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Title 淸代國家財政における中央と地方 : 酌撥制度を中心にし Author(s) 岩井, 茂樹 Citation 東洋史研究 (1983), 42(2): 318-346 Issue Date 1983-09-30 URL https://doi.org/10.14989/153894 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 淸代國家財政における中央と地方 : 酌撥制度を中心にして

Author(s) 岩井, 茂樹

Citation 東洋史研究 (1983), 42(2): 318-346

Issue Date 1983-09-30

URL https://doi.org/10.14989/153894

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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318

清代園家財政における中央と地方

ll酌援制度を中心にして||

薙正初年までの制度

動支、郷移、臨空

四三

酌擦係例とその障制

酌援制度の樹綴

-126ー

t主

清朝中極は素観した財政の改革にようやく着手した。

部の上奏に劃してなされた、軍機大臣の長文の覆奏の一節につぎのように言明

我が園家、幅員は贋大、財賦は股繁、理財の権は、

光緒三四年(一九

QO、

「先ず蹄法を明定せん」ことを請う度支

外にしては以ってこれを彊吏に責め

内にしては以ってこれを

(戸)部の臣に統ぶ。前人の立法、周からずとはなさず。・::::度支部は全園財政穂陸の匡となす。宜なる乎、内にし

ては各街門、外にしては各直省のあらゆる出入の款目、周知せざるは無し。市るに今は寛に然らず。各街門の経費、

でたらめ

往往にして自ら誇り自ら用いて、部中は多く興聞せず。各直省の款項、内舗は則ち部に報(錆〉するも壷く虚文に属

し、外鮪は則ち部中査考するによしなし。:・:::各省の財の若きは即ち全園の財なり。何ぞ漫として統紀なかる可け

然れども外省は財用の寒数におい

て毎に

隠匿し、部をして知らしめず。故に部中つねに其の相い欺くを疑い

んや。

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て、内は外を信ぜず。部中は外省の款項において、つねにそれをして寒に擦りて報明せしむるに、決して提用せざる

を聾言するも、報出におよべば往往にして食言す。故に外省つねに其の相い誼くを畏れて、外は内を信ぜず。:

五十年来の財政権の分裂と混範は、義和国事件賠償金の支排を議定した辛丑篠約をへて、ここにのべられたような末期的

症肢を呈するに至った。

近代的皐問で武装した同時代の外園人観察者は、

清園の財政が、

「極端ナル地方分権制度ヲ採

用」(『清園行政法』第五各

一九二、頁二九八)し、あるいは、「戸部ハ

:::・:寅際地方財政ニ開興スルコトナク、唯ダ中央

北京朝廷ノ財務ヲ司ルノミ」(『支那経済全書』第一輯

一九O七、頁四三九)と述評する。

H-B・モ

1スも、大清帝園の園庫

tま

一部の税目がその直接牧入であるのを除き、他は地方の行政費、徴税費の徐剰にたよ

っているとし、これを聯邦制下

ドイツ第二帝園の園庫負携金(富良正2-与ZEm)制度に類似したものだと述べている〈刊吉凶

JsbhS札〉人さきた

3HN.s

o¥nvSPEON宅・品∞・∞品)。

これは清朝財政の現朕分析としては、正しいであろう。だが、その財政制度が嘗初よりかかるものであったのか、

また

-127-

そうでないとして、

いかなる過程をへてこうした欽態があらわれたのかについては、

さほど興味を示していないようであ

る。しかし、

さきの引文中の「周からずとはなさざる」の「前人の立法」とは、現在の素蹴をきわだたせるための畢なる

修蘇であるとすることは、

やはりできない。では、戸部はいかにして理財の擢を統轄し、全園財政線匿の匡であることを

可能にしていたのであろうか。また戸部と各省との財政権上の関係は.とうであったのだろうか。私は酌接制度の果たした

機能を考えることによって、こうした問題に光をあてようと思う。清代の財政は、いずれの時代においても同様であろう

が、極めて複雑である。問題を限定し、制到象をうまく整理したうえでなければ、考えの糸口さえつかめそうにない。そこ

でここでは議論の針象を園家財政に限ろう。私は園家財政を、正額銭糧もしくは庚義の正項銭糧にかかわる財政の健系で

319

あると考えている。それ以外の財政の陸系と、園家財政との開係については、本文中で説明することにしよう。

清代、正規の税牧の主要な源は、州豚で徴牧される地丁ハ雑税課を含めていう)と、特設官聴によって徴牧される瞳課、関税

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(常関税)の三つである。

いずれも地方各省で集められ、戸部銀庫の直接牧入は摘納などを除いてほとんどない。地方での

税牧は

一部はその省内で支出され

一部は戸部へ逸られ

一部は協的として他省に迭られるが、

その際に留支、京削、

協舶の銀放はなんらかの方法によって調節され、各省および戸部銀庫の牧支卒衡が、個別的にまた総合的に保たれている

はずである。

ある省の起解すべき京帥、協納の敬一量がその能力を超えていれば、

それは賀行されないか、あるいは留支の

削減、税糧の加振などの手段によ

って補われることになろう。また留支も、これが各省で自由に行なわれれば、戸部の財

政も、牧入不足の省の財政も、

たちどころに破綻することになる。したが

って各方面での卒衡を、共通の財源のうちで、

しかもほぼ税課の徴牧と同時的に、

こうした制度について、

はかる必要があるわけである。この問題は、制度的に必ず解決されているはずである。

はじめて論及したのは彰雨新氏であった。地方における税賦の牧支は、中央の命令によって行

なわれ、各省で

の支出分以外の除剰は

「解款協款制度」にもと

s

ついて、

一部は郷近の省へ

一部は中央へ迭られる。こ

-128ー

の緩解に際して、解款、協款の数量調節のためにあるのが

「多佑」と「春秋捜」の制度である。解款、協款の銀数は

やみくもにわりあてられるのではなく、前年の多に各省より次年一年間に支出すべき俸制の額を造船して戸部にとどけさ

せたうえで(各佑〉、春と秋の二度、各省の銀庫中の現存銀数を報告させ、それぞれ牢期分の珠算支出額に充嘗すべき分、

および他省への協納分を除いて、他は戸部の指令で戸部銀庫へ迭られる(春秋綴)。こうして、各省の牧支および解款協款

は、中央が統一的、計霊的に支配し、各省で濁自に財政計量一がたてられ牧支卒衡がはかられるのではないという、きわめ

て傾聴に値する見解が提示されたのであった。

彰氏の論文は、清朝中央の地方財政支配が、ここに略述した「燈」

の原則(援とは、一部をさいてわりふる、というほどの意

味〉から、太卒天園期をへて、

「機」の原則(機とはわりあて〉

へと移り獲ったこと、

およびそれ以後の中央地方の財政

関係の分析を目的としたものであり、道光時代以前の、いわば体統的な清朝の財政支配のあり方,||「摺」の原則ーーにつ

いては、

『戸部則例』中の二僚の規定をよりどころとして分析を加えるにとどまっている、勿論、そこでは奏鈴、留貯や

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耗羨動支などの諸制度も含めて論じられてはいるが。「解款協款制度」の根幹をなす「多佑」、「春秋撮」

れが重要な意義をもっ、と語られているだけに、行政法規上の分析だけでなく、その制度創出の背景や運用の寅際に即し

て、分析を加える必要があるように思われる。

について、そ

潅正初年までの制度

春秋援制が、彰氏の述べるようなかたち、すなわち『戸部則例』で規定されるようなかたちとなったのは、潅正年聞の

ことである。では、これ以前においては、留支、京朗、協鮪はどのようにして調節されていたのであろうか。この問題に

ついて、遣された史料のなかから、明確な答えを引きだすことには相嘗の困難をおぼえる。清代の政書類、また寅録のな

はっきりとした規定を見い出せないのである。ここでは清初からの財政措置を検討してゆくことによって、手が

かにも、

順治前半は、戦費の支梯のため、遁常の財政が行なわれるはずもなく、随時の税糧加涯も激しかったようであるが、そ

のなかで、徴税・起解の額は前朝のそれによるという原則が、しきりに提示される。明代に、一候鞭法の施行にともなっ

て出現した賦役全書は、州鯨において諸税目を一括するかたちで徴牧された銀雨・米穀を、本来の設税の名目と数量ごと

-129ー

かりを得ることとしよう。

にふりわけで支出するためのものであったと考えられる。清朝も入開嘗初より、

額に照らして」、

「地畝銭糧は、ともに前朝の曾計錬の原

徴牧・起解する、

鐸にあたえられた教には、

銭糧のまさに徴るべきものは、常に照らして徴牧し、

という原則を、卒定地域において順次適用する方針であった。一噛王を捕えた時に、多

お〈

まさに京に解るべきものは、常に照らして運迭せよ。・:・

いっさいの緊要なる国籍は、ともに牧識して失うことなからしめよ。

321

とあるが、「常に照らして」とは、明代の額のとおりにと言うに等しいであろう。別の箇所では、「寓暦年聞の則例に照ら

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322

@

して」

あるいは更にはっきりと「高暦年聞の賦役全書に照ら

L?と述べられており、

明代の賦役全書がそのまま徴牧

-起解のよりどころとされていたことがわかる。順治三年三月には、新たな賦役全書の作製が命ぜられ、戸部では侍郎王

弘砕がその統轄の任にあたることとなった。これはようやく一五年になって完成をみたようであるが、それまではひきつ

づき明代のものが用いられていたのであろう。

ともあれ順治末年に各地で作られた賦役全書は、康照二三、二四年の聞に

は「簡明賦役全書」として改訂され、以後十年毎の修輯が定められた。貫際には、十年毎にという規定は貫行きれなかっ

たが、薙正一二年には改訂がほどこされていることからも、財政事務のうえで一定の機能をはたしていたことは確かであ

(布政)司の核ベ(

)

る。責六鴻も徴税に際し、

「惟だ全書と、

東南(地方〉

すL

〈『一隅感全書』巻六頁二)と述べている。

しかし、賦役全書の額に照らして徴牧

・起解を行なわせることによって、戸部

は地方の牧支を統轄し、全園的な財政上の調節を行なうことが可能であったろうか。不可と私は考える。

州鯨の地丁銭糧と起(運〉・存(留)の歎項は、

と言われるように、賦役全書は各州豚ごとの、徴牧すべき税目、数量、

一入一出もみな定制ありて、

原もと奪末の参差も容るることなし。

および支出項目、数量を非常に細かく載せたもの

-130ー

である。

つまるところそれは州燃での起運(布政司庫へ搬入すべき税賦)と存留(州鯨での支出分)の額を定めている

にすぎない。徴牧すべき貫額は年年繁動するから、全書の数字はそのまま適用できない、という貼には目をつぶろゆ。存

しかし、

留、起蓮とも額にしたがって行なわれたとしても、布政司に起運されてからのちの起運銭糧の慮置については、

一部の款

項を除き、そこには指示されていないからである。もっとも、たとえすべてを指示してあったとしても、布政司での支出

を、州鯨の存留銭糧のように、すべて固定した額にしたがって行なうことは不可能である、と言わねばならない。あとで

再びふれるが、布政司での正額銭糧の支出の弾力性は、州照のそれよりはるかに大きいからである。

また順治八年以後、しだいに奏錦制度が整備されるが、奏錆とはその本来の性格からして、各省で「正牧正支」が行な

われているか、すなわち指示や定則のとおりに寅行されたかを戸部が事後にチェックするためのものであって、銭糧の支

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出、起解をそれによって行なうものではない。賦役全書や奏銭加だけでは、全園的な調節を行ないえないのである。

貫録の康照二年五月丙成の燦に、給事中呉園龍の奏請にもとづいて、左のような決定が下されたことが見える。この規

定は簡単ではあるが、注目K値する。

直隷各省の京に解る各項の銭糧は、順治元年より起き、すべて戸部に師す。七年に至りてまた各部寺をして分管して

はびこ

催牧せしむるも、款項の繁多なるをもって、姦弊を滋らせ易きを致す。請うらくは、康照三年より始めとなし、あら

十分の考成を作し(十割徴枚を勤務評定の規準とする〉、

ゆる雑項はともに地丁銭糧と稽して、

すベ

その徐は遁て戸部に解らんことを。::::・各部寺街門のまさに用うべき銭糧は、年前に数百を具題

毎年正月に兵制を如捜す

るを除くの外は、

し、失年に戸部において支給し、のりて年終に核報(禽計報告〉

せしめん。

各部寺の財政上の濁立は明代の制度を襲ったものである。この年にそれが改められ、戸部に預算を提出し支給をあおぐよ

うになった。また解款制度についても、簡単ではあるが、

一つの原則が示されている。

「兵制を如撰する」とは、

一年分

-131ー

の兵鮪に支出すべき額を定めて、その年に起運されてくる地丁鐘糧などのうちから、どの財源からいくら出して、その兵

帥の額に充嘗すべきかを、戸部が指援しておくことである。正月は曾計年度のはじめであるから、預算として、兵制の額

とその財源とを前もって定めておいて、兵制への支出を認めたもの以外は、戸部へ遅らせようという趣旨である。ただ、

布政司庫からの最大の支出項目は兵帥であるが、他にも官俸役食、河工など紋くべからざる支出項目がある。それが兵倒

と一緒に「担擾」されたや否やは、確認できない。

また、牧入不足の省への協飼についても、

年〉に、

それが正月に戸部によって措置されていたことが

在碗の題本覆稿(康照七

323

査したるに、各省の最も貴州に近きものは湖庚に如くはなし。

らしめたれば、則ち就近の省分の別に協(済〉すべきなし。ただ江西・江南ありて、

ただ湖底の銭糧はさきに行(文〉

して

偉く雲南へ解

これを別省に較ぶれば、

貴州よ

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り距たること、差や遠からずとなす。ここをもって江西省の銀十三高雨、江南省の銀十七蔦爾をもって解済せしむ。

さきにすでに臣(戸)部正月援舶の時において題明して案にあり。

とあることから知られる。もっとも、この「正月擁嗣」の制度は、康照三年より貫施されたのではなく、既に順治年間よ

り行なわれていたようである。

戸部による兵帥の指援に際しては、外省より前年のうちに、次年度の兵制の額を算定し、

」れに射して財源を指定〈U

指機)するようにという請求が題本によってなされていたこともたしかめられる。右に引用した部分につづいて、

その雨新および上元(豚)等の項の瞳課銀十五高雨(が貴州へ協済されることとなったのは)、

銀を擁給せんことを題請せるに、臣が部は七年分の銭糧を(指)援せんと欲するも、ただ起解の謹慎するを恐れ、遂に

あま

六年(分〉の存する所の盟課、ともに援し膿したる見銀に属するをもって、(戸部の盗)文の到りて(何筒月までに貴州に

とどくようにと)限りて、速解せしむるに繋る。

斡撫羅緒錦上年十二月に見

とあるのは、こうした事務上の手績きのことを述べているのである。

また薙正二年正月二八日の戸部題本時に引用され

-132-

た、四川巡撫禁足の題本では、成都の駐防八旗の軍官・兵員の俸前、馬匹の豆草、白米の折債として、

除が「請援」され、戸部はそれに射して「:・:・:等の項の銀雨は歳需の項に係れば、合に本省の各案存庫銀雨:::南徐を

援給すベし」、そして支出した銀数は、嘗該年の兵馬奏鋪加に造入して報錯し、戸部の査核をうけよ、との決定を下したこ

とが見え碍。巡撫からの支出算定と「請撮」を経て、戸部がその認可と財源の指定(指援)を行ない、年絡にはそれが奏

鋪される、という慮理過程を想定できる。また薙正元年までには、巡撫からの「請援」は、「預佑加」を造崩して、前年

十月内に戸部へ、遺ることによってなされる、という定例が、施行されていたことが確認される。

外省でこうした支出預算を算定(佑前、預佑、佑援)し、

一五

O、四一二南

支出したのちには、

各州勝、

府から提出される禽計mm(豚、府

品川がある!ーを作製するのは布

の草冊〉

をとりまとめて奏鎗加||御賢に付せられる責婦と、

戸部へまわされる清(青〉

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政司である。勿論、布政使には題本を上る権限も、戸部へ直接洛文を迭る権限もないので、表面に出るのは、巡撫と、そ

れに禽衡する総督である。

右に述べたような制度の成立年次を特定することは、今のところできないが、これによって各省は、原則的には毎年の

「正月援制」に遵って、正額銭糧の留支、協鮪の起解を行なうこととなっていたのである。

では、各省で留支された銭糧、および他省の支出にあてるため協解されたものの外に出る徐剰銭糧に劃して、戸部はい

かなる方法でこれを管理していたのであろうか。戸部銀庫は、「天下財政の穂陸であって、各省で歳ごとに(人民の)職

本省に存留して支用するもの以外で、

す田賦・漕賦・瞳課・関税・雑賦は、

るL

、と言われている。ここに地方から起解される銀数については、

凡そ起運して京に至るものはみなここに入

羅玉東『中園遊金史』に、

戸部銀庫大準責般によっ

て、難正二年より威豊三年までの統計がかかげられている〈頁六、七)が、それ以前については断片的な史料しかない。

貫録の康照四八年一

一月庚辰の篠には、牧入

一、三

OO宮内雨、支出九

OO寓雨とあり、また王鴻緒の密繕小摺に牧入一

絵首阿南とあることから、だいたい一千数百寓南の牧入があったと思われる。常例の摘納などが直接牧入である以外は、す

べて各省の布政司、盟運司、税闘などより起解されたものである。

-133ー

ちに、銀南によって支出されたぬは、

高雨前後と見積ってよさそうである。ここから中央各街門の経費、京営八旗の兵制、盛京戸部への協款などが支掛される

一、

O三五官尚南絵りであり、

『薙正元年四柱清濁』では、その一年のう

さきの貫録の九

OO高雨と考えあわせて、卒常一千

これに射し、戸部銀庫より直接支出される銀数についても、史料は乏しい。

わけだから、清朝の命脈の存する所と言っても過言ではあるまい。

しかも各省で支出される分、

および概移、侵歎によっ

て繍空となった分と、戸部へ起解される分とは、基本的に同一の財源から出るのであるから、競合闘係にあると言っても

よい。

325

潅正年聞に春秋援制が確立する以前は、中央戸部はいかにして、この京鮪起解分を確保していたのであろうか。康照二

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326

年の規定では

「兵帥に拘援するを除いて、除は戸部へ遺る」となっているが、これほど簡単に事が運ぶわけはないので

ある。

私にはまだ不明確なところもあるが、

だいたい以下の如くであったろうと考えられる。年聞の解京銭糧一千数百寓雨の

一定部分は、常例として解京の額が定まっていたものがあった。明代制度では、額波中の金花銀と、歳涯、坐援な

どのうち、京師や進境へ迭られるものとは、もっぱら額を定めて各省へわりつけていたのであるが、

うち

その

一部は清代の

賦役全書中にも、同様に解京の定額分として記載されてレたのである。清代前期にこの定額がいかほどであったかを、直

王慶雲のあげる「各省の例解の部款一百二十首問、常摘・

旗租

・減卒二百除寓」

という数字は、道光

一膳のめやすとはなろゆこの部分は、未徴、勝空とならない限り、戸部は放っておいて

接示す史料はないが、

末年の質朕にもとづくにせよ、

も、毎年受け取ることができるわけである。

しかし数量の黙でも、

またどうや

って確保するかという黙でも、更に重要なのは、定額分以外の京前である。確保の方

@

の戸部題本中に引用された山西省康照五三年分の

康照口年(残倣)

-134ー

まずこれを奏鮪のなかに窺ってみよう。

奏舗によると、額徴地丁銀二九五寓除雨に謝する「支用各款」として、

法について、

まずはじめに、

一、給協解快西・甘粛五十三年兵制銀、六十六寓雨凶

欽奉上議案内接給甘粛兵制銀、二十高七千七百四十二雨刷

一、給解部銀、

五十高四百七十八雨

ω

とあり、以下本省内での支出各項が績いたのち、一、協空、一、(額微に射する〉未完地丁等項が記される。そして末尾には、

一、存剰地丁等銀、

四十八寓四千一百六十一南側

すみやか

「躍に該撫に行(文)

して、作速に部に解らしむべし」、と述べている。

ω、倒はともに協鮪であるが、その手績きは異なっていた。おそらく、

ωは戸部の「正月接納」

これらのうち京嗣とな

とあり、戸部はこれを、

ったのは

ωと仰である。

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において命ぜられたもの、闘はそれとは別案の

帥」、或いは別案の「上識」

「上識」

によって命ぜられたものであろう。

京鮪である

ωも、

「正月擁

しかしこの遣いはさして重要でない||預め起解を命ぜられて

いたと考えられよう。すなわち、兵館や協働の拘援と同様に、預算として京鮪に充嘗すべきことを指示されていた、と私

は見る。倒はその年度内の徐酬であって、年度末から敷箇月後に上達される奏舘によって戸部に報告され、その昆置は事

責上戸部が決定するわけである。 に

よって||恐らくは前者、

右でみたのは、地丁項下銭糧に閲する措置であるが、盟問切の奏舗に際して、

史をして庫に貯え、戸部の(洛)文を候ちて、前に援すベし」との語がみえる。盟課や、そして恐らく関税などについて

と考えられよう。

庫存銀数を記して、

「まさに該(巡醸)御

も同様であった、

京鮪起解の時期については、落正元年一二月一八日、南准巡瞳御史謝賜履題本中に引用する戸部洛文に、

(谷)文到りて六十日(内〉に部に到り:::・

とあることによって、春秋援制制定以前より、春と秋の雨季に行なわれていたことが知れる。

は、直隷・山東・山西等の省は、

-135ー

直隷・山東・河南・山西・江南・江西・漸江・湖贋等の省の銀南は、春秋二季において嬢解すベし。この起解の限期

おおむねここで述べてきたような、制度上のわ

くが設けられていた。戸部と各省の聞の財政関係については、左記のようにまとめることができるであろう。

戸部の園家財政に射する監督と支配を保障するため、薙正初年までに、

一、

「一省財賦の線陸」である布政司は、

一年聞に支出すべき兵鮪銀数を年度前に算定して、巡撫がこれを戸部に、十

月までに加報する。戸部はこれに封し、

みこまれる牧入のうちから、それに充首すべき項目と数量を正月に指援する

〈佑鏑|部援制、これが整備されて、彰雨新氏の言う冬佑制となる〉。

327

一、牧入不足の省への協鮪も、見こまれる黒字分のうちから、正月の部接、あるいは別の機舎に指示をうけて貫行される。

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一、戸部銀庫の牧入は、的常例摘納などの直接牧入、

同例解部款として賦役全警に定額のあるもの、

同協前と同様に、

見こまれる黒字の内より起解を命じる京舶、

MN

奏舗に際し、年度内未支給のものと、黒字になったものより起解を命

じる京倒、がある。

組之、各省の兵師、京倒、

って支出され、次年に奏錯でもってその質施状況を報告して、戸部の承認を受けたのである。こうした手績きによって、

協舶は

年度内に見こまれる牧入のうちから、

あらかじめ戸部の指躍を受けた額にしたが

戸部は各省の出入を支配し

かつ全園的な財政の卒衡をはかろうとした。

しかし

見こみどおりに牧入が得られるとは

限らないし、

また部躍を受けた款項以外に、臨時の支出があることも嘗然考えられる。すると、あらかじめ定められた京

舶、協帥が、額のとおりに起解できないという事態も生じるであろう。右の制度には、こうした問題が内包されていたこ

とが、

議想されるのである。

春秋援制は、先行するこれらの制度を前提として、登場してくるのであるが、その意義を明確にするため、

いま一度、

-136-

薙正初年までの制度のもとにおいて、具践的にどのような問題が生じていたかを、次章で考察しよう。

動支、榔移、蕗空

戸部が全園の財政を統轄するにあた

って、財政事務上の決定を下し、外省の巡撫などに指示を渡するための、よりどこ

ろとなるのは、各省からの報告である。戸部が各省の財政獄況を正しく把握してこそ、戸部の下す指示が、績に昔一旦いた餅

@

となるのを避けることができる。恰親王允鮮の奏摺に、

全て外省の題疏

・洛文をもって擦り。ところとなし、

方めて項款清楚にして、

あらゆる支給

・擁解の項も遅延・錯誤を致さざるを得。

と、地方からの題本、奏疏や洛文による報告の重要性を言うのも、これによる。

本(戸)部の銭糧は、

必ず内と外と霊一、前と後と相い符して

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順治時代より、各省で賦役全書を作製して戸部へ迭らせたり、奏錯婦、佑鋪婦などを毎年定期に造崩して戸部へ報告を

する制度が、整備されてきたのは、前章でみたとおりである。しかし、このいくつかの措置を講じただけでは、戸部が外

省の正額銭糧の出入を制し、京鶴、協鮪の起解を戸部の指示どおりに寅行させることは、やはりできなかった。恰親王は

@

薙正二年一一月二六日に上

った奏摺「震請定酌援篠例事」の官頭で、現行制度のうちに存在する問題を、次のように指摘

している。

臣が部の毎年の春秋二接、

年移大躍の蓄例には

各省の本年額徴銭糧、

および各年各案の登記〈済み〉銀雨を按じ

しかるに各省の本年額徴は、いまだ奏錯をへざれば、徴牧して庫に存するの数、多少なるを、

確知する能わず。その各年各案登記銀雨も、本省あるいはすでに別案におレて動癒するも、またいまだ奏舗をへざれ

て、通計して酌援す。

ば、部内の登記よりていまだ開除されず。故に部援の歎項は、各省の撫臣、あるいはすでに動支せるをもって、ある

いはいまだ徴牧をへず、

援給に敷らずをも

って詞となし(部鍛に従わない)。

なにがし

けだし、部援の款項は、定例において必ず指す所の何の項に照らして動用し、藩庫にたとえ別項の、庫に存するも

かつて

のあるも、部の指す所にあらざるを以って、あえて撞に動かさず。放に往往にして(戸部へ)洛

(文)もて改擁を請

う。査するに、各省の兵制・騨姑・官役俸工等の項は、みな月を按じて支(梯〉い、

稽けるべからず。乃るにひとたび洛〈文)題

〈本〉もて改擬すれば、

-137-

その別省の協鮪も、

また時日を

往返ややもすれば数月を隔て、

既にして兵制に

しかも別項のすでに徴(存)せる銀南も、

あるいは鰐空を致さん。これみな部内の、各省の寒在に庫に存する款項

・数回を知らざるによる。

おいて誤つことなかることあたわず、

徒に藩庫に貯えて、恐らくは反って

戸部は、牧支に徐裕のみこまれる省に射して、あらかじめ算定された額にしたがって、春と秩の二度、京前の起解を指令

する。春季に起解さるべき銀数は、前年の下忙徴牧期以後に徴牧されて布政司庫に起運されているはずの銭糧数日と、そ

の年の正月撞前にしたがって、留支、協解されるべき数目とをにらみあわせて、算定してあるし、秋季のそれは、その年

329

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330

の上忙徴牧期以後の見こみ牧入と支出について、同様に算定されている。

しかし、その算定のよりどころとなるのは、戸

散とは一致しないのが普通である。

と考えた数回であって、京舶の援解を行なうその時黙に、寅際に庫中に現存する銀

また戸部の知らないうちに、別項に支出されてしまった銀雨もある。そこで、恰親王

部がその時までには入庫ずみである、

が述べるような弊害が生じるわけである。

援解を指令した時黙で、

いかに奏錆制度が整備されても、それは事後報告にすぎず、佑鮪をいかに巌格に査定しても、それは殻定でしかない。

いまだ可能態でしかないものをもって、現貫を制することができないのは遁理である。

こうし

て、正額銭糧に射する戸部の支配は十全ではなく、外省が様々の理由をつけて、京鍋の起解を拒んだり、

「改擾」を請う

たりする事態をいたすわけである。

引文中で、巡撫が部援を受けた項目について、すでに「動支」ずみであることを理由に部援にしたがわない、という朕

況が述べられていたが、ここで銭糧の動支、あるいは動用が問題とされていることには、次のような背景があった。

戸部は三藩の凱による財政難のさなか、康照一七年に、

-138-

司・道等の官はすべからくまず督撫に申詳し、

詳題明せずして、寛に奏(鈎〉般に入れて(開〉錯を請わば、錯

-v-准さ湖、

各省、銭糧を動用するに、

〈督撫は)預め題明を行なうベし。

もし申

という規定を設け、正月擁鮪の際に指援したもの以外に、銭糧を動支することを規制しようとした。ところが、財政状態

の改善とともに、規制がゆるやかになってゆくのを確認できる。

ゅうよ

緩すべからざる時」に限って、

一七年の規定では

「正に用兵しつつありて

刻として

康照三一年になると、

後、現今用うべきの銭糧は、該(叩地)撫、

一面動用」を許すという例外措置が認められているだけであったのが、

@

「陵上への供鹿、弁びに緊要の事務に用いる所」が例外措置に加わり、更にその三年後には、

という規定となっ坤。

「嗣

「一面申詳具題、

一面動用し、

一面(戸)部に報ぜよ」

こうして正額銭糧

の動用も、戸部の指示をまた.すして、替撫の権限で、賀行できるようになっていたのである。

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貫録の康照四四年五月甲戊の篠には、江蘇省へ十五高雨の協鮪を命ぜられた直隷巡撫が、解るべき銭糧がないとの理由

で、他省へ改援することを奏請した、との記事がみえるが、こうしたことは、頻繁にあったと見るべきである。外省は制

度の不備を利用して、むしろ積極的に接解を菟かれようとしていた。薙正四年の上識のなかに、

藩庫の銭糧、虚牧・担報・掩飾・調縫の弊、

とあり、また八年にも、

従前、戸部の春秋二接、歳底大援の時、各省はともに、講究して京帥を援解するを兎かれんと翼うことあり。もって

一にして足らざるを致す。

従前、直省のまさに起運を行なうべきの銭糧、

部に解るをもって難しとなし、擁解の時に至る毎

に、百計替求し、備公、協鮪の名に借りて、本省に存留し、戸曹の堂(官〉

・司〈官)もまた就中に利を漁り、情に御

該省の撫・藩は、

いて雑項

・税課を壷く(布政)司庫に留めしめ、たとえ正項なるも、部に解るはまた謬謬たるに属し、もって外省の

・藩は、庫に存するの名色に籍りて、通同して那用す。州鯨も数尤してまた肯えて随徴随解(徴牧してすぐに起運す

る)せず。官侵し吏蝕みて、臨空紫紫たり

0

・:::

-139ー

との上識を下していることからも窺える。

布政司庫に銭糧をとどめおくことが、臨空費生を惹起する、との指摘がここでなされている。従来の制度のもとでは、

臨空を生じ易いという問題があるのみならず、臨空が巧みに隠蔽され、戸部は賞情を知るのが容易でない、という問題も

生じていた。奏鋪制度は、本来、郷用、侵欺などの不正を防止し、戸部の監督権を強化しようとするものであったが、路

空の瑳見ということでは、無力に近かったようである。これは、地方諸庫の盤査(禽計監査)制度が不十分であったため

である。康照二八年より、奏錯時に巡撫が布政司庫の銭糧を盤査することとなっていたが、南者が「逼同作弊」している

のであれば、全く無力であり、ま俳現貰にもそうであった。

康照二三年、監察御史李錦の上奏に、

331

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332

ともに藩司の掌握にあり。たとえ腐空あるも、なお後を指し前に抵つベし。

とあるが、

榔移、侵歎などで防空が生じてレても、後で入庫した銀雨でもって書類の上だけ穴をうめ、その場しのぎをし

各省のあらゆる銭糧は、

て戸部の眼を欺くことは、

督撫と意を通じておきさえすれば、何の造作もなかったわけである。

調の軍務や、

郎空の原因、その形態などについて、ここで詳しく述べることはできない。ただ、康照末の腐空問題の背景として、新

よく言われる康照帝の「寛大の政」による吏治の混胤とともに、上越の動支規定の緩和や、合同計制度上の問

題を、あわせて考える必要がある、

とだけ指摘しておこう。

康照時代後牢から、有数な針策のたてられないまま、勝空は紫積し、

その末期には州豚庫、道庫、司庫、そして戸部銀

庫に至るまで、

この問題をかかえないものはなかった。庫照末の最大の政治問題は銭糧臨空であったと言って過言ではな

ぃ。それは卸位後ようやく十日あまりの新帝、漉正帝に、恰親王允鮮を総理戸部三庫事務に任じ、

つづいて恰親王、隆利

-140ー

を立て、郎中以下の官員を置くことを請い、

四人に合同緋理させる、という行動をとらせた。恰親王らは、別に街門

この街門は薙正帝によって曾考府と命名される。財政消理に閲して、非常事

多、

白出、朱献に命じて、すべての銭糧奏鋪を、

態宣言が下されたのである。

兄擁正帝の切り札として登場した恰親王が戸部の総理となったとき、

賦は歳入すでに多く、経費浩豚たり。簿籍ますます冗にして、輩弊叢集し、:::・:案肢は翠滞紫積す」という欣況であっ

@

た、と張廷玉はしるす。

「この時、園家は休養蕃息し、民物康阜たり。成

戸部が国家財政の統轄という機能をはたすためには、

項・数目」を的確に掌握しておくことが不可依であることを認識した。

そのなかで彼は、

各省の

「買在存庫の款

各省に射して綴舶を行なうその時馳で

の、各庫の現存銀放を知るために、春秋季報般の制度が、彼によって提起された時、中園の財政制度の歴史は、小さから

ぬ一歩を、前へ進めることとなった。

戸部が、

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酌援候例とその瞳制

王の原議を、

春秋季報般の制度の概要は、彰雨新氏の見解にしたがって、すでに説明した。ここには、薙正二年一一月二六日の恰親

@

『戸部奏洛』によって、原文のまま引用しておこう。

自薙正三年震始、令直省毎春秋二季、造具現年徴牧何項若干・動用何項若干・現存何項若干清加迭部。臣部子二季酌

撞・年移大援時、勝其確存款項数目、酌接各省兵制・騨姑・官役俸工及充協働外、除悉令解充京制。::・::春季雁迭

清肪、務子二月二十以前到部、秩季膳迭清加、務子八月二十以前到部。如違限不到、臣部副行題参、交部議慮。

この「清般」が季報邸別である。後にはもっぱら「接加」と言われるようになるので、本稿でも援燭と言うこととする。

恰親王は、この接加を造迭させることの利黙を、左のように指摘している。

かくの如くすれば、則ち臣が部の援する所は、

みな寒徴して庫に在るの数にして、

直省は、

「敷らず」、

銭糧はおのおの疑

「未徴」

-141ー

もって籍口するを得ず。

〔款〕項に野し、混清を致さず。園格・兵鮪において均しく禅盆あるに似たり。

既に文書駁詰の往還を省くべく、

また改援・那移の紛擾を除くべし。

薙正帝は、この提案に針し、即日に「狼〔復〕好、着照行」との殊批を奥え、戸部は原奏を抄録して各省に洛行し、新定

の酌援候例の賀行を指示した。この酌援候例のなかでは、従来よりの佑鮪品川

(U預佑冊)について、何も言われていない

が、春秋媛加で報告された確存銀数のうちから酌接される「兵制・騨砧:・:::L

の数量は、前年九/に届いた佑制加にもと

づいて、算定されたものである。乾隆の『舎典則例』、『戸部則例』春秋接加の規定と佑嗣加の規定を、

以後の諸書は、

必ず一組のものとして記載している。

333

この酌擦係例では、牧支に徐裕のある省では、本省に酌留して留支に充てるもの、協鮪に充嘗するもの、及び「別に需

@

めるところがあり、援用を請う」たものを除き、絵剰銀雨は、悉く戸部へ解らせるのが原則であった。こうすれば、確か

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334-

に路空を掩飾することも、

また督撫、布政使が、榔用など戸部の指示に遵わず、便宜に事を行なうことも、困難になるわ

しかし一方では、地方にいくばくかの財政的徐裕をもたせておかなければ、非常時に、時宜にかなった措置を

とることもできにくくなる。こうして、難正五年正月一一一日、戸部は封貯の制の創設を奏請した。これもただちに裁可さ

春援の京鮪のなかから一部を封貯させることとなった。

けである。

れ、各省の「地方の遠近大小

・銭糧存剰の多寡を酌量して」、

援制度の整備は、こうして封貯制の制定をも促すこととなった。

佑制加、

援加は、

清飾

(リ青冊)として外省から直接戸部へ洛逸された。

されていたため、今日でもその一部を見ることができるのに封し、清mmは戸部に保管され、幾度かの火災、戦災に倒ぃ、

ほとんど見ることができない。

『曾典則例』によると、「春秋接加」は三種

「多援佑鮪般」が四種あったようである。

ヘ督

・撫

・提・鎮・標・協官弁兵馬鹿支俸飼般

へ奉文酌留封貯備用船

一各項質在貯庫銀加

春秋接加

一徴牧各項奮管・新牧・開除

・貫存

佑前珊

(

額徴地丁民賦加

「分断雁留・昨応援細蚊加

一戸額徴雑税珊

名稿からその内容は推測されるが、それぞれがどのような鐙裁のものであったかは、右にのベた理由から不明である。

黄加が御覧に付されたのち

内閣大庫に保存

-142-

以上が薙正時代に整備された酌媛制度の概要である。次にはその運用の朕況や、その数用などを考察してみよう。さき

に述べた如く、この制度は戸部による園家正額銭糧の管理を強化し、地方の出入を制して、京倒、協鮪が戸部の指示どお

りに行なわれるための篠件をつくるものであったが、それは地方からすれば、貫質的な便宜行事の擢の縮少をまねくもの

@

であった。施行嘗初より、首然抵抗はあった。薙正四年の上誌には、

恰親王、戸部を総理してより以来、凡事公を乗り正を持す。

援制の

一項においても、みな地方の遠近を掛酌し、銭糧

あらかじめ

みな買に操りて、預先に奏(閲〉し、除が定奪して後、方めて分接を行なう。四年以来、偲借する

の多寡を詳核し、

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(戸部の〉吏役に私喝し、

貫存敷目をもって壷くは開報せざるあるを

聞く。けだし各省督撫は、身は遠方に慮り、戸部の援鮪は悉く至公より出づるを深く悉る能わずして、すなわち吏膏

暗かに賄賂

なきは、各省もまたまさに暁然として明白なるべし。しかるになお愚昧の人、

を行ないて、もって援(解)を兎かれんと翼い、その巧に遷避する者は、

の愚弄する所となるのみ。

とその状況を俸えている。また賄賂も通じず、捜解を徐儀なくされた場合でも、起解する際に銀南のめかたを軽くした

り、解迭にあたる官員のポケットに一部を取り込んだり、ということもあったらしく、薬正帝は巌しくその手管をあばいて

@

いる。外省の官員らが、かくもさかんな抵抗手段をくり出すのは、それだけ酌援制度が巌格に寅施され、京帥への吸い上

げがきっかったことを物語る。

また外省の榔用、蕗空を抑制するという所期の数果も、着寅にあがったようである。安徽布政使石麟は、

-143-

藩庫の銭糧のごときは、従前多く麟空

・侵那の弊あり。我が皇上の御極以来、特に春秋京擾を造報するの法を設け、

‘川1〆

Pωモ

季を按じて擁解せしめ、藩庫の路空は掩飾すべくもなし。

と報告している。また河南巡撫回文鏡も、

各省の銭糧、毎歳の正供の入る所のごときは、俸食

・兵制・工役・動用の外は、春秋二援にて悉く部に解らしむ。

はもって府庫〈リ戸部銀庫)をして豊盈たらしめ、度支をして優裕たらしむ。

一はもって外官の侵蝕を社ぎ、

@

易からしむ。政、誠に善きなり。

稽査に

と、些かの追従の鮮はあろうが、高い評債をあたえている。寅施して数年後には、務正帝をも満足させるほどの数果があ

@

八年九月の上識では、

らわれたようで、

335

これより各省は、敢えて虚牧虚報の弊をなさず、地方の大吏も、またみな恰賢親王の乗公持正の心は、もって幸兎を

皆求すべからざるを知る。ここをもって、勝依ようやく清く、得議充裕たり。

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336

と述べている。

酌擁係例を適用され、春秋擁加の造迭を義務づけられたのは、布政司の銭糧に限らない。盟課、関税なども、その省の

地丁牧入が支出に足らない場合には、

やはり戸部の指示で布政司庫に迭られることもあったし、協制として他省へ起解さ@

れることもあった。こういう手緩きをする必要上、やはり春秋二季には現存銀数を戸部へ報告し、部援を受けたのである。

薙正二年に奏准された春秋援加制と、

それ以前から行なわれていた、佑制加制を骨子とする酌援制度は、以後大きな襲

更を加えられることはなかったようである。ただ、道光七年、蘇州布政司の脅吏を長年勤めた、華琳なる人物の述録した

『蘇藩政要』

(布政司混同吏のための宵務指南書である)

F

」キ企匹、

bvt

「三接佑嗣加、係春

・秋

・歳三擁季加也、

ji---」とあって、

春秋接加と同じ性質の「歳援佑鮪mm」

(春秋媛冊も、ここでは春鐙佑飼冊、秋援佑銅冊と呼ばれている)が、預佑加とは別に作ら

@

れ、十月内に戸部へ迭られることとされている。命回典や則例の規定とやや異なるが、全瞳としての機能は同じであると見

てよいだろう。ともかく、道光時代に至っても、横班、佑鮪般の造迭は遵守されていたわけである。

通常、京銅、協嗣の援解を指令されるのは、毎年相嘗の黒字を出している省に限られたが、それ以外の省でも、臨時に

-144ー

緩解が行なわれることがあった。一幅建では、布政司へ起運される地丁が一

O四寓商品除、

それに射し支出は一四四寓雨除り

不足分は歴年「部を奉じて、盟課・閥税および各案の存庫留備銀雨を動捜して」補っており、むろん、京曲、協

的を解ることはなかった。しかし、閏月のある年を除き、毎年四、五寓雨と、わずかではあるが、絵剰があった。酌被保

例施行後数年のあいだは、これも巌しく京帥にとりたてられていたが、薙正

一一年より起解を停止し、本省に留めて経費

であり、

に充てることとなっていた。これが積り積って二八

O蔦南にもなり、

「乾隆一一一一一年の春擁案内に、部を奉じ銀一百首阿南を

と記録されてい初。

春秋媛般によって各省の貫在存

撮解し、

績いてまた部を奉じ、江蘇省協帥銀二百寓爾を接解した」、

庫銀数を掌握している戸部は、このように、必要とあらば、随時にそれを移動させることができた。各省の正額銭糧は、

何慮に牧貯されるを問わず、国庫金として、戸部の支配のもとにあったわけである。

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さて、ここまで述べてきた酌援制度の機能を通じて、清代園家財政における、中央と地方の聞の財政権のあり方を考え

てみよう。

多佑、戸部による援鮪、春秋譲、奏錨などが貫行されることによって、外省の正額銭糧の牧支は、すべて中央

戸部の支配するところとなり、地方の官街は、いわばその代理として牧支を管領するにすぎなくなる。正額銭糧の範圏の

うちには、地方の財政権によって運用される、地方財政の成立する品跡地は、まったくないわけである。地方の財務街門

や、一般の行政街門に附属する諸庫は、おびただしく分岐してはいるが、そこでの正額銭糧の牧支は、戸部からすれば、

戸部銀庫の牧支を操作するのと同様に、中央戸部によって遠隔操作されているのである。酌擁制度の整備は、戸部銀康と

地方諸庫とを、動態的に結びつけ、それらを統一的な、ひとつの園庫としたと言えよう。顧家相の『漸江通志産金門葉』

は次のように述べる(各中頁八|九)。

泰西は、園家税と地方税とを分けて二となすが、中園では従来匡別がなく、定名も立てられなか

った。民聞の職める

所は、繊悉も必ず戸部に報じ、春秋擁加において、某項は某款を動支する、というように、戸部が預め定め、布政司

は奉行するのみで、敢えて撞専しない。

← 145ー

一方、こうした正額銭糧の、

理念型とすれば極度に集権的な財政の盟系の周固には、それに附着するかたちで、質質的

な地方財政とも言うべき鐙系が存在する。

人民の負措からしても、

またそれを介して果たされる政治機能の貼からして

も、それは、園家の正額鐘糧H園家財政と匹敵する、あるいはそれを上まわる規模と重要性を有していた、

しれない。

と言えるかも

この「地方財政」の鐙系は、正額銭糧のそれとは明確に区別され、

さらに幾分の陵味さをのこしながらも、二つの領域

にわかれると考えられる。一つは、官の役得、吏の手数料、また税糧徴牧に附障して官、幕友、脊吏の分肥に供される私

徴、加汲など、個人に信附着する「私」の領域であり、他の一つは、堤解された耗羨、開公された阻規、また公事のため上

級官鹿の認可を受けて徴牧される摘款など、「公」の領域である。前者が、「私L

として、ある許容範圏内では、他から

337

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338

の干渉を受けないのに針し、後者には報錨の義務が課せられるなど、特に薙正期以後、

@

勢にあった。しかし、

それに射する規制が強められる趨

「私」の領域は言うにおよばず、公項、公費銀など「公」の領域に属するものでも、園家財政と封

置されるような、

それ自慢明確に制度化され、財政制度のなかに、正首にくみ込まれたものとはならなかった。それは、

正額銭糧の置き場所である諸康に、廟を借りるようなかたちで存貯され

公項などが、濁立した置き場所をあたえられず、

ていたことに

よく示されている。

「公」の中間的な性格は最後まで梯拭されることはなかったのである。園家財政は、

その固い殻の表面に、どこかぶよぶよとして殴味なところのある、

しかもなくてはならぬ「私」

「公」の財政を附着させ

ている。清朝園家の財政令』全健としてながめれば、こういうスケッチができるのではなかろうか。

酌援制度の崩壊

乾隆時代には、臨時の戦費支出は別として、経常経費の増額がなされ、既にこれを憂える論者もあっ持。その一方では

牧入の増加もみられ、財政は安定していた、と言えるであろう。嘉慶以降になると、今度は正額銭糧の牧入減少が、様々

の分野にあらわれてくる。まずは地丁の未準が徐々に培え、更に嘉慶、道光の交あたりから、各地で盟政が崩壊しはじめ

る。また、闘税牧入も、乾隆三

一年の五四

O品開高南から、嘉慶一

七年には四六

O除寓雨、アヘン戦争直前には、やはり四

@

七Ol四八

O高雨前後と、六

OJ八O寓雨は減少している。こうした枚入減少の背後に、どのような原因がはたらいてい

-146ー

たのか、この聞いに答えるのは、容易なことではないだろう。ここでは、

ただ牧入減少という現象がみられたことを、指

摘するにとどめる。

牧入滅が牧支卒衡悪化の原因となるのは、言うまでもないが、他にもう

一つの原因があったようである。道光時代にな

ると、これに針して警鐘がならされはじめた。

@

道光三年、戸部は近三年来の牧支の比較を上呈した。この結果として渡せられた上誌では、牧支の悪化は、

「買に、定

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まさに支すべきの款は、勢として減らすこと能わず、その定額なき込のも、また意に任せて加増するによる」、

つまり定例外の支出墳にあるとされ、また

「かくのごとく紛紛と(臨時支出を)陳請すれば、賂衆要需に遇有するも、必

ず饗擁するによしなきを致さん」として、各省督撫に、任意に銭糧を動支、塾賠したり、定例に違反して、格外に支出を

「紛紛」

額ありて、

請うことを得ざれ、

と戒めている。

「任意に加増す」

と言っても、

外省が勝手に支出するわけではなく、

と題

請、あるいは答請を行なったうえでのことであろうが、ともかく例外の支出増が、憂慮すべき程度にいたっていたのであ

る。もっとも、こうした事態が、すぐに戸部による正額銭糧支配を崩壊させたわけではない。道光十二年の戸部の上対に

よれば、道光十年以来、各省の軍需、賑叫、河工などの支出によって、二千儀寓南の赤字がでたが、

支紬なし」と言っているのをみると、戸部の酌援制度は、まだうまく機能していたようである。

道光十五年月の上翻によると、事態はやや悪化しつつあ

ったように考えられる。

「現在、酌接はなお

近年以来、各省の地丁・税課の積欠、頻りに初り、毎歳の額徴において、巴に年ごとに年の款を清する能わず。た

しばしばと〈そ〈

該部の節次に巌催するを経るも、伯りてまた日久しく

とえ徴存して(戸〉部に報ずるの項も、

また障時に解援せず。

-147ー

宕延す。

ここでは、季援般のなかで徴牧ずみと報告しても、戸部の指示に遣わず、

る。未徴牧の項を、いつわって徴牧ずみと報告したのか、榔移、動支によって、

が、戸部の酌援に躍じない省があるというのは、やはり戸部の財政支配の低下を物語る。

庫、道庫に牧存する、「徐存の入擾銀三百九十五高五千絵雨」

が、

銀雨を起解しないことが、

臨空が生じたのか、

槍玉にあ、かってい

いずれかであろう

同じ上誌のなかで、

戸部の催促にもかかわらず、

各省の司

季援新内に造入されな

ぃ、という事責も指摘されている。中央が「巌参議慮」を手段として、こうした違法措置に劉虚しても、なお阻止できな

339

いのは、相封的な吏治の額壌が準んだということかもしれない。しかし、季援加に不法に造入されない銀南の数回を、戸

部が掌握している(恐らくは奏鈴冊と季報冊を、つきあわせることによって〉、ことからしても、

正額銭糧にたいする

戸部の支

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340

配は、些か蝕まれたとは言え、なおも失なわれてはいなかった、

とみるべきであろう。

酌援制度にもとづく、財政統轄のあり方が、根本的に援化するのは、威盟期になっ

てからである。言うまでもなく、

卒天園の

一撃によってであった。

『湘箪志』

の著者、王悶運は、

@

その閉の事情を次のように記している。

洪冠の興るや、始めは部より倒を諮り、軍に擁するもの、六百品開高。その後、困喝して、則ち空文をも

って指援す。

これを久しくするに、空も指すべくなし。諸将帥も、

またその無盆なるを知り、すなわち各各自ら計をなす。

軍前を白神脅することを除儀なくされた、

述べた、

清朝園家財政の根底が掘り崩されたことを、これは意味する。

戸部の酌援制度の崩壊によって、

地方督撫らが

と彼は主張している。品川音十で

春秋般によって京削を確保することができなくなると、毎年定額の京帥上供を、各省にわりあてる、

機涙制が登場する

こととな

った。のち、軍機大臣突環らが上奏するところによると、それは威豊三年の

ことであっ時。

威豊三年より、各省の春秋報践は、並びて存款なきに因り、

戸部は始めて、改めて年を按じて数を定め、指援して部

-148ー

に解らしむ。

「存款なし」とあるのを理由に、定額の京帥起解を要求する、とはまったくの非合理であるが、

現買はこの非合理の方へ進んだ。その年の一一月、戸部は「部庫の歳需の銀雨を、bb/

綴案内に鯖して掛理する」ことを奏

@

請し、

次のような決定が下された。

各省よりの春秋殿畑に、

あらゆる該部の歳接の京倒は、著准して本年より始め、多段案内に蹄入し、各直省の協援兵制と一

律に酌援せしむ。

形式のうえだけ、従来の多綴H歳慢の手績きを経て、「酌援」を行なう、と言うわけであるが、

賞情は酌援ではなく、純

然たる擬涯であった。これ以後、清朝滅亡に至るまで、京前、内務府経費、海軍費、賠款など、すべて各省および海閥へ

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の機、援によってまかなわれた。

太卒天園期以降の清朝財政、特に「督撫重権」という現象が、財政の面でどのようにあらわれたか、

というのは、非常

に興味深い問題ではあるが、これはまた別の機舎に論じよう。ただ、

ついに恢復されなかったのはなぜか、という聞いについては、簡単に私の考えを

一日一崩壊した酌擢制度が、同治後宇から日清戦争ま

での、相射的に安定していた時期にも、

のべておこう。

非常に車純化して言うと、

それは牧入、支出のいずれにおいても、

従来の正項銭糧の項目の範圏外に出るものの比重

が、爆渡的に膨脹したからである。

は、正額銭糧、すなわち園家財政に属するものではなく、地方で措置された「公」と「私」の領域のうちにあるものであ

った。園家財政の破綻は、たとえば「公」の領域中の麓金牧入などからも、京前その他の経費を捻出することを、品開儀な

前章の末尾で述べた園式にあてはめれば、

麓金に代表されるような新たな牧入項目

それは、

を義務づけられた鰹費U園家銭糧と劉置され、地方で慮理される経費のことである。こうした経費は、

はっきりと制度化されることなく附着し、中央戸部からは非常に弱い支配しか受けない、

ることはなかった。この時期に「外鈎」経費ということばが新たに登場する。

という性格を饗え

-149ー

くさせた。

しかし、膨脹した「公」

「私」の領域は、更に重要性を増したにもかかわらず、

やはり従来のとおり、園家財

政の外側に、

「内錯」、

すなわち戸部への奏錯

いよいよ重要性を

増したにもかかわらず、園家財政の陸系のなかに取り込まれることも、

また近代園家における地方財政の鐙系として、制

度化されることもなかった。これと同時に、従来の園家財政を構成していた地丁、盤謀、

常閥税(海閥牧入を除いて)など

は減少し、

ふくらんだ園家財政の支出を、

まかなうことができなくなった。中央戸部が、直接的には支配していない「公」

の領域から、その不足分を補給しようとすれば、それは必然的に機涯という方法によらざるを得ないわけである。庚子賠

款以後、種々の擬涯は激増して、「公」「私」の領域を確保しようとする地方との聞に、きびしい針立が生じ、ついに、

また必然的に到来した。行きついたところが、本稿のはじめの引文中にみられた、あ

341

中央と地方との分裂という局面も、

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342

の姿であった。

1 イつ

薙正二年の酌陸線例の制定は、従来の正月媛帥、および京嗣協嗣の起解制度のうえに、季報燭

(H綴冊)

ることによって、地方諸庫における正額銭糧の出入の動態を、戸部が適時に把握することを可能とし、また、

各庫の寅情

の制度を加え

にもとづいて京納協嗣を指援して、全園的な園家財政の調節を、有放に行なうことを可能とした。こうして戸部銀庫と地

方諸庫とは、前者を結合の核として、有機的に聯節され

部による支出項目

・数量の指擁を、

「布政司は奉行するのみ」 一

つの園庫として組織された。園家の正額銭糧については、戸

(本稿頁

一四五参照〉

という、

徹底した集権的支配が質現し

たわけである。

太卒天闘を契機として、従来のわくを越える財政の運用が必要となった時、園家財政におけるウルトラ集権支配

llこ

-150ー

の外側には、「公」「私」の財政の領域が殴味に附着しているのだがlll換言すれば、制度化された地方財政の依如が、こ

れに遁躍することを却

って阻げた。まずは、中央の酌擁制度にもとづく財政支配が崩壊し、

@

自計をなすに異ならず」、また経費の配分をめぐって、中央と地方が、相い争い相い欺くという、まったくの分崩離析が、

ついには

「数千の小園、各

もたらされたのであった。

近代の統一園家形成に際しては、中央と地方による行政、財政の機能的合理的な権限の分轄と統制とが、制度的に確立

されることが、その必要保件であった。

奮来封建分立的な政治形態をとっていたところでは、この移行がスム

ースに適合

的に行なわれたのに射し、清朝治下の中園のごとき専制的集権園家は、更に困難な遁をへて、この移行を賓現せねばなら

なかった、と言うこともできよう。

本稿は、もとより清代の財政全般について述べるのを目的としたものではない。私の考える「公」

「私」の領域につい

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ては、何らその具瞳的内容に言及しなかったのみならず、園家財政の内部で護生した艶空、

再び重大化した酷空の問題などに、論及することができなかった。後日の課題としたい。

343

註①軍機大臣慶親玉突勘等奏「議覆度支部奏請済理財政、宜先

明定緋法摺」、中圏第一一歴史檎案館蔵清度支部(戸部〉楢案、

l凶l川¥ぼ¥忠良。以下、本稿で用いる稽案は、別に明記し

ない限り、すべて中圏第一歴史楢案館所蔵のものである。

「清末中央輿各省財政関係」

『祉舎科皐雑誌』第九巻

第一期一九四七。

③同前、頁八三

。乾隆四六年の『戸部則例』袋二

O庫議

の項、春秋綴と題された規定を引用しておこう。

て各直省司道庫儲銭糧、該督撫毎年於春秋二季、勝寅在存

庫銀雨、遺具春秩援冊報部。戸部殿明数日、存留本省支

用、及協絢之外、徐悉解部充鈎。

て毎歳冬季、各直省督撫、各勝次年一歳賂需俸制、預佑情

報、務部按数援給。凡援協飼銀、先億郷近省分、再及次近

省分。其別有急需態協済者、の於制御近省分遁融援協。機藩

庫銀雨不敷、或動墜課、或議内需、由部随時具奏。

『世租貫録』巻九頁一二、順治元年十月甲子。

同前、巻一七頁八|九、順治二年五月丙寅。

同前、巻四一頁十、順治五年一一月辛来。

同前、巻三

O頁二ハ、順治四年正月美未。

同前、巻二五頁二四、順治三年三月壬寅、各二九頁三、同年

③⑦⑥⑤④

とくに嘉慶から遁光時代に、

一一月丁未。編纂の貧務は州燃で行なわれたようである。秦世

禎『撫析機草』(『清史資料』第二輯一九八て所牧〉、頁一

七五、一八て一八四参照。

⑨『清史稿』巻二六三、王弘鮮停、中華室田局版頁九九O二。

⑫順治十年七月六日戸部題本、清順治朝題本奏鈴類日。以下楢

案の分類は「順・題・奏鎗」ように略記する。

⑪このため布政司は、毎年年頭に、「賂態解司庫、及州豚存留

態支銀数、二援定、造具簡明徳冊、核定後、渡州問料滋照解

支」、という手績きをせねばならなかった。康照四七年六月二

六日戸部盗文(務正口年(残紋〉雲南巡撫楊名時題木、薙-

題・奏鈴印、所引〉。

⑫佐伯富「清代における奏鈴制度」『東洋史研究』第二二容一-一

誠一九六三、にくわしい。

⑬「請申巌就近簸飼之制、以無懐軍需事題本覆稿」、康照七年

二月題、『発峯文紗』巻一一旦一一ll四。

⑬順治一八年八月一一二日戸部題本、

『清代檎案史料叢編』第四

紘一九七九、頁八、参照。また、順治十七年正月一一一一日洪承

鷹揚帖、『洪承岡崎章奏文冊余輯』一九三七、頁二

O五。

⑮潅・題・糧飼7。

⑮また、康照五七年九月九日雨康総督錫琳題本、康・題・奏鈎

-151ー

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344

n、には、慶東省が康照五六年分丘(鈎の歳需を見積って冊報し

てきたのに射し、戸部はその財源

・数目を指冊以して、五五年一

二月一一一日に題准を得て、

巡撫に盗報したことが見える。「正

月綴飼」の手絡きは、前年一一一月内になされていたことがわか

る。

正二年六月一日吏部題木、難・題

・例行お、に、

査得、戸部洛稿、直線巡惚李維鈎、以直属各鎖後腹需出世正

試年俸飼等銀預佑倒、准洛行令拾月内到部。今拾月己絡、

向未迭到・・・

とみえる。

朝文献一週考』巻四O頁二。

『文献叢編』第二斡一九三

O、頁二四。

③策問二八四九。

@

代は下るが、王鹿雲

『照朝紀政』径三頁五二に、戸部銀庫

の+又出として、

道光二九年九、四六

O、七

O二爾零

三O年九、五六四、

O五九雨零

威堕元年

九、五六九、九一一雨零

という数字があげられている。

③例えば、地丁銭糧から得られる京納は、布政司への起運分か

ら出る。そこで卒時においても、州脈では存関款項よりも起運

を催先するべしという規定があった(康照『大清舎典』巻二四

頁二九〉。

また州豚官の方でも、存留分は自らが支給する項目

であるから、綬くすることもできるが、起運は「緊要」であ

る、と意識されていた(『一縮慰全書』径七頁

一五)。

照朝紀政』各三頁五二。例解部款、常掃などのほかは、

「不敷銀、随時奏問、於盈餓省分地丁

・殴

・関、指款解部陣。

加熱定額」とあるように、定額がなく、春秋綴制によ

って撒解さ

れる京鈎によ

ってまかなわれる。

@

・題

・奏鈎%。

②「正月段飾」の際の戸部の谷文には、「其木年強畷

・小建

下剰等銀、初存司庫、照例一笑報、聴候部文、機充下年兵飼」、

という文言が、必ず添えられていた。

康照五七年九月九日雨康

総督楊樹琳題木、康・題・奏鈎泊、および、難正元年一一一月五

日湖庚巡撫納斉略題木、落

・題

・糧鈎1に、それぞれ引用する

戸部容文。

照五九年九月二四日戸部題本、康・題

・奏鈎辺。

@

註③に引いた『岡山朝紀政』の記事参照。

・題

・瞬務2。

@

地丁の徴牧は、上忙、下忙の二期にわけて行なわれた。原則

としては、春には、前年の下忙分が徴収ずみであり、秋には、

嘗年の上忙分が徴牧ずみで、それぞれ布政司に起運され終って

いるので、この二季に京飼の起解が命ぜられたのであろう。

擁立四年二月二八日奏。清華大皐図書館蔵『戸部奏洛潅正

元年至乾隆十二年』不分巻妙本、第二冊、薙正四年五月二日

到の戸部盗文中に引用されたもの。この紗本の書名は、同図書

館でつけたものであろうが、内容は、貴州省の巡撫街門に届い

た戸部の次官文を紗録したものであると、判断される。

③『戸部奏盗』第一問、難正三年正月八日到の戸部谷文。

②『翠租寅録』忠信七二頁四|五、康照

一七年三月辛巳の候。

-152ー

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345

@薙正『大清曾典』巻コ二頁八。

@同前、頁八|九。

戸部奏谷』第二冊、薬正四年一二月一二日到の戸部海文

に、十月一一一日内閣交出として引く。また『世宗怒皇帝上稔内

閣』巻四九頁三Oハ十月一

八日)にほぼ同文を載せる。

③『薙正朝上議楢』単位三頁二七、薙正八年九月十日候。『史料

叢編』所枚。また『世宗態皇帝上議内閣』巻九八頁五六(九

一一日)にほぼ同文を載せる。

@『清史稿』巻

二二、

食貨二、

頁三五三

00

③薙正元年

一一一月九日署甘粛巡撫事待徳題本、潅・題

・回賦

日、に、左のように言う。

値目御史保奏内稿、藩庫恒同銭糧線医、典守泰重、責在落

司。査盤断足、

責在巡継い。各宜奉公守法、不容少有俵借。

但撫藩情好易密、多至相鴛表裏。藩司侵那、則力懇巡撫代

潟掩護、巡撫濫用該藩司、不得不一一際付、以公裕之蓄

儲、寛視信用私家之出入、而幅削空途不可数計。.

@

口年(残飲)山東巡撫魔羅崇恩題本、震

・題

・田賦M。

@「輸相撲和碩恰賢親王行欣」、

『澄懐園文存』巻一四頁て四。

同註@。

@註①参照。

戸部奏務』第二冊、

薙正五年三月四日到の戸部谷文。また

難正八年には、帝自ら提議して、州燃にも銀雨を酌留して封儲

することが定められた。

@

『曾典則例』巻三七頁五五|五六。

@

同註③。

戸部奏谷』第二冊、難正四年六月一四日上識に左のように

言う。

何以解京之項短紋倶如此之多。蓋縁各省藩庫季報賞存銀

雨、悉令緩解京飾、藩庫倹有縦空、不能掩飾、

於地方官甚

有不便。故終解部之項、経卒閉山免、或如存於解官私索、使

。‘

必有短少、以見銀庫有弼免苛刻之畿、明篤将来協扱存留、

那移掩飾之計。

@問機正四年一二月四日摺。『宮中捲潅正朝奏摺』第七輯

一九

七八、頁六六。

三年七月六日摺。同前、第四輯、頁六二四

l五。

⑬同註③。

@潅正四年八月二八日戸部の議覆によって「一腹銭糧街門」が

春秩二季の造船を義務づけられた(九月一日常事国国)。

『戸部奏

答』第二冊。また同年一一月二O日到の戸部谷文には、「長蔵

(間開運司)」の報冊が未到である、と述べられている。

@『蘇藩政要』二巻、紗本二冊。南関大泉聞書館蔵。岡本は光

二二年、在折なる人物による紗本である。また『中央研究院

歴史語言研究所善本書目』には、別の紗本が著録されている。

南関大皐本は、別の「欽目源流』、『掲機款目』、

『票稿録』、

『詳蕎録』、

『銭穀規成』の諸紗本と一

緒にして、

『刊紙藩政一安』

という書名のもとに登録されている。「一一一援佑飾冊」に関する

記事は、各上頁七

l八。

@徳一踊孫綿、侠名綴綿『闘政領要』巻上頁

一五。

@安部健夫「耗羨提解の研究||『漉正史』の一章としてみた

||」(原載『東洋史研究』第一六径四放一九五八)

『清代

-153←

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346

史の研究』一

九七て頁七

O七以下で、「耗茨の正項化」が言

われているのを参照。また清代の

「公費」については、岩見宏

「潅正時代における公費の一考宏一亡、

『東洋史研究』第

一五巻

四放

一九五七、

などを参照されたい。

@阿桂「論一明丘(箸銅疏」、『皇朝経世文編』巻二六頁

二九|一一一

。。③地了未進と郎容エについては、鈴木中正「清末の財政と官僚の

性格」『近代中図研究』第二純一九五八、関政については佐伯

富『清代間政の研究』

一九五六、を参照。

③『史料旬刊』第一一一一J一一一

O期(一九三一〉に連載された、

「会核嘉慶十七年各直省銭糧出入清単」の関税項下の収入を総

計すると、

四六三高除雨である。また

北京図書館蔵鈴本『歳

出品回入簡明徳叩』道光一八

l二八年、によっ

て、

毎年の関税項

下の合計を算出すると、道光一八年HH四六八寓徐雨、一九年リ

四八六高徐爾である。乾隆三一年の数字は、

『清史稿』各

一O

O食貨六、頁三七

O一二、による。

@『宣宗貫録』巻五

O頁一

O、道光三年三月甲成の僚。

@

、各二

O九頁一六、道光一二年四月丁亥の係。

@

、径二六八頁六、道光一五年間六月乙丑の僚。

@

『湘軍士山』饗飼篇、頁一。

@

一一年八月一一一一日突諜等奏、近代中園資料叢刊

『洋務運

動』

一九六一、

第三冊頁五四二。但し、影津盆ご九世紀五

十至七十年代清朝的財政危機和財政捜剖的加劇」(『歴史皐』

一九七九年第二期〉は、預媛制から機級制への移行を、

成盟六

年とするが、その根擦は一不されていない。

@『文宗資銀』巻

一一一一一頁二六、成豊三年二月戊辰の係。

@越嫡麟「請統一一財様、整理園政摺」、

『政治官報』第二三三披

光絡三四年五月一一一一一目、頁六。

〔附記〕本稿で引用した中圏第一歴史捲案館所蔵の指案史料

は、同館より部分的引用の許可を得たものである。同館、また貴

重書‘の閲覧を許可された南関、清華爾大皐図書館、北京図書館に

感謝し、

あわせて筆者の導師として熱心な指導を賜わり、これら

の資料閲覧のため手績の労を取って下さった、北京大祭陳慶華

数授、南関大皐陳振江副敬授に、深く感謝いたしたい。

-154-

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Another characteristic of the order's methods of discipline, the S心址

dhikr. alsohad an important effect on the expanding influence of the

order, although this method deeply retained the aspect of secrecy. In the

history of the order・ocald臨k『was often used as the dhikr of the

order. This fact evidences the continued eχistence of persons who

opposed to the silentdhikrm the order.

PEKING AND PROVINCIAL GOVERNMENTS IN THE

  

QING FINANCIAL ADMINISTRATION: ON THE

   

SYSTEM OF FITTING ALLOCATION 酌撥制度

                 

IWAI Shigeki

  

The enactment oi the regulationforfittingallocatin酌撥條例in

1724 introduced the springand autumn accountregister春秋撥珊(=季

報冊)to the Hubu, in adition to the eχisting system oi appropriationin

th≪ firstmonth OJ’ the year正月撥餉and the remittance to Peking and

other provinces. According to this regulation, the Hubu managed the flow

of gains and losses of regular fiscal items正額銭糧in the local treasuries

at appropriate times. Furthermore, based on the actual state of the local

treasuries, the remittance to Peking and other provinces was allocated.

In this way, it became possible for the Hubu to adjust an e伍cient

national financial administration. The local treasuries were united around

the central Hubu treasury. Connected organically, both treasuries became

linked

 

together as one national treasury. Concerning the national

government's regular fiscal items, the financial administration in each

province

 

only

 

obeyed

 

the

 

expenditure

 

provisions

 

and

 

the

 

amount of

allocations that were determined by the Hubu. A thoroughly centralized

control was thus realized.

  

The national government's financial administration based upon this

principle of “&θ撥”was changed after the Taiping rebellion into a

system based upon the principle of “なzg擁”whereby a 丘χed amount

equal to the capital's remittance was alloctaed to each province. This

change manifests itself in the introduction of income of the Z以珈麓金。

                  

-4-

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for example, outside the system of the regular fiscalitems. It originated

in the fact that in the eχistingsystem the relative importance of the

yearly income, which the Hubu could not entirelycontrol,had increased.

- 5