title 『大道論』攷 --唐代道教と洪州禅-- citation thought...
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Title 『大道論』攷 --唐代道教と洪州禅--
Author(s) 坂内, 栄夫
Citation 中国思想史研究 (1996), 19: 173-189
Issue Date 1996-12-25
URL https://doi.org/10.14989/234380
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
『大道論』放-唐代道教と洪州禅1
坂内 栄夫
は
じめに
(1)
『正統道
蔵』「太玄部」に『大道論』なる書物が収められている。この書は、題名からも推測できるように、
「道」についてさまざまな角度から論述した、いわば道教理論書である。そして、『大道論』には注目すべきこと
に、禅宗(特に洪州禅)の影響を受けた記述がいくつか見えている。その結果、この書には「心」を重視する思想
的立場が顕著に認められるのである。唐代道教における「心の重視」の思想は、精神の力・心の働きによって体
内に「丹」を作る内丹思想の発展とも関わりを持つ、非常に重要な思想といえる。そこで、以下これらの点につ
い
て少しく考察を試みたいと思う。
一 173一
『大道論』は、周固撲なる人物の著作とされている。そして、構成は「至道」「至徳」「垂教」「絶義」「分別」
「遠近」「用道」「二学」「二病」「師資」「仁義」「失道」「心行」「修道」「保生」「理国」「二法」「観修」の全十八
章からなっている。本書は、「分別」「観修」などの章名が付けられている事からも推測できるように、仏教から
の影響
を強く受けている理論書である。また、道教文献の常として、著者である周固撲自身の伝記、及び『大道
論』の成立年代は定かではない。著者に関して言えば、「固撲」という名前自体も、『老子』に「固」や「撲」の
語が散見す
る事から、本名ではなく道号である可能性が考えられる。そのためもあって、伝記については全く不
明というほかはない。しかし、幸いな事に成立年代については、本文中に唐代成立を推定させる手がかりが幾つ
か存在している。
まず第一は、「治-理」「世-代」等の避講が本文にかなり見えている事である。例えば、章名にもなっている
「理
国」や「至徳章」の「王侯理化」、そして「垂教章」に見える「理国理家」や「代聖」そして、「心行章」の
「心滅則
理」などがその例である。
そ
の次
は、本文中に五代前蜀の道士杜光庭(八五〇~九三八∀の著した『道徳真経広聖義』(天復元年[九〇
(2)
一]序)の引用が見える点である。「師資章」では
広義に
云
ふ、老君将に大教を顕らかにし、万方を布化せんとす。乃ち曰く、道に師尊無かるべからず、教に
宗主無かるべからず。老君は乃ち太上玉農大道君に師事す。(十二葉表)
と『道徳真経広聖義』巻二(二葉裏)「老君の事跡と氏族への降生年代を釈す」の「第五師資を啓く」に見えてい
る文章を、そのまま引用している。また、同じく「師資章」の少し前の所では
一 174一
余
対へて曰く、上三皇は玄中大法師を師とし、中三皇は有古先生を師とし、下三皇は金闘帝君を師とし、伏
義は彬華子を師とす。(十一葉裏)
と老子が応現して歴代の帝師となった時の師名を列挙している。ここの文章は『広聖義』の引用と明記されてい
ないものの、同じ『広聖義』巻二「老君の事跡と氏族への降生年代を釈す」に見えている歴代の帝師の名前と、
(3)
般の湯王の帝師名まで一致している。『大道論』は『広聖義』を節略したのではないだろうか。
(4)
三番
目は、「垂教章」が『雲笈七識』巻三に「道教序」と名前を変え、全文収録されている事。そして、第四
は本書が洪州禅の影響を受けている点である。そして、最後として「至徳章」に見える
又
た解あり、虚元は妙本の体、物有るに非ざるが故に。自然は妙本の性、造作に非ざるが故に。道は妙本の
功
用、故に之を通生の道と謂ふと。二葉裏)
(5)
という『老子』解釈を挙げる事ができる。この解釈は、玄宗の『道徳経御疏』二十五章「人法地、地法天、天法
道、道法自然」の条を節略したものである。そして、ここに見える「妙本」は、玄宗の『御注』『御疏』が『老
子』の「道」を解釈するに際しての、中心的役割を果たしている概念である。この「妙本」が「道」との関わり
の
中で『大道論』中に何個所か見えており、また『老子』解釈に『御疏』が引用されている事を考えると、『御
注』や『御疏』が『老子』解釈に絶対的権威を持っていた唐代に作られた文献である事は、まず間違いないと考
えられる。
で
は、以上のような事から考えて、本書が唐代の中でも、何世紀頃に成立したかについて推測してみたい。後
に詳しく述べるように、本書は洪州禅との関わりが深い事は明白である。よって、馬祖(七〇九~七八八)の洪州
一 175一
禅の
主
張が、中国全土に広まった後の成立である事は間違いない所である。さらに、杜光庭の『広聖義』を引用
している事を考えると、『広聖義』の成立以後、十世紀初めか或いは早くても九世紀末頃の成立と推定しておく
事にしたい。
二
「は
じめに」で述べたように、本書には「心の重視」とでも言うべき思想が見えている。そこで、以下この事
(6)
に
つい
て少
し検討してみたい。まず、「心行章」には『内観経』を引いて次のように述べている。
(7)
内観経に云ふ、夫れ心は青に非ず赤に非ず、白に非ず黄に非ず、長きに非ず短きに非ず、円に非ず方に非ず。
大は天地を包み、細は毫芒に入る。之を制すれば則ち止(正}しく、之を放てば則ち狂せり。清静なれば則ち
生き、濁躁なれば則ち亡ぶ。八表を明照し、一方に暗迷す。人の伏し難きは、惟だ心に在り。(十七葉裏)
心に
は
色も形もなく、その働きは自由自在で限界というものはない。しかし、そのためには正しく心を修めなく
ては
ならないが、その制御し難いのが心なのであるという。そして、また続いて『内観経』を引いて次のように
言う。
人
をして道を修めしむる所以は、即ち心を修むるなり。人をして心を修めしむるは、即ち道を修むるなり。
心は
息むべからず、道を念ひて以って之を息む。心は見るべからず、道に因りて之を明らかにす。⌒十七葉
裏)
一 176一
ここで明確に「人をして道を修めしむる所以は、即ち心を修むるなり」と「修道」とは「修心」の事にほかなら
ない、即ち心を修める事が道を学ぶ根本であると宣言しているのである。また、少し後の所で「無心」「定心」
「息
心」「制心」「正心」「浄心」「虚心」の七つの修心が述べられている。そのうち「無心」「定心」「正心」「浄
心」「虚心」の五つが、『内観経』⌒五葉裏)に述べられている「八修心」と、名称が一致している。また、それら
の
内容もかなり類似しているのである。このように、「心行章」では、『内観経』を引用して心を修める事が仙道
を学ぶ事にほかならないと強調しているのである。
こ
こで用いられている『内観経』なる経典は、『雲笈七籔』巻十七に全文が収められている事から、唐代の文
献であろうと推定されるが、正確な成立年代等は不明である。しかし、内容に関して言えば、題名になっている
「内観」とはそもそも存思を意味する用語である。そして、『内観経』自体も初めの部分に「太一帝君は頭に在り
て泥丸
君と日ひ、衆神を穂ぶるなり。……元英は左に居りて三魂を制するなり。白元は右に居りて七醜を拘ふる
なり」と泥丸九宮の体内神名が見えている。この事から考えると、『内観経』は存思の術から出発して「心を重
視」する思想を説きはじめた経典であろうと考えられる。
さて、『大道論』が引いていた『内観経』の「心は青に非ず赤に非ず、白に非ず黄に非ず、長きに非ず短きに
(8)
非
ず、円に非ず方に非ず。……」という表現は、有名な黄棄の『伝心法要』冒頭の心を解説している所と非常に
類似している。『伝心法要』は、次のように始まっている。
師(斐)休に謂ひて曰く、諸仏と一切衆生とは、唯だ是れ一心にして、更に別法無し。此の心は無始より已来、
曾て生
ぜず
曾て滅びず、青ならず黄ならず、形無く相無く、有無に属せず、新旧を計らず、長に非ず短に非
一 177一
ず、大に非ず小に非ず、……(六頁}
(9)
この黄葉の言葉は、古く荷沢神会の『壇語』に「心に青黄赤白有りや。答、無し。心に住処有りや。答、心に住
処無
し。⌒二三七頁)」と見える問答に基づくもので、以後禅宗ではよく用いられる表現なのである。これから考
え
ると、おそらく『内観経』なる経典は、「存思」が発展して「心の重視」を説くようになってくる時に、いま
見
たような南宗禅系統の主張の影響を強く受けて、心を重視する事を述べるようになった文献なのであろう。何
故
ならば、「存思」とはそもそも意識を集中させて体内神を見てそれと交感するという道術であり、見方を変え
れば、それは心を活発に働かせる道術にほかならない。であれば、いつかは道術の重点を存思する対象である体
内神から、心の働きそのものに移すような主張が興ってくるのも、理論の発展を考えれば当然起こりうべき事で
ある。すると、そこに「心地法門」を説いていた南宗禅の主張を、道教の「存思」が取り入れる余地が生まれて
くるからである。このように、南宗禅系統の主張の影響をうけたと思われる『内観経』を用いている事から、
『大道論』に見える「心の重視」の思想には、先ず間接的な禅の影響を考える事ができるのである。
次
に「観修章」の中にも「心の重視」を説いた所が見える。
業報経に云ふ、衆の苦しみて悩む所は、常に身有るが為なり。生死に輪廻し、自ら出ること能はず。何の方
便
を以って、妄想を除くを得んか。太上日く、妄想顛倒するは、皆な心従り起く。強ひて分別を生じ、念を
しず
我が
身に繋け、境に触れ迷を生ず。挙心皆な妄なり。此を以って流浪して生死に論む。但だ当に志を定め身
を観れば、尽く皆な虚仮なるべし。既に虚仮なるを知れば、妄想漸く除かる。妄想既に除かるれば、内外清
静にして、自ら其の道を悟る。之を忘身と謂ふ。既に其の身を忘るれば、幻累自つから滅す。(二十三葉表)
一 178一
{10)
『業報因縁経』を引いて、多くの妄想やさかさまの考えが起こる原因は、すべて自分の心にあるのだから、「定志
観
身」しなくてはならない。そうすればこの世に存在する全てのものは「虚仮」であると認識する事ができる。
す
ると、妄想は次第に除かれていき、道を悟る事ができる。道を悟れば今までの心配や憂いなどは、もともと幻
に
す
ぎないものだから自然に消滅してしまうという。つまり、ここでは心の修め方(「観修法」)を主張している
の
である。
『大道論』が引いている『業報因縁経』は、『正統道蔵』所収の『太上洞玄霊宝業報因縁経』巻十「会真品」
第二十五を節略したものである。この『業報因縁経』とは、六朝時代後期から階唐にかけて仏教思想の影響を受
けて成立した経典で、題名の通り生死輪廻や因縁果報説を中心に説くものである。しかし、『大道論』では『業
報
因縁経』の中心思想ではない、「定志観身」して「妄想滅却」という「観修法」を述べた部分を引用し、「心の
重
視」の主張の典拠にしているのである。このように、「観修章」に見えている「心の重視」の思想も『業報因
縁
経』を典拠にしている事から分かるように、間接的に仏教の影響を受けた結果と考える事ができると思われる。
一 179一
この『大道論』に見える「心の重視」は、同時期の道教文献にもまた見る事ができる。『内観経』と同じく
{11}
『雲笈七
籔』巻十七に収められている『定観経』には、次のような一節がある。
も
心の
起くるを内観し、若し一念の起くるを覚ゆれば、須らく除滅して務めて安静たらしむべし。その次、錐
あき や
し的らかに食著有るに非ざれば、浮遊の乱想、亦た尽く滅除す。昼夜勤行して、須奥も替めず。唯だ動心を
滅し、照心を滅せず。(『定観経』二葉表・『雲笈七籔』巻十七・七葉裏)
内観する事により心を注視して「唯だ動心を滅し、照心を滅さず」と、妄想や分別する心を滅却して智慧の光を
輝か
せ、心を安静にする事を述べている。つまり、『業報因縁経』と同趣旨の事を述べており、この『定観経』
も「心を重視」する事を主張している文献と言える。そして、少し後の所には、次に引くように心のあり方を説
い
て、心の上には覆いがなく、心の下にも支えがなく独立していれば、⌒注に従えば、前の一瞬も後の一瞬も心
に
想念
を起こさないでいれば)宿業は日々消えていき、新しい罪業はおこらないという。
き
唯だ定心の上をして、船然として覆ふこと無く、定心の下をして畷然として、基無からしむ。旧業日に錆え、
新業造らず。(『定観経』六葉表・『雲笈七籔』巻十七・十一葉裏)
そ
して、注には次のように述べている。
前念生ぜず、故に覆ふこと無しと云ふ。後念起こさず、故に基無しと云ふ。宿習並な尽く、名づけて旧業日
に
鎗ゆと日ふ。更に心を起こさず、故に名づけて新業造らずと日ふ。
⌒12>
「旧業日に錆え、新業造らず」とは、黄葉の『宛陵録』に「但だ縁に随ひて旧業を消し、更に新映を造ること莫
か
れ」とあるのをそのまま受けたものであり、また、「前念生ぜず、故に覆ふこと無しと云ふ。後念起こさず、
⌒13} わた
故に
基無
しと云ふ」とあるのも、百丈懐海の『百丈広録』に見える「仏は出世して衆生を度せば、則ち前念生ぜ
ず、後念続く莫きを得たり」と関係がありそうに考えられる。おそらく『定観経』も、これら洪州禅の影響を受
けて成立した経典ではないかと考えられるのである。
次
に、『雲笈七籔』巻五十六に収められている「元気論」にも同様に「心を重視」する思想が見えている。
夫れ学道は之を内学と謂ふ。内学は則ち身の内心の事なり。(二十三葉裏)
一 180一
夫れ修心は是れ三一の根、錬気は是れ栄道の樹、心有り気有るは、樹を留め根を留むるが如し。根は即ち心
なり。⌒二十四葉表)
身の禽制を以って気に在るが若きは、実に心に由る。禽制する能はざるも、亦た心なり。⌒二十七葉裏)
無
為は乃ち心動かざるなり。動かざるものは内心起きず、外境入らず。内外安静なれば、則ち神定まり気和
す。(二十八葉裏)
ここに「内学」という三口葉が見えている。「内学」とは「身の内心」の事であるといい、「内心」の修行を主張し
てい
るのである。そして、「根は即ち心なり」「禽制する能はざるも、亦た心なり」などと、心が根本であり身体
を制御する鍵もみな心にあるという。つまり、心が学道の基本であり心の働かせ方が重要であると「心の重視」
を主張しているのである。この「元気論」には仏教の影響は比較的少ないと考えられるが、それでも「内心起き
(14>
ず、外境入らず」と述べている所には、仏教の影響を見る事ができる。
(15}
このように、唐代の文献には「心を重視」する思想をいくつか見る事ができる。そして、これらは程度の多少
は
異なるものの、いずれも仏教や禅宗の影響を受けていると思われるのである。であれば、唐代道教にみえる
「心の重
視」の思想は、道教の「存思」が独自に道教内部で理論的発展を遂げた結果というよりも(そういう場合
ももちろん存在したであろうが)、それ以上に仏教ーとりわけ禅宗ーの影響を直接受けた事により、このような
思想が主張
されるようになってきたのではないかと考えられるのである。
一 181一
三
前章に見た『大道論』の「心の重視」の思想には間接的に禅宗の影響が考えられたが、そのほか直接禅宗の影
響と考えられる記述が『大道論』にはある。そこで、以下その点について検討してみる事にする。「心行章」に
言う。
若し真邪を双混し、知覚も両忘すれば、則ち忘心忘境に達するなり。心境倶に忘るれば、道に冥合す。(十
七葉表)
ここでは、善悪の区別も忘れ去り知覚の働きも忘れてしまえば、自分の心も心の対象である外界も両方忘れてし
まう。心も外界も両方忘れてしまえば、道と一体になる事ができるという。ここに見える、自分の心も対象であ
る外界も、両方忘却してしまう意の「心境倶忘」という言葉は、『伝心法要』に
ふた
凡
夫は境を取り、道人は心を取る。心境双つながら忘るれば、乃ち是れ真法なり。忘境は猶ほ易く、忘心は
至難なり。⌒三十頁)
などと見えているものである。しかし、この言葉は古く永嘉大師⌒玄覚)の著作とされている『証道歌』に「心と
法双
つ
ながら亡ぶれば、性は真なり(心法双亡、性即真)」(『伝灯録』巻三十)とあるのに基づくもので、唐代の
禅では広
く用いられた非常に有名な一句である。『大道論』の「心境倶忘」なる一句も、これら南宗禅の主張か
ら影響を受けたものであろうと考えられる。
次
に、洪州禅の直接影響を受けた明確な例を見ることにしたい。「分別章」には次のように言う。
一 182一
夫れ心の情識智・意智は皆な道従り妄立するなり。道の外に心無く、心の外に道無し、即心即道なり。其の
か き はら
情識智・意智も亦た然り。悟道の心を蔓り、認道の識を勇り、証道の智を祐ひ、得道の智を除き、了道の意
か
を薙れば、則ち知を忘れ意を忘れ、智を忘れ識を忘れ心を忘る。則ち自つから求道・趣道・学道無し。斯れ
得道なり。此れ則ち修者の躍迩に執はるるを除くなり。(五葉裏)
ここで述べる「道の外に心無く、心の外に道無し、即心即道なり」とは、道を自分の外に求めようという考え捨
て去
らなくてはならない。何故ならば、自分の心の外に道などはなく、自分の心そのものが道に他ならないから
だ、という意であろう。これは明らかに馬祖道一の「即心即仏」の主張をそのまま「道」に言い換えて述べたも
〔16)
の
である。『馬祖の語録』は言う。
(馬)祖示衆して云ふ、汝等諸人、各おの自心是れ仏、此の心即ち仏なるを信ぜよ。達磨大師は南天竺国より
中華に来至し、上乗一心の法を伝へ、汝等をして開悟せしむ。……夫れ法を求むる者は、応に求むる所無か
もと
るべし。心の外に別の仏無く、仏の外に別の心無し。善を取めず悪を捨てず、浄楊両辺に倶に依枯せず。罪
性の
空なるに達すれば、念念得べからず。(十七~十九頁)
各人各々の心がそのままで「仏」である事を信じよといい、自分の心の外に「仏」が存在するものではない、従
っ
て
自分の外に「仏」を求めてはならない事を主張しているのである。この主張は、洪州禅の基本となり、以後
百
丈・黄葉・臨済と代々受け継がれていくのである。例えば、『伝心法要』にも
あらゆ
唯だ此の一心は即ち是れ仏、仏と衆生と、更に別に異なること無し。但是る衆生は相に著して外に求め、之
うた もと も
を求むるに転た失ふ。仏を使ひて仏を寛め、心を将って心を捉ふ。劫を窮め形を尽くすも、終に得ること能
一 183一
や
は
ず。念を息め慮を忘るれば、仏自つから現前するを知らず。此の心は即ち是れ仏なり。仏は即ち是れ衆生
なり。……若し決定して此れは是れ仏なりと信ぜず、相に著して修行し、以って功用を求めんと欲すれば、
皆な是れ妄想にして道と相乖けり。此の心は即ち是れ仏なり、更に別の仏無く、亦た別の心無し。(六頁)
と同趣旨の発言が見えている。そして、また「此の法は即ち心なり、心外に法無し。此の心は即ち法なり、法外
に
心無
し(十三頁ごと『大道論』と全く同一の表現も見えているのである。このように『大道論』「分別章」に
見え
てい
る「即心即道」の主張は、洪州禅の影響を直接受けて成立したものである事は、明白であろう。
⌒17)
この「即心即道」の思想は、他の唐代道教文献にも見る事ができる。それは、『三論元旨』なる書である。こ
の
書は『大道論』より一層禅の影響を強く受けているのだが、その「虚妄章」第二には次のように述べている。
心は
道
に等しく、道は心を能くす。即ち道は是れ心なり、即ち心は是れ道なり。心と道とは、 ↓性にして然
り。然ること無く然らざること無し、故に妙なり。孟葉表)
心は
道に等しく、自分の心がそのまま道であり、道とは自分の心に外ならない、というのである。これも、馬祖
の
「即心即仏」を受けた先の『大道論』と全く同じ主張である事、明らかであろう。
『三
論元旨』なる書は、何時の成立かは定かではない。しかし、文中に引用する道教経典が概ね唐代には成立
していたと考えられること。そして、「真源章」第三に「妙本」という言葉が見える事。以上のような事から考
えて、『三論元旨』も『大道論』と同じ頃、唐代末期頃に成立した文献と考えられる。
『大道
論』と『三論元旨』の二書に「即心即道」の思想が見えるという事は、唐代禅宗の世界において、馬祖
一 184一
の
「即心
即仏」という思想がかなり急速に中国全土に広まり、その結果として道教思想の世界にも一定の影響を
及
ぼした事実の反映と考える事ができる。洪州禅の主張は、禅宗の世界にあっても革新的であったにもかかわら
ず、道教にも直接影響を及ぼすほど、短い時間に広範囲に浸透していったと考えられるのである。
ただ、ここで注意しなくてならないのは、馬祖などの洪州禅の場合「即心即仏」の主張の根底には、「煩悩即
菩提」(「不断煩悩而得浬磐」『維摩経』弟子品)という大乗仏教の根本思想が前提として存在している。そして、
馬祖はそれを一歩進める形で「即心即仏」を主張したと考えられる。それに対して『大道論』の場合、以下に引
く通り従来の養生思想との関係もあるためであろうか、寿命を永らえるためには、欲望を抑制しなければならな
い
とも説いているのである。
今保
生を言ふは、其の情慾の生ずるを禦ぐなり。情慾若し生ずれば、則ち真常の性を墾塞す。「保生章」(十
九葉裏)
そ
して、前に引いた『大道論』の「観修章」にも
既に
虚仮なるを知れば、妄想漸く除かる。妄想既に除かるれば、内外清静にして、自ら其の道を悟る。之を
忘身と謂ふ。既に其の身を忘るれば、幻累自つから滅す。(二十三葉裏)
とあったように、一方で「即心即道」を言いながら、相変わらず煩悩妄想を断絶する事も説いており、論理的に
一貫
していないのである。これは、『大道論』にはそもそも洪州禅を始めとする禅宗の主張の根底にある、「煩悩
即菩
提」という大乗仏教の前提は存在していない。そのため、馬祖が「妄想のある我々の心が、そのままで仏で
ある」と説いた時、この主張の中には「心」と「仏」との間にはらむ強度の緊張関係の認識や聖凡の価値観の克
一 185一
服など、「煩悩」と「菩提」の関係に関する議論の歴史・蓄積に裏打ちされた様々な意味が込められていた。し
か
し、『大道論』の「即心即道」の場合は、このような思索の蓄積の上に展開した主張ではないため、心仏間の
緊張関係の認識などについてはほとんど意識もされず、また考慮されてもいないのである。即ち、表面的にいわ
ば
従来の思想の上に木に竹を継いだ形で、唐突に「即心即道」とつけ加えられているに過ぎないのである。従っ
て、その主張は徹底しておらず、論理的にも従来の思想との整合性を欠いており、一貫しているとは言い難いの
で
ある。しかし、これは全く思想の成立基盤が異なる道教思想に禅思想を導入したためにおこった、やむをえな
い
不整合
と言わねばならない。とにかく、唐代道教思想に洪州禅の「即心即仏」という主張に鋭敏に反応して、
「即心即
道」という言わば道教禅とでも言うべき思想が見える事は、非常に注目しなくてはならないであろう。
おわ
りに
一 186一
い
ままで見てきたように、唐代末期頃に成立した『大道論』には、直接的間接的に禅宗1それも馬祖による洪
州
禅ーの思想的影響を顕著に見る事ができた。即ち、道教側は馬祖の死後一世紀ほど後に、早くもその「即心即
仏」の主張を取り込み、道教の理論として「即心即道」を主張していたのである。これは、洪州禅が中国全土へ
急
速に発展した事実の反映であるとともに、道教側がいかに仏教の思想動向に神経を尖らせていたかを示すもの
で
もある。しかし、理論形成の思想的背景が全く異なる道教にとって、「即心即道」の主張が従来の道教思想と
の理
論的整合性を欠く結果に終わっているのは、やむをえない事といわねばならないだろう。
従
来、洪州禅と唐代道教の関わりについては、全く言及される事がなかった。今回、『大道論』と『三論元
旨』に注目する事により、唐代後半における禅・道教間の思想交渉の一端を明らかにする事ができたと思われる。
しかし、本考ではただ両者の影響の事実を指摘する止まり、洪州禅の「即心即仏」思想が唐代道教思想に及ぼし
た
影響の
具
体
的な様子や、洪州禅と唐代道教の関係などについては、まだ明らかするには至らなかった。これら
の
点に
つい
ては
今後の
課題
として、今回はこれで筆を欄くことにしたい。
注(1) 『正統道蔵』七〇四冊
(2) 『正統道蔵』四四〇~四四八冊。また、『広聖義』の引用としては、後の「心行章」にも「広義に云ふ、道なる者は
無なり。形なる者は有なり。有の故に逝くこと有り、無の故に長存す」(十六葉表)とある。しかし、これは『広聖義』
に
同文を見出す事ができない。
(3) 既に『神仙伝』(『漢魏叢書』本)巻一「老子」の条や『三洞珠嚢』巻九に引く『老子化胡経』などにも、ほぼ同じ歴
代帝師の名前が挙げられている。従って、『広聖義』からの引用ではなく、『広聖義』が引用したのと同一資料から引用
した可能性も考えられる。
(4) 『正統道蔵』六七七~七〇二冊
(5) 『唐玄宗御製道徳真経疏』『正統道蔵』三五六~三五七冊
(6) 『太上老君内観経』『正統道蔵』三四二冊
一 187一
(7) 『内観経』(二葉表)では「心」を「神」に作る。ただ、すぐ前の所で「心は則ち神なり」と述べている。
(8) 入矢義高訳注「禅の語録」八『伝心法要・宛陵録』筑摩書房刊
(9) 『南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語』(『神会和尚遺集』胡適紀念館刊)
(10) 『太上洞玄霊宝業報因縁経』『正統道蔵』一七四~一七五冊
(H) 『洞玄霊宝定観経』『正統道蔵』一八九冊。この『定観経』も、正確な成立年代は不明である。しかし、『雲笈七籔』
に
引用されている事から、唐代の文献であると考えられる。さらに、百丈(七四九~八}四)や黄辟木(生没年不詳)の影響
を考えれば、成立は唐代も後半であろうと思われる。なお、『定観経』は『大道論』「心行章」(十五葉裏)にも引用され
ている。
(12) 入矢義高訳注『伝心法要・宛陵録』2三五頁)。また同じ言葉が、『臨済録』示衆にも「但だ能く縁に随ひて旧業を
消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心の仏果を希求すること無
し」⌒入矢義高訳注 岩波文庫『臨済録』四〇頁)と見える。
(13) 『天聖広灯録』巻九「洪州大雄山百丈懐海禅師」(四二七頁)(柳田聖山編『禅学叢書第五』中文出版社刊)、「百丈大
智禅師広語」(四一六頁)(宇井伯寿『第二禅宗史研究』岩波書店刊)
い ま
(14) 入矢義高訳注『伝心法要・宛陵録』「如今但だ自心を識りて、思惟を息却すれば、妄想塵労、自然に生ぜず。浄名に
や
云
ふ、唯だ一林を置きて、疾に寝て臥すと。心起こらざるなり。如今疾に臥して、翠縁都て息み、妄想敬滅すれば、即
ち是れ菩提なり」(=二四~一三五頁)などを参考の事。
(15) もちろん修道に「心」を重視する事は古くから見えている。『洞房上経』(三葉裏)(『正統道蔵』一九一冊)に「夫れ
仙は
心学
なり。心誠なれば仙を成す。道は内求なり。内に密なれば則ち道来る」と言い、また『太平御覧』巻六六八
(五葉裏)「養生」にも「紫微元君曰く、:・…飛仙の想は、見に触るれば必ず念ひ、慈護の情は、物に遇へば斯に極まる。
此
を以って心と為せば、心は即ち道なり」と述べている。しかし、これらの例は「修道の心構え」として「心を重視」
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を説くものであり、心の働きその物を重視するという
(16) 入矢義高編『馬祖の語録』禅文化研究所刊
(17) 『正統道蔵』七〇四冊
『大道論』等の立場とは異なるものと言える。
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