2 金箱温春 · 2018. 2. 14. · 0 3 2 建築画報 374 2018 vol.54 構造特集 0 3 3 1│...

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032 建築画報 374 2018 vol.54 構造特集 033 1 日本の近代建築と構造設計者の出現 日本構造設計みをってみると、近代における造設計明治時代西洋から近代建築導入されたことからまった。当初工部省営繕課臨時建築局所属する技術者よって建築設計われており、意匠構造役割分担はな 、構造西洋技術模倣したレンガ中心でありしばらく して鉄骨造鉄筋コンクリート技術導入されたヨーロッ パでは 19 世紀初頭鉄骨造、 20 世紀初頭鉄筋コンクリートの 技術実用化されそれぞれ熟成時期建築利用され ることとなったが、日本ではこれらが熟成した技術としてほぼ時期導入され、一気近代建築影響けるという特殊状況経験した1891 (明治 24 年) には濃尾地震によりレンガ 耐震上欠点らかとなりこのより鉄骨、鉄筋コンク リートをいた建物建設加速されることとなる。我国初鉄骨造建築物1894 年(明治 27 年) 3 階建ての 「秀英舎印刷 工場」 造船技師若山鉱吉設計でつくられており、建築家 による最初本格的なものは 1902 (明治 35 年) 竣工三井銀行 本店 (写真) 横河民輔設計によるまた、鉄筋コンクリートの 建物1906 (明治 39 年) 2 階建ての 「神戸和田岬倉庫」 土木技師白石直治設計によってられており 1、建築家わったものでは、明治 43 ごろから、東京深川渋沢倉庫、京 配置部材寸法にして計算規準りに設計図書をま とめるたちがかったとわれている。前時代とは、構造 設計者建築家隷属的立場となった 2。現在では建築家構造設計者協働関係はあたりまえとえられるが、専門分化 した当初はぎくしゃくとしたものであった2 建築デザインと 構造の融合と乖離の時代を越えて 1930 年代になると前川國男、坂倉準三、吉村順三がコルビ ジュの事務所、山口文象がバウハウスの事務所くなど、先 進的建築家がヨーロッパのモダニズム建築れて構造体建築表現一体とすることの重要性、日本での近代建築 実現のためには構造的なアプローチも必要であるとえるよう になった。一方、構造界では坪井善勝、坂静雄などによる板構 理論研究められラーメン構造以外RC 可能性示唆されるなど、建築構造たな局面予感させるきがてきた第二次世界大戦後になると、建築家構造設計者協働築家意識されるようになる1951 完成したリー ダースダイジェスト東京本社1955 完成した広島平和記念 資料館本館のように、従来均一なラーメン構造とはなった 斬新構造形式による建築登場して建築構造びつきが 注目されたまたアラップトロハネルヴィなど海外でのエ ンジニアの活動にも影響され、建築家達建築構造融合認識されるようになった第二次世界大戦以前には、構造設計者官庁営繕部する いわゆる “官設計者” 、施工会社設計部財閥のお計者など “民設計者” 存在する状況であった。第二次世界 都商品陳列所、三井物産横浜支店 1 号館 (写真) などがある。鉄 骨造、鉄筋コンクリートとも最初建築建築分野以外術者によって構造設計われているそのRC ラーメン構造によって大規模建築設計される ようになるが、初期には構造設計構造大家先生達っており、彼らの指定する位置寸法づき意匠 設計者、窓をつけており、構造設計者建築家配者であったとわれている 2やがて建築需要増加するため構造設計者育成することが必要となり、東京帝国 大学造家学科において 1903 横河民輔鉄骨構造学講義 1905 には佐野利器鉄筋コンクリート構造講義るようになる。大正時代になると構造設計理論方法急速 展開、佐野利器「家屋耐震構造論」 1915 年) 内藤多 「架構耐震構造論」 1922 年) 発表されたさらに鉄骨構造 鉄筋コンクリート構造する法規定として 1920 (大正 9 年) 市街地建築物法施行され、関東大震災後佐野内藤れて改正われ、日本独自耐震構造体系とし したこれらの状況により構造設計はより専門性したため意匠構造両方知識十分ちうる技術者はまれとなり、構造 計算専門技術者登場することとなったしかしこの 構造技術者建築家下働きとして、建築家めた構造 大戦後になると、財閥系事務所組織化されて意匠、構造、設 組織内一体的設計“総合組織設計事務所” とし 誕生、横山不学、松井源吾などはいわゆる “構造設計専業 事務所” 設立して建築家との協働体制また坪井善 大学研究室構造設計活動うなど多彩設計活動基盤ができてきた。坪井善勝、横山不学、松井源吾はそれぞれ 丹下健三、前川國男、菊竹清訓という当代風靡した建築家協働作業、中でも坪井善勝丹下健三協働作業にお いては構造家建築家立場えた議論展開されたとれている。山本学治協働関係理想的姿として、「バランス ある協働関係成立させるためには、建築家その課題 性格から自分がつくりだした建築的イメージにふさわしい構造 計画基本線とそのディテールにする能動的理解力がなけ ればならずまた構造家にはその構造体特性なる 力学的問題としてでは、建築設計全体視野から発展させ 総合的能力必要である指摘している 2。今日でも内容であるその後、公共建築設計外部設計事務所委託されるこ ともくなり、官庁営繕部設計活動次第発注者側として 管理業務中心となり、実質的にはそれ以外3分野(専業構 造設計事務所、総合組織設計事務所、施工会社設計部) 構造 設計者活動なものとなって1950 年代から70 年代かけては 3 分野構造設計目指すところはほとんどじでありしい技術いた建築空間実現経済性考慮した構造設 された1960 年代建築構造融合られ、構 造技術しい建築表現した時代でもある。大空間建 においてはシェル構造、テンション構造、立体トラス構造大胆構造実現されその建築でも耐震コアの工夫ボイドスラブワッフルスラブなどの構造体表現みられた寄稿 1 構造設計者の活動の変遷とこれから 金箱温春 構造設計者の系譜と伝統 寄稿 三井銀行本店 三井物産横浜支店1 号館 リーダースダイジェスト 東京本社 広島平和記念資料館本館 国立代々木屋内 総合競技場 日本相互銀行 (現三井住友銀行) 本店 東光園

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Page 1: 2 金箱温春 · 2018. 2. 14. · 0 3 2 建築画報 374 2018 vol.54 構造特集 0 3 3 1│ 日本の近代建築と構造設計者の出現 日本の構造設計の歩みを振り返ってみると、近代における構

0 3 2 建 築 画 報 3 7 4 2 0 1 8 v o l . 5 4 構造特集 0 3 3

1│日本の近代建築と構造設計者の出現

 日本の構造設計の歩みを振り返ってみると、近代における構

造設計は明治時代に西洋から近代建築が導入されたことから始

まった。当初は工部省営繕課や臨時建築局に所属する技術者に

よって建築の設計が行われており、意匠と構造の役割分担はな

く、構造は西洋技術を模倣したレンガ造が中心であり、しばらく

して鉄骨造や鉄筋コンクリート造の技術が導入された。ヨーロッ

パでは19世紀初頭に鉄骨造、20世紀初頭に鉄筋コンクリートの

技術が実用化され、それぞれ熟成の時期を経て建築に利用され

ることとなったが、日本ではこれらが熟成した技術としてほぼ同

時期に導入され、一気に近代建築の影響を受けるという特殊な

状況を経験した。1891年(明治 24年)には濃尾地震によりレンガ

造の耐震上の欠点が明らかとなり、この頃より鉄骨、鉄筋コンク

リートを用いた建物の建設が加速されることとなる。我が国初の

鉄骨造建築物は1894年(明治 27年)に3階建ての「秀英舎印刷

工場」が造船技師の若山鉱吉の設計でつくられており、建築家

による最初の本格的なものは1902年(明治 35年)竣工の三井銀行

本店(写真)で横河民輔の設計による。また、鉄筋コンクリートの

建物は1906年(明治 39年)に2階建ての「神戸和田岬の倉庫」が

土木技師の白石直治の設計によって作られており[1]、建築家が

関わったものでは、明治 43年ごろから、東京深川の渋沢倉庫、京

体の配置や部材寸法を基にして計算規準を頼りに設計図書をま

とめる人たちが多かったと言われている。前時代とは逆に、構造

設計者は建築家に隷属的な立場となった[2]。現在では建築家と

構造設計者の協働関係はあたりまえと考えられるが、専門分化

した当初はぎくしゃくとしたものであった。

2│建築デザインと 構造の融合と乖離の時代を越えて

 1930年代になると前川國男、坂倉準三、吉村順三がコルビ

ジュの事務所に、山口文象がバウハウスの事務所に赴くなど、先

進的な建築家がヨーロッパのモダニズム建築に触れて構造体を

建築表現と一体とすることの重要性を学び、日本での近代建築

の実現のためには構造的なアプローチも必要であると考えるよう

になった。一方、構造界では坪井善勝、坂静雄などによる板構

造の理論研究も始められラーメン構造以外のRC造の可能性が

示唆されるなど、建築構造の新たな局面を予感させる動きが出

てきた。

 第二次世界大戦後になると、建築家と構造設計者の協働が建

築家の間で強く意識されるようになる。1951年に完成したリー

ダースダイジェスト東京本社や1955年に完成した広島平和記念

資料館本館のように、従来の均一なラーメン構造とは異なった

斬新な構造形式による建築が登場して建築と構造の結びつきが

注目された。また、アラップ、トロハ、ネルヴィなど海外でのエ

ンジニアの活動にも影響され、建築家達に建築と構造の融合が

強く認識されるようになった。

 第二次世界大戦以前には、構造設計者は官庁営繕部に属する

いわゆる“官の設計者”と、施工会社設計部や財閥のお抱え設

計者など“民の設計者”が存在する状況であった。第二次世界

都商品陳列所、三井物産横浜支店 1号館(写真)などがある。鉄

骨造、鉄筋コンクリート造とも最初の建築は建築分野以外の技

術者によって構造設計が行われている。

 その後RC造ラーメン構造によって大規模の建築が設計される

ようになるが、初期の頃には構造設計は構造の大家の先生達が

行っており、彼らの指定する柱や梁の位置や寸法に基づき意匠

設計者が石を張り、窓をつけており、構造設計者は建築家の支

配者であったと言われている[2]。やがて建築の需要の増加に対

応するため構造設計者を育成することが必要となり、東京帝国

大学造家学科において1903年に横河民輔が鉄骨構造学の講義

を、1905年には佐野利器が鉄筋コンクリート構造の講義を始め

るようになる。大正時代になると構造設計の理論や方法も急速

な展開を見せ、佐野利器の「家屋耐震構造論」(1915年)や内藤多

仲の「架構耐震構造論」(1922年)が発表された。さらに鉄骨構造

や鉄筋コンクリート構造に対する法規定として1920年(大正 9年)

に市街地建築物法が施行され、関東大震災後に佐野や内藤の理

論を取り入れて改正が行われ、日本独自の耐震構造の体系とし

て形を成した。

 これらの状況により構造設計はより専門性が増したため意匠と

構造の両方の知識を十分に持ちうる技術者はまれとなり、構造

計算を行う専門の技術者が登場することとなった。しかし、この

頃の構造技術者は建築家の下働きとして、建築家の決めた構造

大戦後になると、財閥系の事務所が組織化されて意匠、構造、設

備を組織内で一体的に設計を行う“総合組織設計事務所”とし

て誕生し、横山不学、松井源吾などはいわゆる“構造設計専業

事務所”を設立して建築家との協働の体制を整え、また坪井善

勝は大学の研究室で構造設計活動を行うなど多彩な設計活動の

基盤ができてきた。坪井善勝、横山不学、松井源吾はそれぞれ

丹下健三、前川國男、菊竹清訓という当代を風靡した建築家と

の協働作業を行い、中でも坪井善勝と丹下健三の協働作業にお

いては構造家と建築家の立場を越えた議論が展開されたと言わ

れている。山本学治は協働関係の理想的な姿として、「バランス

ある協働関係を成立させるためには、建築家の側に、その課題

の性格から自分がつくりだした建築的イメージにふさわしい構造

計画の基本線とそのディテールに対する能動的な理解力がなけ

ればならず、また構造家の側には、その構造体の特性を単なる

力学的問題としてでは無く、建築設計全体の視野から発展させ

る総合的な能力が必要である」と指摘している[2]。今日でも通じ

る内容である。

 その後、公共建築の設計は外部の設計事務所に委託されるこ

とも多くなり、官庁営繕部の設計活動は次第に発注者側として

の管理業務が中心となり、実質的にはそれ以外の3分野(専業構

造設計事務所、総合組織設計事務所、施工会社設計部)の構造

設計者の活動が主なものとなって行く。1950年代から70年代に

かけては3分野の構造設計は目指すところはほとんど同じであり、

新しい技術を用いた建築空間の実現や経済性を考慮した構造設

計が生み出された。1960年代は建築と構造の融合が計られ、構

造技術が新しい建築表現を生み出した時代でもある。大空間建

築においてはシェル構造、テンション構造、立体トラス構造な

ど大胆な構造が実現され、その他の建築でも耐震コアの工夫や

ボイドスラブ・ワッフルスラブなどの構造体の表現が試みられた。

寄稿 1

構造設計者の活動の変遷とこれから

金 箱 温 春

構造設計者の系譜と伝統寄稿

三井銀行本店

三井物産横浜支店1号館

リーダースダイジェスト東京本社

広島平和記念資料館本館

国立代々木屋内総合競技場

日本相互銀行(現三井住友銀行)本店

東光園

Page 2: 2 金箱温春 · 2018. 2. 14. · 0 3 2 建築画報 374 2018 vol.54 構造特集 0 3 3 1│ 日本の近代建築と構造設計者の出現 日本の構造設計の歩みを振り返ってみると、近代における構

0 3 4 建 築 画 報 3 7 4 2 0 1 8 v o l . 5 4 構造特集 0 3 5

驚くべきことは、この時代には先駆的な構造設計であっても応力

計算に手回し計算機が活用され、釣合方程式を差分法などに

よって解くことによって応力解析が行われていた。そのため、構

造計画においては解析可能な構造の限界や解析誤差などを見極

めた工学的判断が必要であり、解析条件に適合するための支持

条件とするためのディテールや施工方法などにも配慮が不可欠

であった。

 しかし、1970年代に入ると普遍性と経済性に立脚する構造に

頼る建築デザインとしての限界が感じられたことや、ポストモダ

ニズム建築の影響を受けて建築デザインのモチーフが多様化し

たこと、また構造の分野は新しい耐震技術の確立を中心とする

技術重視の傾向があったことにより、建築デザインと構造との融

合に目が向けられなくなる。構造の分野では、地震工学の進歩

や耐震設計技術の進歩とともに大型断面の鋼材や大口径大深度

の基礎杭の開発などに後押しされた超高層建築の実現が華やか

な話題であった。この時代の一般的な構造計算は固定法、D値

法など手計算が中心であり解析できる構造物に限界があり、ま

た振動解析など高度な計算は大型コンピュータを用いて行われ

ていたが解析プログラムの制約があり、時間とコストがかかる不

自由なものであった。入念な構造計画に基づいて最終形をイメー

ジして構造を決め、部分モデルや縮合モデルなど解析モデルを

工夫して計算が行われており、安易に計算を繰り返して行える

ものではなかった。

 1981年に新耐震設計法が施行されると一般の建築において構

造設計の注目は耐震設計となり、考えるべき耐震性能が弾性範

囲から塑性域へと拡大したことは構造設計にとって大きな変化

であったが、構造デザインという言葉は片隅に追いやられていた

感があった。

3│構造設計の多様化の時代

 1980年代後半になると豊かな社会状況に支えられてさまざま

な建築がつくられるようになり、1990年代の「構造デザインの復

権」と言われた時代に続く。1960年代の普遍性を目指す構造デ

ザインとは異なり、普遍性を越えて個別性を求めて構造技術を

駆使することで新たな建築デザインを実現することが特徴であり、

一方でより安全を求めて免震構造や制振構造の建築が追求され

始めた時代でもあった。

 1980年代以降はコンピュータ技術の発達により、構造設計の

方法も変わってきた。パーソナルコンピュータにより構造計算が

手軽にできるようになり、一貫計算のみならず任意形状フレーム

の応力解析、有限要素法解析なども比較的容易に行われるよう

になると、建築のイメージに合わせた構造を考え、ケーススタ

ディを重ねることでより自由で合理性も有する構造設計が可能と

なった。しかし一方では、手軽に構造計算が出来ることにより構

造の意味を深く考えることも無く早く安く設計を行うことを助長

することにもなった。

 この頃には3分野の構造設計組織は構造設計の取り組みに少

しずつ差が見られてきている。総合組織事務所は各地の庁舎や

美術館、ホールなどの大型公共建築や事務所ビルなど大型の民

間建築を対象として、機能性と経済性とのバランスを取り無理

のない設計をするという姿勢を取る。施工会社設計部は設計の

対象がほとんど民間建築であり、技術研究所のバックアップも受

けて新しい技術を取り込みながら施工性、経済性を主眼として

設計するという姿勢を見せ、地中連続壁、免震・制振構造、RC

高層建築などの技術を確立させていく。これに対して、構造専

業事務所は従来の“経済的合理性”にこだわらず建築家が考え

出す新しい建築デザインを実現させることに存在感を見せた。高

さ100mの捩れたタワーである「水戸芸術館展望塔」、無垢の鉄

骨部材を用いて透明感あふれる建築の「葛西臨海公園展望レス

トハウス」、ガラスで覆われた大空間を実現した「東京国際フォー

ラム」、フラットプレートとラチス柱による「せんだいメディアテー

ク」など時代を画する構造デザインを実現してきた。これらは従

来の経済的構造合理性だけでは語れない建築であり、利用でき

る技術を最大限に用いて新たな建築をつくり出した。

 しかし、その後はこれら3分野の構造設計組織の活動の差異

は次第に消失してくる。前述のような構造専業事務所による新し

い概念の構造設計の実現に向けては、施工会社設計部やメー

カーの技術者が技術面でのバックアップを行っていたこともあり、

構造設計における情報交流が行われるようになっていた。1990

年代にはアトリエ建築事務所や組織設計事務所と施工会社が共

同で参画するドームコンペが盛んに行われ、「大館樹海ドーム」や

「パークドーム熊本」などのようにユニークな建築デザインを意識

した設計が施工会社設計部でも行われるようになった。さらに、

専業事務所の展開した大胆な構造デザインの考え方はそれまで

無理の無い設計を行っていた組織事務所や施工会社設計部に刺

激を与え、経済的合理性優先では考えられない挑戦的な建築も

生み出されてくる。非対称性を有した大空間建築である「さいた

まスーパーアリーナ」や細い斜め格子構造のガラス建築である

「プラダブティック青山店」などがその例である。その後は設計体

制の流動化はさらに進み、アトリエ建築事務所と総合組織事務

所という組合せのように、総合組織事務所構造専業事務所と組

織事務所や施工会社設計部との組合せによって一つの建築を設

計するというケースも増えてきている。

 1995年に兵庫県南部地震が発生し、大都市部においての大規

模災害をもたらした。この地震を契機に構造設計の観点で大き

く変わったこととして、安全性は絶対的なものでは無く相対的で

あり、グレードを考えなければならないということがあった。画

一的に定められた安全性をクリアすることを目的とし経済性を優

先的に追求する構造設計が意味の無いことであることが認識さ

れた。より実質的な安全を求めるという志向は、この地震を機に

免震構造が飛躍的に普及したこと、その後は超高層建築におい

ても制振構造が積極的に採用されるようになることにおいても示

されている。「性能設計」という概念も普及し、2000年の基準法

改正施行においては「性能規定化」が導入されるということで期

待が高まった。しかし、改正法では地震荷重や性能は一定のま

ま検証手段の拡大を図っただけとなり、真の意味での性能設計

は実現しなかった。

4│混沌とした時代の中で 構造設計はどこに向かうのか

 21世紀に入り、我が国の建築設計の分野では近代主義建築の

見直しの潮流も見られ、環境への配慮、自然との調和、地域性

の重視、人々との繋がりを考えることなどが建築をつくる上で重

視されるようになってきている。構造設計の分野では2005年の

耐震強度偽装事件、2011年の東日本大震災の影響を大きく受け、

混沌とした時代となっている。

 2005年 11月、一級建築士が分譲マンションの構造計算書を偽

装し、建築基準法の規定に満たない強度を有する建物の設計を

行ない、審査機関の確認申請を経て建設されたという衝撃的な

事件が明らかとなった。審査制度のありかた、設計者資格のあ

り方、消費者保護の仕組みのあり方などが問題とされ、多くの議

論とその後の制度改正に繋がるものとなった。構造設計の偽装

防止、品質確保という前提でさまざまな法改正が行われ、設計

基準の明確化、審査の厳格化が計られた。構造設計者は設計内

水戸芸術館 葛西臨海公園展望レストハウス 東京国際フォーラムガラスホール

せんだいメディアテーク

パークドーム熊本

大館樹海ドーム さいたまスーパーアリーナ プラダブティック青山店

構造設計者の系譜と伝統寄稿

Page 3: 2 金箱温春 · 2018. 2. 14. · 0 3 2 建築画報 374 2018 vol.54 構造特集 0 3 3 1│ 日本の近代建築と構造設計者の出現 日本の構造設計の歩みを振り返ってみると、近代における構

0 3 6 建 築 画 報 3 7 4 2 0 1 8 v o l . 5 4 構造特集 0 3 7

容をルールに従って詳細に示すことが必要となり、手続きに要す

る時間と手間は大幅に増えた。構造設計が基準に縛られ過ぎて

自由な設計が損なわれるといった危惧や、審査に時間と手間が

かかり円滑な建設活動を阻害するということが社会問題ともなり、

幾たびかの制度運用改善も行われたが無用な手間が設計者の重

荷となっていることは事実である。ただし、構造設計の本質は変

わることはなく、多くの構造設計者により意欲的な設計が行われ

ていることが救いである。

 この事件で図らずも構造設計者がクローズアップされ、構造

計算書や構造設計図の存在も知れ渡り、「構造設計一級建築士」

という制度ができ、構造の専門家が社会に認知された。しかし、

構造設計は基準法を守るか否かが重要であるとの認識が高まり、

「性能を考える構造設計」に関しての認識が広まること、また専

門家の知識を活用してよりよい建築をつくる議論には結びついて

いない。構造の安全性やそれを支える専門家の役割について考

えるよい機会であったが、「事件の再発防止」という観点で性急

な制度改正が行われたことは残念である。積み残した課題はあ

まりに大きく重く、これから長い時間をかけて考えていかなけれ

ばならない。

 2011年に発生した東北地方太平洋沖地震では,建築の倒壊,

津波被害,原発事故などが生じ,建築や生活のあり方に大きな

影響を与えることとなった。「想定外」という言葉が多用されたが、

安全が相対的なものであり、どの程度の地震が起こりえてその際

にはどのような被害が生じるのかなどに一般の人でも興味をいだ

く人が増え、産業界では事業継続性についての意識が高まった。

目指すべき安全性について、社会との共通認識を形成し性能設

計を意識するニーズが高まったともいえる。これからは、構造設

計者は地震に対する建築の性能を個別に考慮することや継続使

用を考慮した構造設計を行うことが必須となるであろうし、その

金面の問題は社会的な仕組みなどを整備するとして、構造設計

者としては機能的でありデザインとしての魅力を兼ね備えた耐震

補強を考案することに参画すべきであろう(写真:浜松サーラ)。一

方で、文化財やそれに匹敵するような建築においての耐震補強

の要望が増え、これらに対しては既存建築の価値を生かした補

強が求められる(写真:戸畑図書館)。耐震補強は基礎的な技術は

確立されておりそれらを応用することの他、今後も開発されるで

あろうさまざまな補強技術を活用することによりデザインとして

の可能性は広いものがある。

 建築生産システムは近年において著しく変化した。リーマン

ショック後の建設需要の落ち込みにより建設労働者が減少傾向

であったが、東日本大震災の震災復興事業や東京オリンピック

の施設整備のニーズが高まり、著しい建設労働者不足が生じる

こととなった。その結果、躯体建設コストの増大を招き、設計時

にコストをコントロールすることが困難な状況も生まれている。今

までも構造設計においては施工性に配慮することは必要であっ

たが、今後はさらに重要な視点として施工の省力化や単純化な

どを考えること、一見すると不定形あるいは複雑な形態のような

建築をいかにして施工性を高めた設計とするかという工夫も必要

である(写真:広島市民球場)。

 このようなさまざまな状況の変化を踏まえてこれからの構造設

計のあり方を考える必要がある。構造設計の内容が変わるだけ

でなく扱うべき領域も広がりと変化を見せている。

5│これからの構造設計者

 構造設計を志した時、ほとんどの人は構造技術を駆使して建

築の実現に寄与することにやりがいを見出そうとしたことと思う。

自分の考えたことが実際の形となって出来上がること、力学的原

ための制御技術を自在に駆使することが必要となる。この地震を

契機として非構造部材の設計に対する関心が高まった。もともと

非構造部材は施工時に詳細が決定されていたことが多く、だれ

がどのように責任を持ってつくり上げているかが不明であったが、

関係者の関りについての議論が行われている[3]。外装材が複雑

なものなど非構造部材の設計への構造設計者の関りが求められ

ている(写真:みなと交流センター)。

 このほか、環境配慮のための木造建築の促進、サステナブル

を考慮した既存建築物の活用、建築生産システムの変化への対

応が最近では注目されている。

 日本の近代建築において木造建築は置き去りにされてきた技

術であり、1990年代に集成材を用いた大規模建築への道が開か

れたが、大規模木造建築は特殊な建築との位置づけであり、一

部の人達が対応していた。近年になって環境配慮や林業育成と

いう後押しもあり、公共建築での木材利用の促進化や地域産を

活用した木造建築が意識され、幅広い分野で木造建築が取り組

まれており、より多くの構造設計者が関わりを持つようになって

きた。従来の大断面集成材による木造建築だけではなく小断面

の部材を駆使した木造建築も増え、大規模から小規模までさま

ざまな構造の工夫により木造建築がつくられている(写真:笑ん

館)。木造建築の可能性を広げる意味で鉄骨やRC造とのハイブ

リッド化による構造の実施例も増え(写真:高知駅、ベターリビング

つくば建築試験研究センター)、またCLTや耐火木材など新しい材

料が出てきており、木造建築の構造設計は新たな可能性が多く

ある分野と言える。

 スクラップアンドビルドの時代から既存建築を活用していく時

代となり、耐震性が不足する建築では安全性の確保が必要とさ

れる。耐震補強の実施にあたっては資金面の問題、耐震補強の

イメージの悪さ、機能への影響などさまざまな課題があるが、資

理と建築構造との一体感が得られることは充実感を伴うことであ

り、このことは現在でも通用するものではある。しかし、社会状

況の変化とともに専門家としての立ち位置を変えていかざるを得

ないこともある。モニュメンタルな建築が単純にもてはやされる

時代は終わり、人々の暮らしに寄り添った建築が求められている。

専門家としての行為が社会に理解され幸福をもたらすことが本来

の姿であり、単なる“作品づくり”のための構造設計、あるいは規

則を守ることだけを考えた構造設計は、時として周りに迷惑をか

け不幸なものとなる。社会がよりよいものとなるために建築構造

に関わる専門技能を広く行使することもこれからの構造設計者に

求められる。構造設計を新築の設計だけではなく広い視野で捕ら

えるならば、多くの領域での問題の解決に活動の場があると認識

したほうがよいのではないか。前節で述べたように設計の体制も

プロジェクトごとに流動的となってきている。日本だけではなく

海外に出て、各最適に活動をする場も増えるであろう。どのよう

な組織、体制であっても構造設計者の活動姿勢としては共通す

るところがあり、工学・技術の普遍的な合理性を踏まえてプロジェ

クトの個別的な価値判断に基づいて問題解決を図っていくことが

求められる。合わせて関係者との対話による調整力も必要となる。

 これからの社会を最も変えるものとしてコンピュータ技術が着

目されており、建築設計の分野も善しにつけ悪しきにつけその影

響を受けるであろう。BIMのように意匠・構造・設備を一体化し

て検証して行くことや生産システムとの連動を計ることはいっそ

う進められるであろう。またAIが注目されているが、構造設計

がさまざまな条件を基に最適な解を求めていく行為であるとする

と、人間の代わりに人工知能がさまざまな問題を解決して構造設

計を行うことも考えられる。そこまで極端な話でなくとも、コン

ピュータを用いて構造設計の問題を解決していくことは増えるで

あろう。構造設計者が何をやるのかを改めて考える必要がある。

現実の設計は矛盾する条件の基で問題を解決することであり、プ

ログラミングされた手法での解決法が最適ではないこともある。

積み重ねの知識に加えて経験に基づく判断が必要となろう。コ

ンピュータをどのように活用していくかは今後の構造設計にとっ

て大きな課題であるが、コンピュータがどれだけ発展しても最終

的には設計者の創意と判断によって問題を解決していくことが必

要である。

 構造設計とは設計者が全人格を賭して行うものであると捕え

るならば、構造設計者は絶えまなく人格を磨いていかなければな

らない。

参考文献[1] 村松貞次郎:日本近代建築の歴史、彰国社、1976年[2] 山本学治:現代建築と技術、彰国社、1963年[3] 非構造部材の安全性確保に向けての提言(6会共同提言):

http://www.jsca.or.jp/vol5/p1_5.php?Page=p7、2016年12月

みなと交流センター(不定形な曲面の外装材)

広島市民球場(多様な形態の球場をPCaと鉄骨の組合せで施工性を高めた)

サイエンスヒルズこまつ(意匠、構造で3次元の図面データを共有することが有効であった)

“サイエンスヒルズこまつ”の解析モデル図

構造設計者の系譜と伝統寄稿

笑ん館(地場産の木材を用いた建築) 高知駅(木造と鉄骨のハイブリッド)

ベターリビングつくば建築試験研究センター(RC造と木造のハイブリッド)

浜松サーラ(補強材のデザインにより新たなファサードをつくった)

戸畑図書館(外観を維持し内部で補強を実施)

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