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Title 『集史』の伝承と受容の歴史 --モンゴル史から世界史へ- - Author(s) 大塚, 修 Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal of Oriental Researches (2016), 75(2): 347-312 Issue Date 2016-09-30 URL https://doi.org/10.14989/244670 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 『集史』の伝承と受容の歴史 --モンゴル史から世界史へ--

    Author(s) 大塚, 修

    Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal ofOriental Researches (2016), 75(2): 347-312

    Issue Date 2016-09-30

    URL https://doi.org/10.14989/244670

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 『集史』の伝承と受容の歴史――モンゴル史から世界史へ――

    大 塚 修

    Ⅰ はじめに

    Ⅱ 現存『集史』写本とその傾向

    Ⅲ 同時代における『集史』の伝承と受容

    1 著者自身による写本作成の奨励

    2 同時代の歴史家の『集史』に対する評価

    Ⅳ 後世における『集史』の伝承と受容

    1 ティムール朝 (1370-1507)

    2 シャイバーン朝 (1500-99)

    3 オスマン朝 (1299-1922)

    4 サファヴィー朝 (1501-1736)

    5 ムガル朝 (1526-1858)

    Ⅴ 東洋学者による『集史』の受容

    1 18 世紀以前の東洋学者にとっての『集史』

    2 19 世紀の東洋学者にとっての『集史』

    Ⅵ おわりに

    Ⅰ は じ め に

    1307 年にイルハーン朝 (1256-1357) 第 8 代君主オルジェイト (在位 1304-16)

    に献呈されたラシード・アッディーン Rashīd al-Dīn (1318 没) 著『集史 Jāmi‘

    al-Tawārīkh』は,今日,ペルシア語普遍史書を代表する名著の一つとして,

    国内外の研究者に広く知られている。『集史』は全 3 巻 (後に全 4 巻に改訂) 構

    成であったと考えられるが,現在にまで伝わっているのは,第 1巻「モンゴル

    ― 68 ―

    347

  • 史」と第 2 巻「世界史」�1

    のみである。このうち,第 2 巻「世界史」は,西・

    中央アジアだけではなく,中国,ヨーロッパ,インドまでをも対象としている

    ことから,「史上初の世界史」と呼び習わされてきた (例えば,Jahn 1965 : x ;

    Boyle 1971 : 21 ; Melville 2008 : 464b ; Ben Azzouna 2014 : 188)�2

    。『集史』を「イラン

    史学史上の最高作品」(本田 1991 : 388) とまで評価した碩学本田實信は,本書

    編纂の意義を次のようにまとめている。

    『集史』は中央アジアのモンゴルの歴史と西アジアのイスラムの歴史との

    総合史であったばかりでなく,非イスラム文明圏の歴史をも組み入れた世

    界史であった。このような史書が 14 世紀初頭のタブリーズにおいてイラ

    ン人によって書かれたことは,それ自体が重要な文化史上の大事件である。

    『集史』がその後のイラン史学に及ぼした影響は大きく,ティムール朝か

    らムガール朝の宮廷史家にとって本書は史書の典型となった。(本田 1991 :

    571)

    その一方で,『集史』がペルシア語文化圏において強い影響力を誇ったのは,

    ティムール朝時代 (1370-1507) までであり,名著という評価は,19 世紀以降

    に西欧の東洋学者の手で与えられたものだとする立場もある (Jahn 1967 : 87 ;

    Pfeiffer 2013 : 69-70 ; Sela 2013 : 213)。このうち,中央アジア史を専門とするセラ

    R. Sela は,「イスラーム世界におけるラシード・アッディーンの歴史叙述の遺

    産」という専論の中で,写本の残存状況などを根拠に,「16〜18 世紀に,『集

    �1 筆者は,ムスリムによる歴史叙述の主要なジャンルの一つである,人類創世か

    ら著者と同時代に至る人類史に対する呼称として,「普遍史」という呼称を用いて

    きた。もちろん『集史』第 2 巻もこの普遍史に該当する文献ではあるが,本稿で

    は,議論を分かり易くするために,慣例に従い,これに対しては「普遍史」では

    なく「世界史」という呼称を用いる。

    �2 ただし,もし『集史』を「史上初の世界史」と評価するのならば,その評価は,

    ラシードが『集史』第 2 巻「世界史」を執筆する際にほぼ全面的に依拠した,

    カーシャーニー Abū al-Qāsim Qāshānī著『歴史精髄 Zubdat al-Tawārīkh』(1300

    年) にこそ,与えられるべきであろうというのが筆者の立場である (大塚 2014b)。

    ― 69 ―

    346

  • 史』に対する関心は劇的に低下した」可能性に触れている (Sela 2013 : 216)。

    このように,ペルシア語文化圏における『集史』の受容史については,正反

    対の見解が見られるが,筆者は双方の議論には二つの弱点があると考えてい

    る。第一に,『集史』の伝承と受容を考察する際の重要な指標の一つとなる

    現存写本の数とその情報について,独自に調査を行うことなく,Bregel 1972

    などの先行する目録類に全面的に依拠している点である。これまでの研究で

    も,装飾写本に関する専論では,その写本の受容史について,紙幅が割かれ

    ることもあった�3

    。しかし,非装飾写本,あるいは,調査が困難な図書館に

    所蔵されている写本が議論の俎上に上げられることは,ほとんどなかった。

    第二に,後世の歴史叙述に与えた影響を論じるに際して,参照される歴史書

    が,校訂出版されているものに限られてきた点である。ペルシア語による作

    品には未だに未校訂のものも多く,また校訂出版されていても,高い史料的

    価値が認められる著者と同時代の章しか出版されていないものもある。『集

    史』の伝承と受容の歴史を明らかにするためには,未校訂の作品を含む,後世

    に編纂された歴史書を網羅的に分析する必要があることは言うまでもないだ

    ろう。

    近年のペルシア語歴史叙述研究では,歴史書の伝承と受容に関する考察も見

    られるようになってきている。『歴史の秩序 Niżām al-Tawārīkh』(1275 年) を

    対象とする Melville 2001,『タバリー史翻訳 Tarjuma-yi Tārīkh-i Ṫabarī』

    (963/4 年) を対象とする Peacock 2007 では,作品の受容史についても幾らか

    紙幅が割かれており,その中で,メルヴィル Ch. Melville は,歴史書の受容史

    を考える際に重要な三つの指標 (①後世の歴史家による引用,②現存写本の数,③

    続編の編纂) を挙げている (Melville 2001 : 71-75)�4

    。本稿では,上述の二つの弱

    �3 JT/9 に関しては Richard 1997,JT/39a-39b に関しては Blair 1995 : 15-36。本

    稿では『集史』写本に言及する際,表 4「現存『集史』写本番号対応表」の中で

    便宜的に割り振った写本番号を「JT/」の後に付した形で表記する。例えば,

    「JT/9」というのは表 4 の 9 番目に挙げられているパリ写本 (Paris, National

    Library, Ms. Suppl. persan 1113) のことを意味する。

    ↗�4 セラは,さらに多くの指標を挙げているが,結局は現存写本の数に基づいて議

    ― 70 ―

    345

  • 点の克服を可能な限り試みるために,これらの指標について検討することで,

    『集史』の受容史について新たな見解を提示したい。もちろん,現存写本の数

    を明らかにするだけではなく,一つ一つの写本の伝承の過程を再現すること,

    そして,後世に編纂された全ての歴史書における受容の在り方を網羅的に把握

    することは,著者一人の手に負える作業ではないことは承知している。しかし,

    これまでの写本調査の結果,『集史』に関しては,大まかな見通しが得られる

    ようになってきている。本稿では,その見通しを提示することにより,これま

    での受容史研究の問題点を問い直し,歴史学における受容史研究の重要性を指

    摘したい。歴史書に対する評価を定めることは,史料批判を行う際に欠かすこ

    とのできない作業だからである。

    Ⅱ 現存『集史』写本とその傾向

    『集史』の伝承と受容を考察する上で,まず,その現存写本数が重要な指標

    となる。もちろん,現存写本は,これまでに作られてきたであろう数多の写本

    の氷山の一角に過ぎないという点については自覚的でなければならない。既に

    散逸してしまった写本,また,現在にまで伝わっていても,所蔵機関の写本目

    録が刊行されていないがために学界に知られていない写本の存在も想定できる

    が,その現物が確認できない以上,全体像を復元することは難しい。筆者は現

    時点において,この課題を解決する術を持たないが,現存写本数だけではなく,

    写本そのものの伝存状況や他の歴史書における受容の在り方を突き合わせなが

    ら総合的に判断することで,一定の傾向を見出すことができるのではないかと

    考えている。

    現存写本数については,既に白岩 2000 という『集史』写本目録が刊行され

    ており,国際的に広く受け入れられている (Pfeiffer 2013 : 69, n. 48 ; Sela 2013 :

    216)。ただしその中には,『集史』以外の作品の写本が掲載されていたり,近

    論を組み立てている。また,その写本情報も独自の調査によるものではなく,白

    岩 2000 に全面的に依拠している (Sela 2013 : 215-216)。

    ― 71 ―

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  • 年出版された写本目録の情報が反映されていないなどの不備も見られる。その

    ために筆者は別稿において,白岩 2000 を発展させる形で,70点の現存『集

    史』写本目録を新しく作成した (大塚 2016 : 58-61)�5

    。この目録に基づき,書写

    年代で 100 年毎に時代を区切り,時代別の書写状況を示したのが表 1である。

    現存『集史』写本のうち,最も多いのは第 1巻「モンゴル史」単独の写本で

    (38点),全体の半数以上を占めている。一方,第 2巻「世界史」単独の写本は

    22点と少なく,第 1-2 巻合冊本の写本 (10点) と合わせても第 1 巻単独の写

    本の数には及ばない。ただし,第 2巻の写本も第 1巻同様に,ほぼ全ての時代

    を通じて作成されており�6

    ,継続的に読者を得ていたようである。この点で,

    16 世紀以降に『集史』に対する関心が失われてしまったという学説はその根

    拠を失うことになる。また,全ての内容を収めた第 1-2 巻合冊本の写本の数が

    10点と少ないのも際立った特徴である (一揃いの形で作られた第 1 巻と第 2 巻の

    分冊本も残されていない)。このように,『集史』の写本と一口に言っても,伝存

    状況は各巻で異なっていたのである。

    �5 稿末の表 4 はその簡易版である。これ以外に現在所蔵先不明の写本 3点の存在

    を確認しているが (大塚 2016 : 61),その内容を確認することができないため,

    本稿では取り上げない。

    �6 18 世紀に作成された『集史』写本は 2点と少ないが,これは『集史』に限らず

    他のペルシア語普遍史書にも共通して見られる傾向である。例えば,イルハーン

    朝時代に編纂されたペルシア語普遍史書の中で最も多くの写本が残っている『選

    史 Tārīkh-i Guzīda』でさえも,全 124点の写本のうち 18 世紀の写本は 5点しか

    ない (大塚 2013 : 189-192)。メルヴィルはこの現象を 18 世紀の「文化的崩壊」

    を示すものと評価している (Melville 2001 : 74)。

    ― 72 ―

    343

    表 1 現存『集史』諸写本の時代別書写年代

    14 世紀 15 世紀 16 世紀 17 世紀 18 世紀 19 世紀 20 世紀 不明 合計

    1 巻 8 3 13 5 0 6 2 1 38

    2 巻 3 2 (1) 1 (1) 2 (2) 2 (1) 12 0 0 22 (5)

    1-2 巻 0 3 0 3 0 4 0 0 10

    合計 11 8 (1) 14 (1) 10 (2) 2 (1) 22 2 1 70 (5)

    *ハーフィズ・アブルー著『改訂版集史』である可能性が疑われる写本についても数に含めたが、そ

    の点数については、丸括弧の中に示した。

    *推定書写年代が 2世紀に跨る場合については、遅い方の世紀の書写として数えた。

  • 次に指摘できるのが,第 2 巻「世界史」現存写本の書写年代の偏りである。

    その写本の半数以上は 19 世紀に書写されたもので,18 世紀以前の点数は少な

    い。また,同じジャンルの他のペルシア語普遍史書の現存写本数と比べてその

    数が群を抜いて多いわけではなく (表 2),点数からは,ペルシア語文化圏で高

    い評価を獲得していたとは言い難い。

    では,現存写本数から判断できるこれらの特徴は,写本の伝承と受容の過程

    と一致するのだろうか。次章以降では,『集史』の写本が作られたことが確認

    できる事例,また,『集史』という書名に言及した上での引用が確認できる事

    例を可能な限り収集し�7

    ,王朝毎,時代毎の『集史』の受容史について考察し

    ていきたい。

    �7 引用の際に,『集史』という書名に言及していても,それが直接的な引用ではな

    く,別の文献からの孫引きである可能性も想定できる。また,書名に言及せずに

    参照しているという可能性も想定できる。このような相互の引用関係を明らかに

    するためには,あらゆる文献の該当箇所を逐一比較検討する必要があり,筆者一

    人の手に負える作業ではない。本稿では,今後の基礎となる作業として,『集史』

    という書名が確認できる事例に限定して分析を行った。

    ― 73 ―

    342

    表 2 イルハーン朝時代までに編纂されたペルシア語普遍史書の現存写本数一覧

    書 名 写本数 典 拠

    『歴史の装飾 Zayn al-Akhbār』(1041 年) 2 Melville 2001 : 73

    『史話要説 Mujmal al-Tawārīkh wa al-Qiṡaṡ』(1126 年) 4 Melville 2001 : 73

    『ナースィル史話 Ṫabaqāt-i Nās

    ̇irī』(1260 年) 23 Melville 2001 : 73

    『歴史の秩序 Niżām al-Tawārīkh』(1275 年) 73 Melville 2007a : 49-51

    『歴史精髄 Zubdat al-Tawārīkh』(1300 年) 6 大塚 2014b : 30-31

    『集史 Jāmi‘ al-Tawārīkh』(1307 年) 32 (70) 大塚 2016 : 58-61

    『バナーカティー史 Tārīkh-i Banākatī』(1317 年) 31 Melville 2001 : 73

    『選史 Tārīkh-i Guzīda』(1329/30 年) 124 大塚 2013 : 189-192

    『系譜集成 Majma‘ al-Ansāb』(1337 年) 25 大塚 2014a : 4-6

    *『集史』写本の数は第 2 巻と第 1-2 巻合冊本の点数を合計したもの。第 1 巻「モンゴル史」の写本

    も合わせた総数は丸括弧の中に示した。

    *筆者は、これまでの写本調査で、『ナースィル史話』については 25点、『バナーカティー史』につ

    いては 54点の写本の情報を得ているが、紙幅の都合上その内訳を示すことはできない。これにつ

    いては機会があれば、別稿で紹介したい。

  • Ⅲ 同時代における『集史』の伝承と受容

    1 著者自身による写本作成の奨励

    『集史』には著者ラシード存命中の写本が多数残されており,年記が明らか

    な写本だけに限っても,1314/5 年書写の JT/39a-39b,1314 年書写の JT/40�8

    1317 年書写の JT/2,1317 年書写の JT/41 の 4点が現存している。このよう

    な古写本の多さは,ラシードが意図的に自身の著作の写本作成を奨励したこと

    に関係するものと考えられる。彼は,タブリーズ郊外に建設した慈善・文化施

    設ラシード区のワクフ管財人に対して,『集史』を含む自身の全ての著作のペ

    ルシア語版とアラビア語版の「正本」の写本を毎年一部ずつ作成し,イルハー

    ン朝領内の各都市に送るように指示していた。そして,写本をマドラサに配架

    し閲覧に供すること,また,その写本からさらに写しを作成することを奨励し

    ていた (WN : 237-241 ; 岩武 1995 : 292-299)。ところで,上述の写本のうち,バ

    グダードで書写された JT/2 には,ムバーラクシャー Mubārak-shāh b. Rashīd-

    khwānī という名の写字生による加筆記事が含まれている (JT/2 : 251a)�9

    。また,

    この写字生の父だと考えられる,ラシード・ハーニー (本名はムハンマド・ブ

    ン・ハムザ Muḣammad b. H

    ̇amza) なる人物が著した続編 (「オルジェイト紀」) を

    含む第 1 巻「モンゴル史」の写本も残されていることから (JT/5 : 291a-293b),

    著者であるラシード存命中に,写字生が書写する際に内容に手を加えたり,続

    編を書き加えるなどした,上述の「正本」とは異なる形の写本も流通していた

    事例も確認できる。

    ラシードは『集史』写本の製本について,「すぐに壊れてしまうことのない

    ようにワクフ管財人が適当だと考える巻数」で行うように指示している (WN :

    �8 ただし,1314 年に書写された箇所は 219 葉分のみで (JT/40 : 164a-219b,

    227a-341b, 343a-391a),その他の箇所は 1426 年以降にハーフィズ・アブルーに

    より書き足されたものである。この写本については,大塚 2015 を参照。

    �9 『集史』第 1巻「モンゴル史」写本に確認できる,写字生による異文の挿入につ

    いては,赤坂 1998 : 147注 35, 149 を参照。

    ― 74 ―

    341

  • 237)。岩武昭男は下線部を「早くに失われてしまわないように」と訳し,ラ

    シードをめぐる党派争いと彼の死後に『集史』が失われたことに関連付けた

    (岩武 1995 : 293, 300)。しかし,もし党派争いを意識した文言であるならば,この

    但し書きは『集史』以外の作品にも記載されるはずである。筆者は,この但し

    書きが他の作品に対しては付されていないことから,ラシードの作品の中で最

    も大部な『集史』全巻を一冊に製本すると,すぐに装丁が壊れてしまう,とい

    う文意ではないかと考えている。実際,ラシードと同時代に作られた 4点の写

    本は,その紙の大きさが全て縦 40cm・横 30cm�10

    を上回る大判の写本で (この

    うち,JT/39a-39b,JT/40,JT/41 は挿絵入り装飾写本�11

    ),この大きさの紙で『集

    史』合冊本を製本し,それを長期間保存することは難しかったと考えられる。

    このためか,14 世紀に書写された合冊本の写本の存在は確認されていない。

    2 同時代の歴史家の『集史』に対する評価

    イルハーン朝第 7代君主ガザン (在位 1295-1304) と第 8 代君主オルジェイト

    の治世にタブリーズにおける学術活動を庇護・奨励したラシードの業績が,同

    時代の文人から高い評価を受けたであろうことは容易に予想できる。第 9代君

    主アブー・サイード (在位 1316-35) に献呈された,バナーカティー Banākatī

    著『バナーカティー史 Tārīkh-i Banākatī』(1317 年) の序文では,特に『集史

    Jāmi‘ al-Tawārīkh』という書名を挙げた上で,先行する歴史書や口頭伝承の

    内容を簡潔に提示するという執筆方針が明示されている (TB : 1-2)。『バナー

    カティー史』の章構成は,第 1章「預言者伝」,第 2章「イスラーム前史」,第

    3 章「イスラーム史」,第 4 章「イスラーム諸王朝史」,第 5 章「ユダヤ史」,

    �10 一度製本された写本の装丁が壊れた場合には,写本は再製本されることになっ

    たが,その際に,上下および小口が新しい装丁にあわせて裁断された。したがっ

    て,写本の中には,最初に完成した時の大きさが,現在の写本より大きいものも

    ある。なお,これら 4点の写本のうち,ブレア Sh. S. Blair は,JT/39a-39b,JT/40,

    JT/41 の 3点をラシード区で作られた写本だと考えている (Blair 1993 : 269b)。

    �11 1317 年書写の JT/41 の挿絵については,1318 年にラシードが謀殺されたため

    に,3点挿入された時点で,作業が中断されてしまったと考えられている (Inal

    1965 : 34)。

    ― 75 ―

    340

  • 第 6章「フランク史」,第 7章「インド史」,第 8章「中国史」,第 9章「モン

    ゴル史」となっており (TB : 2-3),第 5章から第 8章は,『集史』第 2 巻「世

    界史」の影響を強く受けた内容になっている。

    同じくアブー・サイードの治世に,ラシードの息子ギヤース・ラシーディー

    Ghiyāth al-Dīn Muḣammad Rashīdī (1336 没) に献呈されたムスタウフィー

    Ḣamd Allāh Mustawfī 著『選史 Tārīkh-i Guzīda』(1329/30 年) では,その執

    筆動機は,ラシード主宰の学術サークルに参加し,歴史を研究する興味を掻き

    立てられたことだとされる (TG : 2-3)。そして,ムスタウフィーは,典拠とし

    て言及している 23点の歴史書の中で,特に『集史』に対して,「この技術[歴

    史学]�12

    の諸著作の集成の総計」と高い評価を与えている (TG : 7)。ただし,

    「イランの国 Īrān-zamīn」の歴史を叙述対象とする『選史』では (TG : 7),「中

    国史」までをも含む『集史』の章構成は採用されておらず,『集史』からの引

    用も,第 4章 12節「モンゴル史」の冒頭部のテュルク・モンゴル諸部族誌に

    おいて一箇所確認できるのみである (TG : 562)�13

    また,ラシードの著作を,「これ以前にテュルク・モンゴル史はイランの国

    Īrān-zamīn に存在しなかった」(SHCH : 5b) と評価したシャムス・カーシー

    Shams al-Dīn Kāshīによって,韻文によるモンゴル史『ガザンの歴史 Tārīkh-i

    Ghazānī』�14

    が編纂されている。

    同時代の歴史家による『集史』の受容については,ラシードと同時代に書写

    された第 2巻「世界史」写本の多さから,第 2巻「世界史」が主流であり,第

    1巻「モンゴル史」が重視されるようになるのは,ティムール朝期以降だとす

    る学説もあるが (岩武 2001 : 33),これらの事例から,第 2巻と同様に,第 1巻

    �12 本稿における引用文中の角括弧は著者による補足や説明を意味する。また,本

    稿では引用文中の祈願文は省略した。

    �13 ただし,その内容には手が加えられており (Dobrovits 1994 : 271-272 ; 宇野

    2002 : 43-44),厳密には引用とは言えない。

    �14 シャムス・カーシーの韻文史書は『チンギス王書 Shāh-nāma-yi Chingīzī』とい

    う名で呼ばれることが多いが,『選史』では,『ガザンの歴史 Tārīkh-i Ghazānī』

    という名で紹介されている (TG : 737)。この韻文史書については Murtaḋawī

    1385kh : 590-625 ; Melville 2007b を参照。

    ― 76 ―

    339

  • も参照されていたことは明らかであろう。

    Ⅳ 後世における『集史』の伝承と受容

    ただし,これ以外に,14 世紀後半までに,『集史』を高く評価した文人の存

    在を確認することはできない。アブー・サイードの治世に編纂された『諸王へ

    の贈物 Tuḣfat al-Mulūk』(1316 年頃),『心優しい子ども Walad-i Shafīq』

    (1332/3 年),『系譜集成 Majma‘ al-Ansāb』(1337 年) など,その章構成の中に

    普遍史を含む文献では,『集史』からの引用は確認できない。その後編纂され

    た『ニークパイ史 Tārīkh-i Nīk-pay』(14 世紀),『シャイフ・ウワイス史

    Tawārīkh-i Shaykh Uways』(1359-74 年),『探究者の道 Manāhij al-Ṫālibīn』

    (1377 年),『歴史の天国 Firdaws al-Tawārīkh』(1405/6 年) においても同様で

    ある。『集史』の影響が確認できる記事として,シャムス・アームリー Shams

    al-Dīn Āmulīが著した百科事典『高貴なる諸学問 Nafā’is al-Funūn』(1353 年)

    所収の「中国とフランクの歴史」という節があるが (NF, Vol. 2 : 223),全体の

    章構成と内容は『集史』ではなく,『バナーカティー史』に近い�15

    。ただし,

    1383 年に,第 1巻「モンゴル史」のアラビア語挿絵入り写本 JT/3 が作られる

    など,読者を全く得ていなかったわけではなかった。歴史書ではないが,書記

    術指南書『書記典範 Dastūr al-Kātib』においても,『集史』からの引用が確認

    できる (DK : 175)。とは言っても,14 世紀末の時点では,『集史』に対する強

    い関心は確認できない。先行研究においても意見が一致しているように,『集

    史』の受容に大きな変化が見られたのは,15 世紀ティムール朝宮廷において

    であった (例えば,Sela 2013 : 217)。

    1 ティムール朝 (1370-1507)

    ティムール朝はモンゴル系のバルラス部族に出自を持つ王朝で,チンギス・

    �15 セラも,後世の歴史家が『バナーカティー史』を通じて,『集史』の情報を得て

    いた点について指摘している (Sela 2013 : 216-217)。

    ― 77 ―

    338

  • ハーンの子孫を名目上の君主に戴き,自らはチンギス家の娘婿の立場で政治を

    行った (川口 2007 : 3)。そのために,アダムに始まるテュルク・モンゴル諸部

    族の系譜の流れの中に自らを位置付けることは,ティムール朝の支配の正当性

    を確立する上で大きな意味を持った�16

    。その主要典拠の一つとなったのが,

    『集史』第 1巻「モンゴル史」であり,ティムール朝では,『集史』の写本を作

    成することが奨励された (Blair 1995 : 100)。

    『集史』からの引用が確認できる,最も早い時期の歴史書は,ティムールの

    孫イスカンダル (1415 没) に献呈された『イスカンダル無名氏の史書 Anonym

    Iskandar』(1412 年以降),および,その改訂版で第 3 代君主シャー・ルフ (在

    位 1409-47) に献呈された『ムイーンの歴史精髄 Muntakhab al-Tawārīkh-i

    Mu‘īnī』(1414 年) である�17

    。両書の構成は,上述のムスタウフィー著『選史』

    の影響を強く受けているが,テュルク・モンゴル諸部族誌では『集史』からの

    引用も見られ,ラシードは「その系譜[テュルク・モンゴル諸部族の系譜]の

    詳細に関する知識に関しては奇跡を起こす者」と高く評価されている (AI :

    219b ; MTM : 260b)�18

    このシャー・ルフは,ティムール朝の歴代君主の中で『集史』に対して最も

    強い関心を持っていたと考えられる。現存『集史』写本のうち,JT/10 は

    シャー・ルフのために 1434 年に書写されたものであり,これ以外にも,

    シャー・ルフの蔵書印が押された写本が 4 点残されている (JT/9�19

    ; JT/39a :

    251a ; JT/40 : 1a ; JT/57 : 157a)�20

    。彼の蔵書コレクションには,第 1巻「モンゴル

    史」,第 2巻「世界史」,そして第 1-2 巻合冊本という様々な形状の『集史』写

    �16 ティムール朝時代の歴史叙述における,テュルク・モンゴル的伝統とイスラー

    ム的伝統の融合については,Dobrovits 1994 を参照。

    �17 これらのペルシア語普遍史書については,川口 2007 : 120-163 を参照。

    �18 これ以外に,ロルの地方政権の章において参照されている (AI : 211a ; MTM :

    249b)。

    �19 筆者は確認できておらず,リシャール F. Richard の指摘による (Jaʻfariyān

    1389kh : 227)。

    �20 シャー・ルフの蔵書印が押された写本は,『集史』以外にも数多く残されている。

    この問題については,Jaʻfariyān 1389kh を参照。

    ― 78 ―

    337

  • 本が含まれていたことが確認できる。

    彼の『集史』に対する関心は,彼とその息子バーイスングル (1433 没) に仕

    えた宮廷史家ハーフィズ・アブルー Ḣāfiż-i Abrūの歴史編纂事業に強く反映さ

    れている。1417/8 年,ハーフィズ・アブルーは,当時最も権威のある歴史書

    だと評価していた歴史書 3点を核として,この 3点が扱っていない時代の事件

    については自ら新たに加筆した,天地創造からティムール朝に至るまでの歴史

    を対象とする『選集 Majmū‘a』を編纂した (MHA : 3b)。その際に核となった

    3 点の歴史書の一つが『集史』で,第 1 巻「モンゴル史」(MHA : 315a-515b),

    および第 2巻「世界史」の「ガズナ朝史」以降の各章 (MHA : 516a-652b) が組

    み込まれている (大塚 2015 : 254-257)。14 世紀に作られた第 1-2 巻合冊写本の

    存在は確認されていないが,この事例からも分かるように,ティムール朝時代

    には合冊形態の写本も確認できるようになる (JT/56, JT/57, JT/58)�21

    。さらに,

    シャー・ルフのために書写された第 1 巻「モンゴル史」の写本 JT/10 では,

    ガザンの死後の歴史を扱った『集史続編 Dhayl-i Jāmi‘ al-Tawārīkh』が加筆さ

    れるなど (JT/10 : 448a-534b),手が加えられた『集史』写本も残されている�22

    また,1427 年,ハーフィズ・アブルーは,『集史』を含む先行する歴史書を典

    拠として,4 巻本の普遍史書『歴史集成 Majma‘ al-Tawārīkh』を完成させて

    いる (大塚 2015 : 257-260)。

    ハーフィズ・アブルーはさらに,『改訂版集史』(1426 年以降) を編纂してい

    るが,これが,ペルシア語文化圏における『集史』の受容に大きな影響を与え

    たと考えられる。シャー・ルフの図書館には 1314 年に書写された『集史』第

    2巻「世界史」の古い挿絵入り写本が伝わっていたが,およそ半分の頁が失わ

    れていた。彼は,この写本を修復する際に,より優れた歴史書だと考えていた

    �21 ただし,全ての第 1-2 巻合冊本は,アダムに始まるペルシア語普遍史書の形式

    にあわせるためか,第 2 巻「世界史」を第 1 巻「モンゴル史」の前に置く構成に

    なっている。

    �22 筆者は,JT/10 と同系統の写本だと考えられる,『集史続編』が補われた第 1巻

    「モンゴル史」の写本を 4点 (JT/16, JT/24, JT/26, JT/31) 確認している (大塚

    2015 : 251注 13)。

    ― 79 ―

    336

  • 自著『歴史集成』の記事を増補した。その結果,完成したのが,『集史』第 2

    巻「世界史」のテクストに『歴史集成』のテクストが組み込まれた『改訂版集

    史』である。これには,挿絵も新しく書き足され,君主献呈用の豪華な装丁に

    なっている (大塚 2015 : 261-268)�23

    。『集史』第 2 巻「世界史」単独の写本は 22

    点 (18 世紀以前 10点) しか現存していない一方で (表 1),内容の酷似した『改

    訂版集史』の写本は 19点 (18 世紀以前 9点) 現存している (表 3)。確かに,現

    存する第 2 巻「世界史」の写本数は第 1 巻「モンゴル史」に比べて少ないが,

    その内容は,この『改訂版集史』を通じても後世に伝えられていたのである。

    また,シャー・ルフの息子第 4代君主ウルグ・ベク (在位 1447-49) のために作

    成された第 2 巻「世界史」の写本 JT/42 も残されている。ただし,この時代

    には,「中国史」までを含む第 2 巻「世界史」の章構成を踏襲する歴史家は現

    れなかったようである�24

    ティムール朝後期の文芸活動を支えたのは,ティムール朝ヘラート政権のフ

    サイン・バイカラ (在位 1470-1506) に仕えた文人ナワーイー ʻAlī-shīr Nawāʼī

    (1501 没) であった。彼の庇護の下編纂されたのが,後の世に好評を博するこ

    とになるミール・ハーンドMīr-khwānd著『清浄園Rawḋat al-S

    ̇afā』(初版 1498

    年) である。この『清浄園』も,典型的なペルシア語普遍史書で,第 2巻「世

    界史」の章構成は採用されていない。一方で,ラシードの名は序文でペルシア

    �23 この時編纂された『改訂版集史』が JT/40 である。

    �24 例えば,15 世紀半ば頃までに編纂された『善行の歴史 Tārīkh-i Khayrāt』

    (1428 年),『監督者の教訓 ‘Ibrat al-Nāżirīn』(1434/5 年),『ハサン集史 Jāmi‘ al-

    Tawārīkh-i Ḣasanī』(1451 年以降) の中で,『集史』はテュルク・モンゴル諸部

    族の系譜の情報源の一つとして引用されているが (TKH : 262a ; IN : 117b ; JTH :

    343b),第 2巻「世界史」の章構成は採用されていない。

    ― 80 ―

    335

    表 3 現存『改訂版集史』諸写本の時代別書写年代

    15 世紀 16 世紀 17 世紀 18 世紀 19 世紀

    2 3 3 1 10

    *大塚 2015 : 278-279 をもとに作成。

    *推定書写年代が 2世紀に跨る場合については、遅い方の世紀の書写として数えた。

  • 人 ʻajam の代表的な歴史家の一人して紹介され (TRS, Vol. 1 : 20-21),本文中の

    「イスラーム前史」と「モンゴル史」の 1箇所ずつで引用が確認できる (TRS,

    Vol. 2 : 736 ; Vol. 8 : 3903)。同じくナワーイーに献呈された,ハーンダミール

    Khwāndamīr 著『諸王の功績 Ma’āthir al-Mulūk』(1498 年) でも,「モンゴル

    史」の典拠の一つとして用いられている (MM : 155, 158)。さらに,同じ著者が

    ティムール朝滅亡後に著した『伝記の伴侶 Ḣabīb al-Siyar』(1529 年) の「モン

    ゴル史」関係の記事でも多くの引用が確認できる (THS, Vol. 3 : 4, 11, 12, 22, 23,

    57, 67, 69, 77, 106, 108, 140, 164, 166, 170, 177, 185)。ジャンルの異なる作品ではある

    が,同じ著者による『宰相列伝 Dastūr al-Wuzarā’』では,イルハーン朝以外

    の宰相の記事においても,しばしば『集史 Jāmi‘ al-Tawārīkh』が典拠として

    挙げられている (DW : 37, 68, 71, 81, 88, 91, 137, 146, 150, 183, 191, 192, 199, 204, 208,

    215, 233, 321)。また,フサイン・バイカラの蔵書には,『集史』第 1巻「モンゴ

    ル史」の別称だと考えられる『チンギスの歴史Tārīkh-i Chingīzī』という題名

    の装飾写本があったと伝えられている (BMA : 12-13 ; Blair 1995 : 92)。これを受

    けて,彼の宮廷では,JT/8 の挿絵の一部と JT/19 の挿絵が作成されたと考え

    られている (Schmitz & Desai 2006 : 173a-173b)。このように,フサイン・バイカ

    ラの宮廷においても,『集史』写本に対する強い関心をうかがうことができる。

    ティムール朝時代には,第 2巻「世界史」および第 1-2 巻合冊の写本が作成

    されたことに加え,第 2 巻「世界史」を改訂した『改訂版集史』が編纂され,

    第 2 巻「世界史」も読者を得ていた。しかし,「中国史」までを含む章構成を

    踏襲するペルシア語普遍史書が編纂されることはなかった。やはり典拠として

    権威を持っていたのは,第 1巻「モンゴル史」であった。

    2 シャイバーン朝 (1500-99)

    『集史』第 1 巻「モンゴル史」を重視する傾向は,ティムール朝を滅ぼした

    シャイバーン朝においても同様であった。チンギス・ハーンにつながる系譜を

    持つシャイバーン朝においても,テュルク・モンゴル諸部族誌を叙述する際に

    『集史』は典拠として権威を持ったと考えられる。1526 年,第 2 代君主クチュ

    クンジュ・ハーン (在位 1510-30) は,ムハンマド・アリー Muḣammad ʻAlī b.

    ― 81 ―

    334

  • Mawlānā Yār ʻAlī に命じ,第 1 巻「モンゴル史」のチャガタイ語訳 JT/12 を

    編纂させている。ムハンマド・アリーはその他に,ヤズディー Yazdī による

    ティムール朝史『勝利の書 Żafar-nāma』(1424/5 年) の翻訳も命じられている

    ことから (JT/12 : 3a),テュルク・モンゴル諸部族誌を含むこれらの歴史書の

    重要性がうかがえる�25

    。このチャガタイ語訳には,『チンギスの書 Kitāb-i

    Jinkīz-nāma』という書き込みが見られる (JT/12 : 2a)。また,この王朝では,

    第 6代君主アブド・アッラティーフ (在位 1540-52) の意向により,王朝の遠祖

    アブー・アルハイル・ハーン (1468 没) の名前を冠する『アブー・アルハイ

    ル・ハーンの歴史 Tārīkh-i Abū al-Khayr Khānī』(1539 年頃) というペルシア

    語普遍史書が編纂されている。その中でも,テュルク・モンゴル系諸部族の始

    祖とされるヤペテの父ノアの説明において,『集史』が典拠の一つとして用い

    られている (TAKH : 19a)。

    ところで,シャイバーン朝宮廷には,『集史』第 1 巻「モンゴル史」以外に

    も,ラシードの著作の写本が伝わっていた事実が確認できる。初代君主シャイ

    バーニー・ハーン (在位 1500-10) の命で編纂されたイブン・ルーズビハーン

    Faḋl Allāh b. Rūzbihān Khunjī 著『ブハラの客人の書 Mihmān-nāma-yi

    Bukhārā』(1509 年) に記録された神学論争の中で,凝った書体で書かれ,手

    の込んだ装飾や装丁の施された『ラシード集成 Jāmi‘-i Rashīdī』の写本が君主

    の御前で読み上げられたという逸話が紹介されている (MNB : 29)。『ラシード

    集成 Jāmi‘-i Rashīdī』という書名は通常『集史』を意味するが,ここではその

    内容から,神学著作の一つを指しているものと思われる。前述のハーンダミー

    ルが著した『宰相列伝』では,ラシードは『集史』と神学著作の一つ『注釈書

    Tawḋīḣāt』の著者として紹介されており (DW : 315-316),『集史』以外の著作

    でもラシードの名は知られていた。

    イブン・ルーズビハーンは,これ以前にはアクコユンル朝 (1378頃-1508) に

    �25 ホラズム地方に成立したヒヴァ・ハーン国 (1512-1920) の君主アブー・アル

    ガーズィー (在位 1644-63) がチャガタイ語で著した『テュルク人の系譜

    Shajare-i Türk』でも,ラシードの名前が挙げられており (SHT : 35),後のチャ

    ガタイ語歴史叙述への影響も確認できる。

    ― 82 ―

    333

  • 仕えていた。第 8代君主ヤアクーブ (在位 1478-90) の命で著した『アミーンの

    世界征服者の歴史 Tārīkh-i ‘Ālam-ārā-yi Amīnī』(1490 年頃) の中で,代表的

    な普遍史 tārīkh-i jamīʻ-i waqāyiʻ-i ʻālam の著者たちに言及している。彼は,タ

    バリー Muḣammad b. Jarīr,イブン・ジャウズィー Ibn al-Jawzī,ハーフィ

    ズ・アブルー Ḣāfiż-i Abrū らの名前を挙げた後に,『集史 Jāmi‘ al-Tawārīkh-i

    Rashīdī』を,「目的ではこれらの作品と同じだが,様式において異なる」作品

    として紹介している。それに続いて,『バナーカティー史』と『選史』を簡潔

    な普遍史書として挙げている (TAAA : 83-84)。ここで紹介されている歴史書

    の様式から,この『集史』は,第 1巻「モンゴル史」ではなく,第 2巻「世界

    史」(あるいは第 1-2 巻合冊本) を意味していることは明らかである。この記述

    からは,第 2巻「世界史」の存在自体は知られていたが,異なる様式を持った

    「特異な」普遍史書と評価されていたことが確認できる。

    3 オスマン朝 (1299-1922)

    テュルク・モンゴル諸部族誌を典拠とする歴史叙述は,チンギス・ハーンの

    血統とは直接的な関係を持たないテュルク系王朝でも採用された。オスマン朝

    で編纂された王朝史の冒頭には,オスマン家へとつながる,テュルク・モンゴ

    ル諸部族誌が置かれ�26

    ,『集史』が典拠として利用されることもあった。ヤズ

    ジュオール Yazıcızâde Ali 著『セルジューク朝史 Tevârîh-i Âl-i Selçuk』(1424

    年) やイブン・ケマル Ibn-i Kemal 著『オスマン朝史 Tevârîh-i Âl-i Osman』

    (16 世紀初頭) では,『集史』はテュルク・モンゴル諸部族誌の典拠の一つとし

    て言及されている (TAS : 6 ; TAO : 201 ; 小笠原 2014 : 148, 157, 171)�27

    。オスマン朝

    史以外では,第 11 代君主セリム 2 世 (在位 1566-74) の治世に編纂されたペル

    シア語普遍史書,ムスリフ・ラーリーMuṡliḣal-Dīn Muh

    ̇ammad Lārī著『時代

    �26 オスマン朝歴史叙述におけるテュルク・モンゴル諸部族誌の位置付けについて

    は,小笠原 2014 : 27-48 を参照。

    �27 小笠原弘幸は,ネシュリー Neşrî 著『世界の鑑 Cihân-nümâ』(1485-94 年頃)

    所収のテュルク・モンゴル諸部族誌についても,直接明記されていないものの,

    『集史』が典拠となっている可能性を指摘している (小笠原 2014 : 78)。

    ― 83 ―

    332

  • の鑑 Mir’āt al-Adwār』(1566 年) において,第 1巻「モンゴル史」からだけで

    はなく (MAMA, Vol. 2 : 692),第 2 巻「世界史」からの引用も確認できる

    (MAMA, Vol. 1 : 410, 418, 450)。17 世紀に編纂された文献目録『疑問の氷解

    Kashf al-Żunūn』においても,『集史』に関しては章構成を含む詳細な解題が

    あることから (KZ, Vol. 1 : 539),オスマン朝でも一定数の読者を得ていたこと

    が分かる。

    4 サファヴィー朝 (1501-1736)

    以上取り上げてきた王朝は,テュルク・モンゴル諸部族誌の中に自らの王朝

    を位置付けることを重視した王朝であった。これに対し,サファヴィー朝など,

    テュルク・モンゴル系の出自を支配の拠り所としなかった王朝では,『集史』

    はどのように受容されていたのであろうか。これについては,「ティムール朝

    におけるラシード・アッディーンの諸作品への関心はサファヴィー朝には引き

    継がれなかった。サファヴィー朝は,『王書』や主要なイラン人詩人の作品の

    装飾写本を好んだのである」(Blair 1995 : 102) という評価が一般的であろう。

    しかし,実際には,『集史』が受容されていたことを示す写本が残されている。

    それは,1529 年に書写された第 1 巻「モンゴル史」の挿絵入り装飾写本

    JT/13 である。JT/13 には 26 点の挿絵が描かれており (JT/13 : 22b, 49b, 70a,

    95b, 118a, 125b, 126a, 136b, 153a, 164a, 182a, 188b, 198a, 217b, 222b, 241a, 249b, 261a,

    287a, 296b, 307a, 322a, 338a, 354a, 365b, 373a),その中には,サファヴィー朝期の挿

    絵の特徴である,キズィルバーシュを象徴する赤い心棒を布で巻いた被り物を

    した人物が描かれている。JT/13 が,当時王位にあった第 2代君主タフマース

    ブ (在位 1524-76) に献呈されたものであるかは分からない。しかし,写本の冒

    頭部に,1608/9 年,第 5 代君主アッバース (在位 1587-1629) が,この写本を

    アルダビールにある王室墓サフィー廟に寄進した旨を記したワクフ文言が残さ

    れていることから (JT/13 : 1a),少なくともこの時までには,サファヴィー家

    の図書館に収蔵されるようになっていたことが分かる。JT/13冒頭のウンワー

    ン (長方形の装飾枠) には,『チンギス・ハーンの歴史 Tārīkh-i Chingīz-

    khwānīs i c

    』という題名が記載されており (JT/13 : 1b),「モンゴル史」として作

    ― 84 ―

    331

  • 成されたものである。ところで,サフィー廟の宝物を記録した 1759 年 3月 24

    日付の文書には,『チンギスの歴史 Tārīkh-i Chingīzī』という書名を持つ装飾

    写本 2 点の存在が明記されており (GS : 40),このうちの 1 点は,おそらく

    JT/13 だと考えられる。この一事だけを見ても,サファヴィー朝君主が,『集

    史』に対する関心を失っていなかったことは明らかであろう。

    サフィー廟に寄進された JT/13 には装飾が施されており,宮廷に献呈する

    ために作られた可能性が高く,歴史家が参照し得たのかは分からない。しかし,

    ムハンマド・ユースフ・ワーリフ Muḣammad Yūsuf Wālih 著『至高の天国

    Khuld-i Barīn』(1667/8 年) では,ガザンの事績を書き記した代表的な作品と

    して『集史 Jāmi‘-i Rashīdī』が紹介されている (KHB : 450)。さらに,アフマ

    ド・ガッファーリー Aḣmad b. Muh

    ̇ammad Ghaffārī 著『画廊 Nigāristān』

    (1552 年) でも,「モンゴル史」の典拠の一つとして利用されるなど (TN : 84,

    244, 256),『集史』からの引用は,サファヴィー朝で編纂された普遍史書にお

    いても確認できる。また,1621 年には,イスファハーンにおいて,第 1 巻

    「モンゴル史」の写本 JT/26 が書写されている。

    サファヴィー朝では,第 1巻「モンゴル史」だけが受容されていたわけでは

    なかった。1664 年に書写された JT/59 は,第 1-2 巻合冊本で,「中国史」と

    「フランク史」の各章に挿絵が挿入されている装飾写本である�28

    。その後書き

    には,写本の所有者カリージュ・ハーン Qalīj Khān b. Sārū Khān が,サファ

    ヴィー朝第 7代君主アッバース 2世 (在位 1642-66) の下で,この写本を所有し

    ていることにより栄誉に与った旨が記されている (JT/59 : 406b)。挿絵付装飾

    写本が有力者のある種のステータス・シンボルとしての役割を果たしていたこ

    とをうかがわせる記述である。また,おそらく第 2巻からのものだと思われる

    引用が『ムフィード集成 Jāmi‘-i Mufīdī』(1679 年) において確認でき (JM, Vol.

    2 : 116),その受容の在り方には,他の王朝との大きな違いは見られない。

    �28 この写本の写字生フサイン Ḣusayn b. Shaykh Mīr ʻAlamの名前は,1671 年書写

    の JT/60,1829 年書写の JT/62,1840 年書写の JT/63,1851/2 年書写の JT/64

    という後世の写本でも確認できるため,第 1-2 巻合冊本の写本全 10点のうち,実

    に 4点の写本が,この写本から派生した写本だということになる。

    ― 85 ―

    330

  • 5 ムガル朝 (1526-1858)

    これまでに紹介してきた諸王朝では,テュルク・モンゴル諸部族誌の典拠と

    して,『集史』第 1 巻「モンゴル史」が重要視され,第 2 巻「世界史」も他の

    普遍史書と比べて決して事例は多くはないものの,参照されてきていたことが

    確認された。このような受容の在り方に変化が見られるのが,ティムール朝の

    後継者を自認していたムガル朝においてである。

    ムガル朝宮廷では,ティムール朝にならい『集史』を始めとする歴史書の装

    飾写本の作成が奨励されていた (Blair 1995 : 102)。第 3 代君主アクバル (在位

    1556-1605) の治世 1596 年に書写された JT/18 には,ムガル朝宮廷様式で描か

    れた挿絵 98点が挿入されている�29

    。また,14 世紀に書写され,ティムール朝

    宮廷を経てムガル朝宮廷に伝わったとされる JT/8 には,JT/18 の挿絵を描い

    た画家の手で,挿絵が上書きされている (Schmitz & Desai 2006 : 2a)�30

    。さらに,

    挿絵のない写本の中にも,アクバルの治世に使用されていたイラーヒー暦�31

    よる「イラーヒー暦 31 年アーバーン月 20 日」という年記が併記された,1586

    年書写の JT/17 という写本がある�32

    。以上の写本 3点は,いずれも第 1巻「モ

    ンゴル史」の写本で,これまでに紹介した王朝と同様に,テュルク・モンゴル

    系の王朝にとっての第 1巻「モンゴル史」の重要性が確認できる�33

    �29 JT/18 の挿絵については,Marek & Kníźková 1963 を参照。

    �30 2015 年に JT/8 の影印本 JTR が刊行された。ただし史料解題は不十分であり,

    この写本を扱った専論としては,Schmitz & Desai 2006 : 171a-179a が詳しい。

    �31 アクバルの治世の 1 年目を元年とし,春分を元日とする太陽暦 (真下 2013 : 83

    注 12)。

    �32 JT/18 の後書きにもイラーヒー暦 41 年フルダード月 5 日という年記が併記され

    ている。

    �33 ムガル朝初代君主バーブル (在位 1526-30) の従兄弟ハイダル・ミールザー

    ḢaydarMīrzāがカシミールで編纂した『ラシード史 Tārīkh-i Rashīdī』(1546 年)

    では,『集史 Majmas i c

    ‘ al-Tawārīkh』,『選史 Tārīkh-i Guzīda』,『勝利の書 Żafar-

    nāma』,『韻文史 Tārīkh-i Manżūm』,『四ウルス Ūlūs-i Arba‘』という 5点の歴史

    書を既存の「モンゴル史」として紹介し,これらを批判した上で,自ら新しい

    「モンゴル史」を叙述すると宣言している (TR : 235)。この事例からも,「モンゴ

    ― 86 ―

    329

  • ところで,JT/18 の写字生は自らが写した写本の題名を『チンギスの書

    Kitāb-i Jinkīz-nāma』だとしている (JT/18 : 304a)。他の王朝でも確認された,

    第 1巻「モンゴル史」に対する『チンギスの書』という呼称は,ムガル朝でも

    一般的だったと考えられる�34

    。アクバルの命令で編纂されたヒジュラ暦 1000

    年までを対象とするペルシア語普遍史書『千年史 Tārīkh-i Alfī』(1591/2 年)�35

    には,『集史』の評価に関する次のような記述がある。

    『チンギスの書 Chingīz-nāma』として名高い『集史 Jāmi‘ al-Tawārīkh』

    から明らかになることは,他の歴史書,特に『勝利の書 Żafar-nāma』の

    序文に書かれていることとは全く異なる。(TA, Vol. 5 : 3539)

    この『チンギスの書』という別称からも明らかなように,『千年史』で確認で

    きる『集史』からの引用は「モンゴル史」に関する箇所で (TA, Vol. 5 : 3539,

    3687 ; Vol. 6 : 3911)�36

    ,引用回数は多くないものの,『勝利の書』と並ぶ情報源と

    して位置付けられている。

    アクバルの治世には,これ以外のラシードの著作の受容も確認できる。アク

    バルの宮廷における各種文献のペルシア語翻訳事業の中心的な役割を担ったバ

    ダーウニー ʻAbd al-Qādir Badāʼunī は次のように伝えている。

    アブー・アルファドル ʻAllāmī Shaykh Abū al-Faḋl の同意の下に,『ラシー

    ド集成 Jāmi‘-i Rashīdī』を抄訳するようにとの命令が下された。その中か

    ら,封印性の避難所khatmī-panāhである御方[ムハンマド]に行きつき,

    その彼[ムハンマド]からアダムにまで至る,アッバース朝,ファーティ

    マ朝 Miṡrīya,ウマイヤ朝カリフの系図,また,その他の偉大なる預言者

    ル史」を叙述することの重要性がうかがえる。『ラシード史』では『集史』からの

    引用も確認できる (TR : 386, 425, 523, 645)。

    �34 アブー・アルファドル Abū al-Faḋl 著『アクバル会典 Ā’īn-i Akbarī』(1595/6

    年) の中で言及されている,人物画で装飾されている写本の中にも,『チンギスの

    書 Chingiz-nāma』という題名が確認できる (AA, Vol. 1 : 118)。

    �35 その際に,『千年史』の挿絵入り装飾写本が作成されたが,その大部分は散逸し,

    現在では僅か 26葉の存在が知られている (Blair 1995 : 103)。

    �36 これ以外に,『集史 Jāmi‘-i Rashīdī』という形の表題も確認できる (TA, Vol. 7 :

    4262)。

    ― 87 ―

    328

  • の系図を詳細に,アラビア語からペルシア語に翻訳し,献上し,栄えある

    宝物庫の中に入れた。(MT, Vol. 2 : 269)

    この記述は,『集史』のアラビア語版からペルシア語訳が作成されたことを意

    味する内容だと考えられてきたが (Elliot 1849 : 17-18),アダムからムハンマド,

    そして,ムハンマドからウマイヤ朝,アッバース朝,ファーティマ朝に至る系

    図であるというその内容は,『集史』とは一致しない。この系図の特徴は,ラ

    シード第 3の神学著作『スルターン対話 Mabāḣith-i Sult

    ̇ānīya』に収められた,

    円と線で図式化された,アダムに始まる人類の系図と一致することから (MS :

    506-529),『ラシード集成』というのは神学著作集のことだと考えられる。

    また,アクバルの治世に編纂された,アミーン・ラーズィー Amīn Aḣmad

    Rāzī 著『七気候帯 Haft Iqlīm』(1593/4 年) では,「モンゴル史」以外の内容に

    関して,『集史 Jāmi‘ al-Tawārīkh』からの引用が 2箇所見られ (HI, Vol. 2 : 570 ;

    Vol. 3 : 1499),これは,第 2 巻「世界史」からの引用だと考えられる。ムガル

    朝においても,第 1巻ほどではないが,第 2巻の内容も参照されていたのであ

    る。第 1巻に比べて第 2巻が重視されていないという傾向はそれ以前と変わら

    ないが,第 4代君主ジャハーンギール (在位 1605-27) の治世になると,第 2巻

    「世界史」の影響を強く受けたペルシア語普遍史書が登場する�37

    。それが,ハ

    イダル・ラーズィー Ḣaydar b. ʻAlī H

    ̇usaynī Rāzī著『ハイダルの歴史 Tārīkh-i

    Ḣaydarī』(1618/9 年) である

    �38

    。『ハイダルの歴史』の序文には,典拠について

    �37 序文で献呈対象者の名前は明記されていないが,目次に示された章構成の最後

    にジャハーンギールの記事が置かれている (THB : 6a)。

    �38 序文で作品名が明示されておらず,『ハイダルの歴史』という題名は通称である。

    そのため,写本目録の類ではこれ以外の書名で紹介される場合もある。筆者はこ

    れまでに 11 点の写本を確認している (Berlin, National Library, Ms. Or. Fol.

    17A-17B ; Berlin, National Library, Ms. Minutoli 234 ; Tehran, Majles Library, Ms.

    8839 ; Tehran, University Library,Ms. 6573 ; Tehran, University Library,Ms. 5842 ;

    London, British Library, Ms. Or. 4508 ; London, Royal Asiatic Society, Ms. Ellis

    Persian 10 ; Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 1330-31 ; St. Petersburg,

    National Library, Ms. PNS230 ; Patna, Khuda Bakhsh Library, Ms. HL1743 ;

    Tashkent, Al-Biruni Center for Oriental Manuscripts, Ms. 3368)。これらの写本に

    関する本格的な文献学的研究は未だ行われておらず,どの写本を使用すべきか筆

    ― 88 ―

    327

  • 次のような記述がある。

    この作品の記述の多くは,諸々の歴史書の言葉であって,私の言葉はとて

    も少ない。この作品は,幾つかの信頼に値する歴史書に基づいている。そ

    の中の 5作品は,ラシード・アッディーン Khwāja Rashīd Ṫabīb 著『集史

    Jāmi ‘ al-Tawārīkh』,『ハーフィズ・アブルーの歴史 Tārīkh-i Ḣāfiż-i

    Abrū』,ミール・ハーンド Mīr-khwānd 著『清浄園 Rawḋat al-S

    ̇afā』,

    ハーンダミール Khwāndamīr 著『歴史の伴侶 Ḣabīb al-Siyar』,ムハンマ

    ド・スィンディーMullāMuḣammad Sindī著『千年史Tārīkh-i Alfī』であ

    る。その他の歴史書の題名は次の通り。(後略)�39

    。(THB : 1b)

    ハイダル・ラーズィーは『集史』を筆頭に,5点の普遍史書を主要典拠とし

    て挙げ,それぞれの引用箇所と分量を明記している。エジプト,シリア,イ

    ンドの歴史の典拠は『千年史』でその分量は 6 万バイト�40

    ,トルキスタン,

    マー・ワラー・アンナフル,中国,フランク,ルームの歴史の典拠は『集

    史』でその分量は 4万バイト,預言者,アラブ人,ペルシア人の歴史の典拠は

    『清浄園』(3 万バイト) および『伝記の伴侶』(2 万バイト) だとされている

    (THB : 1b)�41

    。例えば,『集史』が典拠とされた「中国史」には次のような記述

    がある。

    ここに至るまで,博識なハージャ,医師ラシードが著し,『集史 Jāmi‘-i

    Rashīdī』とも呼ばれる,『ガザンの祝福された歴史 Tārīkh-i Mubārak-i

    Ghāzānī』における中国の諸王の歴史が本書の書き手の目に留まった。こ

    れ以外には,彼らのことについては,一つの事例を除き,いかなる場所で

    も確認できない。(THP : 9a)

    者も明確な意見を持たない。とりあえず本稿では,序文については唯一序文が保

    存されているベルリン写本 THBを,本文についてはパリ写本 THPを参照する。

    �39 これに続いて,25点の歴史書の名前が列挙されている。

    �40 先行研究では,文章の分量を示すであろう「バイト bayt」という単位は,「行」

    に相当するものだと解釈されている (Elliot 1849 : 17)。

    �41 5点の普遍史書のうち,『ハーフィズ・アブルーの歴史』については,典拠とさ

    れた箇所は明示されておらず,3万バイトという分量のみが記されている。

    ― 89 ―

    326

  • ここでは,『ガザンの祝福された歴史』という,第 1 巻「モンゴル史」の正式

    名称が用いられているが,ここで参照されているのは明らかに第 2 巻「世界

    史」に収められている「中国史」である。また,ルームの歴史に組み込まれた

    「ユダヤ史」に関係する記述においても,『集史』からの引用が確認できる (例

    えば,THP : 230b)。

    これまでに確認してきた事例の中では,第 2巻「世界史」が利用されること

    はあっても,それは,伝統的な普遍史にかかわる項目を対象とする記事に関し

    てであり,「中国史」や「ユダヤ史」にかかわる項目を対象とする記事に関し

    てではなかった。これについては,『ハイダルの歴史』以降にも,同様の事例

    が確認できるようになる。例えば,第 5 代君主シャー・ジャハーン (在位

    1628-58) の治世に編纂された百科事典,サーディク・イスファハーニー Ṡādiq

    Iṡfahānī 著『誠実な目撃者 Shāhid-i S

    ̇ādiq』(1649/50 年) では,「マーチーン」

    という地名を説明する際に,『集史 Jāmi‘-i Rashīdī』からの引用が見られる

    (SHS : 175)。また,編纂地であるインドの歴史に対する関心も強かったと考え

    られ,小倉智史によれば,1614 年頃にカシミールで編纂されたカシミール史

    『王の庭園 Bahāristān-i Shāhī』の中に,第 2巻「世界史」の「インド史」から

    の引用が見られるということである (Ogura 2010-11 : 47-52)�42

    。このように,ム

    ガル朝では,第 1巻「モンゴル史」が重要視されていたことに加えて,これま

    で参照されることのなかった第 2巻「世界史」における中国,ヨーロッパ,イ

    ンドまでをも対象とする記述が利用され始めた。

    Ⅴ 東洋学者による『集史』の受容

    前近代ペルシア語文化圏では,『集史』は主に第 1 巻「モンゴル史」がテュ

    ルク・モンゴル諸部族誌の主要情報源として参照されていた。一方,第 2 巻

    「世界史」は第 1 巻に比べて参照される頻度は少なく,ムガル朝期に入り,よ

    �42 ただし,『集史』の書名が挙げられているわけではなく,ハーフィズ・アブルー

    著『改訂版集史』などからの間接的な引用の可能性もある。

    ― 90 ―

    325

  • うやく全体の構成を踏襲する歴史家が確認できるようになる。18 世紀以前に

    中国,ヨーロッパ,インドまでをも扱う構成面に触発された歴史家はほとんど

    存在していないのである。その状況が一変したのが 19 世紀であった。19 世紀

    というのは,現存『集史』写本の数が最も多く,かつ全 22点の写本のうち,

    第 2 巻「世界史」の写本が 12点,第 1-2 巻合冊本の写本が 4点とその大部分

    を占めるようになる時代である (表 1)。現存写本数の多さに加え,それに占め

    る第 2巻の割合の高さは,それ以前とは大きく異なっている。最後に,『集史』

    の受容に大きな変化をもたらしたこの時代の西欧やロシアの東洋学者の役割に

    ついて検討したい。

    1 18 世紀以前の東洋学者にとっての『集史』

    1854 年に,イギリス王立アジア協会に所蔵される,アラビア語・ペルシア

    語による歴史書の写本目録を編纂したモーリーW. H. Morley は,『集史』とい

    う作品を「我々が持っている,東洋の歴史書の中で最も価値ある作品の一つ」

    と高く評価した上で (Morley 1854 : 2),この時代における『集史』の受容状況

    について,次のように記している。

    1838 年以前には,第 1 巻「ガザンの歴史」が,唯一現存しているラシー

    ド・アッディーンの著作の断片だとされてきた。というのも,時折,彼の

    歴史書が東方の歴史家によって,「ガザンの歴史」に含まれていない事実

    の典拠として引用されることがあっても,それ以外の部分の写本の存在は

    知られてこなかったからである。(Morley 1854 : 3)

    ロシアの東洋学者バルトリドW. Barthold もモーリーの説に賛同し,19 世紀

    前半には,第 2 巻「世界史」の写本は散逸したものだと考えていた (Barthold

    1992 : 47)。

    このように 19 世紀前半に至るまでは,西欧やロシアの東洋学者は,『集

    史』第 2 巻「世界史」に史料的価値を見出していないばかりでなく,その存

    在すら確認していなかったのである。例えば,1689 年にペルシア語史料に

    記録された「中国史」の翻刻が刊行されているが (Mullero 1689),それは,

    『集史』を主要典拠として編纂された『バナーカティー史』のテクストであっ

    ― 91 ―

    324

  • た�43

    。ペルシア語文化圏では,『集史』第 2 巻「世界史」の内容が,『バナーカ

    ティー史』によって,間接的に伝えられる事例も見られたが,それは,西欧に

    おいても同様だったのである。

    一方,第 1巻「モンゴル史」はこの時代から既に知られるようになっていた。

    その契機だとされるのが,プチ・ドラクロワ F. Pétis de la Croix 著『大チンギ

    ス・ハーンの歴史 Histoire du Grand Genghizcan』(1710 年) の刊行である

    (Kamola 2015 : 555-556)。これは,杉山正明が「チンギス・カンに関する最初の

    近代的研究」(杉山 2004 : 7) と評価する研究で,1722 年には,ロンドンで英語

    版が刊行されている。プチ・ドラクロワは史料解題で,『集史』を「ペルシア

    語で書かれた最初の古代モンゴル史」と評価し,前述のオスマン朝で編纂され

    た文献目録『疑問の氷解』に依拠しながら詳しい説明を付している�44

    。その中

    で,在イスタンブル・フランス大使ドギユラーグ de Guilleragues が『集史』

    の写本をフランス国王に送り,それが,プチ・ドラクロワの息子によりフラン

    ス語に翻訳されたことを伝えている (Petis de la Croix 1722 : 423-425)。今日パリ

    国立図書館には,ナポレオン 1世 (在位 1804-14) の紋章の刻まれた装丁が施さ

    れ (白岩 2000 : 10-11),旧分類の書架番号がふられている『集史』の写本 JT/6

    が所蔵されているが,これが,この時にフランス国王に送られた写本である可

    能性が高い。一方,この時点では,『集史』の世界史としての側面に関する言

    及は確認できない。

    2 19 世紀の東洋学者にとっての『集史』

    『集史』が真の意味で東洋学者の注目を集めるようになったのは,19 世紀前

    半のことであった。1834 年から 1835 年にかけて,ドーソンA. C.M. dʼOhsson

    �43 ただし,その著者は,誤ってバナーカティーではなく,『歴史の秩序』の著者バ

    イダーウィー Bayḋāwī だとされている。

    �44 プチ・ドラクロワの史料解題には,『清浄園』の著者ミール・ハーンドなど

    (Petis de la Croix 1722 : 429-430),ラシード以外の歴史家に関する説明もあり,

    当時の西欧におけるペルシア語文化圏の歴史書の受容の在り方を知る上で重要な

    文献の一つである。

    ― 92 ―

    323

  • が 4 巻本で著した『モンゴル帝国史 Histoire des Mongols』では,パリ国立図

    書館に所蔵される 1434 年に書写された第 1巻「モンゴル史」の写本 JT/10 が

    利用されている (ドーソン 1968 : 28-29)。1836 年には,キャトルメール É.

    Quatremère が同じ JT/10 を底本として,第 1 巻「モンゴル史」の「フラグ・

    ハーン紀」の校訂・フランス語訳 (Quatremère 1968) を刊行している�45

    。この

    ように,パリ国立図書館に所蔵される写本が,東洋学者による『集史』の受容

    に大きな役割を果たしていた�46

    。19 世紀以降に作られた第 1 巻「モンゴル史」

    の写本は 8点現存しているが (表 1),その中には,Quatremère 1968 から書写

    された 2点の写本 (JT/36, JT/37) が含まれている。これ以降は,ペルシア語

    文化圏の知識人たちが,逆に,東洋学者の成果を吸収していく事例も確認でき

    るようになり,写本作成の性格そのものが変わっていった�47

    このようにフランスを中心として,19 世紀以前より第 1 巻「モンゴル史」

    研究は進んでいたが,一方,19 世紀イギリスにおいて,第 2 巻「世界史」に

    対する関心が急速に高まっていく。1838 年以前には第 2 巻「世界史」写本の

    存在は知られていなかったとするモーリーは,この年,第 2巻「世界史」のア

    ラビア語写本 JT/39a を発見したという。そして,JT/39a を紹介するに際し

    て,第 2巻「世界史」が含まれる,これ以外の 5点の写本を,内 4点について

    はその来歴を付した形で紹介している (JT/39b,JT/60,ベンガル・アジア協会所

    蔵写本,JT/57,ラクナウ王立図書館所蔵写本)。1671 年に書写された JT/60 は東

    インド会社図書室でファルコナー Falconerが発見した写本,現在所蔵先不明

    �45 キャトルメールが紹介する写本の特徴は JT/10 に一致する (Quatremère 1968 :

    cx-cxi)。

    �46 19 世紀から 1950 年代に至る『集史』研究の歴史については,白岩 1995 : 183-

    185 を参照。

    �47 イランにおける東洋学者の成果の受容については,守川 2010 を参照。一方で,

    『ナースィル正史 Tārīkh-i Muntażam-i Nās

    ̇irī』(1883 年) など従来の形でテュル

    ク・モンゴル諸部族誌の典拠として『集史』を引用する普遍史書も残っていた

    (TMN, Vol. 3 : 1330, 1336)。この『ナースィル正史』の著者イゥティマード・

    アッサルタナ I ʻtimād al-Salṫana (1896 没) は,1883 年に,途中で文章が途切れ

    ていたマシュハド写本 JT/24 への加筆を指示している。

    ― 93 ―

    322

  • の 1686/7 年に書写された写本はベンガル・アジア協会でマルコム John

    Malcolmが発見した写本,1433 年以前に書写された JT/57 は 1818 年にリッ

    チ Rich がバグダードで購入した写本,現在所蔵先不明の最後の写本はラクナ

    ウ所蔵,とそのほとんどがインドに由来する写本であった (Morley 1854 : 5-7)。

    また,モーリーが発見した JT/39a,および,この写本から切り離された

    JT/39b も 19 世紀の時点でインドに伝わっていた写本だと考えられている

    (Blair 1995 : 34)。

    1849 年に『『イスラーム時代のインドの歴史家たち』への人名索引』を著し

    たエリオット H.M. Elliotも,ここ 10 年間の写本の発見による『集史』への関

    心の高まりに言及し (Elliot 1849 : 10),その紹介に多くの紙幅を割いている

    (Elliot 1849 : 1-23)。彼の関心は第 2 巻「世界史」の中でも「インド史」の記述

    にあったと考えられる。まさにこの時期に,第 2巻「世界史」の一部を抜粋し

    た写本が次々に作られている。アラビア語写本 JT/39a の「インド史」の章を

    写した JT/45,また,ペルシア語に翻訳した JT/44,JT/39a の「中国史」の

    章を写した JT/50 が作成されている。JT/46,JT/47,JT/48,JT/49,JT/52,

    JT/53,JT/54,JT/55 はいずれもペルシア語写本で,イギリスの東洋学者の

    要請により作成されたものだと考えられる。例えば,1851 年に書写された

    JT/49 はエリオットの要請で作成されている。また,JT/53 はモーリー自身が

    書写した写本で,東洋学者自身が写本の書写を行う事例も見られるようになる。

    第 2巻「世界史」への関心は,イギリス以外の国でも高まっていった。現在

    パリに所蔵される JT/51 (19 世紀後半書写) は,おそらくフランス人の要請で,

    イスタンブルで JT/42 から書写されたものである (JT/51 : 1a)。また,JT/64

    (1851/2 年書写) は,ロシア人ドルゴルーキー Dolgorukii の要請で,テヘラン

    のガージャール朝 (1796-1925) の宮廷図書館に所蔵されていた装飾写本 JT/59

    から書写された写本である (JT/64 : 607a)。このように 19 世紀になると,東洋

    学者による関心の高まりとともに,彼らの強い関与の下で写本が作成されるよ

    うになったのである。ペルシア語文化圏の伝統的な歴史叙述では,特異な存在

    であり続けていた『集史』第 2巻「世界史」は,東洋学者によって発見された

    ことにより,「史上初の世界史」という評価を得るに至ったのである。

    ― 94 ―

    321

  • Ⅵ お わ り に

    以上,14 世紀から 19 世紀に至る『集史』の伝承と受容の歴史を考察するこ

    とにより,ペルシア語文化圏における,歴史に関する知識の受容の在り方を明

    らかにしてきた。既存の権威ある目録に掲載された写本情報に依拠してきた,

    これまでのペルシア語歴史叙述研究に対し,本稿では筆者自身の写本調査によ

    る情報を提示した。その結果,『集史』は編纂された後,根強く読者を獲得し

    続けてきたことが明らかになった。しかし,一口に『集史』と言っても,その

    受容の在り方は時代によって,またその内容によって大きく異なっていた。

    まず注意すべきは,第 1巻「モンゴル史」と第 2巻「世界史」が等しく同じ

    ように受容されていたわけではなかった,という点である。19 世紀前半まで

    のペルシア語文化圏において,読者を獲得し,情報源として高い価値が見出さ

    れていたのは,第 1巻「モンゴル史」であった。それは,テュルク・モンゴル

    系の諸王朝が興亡盛衰を繰り返したペルシア語文化圏において,アダムに始ま

    る人類史の中に位置付けられたテュルク・モンゴル諸部族誌を叙述する上で,

    第 1 巻「モンゴル史」が権威を保ち続けていたからであった。その性格から,

    第 1巻「モンゴル史」は『チンギスの書』という別名で知られるようになって

    いく。一方,第 2巻「世界史」に関しては,頻度は多くないものの引用は確認

    できる。しかし,現代の歴史家が「史上初の世界史」と評価し関心を寄せる

    「中国史」,「フランク史」,「インド史」への言及は少ない。この部分への強い

    関心が確認できるようになるのは,17 世紀のムガル朝においてである。また,

    巨大な挿絵入りの装飾写本が多く作られていることから,参照用ではなく,当

    時の為政者の一種のステータス・シンボルとしての役割も果たしていたと考え

    られる。『集史』に「史上初の世界史」としての評価が加わったのは,19 世紀

    になってからの話である。モーリーを嚆矢とする東洋学者は,「中国史」,「フ

    ランク史」,「インド史」までを含む「特異な」ペルシア語普遍史書に注目し,

    その紹介と写本の作成に従事した。そして,これまでそのような要素を顧みな

    かったペルシア語文化圏の歴史家も東洋学者による評価を受け入れるに至った。

    ― 95 ―

    320

  • かくして,「史上初の世界史」『集史』が誕生するに至ったのである。したがっ

    て,筆者の結論は,「世界史」としての『集史』は 19 世紀の東洋学者たちによ

    り作り出されたのは確かであるが,一方で,『集史』(特に第 1 巻「モンゴル史」)

    は,ペルシア語歴史叙述に根強く大きな影響力を持ち続けてきた,という先行

    研究のどちらの立場にも与しないものとなる。

    これまでのペルシア語文化圏における写本の受容史研究では,残存する写本

    の総数を提示するだけでその作品の価値が評価されてきた (例えば,Melville

    2001 : 73)。しかし,西欧やロシアの東洋学者の影響を強く受ける 19 世紀以降

    とそれ以前では事情が大きく異なるし,それ以前でも時代や地域によって受容

    の意味合いは異なってくる。歴史書を評価する際には,それが当時の歴史家に

    とっての評価なのか,それとも,現代の歴史家にとっての評価なのかは区別し

    て考える必要があるだろう。伝統的な『集史』に対する評価は,「史上初の世

    界史」ではなく,「チンギスの書」,すなわち「モンゴル史」だったのである。

    本稿で紹介した写本一つ一つにはそれぞれの歴史があり,写本に残された蔵

    書印やメモ・落書き,および紙や装丁,また図書館の蔵書目録や遺産目録など

    から,『集史』の受容史について明らかになることはまだまだあるだろう。し

    かし,多数の写本が残り,様々な場面で引用される『集史』に関しては,それ

    を一人の手で行うこと難しく,膨大な時間を要する作業となるだろう (本稿で

    紹介した写本の中では,これまで本格的な研究のない,第 1巻「モンゴル史」のチャガ

    タイ語訳 JT/12やサファヴィー朝期の挿絵入り装飾写本 JT/13 が特に分析する価値の

    ある写本だと考えている)。各写本の分析については今後の課題としたい。

    謝辞

    本稿は,日本学術振興会科学研究費補助金・特別研究員奨励費 (課題番号

    12J10596),日本学術振興会科学研究費補助金・研究活動スタート支援 (課題番

    号 26884016) による研究成果の一部である。

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  • ― 97 ―

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    表 4 現存『集史』写本番号対応表

    第一巻﹁モンゴル史﹂

    ( 1 ) Tehran, Majles Library, Ms. 2294 (14 世紀)( 2 ) Istanbul, Topkapı Palace Library, Ms. Revan Köşkü 1518 (1317 年)( 3 ) Istanbul, Süleymaniye Library, Ms. Ayasofya 3034 (1383 年)( 4 ) Tashkent, Al-Biruni Center for Oriental Manuscripts, Ms. 1620 (14 世紀)( 5 ) London, British Library, Ms. Add. 16688 (14 世紀、1524 年に修復)( 6 ) Paris, National Library, Ms. Ancien fonds persan 68 (14 世紀)( 7 ) Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 1561 (14 世紀後半)( 8 ) Rampur, Raza Library, Ms. F. 1820 (14 世紀、1475-90 年頃・1590-95 年

    頃に修正・加筆)( 9 ) Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 1113 (15 世紀前半)(10) Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 209 (1434 年)(11) Vienna, Austrian National Library, Ms.Mxt. 326 (15 世紀)(12) Tashkent, Al-Biruni Center for Oriental Manuscripts, Ms. 2 (1526 年)(13) St. Petersburg, National Library, Ms. Dorn 289 (1529 年)(14) Oxford, Bodleian Library, Ms. Elliot 377/2 (1537 年)(15) Munich, Bavarian State Library, Ms. Cod. Pers. 207/2 (1546 年)(16) St. Petersburg, Institute of Oriental Manuscripts, MS. D66 (1576 年)(17) London, British Library, Ms. Or. 2927 (1586 年)(18) Tehran, Golestān Palace Library, Ms. 2254 (1596 年)(19) Kolkata, The Asiatic Society, Ms. PSC4 (15-16 世紀)(20) London, British Library, Ms. I. O. Islamic 1784 (16 世紀?)(21) Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 1643 (16 世紀)(22) Istanbul, Süleymaniye Library, Ms. H

    ̇ekīmoğlu ʻAlī Paşa 703 (16 世紀)

    (23) Tashkent, Al-Biruni Center for Oriental Manuscripts, Ms. 1643 (16 世紀)(24) Mashhad, Āstān-e Qods Library, Ms. 4101 (16 世紀、1883 年に修復)(25) Munich, Bavarian State Library, Ms. Cod. Pers. 207/1 (1606 年)(26) London, British Library, Ms. Or. 2885 (1621 年)(27) Karachi, Anjuman Taraqqi-e Urdu Pakistan, Ms. 19F. Q. 4 (1660 年)(28) St. Petersburg, Institute of Oriental Manuscripts, Ms. C376 (17 世紀)(29) Tehran, National Library, Ms. F. 1569 (17 世紀)(30) Tonk, Arabic and Persian Research Institute, Ms. Udaipūr 2588 (1885 年)(31) Tehran, Dāʼerat al-Maʻāref-e Bozorg-e Eslāmī Library, Ms. 1260 (1890 年)(32) Rampur, Raza Library, Ms. F. 1819 (19 世紀?)(33) Qom, Marʻashī Najafī Library, Ms. 3586 (19 世紀?)(34) Tehran, Majles Library, Ms. 1108 (19 世紀?)(35) Kolkata, The Asiatic Society, Ms. PSC5 (19-20 世紀)(36) Tehran, University Library, Ms. 4683 (19 世紀)(37) Tehran, National Library, Ms. 5-14677 (1933 年)(38) Tehran, Golestān Palace Library, Ms. 2234 (不明)

  • 参考文献

    AA : Abū al-Faḋl ʻAllāmī, Ā’īn-i Akbarī, ed. by A. H. Blochmann, 2 vols., Calcutta,

    1872-77.

    AI : Anon., Anonym Iskandar, London, British Library, Ms. Or. 1566.

    BMA : Album Prefaces and Other Documents on the History of Calligraphers and

    Painters, ed. & tr. by Wh. M. Thackston, Leiden & Boston, 20142 (2001).

    DK : Muḣammad b. Hindū-shāh al-Nakhjiwānī, Dastūr al-Kātib fī Ta‘yīn al-Marātib, ed.

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    表 4 現存『集史』写本番号対応表 (続き)

    第二巻﹁世界史﹂

    (39a) London, Khalīlī Collection, Ms. 727 (1314/5 年)(39b) Edinburgh, Edinburgh University, Ms. Or. 20 (1314/5 年)(40) Istanbul, Topkapı Palace Library, Ms. Hazine 1653 (1314 年)(41) Istanbul, Topkapı Palace Library, Ms. Hazine 1654 (1317 年)(42) Istanbul, Topkapı Palace Library, Ms. Ahmet III 2935 (15 世紀前半)(43) Qom, Masjed-e Aʻz

    ̇am Library, Ms. 3569 (17-18 世紀)

    (44) Manchester, John Rylands Library, Ms. 364b (1800 年頃)(45) London, Royal Asiatic Society, Ms. Arabic 27 (1823 年)(46) London, British Library, Ms. Add. 18878 (1828 年)(47) London, British Library, Ms. Or. 1684 (1850 年頃)(48) London, British Library, Ms. Or. 1958 (1850 年頃)(49) London, British Library, Ms. Or. 2007 (1851 年)(50) Oxford, Bodleian Library, Ms. Arab b. 1 (19 世紀)(51) Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 1364-1365 (19 世紀後半)(52) London, British Library.Ms. Or. 1786 (19 世紀後半)(53) London, British Library, Ms. I. O. Islamic 3628 (19 世紀)(54) London, British Library, Ms. Or. 2062/4 (19 世紀)(55) Cambridge, Cambridge University, Ms. Or. 1577(11) (19 世紀)

    (66) Paris, National Library, Ms. Suppl. persan 2004 (1426/7 年)(67) St. Petersburg, Institute of Oriental Manuscripts, Ms. C374 (16 世紀)(68) Rampur, Raza Library, Ms. F. 1821 (1631 年)(69) Tehran, University Library, Ms. Adabīyāt 76b (17 世紀)(70) Tashkent, Al-Biruni Center for Oriental Manuscripts, Ms. 1 (18 世紀)

    第一・二巻合冊本

    (56) St. Petersburg, National Library, Ms. PNS46 (1407 年)(57) London, British Library, Ms. Add. 7628 (1433 年以前)(58) Tehran, University Library, Ms. 8791 (15 世紀)(59) Tehran, Golestān Palace Library, Ms. 2256 (1664 年)(60) London, British Library, Ms. I. O. Islamic 3524 (1671 年)(61) Munich, Bavarian State Library, Ms. Cod. Pers. 208/2 (16-17 世紀?)(62) Tehran, Majles Library, Ms. 8734 (1829 年)(63) St. Petersburg, National Library, Ms. Khan. 62 (1840 年)(64) St. Petersburg, National Library, Ms. PNS47 (1851/2 年)(65) Tehran, National Library, Ms. F. 1606 (19 世紀)

    *大塚 2016 : 58-61 を基に作成 (ただし現在所蔵先不明の写本は数えていない)。

    *(66)〜(70) はハーフィズ・アブルー著『改訂版集史』である可能性が疑われる写本。

  • by M. Ṫāwūsī, Tehran, 1390kh.

    DW : Khwāndamīr, Dastūr al-Wuzarā’, ed. by S. Nafīsī, Tehran, 2535sh.

    GS : Ganjīna-yi Shaykh Ṡafī, ed. by Dawlat-shāhī, Tabriz, 1348kh.

    HI : Am�