

②各章は原則的に前章とベージを改めて書き始められているが,第127章は例外的に第126章の関係地図の描かれた544ページ下部に冒頭の 2行を有する。本表では便宜上第127章が545ベージから始まるものと看倣している。

表 1

)17602726172884336082832

イ一ロh11337190667556835009787

ー・・・・・・・・

l

}

}

}

.

.

.

.

.

.

.

.

1111010100仏

121110000

z至宝z耳ま

エーゲ海・イオニア海東部巨域冒頭部分エーゲ海北西部(丘vboia島まで)アナトリア西岸 (Rodo;;島まで)キクラデス諸島東部 (Andros島まで〕イオニア海東部 (Dubrovnik近迭まで〉

末尾部分エーゲ海南西部 (K白 島まで)西スポラデス諸島及び Saros~

アドリア海・イオニア海西部匡域アドリア海① (Veneziaまで)アドリア海② (Viesteまで〉プリア海岸 (Tarantoまで〕カラプリア海岸 (Spartivento~I甲まで)

西地中海区域西地中海の諸島西地中海北岸

北アフリカ治岸匡域マグリプ (Misrataまで)北アフリカ東部 (Ramleまで)

シリア・南アナトリア沿岸匡域シリア海岸 (Ayasまで〉アナトリア南岸 (Marmarisまで〉

本女全慢

申叫判的

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量的に分析した場合どのような特徴が見出せるか検討していきたい。表1は本文をエーゲ海・イオニア海東部巨域、アド

リア海・イオニア海西部匿域、西地中海匡域、北アフリカ沿岸匡域、シリア・南アナトリア沿岸匿域の五巨域に分割して

章数、ページ数等を整理したものである。エ

ーゲ海・イオ

ニア海東部巨域については、本文の冒頭で説明される部分と末

尾に説明される部分を匿別したうえで、それぞれをさらに小さな範圏に区切って示してある。

『キタ

lブ・バフリエ』の中でピ

1リ1・ライlス自身が特に示しているものでは

(

ない。各章の章題中で用いられている地域名、蹄属を示す語及び各章の内容を検討した上で筆者が区切ったものである。

この表における匿域の匡切り方は、

その一意味で決して固定的、最終的なものではない。むしろ如何に匿域を匡切るか、その匡切り方自瞳が多くの示唆的な問

題を含んでいる検討課題である。例えば、

ピ1リl・ライlス自身の地域の捉え方、名稿の輿えかたをどう我々が理解す

るか、即ちピ

lリl・ライlスの地域概念の問題などを含んでいるのである。従って、表1に示された匡域は、

『キタ

l

-123ー

プ・パフリエ』本文の構成の数量的分析を試みるために、筆者の理解の範圏内で最も安嘗と思われる匿切り方を暫定的に

採用したものである。

)

句目ム( 巨域毎の絞述分量

さて、この表ーから特徴的な事柄が浮び上がる。

いないものの、本文の構成はけ司して一様ではなく、その絞越の分量の匡域毎の比重には大小がある。

特にエーゲ海・イ

『キタ

leフ・パフリエ』が地中海全睡の姿を記述していることは関連

オニア海東部匡域とアドリア海・イオニア海西部匡域の比重が大きい。

一章数に注目した場合、

エーゲ海・イオニア海東部巨域は全世の三八・六%、

アドリア海・イオニア海西部巨域は二五・

347

七%であり、計六四・三%を占める。各一章末の地園も含めた本文のペ

ージ数では前者が全瞳の四二・三%、後者は一七・

一%、計五九・四%である。これに劃して他の地域は比較的分量が少なく、西地中海、北アフリカ沿岸、

シリア・南アナ

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348

トリア沿岸の三匿域合わせて章数で三五・七%、

ページ数で四

0・六%である。敢えて大雑把な表現をすれば、今日の地

園上で地中海を東西、南北の線で大きく四分した場合、

域はほぼその北東部の四分の一の中に牧まる海域と言えるが、

エーゲ海

・イオニア海東部匿域とアドリア海・イオニア海西部巨

その海域が『キタ

1ブ・バフリエ』では章数、ページ数と

もにほぼ六割の比重を占めていることになる。また同様に行数(本稿一二二ページ表1注①参照)に注目すると、

エーゲ海

イオニア海東部巨域は四三・九%、

アドリア海

・イオニア海西部匡域は一三・八%、従って雨者で五七

・七%になる。一章

数、ページ数に比べてやや小さい値とはいえ、

やはり全鐙の六割に近い数字を示す。

このように、一章数、

ページ数、行数のいずれに注目してもエーゲ海・イオニア海東部匡域と、

アドリブ海・イオニア海

西部巨域の記述の量的な比重の大きさは顕著であり、この貼は〉官印O

ぞ白NEN寓本で見る限り、

『キタlブ・パフリエ

の一つの特徴と言えよう。

①自然燦件

エーゲ海

・イオニア海東部匡域、

アドリア海

・イオニア海西部匡域(特にその東岸部)は海岸線が複雑

-124ー

理由としてはまず次のような貼が考えられよう。

に入り組んだ所が多い。大陸部の海岸線の複雑な地域は沿岸の島映の数も多く、

その島々も複雑な海岸線をもっ場

合が多い。従って岬や入り江が多く、自然の良港に多く恵まれている。

②吐禽的保件

これらは古くから沿岸変通が特に護達していた地域であるため、航行のための情報として説明される

ベき重要な都市、港などが数多く存在している。

しかし、こういった貼を勘案しても、雨巨域の比重の大きさはやはり特異な印象を興えると言わねばならない。また、

エーゲ海

・イオニア海東部匡域あるいはアドリア海・イオニア海西部匡域に劣らず著者ピ!リ

l・ライ

1スにとってゆか

りが深いと思われる北アフリカ、特にその西部が章数、

ページ数ともに全世の僅か八%程度に過ぎず、行数でも一

0・0

%を占めるに留まることを考慮すれば

エーゲ海・イオニア海東部匿域とアドリア海・イオニア海西部匡域の量的な特異

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(叩悶)

性がより鮮明に浮び上がってくる。そこで、雨匿域が著者にとって特別に関心度、重要度の大きい地域であったのではな

いか、あるいは、著者のこの地域に閲する知識が、文献等によるものも含めて、特に豊富であったのではないかといった

(

m出

)

貼も理由として考えておかねばならないであろう。現在の段階ではいずれとも断定はできない。いずれにせよ、

う プ・パフリエ』が地中海全世を封象にしつつも、その銃述に地域的な量的不均衡が見られることは注目すべき事買であろ

『キタ

l

P 1.14

1. 21

0.83

0.54

2.06

1. 02

a

1.11

1.17

0.92

0.67

1. 83

1. 00

349

エーゲ海・イオエア海東部区域

官頭部分

末尾部分

アドリア・イオニア海西部直域

西地中海匿域

北アフリカ沿岸匡域

シリア・南アナトリア沿岸匿域(2)

一章嘗りの絞述分量

また、ここで注意しておくべき事は

一一品一草嘗りのページ数、行数を比較した場合、匡域に

0.68

よって差が見られ、幾つかの特徴的な事柄が浮び上がることである。各匪域毎に、

一章嘗りの行数を全瞳の卒

一章嘗り

-125-

0.78

のページ数を全睦の卒均値三・六(表lMW)

で除した数値〈白〉、

均値三六・六ハ表1同)で除した数値

(F)をとってみる。言うまでもなく

α、

pの値の大小

は、一章嘗りのページ数と行数の卒均値に射する相射的な多少を示し、従って値が大きいほ

ど概して絞述は詳しいと考えられ、値が一に近いほど卒均的であることになる。結果の敷値

は表1に示されているが、見やすくするために閲係部分のみここに掲げるとうえの遁りであ

この数値から

α、

pそれぞれの値は、全鐙を通じて必ずしも一様ではないものの概ね

0・

五から一・二前後の域におさまるが、しかし西地中海匿域では

α、8・の値がそれぞれ極めて

大きいことを指摘できる。

西地中海匿域をさらに詳しく検討すると、この匡域の中でも「西地中海の諸島」の部分が

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350

αn二・三三、

P17六回となり、非常に高い値である。これはこの匡域に大きな島が存在し、それぞれ一一章を嘗てて

扱っているために一章嘗りのページ数、行数が多くなることの反映であろう。

この事情が西地中海巨域全鎧の数値を押し

(幻)

上げていると考えられる。

しかし問題はそれよりもむしろ

「西地中海北岸」の数値も

αu一・五六、

FH一・七五と卒均よりもかなり高いこと

である。この匪域には大きな島などはあまり無く、陸側の海岸線の説明が主であるが、

それにも拘らず一章首りの記述量

が多い。この匿域では地理的な範囲の康さに比して章数が少なく、従って一章で扱われる範園は相関的に蹟い。その貼も

いずれにしても、これは西地中海巨域とりわけ「西地中海

(

)

北岸」が『キタleフ・バフリエ』の中でも特異な匡域であることを示すものである。

α、

saの値が大きくなっていることの要因として翠げられる。

このように、数量的な分析を試みると、

「キタ10フ・パフリエ』の本文においては各匡域毎の絞述分量の不均衡のみな

らず、

一章嘗りのページ数、行数といった紋速の形態にも不均衡が見られる。

なお、

ω23rも絞述量について地域的な

-126ー

不均衡があることを指摘している

322rg吋

r・立町〕

が、

地域の直切り方も含めて、根援となる数字は一切示していない。

間出

〉VS印

O守曲

NEN官何本本文の内容上の問題

ここでは『キタlブ・パフリエ』〉苫

g守由民巴寓本本文の内容上の問題を検討する。

本文中に盛り込まれた情報は次の三種に大別できる。

①地理的情報

②航海法情報

③歴史的情報

地形(港、川、山、都市、村、潟など)、風、潮の満干など

操船法、船の種類など

オスマン朝関係、

ヨーロッパ人関係、北アフリカ関係など

この内分量的に主鐙となるのは①地理的情報、

②航海法〈操船方法)に閲する情報である。

量的な面ばかりでなく、

記述

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内容の黙でも興味深いものを含んでいるのであるが、その分析、検討は今後の課題とし、ここでは③の歴史的情報に限定

して検討する。それは『キタlブ・バフリエ』を歴史皐の資料として如何に扱うべきか、換言すれば『キタlブ・パフリ

エ』から如何なる歴史的事貨を讃み取れるかという筆者の問題一意識があるからでもある。なお、ピlリl・ライlスが上

の三種の情報を明瞭に匿別して絞述している誇ではないため、どのような記述を歴史的情報として取り上げるべきか剣断

しかねる場合がある。原則として、明らかに①②のいずれにも属さず、なんらかの一意味で我々に歴史的な事貫闘係を俸え

る内容を歴史的情報として採り上げている。俸説、停聞の類も、それが嘗時ピlリl・ライlスあるいは人々に停わ司て

いたこと自陸が歴史的事買であるとの考えに立って③に含めて採り上げている。また、ピlリl・ライlスらが主韓とな

る行漏も今日の我々にとって歴史的情報であるので③に含める。箪なる物産の紹介などは除外した。

1

歴史的情報の匡域毎の頻度

-127ー

歴史的情報は必ずしもすべての章に記述されているわけではない。歴史的情報を一件でも含む章を数えあげると八八章

であり、これは全瞳の四二%にあたる。従って、地理的情報または航海法情報のみで歴史的情報を含まない章が一二二

重、全鐙の五八%となり、半数以上を占めている。歴史的情報の現われる頻度を、先に区切った匡域毎に整理すると表2

(ωの部分)の通りである。

まず、各匿域における歴史的記述を含む章の数の、

その巨域の全章数に劃する比率(B一A)を見る。

全践の卒均は

O

四二であり、

エーゲ海・イオニア海東部匡域が

0・四一、

アドリア海・イオニア海西部匿域が

0・二

O、シリア

・南アナ

トリア沿岸匡域が

0・二八といずれも卒均よりも小さい値を示す。それに射して西地中海匡域、北アフリカ沿岸巨域の数

値はそれぞれ

0・九

O、

0・六三であるから、これらの匡域では歴史的情報を含む輩は卒均の一・五倍から二倍の頻度で

351

現われることになる。

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エーゲ海・イオヱア海東宮1l1i11!l冒頭部分エーゲ海北西部 (Evboia島まで〉アナトリア西岸 (R6do~ 島 まで〉キタラデス諸島東部 (Andros島まで〕イオニア海東部 (Dubrovnik近遁まで〉

末尾郁分エーゲ海南西部 (Kea島まで〉西スポラデス諸島及び Saros湾

アドリア理事 ・イオ=ア潟西部区鎌アドリア海① (Veneziaまで〉アドリア海② (Viesteまで〕プリア海岸 (Tarantoまで〉カラプリア海岸 (Spartivento岬まで)

西地中海匹栂西地中海の諸島西地中海北岸

北アフリカ沿岸区域マグリプ (Mis悶阻まで)北ア フリカ東部 (Ramleまで〉

シリア ・南アナトリア沿岸E緩シリア海岸 (Ayasまで)アナトリア南岸 (Marmarisまで)

本文念館

凡例歴章歴件我章我件

αコ。a

Ayasofya2612潟本本文の歴史的情報の整理『キタ ープ ・バフ リエ』表 2N由的

歴史的情報の記述がある章の敏歴史的情報の件歎「我々」あるいは「私」が嘗事者となって現われる記述のある章の歎「我々」あるいは「私」が嘗事者となって現われる記述の件敏

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また歴史的情報の件数は、私の教え方で八八章中に一一一件ある。全穫が二一

O章からなるのであるから、本文全睡の

歴史的情報の一軍嘗りの頻度は

0・五三となる。そこで巨域毎に、歴史的記述の件数をその匿域の一章敷で除し、章あたりの

歴史的記述の頻度

(C一A)を

0・四六で比較的卒均に近いもののそれ

その結果、

より低く、

アドリア海・イオニア海西部医域は

0・二

O、シリア・南アナトリア沿岸匡域は

0・二八で

ともに卒均の

分の一前後のかなり低い値を示す。

一方、西地中海匡域は一・三五、北アフリカ沿岸巨域は

0・九七となり、卒均の二倍

から三倍に及ばんとする値を示し、目立って大きい値と言えよう。

このように、歴史的記述を含む章の敷でも、また歴史的記述の件数自瞳でも、西地中海、北アフリカ沿岸匿域は、他の巨

域と比較して相嘗に高い頻度を示す。先に見たところでは、章数の黙ではエーゲ海・イオニア海東部匡域、アドリア海・

イオニア海西部匡域の比重が大獲に大きか?た。従って章敷の多少のみに注目すれば、

エーゲ海・イオニア海東部巨域、

アドリア海・イオニア海西部匡域は相封的に詳しく説明されているとも言える。しかし匡域毎に匡域全鐙の説明に針する

歴史的情報の比重を考えると、西地中海匡域、北アフリカ沿岸匡域が大きい値を示す。このような貼から、各匡域の絞述

において数量的のみならず質的な差異も存在することが知られるのである。

-129ー

それでは、西地中海匡域、北アフリカ沿岸匡域の説明の中に相劃的に塵史的情報が多く含まれているのは何故であろう

力、

2

歴史的情報の嘗事者

そこで歴史的情報の賞事者に注目して、本文中で主鐙者が「私」あるいは「我々」と一示されている記述を抽出して、そ

の頻度を敷値で示すと表2(ωの部分)のようになる。言うまでもなくここでいう「私」、「我々」とは、それぞれピ

1リ

1・ライIス自身、ピlリl・ライ1スとその仲間たち(カマlル・ライlスも含む)のことである。ここで示された数値か

353

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354

ら特徴的な事買を讃み取ることができる。

西地中海匡域と北アフリカ沿岸匡域において、

章数、件数のいずれもその賀政及び嘗一該巨域の歴史的情報に占める比重

の数値

(D一B、E一C〉

が、他の匡域と比較して格段に大きいのである。西地中海匡域の場合は、一軍教の貫教は九一章、比率が

0・五

Oであり、件数の質数は

一二件、比率が

0・四四となる。同じく北アフリカ沿岸匿域ではそれぞれ

一一

品早

0・五八

他の巨域での数値が賞数で一ないし三件(章)、

0・一四に留まるのに比べて、卒均の二倍前後を示すこれらの数値は際立って大きな値と言える。また雨匡域を合せて考

および一四件

0・四八である。

比率でも章致、

件数いずれの場合も最大

えると、九章一二件及び一一章一四件、

計二

O章二六件であり、

この雨巨域で本文全鐙に現われるこの種の記述(二四章

一O件)の八

O%以上を占めていることになる。

即ち、

雨匡域では主鐙者が「私」あるいは「我々」の記述がまず特徴的

とき?えるのである。

3

歴史的情報に現われた行信用内容

-130ー

さらに歴史的情報の中で注目されるのは、海賊行矯あるいは征服行震に類する行痛である。例えば、

フランスのトヲ

l

ロンの沖のイエ

lル

(FZロRω〉諸島を述べた部分で

まさにこのイエ

lルHNF

ロ曲目諸島をトルコの人々はコニつの島」という。フランス園ではその島々は有名である。

トルコとアラブの艦隊が襲撃する所である。というのは、その海岸部から一商いをするカlフィ

ルの船が絶えることな

く、常に往来しているのである。我々は故カマlル・ライlスと、

一度ここで三隻のパルチャを一一挙に襲撃した。そ

れからチュニスに移して買った。〔〉uE師。守曲目印斗∞〕

といアた記述がある。他の箇所でもこれに類する記述、あるいは軍事的な征服行動に関わる記述が見出される。

西地中海巨域では七一章一二件、

北アフリカ沿岸巨域では

一O一章

一一件である。歴史的情報を含む一章

その貫数を見ると、

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敷に注目した場合の頻度

(F一B〉は前者が

0・三九、後者は

0・五三であり、

史的情報の件数に注目した場合の頻度ハG一C〉は、前者が

0・四四、後者が

0・三八となり、これも卒均値

0・三九にご

く近い値となる。その他の各匡域も卒均に近い値を示しており、歴史的情報における海賊行矯あるいは征服行痛に類する

行震の記述の比重を見る限り、ここで注目している南匿域についてはとりわけて特徴的な事買はない。

卒均値

0・四Oに近い値である。また、歴

しかし、それぞれの匡域内で、主睦者が「私」あるいは「我々」の記述に占める、海賊行篤あるいは征服行痛に類する

行震に関わる記述の比重

(H一D、IE〉は、西地中海匿域が章数に注目した場合

0・七八、件数に注目した場合

0・七五と

なり、

いずれも二分の一から四分の三に及ぶ敷値であ

り、かなり高い値であると言える。これらの数値は、西地中海匡域、北アフリカ巨域において「私」あるいは「我々」が

それが海賊行震や征服行震に類する行震に関わることが多いことを示す。

また北アフリカ沿岸匡域がそれぞれ

0・五五、

0・四三である。

主鐙となって語られる時には、

逆に、海賊行震あるいは征服行震に類する行篤に関わる記述に占める、

記述の比重

(H一F、-一G〉に注目すると、西地中海匿域においては、

章数では海賊行篤あるいは征服行馬に類する行震に関

わる記述のある七草のすべてに「私」あるいは「我々」が登場し、件数でも「私」あるいは、「我々」が主盟になってい

「私」あるいは「我々」が主鰻者となっている

-131ー

るものが七五%あることが分かる。北アフリカ匡域では、それぞれ六O%、五五%の数値となっている。これらの数値は

他の匡域ハOないし六%)に比較して雨匡域が断然抜きん出ていることを示す。即ち雨巨域では、海賊行震あるいは征服行

痛に類する行痛の主鐙は、「我々」や「私」である場合が多く、他の巨域と比較しても特徴的であることが分かる。

以上本簡で検討した所から以下の黙が明らかになる。

①歴史的情報は西地中海匿域、北アフリカ沿岸巨域に相劃的に多い。

②南地域では、「私」あるいは「我々」が主盟者となっている歴史的情報の件数は匡域全住の二分の一近くにのぼ

り、それ自僅が特徴的事買である。

355

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356

③雨巨域の歴史的情報の内需では、海賊行局あるいは征服行震に類する行震に閲わる記述は多いが、それは他の巨域

と比較して特に顛著ではない。

震に閥わる記述は高い卒を示し、

に類する行震に関わることが多い。

「私」あるいは

「我々」が嘗事者となっているもののうちに占める海賊行震あるいは征服行震に類する行

「私」あるいは「我々」が語られる時にはその内容は海賊行錆あるいは征服行局

④しかし、

⑤逆に、海賊行矯あるいは征服行震に類する行震に関わる記述のうちで「私」あるいは「我々」が主盟者となってい

るものは、海賊行震あるいは征服行痛に類する行震に関わる記述を含む一章及びその件数全鐙の牢数以上に及ぶ。即

ち南匿域では、海賊行帰あるいは征服行負に類する行震の主位は「我々」や「私」であることが多い。

卸ち、西地中海巨域、北アフリカ沿岸匡域については、ピlリl・

ライlスとその仲間たちの海賦行局あるいは征服行筋

(

)

に類する記述が多く、そのことが他の匡域と比較して目立って歴史的情報の比率が高い理由となっている。

一 132ー

これはピ

Iリ

l・ライlスとその仲間たちの活動の主要な舞蓋が、地中海の他の地域のいずれでもなく、この雨匡域で

あったことを示唆するものである。彼らの活動の舞蓋がこの地域であったことは既に指摘されていることであり、特別目

新しい事買ではないが、

『キタlプ・パフリエ』にもこのような形で反映されていることが看取できる。

このような意味で雨巨域は『キタ

iブ

・パフリエ』の中でも異色の匡域に属するが、その異色性は海賊行筋あるいは征

服行痛に類する行魚以外の記述を検討すればさらにはっきりする。例えば北アフリカの「スルタlンたち」

(ハフス伺え品

朝などの君主たち)に闘わる同時代的でかなり具睦的な記述は、ピ

lリl・ライlスたちのこの地域との関わりの深さを如

(

M

)

買に物語るものである。しかし、ここではそのことには直接燭れない。

また翻って、ピlリl

・ライlスたちが直接的睦験を有し、活動の舞蓋としていながら参照文献の存在を強く疑わせる

絞述の逆行現象が起こっている西地中海北岸はとりわけ特異な地域と言える。

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さらに、

西地中海匡域、北アフリカ雨巨域に閲して言えば、歴史的情報として括ったこれらの情報を見渡して、その多

くがピ

IリI・ライlスたちの賞盟験であることは、

オスマン朝の地中海に閲する知識は、嘗然他の文献に依存した可能

性も想定せねばならないとしても、少なくともその一部分は自らの臣民の寅瞳験に基づくものであったことを示してお

り、オスマン朝は地中海及びその周港地域に関してヴィヴィッドな知識を得ることが可能であったことを示唆している。

そのような知識はスルタlンの耳目に達することが可能であったのであり、

『キタlブ・パフリエ』はまさしくその誼左

『キタ1.フ・パフリ

エ』は地理的情報、航海法情報のみならず、歴史的、即ち嘗時の時黙で考えれば同時代的

な、地中海各地の事情を俸える時事情報をも盛り込んだものであったと言えるのである。

でもある。

オスマン朝と地中海の関わりを考えてゆくための基礎的な作業として、

寓本である〉可20々由民巳潟本の本文の構成、内容の検討を通じて、

『キタlブ・パフリエ』九三二年本に属する一

『キタlブ・パフリエ』本文の性格を論じてきた。

-133ー

本稿で明らかになった黙を整理すると次の通りである。

ω本文の絞述の流れの検討から、絞述の流れには規則性が見られるものの、

海匡域(特に西地中海北岸部分〉ではその規則性が明らかに破られている。

エーゲ海・イオニア海東部匿域及び西地中

ω本文の構成の数量的な検討をすると、

匡域毎の記述量(章数、ページ数、行数〉の貼では、

匡域とアドリア海・イオニア海西部匡域の比重が大きい。

エーゲ海・イオニア海東部

ω同じく一一章嘗りの記述量の黙では、西地中海匡域特に北岸部の記述量が多く、特異である。

ω本文に含まれた歴史的情報の検討から、歴史的情報は西地中海匡域、北アフリカ沿岸匡域に相封的に多く、その理由

はピ

lリl-ライlスらの海賊行震あるいは征服行震に類する行震に闘する記述が多いことである。

357

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貼でも特異な性格を有する。

同西地中海北岸は紋述の流れ、一章蛍りのページ数、行数の相封的な大きさ、さらには歴史的情報の量と内容のいずれの

358

であった。

川開『キタ

lブ・

バフ

リエ

』には地中海に閲する同時代的な情報が盛り込まれ、

オスマン朝はそのような情報を利用可能

今後は、各潟本の所在を再度確認すること、九二七年本と九三二年本それぞれの系統の中での寓本の比較検討、さらに

雨系統相互の比較検討といアた作業が必要になる。これまでしばしば研究者の闘心の封象となり、本稿でも僅かながら言

及した『キタ

lブ・バフリエ』の参照文献の問題も、そういった作業がある程度進捗した時黙ではじめて検討可能になる

であろう。また、特異性の際立つ西地中海北岸については、特に関心をもって様々の角度から検討を進める必要がある。

註(1)

地中海がそれを取巻く様々の民族、集図の交遜、交流を可

能にする事により、そこに自ずから形成されていたと考えら

れる一つの固有な世界即ち地中海世界を想定した場合、オス

マン朝のアナトリアでの勃興と海岸部の征服はオスマン朝の

地中海世界への参入を意味するのであり、オスマン朝の地中

海での隆勢とその制覇は即ちオスマン朝の地中海世界との関

輿の深化及びそこでの存在の重要化に他ならない。

(

2

)

一二橋冨治男『オスマン・トルコ史論』吉川弘文館一九六

六、二一一

l二三四ページ。

3)

カマ

lル・ライlスの兄弟慣と旨玄与曲目自主の子とさ

れるが、ヵマ

lル・ライlスの姉妹の子とする設もある。こ

の黙は、ピ

1リl

・ライlス自身の読明に食い違いがある。

『キタlブ・パフリエ』の二系統の篤本のうち、九二七年本

系では姉妹の子と言い、九三二年本系では兄弟の子と言って

いる(本稿本文一一

Ol一一一ページ及び註(

8

)

参照〉。

(4)Egr玄orB23rFoggphh55」41・PEE-

55lN∞・407ω・司・

ω5・註同参照。ただ

し、回日

gr

玄σ『目立斗与-一円

の記述は根擦が不明である。また『キタl

プ・パブリエ』〉百臼O

守曲以HN

寓本冒頭部会一ページ)では

ヨユ河内へ岡田『・色白伺丘一玄ロσ曲目ヨ包と記されているのみであ

る。

(5)

-134ー

この嫌疑については、。

gm-NOPEE-E口同町内若宮口rP

23吋

N

E♂同氏町内

H3・S(HS3・3・呂田llNE

を参照。

(6)

以下関口止。恒ロ白〉一宮町三

58に納められた〉可曲印。々同

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359

NaHN

篤本のファクシミリ版の参照ベ

lジをこのような形式

で示す。

(7〉

JP円E15は、

CFERNSNM之内宮句、.Rnp出

SMUQME〈その

一部が同廿白ふ詰釦一若干制』円、vhHい官、主任凡さ

HUSMHRHの名で知られて

いる〉の著者として知られる玄ロ円邑聞

が、その著作の中で、

かつて句。ャヨ智誌なる書物を著わしたが、その書物によっ

て生まれた名撃はすべてヨユなる者に闘した、と述べてい

ることを指摘し、『キタlブ・バフリエ』はピlリl

・ライ

lスが用意してあった材料を玄ロ品含が趨めたものと断定

した〔〈5E155巴〕。この主張は典子界の通説となってい

るが、同時にピ

iリl

・ライlスが第一義的な著者であって

通常『キタlプ・パフリエ』の著者をピ

1リl

・ライlスと

することもそれ以後特に異論無く定着していると思われる。

(

8

)

雨系統の陵裁、内容上の相違を関口正品

Z-E3m♀

sa

の解説部等の先皐の研究をも参考にして纏めれば次のように

なる。ω散

文序で

①執筆理由を述べた部分の表現の違い

②著者自身にかかる設明の遠い

九二七年本系ではカマ

lル・ライ

lスの姉妹の子と

し、九三二年本系ではカマ

lル・ライlスの兄弟の子

とする

などの相違鈷が見られる。

ω九三二年本系にのみ韻文の歴史、地理、航海法などに関

する解設がある。

ω九三二年本系のみ本文を散文で書く理由を述べ、知識が

必要となったその場ですぐ理解できることを意園したと

する。

ω九二七年本系の寓本の多くは一三

O園前後の地図を持つ

が、九三二年本系は二二

O間前後である。

∞九二七年本系の篤本で町ごとに述べられる歴史的情報

が、九三二年本系の方では地理的・専門的情報にかえら

れている。

ω九三二年本系にのみ九一の封句からなる韻文の践があ

る。

的九三二年本系潟本では、奥書(円。

-svoロ)を持たないた

め書篤生、書寓年代を特定出来ない場合が多い。

なお爾系統の寓本の説明については

ωEn巾rHSSも参照

のこと。

(

9

)

切ロ円白血-H室。『自己叶丸岡町によれば、ピlリl

・ライ1ス

自身によって九三二年に骨持された篤本(原本とまでは明言し

ていない)が、ヒジュラ暦二ニ四二年(西暦一九二三/四〉

の数年前に「フランスの博物館同J227向ENg-」によって

買い取られ、元々それはイスタンプル在住の一人物の手許に

あったが、故あって賓り梯われたのだという〔

55・〕。事賓

とすれば、

回一宮町OF25BEE-o所裁の九三二年本系篤

本である

ωzz-bヨOEZR申忽がそれにあたるのであろ

うか。

Er--oF25SEEF所蔵トルコ語篤本のカタロ

グを編集した

巴onF2は

ωロ官官広目。E258∞につい

て、母音貼附きのナスフ鐙で四三四菜、二ハ世紀後牢に属す

-135ー

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360

るとしているが、来歴を示唆する事柄は何も語っていない

(∞-onroF開・・NW芯円札。hpbAYE司令

H53bhp(UQHねな句史偽札

Awh

hhaERミ号室、主吋OBON-33S8・唱

-53。また

ω。cnorは『キタlプ・パフリエ』のチュニジア部分の記載

の比較にあたってこの

ωC3-bBgごロ『円由

gも使用してお

り、簡皐な解設を加えているが、やはり来歴には一切言及し

ていない〔ωozsrs芯753。筆者は

ω名目LbBmE22

由回目を詳しく検討していないため、何とも剣断し難い。

(叩)〉同Z

H

H

M

同ロ

5=で一ホされた篤本リストは同日ι。恒ロ'

〉戸宮町三

HS印に倣ったのであろう。

(日)それぞれの潟木の停来を正確に把盤、検討した上で議論す

ベき問題であるが、この商系統の寓本の所在地の際だった相

違が『キタlプ・バフリエ』が賀際に使用された嘗時の流布

の態援をある程度反映しているとすれば、九二七年本は庚く

西方にも流布し、九三二年本はイスタンプルを中心としたご

く限られた範園で流布したにとどまったことになる。このこ

とは雨系統の受容のされ方が異なることを示し、さらには爾

者の性格も異なっていたのではないかとも疑わせる。

(ロ)出版に際して特にこの寓本が選ばれた理由は定かではな

ぃ。書官局年代が比較的古いと考えられること、文字部分の誤

りが少ないこと

3050r537呂田〕、保存朕態が良いこ

となどによるものであろうか。

なお、一九八九年九月筆者がイスタンプルを訪れた際、

〉苫E『苫NEN潟本所誠元の

ω巳ミBgfo図書館館長

沼EBB2CF2氏の計らいにより、原本を徐討する機禽

を得た。記して氏のご好意に感謝する。

(日

)ω050r巴37呂田。従ってこの

ω22rの設明を受けい

れるとすれば、〉可gaEN合N寓本の書寓年代は一六世紀前

牟となる。

(

M

)

日ハロ円品。町-g'〉-宮間三巴ω印では二

O九章とされるが誤り。

ω050rは正しく一一一

O章としている〔

HSV一宮∞〕。

(日

)EzroHWU-HW--bwN同民hhO32NCghE』

守、V

ハ望。L司

HFぬ

OHH。詰おお図書

hvqpF2ιgHU吋N-司』

Y忠告・

7白白唱}口〈・

(日)織田武雄氏によれば、一四

O六年にヤコポ・アンジエロに

よって完成している(織田武雄監修、中務哲郎誇『プトレマ

イオス地理皐』東海大皐出版舎一九八六年、日)。

(ロ)円内酔Zoは、イタリア語、ギリシャ語などによる著作が既に

存在し、それをピlリl

・ライlスが自ら翻誇したか、ある

いは翻議されていたものを利用したと見なしている〔関与一目。

巴区一

E

|酌印〕。しかし、利用された文献はそこでははっき

りと指摘されてはいないし、また別途渓見されてもいないた

め、その主張の根援は極めて薄いと言わざるを得ない。一

方、ピ

1リI・ライlスの言葉を額面通りに受け取って全て

質陸験と断定する〉同ZFgの主張も読得力に飲ける。庚

大な地中海全鐙の、そのまた多数の地黙について微に入り細

を穿つが如き記述が全て一人の人物の質強験に基づくとはに

わかに受けいれ難いことからも、何らかの基礎的著作の存在

を否定し切れないように思われる。

(刊日〉例えば、「ヴェネlツィア湾(宅自包同rro同町ECにある

某所を読明する」、「カタランの島々の一つである某所を設

-136ー

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361

明する」などの表現。

(日)ωgnorは「最も詳しく(同SnFMLEts5」叙述さ

れている地域としてエーゲ

海、ギリシャ沿岸とイオニア諸

島、北アフリカ(なかんずくブジャlヤ|トリポリ開〉の三

地域を指摘している〔Hsr二区町〕。

「詳しいL

とは如何な

る意味か剣断しかねるが、叙述の分量だけに注目すれば、既

に見た通りエーゲ海・イオニア海東部医域、アドリア海・イ

オニア海西部医域では断然多いが、北アフリカ匿域では特に

目立って多い誇ではない。

(却

)ωocnorはエーゲ海、ギリシャ沿岸とイオニア諸島、北ア

フリカ(なかんずくプジャ

1ヤ|トリポリ開〉の三地域で叙

述が詳しい理由としてそれぞれ、ピlリl・ライlスの生地

であること、ピlリl・ライlスがカマlル・ライlスと参

戦した海域であること、一五

OO年前後カマ

Iル・ライlス

の活動嬢黙であったことを奉げている〔ω22rH由斗釘・ピ由〕。

(幻)エーゲ海・イオニア海東部匿域にも大きな島は存在する

が、西地中海匿域ほど極端にa、ayの値は大きくならない。

小さな島も多いために、それらが数値を引き下げていると考

えられる。

(包〉先に検討した、西地中海北岸監域での逆行現象も勘案すれ

ば、この匡域の特殊性がより明瞭になろう。

(幻)北アフリカのチュニジア地域にピlリi

・ライlスの貫睦

験に基づく記述が多いことは、既にωoznorが指摘してい

る〔ω。EnorH由斗ωrHHUH〕。しかし、ωocnorは『キタlプ・

バフリエ』の本文全陸を分析した上でチュニジア地域を位置

付けてはおら.す、また同様に、地中海全慢の中でこの地域の

記述の特異性を明らかにした誇でもない。

(担)北アフリカの「スルタlγたち」に関しては、ωoロgr

sar・FFHHEgを参照。

参考文献表

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-137ー

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363

の文中ではいちいちお断りしなかったが、ここに記して謝意を表

する。

-139ー

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officer under Mansur. They were fairly autonomous and they maintained

the public peace within the madina. The Mirdasids then chose the qa1‘a

as

 

their residence. Their successors, the‘Uqaylids, the Saljuqids, the

Zangids and the Ayyubids, also used it as their palace.

                    

       

  

THE CHARACTER OF 瓦皿AB-I BAHRIYA

―on the Teχtof the Manuscript of Ayasofya 2612―

          

Shintani Hideharu

  

The

 

construction and the contents of the teχt of Ayasofya 2612

manuscript of Kitah-iB萌rりα(a manuscript of the teχtof the year

932, owned by Suleymaniye Kutiiphanesi in Istanbul) were examined as

fundamental work to consider the relation between the Ottoman Empire

and Mediterranean World. As a result, the following points became

obvious.

(1) The current of narration of the text has regularity,but in the area

  

of Aegean Sea and East Ionian Sea and that o{ "WestMediterranean

  

Sea (especially the part of the north coast of West Mediterranean

  

Sea) the regularity is broken obviously.

(2)AS for the quantity of description of the teχtper area, the weight

  

of the area of Aegean Sea and East Ionian Sea and that of Adriatic

  

Sea and West Ionian Sea are large.

(3)As for the quantity of description of the text per chapter, that of

  

the area of West Mediterranean Sea especially the part of the north

  

coast is peculiarly large.

(4)The historicalinformation of the text is relatively much in the

  

area of West Mediterranean Sea and that along the north Africa.

  

The reason is that descriptions over acts like piracy or conquest of

  

Piri Ra'is are many・

(5)The north coast of West Mediterranean Sea has a peculiar character

                 

-4-

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in every point of the current of narration, the relative largeness of

   

the number of pages and that of lines per chapter, and the quality

   

and contents of the historicalinformation.

(6)The contemporary information about Mediterranean Sea was inco-

   

rporated into Kitab-i Bahriya, so the Ottoman Empire was able to

   

make use of such information.

THE POWER STRUCTURE OF THE TAEWONGUN

       

大院君POLITICAL POWER

   

―the Analysisabout the Constructionof

       

the Upper PoliticalPower―

Kasuya Kenichi

  

The purpose of this paper is to eχamine several questions about the

power structure of the Taewongun 大院君political power (1863. 12-1873.

11) in Korea.

  

The author carried out a research into the Yangban 雨班bureaucracy

who had held important offices in the central government in the period

of his political power, and analyzed that they had belonged to which of

the Sasaek Tangp‘a(Four Sects) and they had come under the rule of

which clan. The important offices into which the author carried out a

research are the Uiijong 議政, the P‘ans6 割書, the Ch‘amp‘an參割バhe

Kyujang-gak奎章閣, and so on.

  

As a result of the analysis, the author made the following three points

clean. 1) The Namin南人and the Pugin 北人out of the Sasaek Tangp‘a

were little appointed to the important offices from the end of the Namin

political power (1694) to the start of the Taewongun political power.

But, in the period of his power, they were frequently appointed to almost

all important offices.  2)Outof those who hold o田cesas the Uijong,

the P‘ans6, the total number of the Ch6nju-Yi Clan 全州李氏belonged to

each sects surpassed the number of the Andong-Kim Clan 安東金氏from

                   

-5-