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有機化学Ⅰ 講義資料 第4回「アルカンとシクロアルカン」 – 1 – 名城大学理工学部応用化学科 第4回「アルカンとシクロアルカン」 アルカンは分極した結合を持たないため、極性反応を起こさない。しかし、アルカン の構造は多くの有機化合物に共通して存在するため、アルカンの構造から導かれるいく つかの性質は有機化学で広く適用できる。今回は、アルカンの構造に関連するいくつか の重要な概念について学ぶ。また、炭素原子が環状に結合したアルカンであるシクロア ルカンについても学ぶ。 1. メタンの構造 最も単純なアルカンはメタン CH4 である。第1回に学んだ通り、メタン分子は、正 四面体型の構造を持つ。 有機化学では、sp 3 炭素の立体構造を図示する必要がしばしば生じる。正四面体型の 立体構造を平面上に図示する時には、次のような約束に従って描くことになっている。 (1) 紙面から手前に向かう結合は、塗りつぶしたくさび形で示す。 (2) 紙面から奥側に向かう結合は、点線のくさび形で示す。 これらを「くさび形結合」と呼ぶ。この約束に従って、メタンの正四面体構造を図示 すると、次のようになる。 このような化学構造式の書き方を透視図 perspective drawing と呼ぶ。透視図は、分 子の立体構造を議論する時にはもちろんのこと、反応機構を議論する際にも重要な表記 法である。2種類のくさび形の使い分けを覚えておこう。 2. エタンの立体構造:配座異性体 次に単純なアルカンはエタン CH3CH3 である。エタンについて考察するため、分子 模型を使ってエタン分子の模型を作ってみよう。 C H H H H

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有機化学Ⅰ 講義資料 第4回「アルカンとシクロアルカン」

– 1 – 名城大学理工学部応用化学科

第4回「アルカンとシクロアルカン」

アルカンは分極した結合を持たないため、極性反応を起こさない。しかし、アルカンの構造は多くの有機化合物に共通して存在するため、アルカンの構造から導かれるいく

つかの性質は有機化学で広く適用できる。今回は、アルカンの構造に関連するいくつかの重要な概念について学ぶ。また、炭素原子が環状に結合したアルカンであるシクロアルカンについても学ぶ。

1. メタンの構造

最も単純なアルカンはメタン CH4である。第1回に学んだ通り、メタン分子は、正

四面体型の構造を持つ。

有機化学では、sp3炭素の立体構造を図示する必要がしばしば生じる。正四面体型の

立体構造を平面上に図示する時には、次のような約束に従って描くことになっている。

(1) 紙面から手前に向かう結合は、塗りつぶしたくさび形で示す。 (2) 紙面から奥側に向かう結合は、点線のくさび形で示す。 これらを「くさび形結合」と呼ぶ。この約束に従って、メタンの正四面体構造を図示

すると、次のようになる。

このような化学構造式の書き方を透視図 perspective drawing と呼ぶ。透視図は、分

子の立体構造を議論する時にはもちろんのこと、反応機構を議論する際にも重要な表記

法である。2種類のくさび形の使い分けを覚えておこう。

2. エタンの立体構造:配座異性体

次に単純なアルカンはエタン CH3CH3 である。エタンについて考察するため、分子模型を使ってエタン分子の模型を作ってみよう。

C

H

HHH

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有機化学Ⅰ 講義資料 第4回「アルカンとシクロアルカン」

– 2 – 名城大学理工学部応用化学科

エタンの C–C 結合はσ結合である。σ結合の結合性軌道は軸対称なので、回転させ

ても結合自体の強さは変わらない。σ結合を回転させることによって現れる分子の異なる立体構造のことを配座異性体 conformer, conformational isomer または立体配座

conformation と呼ぶ。エタンには代表的な2つの配座異性体がある。C–C 結合の方向

から見ると、1つの配座異性体では手前の3つの水素原子が奥の3つの水素原子と重なって見え、もう1つの配座異性体では手前の3つの水素原子が奥の3つの水素原子のちょうど真ん中に見える。前者を重なり型配座異性体 eclipsed conformer、後者をねじれ

型配座異性体 staggered conformer と呼ぶ。 2つの立体配座を透視図で描くと、下のようになる。

重なり型・ねじれ型配座異性体の違いを明記するために、次のような表示法がよく使

われる。C–C 結合の方向から見て、手前の炭素原子から出る3本の結合を互いに 120°の角度をなす3本の線分で表す。そして、奥の炭素原子を円で表し、奥の炭素原子から

出る3本の結合を円周の位置から出る3本の線分で表す。この表示法を Newman投影

図と呼ぶ。

上に示したのはエタンのねじれ型配座異性体である。重なり型配座異性体は下のよう

になる。手前の Hと奥の Hは本当は完全に重なっているのだが、完全に重ねて描くと

C CH

HHH

HH

C CH

HH

H

HH

������� �������

H

H H

H H

H

H

H H

�� ��� �� ��� ��������

H

H H

��������

Newman ��

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– 3 – 名城大学理工学部応用化学科

奥に何があるのかわからなくなってしまうので、少しずらして描いて、「完全に重なっているつもりで見る」のが普通である。

結合軸まわりの回転を表すには、二面角 dihedral angle という値を使う。A, B, C, D

という4つの原子がこの順に結合している時、ABC が作る平面と BCD が作る平面の

なす角度を二面角と呼ぶ。Newman の投影図では、手前の結合と奥の結合の角度がちょうど二面角と等しくなる。

エタンのねじれ型配座異性体では、H–C–C–Hの二面角は 60°, 180°, 300°のいずれか

になる。また、重なり型配座異性体では、0°, 120°, 240°のいずれかになる。 なお、「重なり型」「ねじれ型」という用語の代わりに、英語の eclipsed, staggered を

使うことも多いので、記憶しておくこと。

3. 配座異性体のエネルギー

Eclipsed 配座異性体と staggered 配座異性体では、どちらの方が安定だろうか。答

えは staggeredである。差はそれほど大きくはなく、3 kcal/mol 程度(水素結合1つ分ぐらい)しかないが、確かに差はある。 エタンの配座異性体はこの2種類だけではなく、H–C–C–Hの二面角は連続的にどん

な角度でもとることができる。そこで、横軸に二面角の値をとり、縦軸にエネルギーをとって、エタンの立体配座エネルギーのグラフを描いてみると、次のようになる。

このような図をエネルギー図 energy diagram という。もっとも、化学では、縦軸に

H

H HH

H

H

��������

C

BD

A���

B

A

D

���

�����

0 120 240 360������

�����

eclipsed ��

staggered ��

~ 3 kcal/mol

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– 4 – 名城大学理工学部応用化学科

エネルギーをとって描いた図なら何でも「エネルギー図」と呼んでしまう習慣があるので、「エネルギー図を描きなさい」と言われたら「何を描けばよいか」を文脈から判断していただきたい。この場合だと、たとえば「エタンの立体配座のエネルギー図を二面

角の関数として描きなさい」というような感じになるだろう。 Staggered の方が eclipsed よりも安定である理由は二つある。一つめは、左下の図

に示す通り、eclipsed配座異性体では同一平面内の C–H結合(左上・右上向きの C–H

結合)の結合電子が互いに反発するためである。もう一つは、右下の図に示す通り、staggered配座異性体では C–H結合性軌道(左上向き)が反対側の C–H反結合性軌道(右下向き)と重なって、電子がより広い範囲に存在できるようになり安定化するため

である。

右図のように、σ結合の結合性軌道や反結合性軌道が他の軌道と重なって、電子が広

がって安定化することを超共役 hyperconjugation と呼ぶ。超共役はアルキル基の置換

基効果を論じる際にしばしば登場する重要な概念である。この講義でも今後何度も出てくる。

注1:下線を引いた「σ結合の」という注意書きは実は重要である。σ結合とπ結合についてはまだ本講義では学んでいないが、通常の単結合はすべてσ結合である。「π結合の」軌道が他の軌道と重なって電子が広がる場合は「超共役」ではなく、「π共役」または単に「共役」と呼ぶ。歴史的に見れば、π共役の考え方の方が早く確立され、そのあとで「σ結合でも電子の広がりが起きる」ことが認知されて「超共役」という概念ができた。

分子が eclipsed 立体配座をとることで発生するエネルギーの上昇をねじれひずみ

torsional strain と呼ぶ。もう少し正確に言うと、ねじれひずみとは「4つの原子 (1-4)が順に結合している時、1-2 と 3-4 の結合電子の反発による不安定化」のことである。「ひずみ」とは、分子が最も安定な構造から変形することによってエネルギーが上昇す

ること、またはその上昇量を指す。今回は、いくつかの種類のひずみエネルギーが登場するので、整理して理解すること。

�staggered�������C–H�������������� ����

�eclipsed������������

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4. ブタンの配座異性体:アンチ型とゴーシュ型

次に、ブタンの配座異性体について考えてみる。まずブタンの分子模型を作ってよく

観察しよう。

ブタンの場合、回転できる結合は3本ある。炭素原子を端から順に C1, C2, C3, C4

とすると、C1–C2, C2–C3, C3–C4 結合がそれぞれ回転できる(他の結合は水素原子がついているだけなので、回転させても何も起こらない。これはエタンの場合も同じ)。C1–C2、C3–C4 結合の回転については、本質的にエタンの場合と同じであることがわ

かるだろう。つまり、eclipsed 型と staggered 型があって、60°回転させるごとに交互に移り変わる。 一方、C2–C3 結合の回転については、少し事情が異なる。Eclipsed 型、staggered

型がそれぞれ2種類あることがわかる。透視図・Newman 投影図で描くと、次のようになる。

2種類のeclipsed配座異性体とは、C–C–C–Cの二面角が0°のものと120°または240°

のものである。また、2種類の staggered配座異性体とは、C–C–C–Cの二面角が 180°のものと 60°または 300°のものである。2種類の staggered配座異性体には名前がつい

ていて、C–C–C–Cの二面角が 180°のものをアンチ (anti) 型配座異性体、60°または 300°

CCCH3

H3C HH

HH

C CH3C

HH

CH3

HH CC

CH3

H HH

HH3C

CCCH3

HH

H

HH3C

CH3

H H

H H

CH3

CH3

HH

H3C

H H

CH3

H H

H CH3

H

H

CH3H

H3C

H H

eclipsed staggered(anti) (gauche)

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のものをゴーシュ (gauche)型配座異性体と呼ぶ。

注2:「ゴーシュ」はフランス語で、「左」が元々の意味だが、「不器用な」「ゆがんだ」「ねじれた」という意味も持つ。1940年頃に東大の分光学者水島三一郎らによって命名された (J. Chem. Phys. 1941, 9, 826)。宮澤賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」の主人公名も同じ語に由来する。

Anti型と gauche型では、anti型の方が安定である。Gauche型では、下の図に示す

ように、2つのメチル基の水素で互いに近い距離にあるものが存在する(メチル基の水素原子が見やすいように、2つのメチル基を「11時・1時」の方向に書いている)。これらの水素原子の周囲にある電子(つまり C–H結合の電子)が互いに反発するため、

不安定化してエネルギーが上昇する。Anti 型ではこのようなことは起きないため、2つの配座異性体の間にエネルギー差が発生する。

このように、結合していない2つの原子が近づいて互いに反発することで発生する不

安定化のことを立体ひずみ steric strain という。また、立体ひずみが原因となってある変化(構造変化や化学反応)が妨げられることを立体障害 steric hindrance と呼ぶ。

注3:「ねじれひずみと立体ひずみはどう違うのか?」と混乱するかも知れない。「ねじれひずみ」は、隣り合った炭素原子から出ている2本の結合が反発する場合のひずみで、「立体ひずみ」はそれ以上離れた結合や原子同士が反発する場合のひずみである。Gauche 型ブタンの場合、二面角が0に近い結合はないのでねじれひずみは存在しないが、2つのメチル基の間の立体ひずみは存在する。Eclipsed 型ブタンの場合は、ねじれひずみも立体ひずみも存在する。

2つの置換基が立体ひずみを引き起こすことを図示したい時は、2つの円弧が交わった図形を置換基の間に描く。Gauche 型ブタンの場合、Newman 投影図で下の左図の

ように図示する。この2つの円弧は、「メチル基の周りにある電子同士がぶつかっている」イメージを表している(下の右図)。

ブタンの2つの eclipsed配座異性体についてはどうだろうか。Newman投影図を見

ればすぐにわかるように、一方は2つのメチル基の間の立体ひずみを持ち、もう一方はメチル基と水素原子の間の立体ひずみを2箇所に持つ。この場合、メチル基同士の立体

2.3 Å

����������

CH3

HH HH3C

H

CH3

H H

H CH3

H

����������

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ひずみの方が大きく、それを持つ立体配座(下の左図)の方が不安定である。

以上をまとめると、ブタンの配座異性体のエネルギー図は次のようになる。横軸は

C–C–C–Cの二面角である。

5. シクロアルカン

次に、炭素原子が環状に結合している化合物について論じよう。最も基本的な環状化

合物は、飽和炭化水素で炭素原子が環状に並んだものである。このような化合物をシクロアルカン cycloalkane と呼ぶ。

分子に含まれる環状構造の大きさを、環を構成する原子の数を使って三員環、四員環、

…などと呼ぶ。英語では three-membered ring, four-membered ring, … となる。日本語の「員」という漢字に違和感を持つかも知れないが、英語の three-membered の直訳

と考えれば納得できるだろう。すなわち、環を構成する「メンバーの数」という意味である。シクロプロパンは三員環化合物であり、シクロヘキサンは六員環化合物である。

注4:三員環、四員環などの数字は、漢数字で書くのが正しく、算用数字で書くのは行儀が悪い。しかし実際には、プロの研究者が書いた公式の文書でも算用数字で書かれているものを目にする

CH3

HH

H3C

H H

H

HH3C

H3C

HH

����

������

0 120 240 360C-C-C-C����

�����

eclipsed

anti~ 0.9 kcal/molgauche gauche

~ 4 kcal/mol

~ 0.7 kcal/mol

C

C C

H H

H

H

H

H

C

C C

CH

H

HH H

H

HH

C C

CC

CHH

H HHH

HHH

HCC C

CCC

HH

HHHH

HHH

HHH

������� ������ ������ ������cyclopropane cyclobutane cyclopentane cyclohexane

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ことがある。白状すると、筆者も算用数字で書いてしまうことがよくある。学生諸君は真似をせずに、行儀よく漢数字で書くようにしよう。

シクロアルカン類の命名法について簡単に紹介しておこう。上の図に示した通り、枝分かれがないシクロアルカンは、同じ炭素数のアルカンの名前の前に「シクロ」cyclo- を

つけて命名する。接頭語の cycloとアルカンの名前の間にはスペースもハイフンもなく、一つの単語になることに注意。 枝分かれのあるシクロアルカンは、枝分かれのないシクロアルカンに置換基がついた

ものとして命名する。置換基が1つなら、位置番号はつけない。2つ以上の置換基がある場合は、優先度の最も高い置換基の位置番号を1として、それ以外の置換基の位置番号がなるべく小さくなるように番号をつける。

(最後の例では、「主要な官能基」= ol の位置は1番と決まっているので、

3-methyl-1-cyclobutanolと書く必要はない。) また、シクロアルカンから水素原子を一つ除いたものは、シクロアルキル基

cycloalkyl として命名に使うことができる。たとえば、下の化合物は、cyclohexane の水素原子のうち一つを「 cyclopropyl 基」で置き換えたものであるから、cyclopropylcyclohexane という名前になる。

なお、「cyclopropylcyclohexane の構造式を図示しなさい」と問うと、次のように答

える人がかなり多くいる。これは誤りである。どう違うかよく見て理解すること。

注5:このように、二つの環が一つの炭素原子を共有してつながっている化合物をスピロ化合物と呼ぶ。また、二つの環が二つ以上の炭素原子を共有してつながっている化合物をビシクロ化合物と呼ぶ。これらの化合物の命名法には系統的なルールがあり、 von Baeyer命名法と呼ぶ。上の化合物の正しい名称は、「spiro[2.5]octane」である。

6. シクロアルカンの構造

シクロアルカンは、炭素原子が環状につながっているために、結合間の角度に制約が

CH3 CH2CH3

methylcyclopentane 1-ethyl-3-methylcyclohexane

CH3 12

3

4 5 6OHCH3

3-methylcyclobutanol

12

34

cyclopropylcyclohexane

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ある。このため、特に炭素数3~6のシクロアルカンはそれぞれ特徴のある構造を持っている。ここでは、炭素数3~5のものについて、簡単に紹介する。

6-1. シクロプロパンの構造

シクロプロパンの3つの炭素原子は正三角形の形に並んでいる。つまり、C–C–C の角度は 60°である。これは通常の sp3炭素の結合角 109.5°と比べると極端に小さい。こ

のため、C–C 結合を作る炭素の原子軌道は少し傾いて重なり合うことになる。通常のC–Cσ結合と比べると原子軌道の重なりが小さくなるため、シクロプロパンの C–C 結合は通常の C–Cσ結合よりも弱い。

このように、通常よりも小さな(または大きな)結合角を強制されることによって結

合が弱くなり、分子が不安定化することを角ひずみ angle strain と呼ぶ。角ひずみは、特に三員環・四員環化合物で顕著に見られる。

6-2. シクロブタンの構造

シクロブタンの構造式を下のように描くと、平面正方形であるかのように見える。

しかし、シクロブタンの炭素原子がすべて同一平面上にあるとすると、すべての水素

原子は eclipsedの立体配座になってしまう。

+

原子軌道の方向がC‒C結合の軸とずれている(=傾いて重なる) 結合エネルギーが小さい(結合が弱い)

C

C C

CH

H

HH H

H

HH

H

H

H

H

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この「ねじれひずみ」を避けるため、シクロブタンは少し折れ曲がった構造をとる。

C–C–Cの結合角は 88°である。これは平面正方形の場合 (90°) よりも小さな角度なの

で、角ひずみはかえって大きくなってしまう。しかし、ねじれひずみの減少が角ひずみの増大を上回るため、全体としては折れ曲がった構造の方が安定となる。

6-3. シクロペンタンの構造

シクロペンタンも、平面正五角形構造だとねじれひずみが発生してしまうため、少し折れ曲がることでねじれひずみを解消している。五角形の1つの頂点が持ち上がったような形になっているので、「封筒型」envelope structure とも言われる。

封筒型のシクロペンタンでは、5つの炭素原子は等価ではない。従って、5本の C–C

結合のまわりのねじれひずみの大きさにはばらつきがある。実際、H–C–C–Hの二面角

には次のような三種類がある。

シクロペンタンの C–C–C結合角は、正五角形の内角(108°)よりも少し小さく、103

~107°となっている。これらの角度は、sp3炭素の理想的な結合角 109.5°よりもわずかに小さいため、ほんの少し角ひずみが発生する。シクロブタンの場合と同様に、ねじれ

88°

26° H

H

H

H

(envelope structure)封筒型

47° 38° 16°

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ひずみの解消によるエネルギーの低下によって、角ひずみによるエネルギーの(わずかな)上昇が埋め合わされている。

7. シクロアルカンの生成熱とひずみエネルギー

ここまで、シクロプロパン・シクロブタン・シクロペンタンのひずみエネルギーについて説明してきた。これらのひずみエネルギーについて、実験的に見積もる方法はある

のだろうか。 よく知られているのは、シクロアルカンの生成熱を比較する方法である。生成熱とは、

ある化合物が標準状態で成分元素の単体から生成される時に吸収・放出される熱のこと

である。生成反応が吸熱的であるときは正の値、発熱的であるときは負の値となる。

注6:日本の高校化学では、歴史的な事情により生成熱の符号を上とは逆に教えている。現代の化学では、熱力学との整合性を保つため、上に書いたように符号を取り扱う(吸熱反応が正、発熱反応が負)。頭を切り替えておくこと。

炭素数が N 個のシクロアルカンは、C–C 結合を N 本、C–H 結合を 2N 本持ってい

る。どちらも N に比例しているので、もしひずみエネルギーが全くなければ、生成熱は N に比例するはずである。ところが、下の表を見て分かる通り、事実は全くそうなっていない。「CH2基一つあたりの生成熱」を比較してみると、シクロヘキサンが最も

小さく、それより環が小さくても大きくても「CH2基一つあたりの生成熱」は大きくなることがわかる。

生成熱

(kcal/mol)

CH2基一つあたりの生成熱

(kcal/mol)

ひずみエネルギー (kcal/mol)

CH2基一つあたり 分子全体

シクロプロパン +12.7 +4.2 +9.1 +27.5 シクロブタン +6.8 +1.7 +6.6 +26.5 シクロペンタン –18.4 –3.7 +1.2 +6.2 シクロヘキサン –29.5 –4.9 0 0 シクロヘプタン –28.2 –4.0 +0.9 +6.2 シクロオクタン –29.7 –3.7 +1.2 +9.6 シクロヘキサンには角ひずみもねじれひずみも存在しないと考えると(次回に論じ

る)、CH2 基一つあたりの生成熱についてシクロヘキサンとの差をとれば、「CH2 基一つあたりのひずみエネルギー」の大きさが算出できる。これに CH2基の数(炭素数 N)

をかければ、分子全体のひずみエネルギーが得られる。シクロプロパン・シクロブタンについて大きな正の値になっているのは、これらの化合物のひずみエネルギーが大きいことを反映している。

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有機化学Ⅰ 講義資料 第4回「アルカンとシクロアルカン」

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8. 今回のキーワード

・透視図、くさび形結合

・立体配座(配座異性体) ・重なり型 eclipsed、ねじれ型 staggered ・Newman 投影図

・二面角 ・ねじれひずみ ・超共役

・アンチ型 anti、ゴーシュ型 gauche ・立体ひずみ ・シクロアルカン

・三員環、四員環、五員環、六員環 ・角ひずみ ・シクロブタン、シクロペンタンの折れ曲がり構造

・シクロアルカンの生成熱とひずみエネルギー 【教科書の問題(第3章)】 39, 41, 57, 68, 73