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戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告 由利子 〔抄 録〕 1950 年代~1960 年代にかけて日本政府は WHO に精神衛生全般の専門顧問を招 聘した。戦前からほぼ手つかずであった精神衛生施策、精神医療に対する助言、指導 を請うためであった。戦前から家族依存、民間依存であった精神障害者対策は、戦後 に新しい精神衛生施策や精神医療の導入をめざすが、結局日本特有の民間依存の大規 模な隔離収容施設の建設を食い止めることができず、現在なお精神病床の削減を果た せないままである。戦後日本の精神医療を振り返るとき、最後の WHO 顧問となっ たデビッド・クラーク博士の勧告(1968 年のクラーク勧告)をどう取り上げるかが 一つの基軸となる。熱心で緻密な調査報告は、ことに当時の精神病院の状況を正確に 分析している。それらはその後の施策に反映させるべきであった。しかし当時の厚生 省が自ら招聘したにもかかわらず、その勧告を全く無視したといわれている。本稿で 4 度にわたる WHO 報告に関連させて、戦後日本の精神医療を方向づけた 1950 年代から 1960 年代の精神衛生施策、精神科治療、学会等専門職団体の動きをふりか えり、日本の精神医療に今なお横たわる課題の歴史的検証をする。 キーワード:クラーク勧告、戦後精神医療、地域精神衛生、公衆衛生施策 1WHO 精神衛生状況調査前後の精神医療状況と精神障害者対策 1)厚生と優生保護、公衆衛生施策につながる精神障害者の隔離収容 精神病者監護法と精神病院法が並立していた戦前の昭和 10 年代(1930 代)の統計 1によ ると、精神障害者数は 90,000 人前後を数え、全病院数 4,858 施設のうち精神病院は 167 設、精神病床数は約 24,000 床であった。これが戦時中精神病院数は激減し、1945 年の統計 では精神病院数 32 施設、精神病床数約 4,000 床を数えるのみとなっている。いうまでもなく 戦後の医療供給体制については、一般病院や結核病院も同様の傾向を示している。しかしなが 佛教大学社会福祉学部論集 16 号(2020 3 月) 39

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  • 論 文

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告

    篠 原 由利子

    〔抄 録〕

    1950年代~1960年代にかけて日本政府は WHO に精神衛生全般の専門顧問を招

    聘した。戦前からほぼ手つかずであった精神衛生施策、精神医療に対する助言、指導

    を請うためであった。戦前から家族依存、民間依存であった精神障害者対策は、戦後

    に新しい精神衛生施策や精神医療の導入をめざすが、結局日本特有の民間依存の大規

    模な隔離収容施設の建設を食い止めることができず、現在なお精神病床の削減を果た

    せないままである。戦後日本の精神医療を振り返るとき、最後の WHO 顧問となっ

    たデビッド・クラーク博士の勧告(1968年のクラーク勧告)をどう取り上げるかが

    一つの基軸となる。熱心で緻密な調査報告は、ことに当時の精神病院の状況を正確に

    分析している。それらはその後の施策に反映させるべきであった。しかし当時の厚生

    省が自ら招聘したにもかかわらず、その勧告を全く無視したといわれている。本稿で

    は 4度にわたる WHO 報告に関連させて、戦後日本の精神医療を方向づけた 1950

    年代から 1960年代の精神衛生施策、精神科治療、学会等専門職団体の動きをふりか

    えり、日本の精神医療に今なお横たわる課題の歴史的検証をする。

    キーワード:クラーク勧告、戦後精神医療、地域精神衛生、公衆衛生施策

    1.WHO 精神衛生状況調査前後の精神医療状況と精神障害者対策

    (1)厚生と優生保護、公衆衛生施策につながる精神障害者の隔離収容

    精神病者監護法と精神病院法が並立していた戦前の昭和 10年代(1930代)の統計(1)によ

    ると、精神障害者数は 90,000人前後を数え、全病院数 4,858施設のうち精神病院は 167施

    設、精神病床数は約 24,000床であった。これが戦時中精神病院数は激減し、1945年の統計

    では精神病院数 32施設、精神病床数約 4,000床を数えるのみとなっている。いうまでもなく

    戦後の医療供給体制については、一般病院や結核病院も同様の傾向を示している。しかしなが

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

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  • ら精神病院の状況はことのほか厳しく、入院患者の多くが栄養失調による餓死や赤痢等々で命

    を失うという状況であった。特に戦時中の精神医療の状況については岡田の近著(2)に詳しく

    報告されている。

    戦後の占領政策における公衆衛生対策の最優先課題は伝染病を食い止めることであった。

    GHQ 第 1号「公衆衛生に関する覚書」(3)には、疾病蔓延状況や医療機関の再開とともに医療

    (公衆衛生)関係従事者の状況等、長引いた戦時下における公衆衛生の疲弊状況の把握を第一

    に、伝染病防疫対策の実施、上下水道・汚物処理施設の復旧等々が示されている。国内の発疹

    チフス等の感染者の問題以上に、深刻であったのが、外地からの復員兵や引揚者などからもた

    らされるコレラなどの伝染病であった(4)。

    こうして喫緊の伝染病対策は、その後の公衆衛生施策全般を治安的・社会防衛的な性格に向

    かわせる基盤となっていった。戦時下から敗戦によって疲弊し、ぎりぎりの生活にあえいでい

    た一般市民にとってみれば、伝染病やハンセン病などは生活や命を脅かす危険な存在であり、

    被隔離者のみならず家族までもがまるで犯罪者のようにみなされ、追放の構造を作り出してい

    った。法律によって隔離される患者の悲惨な状況、患者家族の生活破綻に対する恐怖がこのよ

    うな伝染病患者・精神病者個人に対する憎悪へと転嫁されていくことになったと伝染病対策と

    の関連で指摘する論調もある(5)。このような予防対策が『多数の安全のため』の保安処分的

    発想を容認することとなった。それ以前から小坂が指摘しているように(6)日本の医療の供給

    システムは個人・法人などの私的医療機関に依存しつつ、支払いシステムを国家の統制下に置

    くという〈日本型医療システム〉の問題があることも検討されなければならない。

    日本における優生思想(優生保護法 1940)は同盟関係にあったドイツナチス政権の民族優

    生法(1934)に影響されたことはいうまでもない。1938年日本に厚生省が設置されるが、

    「厚生」の示す思想性については戦時下の国策である健康増進(総力戦を戦える国民としての

    身体や価値観・文化の矯正のための)事業や運動が各地に浸透していった。戦前戦中の「厚

    生」に組みこまれたこの心身の健康観は「優生思想」と直結していく。

    時代の価値観は、精神神経学会のテーマにも色濃く映されている。1940年大阪市で開催さ

    れた第 39回精神神経学会には「精神病質の遺伝的生物学的考察」(吉益脩夫)という報告が

    なされている。その後記録のある(7)1943年までに、それぞれ特集として組まれたテーマは、

    「国民優生法」(青木延春/1941年熊本市)、「民族と精神薄弱」(奥村二吉/1942年東京都)、

    「精神薄弱の遺伝」(児玉昌・岸本鎌一/1942年東京都)と続く。第 42回総会(1943年名古

    屋市)においては、「民族と精神病」というテーマのもと、北方、南方民族、満州等における

    精神病について、村上仁、三浦百重など 4名の研究者が報告している。このような国家体制

    と医学アカデミズムが結び付き、「遺伝」「優生」という選別概念の結びつきは当然精神障害者

    に向けられたと考えられる。この二つのキーワードは治療医学の確立していない時代にあっ

    て、無知ゆえの恐怖や差別、宿命論の対象となっていった。

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

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  • 戦後 1948年に再び制定された国民優生法の対象には、ドイツで民族優生法がそうであった

    ように、遺伝的精神病として精神分裂病や精神遅滞、精神病質等が含まれていた。このように

    戦後の占領軍による伝染病対策と重なり合いながら精神障害者は隔離収容をされ、さらに優生

    思想の対象という遺伝性のスティグマさえも負う不幸の歴史が塗り重ねられていくのである。

    精神病者にたいする排除・忌避は増幅の一途をたどり、家族や親族がどれだけの苦境に立たさ

    れ、悲惨な情況に追い込まれたかは様々な記録が物語っている。

    (2)精神衛生法制定とその性格

    1950年に精神衛生法が制定されるまでの過程には様々な動きがある。それまでに公的病院

    の院長である菅修や林暲らが地域精神衛生や社会精神医学などを導入した草稿を練っていた

    が、たたき台となったのは前年の 1949年に組織された日本精神病院協会の金子凖二がまとめ

    た、いわゆる金子私案であった。精神衛生法は、敗戦を契機に崩壊し、機能しなくなったはず

    の家族制度になお依存し、保護義務を課しながら医療と保護の名目で、都道府県知事権限で公

    的監置をする隔離強制収容(措置入院・同意入院)のための法的規定であった。民主主義の確

    立、家制度の瓦解、基本的人権の重視等に焦点が向けられる戦後日本の急激な変化も、精神障

    害者施策に関しては無関係であり、社会防衛的な面のみが強調され、その後長きにわたり、精

    神障害者の姿は近隣地域からも一般社会からも隠蔽されていくことになるのである。

    岡田は(8)この精神衛生法の性格を「警察行政を脱して精神疾患患者の医療保護入院を前面

    におしだし、その医療における国および都道府県の責任を明記し、更に予防的方向までも打ち

    出したものではあったが、国及び都道府県はその責任を充分に果たさず、予防的方向にみるべ

    きものはなく、また精神疾患患者の医療は収容に終わっていた。」ことを批判し、まとめとし

    て精神衛生法は「公安的精神障害者収容法」と断言している。

    1)戦後も続いた精神病者監護法と精神病院法の両立

    精神衛生法が制定されるまでの戦後の数年間はまだ精神病者監護法および精神病院法が並立

    していた。表 1はそれぞれ法律の対象者の内訳を示したものである。1950年に精神衛生法が

    制定され、精神病院法、精神病者監護法が廃止になったが、それ以前は 7,000件を超える施設

    外(私宅)監置がみられた。精神衛生法が制定される以前の精神障害者の患者数を同じく表 1

    に転記したが、私宅監置廃止の猶予は 1年間とされていたため、すべての被監置者が病院に

    収容されたわけではないようである。

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

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  • 1955年には公立病院(単科精神病院・総合病院精神科合わせての精神科病床)の占める割

    合は 27%近くであった。こののち 1960年には 20.5%に減少し、これが 1970年には 15%

    に減少していく。

    (3)精神衛生法制定後の精神医療の状況

    1949年の日本精神病院協会設立に奔走した金子準二は協会の記念誌の序(10)において、終戦

    直後の精神医療をめぐる様子を活写している。「戦災で焼失した私立病院もあった、また維持

    困難で廃業した精神病院も出た。戦争の物資不足などから、日本の精神病床数は戦前よりは甚

    だしく減少した。そこへ戦後ヒロポンの覚せい剤中毒の精神病者は頻発する、社会事情の急変

    からの精神病者も続発する、しかも住宅欠乏から入院を要した事情が重なって、精神病床は甚

    だしく不足した。」また当時おもに私宅監置の患者を収容した各地の公的病院の記録(11)(12)(13)

    によると、県内の私宅監置患者を引き受けるにあたり「丸坊主の女性、虱、汚れた衣服、枯れ

    木のような身体、皮膚疾患が多くみられ、長年にわたる座敷牢や監護小屋で衰弱や結核、骨折

    が多い」と記録されている。戦地から帰ってきた衛生兵が看護人として精神科病院に就職し、

    軍隊調の看護組織や患者処遇を進めていったようである。こういった看護人も含め、座敷牢か

    ら救出した患者の垢おとし、DDT の散布がしばらくは仕事の大部分であったようである。第

    1次の WHO 顧問が来日するのが 1953年であるが、当時はやはり専門的な精神医療を提供す

    る水準にはいたってなかったといえる。しかしそのことはまた、仕切り直しができるチャンス

    でもあったのであるが。以下戦後から第 1次 WHO 調査までの精神衛生・精神医療の状況と

    主要な施策を列記する。

    1947(昭和 22)年 保健所法・児童福祉法・教育基本法・GHQ「社会救済に関する覚書」

    精神衛生行政が警察・内務省の手を離れる

    1948(昭和 23)年 世界人権宣言・WHO 発足・大麻取締法・ビエラ(英)デイケア

    1949(昭和 24)年 日本精神病院協会・治療共同体実践(英)

    1950(昭和 25)年 精神衛生法(精神病者監護法・精神病院法廃止)

    表 1 精神病患者数内訳(人)(9)

    総数 精神病院法患者数 精神病者監護法患者数(施設外)

    1937年 90,995 9,279 14,060(7,208)

    1940年 81,356 8,415 10,083(6,097)

    1947年 36,657 4,086 3,080(1,910)

    1948年 37,139 4,420 2,849(1,717)

    1950年 16,982 2,549 315(-)

    現代精神医学 23巻 A,中山書店,1980. p 48,表 2,を基に筆者作成

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

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  • 1951(昭和 26)年 日本精神衛生会・覚せい剤取締法

    1952(昭和 27)年 国立精神衛生研究所(初めての臨床チーム)・新潟精神病院で患者に

    ツツガ虫病原体接種事件・都道府県立精神病院への国庫補助開始

    1953(昭和 28)年 精神障害者入院措置要綱・WHO 顧問 P. レムカウら)日本の精神衛

    生及び国立精神衛生研究所への勧告

    広田(14)は精神衛生法の小括として、建前こそ立ち遅れた精神障害者の医療と保護、予防を

    含めた総合的な精神衛生行政と銘打ってはいるが、法の実態は対策を精神病院内で完結させる

    ものであり、単に法的な行政手続きを主体としたものであったとしている。また 1954年の精

    神衛生法一部改正はわが国で初めての精神衛生実態調査の結果、多くの精神障害者が入院治療

    を受けられず放置されていたことが明らかになり、また覚醒剤中毒その他の中毒性精神病の増

    加も相まって、精神病床を増やす必要に迫られていた。

    1950年厚生省の機構改革により公衆衛生予防課が結核とハンセン病を扱うことになり、精

    神衛生の担当部署は優生保護法を含め、公衆衛生局庶務課に移った。

    2.WHO による第 1次精神衛生顧問訪問調査

    (1)1950年代、第 1次 WHO 訪問調査と報告の概要

    厚生省設置法並びに組織規程の一部改正により精神衛生に関する調査研究を行う附属機関と

    して、1952年千葉県市川市に国立精神衛生研究所が設置された。研究所組織は、総務課、心

    理学部、生理学形態学部、優生学部、児童精神衛生部及び社会学部の 1課 5部となっている。

    1960年に心理学部を精神衛生部に、社会学部を社会精神衛生部に、生理学形態学部を精神身

    体病理部に、優生学部を優生部に名称変更し、精神薄弱部を新設した。研究所設置を機に政府

    は、戦後の貧困な精神障害者対策、精神衛生行政と国立精神衛生研究所事業の今後の道筋の指

    導を請うべく、WHO に対して精神衛生顧問の派遣を要請をする。WHO からは 1950年代か

    ら 1960年代にかけて計 4回、4名の顧問派遣と報告・勧告がなされた。

    第 1次調査訪問に派遣されたのは 1953年に初めて来日したポール・レムカウ(Lemkau,

    P.)、及びダニエル・ブレイン(Blain, D.)の 2名である。ともに米国の精神衛生専門家であ

    って、レムカウは保健所を前線とする地域社会精神衛生活動の重要性を指摘し、ブレインはデ

    イケアと総合病院精神科外来の増設、入院医療中心の医療を地域中心の医療に切り替えるよう

    勧告した(15)。

    1)レムカウ報告:日本の精神衛生問題 WHO 精神衛生顧問の報告書(16)の概要

    精神衛生資料、精神衛生研究等による主に加藤の紹介(17)を中心にまとめてみる。

    P. レムカウは第 2次大戦後まもない 1950年に WHO 顧問として派遣されたユーゴスラビ

    アにおける精神衛生状況の調査や改革等の業績が高く評価されたようである。1953年の来日

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

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  • 当時はジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生学教室教授であった。訪問期間は 1953年 6月 2日

    ~7月 14日で、訪れた国内施設は、国公立病院 5、民間病院 1、知的障害者施設 2、養護学校

    3、保健所 2、児童相談所 3、矯正保護施設 4、刑務所 2、乳児院・養護施設、地方行政機関、

    社会事業学校、大学精神医学教室、関係官庁であり、まだ数の少ない精神病院(特に民間病

    院)がほぼ調査対象にあがっていないことは報告内容を読み解く際に留意すべきであろう。レ

    ムカウは調査の合間を縫って 1953年 6月 10日に「精神衛生の進路」という講演をしてお

    り(18)、WHO 報告書は国立精神衛生研究所から発表されている(19)。

    ①WHO 精神衛生顧問の報告書 ポール・ヴィ・レムカウ

    ⅰ.統計的要約と比較

    約 60万の精神障害者がいると試算して、病院に収容されているのはわずか 4%だけであ

    る。日本の入院率は諸国と比較して非常に低い。また老人の入院が少ないのは強い家族的

    結合が存在しており、老人も若い人も(家でみるため)精神病床を必要としないのであろ

    う。

    ⅱ.精神病院職員に関する統計

    医師対患者の比率は 1 : 51、看護者対患者の比率は 1 : 10で、米・伊などと比べ非常に良

    好である。一般看護については十分なレベルであるが精神科看護の専門教育は不十分であ

    る。しかしながら日本では精神病患者が、病院で良き世話を受けている。

    ⅲ.精神病院病床数の都道府県分布については、地域社会の所得が多い程病床数も多い。

    ⅳ.木造一階建の小規模施設で、古くて十分な修繕がなされておらず火災の危険性がある。

    ⅴ.新しい治療法の使用にあたっては、バランスが取れているかどうか疑問である。脳手術

    での慎重さや手技はともかく、外科手術を行っている医師の訓練に問題がある。

    ⅵ.チーム医療がおこなわれていないためか精神療法が不十分な水準である。

    以上、各項目にわたる課題が報告されている。この続きにはその後おこなわれた討議の質疑

    の様子が記録されている。質疑内容は行政上の諸問題/精神衛生審議会の有用性/厚生省内に

    おける専門職員の配置体制/精神科医が診断のみで終始し力動理論・心理学等を学べていない

    /治療的努力と患者の心理を理解していくための継続的接触が必要/社会的役割や、治療、地

    域での生活等々に関する専門である心理学、ソーシャルワークの意義と導入などで、報告会の

    様子がうかがわれる。また報告会後の 1953年 7月 9日、公衆衛生院にて研修会が開催されて

    いる。出席は厚生省、法務省、文部省、家庭裁判所、少年審判部、養護学校、少年鑑別所、精

    神病院他 30名で、7時間に及ぶ討論を行っている。

    2)ブレイン報告の概要(20)

    レムカウに続いて来日したブレインは、カリフォルニア州精神衛生局長時代「ショート・ド

    イル法制定」にかかわった人物であり、調査来日当時はアメリカ精神医学会理事長であった。

    1953年 11月 13日~12月 12日までの期間調査滞在し、レムカウが大都市の施設や機関を中

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

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  • 心に視察したのに対し、北海道から九州までを視察した。また翌 1954年 1月にも来日したよ

    うである。

    報告の前書きでは WHO 第 3回精神衛生専門委員会で取り上げられた地域精神衛生の構想

    を強調した。1950年の精神衛生法、1952年の国立精神衛生研究所の設置に関しては評価して

    いたが、厚生省には注文が多く、精神医学専門家の配置、精神衛生関連職員の訓練、大学との

    共同研究、精神医療情報の共有等々を早急に手掛けるべきと勧告している。以下がまとめの概

    要である。

    ⅰ.外来治療の活発化とデイケア・ナイトケア、保護作業場などのパイロット実験の必要性

    ⅱ.地域における精神衛生相談所と保健所、開業医との連携

    ⅲ.地域サービスの発展、精神病床を人口 1万人:2.6床から 5床に増設すべき

    ⅳ.国立精神療養所をモデル精神病院として完備させる

    ⅳ.精神病院統計の整備

    WHO 顧問 2回分の報告をまとめてみると、精神科医療機関および病床数の充実、外来治療

    やデイケア等地域精神衛生や、社会精神医学の早急な構築、精神衛生行政における専門部門及

    び人材配置とその訓練、大学等との学術研究連携等を示唆するものとなっている。精神病院に

    関しては意外にも好意的で、数少ない精神病院が、小規模で古く防災上リスクの高い施設はあ

    るがよく患者の世話をしているという観察報告である。反面、医師がドイツ精神医学を基盤と

    した記述的精神医学に終始し、診断が終わればそれ以上患者にかかわることもなく、心理・感

    情等を理解しようとしていないことをレムカウ同様指摘し、精神療法的かかわりの欠如を補完

    するためにも専門職チームを編成して、社会や地域とつながりを形成していくべきと強調して

    いる。なおこの調査のために訪問した精神病院は私立井の頭病院のみであった。

    (2)第 1次 WHO 訪問調査当時の日本の精神衛生、精神医療の状況について

    第 1次 WHO 顧問が訪問したこの時期はまだ戦後の混乱期から十分に脱したといえず、敗

    戦の傷跡が色濃く残っている。戦時中には国内すべての医療機関が機能停止をしていた(21)も

    のの、終戦の翌年から漸次回復を果たしている。表 2は戦後から、そして精神衛生法が制定

    されてから、レムカウとブレインが調査来日した時期の病床数の推移を示している。収容患者

    に対して病床数が不足し、病床利用率が高すぎる状況になっていることがわかる。表 3は当

    時の精神医療関係者の数値で、精神病床も、職員も少ないことがわかる。

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

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  • 1952~1953年第 1次訪問調査時の精神医療状況は(23)以下のとおりである。

    ①病院数・病床数(1952年 12月末)

    精神病院(24):173施設、精神病床:25,773床、入院患者数 27,296人、病床利用率 106.6

    (その他の精神病床 2,798床、同入院患者数 2,477を加算)

    ②精神医療従事者;精神科医師

    小峯の年表(25)によると、この当時の精神・神経科医師は総医師数に対して非常に少ないこ

    とがわかる。精神神経学会資料(26)によると、当時医学部に設置された精神医学教室は少ない。

    同じく小峰の記録(27)を見ると全国精神医学教室の新入局員数は 1938年~1942年の間、27名

    から最大 55名を数えるに過ぎない。国公立、私立にかかわらず、医学部や医科大学の精神医

    学教室で臨床や研究に携わっていた精神科医はごく少数であったことがわかる。

    ③主要な精神科治療法(1951年以前も含む)

    当時フランスではすでに向精神薬が発見されていたが、日本では本格的に導入されておらず

    (1955年薬価基準)、代表的な精神科治療は、衝撃療法としてインシュリンショック療法およ

    び電気衝撃療法、マラリア療法などであった。1936年に創始されたロボトミー手術は 1947

    年に精神外科として紹介され、精神病、神経症、精神病質の頑固な反社会的、非社会的な面を

    除去し、社会適応を図るが、他の治療の効果がなかった場合の選択肢とされた。精神科医でな

    表 2 精神病床数・入院患者数の推移(1949~1953)

    年次 精神病床数 入院患者数 病床利用率

    1949年 6月 17,146床 14,176人 82.7%

    1951年 6月 20,823床 21,707人 104.7%

    1953年 6月 27,836床 31,605人 113.5%

    各種資料より筆者作成

    表 3 レムカウ、ブレイン訪問時の精神医療従事者(22)

    総数 精神科専任 兼業医 看護婦(男性) 准看護婦(男性) 薬剤師 その他

    5,226 383 147 1,238(635) 471(283) 88 1,581

    精神衛生資料 1953年 5月末統計

    表 4 精神科・神経科医師数の変遷

    1953 1954 1955 1956 1957

    全医師数 81,594 84,099 86,244 88,222 90,579

    精神科医師 892 1,062 1,167 1,331 1,470

    割合(%) (1.1%) (1.3%) (1.4%) (1.5%) (1.6%)

    小峯年表資料より筆者作成

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

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  • く、外科医がこの治療に多くかかわった。

    ④精神衛生行政、精神障害者施策の状況

    戦中戦後を通じて日本の公衆衛生の主要施策は伝染病対策と結核の予防、治療、リハビリテ

    ーションであった。結核対策は国策として優先的に取り組まれ、戦後陸軍や海軍の病院、傷痍

    軍人療養所が国立の結核療養所として各地で開放され、専門治療やリハビリテーションが進ん

    だ。また地域では保健所を中心に、企業、学校などでも予防に力を入れたことなどの行政姿勢

    もあり、抗生物質や栄養状態等の生活の改善もあって一応の成功を収めた。一方で精神障害者

    施策は予防的観点からも、治療的な観点からも手つかずの状況であった。

    1952年の病院統計を見ると、結核病床が 102,000床で総病床数 358,478床の 28%を占め

    ていた。それに比べて精神科病床は 22,975床と、全病床比は 0.6%であり、諸外国並みに人

    口 1万対 20床をめざしその不足が指摘されたのは当然のことである。この時期はまだ向精神

    薬が出現しておらず、治療内容に関しては欧米でも同様の状況であった。また都道府県立の公

    立精神病院も財政上の理由で遅々として進まない中、この状況を打破しようと、非営利法人の

    設置運営にも国庫補助が受けられる規定を設ける。のちに医療金融公庫の精神病院低利融資が

    決まったことも(28)重なり、精神病床は民間の単科精神病院を中心に増床に増床を重ねていく

    ことになる。

    (3)当時の厚生白書における「精神衛生」項目の扱い

    第 1回の厚生白書が刊行されたのは 1956年で、同年には公衆衛生局に精神衛生課が設置さ

    れている。手元にある何冊かのうち非常に充実した内容が記載されているのが 1959年の厚生

    白書で、精神衛生に関して 9ページがさかれ、現代にも通用する内容が掲載されている。大

    きく精神衛生の①意義②現状③精神病床④医療費⑤精神衛生相談所の 5つの項目から構成さ

    れている。そのなかでも特に目を引くのが①意義の部分で、精神衛生領域として、福祉・教育

    ・警察・行政・産業等々への展開を唱え、その従事者として、医療職以外に「精神医学的ソー

    シャルワーク」や「臨床心理」などによる専門家チームの必要性を強調している。さらにある

    べき精神衛生施策の本来の意義として、「その供給の側については専門家の数も少なく、また

    そのチームによる活動も極めて不じゅうぶんといわざるをえない。しかもまた、精神障害者を

    医療と社会復帰の対象とするよりも、むしろ彼らを公安上の隔離の対象として考えてきがちで

    あり、このような偏見と誤解のために、その少ない精神衛生技術職員を隔離施設の守護者とし

    て閉じ込めてきた長い歴史ゆえに、ますますその数は不足し、活動範囲も狭かったのであ

    る(29)。」と記されている。

    続く②現状に関しては、精神薄弱者も含む精神障害者数 130万人のうち、実際に治療や指

    導を受けている者が 0.9%に過ぎないこと、それ以外の者は家族や周囲の者が精神障害である

    ことを知りつつ放置していたと指摘し、その理由を世間の誤解から患者の存在を隠したがる傾

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

    ― 47 ―

  • 向があること、また手軽に利用できる医療療機関の少ないことを指摘している(30)。日本の精

    神医療に横たわる問題点をここまで明確にした白書類の記述は珍しい。不思議なことにその年

    度前後の白書の精神衛生部分はページ数も少なく、優生保護と同枠で統計と財政のみを記した

    ものが多いことから、行政内での何らかの抑止があったと考えられなくもない。

    3.第 1次 WHO 顧問勧告以降の精神障害者施策の状況

    1950年代後半から 1960年代は、「もはや戦後ではない」という世間の風潮はともかく、

    1950年の精神衛生法で私宅監置が廃止されてまだ 10年もたっていない時期でもあって、民

    間精神病院組織の日本精神病院協会はある種の使命感にかられて行政に対して活発な働きかけ

    をしている。その陳情等のいきさつも含め医療経済的な動きの多かった時期である。

    1954年 第 1回全国精神障害者実態調査・精神衛生法一部改正(31)/精神病院建設基準(32)

    /措置入院費国庫補助

    1955年 クロールプロマジン薬価基準となる/国人権擁護委員会連合会会長「精神病院に

    おける入院患者の人権侵害防止と保障の確保」を厚生省に要請/国立肥前療養所

    病棟開放化

    1956年 厚生省公衆衛生局に精神衛生課設置(33)/第 1回「厚生白書」発表/公衆衛生局

    長通知「精神病院に対する実地指導の強化徹底について」

    1957年 精神病の治療指針通知(1961年廃止)

    1958年 厚生省事務次官通知

    1959年 「精神病院を特殊病院と規定、一般病院での医師数は入院患者 16名につき 1名

    とするが、精神病院では患者数 48人に医師 1名で可とする」/医療法による精

    神科特例 厚生事務次官通達(発医第 132号)により精神病院を特殊病院と規

    定。1959年公衆衛生局長通知:精神衛生相談所運営要領

    1960年 医療金融公庫設置

    この当時、欧米では第 2次大戦中の体験と反省をもとに社会学、哲学・思想などが新たな

    視座を得て、それらを次々と進展させていく。ことに大戦中の非人道的な様々な営為に関して

    はのちに人間学的精神医学に道筋をつけたフランクル「夜と霧」(1946、和訳 1956)や精神

    分析のフロムなどの著作がよく知られている。また一方で精神療法研究、精神病理学などの患

    者の内部への接近が探求されるようになっていた。社会学ではゴッフマンが 1954年~1957

    年にかけて国立臨床センター付属の聖エリザベス病院で 1年間の参与観察を行っており、「ア

    サイラム」(1961)を著した。社会学の調査対象として精神病院が取り上げられ、その構造や

    運営など、閉鎖状況における収容主義に対しての批判が相次いでいた。その後の開放化や地域

    ケアの方向へとすすむ萌芽がみられる。

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 48 ―

  • 4.第 2次 WHO 精神衛生顧問訪問調査の意義

    (1)1960年代の精神衛生・精神医療、精神障害者対策の概要

    1960年代になると WHO から再び精神衛生顧問が来日した。まず 1960年に WHO から 3

    人目の顧問として来日したモートン・クレーマー(Kramer, M.)(米)である。彼は、米国精

    神衛生研究所統計部長の任にあった。クレーマーの報告書「Report of a Field Visit Japan」

    (1961年 6月 13日)は手元にないが、加藤によると社会学的な視点と、公衆衛生に不可欠な

    精神障害者のコーホート調査の重要性を勧告したという。

    ちょうどこのころから日本の若手の厚生省官僚や大学精神医学関係者、公的病院勤務医など

    は日本で肥大していった精神障害者収容、あるいは精神病院不祥事件、地域精神衛生(あるい

    は地域精神医療)などの問題意識をもって、精神衛生法改正に向けて意見の取りまとめをして

    いるところであった。しかし精神障害少年による不幸な社会的事件が発生し、精神障害者は治

    安対策の対象となり時代を逆行することになる。実践では各地で病棟を開放し、地域に目が向

    けられていこうとする途上に起きた 1964年春におこったライシャワー事件は、半年後の東京

    五輪を控えて外交問題上の重大案件となった。事件直後には治安の問題として警察庁、公安、

    外務省などから厚生省に圧力がかかった。さらにマスコミも一大キャンペーンを張り、それら

    が相まって精神障害者への恐怖感を煽る結果を招来した。この事件後に精神衛生法は改正さ

    れ、保健所の訪問指導、警察官通報等の監視と管理の体制を構造化していき、日本の精神医療

    に関する法律や施策、精神科病院のありかたが国際標準から逆行していく。

    当時の精神衛生資料(34)によると 1938年頃から結核病床が減少し、逆に精神病床の増加が

    みられる。全病院数 6,838のうち、精神病院は 725を数えている。ただ依然として病院規模

    は小規模であり、平均 179床程度である。しかしながら病床利用率は 106.8%(1965年 6月)

    となっている。この頃はまだ進行麻痺が多く、措置率が高い。措置入院の全国平均が 33%、

    最高は長野県の 58.4%、次いで山形、鹿児島など地方では入院者の半数以上が措置入院とな

    っている。精神衛生医の数もまだまだ少なかった。

    次に 1960年代の関連施策、動向を年代順に並べてみる。

    1961年 国民皆保険/精神科の治療指針(保健局長通知):人間そのものを治療し、健康

    な社会生活をできるように回復させるべきとの内容

    1962年 措置入院患者の公費負担(国の補助が 8割)

    表 5 精神病院従事者数 1965年

    総数 常勤精神科医 非常勤医 看護婦 看護人 准看護婦 看護助手

    45,218 2,228 1,755 11,044 793 5,689 8,716

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

    ― 49 ―

  • 1963年 精神障害者措置入院制度の強化について(公衆衛生局長通知)/第 2回精神衛生

    実態調査:推計精神障害者数 124万人、要入院 28万人、要通院 48万人、精神

    衛生法改正の動き(35)(厚生省・日本精神神経学会・日本精神病院協会)

    1964年 ライシャワー駐日米国大使刺傷事件、警察庁から厚生省に対し法改正の意見具申

    1965年 精神衛生法改正:保健所機能の強化・精神衛生センター設置・通院医療公費負担

    制度申請・通報の拡大

    1966年 保健所における精神衛生業務について(公衆衛生局長通知):地域住民の精神保

    健資料の蒐集、精神障害者の実態把握、訪問指導等々

    1967年 地域精神医学会設立

    1968年 クラーク訪問・勧告

    (2)D. H. クラーク来日と調査・報告・勧告

    WHO から 4人目の精神衛生顧問として招聘されたのがデビッド・クラーク(David

    Clark)博士(以後クラーク)(36)である。彼に関する各種の紹介資料(37)をまとめると、クラー

    クは 1920年ロンドン生まれ、エジンバラ大学医学部を卒業し、英国陸軍に所属していた経歴

    を経てモーズレイ病院で精神医学を学び、30代の若さで王立フルボーン病院院長に着任した。

    ここで、慢性の精神疾患患者 950人を抱える閉鎖病棟の開放化に取り組み、種々の活動プロ

    グラムを取り入れ、社会療法と治療共同体アプローチに取り組んで成果を上げた。1950年代

    における実践である。彼はまた英国精神衛生協会副会長も務めている。来日前の 1964年には

    「Administrative Therapy」(鈴木淳訳:精神科医の役割:管理療法.医学書院)を出版して

    いる(38)。WHO の顧問として日本以外にポーランド、ペルー、アルゼンチンの精神医療の発

    展にも協力した。

    クラークは 1967年 11月に来日し、翌 1968年 2月までの間に 15の精神病院(公立 7、私

    立 8)、精神薄弱者施設 7、精神衛生センター 5、児童相談所、大学医学部等を訪問調査した。

    3か月の間で訪問したのは東京、横浜、仙台、松本、名古屋、津、京都、大阪である。

    第 1次 WHO 精神衛生顧問が来日した 1950年代は言うに及ばず、1960年のクレーマー博

    士訪問時に比べても 1968年当時の日本の精神衛生状況は非常に変化していることから、この

    クラークの報告は、特に精神医療の内容に緻密な視線を投げかけており、その指摘は鋭い内容

    となっている。

    1)クラーク報告(39)の概要

    日本政府から WHO にどのような顧問要請があったのかをクラーク自身がまえがきで明ら

    かにしており、1966年 12月 3日付で西太平洋地域事務局に派遣依頼文書が送付されたこと

    が記されている。この招聘にかかるその文書の要請内容は以下のとおりであり、当時の日本の

    厚生省が認識していた課題がいくつか示されている。

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 50 ―

  • 「・精神薄弱、精神病質、精神障害の早期発見と適切なリハビリテーションの促進のための地

    域精神衛生計画の必要性

    ・精神衛生法改正で 826の保健所と精神衛生センターを各都道府県に設置したが、公衆衛生

    機関と精神病院、一般開業医を他の地域資源との十分な協働関係ができていない。

    ・英国では精神障害者の地域ケアのすぐれた組織化、デイケア、ナイトホスピタルなどの社会

    復帰施設と行政との密接な関係性などがうまく機能している。前述の我が国の課題を観察評価

    し、地域精神衛生を一般精神衛生にとりいれる計画を発展させ、施設に収容させていない患者

    に対して予防、治療設備を整えることなどを提案して・・・」という要請内容であった。

    クラークは 10年以上前のレムカウやブレイン報告を重要視したうえで戦後の日本が抱える

    精神衛生課題に向き合い、重厚な報告・勧告をおこなった。

    2)報告書の構成:まえがき/計画の概要/背景/観察報告/考察/勧告

    計画の概要:省略

    〈1.1歴史的背景〉

    各種の精神障害者は寺院等で呪術的な方法で処理され、おとなしいものは農村社会の中に吸

    収され受容されていた。明治以降西欧、ドイツ精神医学(器質本位)を取り入れた。精神病院

    はほとんどなく、家族が監禁しているものも多かった。戦時中は空襲が諸都市を焼きつくす中

    でしばしば精神病院も破壊され、戦後は混乱と飢餓の中で慢性分裂病患者が死んでゆき、ため

    に入院患者の数はぐっと減少した。

    〈1.2従前の WHO 報告〉:1953年のレムカウ、ブレイン両顧問の報告を取り上げ、モートン

    の精神医学的統計の取集報告とレムカウの指摘である精神病床の不足(1万:2.6床)「病院は

    小さく、建物は荒廃しているが、職員はよくそろっていた」が長期間かけての精神療法の必要

    性、ブレイン指摘の厚生省内の精神衛生面での指導力不足に関する内容を紹介。

    〈1.3日本における衛生サービス〉

    都道府県当局は伝染病対策には熱心で、保健婦を使って保健所のネットワークを発展させ

    た。これが結核制圧に主導的な役割を果たしたと評価。地域精神衛生サービスは文部省、労働

    省など複数の省庁に関連し、精神衛生課はすべての統括と運営にかかわっている。

    表 6 WHO 指摘の増え続ける民間精神病床

    公立病院 私立病院 計 総人口 人口 1万:病床数

    1955年 10,982 29,254 40,236 8,920万 4.5

    1961年 20,256 79,676 999,322 9,340万 11.2

    1966年 30,769 150,940 181,709 9,820万 18.5

    国立精神衛生研究所:精神衛生資料より作成

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

    ― 51 ―

  • 〈1.4専門職員〉

    ・医師:総合大学および医科大学の増加がみられるが(1967年現在 46大学)精神医学的指

    導は型通り。日本の特徴は数多くの小規模な私立病院で一人の医師がその家族とともに運営

    し、患者を自分だけで抱えていること。専門分化はなく、精神病でもうつ、神経症でも精神薄

    弱等障害児でもてんかんでもすべてを見ている。精神療法も加えて行おうとしている。

    ・看護婦:養成機関が様々であり、精神科看護についての専門的訓練はおこなわれていない。

    免許のないものが働いているが、人員補充問題は深刻ではない。

    ・ソーシャルワーカー:大学教育を受けると、あらゆるソーシャルワークができる。米国から

    の輸入理論に立脚し専門的精神衛生課程はない。最近の組織化で基準の確立を試行中。

    ・臨床心理学者:大学課程は戦後米国から援助を受けて発達した。教育分野等でカウンセラー

    は存在しているが、大部分の精神科施設には配置されていない。

    ・作業療法士:1963年に理学療法・作業療法の教育(リハビリテーション学院)が設立され

    20名の訓練生が誕生。WHO は訓練の援助のために専門の理学療法士を派遣している。

    〈2.観察報告〉

    2.1地域精神衛生サービス:すでにいくつかの国は地域精神衛生サービスに非常に広い意味を

    与え、外来治療、ハーフ・ウエイ・サービス等々の活動と精神衛生連盟、自殺予防協会のよう

    な自発的組織活動などが発展しているが、日本ではこのような活動は見当たらない。826の保

    健所は元来結核と伝染病の制圧のために発展したもので、公衆衛生医の指導下で保健婦が配置

    されている。アフターケア・サービスはほとんど発展していない。

    2.2精神病院:欧米とは異なり、日本の精神病院は規模が小さく最近(20年以内)できた私立

    経営が多い。患者の多くが長期在院の精神分裂病であり、感情鈍麻・退避的である。病棟が満

    員である。患者の年齢層は青年と中年の患者で、老人は 4%に過ぎなかった。職員は十分整

    備され、職員と患者との関係は、温かく友好的でユーモアがあり、西欧にみられるような冷た

    さや軽蔑はないように思えた。患者は私物も多く持っていたし、柵、二十鍵、防護ガラスな

    ど、外国の病院でその価値を傷つけている重々しい安全装置(security provisions)はなかっ

    た。しかし積極的な現代的治療法や、社会復帰活動が会得されているという証拠もなかった。

    患者の活動水準は非常に低く、ほとんど何もせず座り込んでいたり、日中でもベッドに寝たり

    していた。非常に多くの病棟が必要以上に閉鎖され束縛方法として保護室、個室、安全区画が

    あまりにも頻繁に使用されていた。

    表 7 精神病院(含病室)の職員数

    精神科医師 看護員(うち男子) 専従心理担当者 専従精神医学 SW 専従作業療法担当者

    2,450 18,079(3301) 178 121 340

    (1961年 3月末)724病院、87,757病床に対する人数

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 52 ―

  • 医師のほとんどが身体的な治療やカルテ作成といった伝統的な役割だけに限局しているかに

    見えた。看護婦もまた、自分たちの責任がリハビリテーションに導入する活発な生活指導やそ

    の促進より身体看護に重点を置いているようにみえた。国際的な(WHO が出した報告書

    1953)原則にも留意せず、社会精神医学についての認識も全くないようであった。

    2.3日本における精神医学の位置づけ

    日本の多くの精神科医は、器質的な問題のみに目を向け、情緒的なかかわりあいだとか個人

    的な再適応をも要求する精神神経症や精神療法や社会精神医学によって引き起こされる困難な

    問題に立ち向かうのを避けているようにしている。

    2.4精神医学におけるリーダーシップ

    厚生省に専門家がいないことはこれまでの顧問たちが口をそろえて問題にしていた。

    精神衛生課は厚生省 10局のうちの公衆衛生局の 7課のうちの一つでしかない。この専門領域

    は、多数の長期在院患者を扱い、病院の開設、職員構成、組織に関する管理的な決定が、しば

    しば患者の社会復帰の機会を決定し、数十年にわたる活動の在り方を決定するものであうは

    ず。国立精神衛生研究所は素晴らしい研究業績を上げているが、予算は削減され拡大計画は経

    済的理由により延期されている。

    〈3.考察〉

    3.1精神病院在院患者の動向

    5年以上在院患者数は増加し、また大多数は 25才から 35才の若い人たちであった。寿命

    を全うするとなれば、この患者はあと 30年間も病院に在院する可能性がある。日本はヨーロ

    ッパと同様の悩みに直面している。精神分裂病患者が病院に集められ身体的医療を受け無為な

    まま閉じ込められている。患者たちはここで長い生涯をおくり、入院患者数は増加し、病院は

    無為で希望もなく施設病化した患者で満員になる。この点に関し調査を行う必要がある。どの

    くらい慢性患者ができてきているかを明らかにし、将来の動向を予測するために在院患者の年

    齢と日付を規則的にチェックし、監視されるべきである。

    3.2精神病院の敷地

    ヨーロッパが犯した失敗を日本がまた繰り返し可能性がある。新しい施設を人口の中心部か

    ら離れた安い土地に建てるのは一見経済的に見えるが実はそうではない。社会復帰はきわめて

    困難になり、その結果患者は永久下宿人になってしまいがちである。もしも精神科の治療組織

    単位が小さく町の名にあるなら、家族との接触は維持されるし、社会復帰はよりたやすく、慢

    性患者の退院はより速やかになる。最初の土地代は高くても、施設は小さいままでいいし、そ

    のほうかはるかに価値が高い。

    3.3精神病院のコントロール

    「国家的査察官の必要性 物的基準、患者の過密、衛生および食事、精神科医療基準の向上、

    作業場、夜間病院、外来診療、追跡サービス・・・等々をすべての病院を査察し報告書を国に

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

    ― 53 ―

  • 挙げる」「精神療法や社会精神医学に関心を示さない医師、職員に対し コミュニティ会議を

    開き、役割遂行や現実検討の機会を提供する。その基礎にある原理は許容性、平等主義、民主

    化、全体の合意による決定と仲間集団による社会的管理である。・・・特に職員に多大の要求

    が課せられる。縮院は集団のコミュニケーションの巧みな技術や精神療法的洞察および柔軟な

    個性を持つ必要があり、職業的な防衛としての反動形成の多くを捨て去るように準備しなくて

    はならない。

    3.4老人の入院患者

    英国の精神病院の現代の「老人問題」の多くは 1920年と 1950年の内に入院させられ病院

    で年取った患者である。こういう患者は現在の日本の病院にはいない。しかし現在のように慢

    性患者が、累積しつづけ現代医療によって生かされていけば、1980年代から 1990年代にお

    いて日本の精神病院でも老人患者の数は非常に増加するだろう。このことは遠い先の問題のよ

    うにみえるだろうが、何らかの対策がすぐに行われなければ、大変ことになるだろう。社会療

    法、作業療法、および治療的コミュニティという方法を行うことが、こういう患者にとって有

    効であることが、英国、ヨーロッパおよびソ連で経験されている。

    3.5精神欠陥者のアフターケア:省略

    3.6精神療法と精神分析:省略

    3.7精神衛生運動

    精神衛生に貢献する素人(インフォーマル)の団体の不在。この原因は一般大衆の精神病や

    精神病院をめぐる無知や恐れがあるからであり、また団体のないことが偏見の原因にもなって

    いる。公衆(衛生)教育計画なしに地域精神衛生活動は急速に発展はしないだろう。

    3.8社会精神医学

    日本の精神科医は診断精神医学、精神薬理学、脳波学、発生学は理解され応用されている

    が、精神病理学や精神分析のようなものは理解されても活用されていない。社会精神医学に至

    っては理解も応用もされていない。英国で 1940年代から発達した「社会精神医学」は患者及

    び病気を社会という文脈の中でみようというものである。これは患者の診断にも治療にも応用

    されている。患者が心の悩みをもって医師を訪れたときにおこる問題点を見つめる新しい観点

    である。精神病院内に一つの革命が起きつつある。たとえば患者の役割が再検討され、病院の

    社会組織は職員の特権によるヒエラルキーを維持するためではなく、患者の社会復帰に焦点を

    合わせて再構成されてきている。こうしたことから開放制、Industrial Therapy,ハーフウエ

    イ・ハウスが登場してきたのである。多数の患者の社会復帰を行い、その語患者を破綻させた

    有害な社会条件の役割を把握することによって、病院外の精神科サービス、保護工場、ホステ

    ル、デイサービスセンター、治療的ソシャルクラブ、またはソーシャルワーカーの業務の拡大

    を非常に発展させた。

    治療的コミュニティという治療法もまた社会精神医学研究から出てきたものである。定期的

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 54 ―

  • なコミュニティ会議をひらき、そこで職員が概況報告をし、意味のある出来ごとをすべて詳し

    く社会分析し、役割遂行や現実検討の機会を提供することにある。その基礎にある原理は許容

    性、平等主義、民主化、全体の意思による決定と仲間集団による社会的管理である。

    日本を訪問し話し合ったときに、地域精神衛生活動の発達がゆっくりしている(同様に精神

    病院の活動性と自由が欠如している)数多くの理由の一つは、日本の精神科医の間に現代の社

    会精神医学の原理についての理解が欠けていることによることは疑いの余地がない。

    〈4.勧告〉

    4.1政府

    精神医学的中央管理の問題が重要である。1953年以来ほとんど変化していない。

    (1)精神衛生は公衆衛生、児童福祉およびその他の部門に匹敵する部局であるべき。

    (2)厚生省は有能な訓練を受けた若い精神科医を職員として充当すべき。

    (3)国立精神衛生研究所を可くらい強化する。臨床設備が、研究所に割り当てられて研究や

    研修のためにもっと活用されるべき。

    4.2精神病院

    多くの精神分裂病患者が入院患者としてたまっており、長期収容による無欲状態におちい

    り、国家の経済的負担を増大させている。社会療法、作業療法、治療的コミュニティという方

    法をおこなうことが、こういう患者の治療に有効であることが英国、ヨーロッパ、ソ連で経験

    されている。職員にこの知識を与え、入院患者の着実な増加を防ぐため、積極的な治療とリハ

    ビリテーションを奨励するように推進すべきである。

    (1)日本における講演(2)選ばれた病院職員のための研修コースの組織化(3)有望な病院

    管理者の海外での研究制度(4)日本のすぐれた計画についての情報交換

    4.3精神病院の統制

    厚生省は精神病院医に対する国家的監査官をつくるべきで、それには新しい法律が必要とな

    るだろう。常勤で高給の精神科医及びその他の専門家(指導員、ソーシャルワーカー、看護

    婦)から構成され、20人は必要となろう。かれらは少なくとも年 1回は日本のすべての精神

    病院を訪問、報告、勧告を含めて出版すること。この監査官の勧告に基づいて政府が精神病院

    の資格を取り消す権力を持つようにするべき。監査内容は、物的基準、患者の過密、衛生や食

    事、精神科医療基準の向上、作業場、夜間病院、外来診療、追跡的サービス、職員の数、訓練

    および資格について調べ、研修計画を奨励すべきである。

    4.4健康保険制度:省略

    4.5アフターケア

    (1)治療、長期間の追跡、地域社会にいる精神分裂病患者の目の社会的扶助を与える精神科

    医及び地域社会ワーカーによって構成される外来クリニックの必要性が大。

    現在では、個人の家で精神障害者の治療を行うことを禁止した 1950年の精神衛生法の条文の

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

    ― 55 ―

  • 改正を苦慮すべき。18年たった今では急性期の患者が病院へいくのであり、落ち着いた回復

    期にある患者の退院を法律が妨げる結果になっている。

    4.6リハビリテーション:省略

    4.7専門家の訓練:省略

    (3)クラークが把握した日本の精神衛生・精神医療・専門家の実情と勧告

    以上報告は 3か月という短期間で得られたとは思えないほど綿密であり、また当時の日本

    の様々な事情を含む勧告となっている。日本訪問に先立ってかなりの準備をし、前回の 3度

    にわたる調査報告を前提にこの訪問調査と分析を行ったことが見てとれる。

    しかしそれ以上に、二つの大戦を経験したヨーロッパ、そして英国の精神障害者対策、精神

    医療の荒廃を立て直す時期を体験したクラーク自身の精神医療に対する信念が感じ取れる。日

    本の精神衛生行政と精神医療にある種の危うさを嗅ぎとり、懸念材料を具体的かつ詳細に並べ

    ることができたのは、まさに臨床での彼の実践経験と見識がこのような正鵠を射た勧告を書か

    しめたと考えられる。

    国立精神衛生研究所の長であり、WHO 顧問を迎える日本側の責任者であった加藤は、精神

    病院の改善と地域精神医療の推進を強調したこの勧告内容を、精神衛生研究紀要や精神医学誌

    などの限られた枚数の中で紹介している(40)。しかし、貴重なこの勧告がその後の国の精神衛

    生行政や精神科医療に適切に活かされることはなかった。

    加藤はこの勧告が政府や厚生省によって真摯に受け止められていないことに対し、遺憾の意

    を示し、その後もねばり強くクラーク勧告を紹介し続けた。

    1980年には再びブレイン報告及びクラーク報告の内容を詳細に取り上げ、社会精神医学の

    確立に熱意を示している(41)。

    5.クラーク報告・勧告に対する各専門領域の反応

    ではこの厳しい勧告を受け止めた日本側の反応と姿勢はどうであったのだろうか。とくに専

    門家(主に精神科医)が当時のクラーク勧告をどう取り上げているかを集めてみる。

    (1)「病院」(42)

    病院 26(4)~(7):クラーク著「Administrative Therapy-The Role of the Doctor in the

    Therapeutic Community」(1964)の紹介(43)(1967年 4月~1968年 12月)。翻訳にあたっ

    た鈴木淳は「病院」特殊病院の欄において、計 4回の連載をもってクラークの来歴、実践お

    よび著作と英国における精神医療の新しい動向を紹介している。

    27(8)西尾友三郎の紹介:本書は病院精神医学のために最近まれな有益な訳本。治療共同社

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 56 ―

  • 会において患者への信頼をよりどころにして治療効果をあげる烈んなる信念の書

    28(2)岡田靖雄:古い精神病院の姿、治療共同社会の歩み、治療的環境の原則、管理療法の

    内容、医師の職位との関係、管理者の資質、関連領域などについて「この本は、病院精神医学

    の標準的な著書として残るだろう」

    27(12)鈴木淳:精神病院に対する WHO 顧問の意見:この当時はかつての努力目標 人口

    1万対 20床が達成されつつある。精神衛生法を改めて精神衛生センターも 46か所に設置さ

    れようとしている。残された問題は公衆衛生活動との統合そして地域医療資源との協同であ

    る。日本の政府はこの現況を見直し、評価し、助言してくれる専門家の派遣を、特に英国の精

    神科医マクスウェル・ジョーズ(Maxwell Jones)の来日を WHO に頼んでいた。ジョーン

    ズのかわりにクラーク博士が WHO のコンサルタントとして来日と概要を紹介している。「今

    後の精神病院の運命について彼が指摘したことは西欧人ならだれでも指摘したろうと推量され

    るし、他の諸点でも多くの日本の先覚者が感じていたことを率直に述べたに過ぎない。いまは

    病院から社会への飛躍の時である。この意味で Clark の報告書をみるならば、わが国の精神

    病院医与える示唆は大きい。」とも述べている。クラーク著書の日本語序文に『日本には ad-

    ministrative therapy の機会が無限にある。なぜなら病院は小さく、医師が院長であること

    は、患者の環境を積極的な治療コミュニティに進展させる素晴らしい可能性に恵まれているこ

    とを意味するからである』と記している。

    (2)日本精神病院協会 二十年・三十年(44)

    1967年 12月 14日にクラーク博士は英国精神衛生の状況を説明のためスライド持参で日精

    協を訪問している記事。ついで 1968年「クラーク博士の報告」として記事がある。さらに

    「次のような報告書を提出し、示唆するところ大であった。」として ①政府②精神病院の改善

    ③精神病院の統制④健康保険制度⑤アフターケア⑥リハビリテーション⑦専門家の訓練等を簡

    潔に報告している。

    (3)日本精神神経学会

    クラーク勧告の出された 1968年の翌年、1969年金沢大会ではそもそも学会の紛糾で発表

    もシンポジウムも行われなかった。この時期の当学会の総会テーマを簡単に見返す。

    日本精神神経学会の総会テーマ(1961年-1969年)(45)の変遷

    1961年(第 58回総会):岡山市:(特)社会精神医学(村松常雄)、(シンポ)非定型精神病・精神薬理・その他

    1962年 第 59回総会:松本市:(シンポ)めまい・小脳・社会復帰・精神医学教育・幻覚1964年 第 61回総会:盛岡市:(特)昭和 38年度精神衛生実態調査について(若松栄)、(シンポ)頭

    部外傷後遺症・精神衛生法改正の焦点・日本人の精神構造と精神医学・他*社会精神医学・社会復帰・精神衛生実態調査・精神衛生法改正等、協議の精神医学でなく徐々に社会

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

    ― 57 ―

  • 的視野が広げられてきている。1965年 第 62回総会:広島市:(記念)日本精神医学の回顧と展望(林道倫)・(特)向精神薬につい

    て、日本における性格学、日本における自殺、精神分裂病の人間関係の障害1966年 第 63回総会:東京都:(特)日本におけるコンミュニティの概念(羽仁五郎)・わが国におけ

    る麻薬中毒とその特徴(久万楽也)他、精神医療における薬物療法の位置付け、精神療法における治療転機、精神鑑定の問題点

    1967年 第 64回総会:名古屋市:(特)精神医学における行動科学的接近(臺弘)、(会)児童精神医学の動向(堀要)、(シンポ)病院外における精神障害医療の問題点・精神科特殊療法の問題点・精神医学における家族研究・老年精神医学、他

    *精神医学に絞らず従来の精神医療を見直す傾向がではじめている。1968年 第 65回総会:長崎市:(特)比較精神医学(林宗義)・精神医学的診断(仁志川種雄)、(シン

    ポ)精神医学教育と専門医制度他1969年 第 66回:金沢市:シンポジウム、一般演題とも評議委員会、総会議事の延長により中止

    *日本精神神経学会はこの時期大学医学部の構造批判等が課題となり、1969年、1970年の

    学会総会が中止になるなど学会内部が紛糾しておりクラーク勧告に触れることはなかっ

    た。後のクラーク自身の回顧(46)によると、彼は国内の研究機関や大学で精神科医を対象

    に講演や特別講義を行ったが、あまり成功したとは思えなかったという。聴講した精神科

    医らはクラークが勧めた病棟の開放化、治療共同体への試み、地域への働きかけ等にあま

    り興味を示さなかった。臨床的で実践的な示唆より、もっとアカデミックな内容を求めて

    いたようだった。さらに訪問したどんな病院の医師も看護者も、近くの精神病院で何をや

    っているか互いに全く知らなかった。臨床技法や管理に関しての交流はなかった、とその

    実情を語っている。

    (4)精神病院医学懇話会(のちに病院精神医学会・地域病院精神医学会)(47)

    当学会は、大学医学部教室から独立して臨床である病院精神医療に横たわるテーマを取り上

    げ、検討していこうとした。のちに病院に限定せず地域もその実践の場として包含した。第 1

    回から示してみる。

    1957年 第 1集:適応障害とリハビリテーション療法(青木義治)/環境療法(菅修)/精神病院における患者の自治活動(臺弘)/精神分裂病集団における対人関係研究/オープンシステムについて(伊藤正雄)/集団精神療法

    1958年 第 2集:(シンポ)精神病院の構造その治療的環境との関係(江熊要一他)/精神病院患者処遇(開放度)についての全国現況調査/開放状態における精神病者の行動調査/開放病棟の管理と地域社会との関係(伊藤正雄)他

    1960年 第 3集:退院患者の実態調査/精神病院入院患者の就職退院 After Care の経験(横井晋)/ケーススタディより見た社会再適応(渡辺朝子)/松沢病院における一女子病棟の開放について(藤原豪)/他

    1961年 第 4集:日本精神病院の開放状態についての現地調査報告(小林八郎他)開放療法からみた精神病院の個別的研究(岡田敬藏)/(シンポ)新しい精神科治療体系のなかで医療チームのありかた(寺坂利宇・吉岡真二)/他

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 58 ―

  • 1962年 第 5集:開放患者の自由と高速の限界(渡辺寛一)/開放に対する地域社会の態度(岡庭武他)/開放療法と社会復帰(青木義治)/電撃処置の全廃と開放療法との関連(河村高信)/措置患者の開放管理(百井一郎)/他

    1963年(春)第 6集:精神病の作業療法(長山泰政)/作業療法の話(菅修)/作業療法について(井上正吾)/精神分裂病の身体療法の限界と作業療法(臺弘)/他(秋)第 7集:精神病院の建築について(吉武泰他)/レク療法の新しいありかたについて(鈴木秋津)/入院患者家族の態度の問題(坂部先平他)

    1964年(春)第 8集:大学精神科と精神病院(立津政順)/精神病院は大学に何を望むか(佐藤壱三)/大学出張病院としての「あり方と反省」(香取郁雄)/院外作業(秋)第 9集:精神障害者退院後の実態調査(荒木松生他)/長野県救護施設の実態調査(水島節雄)/精神医学ソーシャルワーカーの実態について(鈴木浩二他)社会復帰の立場から見た精神科外来治療の現況と考察(石川鉄男)/家族会運営(竹村堅次)/沖縄の精神衛生(岡庭武)

    1965年(春)第 10集:私立精神病院における生活療法の現況(元吉功)/生活療法の問題点(井上正吾)/作業療法の効果の再検討(多賀谷譲)(夏)第 11集:(シンポ)精神病院における児童の問題/精神病院における外泊面会の問題点(清水信他)/開放病棟に対する準備(秋)第 12集:デイケアに関する研究(加藤正明)/精神分裂病の職業指針(加藤友之助)

    1966年(春)第 13集:(特)精神病院における治療的雰囲気および制度、並びに精神障害者の人格尊厳に関する問題(F. パンゼ教授)/社会復帰病棟/レクレーション療法(シンポ)家族会と家族治療との関係(水津和夫・小坂英世他)(夏)第 14集:(シンポ)デイケアとナイトケア(加藤正明・佐々木重雄他)(秋)第 15集:社会的予後をめぐって/精神分裂病者の退院の条件、退院状況、社会的予後(河合春雄他)/再入院に関する社会的要因(島崎敏樹他)(冬)第 16集:職場から見た社会復帰(関口憲一他)/復職/職場での精神衛生管理

    1967年(春)第 17集:精神衛生法改正後に来るもの(江副勉・北野博一他)/精神病者の自殺(夏)第 18集:精神病院における老人問題(古川復一・北野博他)/各種療法(秋)第 19集:日本の病院精神医学のあゆみ(関根真一)/社会復帰・アフターケア・再入院(後藤聡他)(冬)第 20集:院内適応と社会適応の相関(石川鉄男他)/患者と家族/ホスピタリズムからの離脱(岡上和雄他)

    1968年(春)第 21集:退院抑制と個体的要因(西尾友三郎他)/社会復帰を妨げる要因(米倉育男他)(夏)第 22週:家族と病院のずれ(中沢正夫)/社会復帰・結婚(清水英利他)/音楽療法・作業療法

    *以上のテーマを見てわかるようにすでにクラークの勧告にみられた精神科病院・薬物治療

    以外の治療的方法論、チーム医療、開放化等さまざまな課題を取り上げている。これが

    1970年代の精神医療改革の推進力になっていくのである。

    (5)精神医学(雑誌 1969年のみ)

    1969年の精神医学 11巻ではいくつかの社会精神医学を関連ともみられる論文がある。

    11-2中川四郎「精神障害者の発見活動における公衆衛生関係者の認識と態度-沖縄における

    疫学調査の経験から」

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

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  • 11-7西尾友三郎他「精神医学の社会的実践の課題」

    11-10加藤正明「D. H. クラーク報告書の抜粋と要約」

    また 1970年の精神医学 12巻にはその後の改革運動に繋がるテーマが掲載されている。

    12-2松本雅彦他「精神科医はいかにあるべきか-現代日本の精神科医療情勢の中で考える」/

    辻悟「精神医療の荒廃とは」

    12-4中村五郎「精神病院医療についての提案」/元吉功「現在の精神病院における問題点」

    *学会とは異なり、すでに疾患研究のみならず個々の精神科医が置かれている当時の精神医療

    状況が課題になり、それを精神医学が意識し、なんとか変革していかねばならにという潮流を

    感じ取ることができる。

    (6)日本精神科ソーシャルワーク

    精神医学ソーシャルワーカー協会が組織化されたのは 1965年であり、まだこじんまりとし

    た研究集会の記録しか残っていない。その中から 1968年-1969年の機関誌をみる。

    3巻 1号(1968):PSW の当面の課題/早川進「ソーシャルワークの原理」に関する哲学的

    考察

    2号:(特)PSW 方法論の体系化をめざして/ソーシャル・ケースワーク方法論/地域精神衛

    生領域におけるコミュニティ・オーガニゼーションワーク

    4巻 1号(1969):柏木昭「ソーシャル・ワーカーの存在理由を明らかにする」/精神障害者

    に対する福祉的援助/精神医療と地域精神衛生活動

    2号:P・S・W の社会福祉的自覚を求む/(特)渡辺史「医療における精神医学ソーシャ

    ル・ワーカーの社会福祉的課題

    このようにクラーク勧告が出された時代には、十分な専門職の組織化がされていなかった

    が、それでも日本の精神科医療、あるいは精神病院と社会との接点、専門職の量と質などが問

    われ始めていたことはうかがわれるのである。

    ま と め

    WHO 顧問の日本側の受け入れ責任者であった精神衛生研究所の加藤は、折にふれクラーク

    勧告を取り上げた。また日本精神病院協会でもクラーク勧告の内容を「示唆に富んでいるも

    の」と紹介している。医学書院の「病院」誌上でも鈴木や岡田等によってクラーク勧告は何度

    か取り上げられた。しかしながらその刊行内容の紹介も現場の精神科医師や看護、精神保健福

    祉士、作業療法士、心理士等にしっかりと受け止められた形跡は残っていない。もしかしたら

    勧告の存在さえも届いていなかったのではないかと推測するほどである。ここで責任を問われ

    るのは厚生省などの行政機関である。というのもクラーク勧告のまえがきには『日本における

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 60 ―

  • 地域精神衛生活動の発展について、政府に報告すること、国の相手役と協同して、地域精神衛

    生を一般精神衛生に取り入れる計画を発展させ、特に施設に収容されていない患者さんに対し

    て予防、治療設備を整えること』とある。日本政府側が 1966年 12月 3日に西太平洋地域事

    務局に送付された文書には『英国における精神障害者の地域ケアは、すぐれて組織化され、発

    展し、デイセンター、ナイトホスピタルなどの社会復帰施設が精神衛生審議会や精神衛生官の

    協同のもとに地域精神病院と密接な関係を持ち、うまく働いている。したがってわれわれは、

    現在と前述の課題を観察評価し、地域衛生活動を一般公衆衛生活動に取り入れる方法を支持し

    てくれる短期の顧問を要望し、とくにかかる顧問が英国から得られることを希望する』(下線

    筆者)と明記されているのである。

    このクラーク勧告が政府によってほぼ無視されたのではないかという見解は現在共通のもの

    となっているが、その件に関する問いかけに厚生省の当時の課長が非公式ながら「斜陽の国英

    国から学ぶべきものは何もない」という返答があったという話は加藤の談でも伝えられてい

    る。真偽のほどを確認する資料はないが、そうだとしたら WHO 要請文書、特にクラーク時

    の「英国からの訪問を」という文書の内容と全く矛盾するものである。

    このことと斜陽の国から学べないという発言には矛盾と、何より無責任さが表れているので

    はないか。

    伊勢田が戦後史のまとめの中で一つの分岐点としてクラーク勧告を改めて検証している(48)。

    「当時の日本は、病院中心の医療体制に進むのか海外の諸国が目指している地域ケアに向かう

    のか、ちょうど分岐点にあった」と記しているが、こうして当時の精神衛生及び精神科医療、

    また精神科病院状況を振り返ると、まさに分岐点であったという指摘は正しい。

    精神病床が飛躍的に増えた日本での事情としては①遺伝的精神疾患や、進行麻痺、覚せい剤

    中毒などの排除システム、②精神科病棟を特殊病棟と位置づけ、特例で経営的な医業を後押し

    した医療法、③向精神薬の導入(これは 1960年くらいまでに整備)、④第 6次精神衛生法改

    正(1961)で措置入院費の国庫負担率引き上げ、⑤結核患者の減少と精神病床への病床転換

    などがあげられよう。

    戦後に至るまで日本には病院精神医療という経験がなく、もちろん専門職も少なかった。レ

    ムカウが来日した頃は私宅監置の中にでもこぢんまりとした引き継いだ日本的ケアがあったか

    もしれないが、それをうまく精神科医療の中で生かし、地域の力を引き出すことなく、むしろ

    地域と断絶してしまったことが悔やまれる。新たに拾い上げられた当時の問題としては、①伝

    染病対策としての公衆衛生の枠組みから出られず、社会福祉や社会学、保健教育などと連携で

    きなかったこと、②総合病院が精神科病床併設を引き受けなかったこと、③精神科医が圧倒的

    に不足していたこと、④大規模な病院を次々と建てるに至った安易な施策の責任、などなどが

    明らかになってくる。また社会福祉の対象となっていなかったため、⑤貧困や社会的課題を多

    く含む領域でありながら、医学と病院という枠組みの中でしか対策がとれなかったこと。福祉

    佛教大学社会福祉学部論集 第 16号(2020年 3月)

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  • と地域、生活基盤という場ですら連携しなかったことなどが挙げられる。

    〔注〕⑴ 厚生省医務局:医政八十年史(1955),現代精神医学 23巻 A,中山書店,1980. pp,47~48,表 1,表 2.

    ⑵ 岡田靖雄編著:もうひとつの戦場-戦争のなかの精神障害者/市民,六花出版,2019⑶ 「連合軍最高司令公衆衛生に関する件覚書」(AG 710, SCAPIN 48)1945(昭和 20)年 9月 22日「保健及厚生行政機構改正に関する件」(AG 323・31, SCAPIN 945)1946(昭和 21)年 5月 11日

    ⑷ 田中誠二・杉田聡・森山聡子・丸井英二:占領期における急性感染症の発生の推移,日本医史学雑誌,53巻第 2号,2007

    ⑸ 青山英康・吉田健男:戦後占領政策と衛生行政,精神医療 No.38(10巻 1号),1981⑹ 小坂富美子:戦争と厚生〈日本型医療システム〉形成にむけて,岩波講座日本通史第 19巻,近世4, 1988

    ⑺ 註:日本精神神経学会:日本精神神経学会百年史総会動向一覧,2003.によると 1944、1945年の2年間は総会を開催できていない。また再開した 1946年も総会の詳細は記されていない。

    ⑻ 岡田靖雄:日本精神科医療史,医学書院,2002⑼ 註:同一病院でも、代用病床には精神病院法が適用、代用病床以外は精神病者監護法が適応されたので、(施設外)が座敷牢など私宅監置の件数と読むことができよう。また入院までの 2か月間は監置できる保護拘束制は 1965年まで続いた。

    ⑽ 日本精神病院協会:社団法人日本精神病院協会二十年,1971⑾ 三重県立高茶屋病院の 50年史,高茶屋病院,2001⑿ 長野県立駒ケ根病院:駒ケ根病院 20年の歩み,1976⒀ 鈴木敦子:明日を拓く芹香院・50年の精神医療,1979⒁ 広田伊蘇夫:立法百年史,批評社,2007⒂ 加藤正明「社会精神医学概論」,現代精神医学体系 23,中山書店⒃ 国立精神衛生研究所:精神衛生研究第 3号,1955, pp 127-157⒄ 「日本の精神衛生問題に関する WHO 精神衛生顧問の報告書」国立精神衛生研究所:精神衛生研究3号,1955

    ⒅ パウル・レムカウ:精神衛生の進路,精神衛生研究 2号,国立精神衛生研究所,1954, pp 72-82⒆ ポール・ヴィ・レムカウ:日本の精神衛生問題に関する WHO 精神衛生顧問の報告書:精神衛生研究第 3号,国立精神衛生研究所,1955, pp 127-156.

    ⒇ 加藤正明:現代精神医学体系 23巻 A,社会精神医学概論,医学書院,198021 註:1925(昭和 10)年にあった 163の精神病院、23,555床であった精神病床は昭和 20(1945)年には 32病院、3,995床と減少を見ている。また 1949(昭和 24)年時点で 4,905件の精神病者監護法適用例があり、うち 2,537件の私宅監置が認められている。(吉川武彦・竹内龍雄;精神衛生統計;現代精神医学精神医学体系 23 C,社会精神医学と精神衛生Ⅱ,中山書店.1980,)

    22 国立精神衛生研究所:精神衛生資料第 2号,1954, p.7723 精神衛生研究所:精神衛生資料第 2号,195424 註:昭和 27年末、全病院数は 4,142施設、全病床数は 358,372床、病床利用率は 78.9となっている。

    25 小峯和茂:学会年表,日本精神神経学会:日本精神神経学会百年史,200326 日本精神神経学会:日本精神神経学会百年史,200327 註:地方国立大学や都市部の私立大学に精神医学教室が開港されたのは第 1次(1947年~1950年)の 14教室と、第 2次(1972年~1978年)24教室に集中している。

    戦後の精神医療状況と WHO クラーク勧告(篠原由利子)

    ― 62 ―

  • 28 註:日本精神病院協会は 1952年に医療金融公庫融資条件改善の要望を提出している。29 厚生大臣官房企画室編:厚生白書-福祉計画と人間の福祉のための施策-,昭和 34年度版,p.14230 厚生大臣官房企画室編:厚生白書-福祉計画と人間の福祉のための施策-,昭和 34年度版,p.14331 註:覚せい剤、麻薬、阿片の慢性中毒者またはその疑いのある者にも精神衛生法を適用できることになるが、この法律改正の内容が、以降の民間病院の設立、国庫補助の道を開くことになる。

    32 註:日精協は国庫補助の陳情書を提出‥‥民間病院の使命についての文言が示されている。日本精神病院協会二十年(1979)

    33 註:精神衛生業務を優生保護課より移管したものである。34 国立精神衛研究所:精神障害者に関する近年の資料精神衛生資料 14号,196735 註:精神衛生法改正の動きと、厚生省若手キャリア、大学若手医師等々の研究会が地域精神医療などを模索していた。

    36 註:日本政府は当初 WHO にマクスウェル・ジョーズ(Maxwell Jones)など他の人物を候補としていたようであるが、調整がつかずクラークにその任が依頼された。

    37 鈴木純一:クラーク先生を偲んで,精神医学,53(12),1228-1230, 2011/蟻塚亮二:デビッド・クラークから何を学ぶか,精リハ誌 Vol.14 No 2, 2010/助川征男:D・H・クラーク先生追悼,精リハ誌 Vol.14 No 2, 2010

    38 註:クラーク著の「精神科医の役割:管理療法」に関しては訳者の鈴木が 1968年、医学書院「病院」27(8)から 4回のシリーズで紹介している。

    39 デービッド.H,クラーク:加藤正明訳:「日本における地域精神衛生-WHO への報告」国立精神衛生資料 16号,1969

    40 加藤正明:D. H. クラーク報告書の抜粋と要約,精神医学,1969, 11巻 10号41 註:加藤正明:社会精神医学概論,現代精神医学体系 23巻 A, 198042 註:医学書院が出版している「病院」はすべての病院、病棟に関連する総合雑誌である43 鈴木淳:病院 26,特殊病院欄に連続掲載:医学書院,196844 社団法人日本精神病院協会:45 日本精神神経学会:日本精神神経学会百年史,200346 D. H. クラークへのインタビュー:インタビュアー鈴木�