江川活版三号行書仮名 - screen...一六二 書体の覆刻 江川活版三号行書仮名...
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一六二
書体の覆刻
江川活版三号行書仮名
小宮山博史
日本の
活字書体史上も
っ
と
も
個性的な
行書
日本活字史上江川行書ほど個性的な行書は出現したことがありま
せん。
唯一無二ともいうべきこの行書を揮毫したのは書家の
久ひ
さ
永な
が
其き
頴え
い
で、
江川次之進の創業(
明治一六年)
になる
江川活版製造所の
主力
書体です。
日々の
生活での筆記はまだまだ毛筆手書きであった時代、
人々
の
生活に合わせたのか楷書体、
行書体、
草書体、
隷書体活字が数
多く制作されました。
たとえば
小こ
室む
ろ
樵しよう
山ざ
ん
の弘こ
う
道ど
う
軒け
ん
清せ
い
朝ちよう
体た
い
、
湯ゆ
川か
わ
梧ご
窓そ
う
の
南海堂
☆註四七
草書・行書・隷書
★図四二
、
吉よ
し
田だ
晩ば
ん
稼か
の晩稼流
☆註四八
など書家が揮
毫した書体をあげることができます。
この
江川行書は明治二〇年頃から母型製造に
着手したと
『印刷
☆註四六・★図四一
一六三
書体の覆刻
雑誌』
第一巻九号(
明治二四年一〇月)
に
掲載さ
れ
た
江川活版製造所の
広告
に
書か
れ
て
い
ます
★図四三
。
こ
の
広告の
江川行書の
サ
イ
ズ
は
右の
八行は二号、
次の
注意書き
は
五号、
黒丸の
下は二号、
社名は
一号、
支店名は二号、
住所は
五
号で
す。
江川活版は
『印刷雑誌』
第二巻第九号(
明治二五年一〇月)
に
三号
行書の
発売予告(一一月一五日発売)
広告を
う
ち
ます
★図四四
。
江川活版三号行書の
覆刻に
は、
発行が
明治四〇年頃と
思わ
れ
る
青山進行
堂の
総合見本帳『活版略見本』
を
は
じ
め
と
し
て、
い
く
つ
か
の
印刷物お
よ
び
活字を
使用し
ま
し
た。
江川活版の
総合あ
る
い
は
総数見本帳は
残念な
が
ら見
て
お
り
ま
せ
ん。
そ
れ
ら
を
刊行し
た
か
ど
う
か
も
実は
わ
か
り
ま
せ
ん。
漢字は
一字の
中の
あ
る
画を筆の
腹を
使っ
て
思い
切り
太め
細太の
コ
ン
ト
ラ
ス
ト
を
強調し
た
造形で、
こ
の
傾向は
片仮名に
も見ら
れ
ま
す。
平仮名は
細太
の
差は
あ
り
ま
せ
ん
が、
そ
の
字形は奔放、
線質は
勁烈で誰で
も
が
書け
る
も
の
で
は
あ
り
ま
せ
ん
し、
現在の
タ
イ
プ
デ
ザ
イ
ナ
ー
に
は
と
て
も
歯が立た
な
い
造形
で
し
ょ
う。
た
だ
活字と
い
う
正方形の
ボ
デ
ィ
の
中に、
本来自由闊達で
あ
っ
た
文字を
収め
よ
う
と
し
た
と
き、
書と
は
す
こ
し
違っ
た造形に
な
ら
ざ
る
を
得な
い
の
か
も
し
れ
ま
せ
ん。
し
か
し
驚く
ほ
ど
個性的で
す。
こ
の
書体を
ど
う使い
こ
な
す
か、
と
て
も
興味あ
る
と
こ
ろ
で
す。
覆刻に
あ
た
っ
て
原字用紙に
ト
レ
ー
ス
し、
墨を
入れ
る
作業は
思っ
た
ほ
ど
難
し
く
は
な
く、
線の
動き
と
墨入れ
の
手の
動き
に
は
乖離が
な
く、
自然に
運筆で
き
た
と
い
う
印象が残り
ま
し
た。
☆註四六……弘道軒清朝体 弘道軒は神崎正誼(かん
ざきまさよし)が創設した活字鋳造所の屋号。清朝体
の名称は先行する明朝体に対抗する命名か。書家小室
樵山が揮毫した弘道軒清朝体は日本活字史上もっとも
峻烈な線質を持つ楷書体である。明治八年九月二五日
付東京日日新聞第一一三二号に開業広告を差し込む。
この「活字鋳造敬告」には初号から七号までの八書体
の見本が掲げられている。明治一四年頃この書体をめ
ぐって築地活版との間で日本最初の抗争問題がおこり、
築地活版は清朝体活字を作らない、弘道軒は明朝体活
字を作らないという条件で決着したというが疑問。東
京日日新聞は明治一四年八月一日付第三九一六号から
二三年二月一一日付第五四八八号まで、約一〇年間本
文活字として使用。書籍を含めこの楷書活字は本文用
として使われた唯一無二のものである。種字は金属材
への直刻。
☆註四七……南海堂 南海堂は書家湯川梧窓の号。湯
川梧窓揮毫の南海堂行書・草書・隷書は青山進行堂活
版製造所から販売。南海堂行書は明治二八年頃から岡
島活版製造所が制作していたが、明治三六年に青山進
行堂がこの行書を継承し、つづいて南海堂の揮毫によ
る草書と隷書を販売した。
☆註四八……晩稼流 明治三四年、京橋の国光社が制
作販売した教科書用活字書体。揮毫は明治の有名書家
吉田晩稼でその名前を使ったのであろう。府川充男氏
によれば靖国神社の大石標や陸軍省など官庁の門標や
大阪天王寺の本木昌造記念碑を揮毫。残念ながら手元
の資料が見つからず図版として提示できない。
★図四一……弘道軒清朝体で組んだ『東京日日新聞』
(明治二〇年一月六日第四五四四号、部分)と木版印
刷の小室樵山編并書者『新撰人民万字文』(明治一一年
九月刊)活字と手書き木版の書風と線質に若干の違い
が見られる。金属材への直刻により線質はより鋭くな
ったのかもしれない。
﹇一六四〜一六五頁参照﹈
★図四二……南海堂行書・草書・隷書
明治四〇年頃
刊行の青山進行堂総合見本帳『活版略見本』収録。
﹇一六六〜一六八頁参照﹈
★図四三……江川活版製造所広告『印刷雑誌』第一巻
第九号(印刷雑誌社、明治二四年一〇月刊)。この対
向頁は活版製造所製文堂(現大日本印刷)広告と清朝
体活字を開発した弘道軒神崎正誼の死亡通知
﹇一六九〜一七〇頁参照﹈
★図四四……三号・四号・五号を使って組んだ江川三
号行書発売広告
『印刷雑誌』第二巻第九号(明治二五
年一〇月刊)。
﹇一七一〜一七二頁参照﹈
一六四
書体の覆刻
一六五
書体の覆刻
一六六
書体の覆刻
★図四二―
一……南海堂行書活字
明治四〇年頃刊行の青山進行堂総合見本帳『活版略見本』収録。
一六七
書体の覆刻
★図四二―
二……南海堂草書活字
明治四〇年頃刊行の青山進行堂総合見本帳『活版略見本』収録。
一六八
書体の覆刻
★図四二―
三……南海堂隷書活字
明治四〇年頃刊行の青山進行堂総合見本帳『活版略見本』収録。
一六九
書体の覆刻
★図四三―一……江川活版製造所広告
『印刷雑誌』第一巻第九号(印刷雑誌社、明治二四年一〇月刊)。
一七〇
書体の覆刻
★図四三―二……『印刷雑誌』第一巻第九号(印刷雑誌社、明治二四年一〇月刊)。
上段は活版製造所製文堂(現大日本印刷)広告、下段は清朝体活字を開発した弘道軒神崎正誼の死亡通知。
一七一
書体の覆刻
★図四四―
一……三号・四号を使って組んだ江川三号行書発売広告
『印刷雑誌』第二巻第九号(明治二五年一〇月刊)。
一七二
書体の覆刻
★図四四―
二……四号・五号を使って組んだ江川三号行書発売広告
『印刷雑誌』第二巻第九号(明治二五年一〇月刊)。
一七三
書体の覆刻
★江川活版三号行書仮名(二四級)
『日本の
活字書体名作精選』
の
九書体に
つ
い
て、
そ
の
背景と
書体特性を
綴り
ま
し
た。
こ
れ
ほ
ど
長く
な
る
と
は
思っ
て
い
ま
せ
ん
で
し
た
が、
書い
て
み
て
書体の
開発の
後ろ
に
は
そ
の
時代の
息づ
か
い
が
あ
る
こ
と
を
再確認で
き
ま
し
た。
府川充男氏は
「い
か
な
る
書風も時代の
子で
あ
る」
と
言っ
て
お
り
ま
す
が、
ま
さ
に
名言だ
と
思い
ま
す。
⦿組版仕様
書体=ヒラギノ明朝Std W
5(漢字・欧文・アラビア数字)+江川活版三号行書仮名(仮名,「日本の活字書体名作精選」より)
見出し=サイズ:60級/本文(p.162
)=サイズ:24級,字送り:30歯,行送り:36歯
本文(p.163, p.173
)=サイズ:16級,字送り:20歯,行送り:30歯,1行:33字詰め・22行
⦿発行=大日本スクリーン製造株式会社 ⦿デザイン・組版=向井裕一(glyph
) (2005.03.18
)