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医療史跡

 強心剤や血圧上昇剤として用いられるアドレナリンを発見した高峰譲吉(1854~1922年)については2018年 8月号の本欄で紹介した 1)。そのアドレナリンの結晶抽出という化学的実務を担当者した上中啓三(1876~1960年)の業績を調べると,当時の研究環境や上中の名が世に知られなかった社会的背景が興味深い。 上中は,1876(明治 9)年,現在の兵庫県西宮市名塩に生まれた。長じて大阪大学薬学部の前身である大阪薬学校に入学し,国家試験に合格して薬剤師になっている。その後東京大学医科附属薬学選科で長井長義(1845~1929年)の指導を受けている。その後,東京衛生試験所に入り,フグ毒テトロドトキシンの研究や足尾銅山鉱毒事件の鉱毒の検出等を手がけるが,2年修了の専科出身では出世も見込めない,がんじがらめの「学閥」に嫌気がさして退所している。長井教授の推薦により 1899(明治 32)年 12月に渡米し,1900(明治 33)年 2月米国の高峰の元を訪ね,助手となっている。長井長義が創設した東京化学会で常議員を務めていた高峰譲吉との「智縁」とも言える科学者の連鎖を見出すことができる。 上中は,長井教授直伝の,弱酸や弱アルカリを使用してゆっくり物資の抽出を試みる方法に従い,丁寧な実験を繰り返した。その結果,実験開始から半年も経たない 1900年 7月 21日アドレナリンの結晶化に成功する。時計皿を使用した少ないサンプルからの抽出実験は,工業化を意図した高峰の方針によりスケールアップして,8 kg,9 kgといった大量のウシ副腎からグラム単位のア

ドレナリンを抽出する実験へと展開している 2)。これらの経過(1900年 7月 20日~11月 15日)は,上中の実 験 メ モ「On Adorenalin

M e m o r a n d u m . J u l y t o

December.1900.UENAKA」に記録されている(写真 1)。科学者であり,ベンチャービジネスの先駆者であった高峰は,1900年 11月 5日米国で,「アドレナリン」の特許申請を行う。

 上中が,死ぬまで公表しなかったこの「実験ノート」に拠ると,アドレナリンの結晶を確認したのは 9月 19日で,6種の結晶が図解されている(写真 2)。11月 7日の記録には,「新晶体には,高峰博士の友人ドクトル・ウヰルソンの提案によりアドレナリンと命名す…」とある。 高峰がアドレナリン発見

に関する発表論文の中で上中のことを my associate(共同研究者)として論文の共著者としなかったことについて批判的記述もある 3)。当時の大学では,卒業して有給助手となると,教授の研究を実質的に担当しても共著者になれなかった。まして,高峰は上中に給与を支給し自分の研究を実施させた立場であり,それは単なる労働者と解釈するのがこの時代の常識であった 4)。 上中の「実験ノート」の存在を世に知らしめたのが科学史研究者の山下愛子氏で,「科学史研究」第 79号(1966)で「アドレナリン実験ノート」と題して報告している。日本化学会より化学遺産に認定された「実験ノート」の印影本は,国立科学博物館に保存されている。また,上中の生誕地でもある兵庫県西宮市名塩の教行寺境内に「上中啓三翁顕彰碑」が建立されている(写真 3)。

参考資料1) 諸澄邦彦,ベンチャー企業の先駆者 高峰譲吉,Isotope News,

No.758, 41(2018)2) 齋藤繁,アドレナリンとエフェドリンの交差点:上中啓三─急性期医療を担う医師が知るべき医学史上の偉人─,日臨麻会誌 , Vol.32, No4, 573-581(2012)

3) 山嶋哲盛,日本科学の先駆者 高峰譲吉,岩波ジュニア新,375(2001)

4) 石田三雄,流出頭脳がアドレナリンを結晶化 高峰譲吉を支えた上中啓三の渡米,近創史,No.7,25-37(2009)

(日本診療放射線技師会 諸澄邦彦)

アドレナリンを結晶化した流出頭脳上中啓三

写真 2 1900 年 9 月 19 日の実験記録(国立科学博物館筑波研究施設)

写真 3 上中啓三翁顕彰碑(兵庫県西宮市教行寺境内)

写真 1 上中啓三の実験ノート表紙(国立科学博物館筑波研究施設)

39Isotope News 2019 年 4 月号 No.762